Gonzaga

ゴンザーガ家

キアラ・ゴンザーガ Chiara Gonzaga

生没
1464年7月1日~1503年6月2日
出身
マントヴァ
没地
オーヴェルニュ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
ジルベール・ド・ブルボン
ルイーズ・ド・ブルボン
ルイ2世・ド・ブルボン
シャルル・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
ルネ・ド・ブルボン
アンヌ・ド・ブルボン
概要

 キアラ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀の女性。

年表

1464年7月1日
マントヴァにて、生。
1482年2月24日
この結婚はおじフランチェスコ・セッコによって手配され、フランスに向かう新婚夫婦をマントヴァからミラノまで見送る。
1494年12月1日
1494年12月
マントヴァに向かう。
1496年12月
フランスから帰る途上、ミラノ到着。
1496年12月22日
ミラノ出発。
1497年1月5日
1503年6月2日
フランス、オーヴェルニュにて、死。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

エレオノーラ・ゴンザーガ Eleonora Gonzaga

生没
1493年12月31日~1550年2月13日
出身
マントヴァ
没地
ウルビーノ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
ジューリア・デッラ・ローヴェレ
ジュリオ・デッラ・ローヴェレ
概要

 エレオノーラ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1493年12月31日
マントヴァにて、生(1492年10月31日)。
1509年

外部リンク

 ラインの王族
 世界帝王事典
 GeneAll.net
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

エリザベッタ・ゴンザーガ Elisabetta Gonzaga

生没
1471年2月9日~1526年1月28日
出身
マントヴァ
没地
フェッラーラ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
概要

 エリザベッタ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1471年2月9日
マントヴァにて、生。
1482年8月
重病に罹患。
1486年8月29日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと婚約。新マントヴァフランチェスコ2世・ゴンザーガとピエトロ・ベッランティが署名。持参金は2万7千ドゥカート
148?年
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロマントヴァを訪問するが、重病で会えず。
1488年2月1日
結婚行列がウルビーノへ向けマントヴァ出発。
1488年2月4日(月)
激しく雪が降る中、行列がアルジェンタに到着。
1488年2月5日(火)
ラヴェンナ到着。ポデスタ宮殿に宿泊。
1488年2月6日(水)
1488年2月7日(木)
リーミニから2マイルの地点で、ジョヴァンニ・スフォルツァに出迎えられる。
1488年2月8日(金)
ウルビーノ候国内に達し、コルボルドロ城に宿泊。
1488年2月9日(土)
ウルビーノに到着。
1488年2月11日(月)
ウルビーノのサン・フランチェスコ教会にて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと結婚(1489年2月11日、マントヴァ)。
1488年2月19日(火)
1488年2月
1493年3月
1500年1月8日
フォッソンブローネにて兄フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ウルビーノにて熱病でフアン・ランソル・イ・モンカーダが亡くなったことを知らせる。
1500年3月
聖年。ウルビーノを出発し、罪の赦しを受けるためローマに向かう。
1500年3月21日
アッシジにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 高名なる閣下、誉れある兄上様。この聖年に罪の赦しを受けるため、ウルビーノを離れローマへ向かっております。数日前私の旅行計画について伝え、今日アッシジにてあなたのお手紙を受け取りました。おそらくまだ私が出立していないものと思っていらしたのでしょう。お手紙に書かれてあることから、この旅行を取り止めるよう望んでいらっしゃることを知りましたが、そのことはとても私を悲しませ、言葉にできぬ痛みをもたらしました。なぜなら他のあらゆることのように閣下のご期待に添えるようにと望んでいますし、最も高潔な父君のように思っており、あなたのご希望に沿うことの他に考えや目的などございませんのですから。しかしながら申し上げましたように、すでに途上にあり、国外に出ています。義理の兄ファブリツィオ・コロンナと妹アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロの助けを借りて、ローマでの住まいと落ち着くのに必要なことは手配しました。4日後にはマリーノに到着しているだろうこと彼らに伝えました。ひいてはファブリツィオ・コロンナがわざわざ私の護衛を確保してくださいます。さらに、この出立と旅行について苦情が言われていますが、それ故、注意深く熟慮され、夫の熟知と合意で進められているこの巡礼を、ここまで来て私と夫の名誉を傷つけずに取り止めることはできないものと思われます。あなたが悩み、苛立つようなことはありません。順序を追って言いますと、まずマリーノに向かい、そこからアニェーゼ・ダ・モンテフェルトロが同道し、教会の聖年に罪の赦しを受けるため、お忍びでローマに行きます。どなかに会うことが必要とは思われませんし、故ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリの宮殿にローマにいる間身を寄せるつもりです。よい住まいでまさしく求めるところであり、コロンナ家の手近にあります。マリーノにすぐに戻る心づもりで、そちらの方で長く滞在します。ですので、この旅行について閣下がこれ以上不安がられることはありませんし、不愉快に思われることもありません。しかしこれらの理由は、ただ旅を続けるというだけでなく、旅を始めるのだということを促すのに効果的です。もしまだ出発していなかったら断念していたかもしれませんが、それは巡礼中に何か良くないことが起こるかもしれないという恐れからではなく、いつでも私がそうしたいと思っているように、閣下のお手紙に書かれた望みに応えたいがためです。けれども、こうして私がここにいて、この手紙をすぐにお受け取りになられる時、私の動機を閣下が支持されるでしょうことを信じております。どうかローマ宛てのお手紙をお寄こしになって、不愉快に感じてはいらっしゃらないと安心させてください。そうしてくださいましたなら、安らかに落ち着いて罪の赦しを受けることができるでしょう。そうしてくださいませんことには、大きな不安と悲しみに苦しんでしまいます。閣下の末妹として、慈悲深い博愛にすがります。
1500年4月19日
復活祭。この日までローマに滞在。
1526年1月28日
フェッラーラにて、死。

別表記

 エリザベッタ・ゴンザガ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

エルコーレ・ゴンザーガ Ercole Gonzaga

生没
1505年11月23日~1563年3月2日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
概要

 エルコーレ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1527年5月3日~
     任命した教皇:クレメンス7世

年表

1540年6月28日
マントヴァ公・モンフェッラート候フェデリーコ2世・ゴンザーガ死(1500年~:マントヴァ候・公在位1519年~1530年・1530年~:モンフェッラート候在位1536年~)——フランチェスコ3世・ゴンザーガ(1533年~)、マントヴァ公・モンフェッラート候となるが、幼少の公・候の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)と弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガ(1505年~1563年:在位1527年~1563年)が両領国を支配。
1550年2月21日
1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ死(1533年~:マントヴァ公・モンフェッラート候在位1540年~)——グリエルモ・ゴンザーガ(1538年~1587年)、マントヴァ公・モンフェッラート候位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。

外部リンク

 資料室
 Catholic Encyclopedia
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

フェデリーコ1世・ゴンザーガ Federico I Gonzaga

生没
1441年~1484年
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
概要

 フェデリーコ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 第3代マントヴァ候 1478年~1484年

年表

1478年6月11日
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ死。長子フェデリーコ1世・ゴンザーガ(1442年~1484年)、マントヴァ候となる(在位1478年~1484年)。
1484年7月15日
フェデリーコ1世・ゴンザーガ死。子フランチェスコ2世・ゴンザーガ(1466年~1519年)、マントヴァ侯となる(在位1484年~1519年)。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フェデリーコ2世・ゴンザーガ Federico II Gonzaga

生没
1500年5月17日~1540年8月28日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
マルゲリータ・パレオロガ
イザベッラ・ボスケッティ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
フランチェスコ3世・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
イザベッラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
フェデリゴ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ
概要

 フェデリーコ2世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 教会の旗手 1510年9月30日~?
 第5代マントヴァ候 1519年~1530年
 第1代マントヴァ公 1530年~1540年
 モンフェッラート候 1536年~1540年
  先代:ジャン・ジョルジョ・パレオロゴ
  次代:フランチェスコ3世・ゴンザーガ

年表

1519年3月29日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ死。——フェデリーコ2世・ゴンザーガ、マントヴァ候となる(在位1519年~1540年)。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1527年12月7日
フェデリーコ2世・ゴンザーガオデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。
1529年9月
フェデリーコ2世・ゴンザーガカール5世よりその軍の指揮官に任用される。
1529年11月末
フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ボローニャに着きカール5世から歓迎を受ける。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世カール5世フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァCarlo II (il Buono)フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1530年3月25日
マントヴァに着いたカール5世は、マントヴァを公国に、フェデリーコ2世・ゴンザーガをその公に昇格(在位1530年~1540年)。1530年4月8日、大聖堂前の壮麗な式典でカール5世は、これを宣言。
1530年8月6日
マラテスタ・バリオーニ、フィリベルト・デ・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガに使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。
1533年2月24日
クレメンス7世カール5世フェルディナンドフランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステフェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1536年11月29日
マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)の叔父でモンフェッラート侯ジョヴァンニ・ジョルジョ・パレオロゴ(?~在位1530年~)が後継者を残さず死亡した(1533年)ため、その領土を1536年11月3日にカール5世の裁定により妻に封与されたばかりのマントヴァフェデリーコ2世・ゴンザーガ、同じくカール5世によりモンフェッラート侯位の継承を承認される。
ゴンザーガ家と同様モンフェッラートの継承権を主張して争ってきたサヴォイア公Carlo II (il Buono)カール5世のこの裁定・承認に強い不満を抱きながら沈黙。
1537年4月20日
パウルス3世マントヴァでの公会議開催にあたって警護の兵1千6百を教皇の負担で整えるようにとの公フェデリーコ2世・ゴンザーガの要求を拒否し同地での公会議開催を延期することを、枢機卿会議で決める。
1540年6月28日
マントヴァ公・モンフェッラート候フェデリーコ2世・ゴンザーガ死(1500年~:マントヴァ候・公在位1519年~1530年・1530年~:モンフェッラート候在位1536年~)——フランチェスコ3世・ゴンザーガ(1533年~)、マントヴァ公・モンフェッラート候となるが、幼少の公・候の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)と弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガ(1505年~1563年:在位1527年~1563年)が両領国を支配。

肖像

 アテナイの学堂

外部リンク

 ウィキペディア
 エステ大辞典
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フェッランテ・ゴンザーガ Ferrante Gonzaga

生没
1507年1月28日~1557年11月15日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
エリザベッタ・デ・カプア
チェーザレ1世・ゴンザーガ
アンドレア・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
概要

 フェッランテ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 グアスタッラ伯 1539年~1557年
 ミラノ総督 1546年~1554年

年表

1530年8月6日
マラテスタ・バリオーニ、フィリベルト・デ・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガに使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。
1546年3月31日
アルフォンソ3世・ダヴァーロス死。代わってカール5世のシチリア総督・グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ(シチリア総督在位1536年~:グアスタッラ伯1539年~)、ミラノ総督となる(在位~1554年2月)。
1546年9月13日
カール5世ミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの指名する委員にFrancesco Burlamacchiの審問権を与えると決定。
これによりFrancesco Burlamacchiミラノに護送され、1546年10月13日よりNiccolò Belloniの審問を受ける。
1546年末
ジェノヴァシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年7月21日
カール5世ミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの派遣した軍及び同ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendoza(1503年~1575年:在位1547年~)の派遣した軍、ナポリに入り、Santa Maria Novara教会などを占拠。これに対し反乱派市民・貴族、果敢に抵抗するが、カール5世の服従命令を伝えられて威勢を失い、鎮静。
1547年9月10日
フェッランテ・ゴンザーガカール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる(1503年~:パルマ・ピアチェンツァ公1545年~)。
1547年9月12日
フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。
1547年9月16日
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1548年2月14日
この日?、Francesco Burlamacchiフェッランテ・ゴンザーガの承認の下、ミラノで斬首される(1498年~)。(但し、1548年9月14日斬首とする異説あり)。
1548年8月初旬
アンリ2世トリノに入る。フェッランテ・ゴンザーガの暗殺とそれを機とするミラノの騒乱を狙っての行動を噂され、警戒される。
1551年6月12日

別表記

 フェランテ・ゴンツァーガ、フェルランテ

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

フランチェスコ1世・ゴンザーガ Francesco I Gonzaga


生没
1366年~1407年3月7日
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
アルダ・デステ
マルゲリータ・マラテスタ
アニェーゼ・ヴィスコンティ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
概要

 フランチェスコ1世・ゴンザーガは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 マントヴァ領主 1382年~1407年

埋葬地

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』

フランチェスコ・ゴンザーガ Francesco Gonzaga

生没
1444年頃~1483年10月21日
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要

 フランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1461年12月18日~1483年10月21日
     任命した教皇:ピウス2世

肖像

 フランチェスコ・ゴンザーガの肖像

埋葬地

外部リンク

 CANTOS XLV
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フランチェスコ3世・ゴンザーガ Francesco III Gonzaga

生没
1533年3月10日~1550年2月21日
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マルゲリータ・パレオロガ
カタリーナ・フォン・ハプスブルク
概要

 フランチェスコ3世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 第2代マントヴァ公 1540年~1550年
 モンフェッラート侯 1540年~1550年
  先代:フェデリーコ2世・ゴンザーガ
  次代:グリエルモ・ゴンザーガ

年表

1540年6月28日
マントヴァ公・モンフェッラート候フェデリーコ2世・ゴンザーガ死(1500年~:マントヴァ候・公在位1519年~1530年・1530年~:モンフェッラート候在位1536年~)——フランチェスコ3世・ゴンザーガ(1533年~)、マントヴァ公・モンフェッラート候となるが、幼少の公・候の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)と弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガ(1505年~1563年:在位1527年~1563年)が両領国を支配。
1543年6月12日
フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1549年10月27日
フランチェスコ3世・ゴンザーガ、母と叔父の後見(1540年~)を脱し、フェルディナンドの次女カタリーナ・フォン・ハプスブルク(1533年~1572年)と結婚。
1550年2月21日
1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ死(1533年~:マントヴァ公・モンフェッラート候在位1540年~)——グリエルモ・ゴンザーガ(1538年~1587年)、マントヴァ公・モンフェッラート候位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』

フランチェスコ2世・ゴンザーガ Francesco II Gonzaga

生没
1466年8月10日~1519年3月29日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
アニェーゼ・ヴィスコンティ
イザベッラ・デステ
エレオノーラ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
フェッランテ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
テオドーラ・ゴンザーガ
概要

 フランチェスコ2世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 第4代マントヴァ侯 1484年~1519年

年表

1466年8月10日
生。
1480年
6歳のイザベッラ・デステと婚約。
1484年7月15日
フェデリーコ1世・ゴンザーガ死。フランチェスコ2世・ゴンザーガ、マントヴァ侯となる。
1490年2月11日
マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、10年前の婚約を実現し、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステの長女イザベッラ・デステフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。
1490年2月11日
イザベッラ・デステとフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。
1491年6月20日
1493年4月25日
アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステマントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1495年
対フランス同盟総司令官になる。
1495年7月6日
フォルノーヴォの戦い:帰国途上のシャルル8世軍をフォルノーヴォでフランチェスコ2世・ゴンザーガ指揮の対フランス神聖同盟軍が攻撃。
1495年7月19日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ率いるヴェネツィア軍、ノヴァーラ城郭そばに野営。
1497年6月23日
ヴェネツィア共和国元老院は、フランチェスコ2世・ゴンザーガの総司令官解任を決定(1497年4月、1499年)。
1497年9月10日(日)
ブレシアにて、カテリーナ・コルナーロに敬意を表した馬上槍試合に出場。
1498年6月24日
ルドヴィーコ・イル・モーロとの契約書に署名し、帝国司令官として年4万ドゥカートで雇われる。
1499年10月2日
パヴィアに到着したフランス王ルイ12世へ戦勝の祝いのため伺候。
1499年10月6日
ルイ12世ミラノ入城に随行。
1501年12月9日
この日付のポルツァーノ発のマッテオ・マルティーノ・ダ・ブセットからの手紙を受け取る。教皇がフランス及びヴェネツィアと密かに同盟を結び、エステ家の祝宴の折に、チェーザレ・ボルジアの軍隊でもってフェッラーラに襲い掛かって国の主だった者たちを一網打尽にし、国土を占領し、財産を横領し同盟者間で山分けするという計画が立てられている、という内容。
1503年8月初旬~9月初旬
ルイ12世軍に参加し、フィレンツェを経由してナポリに向かう。
1503年9月22日
イゾラ・ファルネーゼにて、妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

 淑女様、親愛なる妻へ。アレクサンデル6世の最期の事情に通じていらっしゃるかもしれませんので、下記の事項について述べます。教皇が病に伏した時、何を考えているか分からない者には彼が彷徨っているのだと思うような話し方で話し始めました。しかし、自分が何を言っているのか、完璧に自覚があったのです。「私は来る、その通り、少し待ってくれ」というのがその言葉でした。秘密を知る者は、インノケンティウス8世死後のコンクラーヴェで、彼が悪魔と契約を交わし、魂の代価と引き換えに教皇位を購入したのだという。その契約には、12年間聖座を占めることを認められており、これを4日間延長したのです。彼の部屋で見られたことのある7人の悪魔に、その時魂を売り渡したのだと確信する者たちがいます。死後直ちに腐り始め、火の上のやかんのように口から泡を吹き出し、それは地上にある間続いたのです。死体は膨張して、人の形を失いました。長さと同じほどの横幅でした。簡素な儀式と共に墓に運ばれていきましたが、運搬人が寝台から引きずり出し、誰も触れたがらなかったので、足に紐を結び付けて埋葬場まで引きずったのです。惨めな埋葬で、あれに比べれば、マントヴァの不具の矮人の妻の方がまだ厳かというほどでした。彼についての中傷的な風刺詩が、毎日発行されています。
1505年5月4日
フィレンツェは、マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく候のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。
この頃?、ロベルト・アッチャイウオリ(1467年~1547年)をナポリのゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステマントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年4月15日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ、ヴェネツィアを攻撃し、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に撃退される。
1509年8月8日
ヴェネツィア共和国軍の奇襲で捕らわれる。
1512年6月下旬
ルイ12世軍の敗退で孤立したアルフォンソ1世・デステ、姉イザベッラ・デステの夫フランチェスコ2世・ゴンザーガや自分が捕らえていたファブリツィオ・コロンナらの仲介でユリウス2世から自身及び領国の安全を保証されローマに向かう。
1517年1月半ば~2月初旬
逃亡先マントヴァの候フランチェスコ2世・ゴンザーガから資金援助を得、前年の各協定によって失職した各国の兵士を集めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、旧領地を奪還すべく小軍を率いてウルビーノに向かう。新ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの不在を利して、1517年2月5/6日ウルビーノに入城し制圧。
ロレンツォ・デ・メディチも急ぎ大軍を擁してウルビーノに向かい、両軍の戦闘始まる。
1519年3月29日
死(1519年2月20日)。

持病

 梅毒

埋葬地

別表記

 ジャンフランチェスコ2世、ダ・ゴンツァーガ

外部リンク

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 Genealogy.EU
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 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 THE BORGIAS wiki
 Treccani

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ 
Gianfrancesco I Gonzaga

生没
1395年6月1日~1444年9月25日
没地
マントヴァ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・マラテスタ
パオラ・マラテスタ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
カルロ・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ジャンルーチド・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
レオネッラ・ゴンザーガ
概要

 ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 マントヴァ領主 1407年~1433年
 教会の旗手 1412年~?
 ヴェネツィア軍総指揮官 1432年~1438年
  先任:フランチェスコ・ブッソーネ
 第1代マントヴァ候 1433年~1444年

年表

1426年7月
ヴェネツィアと同盟を結び、ヴェネツィア・フィレンツェ陣営に加わる。
1432年5月5日
フランチェスコ・ブッソーネが、ヴェネツィアのサン・マルコ広場で斬首される。
後任のヴェネツィア軍総指揮官に就任。
1432年
神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクよりマントヴァ候位を約束される。
1433年9月9日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルクが、ローマからの帰途上マントヴァに入る。
1433年9月22日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク自身から、大聖堂で候位を受け、盛大な祝賀行事を繰り広げる。
1437年9月20日
打ち続く敗戦でヴェネツィアの各層に総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガの忠誠を疑う声、高まり、Senato(元老院)でその解任を求める声が出、フィレンツェフランチェスコ1世・スフォルツァの移籍を求める。
1438年7月3日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、契約期間満了と共にヴェネツィア軍総指揮官を辞任(在位1532年~)。間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結んでその配下に入り、ヴェネツィアを攻撃。
ヴェネツィアは後任の軍総指揮官に、1437年以降フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍との戦闘で成果を挙げていた傭兵隊長ガッタメラータ(1370年~1443年)をあてる(在位~1443年)。
1444年9月25日
マントヴァにて、死(1444年9月23日、1444年10月)。

埋葬地

別表記

 ジョヴァン・フランチェスコ・ゴンツァーガ、ジョヴァンニ・フランチェスコ

外部リンク

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参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンス夜話』

ジョヴァンニ・ゴンザーガ Giovanni Gonzaga

生没
1474年~1525年9月23日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
フェデリーコ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
ジネヴラ・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
概要

 ジョヴァンニ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ヴェスコヴァートの君主
  次代:アレッサンドロ・ゴンザーガ

年表

1474年
マントヴァにて生。
1491年6月20日
1519年6月28日
フェッラーラにて、甥のマントヴァフェデリーコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 葬儀は行われず、教区教会でミサが行われただけで、明日ここを出立するということを申せば、閣下は驚かれるに違いありません。公爵閣下アルフォンソ1世・デステが伴侶ルクレツィア・ボルジアのご遺体をお墓まで運ぶのに付き添われました。コルプス・ドミニ修道院のお母様エレオノーラ・ダラゴーナが安置されているのと同じ墓所に埋葬されました。全市が深い悲しみに包まれ、公爵閣下も心の底からの悲嘆をお見せになりました。10年あまりも馬巣織りの服を纏い、最後の2年間毎日のように告解なさり、毎月3回か4回は聖体を受けたという、立派な行いが報じられました。閣下に忠実な僕より。
1525年9月23日
死。(1523年)

外部リンク

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 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

グリエルモ・ゴンザーガ Gulielmo Gonzaga

生没
1538年4月24日~1587年4月14日
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マルゲリータ・パレオロガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
アンナ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
概要

 グリエルモ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 第3代マントヴァ公 1550年~1587年
 モンフェッラート候 1550年~1575年
  先代:フランチェスコ3世・ゴンザーガ
 モンフェッラート公 1575年~1587年
  次代:ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ

年表

1550年2月21日
1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ死(1533年~:マントヴァ公・モンフェッラート候在位1540年~)——グリエルモ・ゴンザーガ(1538年~1587年)、マントヴァ公・モンフェッラート候位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。

チェーザレ・ボルジア数

 子マルゲリータ・ゴンザーガ→夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 グリエルモ1世、Guglielmo

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Bibliotechina Grassoccia
 『Lost Girls

ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ Ludovico III Gonzaga

生没
1412年6月5日~1478年6月12日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
カテリーナ・ゴンザーガ
ガブリエッラ・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
パオラ・ビアンカ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
概要

 ルドヴィーコ3世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 第2代マントヴァ候 1444年~1478年

年表

1412年6月5日
生(1414年)。
1444年10月
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、死。ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、マントヴァ候となる。
1448年春~夏
フランチェスコ1世・スフォルツァは自分たちの軍資金を用いてヴェネツィアを撃退した後は自分たちを配下に置こうとしているとの不信を拭いきれないミラノアンブロジアーナ共和国、ヴェネツィアに繰り返し和議を申し入れるが、ヴェネツィアは巧みにこれを拒絶。
のみならずヴェネツィアは、マントヴァ候ルドヴィーコ3世・ゴンザーガの援軍などを加えて増強した軍をもってミラノ領に未曾有の大攻勢をかけ、フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍と各地で激戦を続ける。
1451年12月
フィレンツェ、フランチェスコ1世・スフォルツァ、ジェノヴァ及びマントヴァ候ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、同盟を締結。さらにフランス王シャルル7世に、対ヴェネツィア戦終結後はルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還を支援することなどを挙げて同盟加入を働きかける。
1472年12月25日
日没から、ミラノスフォルツァ城にて、降誕祭を祝う。
1473年1月6日
パヴィアにて、娘ガブリエッラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。11歳の孫コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚初夜に反対している娘ガブリエッラ・ゴンザーガに対し、証人を立てて真似事で済ませるよう提案。
パヴィアにて、チッコ・シモネッタ宛てに手紙をしたためる。孫コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚について。
1473年1月23日
マントヴァにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。1473年1月18日付のジローラモ・リアリオカテリーナ・スフォルツァの結婚についての手紙への返答。
1478年4月20日
次男フランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿宛てに手紙をしたためる。子チェチーリア・ゴンザーガの死を知らせ、もともと虚弱な体質で発熱のため病床にあったチェチーリア・ゴンザーガに医師が施した瀉血の切開痕に十分な消毒がなされなかったことが原因で化膿し、ついには右手の壊死から死に至った経緯。
1478年5月
マントヴァでペスト流行のため、ゴイト城へ避難。
1478年6月12日
ゴイト城にて、おそらく胸膜炎のため死(1478年6月11日)。

肖像

注文

別表記

 ルドヴィコ2世・ゴンツァガ、マントヴァ公ロドヴィーコ、Luigi III Gonzaga

外部リンク

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 Condottieri di ventura
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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参考文献

 『イタリア史』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga

生没
1458年~1511年1月19日
出身
ガッツオーロ
没地
レッジョーロ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要

 ルドヴィーコ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者。

在位

 マントヴァ司教 1483年10月27日~1511年1月9日(保有していない)

年表

1458年
ガッツオーロに生(1460年)。
1483年10月27日
マントヴァ司教。
1488年2月19日
彼のローマの代理人バルトロメオ・エルバ宛てのこの日付の手紙をしたためる。自分の代わりに、洗礼時の代父としてカルロ・カナーレを選んでいる。
1511年1月19日
レッジョーロに没。この時マントヴァ司教の地位にはない。

肖像

外部リンク

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参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

リドルフォ・ゴンザーガ Ridolfo Gonzaga

生没
1452年4月18日~1495年7月6日
出身
マントヴァ
没地
フォルノーヴォ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
アントーニア・マラテスタ
カテリーナ・ピコ
パオラ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
アロイジオ・ゴンザーガ
エットーレ・ゴンザーガ
ドミティッラ・ゴンザーガ
概要

 リドルフォ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1491年1月17日(月)

肖像

埋葬地

別表記

 リドルフォ・ダ・ゴンツァーガ、ロドルフォ、Rodolfo Gonzaga

外部リンク

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参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

パオラ・ゴンザーガ Paola Gonzaga

生没
1486年~1519年5月30日
没地
ミラノ
リドルフォ・ゴンザーガ
カテリーナ・ピコ
ジャンニッコロ・トリヴルツィオ
イッポーリタ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ビアンカ・ルチア・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
概要

 パオラ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1501年

外部リンク

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ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ Vincenzo Gonzaga

生没
1562年9月21日~1612年2月9日
出身
マントヴァ
グリエルモ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
マルゲリータ・ファルネーゼ
エレオノーラ・デ・メディチ
フランチェスコ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
概要

 ヴィンチェンツォ・ゴンザーガは、16世紀~17世紀のイタリアの男性。

在位

 第4代マントヴァ公 1587年~1612年
  次代:フランチェスコ・ゴンザーガ
 モンフェッラート公 1587年~1612年
  先代:グリエルモ・ゴンザーガ
  次代:フランチェスコ・ゴンザーガ

年表

1562年9月21日(月)
マントヴァで生。
1581年3月2日(木)
ピアチェンツァでマルゲリータ・ファルネーゼと結婚。
1582年5月14日(月)
1583年5月26日(木)
1583年5月
ゴンザーガ家メディチ家の間で書簡が交わされ始める。
1583年11月12日(土)
メディチ家が要求する男性能力を証明するための「試験」に同意。より具体的には処女と性交できるだけの持続力が疑問視されていた。
1584年1月6日(金)
持参金は30万スクードとされることが交渉される。
1584年1月30日(月)
メディチ家はフィレンツェ人処女との試験を中立のフェッラーラにおいて行なうことを要求。女性はその後女子修道院に入り、子供はフィレンツェ捨て子養育院に入る予定だった。
1584年
この頃、しかし、ヴィンチェンツォとチェーザレ・デステが難色を示すと、メディチ家は妥協することに同意。
1584年2月17日(金)
試験実施に両家が同意。犠牲が少なく、後で面倒がかからないようなフィレンツェ人の処女が探し始められる。
1584年2月21日(火)
秘書官で医者のマルチェッロ・ドナーティに書簡をしたためる。相手となる女性を見定めるように。もし相応しくないようであれば、秘密を守らせたまますぐにヴェネツィアへ送るように、などと書く。
1584年3月8日(木)
ヴェネツィアに到着。すぐにジューリア・デリ・アルビッツィに会うが、旅のせいで疲れていてはいけないので試験は実施されず。
1584年3月9日(金)
夜、再びジューリア・デリ・アルビッツィと会うが、贖罪の日の金曜日は禁欲しなければならないとされているので、実施されず。しかし、聖週間に入る前までには試験を終わらせる予定。
1584年3月11日(日)
夜、ジューリア・デリ・アルビッツィの滞在する屋敷に行き、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの側近ベリザーリオ・ヴィンタ大臣が別室に控える中、試験を試みるも失敗。理由は腹痛。
1584年3月14日(水)
朝、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。
夜、再び試験実施。成功する。
1584年3月15日(木)
朝、隣にジューリア・デリ・アルビッツィが横たわっているベッドの上で、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。陰茎の付け根に瘻孔があるが、性交の障害とはならないと診断される。(梅毒の初期症状)
1584年3月18日(日)
夜、試験の成功を確かなものとするため、もう1度実施される。
1584年4月29日(日)
マントヴァでエレオノーラ・デ・メディチと再婚。持参金は30万スクード。
1584年6月
花嫁のエレオノーラ・デ・メディチと共にヴェネツィアを公式訪問、大歓迎を受ける。
1609年
アメリカ探索に出資。原住民がそう言われているように精力旺盛で、そういう薬や塗り薬などがあるのかを探す目的のものであった。しかし、この探検隊が帰国する前に彼は亡くなっている。
1612年2月9日(木)
死。

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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 Treccani.it

参考文献

 『愛の年代記』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Bibliotechina Grassoccia
 『Lost Girls
 『Pompeo Caccini and Euridice

カミッラ・ゴンザーガ Camilla Gonzaga

ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
カテリーナ・トレッリ
アレッサンドロ・ダ・ポルト
概要

 カミッラ・ゴンザーガは、15~16世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

イッポーリタ・ゴンザーガ
Ippolita Gonzaga

生没
1510年頃~
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
ガレオット2世・ピコ
ルドヴィーコ2世・ピコ
概要

 イッポーリタ・ゴンザーガは、16世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Wikipedia

イッポーリタ・ゴンザーガ Ippolita Gonzaga

生没
1503年11月13日~1570年3月16日
没地
マントヴァ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
概要

 イッポーリタ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

カミッラ・ゴンザーガ Camilla Gonzaga

生没
1500年~1585年
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
ラウラ・ベンティヴォーリオ
ピエル・マリーア3世・デ・ロッシ
概要

 カミッラ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1523年
1585年
死(1572年)。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Palio di San Secondo
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アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga

生没
1427年~1466年1月16日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ
概要

 アレッサンドロ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ Giampietro I Gonzaga

生没
1469年~1515年11月18日
没地
ノヴェッラーラ
フランチェスコ・ゴンザーガ
コンスタンツァ・ストロッツィ
カテリーナ・トレッリ
アレッサンドロ1世・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
概要

 ジャンピエトロ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

在位

 ノヴェッラーラの君主

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
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パオラ・ゴンザーガ Paola Gonzaga

生没
1463年~1497年
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要

 パオラ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

肖像

別表記

 パオリーナ、Paolina

外部リンク

 ラインの王族
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンスの華』

マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga

生没
1564年~1618年
グリエルモ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
アルフォンソ2世・デステ
概要

 マルゲリータ・ゴンザーガは、16世紀~17世紀のイタリアの女性。

チェーザレ・ボルジア数

 夫アルフォンソ2世・デステ→父エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 世界帝王事典
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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

アレッサンドロ1世・ゴンザーガ Alessandro I Gonzaga

生没
1490年頃~1530年
没地
ナポリ
ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
カテリーナ・トレッリ
コンスタンツァ・ディ・コレッジョ
アルフォンソ・ゴンザーガ
概要

 アレッサンドロ1世・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 第2代ノヴェッラーラ伯

年表

1515年
ノヴェッラーラ、コルテヌオーヴァ、バニョーロ伯として、兄弟と共に叙任される。ヴェネツィア貴族社会に再び地歩を固める。
1530年
イタリアのスペイン騎兵将軍。

別表記

 アレッサンドロ・ディ・ノヴェッラーラ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
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 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ Gianfrancesco Gonzaga

生没
1446年10月4日~1496年8月28日
出身
マントヴァ
没地
ボッツォーロ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
アントーニア・デル・バルツォ
エレオノーラ・ゴンザーガ
フェデリーコ・ゴンザーガ
ピッロ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
フェーボ・ゴンザーガ
概要

 ジャンフランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 サッビオネータ伯 1479年~1496年
 ボッツォーロ領主 1479年~1496年

年表

1446年10月4日
マントヴァにて、生(1443年)。
1479年
アントーニア・デル・バルツォと結婚。
1496年8月28日
ボッツォーロにて、死(1496年8月27日)。

肖像

外部リンク

 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
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 JDA's Family Tree
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フェーボ・ゴンザーガ Febo Gonzaga

生没
1462年頃~1504年5月12日
没地
リヴァローロ・マントヴァーノ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
マルゲリータ・デステ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
イッポーリト・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
概要

 フェーボ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、庶子、傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani
 Wikipedia

マッダレーナ・ゴンザーガ Maddalena Gonzaga

生没
1472年~1490年8月8日
出身
マントヴァ
没地
ペーザロ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
概要

 マッダレーナ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1472年
1489年10月27日
1490年8月8日
ペーザロにて、出産時に死(1490年1月8日)。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

フランチェスコ・カウッツィ・ゴンザーガ
Francesco Cauzzi Gonzaga

イザベッラ・ボスケッティ
在位

 カルヴィザーノ伯

別表記

 フランチェスコ・カルヴィザーノ、Cauzzio

外部リンク

 SAN CESARIO.NET

参考文献

 『ルネサンスの華』

フランチェスキーノ・ゴンザーガ Franceschino Gonzaga

参考文献

 『ルネサンスの華』

テオドーラ・ゴンザーガ Teodora Gonzaga

生没
~1519年
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
エネア・フルラーノ・ダ・カヴリアーナ
外部リンク

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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

バルバーラ・ゴンザーガ Barbara Gonzaga

生没
1482年頃~1558年
没地
ヴィアダーナ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
アントーニア・デル・バルツォ
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ
ヤコポ・マリーア・スタンパ?
ロベルト・アンブロージオ・サンセヴェリーノ
概要

 バルバーラ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

別表記

 バルバラ

外部リンク

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リヴィア・ゴンザーガ Livia Gonzaga

生没
1501年~1508年
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・デステ
概要

 リヴィア・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

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参考文献

 『ルネサンスの華』

エリザベッタ・ゴンザーガ Elisabetta Gonzaga

生没
~1432年7月31日
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
アルダ・デステ
カルロ・マラテスタ
概要

 エリザベッタ・ゴンザーガは、14世紀~15世紀のイタリアの女性。

年表

1386年

外部リンク

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アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga

生没
1520年~1580年
没地
マントヴァ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
イザベッラ・ボスケッティ
概要

 アレッサンドロ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、マントヴァ公の国務顧問官。フランドルでスペイン軍に従軍。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネサンスの華』

カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga

生没
1472年2月5日~
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
オッタヴィアーノ・ダ・モンテヴェッキオ
概要

 カテリーナ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性。

容姿

 白い肌、青い目。

年表

1494年6月24日
ルクレツィア・ボルジアたちが滞在するペーザロに到着。

別表記

 Caterina Gonzaga de MontevecchioMontevegio

外部リンク

 the borgias ITALIA
 the borgias ITALIA

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

アンナ・ゴンザーガ Anna Gonzaga

生没
1566年1月17/27日~1621年8月3日
出身
マントヴァ
没地
インスブルック
グリエルモ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ダズブルゴ
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク
概要

 アンナ・ゴンザーガは、16世紀~17世紀の女性。

年表

1582年5月14日

別表記

 Anna Caterina

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
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参考文献

 『愛の年代記』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アロイジオ・ゴンザーガ Aloisio Gonzaga

生没
1494年4月20日~1549年7月19日
出身
ルッツァーラ
没地
カステル・ゴッフレード
リドルフォ・ゴンザーガ
カテリーナ・ピコ
カテリーナ・アングィッソーラ
概要

 アロイジオ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

別表記

 ルイジ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ガブリエッラ・ゴンザーガ Gabriella Gonzaga

生没
14??年~
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
ジベルト・ダ・コッレッジオ
コッラード・フォリアーニ
ルドヴィーコ・フォリアーニ
コスタンツァ・フォリアーニ
概要

 ガブリエッラ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。

年表

1472年11月29日
1472年12月
パヴィアにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。娘コスタンツァ・フォリアーニジローラモ・リアリオの結婚に持参金は出せない。
1472年
ジローラモ・リアリオに11歳の娘コスタンツァ・フォリアーニとの初夜を要求され、成人である14歳まで待つよう拒否。

外部リンク

 Wikipedia

カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga

生没
1434年頃~1495年頃
出身
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
フランチェスコ・セッコ
パオラ・セッコ
外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ガレアッツォ・ゴンザーガ Galeazzo Gonzaga

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

イザベッラ・ゴンザーガ Isabella Gonzaga

生没
1565年1月12日~1637年2月10日
出身
サッビオネータ
没地
ナポリ
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ
概要

 イザベッラ・ゴンザーガは、16世紀~17世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga

生没
1418年~1439年
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
レオネッロ・デステ
ニッコロ・デステ
概要

 マルゲリータ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1435年

外部リンク

 Genealogy.EU
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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga

生没
1562年~1618年6月14日
出身
ローマ
没地
グアスタッラ
チェーザレ・ゴンザーガ
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ
概要

 マルゲリータ・ゴンザーガは、16世紀~17世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

アロイジア・ゴンザーガ Aloisia Gonzaga

生没
1458年~1542年
アントーニオ・ゴンザーガ
クリストフォロ・カスティリオーネ
バルダッサーレ・カスティリオーネ
ジローラモ・カスティリオーネ
フランチェスカ・カスティリオーネ
ポリッセーナ・カスティリオーネ
アンナ・カスティリオーネ
概要

 アロイジア・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

別表記

 Luigia

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの華』

ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ Gianfrancesco Gonzaga

生没
1488年2月2日~1524年12月18日
出身
ルッツァーラ
リドルフォ・ゴンザーガ
カテリーナ・ピコ
ラウラ・パッラヴィチーニ
マッシミリアーノ・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
アンジェラ・ゴンザーガ
イッポリータ・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
概要

 ジャンフランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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ロドモンテ・ゴンザーガ Rodomonte Gonzaga

生没
1500年8月16日~1532年12月2日
出身
マントヴァ
没地
ヴィコヴァーロ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ
概要

 ロドモンテ・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

別表記

 Ludovico

外部リンク

 Condottieri di ventura
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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga

生没
1480年?~1540年6月
出身
ボッツォーロ
没地
サッビオネータ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
概要

 ルドヴィーコ・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura
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 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

チェーザレ1世・ゴンザーガ Cesare I Gonzaga

生没
1530年~1575年2月15日
没地
グアスタッラ
フェッランテ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
概要

 チェーザレ1世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

在位

 アマルフィ公 15??年~1575年
  先代:アルフォンソ2世・トデスキーニ
  次代:フェッランテ2世・ゴンザーガ

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

エレオノーラ・ゴンザーガ Eleonora Gonzaga

生没
1598年~1655年
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
エレオノーラ・デ・メディチ
皇帝フェルディナンド2世
概要

 エレオノーラ・ゴンザーガは、16世紀~17世紀の女性。

外部リンク

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参考文献

 『メディチ家の人びと』

ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ Gian Vincenzo Gonzaga

生没
1540年9月8日~1591年12月23日
出身
パレルモ
没地
ローマ
フェッランテ・ゴンザーガ
概要

 ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1578年2月21日~
     任命した教皇:グレゴリウス13世

外部リンク

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 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献

 『Lost Girls

シジスモンド・ゴンザーガ Sigismondo Gonzaga

生没
1469年~1525年10月3日
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
概要

 シジスモンド・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1505年12月1日~
     任命した教皇:ユリウス2世

外部リンク

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 The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ Vespasiano I Gonzaga

生没
1531年12月6日~1591年2月26日
出身
フォンディ
没地
サッビオネータ
ロドモンテ・ゴンザーガ
ディアナ・デ・カルドーナ
アンナ・デ・アラゴン
マルゲリータ・ゴンザーガ
イザベッラ・ゴンザーガ
概要

 ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

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 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ Ludovico II Gonzaga

生没
1334年~1382年10月4日
グイド・ゴンザーガ
ベアトリクス・フォン・バル
アルダ・デステ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
フェーボ・ゴンザーガ
概要

 ルドヴィーコ2世・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。

在位

 マントヴァ領主 1369年~1382年
  先代:グイド・ゴンザーガ

埋葬地

別表記

 ルイジ2世

外部リンク

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 Famille de Carné
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参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga

生没
1539年9月18日~1595年10月23日
出身
マントヴァ
没地
ネスル
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
マルゲリータ・パレオロガ
概要

 ルドヴィーコ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 ウィキペディア
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 Treccani.it

チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga

生没
1426年~1451年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
概要

 チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

教養

 きょうだいたちと共に、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの学校カ・ゾイオーサで教育され、深い人文学的教養を身に着ける。幼い頃からラテン語とギリシャ語に秀で、優れた学識と知性の故に、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレが最も目をかけたのが兄アレッサンドロ・ゴンザーガとチェチーリア・ゴンザーガであったと伝えられる。
 チェチーリアが学校の同窓生を含む人文主義者たちや家族と交わした書簡によれば、彼女が人文主義的な学究の生活を望んでいたことが分かる。

容姿

 並外れた美貌。

年表

1426年
マントヴァにて、生(1425年)。
1431年
パオラ・マラテスタがチェチーリア・ゴンザーガのために文法書を購入。
1432年
パオラ・マラテスタが8歳(7歳)のチェチーリア・ゴンザーガのためにギリシャ語聖書を購入(1434年)。
アンブロージョ・トラヴェルサーリが『ホドエポリコン』の中で8歳頃の少女がギリシア語の読み書きが堪能であることを述べている。
1435年以降
1439年
マントヴァウルビーノの間で手紙のやり取りが頻繁になる。
14??年
結婚話を拒み始めると、父親の意向を受けたマントヴァ司教マッテオ・ボニペルティや法曹家らに説得される。しかし翻意せず。
1442年頃
オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロは、婚約者の拒否に感情を害されたのか、この頃には実質的には婚約を破棄し、エステ家との間の結婚交渉を開始。
1443年8月5日
同窓生の1人で、教皇庁主席書記官を務めたのちヴェローナのサン・ゼノ修道院長に任命されたばかりのグレゴーリオ・コッレールは、この日付の書簡で、彼女の学究心を支持しながら、俗人にとどまってきょうだいたちの贅沢な暮らしぶりやその妻たちの身ごもって日々膨れ上がる腹部を目にする生活の危険を指摘し、修道院への入会を強くチェチーリアに勧める。
1444年
18歳になった時には、恩師ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ、敬虔な母パオラ・マラテスタの賛意も得て、マントヴァのフランチェスコ会系の女子修道院であるサンタ・パオラ教会への入会を決心。
1444年9月23日
修道会入りを許さなかった父ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガだが、病床にあってようやく譲歩し、遺言書にチェチーリアの修道会入会を許可する条項が書き加えられる。
1444年9月25日
1445年2月2日
チェチリアは、未亡人となった母パオラ・マラテスタと共にコルプス・ドミニ聖堂が付属するサンタ・パオラ教会の修道院に入会。
144?年
グレゴーリオ・コッレールは、入会に臨んでキアラと名を改めたチェチリア宛の書簡の中で、彼女の優れたラテン語やギリシャ語の知識はウェルギリウスキケロに替えて神学や信仰に関する論考に捧げられるべきであること、こうした霊的な修辞学の高みは、人文主義的な教養と劣らぬ満足を彼女に与えるはずである、という激励とも慰めとも取れる助言を与えている。
1451年
死。
デュ・モンスティエ編の『フランチェスコ会聖福者年鑑』に福者として記載される。

別表記

 チェチリア・ゴンザーガ

外部リンク

 黒岩三恵 - チェチリア・ゴンザーガの時禱書
 Treccani
 Wikipedia

カルロ・ゴンザーガ Carlo Gonzaga

生没
1417年~1456年12月21日
出身
マントヴァ
没地
フェッラーラ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
パオラ・マラテスタ
ルチア・デステ
レンガルダ・マンフレディ
ウゴロット・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
ジェンティリーナ・ゴンザーガ
エヴァンジェリスタ・ゴンザーガ
概要

 カルロ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1417年
マントヴァにて、生(1415年頃)。
1437年
1445年

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga

生没
14??年~1479年7月30日
カルロ・ゴンザーガ
レンガルダ・マンフレディ
概要

 チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1475年8月8日
オドアルド・ダルコ伯と結婚。

チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga

生没
1451年3月26日~1478年
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要

 チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。ゴンザーガ家と交流のあった知識人や外交使節が書き残した、彼女の体形に言及する手紙があるため、脊椎の疾患があったものと思われる。

教養

 10歳の時すでにギリシア語を自由に操ることができた。

年表

146?年
1460年代後半にフランチェスコ会に入会。
147?年
1470年代にはマントヴァのオスペダーレ・グランデの総裁に就任。施療院における慈善活動において責任ある地位である。
1478年
死(1474年)。もともと虚弱な体質で発熱のため病床にあったチェチーリア・ゴンザーガに医師が施した瀉血の切開痕に十分な消毒がなされなかったことが原因で化膿し、右手の壊死から死に至る。

外部リンク

 世界帝王事典
 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスの華』

ドロテア・ゴンザーガ Dorotea Gonzaga

生没
1449年12月6日~1467年4月21日
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要

 ドロテア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1457年
健康上の理由で破談となった姉スザンナ・ゴンザーガに代わり、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの縁組が進められる。
1467年4月21日
マントヴァにて、死(1467年4月20日)。

外部リンク

 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの華』

スザンナ・ゴンザーガ Susanna Gonzaga

生没
1447年~1481年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要

 スザンナ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1450年
3歳で、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの結婚が決められる。
1457年
祖母パオラ・マラテスタと同じ脊椎後弯症の症状が現れだすと、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの縁組は妹ドロテア・ゴンザーガに代わる。
14??年
修道女アンジェリカとしてサンタ・パオラ教会に入る。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

バルバーラ・ゴンザーガ Barbara Gonzaga

生没
1455年12月11日~1503年3月30日
出身
マントヴァ
没地
ベーブリンゲン
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
バルバラ・フォン・ブランデンブルク
エーバーハルト1世
概要

 バルバーラ・ゴンザーガは、15世紀~16世紀のイタリア出身の女性。

肖像

別表記

 バルバリーナ

外部リンク

 ウィキペディア

ジューリア・ゴンザーガ Giulia Gonzaga

生没
1513年~1566年4月16日
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
ヴェスパシアーノ・コロンナ
概要

 ジューリア・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。

年表

1534年
この年頃ナポリに移住したJ. de Valdésを中心として教会改革と霊的再生を求める人々の小サークルが結成される。彼の死(1541年)までにジューリア・ゴンザーガ、ヴィットーリア・コロンナカテリーナ・チーボConstanza d'Avalosら君侯夫人・寡婦、M. A. Flaminio人文主義者G. SeripandoB. OchinoP. M. VermigliPietro Carnesecchiら聖職者が集い、イタリアにおける教会改革運動の拠点の観を呈する。後、第三者は新教を信仰し宗教改革運動に従事。

別表記

 ジューリア・ゴンツァーガ・コロンナ

外部リンク

 世界帝王事典
 ルネサンスのセレブたち
 Genealogy.EU
 Internet Archive - A princess of the Italian reformation
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年1月25日