Gonzaga

ゴンザーガ家

ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ Ludovico I Gonzaga

生没
1268年頃~1360年1月18日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
グイド・ゴンザーガ
リキルダ・ランベルティ
カテリーナ・マラテスタ
ジョヴァンナ・ノヴェッラ・マラスピーナ
フィリッピーノ・ゴンザーガ
グイド1世・ゴンザーガ
フェルトリーノ・ゴンザーガ
トンマージナ・ゴンザーガ
アルベルト・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ
フェデリーコ・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
バルトロメオ・ゴンザーガ
アッツォ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ヤコポ・ゴンザーガ
マリオ・ゴンザーガ
トンマージナ・ゴンザーガ
オリエッタ・ゴンザーガ
バルトロメオ・ゴンザーガ
コスタンツァ・ゴンザーガ

概要

 ルドヴィーコ1世・ゴンザーガは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

グイド1世・ゴンザーガ Guido I Gonzaga

生没
1290年~1369年9月22日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
リキルダ・ランベルティ
アニェーゼ・ピコ
カミッラ・ベッカーリア
ベアトリクス・フォン・バル
ベアトリーチェ・ゴンザーガ
トンマージナ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ウゴリーノ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ベルナボ・ゴンザーガ
リナルド・ゴンザーガ
ナスチンベーネ・ゴンザーガ

概要

 グイド1世・ゴンザーガは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。

在位

 マントヴァ領主 1360年~1369年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

フェルトリーノ・ゴンザーガ Feltrino Gonzaga

生没
1???年~1374年12月28日
出身
マントヴァ
没地
パドヴァ
ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
リキルダ・ランベルティ
アントーニア・ダ・コッレッジョ
カテリーナ・ヴィスコンティ
グイド2世・ゴンザーガ
オドアルド・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ピエトロ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
フィリッパ・ゴンザーガ

概要

 フェルトリーノ・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。

在位

 ノヴェッラーラ領主 1371年~1374年

年表

1328年

アントーニア・ダ・コッレッジョと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

コッラード・ゴンザーガ Corrado Gonzaga

生没
1???年~1360年
出身
マントヴァ
ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
カテリーナ・マラテスタ
ヴェルデ・ベッカーリア
フィリッピーノ・ゴンザーガ
レオポルド・ゴンザーガ
ベルナボ・ゴンザーガ
ビアンカ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
レオナルド・ゴンザーガ

概要

 コッラード・ゴンザーガは、14世紀頃のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1340年

ヴェルデ・ベッカーリアと結婚。

1360年

死(1350年)。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ Ludovico II Gonzaga

生没
1334年~1382年10月4日
グイド1世・ゴンザーガ
ベアトリクス・フォン・バル
アルダ・デステ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
フェーボ・ゴンザーガ

概要

 ルドヴィーコ2世・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。

在位

 マントヴァ領主 1369年~1382年

埋葬地

別表記

 ルイジ2世

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

グイド2世・ゴンザーガ Guido II Gonzaga

生没
1340年2月1日~1399年月2日
出身
ノヴェッラーラ
没地
ノヴェッラーラ
フェルトリーノ・ゴンザーガ
アントーニア・ダ・コッレッジョ
ジネヴラ・マラテスタ
ヤコポ・ゴンザーガ
フェルトリーノ・ゴンザーガ
フィリッポ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ

概要

 グイド2世・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。

在位

 ノヴェッラーラ領主 1374年~1399年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

フィリッピーノ・ゴンザーガ Filippino Gonzaga

生没
13??年~1414年2月18日
コッラード・ゴンザーガ
ヴェルデ・ベッカーリア
オルソーラ・カヴリアーニ
ルイジ・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
バルトロメオ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ

概要

 フィリッピーノ・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

フランチェスコ1世・ゴンザーガ Francesco I Gonzaga

生没
1366年~1407年3月7日
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
アルダ・デステ
マルゲリータ・マラテスタ
アニェーゼ・ヴィスコンティ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ

概要

 フランチェスコ1世・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 マントヴァ領主 1382年~1407年

埋葬地

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』

エリザベッタ・ゴンザーガ Elisabetta Gonzaga

生没
1???年~1432年7月31日
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
アルダ・デステ
カルロ・マラテスタ

概要

 エリザベッタ・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。

年表

1386年

カルロ・マラテスタと結婚。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

在位

 ノヴェッラーラ領主 1399年~1441年

別表記

 Giacomo

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ルイジ・ゴンザーガ Luigi Gonzaga

生没
1???年~1440年
フィリッピーノ・ゴンザーガ
オルソーラ・カヴリアーニ
ルイジア・ゴンザーガ
アントーニオ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
オルシーナ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ

概要

 ルイジ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ヤコポ・ゴンザーガ Jacopo Gonzaga

生没
13??年~1441年
グイド2世・ゴンザーガ
ジネヴラ・マラテスタ
イッポーリタ・ピオ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
ジョルジョ・ゴンザーガ
ジャンピエトロ・ゴンザーガ
リッチャドンナ・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ

概要

 ヤコポ・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga di Novellara

生没
13??年~1438年
出身
ノヴェッラーラ
没地
パドヴァ
グイド2世・ゴンザーガ
ジネヴラ・マラテスタ
フランチェスコ3世・オルデラッフィ
ベネデット・ストロッツィ
ルクレツィア・オルデラッフィ
タッデア・オルデラッフィ

概要

 カテリーナは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。

年表

1388年4月14日

フランチェスコ3世・オルデラッフィと結婚。

1389年9月20日

フォルリにて、ルクレツィア・オルデラッフィを出産。

1393年

タッデア・オルデラッフィを出産。

1405年9月8日

フランチェスコ3世・オルデラッフィ、死。

14??年

ベネデット・ストロッツィと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ Gianfrancesco I Gonzaga

生没
1395年6月1日~1444年9月25日
没地
マントヴァ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・マラテスタ
パオラ・マラテスタ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
カルロ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
ジャンルーチド・ゴンザーガ
フェデリーコ・ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
レオネッラ・ゴンザーガ

概要

 ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 マントヴァ領主 1407年~1433年
 教会の旗手 1412年~14??年
 ヴェネツィア軍総指揮官 1432年~1438年
  先任:フランチェスコ・ブッソーネ
 第1代マントヴァ侯 1433年~1444年

年表

1426年7月

ヴェネツィアと同盟を結び、ヴェネツィア・フィレンツェ陣営に加わる。

1432年5月5日

フランチェスコ・ブッソーネが、ヴェネツィアのサン・マルコ広場で斬首される。

後任のヴェネツィア軍総指揮官に就任。

1432年

神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクよりマントヴァ侯位を約束される。

1433年9月9日

ジギスムント・フォン・ルクセンブルクが、ローマからの帰途上マントヴァに入る。

1433年9月22日

ジギスムント・フォン・ルクセンブルク自身から、大聖堂で侯位を受け、盛大な祝賀行事を繰り広げる。

1436年

イングランド王ヘンリー6世により、Sの首飾りを授与される。

1437年9月20日

ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、ロンバルディアでまたヴェネツィア軍を大破。

打ち続く敗戦でヴェネツィアの各層に総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガの忠誠を疑う声、高まり、Senato(元老院)でその解任を求める声が出、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァの移籍を求める。

1438年7月3日

ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、契約期間満了と共にヴェネツィア軍総指揮官を辞任(在位1532年~)。間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結んでその配下に入り、ヴェネツィアを攻撃。

ヴェネツィアは後任の軍総指揮官に、1437年以降フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍との戦闘で成果を挙げていた傭兵隊長ガッタメラータ(1370年~1443年)をあてる(在位~1443年)。

1444年9月25日

マントヴァにて、死(1444年9月23日、1444年10月)。

埋葬地

別表記

 ジョヴァン・フランチェスコ・ゴンツァーガ、ジョヴァンニ・フランチェスコ

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンス夜話』

フランチェスコ1世・ゴンザーガ Francesco I Gonzaga Novellara

生没
1420年頃~1484年2月8日
没地
ノヴェッラーラ
ヤコポ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ピオ
コスタンツァ・ストロッツィ
ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
アレッサンドラ・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ
カルロ・ゴンザーガ
アゴスティーノ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ

概要

 フランチェスコ1世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 ノヴェッラーラ領主 1441年~1484年

年表

1468年

コスタンツァ・ストロッツィと結婚。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ジョルジョ・ゴンザーガ Giorgio Gonzaga

生没
1410年~1487年
没地
ノヴェッラーラ
ヤコポ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ピオ
パオラ・スキアンテスキ
アルダ・トレッリ
クリストフォロ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
ヤコポ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
マルカントーニオ・ゴンザーガ
フランチェスカ・ゴンザーガ
タッデア・ゴンザーガ
グイド2世・ゴンザーガ

概要

 ジョルジョ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 バニョーロ領主 1456年~1487年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ルイジア・ゴンザーガ Luigia Gonzaga

生没
14??年~
没地
ノヴェッラーラ
ヤコポ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ピオ
ルイジ・ゴンザーガ
アントーニオ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
オルシーナ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ

概要

 ルイジア・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

アントーニオ・ゴンザーガ Antonio Gonzaga

生没
14??年~1496年1月6日
ルイジ・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ
フランチェスカ・ウベルティ
フランチェスカ・カヴリアーニ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
アロイジア・ゴンザーガ
ジャンピエトロ・ゴンザーガ
チェーザレ・ゴンザーガ
アゴスティーナ・ゴンザーガ

概要

 アントーニオ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ Ludovico III Gonzaga

生没
1412年6月5日~1478年6月12日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
カテリーナ・ゴンザーガ
ガブリエッラ・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
パオラ・ビアンカ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ

概要

 ルドヴィーコ3世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 第2代マントヴァ侯 1444年~1478年

年表

1412年6月5日

生(1414年)。

1444年10月

ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、死。ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、マントヴァ侯となる。

1448年春~夏

フランチェスコ1世・スフォルツァは自分たちの軍資金を用いてヴェネツィアを撃退した後は自分たちを配下に置こうとしているとの不信を拭いきれないミラノアンブロジアーナ共和国、ヴェネツィアに繰り返し和議を申し入れるが、ヴェネツィアは巧みにこれを拒絶。

のみならずヴェネツィアは、マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガの援軍などを加えて増強した軍をもってミラノ領に未曾有の大攻勢をかけ、フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍と各地で激戦を続ける。

1451年12月

フィレンツェ、フランチェスコ1世・スフォルツァ、ジェノヴァ及びマントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、同盟を締結。さらにフランス王シャルル7世に、対ヴェネツィア戦終結後はルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還を支援することなどを挙げて同盟加入を働きかける。

1459年

マントヴァ公会議を主催。

1472年12月25日

日没から、ミラノスフォルツェスコ城にて、降誕祭を祝う。

1473年1月6日

パヴィアにて、娘ガブリエッラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。11歳の孫コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚初夜に反対している娘ガブリエッラ・ゴンザーガに対し、証人を立てて真似事で済ませるよう提案。

パヴィアにて、チッコ・シモネッタ宛てに手紙をしたためる。孫コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚について。

1473年1月23日

マントヴァにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。1473年1月18日付のジローラモ・リアリオカテリーナ・スフォルツァの結婚についての手紙への返答。

1477年3月

マントヴァ公会議主催の褒美として、シクストゥス4世から黄金の薔薇を拝受。

1478年4月20日

次男フランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿宛てに手紙をしたためる。子チェチーリア・ゴンザーガの死を知らせ、もともと虚弱な体質で発熱のため病床にあったチェチーリア・ゴンザーガに医師が施した瀉血の切開痕に十分な消毒がなされなかったことが原因で化膿し、ついには右手の壊死から死に至った経緯。

1478年5月

マントヴァでペスト流行のため、ゴイト城へ避難。

1478年6月12日

ゴイト城にて、おそらく胸膜炎のため死(1478年6月11日)。

肖像

注文

別表記

 ルドヴィコ2世・ゴンツァガ、マントヴァ公ロドヴィーコ、Luigi III Gonzaga

外部リンク

 ウィキペディア
 ラインの王族
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

カルロ・ゴンザーガ Carlo Gonzaga

生没
1417年5月10日~1456年12月21日
出身
マントヴァ
没地
フェッラーラ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
ルチア・デステ
レンガルダ・マンフレディ
ウゴロット・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
ジェンティリーナ・ゴンザーガ
エヴァンジェリスタ・ゴンザーガ

概要

 カルロ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1417年5月10日

マントヴァにて、生(1415年頃)。

1437年

ルチア・デステと結婚。

1445年

レンガルダ・マンフレディと結婚。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga

生没
1418年3月31日~1439年
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
レオネッロ・デステ
ニッコロ・デステ

概要

 マルゲリータ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1435年

レオネッロ・デステと結婚。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga

生没
1426年1月18日~1451年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ

概要

 チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

教養

 きょうだいたちと共に、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの学校カ・ゾイオーサで教育され、深い人文学的教養を身に着ける。幼い頃からラテン語とギリシャ語に秀で、優れた学識と知性の故に、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレが最も目をかけたのが兄アレッサンドロ・ゴンザーガとチェチーリア・ゴンザーガであったと伝えられる。
 チェチーリアが学校の同窓生を含む人文主義者たちや家族と交わした書簡によれば、彼女が人文主義的な学究の生活を望んでいたことが分かる。

容姿

 並外れた美貌。

年表

1426年1月18日

マントヴァにて、生(1425年)。

1431年

パオラ・マラテスタがチェチーリア・ゴンザーガのために文法書を購入。

1432年

パオラ・マラテスタが8歳(7歳)のチェチーリア・ゴンザーガのためにギリシャ語聖書を購入(1434年)。

アンブロージョ・トラヴェルサーリが『ホドエポリコン』の中で8歳頃の少女がギリシア語の読み書きが堪能であることを述べている。

1435年以降

ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガは、早くからウルビーノ伯グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロの子オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロとの結婚の交渉を進める。

1439年

マントヴァウルビーノの間で手紙のやり取りが頻繁になる。

14??年

結婚話を拒み始めると、父親の意向を受けたマントヴァ司教マッテオ・ボニペルティや法曹家らに説得される。しかし翻意せず。

1442年頃

オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロは、婚約者の拒否に感情を害されたのか、この頃には実質的には婚約を破棄し、エステ家との間の結婚交渉を開始。

1443年8月5日

同窓生の1人で、教皇庁主席書記官を務めたのちヴェローナのサン・ゼノ修道院長に任命されたばかりのグレゴーリオ・コッレールは、この日付の書簡で、彼女の学究心を支持しながら、俗人にとどまってきょうだいたちの贅沢な暮らしぶりやその妻たちの身ごもって日々膨れ上がる腹部を目にする生活の危険を指摘し、修道院への入会を強くチェチーリアに勧める。

1444年

18歳になった時には、恩師ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ、敬虔な母パオラ・マラテスタの賛意も得て、マントヴァのフランチェスコ会系の女子修道院であるサンタ・パオラ教会への入会を決心。

1444年9月23日

修道会入りを許さなかった父ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガだが、病床にあってようやく譲歩し、遺言書にチェチーリアの修道会入会を許可する条項が書き加えられる。

1444年9月25日

ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、死。

1445年2月2日

チェチリアは、未亡人となった母パオラ・マラテスタと共にコルプス・ドミニ聖堂が付属するサンタ・パオラ教会の修道院に入会。

144?年

グレゴーリオ・コッレールは、入会に臨んでキアラと名を改めたチェチリア宛の書簡の中で、彼女の優れたラテン語やギリシャ語の知識はウェルギリウスキケロに替えて神学や信仰に関する論考に捧げられるべきであること、こうした霊的な修辞学の高みは、人文主義的な教養と劣らぬ満足を彼女に与えるはずである、という激励とも慰めとも取れる助言を与えている。

1451年

死。

デュ・モンスティエ編の『フランチェスコ会聖福者年鑑』に福者として記載される。

別表記

 チェチリア・ゴンザーガ

外部リンク

 黒岩三恵 - チェチリア・ゴンザーガの時禱書
 Treccani
 Wikipedia

アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga

生没
1427年8月26日~1466年1月16日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ

概要

 アレッサンドロ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ Giampietro I Gonzaga

生没
1469年~1515年11月18日
没地
ノヴェッラーラ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
コスタンツァ・ストロッツィ
カテリーナ・トレッリ
アレッサンドロ1世・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ

概要

 ジャンピエトロ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 ノヴェッラーラの君主

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

タッデア・ゴンザーガ Taddea Gonzaga

生没
14??年~1520年
没地
スカンディアーノ
ジョルジョ・ゴンザーガ
パオラ・スキアンテスキ
マッテオ・マリーア・ボイアルド
カミッロ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
コルネーリア・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
エミーリア・ゴンザーガ

概要

 タッデア・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、スカンディアーノ伯爵夫人。

外部リンク

 Wikipedia

アロイジア・ゴンザーガ Aloisia Gonzaga

生没
1458年~1542年
アントーニオ・ゴンザーガ
フランチェスカ・ウベルティ
クリストフォロ・カスティリオーネ
バルダッサーレ・カスティリオーネ
ジローラモ・カスティリオーネ
フランチェスカ・カスティリオーネ
ポリッセーナ・カスティリオーネ
アンナ・カスティリオーネ

概要

 アロイジア・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

別表記

 Luigia

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの華』

カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga

生没
1434年頃~1495年頃
出身
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
フランチェスコ・セッコ
パオラ・セッコ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ガブリエッラ・ゴンザーガ Gabriella Gonzaga

生没
14??年~
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
ジベルト・ダ・コッレッジオ
コッラード・フォリアーニ
ルドヴィーコ・フォリアーニ
コスタンツァ・フォリアーニ

概要

 ガブリエッラ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。

年表

1472年11月29日

パヴィアにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。娘コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚について。

1472年12月

パヴィアにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。娘コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚に持参金は出せない。

1472年

ジローラモ・リアリオに11歳の娘コスタンツァ・フォリアーニとの初夜を要求され、成人である14歳まで待つよう拒否。

外部リンク

 Wikipedia

フェデリーコ1世・ゴンザーガ Federico I Gonzaga

生没
1441年6月25日~1484年7月14日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ

概要

 フェデリーコ1世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 第3代マントヴァ侯 1478年~1484年

年表

1478年6月11日

ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、死。

1480年6月20日

ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。アンドレア・マンテーニャがある作品を期日までに完成させることができなかったのは、彼のような芸術家はしばしば気まぐれだからで、それについてはできることはあまりないと説明。

1484年7月15日

死。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フランチェスコ・ゴンザーガ Francesco Gonzaga

生没
1444年頃~1483年10月21日
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク

概要

 フランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1461年12月18日~1483年10月21日

年表

1462年4月2日

ピウス2世により、サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

肖像

埋葬地

外部リンク

 CANTOS XLV
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ Gianfrancesco Gonzaga

生没
1446年10月4日~1496年8月28日
出身
マントヴァ
没地
ボッツォーロ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
アントーニア・デル・バルツォ
フェーボ・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
フェデリーコ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ピッロ・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ
ジョヴァンナ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ

概要

 ジャンフランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 サッビオネータ伯 1479年~1496年
 ボッツォーロ領主 1479年~1496年

年表

1446年10月4日

マントヴァにて、生(1443年)。

1479年

アントーニア・デル・バルツォと結婚。

1496年8月28日

ボッツォーロにて、死(1496年8月27日)。

肖像

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

スザンナ・ゴンザーガ Susanna Gonzaga

生没
1447年~1481年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク

概要

 スザンナ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1450年

3歳で、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの結婚が決められる。

1457年

祖母パオラ・マラテスタと同じ脊椎後弯症の症状が現れだすと、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの縁組は妹ドロテア・ゴンザーガに代わる。

14??年

修道女アンジェリカとしてサンタ・パオラ教会に入る。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ドロテア・ゴンザーガ Dorotea Gonzaga

生没
1449年12月6日~1467年4月21日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク

概要

 ドロテア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1457年

健康上の理由で破談となった姉スザンナ・ゴンザーガに代わり、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの縁組が進められる。

1467年4月21日

マントヴァにて、死(1467年4月20日)。

外部リンク

 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの華』

チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga

生没
1451年3月26日~1478年
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク

概要

 チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。ゴンザーガ家と交流のあった知識人や外交使節が書き残した、彼女の体形に言及する手紙があるため、脊椎の疾患があったものと思われる。

教養

 10歳の時すでにギリシア語を自由に操ることができた。

年表

146?年

1460年代後半にフランチェスコ会に入会。

147?年

1470年代にはマントヴァのオスペダーレ・グランデの総裁に就任。施療院における慈善活動において責任ある地位である。

1478年

死(1474年)。もともと虚弱な体質で発熱のため病床にあったチェチーリア・ゴンザーガに医師が施した瀉血の切開痕に十分な消毒がなされなかったことが原因で化膿し、右手の壊死から死に至る。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスの華』

リドルフォ・ゴンザーガ Ridolfo Gonzaga

生没
1452年4月18日~1495年7月6日
出身
マントヴァ
没地
フォルノーヴォ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
アントーニア・マラテスタ
カテリーナ・ピコ
パオラ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
アロイジオ・ゴンザーガ
エットーレ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
アンジェリカ・ゴンザーガ

概要

 リドルフォ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍

年表

1491年1月17日(月)

パヴィアのヴィスコンティ城でのルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステの結婚式に参列。

肖像

埋葬地

別表記

 リドルフォ・ダ・ゴンツァーガ、ロドルフォ、Rodolfo Gonzaga

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

バルバーラ・ゴンザーガ Barbara Gonzaga

生没
1455年12月11日~1503年3月30日
出身
マントヴァ
没地
ベーブリンゲン
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
エーバーハルト1世

概要

 バルバーラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリア出身の女性。

肖像

別表記

 バルバリーナ

外部リンク

 ウィキペディア

ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga

生没
1458年~1511年1月19日
出身
ガッツオーロ
没地
レッジョーロ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク

概要

 ルドヴィーコ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 マントヴァ司教 1483年10月27日~1511年1月9日(保有していない)

年表

1458年

ガッツオーロに生(1460年)。

1483年10月27日

マントヴァ司教。

1483年後半

融資に対して質入れする貴重品の見積のため、エルコーレ・デイ・フェデーリとエルメス・フラビオ・デ・ボニスをカステル・ゴッフレードに派遣。

1488年2月19日

彼のローマの代理人バルトロメオ・エルバ宛てに手紙をしたためる。自分の代わりに、洗礼時の代父としてカルロ・カナーレを選んでいる。

1511年1月19日

レッジョーロに没。この時マントヴァ司教の地位にはない。

肖像

外部リンク

 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

パオラ・ゴンザーガ Paola Gonzaga

生没
1463年~1497年
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク

概要

 パオラ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

肖像

別表記

 パオリーナ、Paolina

外部リンク

 ラインの王族
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンスの華』

チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga

生没
14??年~1479年7月30日
カルロ・ゴンザーガ
レンガルダ・マンフレディ

概要

 チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1475年8月8日

オドアルド・ダルコ伯と結婚。

アレッサンドロ1世・ゴンザーガ Alessandro I Gonzaga

生没
1490年頃~1530年
没地
ナポリ王国ナポリ
ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
カテリーナ・トレッリ
コスタンツァ・ディ・コレッジョ
アルフォンソ・ゴンザーガ

概要

 アレッサンドロ1世・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 第2代ノヴェッラーラ伯

年表

1515年

ノヴェッラーラ、コルテヌオーヴァ、バニョーロ伯として、兄弟と共に叙任される。ヴェネツィア貴族社会に再び地歩を固める。

1530年

イタリアのスペイン騎兵将軍。

別表記

 アレッサンドロ・ディ・ノヴェッラーラ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

カミッラ・ゴンザーガ Camilla Gonzaga

ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
カテリーナ・トレッリ
アレッサンドロ・ダ・ポルト

概要

 カミッラ・ゴンザーガは、15~16世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

キアラ・ゴンザーガ Chiara Gonzaga

生没
1464年7月1日~1503年6月2日
出身
マントヴァ
没地
オーヴェルニュ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
ジルベール・ド・ブルボン
ルイーズ・ド・ブルボン
ルイ2世・ド・ブルボン=モンパンシエ
シャルル・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
ルネ・ド・ブルボン
アンヌ・ド・ブルボン

概要

 キアラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀の女性。

年表

1464年7月1日

マントヴァにて、生。

1482年2月24日

マントヴァにて、ジルベール・ド・ブルボンと結婚。

この結婚はおじフランチェスコ・セッコによって手配され、フランスに向かう新婚夫婦をマントヴァからミラノまで見送る。

1494年12月1日

パヴィア到着。ボーナ・ディ・サヴォイアを訪問。

1494年12月

マントヴァに向かう。

1496年12月

フランスから帰る途上、ミラノ到着。

1496年12月22日

ミラノ出発。

1497年1月5日

マントヴァにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛に手紙をしたためる。妻ベアトリーチェ・デステを亡くしたルドヴィーコ・イル・モーロへのお見舞い。

1503年6月2日

フランス、オーヴェルニュにて、死。

肖像

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

フランチェスコ2世・ゴンザーガ Francesco II Gonzaga

生没
1466年8月10日~1519年3月29日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
アニェーゼ・ヴィスコンティ
イザベッラ・デステ
エレオノーラ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
フェッランテ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
テオドーラ・ゴンザーガ

概要

 フランチェスコ2世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 第4代マントヴァ侯 1484年~1519年
 教会の旗手 1510年~151?年

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
 ガリリャーノの戦いフランス王国、敗北

年表

1466年8月10日

生。

1480年

6歳のイザベッラ・デステと婚約。

1484年7月15日

フェデリーコ1世・ゴンザーガ死。フランチェスコ2世・ゴンザーガ、マントヴァ侯となる。

1487年10月

お忍びだがヴェネツィア共和国の警護の下、シモニーノ・ディ・トレント詣でに行く。

1490年2月11日

イザベッラ・デステフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。

1490年4月11日(日)

マントヴァでの復活祭で暴動が起き、ユダヤ人が襲撃される。

この暴行により、復活祭の直後に2回目の布告を発し、聖週間中にユダヤ人を攻撃した者への処罰を強化。

1491年1月

ユダヤ人の銀行家ダニエーレ・ダ・カルピの3人の息子に、キリスト教徒による告発から保護を与える。

1491年3月26日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。女児切断犯を追跡して処罰すべきだと断言し、妻にその捜査を命じることを許可。聖週間のためにマントヴァのユダヤ人に関する規定を作成した妻を称賛。

1491年4月15日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

1491年5月4日

フェッラーラにて、秘書マッテオ・サッケッティ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリから伝え聞いたユダヤ人貸金業者デオダート・ノルサの要望を叶えてやるよう指示。

1491年5月

ユダヤ人デオダート・ノルサに、キリスト教徒による告発から保護を与える。キリスト教徒との淫行で有罪判決を受けた場合でも、5日を超えて刑務所に拘留されないことを明確に規定。

1491年6月20日

ボローニャでの弟ジョヴァンニ・ゴンザーガラウラ・ベンティヴォーリオの結婚式に参列。

1491年8月20日

マントヴァポデスタ、エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。

1491年8月27日

エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。マントヴァに住むユダヤ人アンジェロ・ディ・ヴィターレは盗品の取引とキリスト教徒との淫行の罪により収監され、拷問されている。彼の息子シモーネも、捕縛し、尋問し、共犯者である場合は拷問を加えるよう指示。

1491年9月7日

義母エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリマントヴァのユダヤ人たちから反感を買っている。数か月前に金の鎖を作らせている最中18か19ドゥカート騙し取られたので、取り戻すまで彼の監禁を望む。

1491年9月8日

マントヴァポデスタエルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリが犯した特定の犯罪に関して、ボナベンチュラの面前でアンジェロ・ディ・ヴィターレを再度尋問し、拷問することを躊躇しないように命じる。

1491年9月10日

ヴェネツィアへ向かう途上、アンジェロ・ディ・ヴィターレの死刑判決を批准し、絞首台に送るよう命じる。

1491年9月15日

エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。

1491年9月17日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。改宗したアンジェロ・ディ・ヴィターレの赦免という妻の願いを拒否し、聞き入れなかったことを謝罪。

1491年9月20日

エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。アンジェロ・ディ・ヴィターレを赦免する神学的理由について納得せず。犯罪の抑止力として、死体を公共の場に晒すべきだと指示。

1491年9月21日

フェッラーラ到着。

1491年9月22日

イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。アンジェロ・ディ・ヴィターレの赦免を義父エルコーレ1世・デステと同意。

1493年4月25日

アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。

間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステマントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。

1495年2月18日

エルコーレ・デイ・フェデーリの安全通行保証を取り下げ、マントヴァから追放。

1495年3月31日

教皇、ヴェネツィア共和国ミラノ公国、スペイン、神聖ローマ帝国、対フランス神聖同盟を結成。フィレンツェ共和国、フェッラーラ公国は加盟を拒否。

対フランス神聖同盟軍総司令官に就任。

1495年5月1日

対フランス神聖同盟軍、シャルル8世がフランスとの連絡確保のため途中で残していた守備隊への攻撃を開始。

1495年6月22日

ユダヤ人銀行家アブラーモ・トゥソロ宛てに手紙をしたためる。刑務所からの解放したことを指摘した後、多額の金を貸すように要求。

1495年7月6日

フォルノーヴォの戦い:帰国途上のシャルル8世軍をフォルノーヴォでフランチェスコ2世・ゴンザーガ指揮の対フランス神聖同盟軍が攻撃。

1495年7月19日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ率いるヴェネツィア軍、ノヴァーラ城郭そばに野営。

1496年10月23日

義父エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。ユダヤ人のアブラーモ・トゥソロとカード遊びに興じたいので、彼がマントヴァに来ることを許可してくれるよう頼む。

ユダヤ人のアブラーモ・トゥソロ宛てに手紙をしたためる。

1497年6月23日

ヴェネツィア共和国元老院は、フランチェスコ2世・ゴンザーガの総司令官解任を決定(1497年4月、1499年)。

1497年9月10日(日)

ブレシアにて、カテリーナ・コルナーロに敬意を表した馬上槍試合に出場。

1498年6月24日

ルドヴィーコ・イル・モーロとの契約書に署名し、帝国司令官として年4万ドゥカートで雇われる。

1499年10月2日

パヴィアに到着したフランス王ルイ12世へ戦勝の祝いのため伺候。

1499年10月6日

ルイ12世ミラノ入城に随行。

1501年12月9日

この日付のポルツァーノ発のマッテオ・マルティーノ・ダ・ブセットからの手紙を受け取る。教皇がフランス及びヴェネツィアと密かに同盟を結び、エステ家の祝宴の折に、チェーザレ・ボルジアの軍隊でもってフェッラーラに襲い掛かって国の主だった者たちを一網打尽にし、国土を占領し、財産を横領し同盟者間で山分けするという計画が立てられている、という内容。

1502年5月

チェーザレ・ボルジアの部下の1人であるエル・マントゥアーノに恩典を与える。

1503年8月初旬~9月初旬

ルイ12世軍に参加し、フィレンツェを経由してナポリに向かう。

病気になり、マントヴァに戻る。

1503年9月22日

イゾラ・ファルネーゼにて、妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 淑女様、親愛なる妻へ。アレクサンデル6世の最期の事情に通じていらっしゃるかもしれませんので、下記の事項について述べます。教皇が病に伏した時、何を考えているか分からない者には彼が彷徨っているのだと思うような話し方で話し始めました。しかし、自分が何を言っているのか、完璧に自覚があったのです。「私は来る、その通り、少し待ってくれ」というのがその言葉でした。秘密を知る者は、インノケンティウス8世死後のコンクラーヴェで、彼が悪魔と契約を交わし、魂の代価と引き換えに教皇位を購入したのだという。その契約には、12年間聖座を占めることを認められており、これを4日間延長したのです。彼の部屋で見られたことのある7人の悪魔に、その時魂を売り渡したのだと確信する者たちがいます。死後直ちに腐り始め、火の上のやかんのように口から泡を吹き出し、それは地上にある間続いたのです。死体は膨張して、人の形を失いました。長さと同じほどの横幅でした。簡素な儀式と共に墓に運ばれていきましたが、運搬人が寝台から引きずり出し、誰も触れたがらなかったので、足に紐を結び付けて埋葬場まで引きずったのです。惨めな埋葬で、あれに比べれば、マントヴァの不具の矮人の妻の方がまだ厳かというほどでした。彼についての中傷的な風刺詩が、毎日発行されています。

1503年11月

病気に罹る。

1503年12月29日

ガリリャーノの戦い

1505年5月4日

フィレンツェ共和国からニッコロ・マキアヴェッリが派遣されてきて、傭兵契約を申し込まれるが、断る。

1508年12月10日

カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。

後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。

1509年4月15日

ヴェネツィアを攻撃し、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に撃退される。

1509年8月8日

ヴェネツィア共和国軍の奇襲で捕らわれる。

1510年7月14日

解放され、人質としてローマに向かう長男フェデリーコ2世・ゴンザーガボローニャで会う。

1510年7月27日

マントヴァ到着。

1510年9月30日

ユリウス2世により、教会の旗手に任命される。

1519年3月29日

死(1519年2月20日)。

持病

 梅毒


アレッサンドロ・コルテッリ
フランチェスコ・ゴンザーガの剣

埋葬地

別表記

 ジャンフランチェスコ2世、ダ・ゴンツァーガ

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 THE BORGIAS wiki
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

シジスモンド・ゴンザーガ Sigismondo Gonzaga

生没
1469年~1525年10月3日
フェデリーコ1世・ゴンザーガ

概要

 シジスモンド・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1505年12月1日~
     任命した教皇:ユリウス2世

年表

1506年12月16日

サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

エリザベッタ・ゴンザーガ Elisabetta Gonzaga

生没
1471年2月9日~1526年1月28日
出身
マントヴァ
没地
フェッラーラ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ

概要

 エリザベッタ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1471年2月9日

マントヴァにて、生。

フェデリーコ1世・ゴンザーガの子は全員ポルト・マントヴァーノ宮殿に住む。

1482年8月

重病に罹患。

1486年8月29日

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと婚約。新マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガとピエトロ・ベッランティが署名。持参金は2万7千ドゥカート

148?年

グイドバルド・ダ・モンテフェルトロマントヴァを訪問するが、重病で会えず。

1488年2月1日

結婚行列がウルビーノへ向けマントヴァ出発。

1488年2月4日(月)

激しく雪が降る中、行列がアルジェンタに到着。

1488年2月5日(火)

ラヴェンナ到着。ポデスタ宮殿に宿泊。

1488年2月6日(水)

ラヴェンナ出発。夜、チェゼナーティコ到着。

1488年2月7日(木)

リーミニから2マイルの地点で、ジョヴァンニ・スフォルツァに出迎えられる。

1488年2月8日(金)

ウルビーノ侯国内に達し、コルボルドロ城に宿泊。

1488年2月9日(土)

ウルビーノに到着。

1488年2月11日(月)

ウルビーノのサン・フランチェスコ教会にて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと結婚(1489年2月11日、マントヴァ)。

1488年2月19日(火)

告解火曜日

1488年2月

謝肉祭の後、弟ジョヴァンニ・ゴンザーガらがウルビーノ出発。

1493年3月

マントヴァ到着。

1500年1月8日

フォッソンブローネにて兄フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ウルビーノにて熱病でジョアン・リャンソル・イ・モンカーダが亡くなったことを知らせる。

1500年3月

聖年。ウルビーノを出発し、罪の赦しを受けるためローマに向かう。

1500年3月21日

アッシジにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 高名なる閣下、誉れある兄上様。この聖年に罪の赦しを受けるため、ウルビーノを離れローマへ向かっております。数日前私の旅行計画について伝え、今日アッシジにてあなたのお手紙を受け取りました。おそらくまだ私が出立していないものと思っていらしたのでしょう。お手紙に書かれてあることから、この旅行を取り止めるよう望んでいらっしゃることを知りましたが、そのことはとても私を悲しませ、言葉にできぬ痛みをもたらしました。なぜなら他のあらゆることのように閣下のご期待に添えるようにと望んでいますし、最も高潔な父君のように思っており、あなたのご希望に沿うことの他に考えや目的などございませんのですから。しかしながら申し上げましたように、すでに途上にあり、国外に出ています。義理の兄ファブリツィオ1世・コロンナと妹アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロの助けを借りて、ローマでの住まいと落ち着くのに必要なことは手配しました。4日後にはマリーノに到着しているだろうこと彼らに伝えました。ひいてはファブリツィオ1世・コロンナがわざわざ私の護衛を確保してくださいます。さらに、この出立と旅行について苦情が言われていますが、それ故、注意深く熟慮され、夫の熟知と合意で進められているこの巡礼を、ここまで来て私と夫の名誉を傷つけずに取り止めることはできないものと思われます。あなたが悩み、苛立つようなことはありません。順序を追って言いますと、まずマリーノに向かい、そこからアニェーゼ・ダ・モンテフェルトロが同道し、教会の聖年に罪の赦しを受けるため、お忍びでローマに行きます。どなかに会うことが必要とは思われませんし、故ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリの宮殿にローマにいる間身を寄せるつもりです。よい住まいでまさしく求めるところであり、コロンナ家の手近にあります。マリーノにすぐに戻る心づもりで、そちらの方で長く滞在します。ですので、この旅行について閣下がこれ以上不安がられることはありませんし、不愉快に思われることもありません。しかしこれらの理由は、ただ旅を続けるというだけでなく、旅を始めるのだということを促すのに効果的です。もしまだ出発していなかったら断念していたかもしれませんが、それは巡礼中に何か良くないことが起こるかもしれないという恐れからではなく、いつでも私がそうしたいと思っているように、閣下のお手紙に書かれた望みに応えたいがためです。けれども、こうして私がここにいて、この手紙をすぐにお受け取りになられる時、私の動機を閣下が支持されるでしょうことを信じております。どうかローマ宛てのお手紙をお寄こしになって、不愉快に感じてはいらっしゃらないと安心させてください。そうしてくださいましたなら、安らかに落ち着いて罪の赦しを受けることができるでしょう。そうしてくださいませんことには、大きな不安と悲しみに苦しんでしまいます。閣下の末妹として、慈悲深い博愛にすがります。

1500年4月19日

復活祭。この日までローマに滞在。

1526年1月28日

フェッラーラにて、死。

別表記

 エリザベッタ・ゴンザガ

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

マッダレーナ・ゴンザーガ Maddalena Gonzaga

生没
1472年7月10日~1490年8月8日
出身
マントヴァ
没地
教皇領ペーザロ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
ジョヴァンニ・スフォルツァ

概要

 マッダレーナ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1472年

マントヴァで生。

1489年10月27日

ジョヴァンニ・スフォルツァと結婚。

1490年8月8日

ペーザロにて、出産時に死(1490年1月8日)。

肖像

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 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ジョヴァンニ・ゴンザーガ Giovanni Gonzaga

生没
1474年~1525年9月23日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
フェデリーコ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
ジネヴラ・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ

概要

 ジョヴァンニ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ヴェスコヴァート領主 1519年~1525年

年表

1474年

マントヴァにて生。

1491年6月20日

ボローニャにて、ラウラ・ベンティヴォーリオと結婚。

1519年6月28日

フェッラーラにて、甥のマントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 葬儀は行われず、教区教会でミサが行われただけで、明日ここを出立するということを申せば、閣下は驚かれるに違いありません。公爵閣下アルフォンソ1世・デステが伴侶ルクレツィア・ボルジアのご遺体をお墓まで運ぶのに付き添われました。コルプス・ドミニ修道院のお母様エレオノーラ・ダラゴーナが安置されているのと同じ墓所に埋葬されました。全市が深い悲しみに包まれ、公爵閣下も心の底からの悲嘆をお見せになりました。10年あまりも馬巣織りの服を纏い、最後の2年間毎日のように告解なさり、毎月3回か4回は聖体を受けたという、立派な行いが報じられました。閣下に忠実な僕より。

1525年9月23日

死。(1523年)

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 Famille de Carné
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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フェーボ・ゴンザーガ Febo Gonzaga

生没
1462年頃~1504年5月12日
没地
リヴァローロ・マントヴァーノ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
マルゲリータ・デステ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
イッポーリト・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ

概要

 フェーボ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子、傭兵隊長。

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍

外部リンク

 Condottieri di ventura
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 Treccani
 Wikipedia

ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga

生没
1480年?~1540年6月
出身
ボッツォーロ
没地
サッビオネータ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ロドモンテ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ

概要

 ルドヴィーコ・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

バルバーラ・ゴンザーガ Barbara Gonzaga

生没
1482年頃~1558年
没地
ヴィアダーナ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
アントーニア・デル・バルツォ
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ
ヤコポ・マリーア・スタンパ?
ロベルト・アンブロージオ・サンセヴェリーノ

概要

 バルバーラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

別表記

 バルバラ

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

パオラ・ゴンザーガ Paola Gonzaga

生没
1486年~1519年5月30日
没地
ミラノ公国ミラノ
リドルフォ・ゴンザーガ
カテリーナ・ピコ
ジャンニッコロ・トリヴルツィオ
イッポーリタ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ビアンカ・ルチア・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ

概要

 パオラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1501年

ジャンニッコロ・トリヴルツィオと結婚。

外部リンク

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 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ Gianfrancesco Gonzaga

生没
1488年2月2日~1524年12月18日
出身
ルッツァーラ
リドルフォ・ゴンザーガ
カテリーナ・ピコ
ラウラ・パッラヴィチーニ
マッシミリアーノ・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
アンジェラ・ゴンザーガ
イッポリータ・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ

概要

 ジャンフランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

アロイジオ・ゴンザーガ Aloisio Gonzaga

生没
1494年4月20日~1549年7月19日
出身
ルッツァーラ
没地
カステル・ゴッフレード
リドルフォ・ゴンザーガ
カテリーナ・ピコ
カテリーナ・アングィッソーラ

概要

 アロイジオ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

別表記

 ルイジ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga

生没
1472年2月5日~1525年
出身
マントヴァ
リドルフォ・ゴンザーガ
オッタヴィアーノ・ガブリエッリ

概要

 カテリーナ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。

容姿

 白い肌、青い目。

年表

1472年2月5日

マントヴァにて、生(1476年頃)。

1494年6月24日

ルクレツィア・ボルジアたちが滞在するペーザロに到着。

1510年

夫オッタヴィアーノ・ガブリエッリ、死。

15??年

姉妹のアンジェリカ・ゴンザーガと一緒に、ドミティッラという名で修道女になる。

別表記

 Caterina Gonzaga de MontevecchioMontevegioDomitillaDomicilla

外部リンク

 the borgias ITALIA
 the borgias ITALIA
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

エレオノーラ・ゴンザーガ Eleonora Gonzaga

生没
1493年12月31日~1550年2月13日
出身
マントヴァ
没地
ウルビーノ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
ジューリア・デッラ・ローヴェレ
ジュリオ・デッラ・ローヴェレ

概要

 エレオノーラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1493年12月31日

マントヴァにて、生(1492年10月31日)。

1509年

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと結婚。

外部リンク

 ラインの王族
 世界帝王事典
 GeneAll.net
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

フェデリーコ2世・ゴンザーガ Federico II Gonzaga

生没
1500年5月17日~1540年8月28日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
マルゲリータ・パレオロガ
イザベッラ・ボスケッティ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
フランチェスコ3世・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
イザベッラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
フェデリゴ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ

概要

 フェデリーコ2世・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 教会の旗手 1519年~15??年
 第5代マントヴァ侯 1519年~1530年
 第1代マントヴァ公 1530年~1540年
 モンフェッラート侯 1536年~1540年

年表

1510年7月14日

人質としてユリウス2世のもとに向かう途中、ヴェネツィア共和国から解放された父フランチェスコ2世・ゴンザーガボローニャで会う。

1510年

ボローニャフランチェスコ・フランチアにより肖像画が描かれる。

1510年8月

ローマ到着。

1515年10月19日

人質としてフランス宮廷に向かう。

1519年3月29日

フランチェスコ2世・ゴンザーガ、死。

1521年8月1日

第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グイッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。

1527年12月7日

フェデリーコ2世・ゴンザーガ、オデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。

1529年9月

フェデリーコ2世・ゴンザーガ、カール5世よりその軍の指揮官に任用される。

1529年11月末

フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ボローニャに着きカール5世から歓迎を受ける。

1529年12月23日

永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァカルロ3世・ディ・サヴォイア、フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。

これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。

1530年3月25日

マントヴァに着いたカール5世により、公爵に陞爵される。

1530年4月8日

大聖堂前の壮麗な式典でカール5世が、マントヴァを公国に、フェデリーコ2世・ゴンザーガをその公に昇格することを宣言。

1533年2月24日

クレメンス7世カール5世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステ、フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。

1533年4月

マルゲリータ・パレオロガの叔父モンフェッラート侯ジャンジョルジョ・パレオロゴ、後継者を残さず死。

1536年11月3日

モンフェッラート侯ジャンジョルジョ・パレオロゴその領土をカール5世の裁定により妻に封与される。

1536年11月29日

カール5世によりモンフェッラート侯位の継承を承認される。

1537年

パウルス3世から黄金の薔薇を拝受。

1537年4月20日

パウルス3世マントヴァでの公会議開催にあたって警護の兵1千6百を教皇の負担で整えるようにとの公フェデリーコ2世・ゴンザーガの要求を拒否し同地での公会議開催を延期することを、枢機卿会議で決める。

1540年6月28日

死。

肖像

外部リンク

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 エステ大辞典
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

リヴィア・ゴンザーガ Livia Gonzaga

生没
1501年~1508年
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ

概要

 リヴィア・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネサンスの華』

イッポーリタ・ゴンザーガ Ippolita Gonzaga

生没
1503年11月13日~1570年3月16日
没地
マントヴァ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ

概要

 イッポーリタ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

エルコーレ・ゴンザーガ Ercole Gonzaga

生没
1505年11月23日~1563年3月2日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ

概要

 エルコーレ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1527年5月3日~

年表

1522年12月

ピエトロ・ポンポナッツィ宛ての母イザベッラ・デステの推薦状を携え、ボローニャ大学に入学。

1527年5月5日

クレメンス7世により、サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。

1540年6月28日

マントヴァ公モンフェッラート侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ、死。

フランチェスコ3世・ゴンザーガマントヴァ公モンフェッラート侯となるが、幼少の公・侯の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガと弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガが両領国を支配。

1550年2月21日

1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ

グリエルモ・ゴンザーガマントヴァ公モンフェッラート侯位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。

外部リンク

 資料室
 Catholic Encyclopedia
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

フェッランテ・ゴンザーガ Ferrante Gonzaga

生没
1507年1月28日~1557年11月15日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
エリザベッタ・デ・カプア
チェーザレ1世・ゴンザーガ
アンナ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
アンドレア・ゴンザーガ
ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
オッタヴィオ・ゴンザーガ
フィリッポ・ゴンザーガ
ジェローニマ・ゴンザーガ
マリーア・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ

概要

 フェッランテ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 グアスタッラ伯 1539年~1557年
 ミラノ総督 1546年~1554年

年表

1530年8月6日

マラテスタ・バリオーニフィリベール・ド・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガに使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。

1546年3月31日

アルフォンソ3世・ダヴァーロス死。代わってカール5世のシチリア総督・グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ(シチリア総督在位1536年~:グアスタッラ伯1539年~)、ミラノ総督となる(在位~1554年2月)。

1546年9月13日

カール5世ミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの指名する委員にFrancesco Burlamacchiの審問権を与えると決定。

これによりFrancesco Burlamacchiミラノに護送され、1546年10月13日よりNiccolò Belloniの審問を受ける。

1546年末

ジェノヴァシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。

1547年7月21日

カール5世ミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの派遣した軍及び同ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendoza(1503年~1575年:在位1547年~)の派遣した軍、ナポリに入り、Santa Maria Novara教会などを占拠。これに対し反乱派市民・貴族、果敢に抵抗するが、カール5世の服従命令を伝えられて威勢を失い、鎮静。

1547年9月10日

フェッランテ・ゴンザーガカール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる(1503年~:パルマ・ピアチェンツァ公1545年~)。

1547年9月12日

フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。

1547年9月16日

ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。

1548年2月14日

この日?、Francesco Burlamacchiフェッランテ・ゴンザーガの承認の下、ミラノで斬首される(1498年~)。(但し、1548年9月14日斬首とする異説あり)。

1548年8月初旬

アンリ2世トリノに入る。フェッランテ・ゴンザーガの暗殺とそれを機とするミラノの騒乱を狙っての行動を噂され、警戒される。

1551年6月12日

オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。

別表記

 フェランテ・ゴンツァーガ、フェルランテ

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

テオドーラ・ゴンザーガ Teodora Gonzaga

生没
1???年~1519年
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
エネア・フルラーノ・ダ・カヴリアーナ

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga

生没
1497年~1527年
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
イッポーリタ・スフォルツァ
マッシミリアーノ・ゴンザーガ

概要

 アレッサンドロ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

在位

 ヴェスコヴァート領主 1525年~1527年

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

カミッラ・ゴンザーガ Camilla Gonzaga

生没
1500年~1585年
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
ピエル・マリーア3世・デ・ロッシ

概要

 カミッラ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1523年

ピエル・マリーア3世・デ・ロッシと結婚。

1585年

死(1572年)。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Palio di San Secondo
 Wikipedia

ロドモンテ・ゴンザーガ Rodomonte Gonzaga

生没
1500年8月16日~1532年12月2日
出身
マントヴァ
没地
ヴィコヴァーロ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ

概要

 ロドモンテ・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

別表記

 Ludovico

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

イッポーリタ・ゴンザーガ Ippolita Gonzaga

生没
1510年頃~
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
ガレオット2世・ピコ
ルドヴィーコ2世・ピコ

概要

 イッポーリタ・ゴンザーガは、16世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Wikipedia

ジューリア・ゴンザーガ Giulia Gonzaga

生没
1513年~1566年4月16日
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
ヴェスパシアーノ・コロンナ

概要

 ジューリア・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1534年

この年頃ナポリに移住したJ. de Valdésを中心として教会改革と霊的再生を求める人々の小サークルが結成される。彼の死(1541年)までにジューリア・ゴンザーガ、ヴィットーリア・コロンナカテリーナ・チーボConstanza d'Avalosら君侯夫人・寡婦、M. A. Flaminio人文主義者G. SeripandoB. OchinoP. M. VermigliPietro Carnesecchiら聖職者が集い、イタリアにおける教会改革運動の拠点の観を呈する。後、第三者は新教を信仰し宗教改革運動に従事。

別表記

 ジューリア・ゴンツァーガ・コロンナ

外部リンク

 世界帝王事典
 ルネサンスのセレブたち
 Genealogy.EU
 Internet Archive - A princess of the Italian reformation
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga

生没
1520年~1580年
没地
マントヴァ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・ボスケッティ

概要

 アレッサンドロ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、マントヴァ公の国務顧問官。フランドルでスペイン軍に従軍。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネサンスの華』

フランチェスコ3世・ゴンザーガ Francesco III Gonzaga

生没
1533年3月10日~1550年2月21日
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マルゲリータ・パレオロガ
カタリーナ・フォン・ハプスブルク

概要

 フランチェスコ3世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 第2代マントヴァ公 1540年~1550年
 モンフェッラート侯 1540年~1550年

年表

1540年6月28日

マントヴァ公モンフェッラート侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ死(1500年~:マントヴァ侯・公在位1519年~1530年・1530年~:モンフェッラート侯在位1536年~)——フランチェスコ3世・ゴンザーガ(1533年~)、マントヴァ公モンフェッラート侯となるが、幼少の公・侯の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)と弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガ(1505年~1563年:在位1527年~1563年)が両領国を支配。

1543年6月12日

フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。

1549年10月27日

フランチェスコ3世・ゴンザーガ、母と叔父の後見(1540年~)を脱し、フェルディナンドの次女カタリーナ・フォン・ハプスブルク(1533年~1572年)と結婚。

1550年2月21日

1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ死(1533年~:マントヴァ公モンフェッラート侯在位1540年~)——グリエルモ・ゴンザーガ(1538年~1587年)、マントヴァ公モンフェッラート侯位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。

外部リンク

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 世界帝王事典
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

グリエルモ・ゴンザーガ Gulielmo Gonzaga

生没
1538年4月24日~1587年4月14日
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マルゲリータ・パレオロガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
アンナ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ

概要

 グリエルモ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 第3代マントヴァ公 1550年~1587年
 モンフェッラート侯 1550年~1575年

 モンフェッラート公 1574年~1587年

年表

1549年10月

母と叔父の後見を脱したばかりの兄フランチェスコ3世・ゴンザーガ、死。

1550年2月21日

マントヴァ公モンフェッラート侯位を継ぎ、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。

別表記

 グリエルモ1世、Guglielmo

外部リンク

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 世界帝王事典
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Bibliotechina Grassoccia
 『Lost Girls

ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga

生没
1539年9月18日~1595年10月23日
出身
マントヴァ
没地
ネスル
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マルゲリータ・パレオロガ

概要

 ルドヴィーコ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

チェーザレ1世・ゴンザーガ Cesare I Gonzaga

生没
1530年~1575年2月15日
没地
グアスタッラ
フェッランテ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ

概要

 チェーザレ1世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 グアスタッラ伯 1557年~1575年
 アマルフィ公 15??年~1575年
  先代:アルフォンソ2世・ピッコロ―ミニ
  次代:フェッランテ2世・ゴンザーガ

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ Gian Vincenzo Gonzaga

生没
1540年9月8日~1591年12月23日
出身
パレルモ
没地
ローマ
フェッランテ・ゴンザーガ

概要

 ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1578年2月21日~
 サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ助祭枢機卿 1578年11月21日~1583年12月19日

年表

1578年2月21日

グレゴリウス13世により、枢機卿に選出される。

外部リンク

 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『Lost Girls

ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ Vespasiano I Gonzaga

生没
1531年12月6日~1591年2月26日
出身
フォンディ
没地
サッビオネータ
ロドモンテ・ゴンザーガ
ディアナ・デ・カルドーナ
アンナ・デ・アラゴン
マルゲリータ・ゴンザーガ
イザベッラ・ゴンザーガ

概要

 ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 サッビオネータ公 1577年~1591年2月26日

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 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

アンナ・ゴンザーガ Anna Gonzaga

生没
1566年1月17/27日~1621年8月3日
出身
マントヴァ
没地
インスブルック
グリエルモ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク

概要

 アンナ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀の女性。

年表

1582年5月14日

インスブルックでフェルディナンド2世・フォン・ハプスブルクと結婚。

別表記

 Anna Caterina

外部リンク

 世界帝王事典
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『愛の年代記』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ Vincenzo Gonzaga

生没
1562年9月21日~1612年2月9日
出身
マントヴァ
グリエルモ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
マルゲリータ・ファルネーゼ
エレオノーラ・デ・メディチ
フランチェスコ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ

概要

 ヴィンチェンツォ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。

在位

 第4代マントヴァ公 1587年~1612年
 モンフェッラート公 1587年~1612年

年表

1562年9月21日(月)

マントヴァで生。

1581年3月2日(木)

ピアチェンツァでマルゲリータ・ファルネーゼと結婚。

1582年5月14日(月)

アンナ・ゴンザーガフェルディナンド2世・フォン・ハプスブルクと結婚。

1583年5月26日(木)

マルゲリータ・ファルネーゼとの結婚解消。

1583年5月

ゴンザーガ家メディチ家の間で書簡が交わされ始める。

1583年11月12日(土)

メディチ家が要求する男性能力を証明するための「試験」に同意。より具体的には処女と性交できるだけの持続力が疑問視されていた。

1584年1月6日(金)

持参金は30万スクードとされることが交渉される。

1584年1月30日(月)

メディチ家はフィレンツェ人処女との試験を中立のフェッラーラにおいて行なうことを要求。女性はその後女子修道院に入り、子供はフィレンツェ捨て子養育院に入る予定だった。

1584年

この頃、しかし、ヴィンチェンツォとチェーザレ・デステが難色を示すと、メディチ家は妥協することに同意。

1584年2月17日(金)

試験実施に両家が同意。犠牲が少なく、後で面倒がかからないようなフィレンツェ人の処女が探し始められる。

1584年2月21日(火)

秘書官で医者のマルチェッロ・ドナーティに書簡をしたためる。相手となる女性を見定めるように。もし相応しくないようであれば、秘密を守らせたまますぐにヴェネツィアへ送るように、などと書く。

1584年3月8日(木)

ヴェネツィアに到着。すぐにジューリア・デリ・アルビッツィに会うが、旅のせいで疲れていてはいけないので試験は実施されず。

1584年3月9日(金)

夜、再びジューリア・デリ・アルビッツィと会うが、贖罪の日の金曜日は禁欲しなければならないとされているので、実施されず。しかし、聖週間に入る前までには試験を終わらせる予定。

1584年3月11日(日)

夜、ジューリア・デリ・アルビッツィの滞在する屋敷に行き、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの側近ベリザーリオ・ヴィンタ大臣が別室に控える中、試験を試みるも失敗。理由は腹痛。

1584年3月14日(水)

朝、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。

夜、再び試験実施。成功する。

1584年3月15日(木)

朝、隣にジューリア・デリ・アルビッツィが横たわっているベッドの上で、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。陰茎の付け根に瘻孔があるが、性交の障害とはならないと診断される。(梅毒の初期症状)

1584年3月18日(日)

夜、試験の成功を確かなものとするため、もう1度実施される。

1584年4月29日(日)

マントヴァでエレオノーラ・デ・メディチと再婚。持参金は30万スクード。

1584年6月

花嫁のエレオノーラ・デ・メディチと共にヴェネツィアを公式訪問、大歓迎を受ける。

1609年

アメリカ探索に出資。原住民がそう言われているように精力旺盛で、そういう薬や塗り薬などがあるのかを探す目的のものであった。しかし、この探検隊が帰国する前に彼は亡くなっている。

1612年2月9日(木)

死。

外部リンク

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 けんてーごっこ
 世界帝王事典
 Famille de Carné
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 Genealogy
 Genealogy.EU
 Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Bibliotechina Grassoccia
 『Lost Girls
 『Pompeo Caccini and Euridice

マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga

生没
1564年~1618年
グリエルモ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
アルフォンソ2世・デステ

概要

 マルゲリータ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga

生没
1562年~1618年6月14日
出身
ローマ
没地
グアスタッラ
チェーザレ1世・ゴンザーガ
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ

概要

 マルゲリータ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

イザベッラ・ゴンザーガ Isabella Gonzaga

生没
1565年1月12日~1637年2月10日
出身
サッビオネータ
没地
ナポリ王国ナポリ
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ

概要

 イザベッラ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。

在位

 サッビオネータ公 1591年2月26日~1637年2月10日

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

エレオノーラ・ゴンザーガ Eleonora Gonzaga

生没
1598年~1655年
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
エレオノーラ・デ・メディチ
皇帝フェルディナンド2世

概要

 エレオノーラ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀の女性。

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Find A Grave
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家の人びと』

フランチェスキーノ・ゴンザーガ Franceschino Gonzaga

生没
1???年~15??年

概要

 フランチェスキーノ・ゴンザーガは、ローマ駐在マントヴァ侯国大使。

参考文献

 『ルネサンスの華』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年12月9日