ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ Ludovico I Gonzaga
- 生没
- 1268年頃~1360年1月18日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- グイド・ゴンザーガ
- 妻
- リキルダ・ランベルティ
カテリーナ・マラテスタ
ジョヴァンナ・ノヴェッラ・マラスピーナ - 子
- フィリッピーノ・ゴンザーガ
グイド1世・ゴンザーガ
フェルトリーノ・ゴンザーガ
トンマージナ・ゴンザーガ
アルベルト・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ
フェデリーコ・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
バルトロメオ・ゴンザーガ
アッツォ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ヤコポ・ゴンザーガ
マリオ・ゴンザーガ
トンマージナ・ゴンザーガ
オリエッタ・ゴンザーガ
バルトロメオ・ゴンザーガ
コスタンツァ・ゴンザーガ
概要
ルドヴィーコ1世・ゴンザーガは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
グイド1世・ゴンザーガ Guido I Gonzaga
- 生没
- 1290年~1369年9月22日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- リキルダ・ランベルティ
- 妻
- アニェーゼ・ピコ
カミッラ・ベッカーリア
ベアトリクス・フォン・バル - 子
- ベアトリーチェ・ゴンザーガ
トンマージナ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ウゴリーノ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ベルナボ・ゴンザーガ
リナルド・ゴンザーガ
ナスチンベーネ・ゴンザーガ
概要
グイド1世・ゴンザーガは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。
在位
マントヴァ領主 1360年~1369年
外部リンク
フェルトリーノ・ゴンザーガ Feltrino Gonzaga
- 生没
- 1???年~1374年12月28日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- パドヴァ
- 父
- ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- リキルダ・ランベルティ
- 妻
- アントーニア・ダ・コッレッジョ
カテリーナ・ヴィスコンティ - 子
- グイド2世・ゴンザーガ
オドアルド・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ピエトロ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
フィリッパ・ゴンザーガ
概要
フェルトリーノ・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。
在位
ノヴェッラーラ領主 1371年~1374年
年表
1328年
アントーニア・ダ・コッレッジョと結婚。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
コッラード・ゴンザーガ Corrado Gonzaga
- 生没
- 1???年~1360年
- 出身
- マントヴァ
- 父
- ルドヴィーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- カテリーナ・マラテスタ?
- 妻
- ヴェルデ・ベッカーリア
- 子
- フィリッピーノ・ゴンザーガ
レオポルド・ゴンザーガ
ベルナボ・ゴンザーガ
ビアンカ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
レオナルド・ゴンザーガ
概要
コッラード・ゴンザーガは、14世紀頃のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1340年
ヴェルデ・ベッカーリアと結婚。
1360年
死(1350年)。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ Ludovico II Gonzaga
- 生没
- 1334年~1382年10月4日
- 父
- グイド1世・ゴンザーガ
- 母
- ベアトリクス・フォン・バル
- 妻
- アルダ・デステ
- 子
- フランチェスコ1世・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
フェーボ・ゴンザーガ
概要
ルドヴィーコ2世・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。
在位
マントヴァ領主 1369年~1382年
埋葬地
別表記
ルイジ2世
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani.it
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
グイド2世・ゴンザーガ Guido II Gonzaga
- 生没
- 1340年2月1日~1399年月2日
- 出身
- ノヴェッラーラ
- 没地
- ノヴェッラーラ
- 父
- フェルトリーノ・ゴンザーガ
- 母
- アントーニア・ダ・コッレッジョ
- 妻
- ジネヴラ・マラテスタ
- 子
- ヤコポ・ゴンザーガ
フェルトリーノ・ゴンザーガ
フィリッポ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
概要
グイド2世・ゴンザーガは、14世紀のイタリアの男性。
在位
ノヴェッラーラ領主 1374年~1399年
外部リンク
フィリッピーノ・ゴンザーガ Filippino Gonzaga
- 生没
- 13??年~1414年2月18日
- 父
- コッラード・ゴンザーガ
- 母
- ヴェルデ・ベッカーリア
- 妻
- オルソーラ・カヴリアーニ
- 子
- ルイジ・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
バルトロメオ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
概要
フィリッピーノ・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
フランチェスコ1世・ゴンザーガ Francesco I Gonzaga
- 生没
- 1366年~1407年3月7日
- 父
- ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
- 母
- アルダ・デステ
- 妻
- マルゲリータ・マラテスタ
アニェーゼ・ヴィスコンティ - 子
- ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
概要
フランチェスコ1世・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
マントヴァ領主 1382年~1407年
埋葬地
外部リンク
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『君主論』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス百科事典』
エリザベッタ・ゴンザーガ Elisabetta Gonzaga
- 生没
- 1???年~1432年7月31日
- 父
- ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ
- 母
- アルダ・デステ
- 夫
- カルロ・マラテスタ
概要
エリザベッタ・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
年表
1386年
カルロ・マラテスタと結婚。
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
在位
ノヴェッラーラ領主 1399年~1441年
別表記
Giacomo
外部リンク
ルイジ・ゴンザーガ Luigi Gonzaga
- 生没
- 1???年~1440年
- 父
- フィリッピーノ・ゴンザーガ
- 母
- オルソーラ・カヴリアーニ
- 妻
- ルイジア・ゴンザーガ
- 子
- アントーニオ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
オルシーナ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
概要
ルイジ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・ゴンザーガ Jacopo Gonzaga
- 生没
- 13??年~1441年
- 父
- グイド2世・ゴンザーガ
- 母
- ジネヴラ・マラテスタ
- 妻
- イッポーリタ・ピオ
- 子
- フランチェスコ1世・ゴンザーガ
ジョルジョ・ゴンザーガ
ジャンピエトロ・ゴンザーガ
リッチャドンナ・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ
概要
ヤコポ・ゴンザーガは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga di Novellara
- 生没
- 13??年~1438年
- 出身
- ノヴェッラーラ
- 没地
- パドヴァ
- 父
- グイド2世・ゴンザーガ
- 母
- ジネヴラ・マラテスタ
- 夫
- フランチェスコ3世・オルデラッフィ
ベネデット・ストロッツィ - 子
- ルクレツィア・オルデラッフィ
タッデア・オルデラッフィ
概要
カテリーナは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
年表
1388年4月14日
1389年9月20日
フォルリにて、ルクレツィア・オルデラッフィを出産。
1393年
タッデア・オルデラッフィを出産。
1405年9月8日
14??年
ベネデット・ストロッツィと結婚。
外部リンク
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ Gianfrancesco I Gonzaga
- 生没
- 1395年6月1日~1444年9月25日
- 没地
- マントヴァ
- 父
- フランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・マラテスタ
- 妻
- パオラ・マラテスタ
- 子
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
カルロ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
ジャンルーチド・ゴンザーガ
フェデリーコ・ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
レオネッラ・ゴンザーガ
概要
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。
在位
マントヴァ領主 1407年~1433年
教会の旗手 1412年~14??年
ヴェネツィア軍総指揮官 1432年~1438年
先任:フランチェスコ・ブッソーネ
第1代マントヴァ侯 1433年~1444年
年表
1426年7月
ヴェネツィアと同盟を結び、ヴェネツィア・フィレンツェ陣営に加わる。
1432年5月5日
フランチェスコ・ブッソーネが、ヴェネツィアのサン・マルコ広場で斬首される。
後任のヴェネツィア軍総指揮官に就任。
1432年
神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクよりマントヴァ侯位を約束される。
1433年9月9日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルクが、ローマからの帰途上マントヴァに入る。
1433年9月22日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク自身から、大聖堂で侯位を受け、盛大な祝賀行事を繰り広げる。
1437年9月20日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍、ロンバルディアでまたヴェネツィア軍を大破。
打ち続く敗戦でヴェネツィアの各層に総指揮官ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガの忠誠を疑う声、高まり、Senato(元老院)でその解任を求める声が出、フィレンツェにフランチェスコ1世・スフォルツァの移籍を求める。
1438年7月3日
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、契約期間満了と共にヴェネツィア軍総指揮官を辞任(在位1532年~)。間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと傭兵契約を結んでその配下に入り、ヴェネツィアを攻撃。
ヴェネツィアは後任の軍総指揮官に、1437年以降フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍との戦闘で成果を挙げていた傭兵隊長ガッタメラータ(1370年~1443年)をあてる(在位~1443年)。
1444年9月25日
マントヴァにて、死(1444年9月23日、1444年10月)。
埋葬地
別表記
ジョヴァン・フランチェスコ・ゴンツァーガ、ジョヴァンニ・フランチェスコ
外部リンク
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『ルネッサンス夜話』
フランチェスコ1世・ゴンザーガ Francesco I Gonzaga Novellara
- 生没
- 1420年頃~1484年2月8日
- 没地
- ノヴェッラーラ
- 父
- ヤコポ・ゴンザーガ
- 母
- イッポーリタ・ピオ
- 妻
- コスタンツァ・ストロッツィ
- 子
- ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
アレッサンドラ・ゴンザーガ
ルイジア・ゴンザーガ
カルロ・ゴンザーガ
アゴスティーノ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
概要
フランチェスコ1世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。
在位
ノヴェッラーラ領主 1441年~1484年
年表
1468年
コスタンツァ・ストロッツィと結婚。
外部リンク
ジョルジョ・ゴンザーガ Giorgio Gonzaga
- 生没
- 1410年~1487年
- 没地
- ノヴェッラーラ
- 父
- ヤコポ・ゴンザーガ
- 母
- イッポーリタ・ピオ
- 妻
- パオラ・スキアンテスキ
アルダ・トレッリ - 子
- クリストフォロ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
ヤコポ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
マルカントーニオ・ゴンザーガ
フランチェスカ・ゴンザーガ
タッデア・ゴンザーガ
グイド2世・ゴンザーガ
概要
ジョルジョ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。
在位
バニョーロ領主 1456年~1487年
外部リンク
ルイジア・ゴンザーガ Luigia Gonzaga
- 生没
- 14??年~
- 没地
- ノヴェッラーラ
- 父
- ヤコポ・ゴンザーガ
- 母
- イッポーリタ・ピオ
- 夫
- ルイジ・ゴンザーガ
- 子
- アントーニオ・ゴンザーガ
グイド・ゴンザーガ
コッラード・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
オルシーナ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
概要
ルイジア・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
アントーニオ・ゴンザーガ Antonio Gonzaga
- 生没
- 14??年~1496年1月6日
- 父
- ルイジ・ゴンザーガ
- 母
- ルイジア・ゴンザーガ
- 妻
- フランチェスカ・ウベルティ
フランチェスカ・カヴリアーニ - 子
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ
アロイジア・ゴンザーガ
ジャンピエトロ・ゴンザーガ
チェーザレ・ゴンザーガ
アゴスティーナ・ゴンザーガ
概要
アントーニオ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
外部リンク
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ Ludovico III Gonzaga
- 生没
- 1412年6月5日~1478年6月12日
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- パオラ・マラテスタ
- 妻
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
- 子
- カテリーナ・ゴンザーガ
ガブリエッラ・ゴンザーガ
フェデリーコ1世・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
パオラ・ビアンカ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
概要
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
第2代マントヴァ侯 1444年~1478年
年表
1412年6月5日
生(1414年)。
1444年10月
父ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ、死。ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、マントヴァ侯となる。
1448年春~夏
フランチェスコ1世・スフォルツァは自分たちの軍資金を用いてヴェネツィアを撃退した後は自分たちを配下に置こうとしているとの不信を拭いきれないミラノ=アンブロジアーナ共和国、ヴェネツィアに繰り返し和議を申し入れるが、ヴェネツィアは巧みにこれを拒絶。
のみならずヴェネツィアは、マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガの援軍などを加えて増強した軍をもってミラノ領に未曾有の大攻勢をかけ、フランチェスコ1世・スフォルツァ総指揮のアンブロジアーナ共和国軍と各地で激戦を続ける。
1451年12月
フィレンツェ、フランチェスコ1世・スフォルツァ、ジェノヴァ及びマントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、同盟を締結。さらにフランス王シャルル7世に、対ヴェネツィア戦終結後はルネ・ダンジューの対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦、ナポリ奪還を支援することなどを挙げて同盟加入を働きかける。
1459年
マントヴァ公会議を主催。
1472年12月25日
1473年1月6日
パヴィアにて、娘ガブリエッラ・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。11歳の孫コスタンツァ・フォリアーニとジローラモ・リアリオの結婚初夜に反対している娘ガブリエッラ・ゴンザーガに対し、証人を立てて真似事で済ませるよう提案。
パヴィアにて、チッコ・シモネッタ宛てに手紙をしたためる。孫コスタンツァ・フォリアーニとジローラモ・リアリオの結婚について。
1473年1月23日
マントヴァにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。1473年1月18日付のジローラモ・リアリオとカテリーナ・スフォルツァの結婚についての手紙への返答。
1477年3月
マントヴァ公会議主催の褒美として、シクストゥス4世から黄金の薔薇を拝受。
1478年4月20日
次男フランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿宛てに手紙をしたためる。子チェチーリア・ゴンザーガの死を知らせ、もともと虚弱な体質で発熱のため病床にあったチェチーリア・ゴンザーガに医師が施した瀉血の切開痕に十分な消毒がなされなかったことが原因で化膿し、ついには右手の壊死から死に至った経緯。
1478年5月
マントヴァでペスト流行のため、ゴイト城へ避難。
1478年6月12日
ゴイト城にて、おそらく胸膜炎のため死(1478年6月11日)。
肖像
注文
別表記
ルドヴィコ2世・ゴンツァガ、マントヴァ公ロドヴィーコ、Luigi III Gonzaga
外部リンク
ウィキペディア
ラインの王族
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani.it
参考文献
『イタリア史』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス百科事典』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
カルロ・ゴンザーガ Carlo Gonzaga
- 生没
- 1417年5月10日~1456年12月21日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- パオラ・マラテスタ
- 妻
- ルチア・デステ
レンガルダ・マンフレディ - 子
- ウゴロット・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
ジェンティリーナ・ゴンザーガ
エヴァンジェリスタ・ゴンザーガ
概要
カルロ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
外部リンク
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga
- 生没
- 1418年3月31日~1439年
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- パオラ・マラテスタ
- 夫
- レオネッロ・デステ
- 子
- ニッコロ・デステ
概要
マルゲリータ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1435年
レオネッロ・デステと結婚。
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga
- 生没
- 1426年1月18日~1451年
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- パオラ・マラテスタ
概要
チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
教養
きょうだいたちと共に、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレの学校カ・ゾイオーサで教育され、深い人文学的教養を身に着ける。幼い頃からラテン語とギリシャ語に秀で、優れた学識と知性の故に、ヴィットリーノ・ダ・フェルトレが最も目をかけたのが兄アレッサンドロ・ゴンザーガとチェチーリア・ゴンザーガであったと伝えられる。
チェチーリアが学校の同窓生を含む人文主義者たちや家族と交わした書簡によれば、彼女が人文主義的な学究の生活を望んでいたことが分かる。
容姿
並外れた美貌。
年表
1426年1月18日
マントヴァにて、生(1425年)。
1431年
母パオラ・マラテスタがチェチーリア・ゴンザーガのために文法書を購入。
1432年
母パオラ・マラテスタが8歳(7歳)のチェチーリア・ゴンザーガのためにギリシャ語聖書を購入(1434年)。
アンブロージョ・トラヴェルサーリが『ホドエポリコン』の中で8歳頃の少女がギリシア語の読み書きが堪能であることを述べている。
1435年以降
父ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガは、早くからウルビーノ伯グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロの子オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロとの結婚の交渉を進める。
1439年
14??年
結婚話を拒み始めると、父親の意向を受けたマントヴァ司教マッテオ・ボニペルティや法曹家らに説得される。しかし翻意せず。
1442年頃
オッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロは、婚約者の拒否に感情を害されたのか、この頃には実質的には婚約を破棄し、エステ家との間の結婚交渉を開始。
1443年8月5日
同窓生の1人で、教皇庁主席書記官を務めたのちヴェローナのサン・ゼノ修道院長に任命されたばかりのグレゴーリオ・コッレールは、この日付の書簡で、彼女の学究心を支持しながら、俗人にとどまってきょうだいたちの贅沢な暮らしぶりやその妻たちの身ごもって日々膨れ上がる腹部を目にする生活の危険を指摘し、修道院への入会を強くチェチーリアに勧める。
1444年
18歳になった時には、恩師ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ、敬虔な母パオラ・マラテスタの賛意も得て、マントヴァのフランチェスコ会系の女子修道院であるサンタ・パオラ教会への入会を決心。
1444年9月23日
修道会入りを許さなかった父ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガだが、病床にあってようやく譲歩し、遺言書にチェチーリアの修道会入会を許可する条項が書き加えられる。
1444年9月25日
1445年2月2日
チェチリアは、未亡人となった母パオラ・マラテスタと共にコルプス・ドミニ聖堂が付属するサンタ・パオラ教会の修道院に入会。
144?年
グレゴーリオ・コッレールは、入会に臨んでキアラと名を改めたチェチリア宛の書簡の中で、彼女の優れたラテン語やギリシャ語の知識はウェルギリウスやキケロに替えて神学や信仰に関する論考に捧げられるべきであること、こうした霊的な修辞学の高みは、人文主義的な教養と劣らぬ満足を彼女に与えるはずである、という激励とも慰めとも取れる助言を与えている。
1451年
死。
デュ・モンスティエ編の『フランチェスコ会聖福者年鑑』に福者として記載される。
別表記
チェチリア・ゴンザーガ
外部リンク
アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga
- 生没
- 1427年8月26日~1466年1月16日
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- パオラ・マラテスタ
- 妻
- アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロ
概要
アレッサンドロ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ Giampietro I Gonzaga
- 生没
- 1469年~1515年11月18日
- 没地
- ノヴェッラーラ
- 父
- フランチェスコ1世・ゴンザーガ
- 母
- コスタンツァ・ストロッツィ
- 妻
- カテリーナ・トレッリ
- 子
- アレッサンドロ1世・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
概要
ジャンピエトロ1世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。
在位
ノヴェッラーラの君主
外部リンク
Condottieri di ventura
Famille de Carné
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
タッデア・ゴンザーガ Taddea Gonzaga
- 生没
- 14??年~1520年
- 没地
- スカンディアーノ
- 父
- ジョルジョ・ゴンザーガ
- 母
- パオラ・スキアンテスキ
- 夫
- マッテオ・マリーア・ボイアルド
- 子
- カミッロ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
コルネーリア・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
エミーリア・ゴンザーガ
概要
タッデア・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、スカンディアーノ伯爵夫人。
外部リンク
アロイジア・ゴンザーガ Aloisia Gonzaga
- 生没
- 1458年~1542年
- 父
- アントーニオ・ゴンザーガ
- 母
- フランチェスカ・ウベルティ
- 夫
- クリストフォロ・カスティリオーネ
- 子
- バルダッサーレ・カスティリオーネ
ジローラモ・カスティリオーネ
フランチェスカ・カスティリオーネ
ポリッセーナ・カスティリオーネ
アンナ・カスティリオーネ
概要
アロイジア・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
別表記
Luigia
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルネサンスの華』
カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga
- 生没
- 1434年頃~1495年頃
- 出身
- マントヴァ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 夫
- フランチェスコ・セッコ
- 子
- パオラ・セッコ
外部リンク
ガブリエッラ・ゴンザーガ Gabriella Gonzaga
- 生没
- 14??年~
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 夫
- ジベルト・ダ・コッレッジオ
コッラード・フォリアーニ - 子
- ルドヴィーコ・フォリアーニ
コスタンツァ・フォリアーニ
概要
ガブリエッラ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。
年表
1472年11月29日
パヴィアにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。娘コスタンツァ・フォリアーニとジローラモ・リアリオの結婚について。
1472年12月
パヴィアにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。娘コスタンツァ・フォリアーニとジローラモ・リアリオの結婚に持参金は出せない。
1472年
ジローラモ・リアリオに11歳の娘コスタンツァ・フォリアーニとの初夜を要求され、成人である14歳まで待つよう拒否。
外部リンク
フェデリーコ1世・ゴンザーガ Federico I Gonzaga
- 生没
- 1441年6月25日~1484年7月14日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
- 妻
- マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
- 子
- キアラ・ゴンザーガ
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マッダレーナ・ゴンザーガ
ジョヴァンニ・ゴンザーガ
概要
フェデリーコ1世・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
第3代マントヴァ侯 1478年~1484年
年表
1478年6月11日
父ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、死。
1480年6月20日
ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。アンドレア・マンテーニャがある作品を期日までに完成させることができなかったのは、彼のような芸術家はしばしば気まぐれだからで、それについてはできることはあまりないと説明。
1484年7月15日
死。
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani.it
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
フランチェスコ・ゴンザーガ Francesco Gonzaga
- 生没
- 1444年頃~1483年10月21日
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要
フランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1461年12月18日~1483年10月21日
年表
1462年4月2日
ピウス2世により、サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。
肖像
埋葬地
外部リンク
CANTOS XLV
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Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ Gianfrancesco Gonzaga
- 生没
- 1446年10月4日~1496年8月28日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- ボッツォーロ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
- 妻
- アントーニア・デル・バルツォ
- 子
- フェーボ・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
フェデリーコ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ピッロ・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ
ジョヴァンナ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
概要
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
サッビオネータ伯 1479年~1496年
ボッツォーロ領主 1479年~1496年
年表
肖像
外部リンク
世界帝王事典
Condottieri di ventura
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
スザンナ・ゴンザーガ Susanna Gonzaga
- 生没
- 1447年~1481年
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要
スザンナ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1450年
3歳で、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの結婚が決められる。
1457年
祖母パオラ・マラテスタと同じ脊椎後弯症の症状が現れだすと、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの縁組は妹ドロテア・ゴンザーガに代わる。
14??年
修道女アンジェリカとしてサンタ・パオラ教会に入る。
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ドロテア・ゴンザーガ Dorotea Gonzaga
- 生没
- 1449年12月6日~1467年4月21日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要
ドロテア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの華』
チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga
- 生没
- 1451年3月26日~1478年
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要
チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。ゴンザーガ家と交流のあった知識人や外交使節が書き残した、彼女の体形に言及する手紙があるため、脊椎の疾患があったものと思われる。
教養
10歳の時すでにギリシア語を自由に操ることができた。
年表
146?年
1460年代後半にフランチェスコ会に入会。
147?年
1470年代にはマントヴァのオスペダーレ・グランデの総裁に就任。施療院における慈善活動において責任ある地位である。
1478年
死(1474年)。もともと虚弱な体質で発熱のため病床にあったチェチーリア・ゴンザーガに医師が施した瀉血の切開痕に十分な消毒がなされなかったことが原因で化膿し、右手の壊死から死に至る。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ルネッサンス夜話』
『ルネサンスの華』
リドルフォ・ゴンザーガ Ridolfo Gonzaga
- 生没
- 1452年4月18日~1495年7月6日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- フォルノーヴォ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
- 妻
- アントーニア・マラテスタ
カテリーナ・ピコ - 子
- パオラ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
アロイジオ・ゴンザーガ
エットーレ・ゴンザーガ
カテリーナ・ゴンザーガ
アンジェリカ・ゴンザーガ
概要
リドルフォ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
年表
1491年1月17日(月)
パヴィアのヴィスコンティ城でのルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステの結婚式に参列。
肖像
埋葬地
別表記
リドルフォ・ダ・ゴンツァーガ、ロドルフォ、Rodolfo Gonzaga
外部リンク
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
バルバーラ・ゴンザーガ Barbara Gonzaga
- 生没
- 1455年12月11日~1503年3月30日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- ベーブリンゲン
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
- 夫
- エーバーハルト1世
概要
バルバーラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリア出身の女性。
肖像
別表記
バルバリーナ
外部リンク
ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga
- 生没
- 1458年~1511年1月19日
- 出身
- ガッツオーロ
- 没地
- レッジョーロ
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要
ルドヴィーコ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
マントヴァ司教 1483年10月27日~1511年1月9日(保有していない)
年表
1458年
ガッツオーロに生(1460年)。
1483年10月27日
マントヴァ司教。
1483年後半
融資に対して質入れする貴重品の見積のため、エルコーレ・デイ・フェデーリとエルメス・フラビオ・デ・ボニスをカステル・ゴッフレードに派遣。
1488年2月19日
彼のローマの代理人バルトロメオ・エルバ宛てに手紙をしたためる。自分の代わりに、洗礼時の代父としてカルロ・カナーレを選んでいる。
1511年1月19日
レッジョーロに没。この時マントヴァ司教の地位にはない。
肖像
外部リンク
GCatholic.com
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
パオラ・ゴンザーガ Paola Gonzaga
- 生没
- 1463年~1497年
- 父
- ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
- 母
- バルバラ・フォン・ブランデンブルク
概要
パオラ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
肖像
別表記
パオリーナ、Paolina
外部リンク
ラインの王族
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネサンスの華』
チェチーリア・ゴンザーガ Cecilia Gonzaga
- 生没
- 14??年~1479年7月30日
- 父
- カルロ・ゴンザーガ
- 母
- レンガルダ・マンフレディ
概要
チェチーリア・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1475年8月8日
オドアルド・ダルコ伯と結婚。
アレッサンドロ1世・ゴンザーガ Alessandro I Gonzaga
- 生没
- 1490年頃~1530年
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
- 母
- カテリーナ・トレッリ
- 妻
- コスタンツァ・ディ・コレッジョ
- 子
- アルフォンソ・ゴンザーガ
概要
アレッサンドロ1世・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
第2代ノヴェッラーラ伯
年表
別表記
アレッサンドロ・ディ・ノヴェッラーラ
外部リンク
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
カミッラ・ゴンザーガ Camilla Gonzaga
- 父
- ジャンピエトロ1世・ゴンザーガ
- 母
- カテリーナ・トレッリ
- 夫
- アレッサンドロ・ダ・ポルト
概要
カミッラ・ゴンザーガは、15~16世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
キアラ・ゴンザーガ Chiara Gonzaga
- 生没
- 1464年7月1日~1503年6月2日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- オーヴェルニュ
- 父
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
- 夫
- ジルベール・ド・ブルボン
- 子
- ルイーズ・ド・ブルボン
ルイ2世・ド・ブルボン=モンパンシエ
シャルル・ド・ブルボン
フランソワ・ド・ブルボン
ルネ・ド・ブルボン
アンヌ・ド・ブルボン
概要
キアラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1464年7月1日
マントヴァにて、生。
1482年2月24日
マントヴァにて、ジルベール・ド・ブルボンと結婚。
この結婚はおじフランチェスコ・セッコによって手配され、フランスに向かう新婚夫婦をマントヴァからミラノまで見送る。
1494年12月1日
パヴィア到着。ボーナ・ディ・サヴォイアを訪問。
1494年12月
マントヴァに向かう。
1496年12月
フランスから帰る途上、ミラノ到着。
1496年12月22日
ミラノ出発。
1497年1月5日
マントヴァにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛に手紙をしたためる。妻ベアトリーチェ・デステを亡くしたルドヴィーコ・イル・モーロへのお見舞い。
1503年6月2日
フランス、オーヴェルニュにて、死。
肖像
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルネサンスの女たち』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
フランチェスコ2世・ゴンザーガ Francesco II Gonzaga
- 生没
- 1466年8月10日~1519年3月29日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
- 妻
- アニェーゼ・ヴィスコンティ
イザベッラ・デステ - 子
- エレオノーラ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
フェデリーコ2世・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
フェッランテ・ゴンザーガ
パオラ・ゴンザーガ
テオドーラ・ゴンザーガ
概要
フランチェスコ2世・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。
在位
第4代マントヴァ侯 1484年~1519年
教会の旗手 1510年~151?年
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
ガリリャーノの戦い:フランス王国、敗北
年表
1466年8月10日
生。
1480年
6歳のイザベッラ・デステと婚約。
1484年7月15日
父フェデリーコ1世・ゴンザーガ死。フランチェスコ2世・ゴンザーガ、マントヴァ侯となる。
1487年10月
お忍びだがヴェネツィア共和国の警護の下、シモニーノ・ディ・トレント詣でに行く。
1490年2月11日
イザベッラ・デステとフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。
1490年4月11日(日)
この暴行により、復活祭の直後に2回目の布告を発し、聖週間中にユダヤ人を攻撃した者への処罰を強化。
1491年1月
ユダヤ人の銀行家ダニエーレ・ダ・カルピの3人の息子に、キリスト教徒による告発から保護を与える。
1491年3月26日
妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。女児切断犯を追跡して処罰すべきだと断言し、妻にその捜査を命じることを許可。聖週間のためにマントヴァのユダヤ人に関する規定を作成した妻を称賛。
1491年4月15日
妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
1491年5月4日
フェッラーラにて、秘書マッテオ・サッケッティ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリから伝え聞いたユダヤ人貸金業者デオダート・ノルサの要望を叶えてやるよう指示。
1491年5月
ユダヤ人デオダート・ノルサに、キリスト教徒による告発から保護を与える。キリスト教徒との淫行で有罪判決を受けた場合でも、5日を超えて刑務所に拘留されないことを明確に規定。
1491年6月20日
ボローニャでの弟ジョヴァンニ・ゴンザーガとラウラ・ベンティヴォーリオの結婚式に参列。
1491年8月20日
マントヴァのポデスタ、エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。
1491年8月27日
エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。マントヴァに住むユダヤ人アンジェロ・ディ・ヴィターレは盗品の取引とキリスト教徒との淫行の罪により収監され、拷問されている。彼の息子シモーネも、捕縛し、尋問し、共犯者である場合は拷問を加えるよう指示。
1491年9月7日
義母エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリがマントヴァのユダヤ人たちから反感を買っている。数か月前に金の鎖を作らせている最中18か19ドゥカート騙し取られたので、取り戻すまで彼の監禁を望む。
1491年9月8日
マントヴァのポデスタエルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。エルコーレ・デイ・フェデーリが犯した特定の犯罪に関して、ボナベンチュラの面前でアンジェロ・ディ・ヴィターレを再度尋問し、拷問することを躊躇しないように命じる。
1491年9月10日
ヴェネツィアへ向かう途上、アンジェロ・ディ・ヴィターレの死刑判決を批准し、絞首台に送るよう命じる。
1491年9月15日
エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。
1491年9月17日
妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。改宗したアンジェロ・ディ・ヴィターレの赦免という妻の願いを拒否し、聞き入れなかったことを謝罪。
1491年9月20日
エルモラオ・バルドリーニ宛に手紙をしたためる。アンジェロ・ディ・ヴィターレを赦免する神学的理由について納得せず。犯罪の抑止力として、死体を公共の場に晒すべきだと指示。
1491年9月21日
フェッラーラ到着。
1491年9月22日
妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。アンジェロ・ディ・ヴィターレの赦免を義父エルコーレ1世・デステと同意。
1493年4月25日
アレクサンデル6世、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナとピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァのフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1495年2月18日
エルコーレ・デイ・フェデーリの安全通行保証を取り下げ、マントヴァから追放。
1495年3月31日
教皇、ヴェネツィア共和国、ミラノ公国、スペイン、神聖ローマ帝国、対フランス神聖同盟を結成。フィレンツェ共和国、フェッラーラ公国は加盟を拒否。
対フランス神聖同盟軍総司令官に就任。
1495年5月1日
対フランス神聖同盟軍、シャルル8世がフランスとの連絡確保のため途中で残していた守備隊への攻撃を開始。
1495年6月22日
ユダヤ人銀行家アブラーモ・トゥソロ宛てに手紙をしたためる。刑務所からの解放したことを指摘した後、多額の金を貸すように要求。
1495年7月6日
フォルノーヴォの戦い:帰国途上のシャルル8世軍をフォルノーヴォでフランチェスコ2世・ゴンザーガ指揮の対フランス神聖同盟軍が攻撃。
1495年7月19日
フランチェスコ2世・ゴンザーガ率いるヴェネツィア軍、ノヴァーラ城郭そばに野営。
1496年10月23日
義父エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。ユダヤ人のアブラーモ・トゥソロとカード遊びに興じたいので、彼がマントヴァに来ることを許可してくれるよう頼む。
ユダヤ人のアブラーモ・トゥソロ宛てに手紙をしたためる。
1497年6月23日
ヴェネツィア共和国元老院は、フランチェスコ2世・ゴンザーガの総司令官解任を決定(1497年4月、1499年)。
1497年9月10日(日)
ブレシアにて、カテリーナ・コルナーロに敬意を表した馬上槍試合に出場。
1498年6月24日
ルドヴィーコ・イル・モーロとの契約書に署名し、帝国司令官として年4万ドゥカートで雇われる。
1499年10月2日
パヴィアに到着したフランス王ルイ12世へ戦勝の祝いのため伺候。
1499年10月6日
1501年12月9日
この日付のポルツァーノ発のマッテオ・マルティーノ・ダ・ブセットからの手紙を受け取る。教皇がフランス及びヴェネツィアと密かに同盟を結び、エステ家の祝宴の折に、チェーザレ・ボルジアの軍隊でもってフェッラーラに襲い掛かって国の主だった者たちを一網打尽にし、国土を占領し、財産を横領し同盟者間で山分けするという計画が立てられている、という内容。
1502年5月
チェーザレ・ボルジアの部下の1人であるエル・マントゥアーノに恩典を与える。
1503年8月初旬~9月初旬
ルイ12世軍に参加し、フィレンツェを経由してナポリに向かう。
病気になり、マントヴァに戻る。
1503年9月22日
イゾラ・ファルネーゼにて、妻イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。
淑女様、親愛なる妻へ。アレクサンデル6世の最期の事情に通じていらっしゃるかもしれませんので、下記の事項について述べます。教皇が病に伏した時、何を考えているか分からない者には彼が彷徨っているのだと思うような話し方で話し始めました。しかし、自分が何を言っているのか、完璧に自覚があったのです。「私は来る、その通り、少し待ってくれ」というのがその言葉でした。秘密を知る者は、インノケンティウス8世死後のコンクラーヴェで、彼が悪魔と契約を交わし、魂の代価と引き換えに教皇位を購入したのだという。その契約には、12年間聖座を占めることを認められており、これを4日間延長したのです。彼の部屋で見られたことのある7人の悪魔に、その時魂を売り渡したのだと確信する者たちがいます。死後直ちに腐り始め、火の上のやかんのように口から泡を吹き出し、それは地上にある間続いたのです。死体は膨張して、人の形を失いました。長さと同じほどの横幅でした。簡素な儀式と共に墓に運ばれていきましたが、運搬人が寝台から引きずり出し、誰も触れたがらなかったので、足に紐を結び付けて埋葬場まで引きずったのです。惨めな埋葬で、あれに比べれば、マントヴァの不具の矮人の妻の方がまだ厳かというほどでした。彼についての中傷的な風刺詩が、毎日発行されています。
1503年11月
病気に罹る。
1503年12月29日
1505年5月4日
フィレンツェ共和国からニッコロ・マキアヴェッリが派遣されてきて、傭兵契約を申し込まれるが、断る。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年4月15日
ヴェネツィアを攻撃し、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍に撃退される。
1509年8月8日
ヴェネツィア共和国軍の奇襲で捕らわれる。
1510年7月14日
解放され、人質としてローマに向かう長男フェデリーコ2世・ゴンザーガとボローニャで会う。
1510年7月27日
マントヴァ到着。
1510年9月30日
1519年3月29日
死(1519年2月20日)。
持病
梅毒
剣
埋葬地
別表記
ジャンフランチェスコ2世、ダ・ゴンツァーガ
外部リンク
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Condottieri di ventura
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
THE BORGIAS wiki
Treccani
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス百科事典』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
シジスモンド・ゴンザーガ Sigismondo Gonzaga
- 生没
- 1469年~1525年10月3日
- 父
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
概要
シジスモンド・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
年表
1506年12月16日
サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
エリザベッタ・ゴンザーガ Elisabetta Gonzaga
- 生没
- 1471年2月9日~1526年1月28日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
- 夫
- グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ
概要
エリザベッタ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1471年2月9日
マントヴァにて、生。
フェデリーコ1世・ゴンザーガの子は全員ポルト・マントヴァーノ宮殿に住む。
1482年8月
重病に罹患。
1486年8月29日
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと婚約。新マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガとピエトロ・ベッランティが署名。持参金は2万7千ドゥカート。
148?年
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロがマントヴァを訪問するが、重病で会えず。
1488年2月1日
1488年2月4日(月)
激しく雪が降る中、行列がアルジェンタに到着。
1488年2月5日(火)
1488年2月6日(水)
1488年2月7日(木)
リーミニから2マイルの地点で、ジョヴァンニ・スフォルツァに出迎えられる。
1488年2月8日(金)
ウルビーノ侯国内に達し、コルボルドロ城に宿泊。
1488年2月9日(土)
ウルビーノに到着。
1488年2月11日(月)
ウルビーノのサン・フランチェスコ教会にて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと結婚(1489年2月11日、マントヴァ)。
1488年2月19日(火)
1488年2月
謝肉祭の後、弟ジョヴァンニ・ゴンザーガらがウルビーノ出発。
1493年3月
マントヴァ到着。
1500年1月8日
フォッソンブローネにて兄フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ウルビーノにて熱病でジョアン・リャンソル・イ・モンカーダが亡くなったことを知らせる。
1500年3月
聖年。ウルビーノを出発し、罪の赦しを受けるためローマに向かう。
1500年3月21日
アッシジにてフランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
高名なる閣下、誉れある兄上様。この聖年に罪の赦しを受けるため、ウルビーノを離れローマへ向かっております。数日前私の旅行計画について伝え、今日アッシジにてあなたのお手紙を受け取りました。おそらくまだ私が出立していないものと思っていらしたのでしょう。お手紙に書かれてあることから、この旅行を取り止めるよう望んでいらっしゃることを知りましたが、そのことはとても私を悲しませ、言葉にできぬ痛みをもたらしました。なぜなら他のあらゆることのように閣下のご期待に添えるようにと望んでいますし、最も高潔な父君のように思っており、あなたのご希望に沿うことの他に考えや目的などございませんのですから。しかしながら申し上げましたように、すでに途上にあり、国外に出ています。義理の兄ファブリツィオ1世・コロンナと妹アニェーゼ・ダ・モンテフェルトロの助けを借りて、ローマでの住まいと落ち着くのに必要なことは手配しました。4日後にはマリーノに到着しているだろうこと彼らに伝えました。ひいてはファブリツィオ1世・コロンナがわざわざ私の護衛を確保してくださいます。さらに、この出立と旅行について苦情が言われていますが、それ故、注意深く熟慮され、夫の熟知と合意で進められているこの巡礼を、ここまで来て私と夫の名誉を傷つけずに取り止めることはできないものと思われます。あなたが悩み、苛立つようなことはありません。順序を追って言いますと、まずマリーノに向かい、そこからアニェーゼ・ダ・モンテフェルトロが同道し、教会の聖年に罪の赦しを受けるため、お忍びでローマに行きます。どなかに会うことが必要とは思われませんし、故ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリの宮殿にローマにいる間身を寄せるつもりです。よい住まいでまさしく求めるところであり、コロンナ家の手近にあります。マリーノにすぐに戻る心づもりで、そちらの方で長く滞在します。ですので、この旅行について閣下がこれ以上不安がられることはありませんし、不愉快に思われることもありません。しかしこれらの理由は、ただ旅を続けるというだけでなく、旅を始めるのだということを促すのに効果的です。もしまだ出発していなかったら断念していたかもしれませんが、それは巡礼中に何か良くないことが起こるかもしれないという恐れからではなく、いつでも私がそうしたいと思っているように、閣下のお手紙に書かれた望みに応えたいがためです。けれども、こうして私がここにいて、この手紙をすぐにお受け取りになられる時、私の動機を閣下が支持されるでしょうことを信じております。どうかローマ宛てのお手紙をお寄こしになって、不愉快に感じてはいらっしゃらないと安心させてください。そうしてくださいましたなら、安らかに落ち着いて罪の赦しを受けることができるでしょう。そうしてくださいませんことには、大きな不安と悲しみに苦しんでしまいます。閣下の末妹として、慈悲深い博愛にすがります。
1500年4月19日
復活祭。この日までローマに滞在。
1526年1月28日
フェッラーラにて、死。
別表記
エリザベッタ・ゴンザガ
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス舞踊紀行』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
マッダレーナ・ゴンザーガ Maddalena Gonzaga
- 生没
- 1472年7月10日~1490年8月8日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- 教皇領ペーザロ
- 父
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・ディ・バヴィエラ
- 夫
- ジョヴァンニ・スフォルツァ
概要
マッダレーナ・ゴンザーガは、15世紀のイタリアの女性。
年表
肖像
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参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
ジョヴァンニ・ゴンザーガ Giovanni Gonzaga
- 生没
- 1474年~1525年9月23日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
- 父
- フェデリーコ1世・ゴンザーガ
- 妻
- ラウラ・ベンティヴォーリオ
- 子
- フェデリーコ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
ジネヴラ・ゴンザーガ
シジスモンド・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
概要
ジョヴァンニ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ヴェスコヴァート領主 1519年~1525年
年表
1474年
マントヴァにて生。
1491年6月20日
ボローニャにて、ラウラ・ベンティヴォーリオと結婚。
1519年6月28日
フェッラーラにて、甥のマントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
葬儀は行われず、教区教会でミサが行われただけで、明日ここを出立するということを申せば、閣下は驚かれるに違いありません。公爵閣下アルフォンソ1世・デステが伴侶ルクレツィア・ボルジアのご遺体をお墓まで運ぶのに付き添われました。コルプス・ドミニ修道院のお母様エレオノーラ・ダラゴーナが安置されているのと同じ墓所に埋葬されました。全市が深い悲しみに包まれ、公爵閣下も心の底からの悲嘆をお見せになりました。10年あまりも馬巣織りの服を纏い、最後の2年間毎日のように告解なさり、毎月3回か4回は聖体を受けたという、立派な行いが報じられました。閣下に忠実な僕より。
1525年9月23日
死。(1523年)
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Famille de Carné
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参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
フェーボ・ゴンザーガ Febo Gonzaga
- 生没
- 1462年頃~1504年5月12日
- 没地
- リヴァローロ・マントヴァーノ
- 父
- ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
- 妻
- マルゲリータ・デステ
- 子
- ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
イッポーリト・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
概要
フェーボ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、庶子、傭兵隊長。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
Wikipedia
ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga
- 生没
- 1480年?~1540年6月
- 出身
- ボッツォーロ
- 没地
- サッビオネータ
- 父
- ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
- 子
- ロドモンテ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
概要
ルドヴィーコ・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
バルバーラ・ゴンザーガ Barbara Gonzaga
- 生没
- 1482年頃~1558年
- 没地
- ヴィアダーナ
- 父
- ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
- 母
- アントーニア・デル・バルツォ
- 夫
- ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ
ヤコポ・マリーア・スタンパ? - 子
- ロベルト・アンブロージオ・サンセヴェリーノ
概要
バルバーラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
別表記
バルバラ
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
パオラ・ゴンザーガ Paola Gonzaga
- 生没
- 1486年~1519年5月30日
- 没地
- ミラノ公国ミラノ
- 父
- リドルフォ・ゴンザーガ
- 母
- カテリーナ・ピコ
- 夫
- ジャンニッコロ・トリヴルツィオ
- 子
- イッポーリタ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ビアンカ・ルチア・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
概要
パオラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1501年
ジャンニッコロ・トリヴルツィオと結婚。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ Gianfrancesco Gonzaga
- 生没
- 1488年2月2日~1524年12月18日
- 出身
- ルッツァーラ
- 父
- リドルフォ・ゴンザーガ
- 母
- カテリーナ・ピコ
- 妻
- ラウラ・パッラヴィチーニ
- 子
- マッシミリアーノ・ゴンザーガ
エリザベッタ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
アンジェラ・ゴンザーガ
イッポリータ・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ガレアッツォ・ゴンザーガ
リドルフォ・ゴンザーガ
概要
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
アロイジオ・ゴンザーガ Aloisio Gonzaga
- 生没
- 1494年4月20日~1549年7月19日
- 出身
- ルッツァーラ
- 没地
- カステル・ゴッフレード
- 父
- リドルフォ・ゴンザーガ
- 母
- カテリーナ・ピコ
- 妻
- カテリーナ・アングィッソーラ
概要
アロイジオ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
別表記
ルイジ
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
カテリーナ・ゴンザーガ Caterina Gonzaga
- 生没
- 1472年2月5日~1525年
- 出身
- マントヴァ
- 父
- リドルフォ・ゴンザーガ
- 夫
- オッタヴィアーノ・ガブリエッリ
概要
カテリーナ・ゴンザーガは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。
容姿
白い肌、青い目。
年表
1472年2月5日
マントヴァにて、生(1476年頃)。
1494年6月24日
ルクレツィア・ボルジアたちが滞在するペーザロに到着。
1510年
夫オッタヴィアーノ・ガブリエッリ、死。
15??年
姉妹のアンジェリカ・ゴンザーガと一緒に、ドミティッラという名で修道女になる。
別表記
Caterina Gonzaga de Montevecchio、Montevegio、Domitilla、Domicilla
外部リンク
the borgias ITALIA
the borgias ITALIA
Wikipedia
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
エレオノーラ・ゴンザーガ Eleonora Gonzaga
- 生没
- 1493年12月31日~1550年2月13日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- ウルビーノ
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・デステ
- 夫
- フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
- 子
- グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
ジューリア・デッラ・ローヴェレ
ジュリオ・デッラ・ローヴェレ
概要
エレオノーラ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
フェデリーコ2世・ゴンザーガ Federico II Gonzaga
- 生没
- 1500年5月17日~1540年8月28日
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・デステ
- 妻
- マルゲリータ・パレオロガ
- 女
- イザベッラ・ボスケッティ
- 子
- アレッサンドロ・ゴンザーガ
フランチェスコ3世・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
イザベッラ・ゴンザーガ
ルドヴィーコ・ゴンザーガ
フェデリゴ・ゴンザーガ
ルイジ・ゴンザーガ
概要
フェデリーコ2世・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
教会の旗手 1519年~15??年
第5代マントヴァ侯 1519年~1530年
第1代マントヴァ公 1530年~1540年
モンフェッラート侯 1536年~1540年
年表
1510年7月14日
人質としてユリウス2世のもとに向かう途中、ヴェネツィア共和国から解放された父フランチェスコ2世・ゴンザーガとボローニャで会う。
1510年
ボローニャでフランチェスコ・フランチアにより肖像画が描かれる。
1510年8月
ローマ到着。
1515年10月19日
人質としてフランス宮廷に向かう。
1519年3月29日
父フランチェスコ2世・ゴンザーガ、死。
1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グイッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世とカール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1527年12月7日
フェデリーコ2世・ゴンザーガ、オデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。
1529年9月
フェデリーコ2世・ゴンザーガ、カール5世よりその軍の指揮官に任用される。
1529年11月末
フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ボローニャに着きカール5世から歓迎を受ける。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ3世・ディ・サヴォイア、フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステはカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1530年3月25日
1530年4月8日
大聖堂前の壮麗な式典でカール5世が、マントヴァを公国に、フェデリーコ2世・ゴンザーガをその公に昇格することを宣言。
1533年2月24日
クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステ、フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1533年4月
妻マルゲリータ・パレオロガの叔父モンフェッラート侯ジャンジョルジョ・パレオロゴ、後継者を残さず死。
1536年11月3日
故モンフェッラート侯ジャンジョルジョ・パレオロゴその領土をカール5世の裁定により妻に封与される。
1536年11月29日
1537年
1537年4月20日
パウルス3世、マントヴァでの公会議開催にあたって警護の兵1千6百を教皇の負担で整えるようにとの公フェデリーコ2世・ゴンザーガの要求を拒否し同地での公会議開催を延期することを、枢機卿会議で決める。
1540年6月28日
死。
肖像
外部リンク
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エステ大辞典
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Medici Archive Project
Treccani.it
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス百科事典』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
リヴィア・ゴンザーガ Livia Gonzaga
- 生没
- 1501年~1508年
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・デステ
概要
リヴィア・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ルネサンスの華』
イッポーリタ・ゴンザーガ Ippolita Gonzaga
- 生没
- 1503年11月13日~1570年3月16日
- 没地
- マントヴァ
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・デステ
概要
イッポーリタ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
エルコーレ・ゴンザーガ Ercole Gonzaga
- 生没
- 1505年11月23日~1563年3月2日
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・デステ
概要
エルコーレ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1527年5月3日~
年表
1522年12月
ピエトロ・ポンポナッツィ宛ての母イザベッラ・デステの推薦状を携え、ボローニャ大学に入学。
1527年5月5日
クレメンス7世により、サンタ・マリア・ヌオーヴァ助祭枢機卿に叙階される。
1540年6月28日
マントヴァ公・モンフェッラート侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ、死。
子フランチェスコ3世・ゴンザーガ、マントヴァ公・モンフェッラート侯となるが、幼少の公・侯の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガと弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガが両領国を支配。
1550年2月21日
1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ死
弟グリエルモ・ゴンザーガ、マントヴァ公・モンフェッラート侯位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。
外部リンク
資料室
Catholic Encyclopedia
GCatholic.com
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
フェッランテ・ゴンザーガ Ferrante Gonzaga
- 生没
- 1507年1月28日~1557年11月15日
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・デステ
- 妻
- エリザベッタ・デ・カプア
- 子
- チェーザレ1世・ゴンザーガ
アンナ・ゴンザーガ
イッポーリタ・ゴンザーガ
フランチェスコ・ゴンザーガ
アンドレア・ゴンザーガ
ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
エルコーレ・ゴンザーガ
オッタヴィオ・ゴンザーガ
フィリッポ・ゴンザーガ
ジェローニマ・ゴンザーガ
マリーア・ゴンザーガ
リヴィア・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ
概要
フェッランテ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。
在位
グアスタッラ伯 1539年~1557年
ミラノ総督 1546年~1554年
年表
1530年8月6日
マラテスタ・バリオーニ、フィリベール・ド・シャロンの後を継いだフィレンツェ包囲カール5世軍指揮官・(フェデリーコ2世・ゴンザーガの弟)フェッランテ・ゴンザーガに使者を送ってフィレンツェとの和議の条件、フィレンツェの自由の保障、メディチ家の完全復辟を聞き出し、フィレンツェのシニョーリアに伝えると共にその受容、和議を勧奨。シニョーリアはこれを拒絶し、逆にマラテスタ・バリオーニに包囲軍の全面的攻撃を命令。マラテスタ・バリオーニはこれを拒否。
1546年3月31日
アルフォンソ3世・ダヴァーロス死。代わってカール5世のシチリア総督・グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ(シチリア総督在位1536年~:グアスタッラ伯1539年~)、ミラノ総督となる(在位~1554年2月)。
1546年9月13日
カール5世、ミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの指名する委員にFrancesco Burlamacchiの審問権を与えると決定。
これによりFrancesco Burlamacchi、ミラノに護送され、1546年10月13日よりNiccolò Belloniの審問を受ける。
1546年末
ジェノヴァやシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年7月21日
カール5世のミラノ総督フェッランテ・ゴンザーガの派遣した軍及び同ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendoza(1503年~1575年:在位1547年~)の派遣した軍、ナポリに入り、Santa Maria Novara教会などを占拠。これに対し反乱派市民・貴族、果敢に抵抗するが、カール5世の服従命令を伝えられて威勢を失い、鎮静。
1547年9月10日
フェッランテ・ゴンザーガ、カール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる(1503年~:パルマ・ピアチェンツァ公1545年~)。
1547年9月12日
フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。
1547年9月16日
子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼをパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世、カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1548年2月14日
この日?、Francesco Burlamacchi、フェッランテ・ゴンザーガの承認の下、ミラノで斬首される(1498年~)。(但し、1548年9月14日斬首とする異説あり)。
1548年8月初旬
アンリ2世、トリノに入る。フェッランテ・ゴンザーガの暗殺とそれを機とするミラノの騒乱を狙っての行動を噂され、警戒される。
1551年6月12日
オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
別表記
フェランテ・ゴンツァーガ、フェルランテ
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Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネサンスの女たち』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
テオドーラ・ゴンザーガ Teodora Gonzaga
- 生没
- 1???年~1519年
- 父
- フランチェスコ2世・ゴンザーガ
- 夫
- エネア・フルラーノ・ダ・カヴリアーナ
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga
- 生没
- 1497年~1527年
- 父
- ジョヴァンニ・ゴンザーガ
- 母
- ラウラ・ベンティヴォーリオ
- 妻
- イッポーリタ・スフォルツァ
- 子
- マッシミリアーノ・ゴンザーガ
概要
アレッサンドロ・ゴンザーガは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ヴェスコヴァート領主 1525年~1527年
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カミッラ・ゴンザーガ Camilla Gonzaga
- 生没
- 1500年~1585年
- 父
- ジョヴァンニ・ゴンザーガ
- 母
- ラウラ・ベンティヴォーリオ
- 夫
- ピエル・マリーア3世・デ・ロッシ
概要
カミッラ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Palio di San Secondo
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ロドモンテ・ゴンザーガ Rodomonte Gonzaga
- 生没
- 1500年8月16日~1532年12月2日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- ヴィコヴァーロ
- 父
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ
- 子
- ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ
概要
ロドモンテ・ゴンザーガはイタリアの傭兵隊長。
別表記
Ludovico
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Condottieri di ventura
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参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
イッポーリタ・ゴンザーガ Ippolita Gonzaga
- 生没
- 1510年頃~
- 父
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ
- 夫
- ガレオット2世・ピコ
- 子
- ルドヴィーコ2世・ピコ
概要
イッポーリタ・ゴンザーガは、16世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
ジューリア・ゴンザーガ Giulia Gonzaga
- 生没
- 1513年~1566年4月16日
- 父
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ
- 夫
- ヴェスパシアーノ・コロンナ
概要
ジューリア・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの女性。
年表
1534年
この年頃ナポリに移住したJ. de Valdésを中心として教会改革と霊的再生を求める人々の小サークルが結成される。彼の死(1541年)までにジューリア・ゴンザーガ、ヴィットーリア・コロンナ、カテリーナ・チーボ、Constanza d'Avalosら君侯夫人・寡婦、M. A. Flaminioら人文主義者、G. Seripando、B. Ochino、P. M. Vermigli、Pietro Carnesecchiら聖職者が集い、イタリアにおける教会改革運動の拠点の観を呈する。後、第三者は新教を信仰し宗教改革運動に従事。
別表記
ジューリア・ゴンツァーガ・コロンナ
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ルネサンスのセレブたち
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Internet Archive - A princess of the Italian reformation
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani.it
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参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
アレッサンドロ・ゴンザーガ Alessandro Gonzaga
- 生没
- 1520年~1580年
- 没地
- マントヴァ
- 父
- フェデリーコ2世・ゴンザーガ
- 母
- イザベッラ・ボスケッティ
概要
アレッサンドロ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、マントヴァ公の国務顧問官。フランドルでスペイン軍に従軍。
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ルネサンスの華』
フランチェスコ3世・ゴンザーガ Francesco III Gonzaga
- 生没
- 1533年3月10日~1550年2月21日
- 父
- フェデリーコ2世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・パレオロガ
- 妻
- カタリーナ・フォン・ハプスブルク
概要
フランチェスコ3世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。
在位
第2代マントヴァ公 1540年~1550年
モンフェッラート侯 1540年~1550年
年表
1540年6月28日
マントヴァ公・モンフェッラート侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ死(1500年~:マントヴァ侯・公在位1519年~1530年・1530年~:モンフェッラート侯在位1536年~)——子フランチェスコ3世・ゴンザーガ(1533年~)、マントヴァ公・モンフェッラート侯となるが、幼少の公・侯の摂政として故人の妻マルゲリータ・パレオロガ(?~1566年)と弟・枢機卿エルコーレ・ゴンザーガ(1505年~1563年:在位1527年~1563年)が両領国を支配。
1543年6月12日
対フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ、フランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアでコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1549年10月27日
フランチェスコ3世・ゴンザーガ、母と叔父の後見(1540年~)を脱し、フェルディナンドの次女カタリーナ・フォン・ハプスブルク(1533年~1572年)と結婚。
1550年2月21日
1549年10月母と叔父の後見を脱したばかりのフランチェスコ3世・ゴンザーガ死(1533年~:マントヴァ公・モンフェッラート侯在位1540年~)——弟グリエルモ・ゴンザーガ(1538年~1587年)、マントヴァ公・モンフェッラート侯位を継ぎ(在位~1587年)、叔父エルコーレ・ゴンザーガ、再び摂政となる。
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The Medici Archive Project
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
グリエルモ・ゴンザーガ Gulielmo Gonzaga
- 生没
- 1538年4月24日~1587年4月14日
- 父
- フェデリーコ2世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・パレオロガ
- 妻
- エレオノーラ・ダズブルゴ
- 子
- アンナ・ゴンザーガ
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
概要
グリエルモ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。
在位
第3代マントヴァ公 1550年~1587年
モンフェッラート侯 1550年~1575年
モンフェッラート公 1574年~1587年
年表
別表記
グリエルモ1世、Guglielmo
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The Medici Archive Project
Treccani.it
参考文献
『愛の年代記』
『ルネサンスの女たち』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『Bibliotechina Grassoccia』
『Lost Girls』
ルドヴィーコ・ゴンザーガ Ludovico Gonzaga
- 生没
- 1539年9月18日~1595年10月23日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- ネスル
- 父
- フェデリーコ2世・ゴンザーガ
- 母
- マルゲリータ・パレオロガ
概要
ルドヴィーコ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
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チェーザレ1世・ゴンザーガ Cesare I Gonzaga
- 生没
- 1530年~1575年2月15日
- 没地
- グアスタッラ
- 父
- フェッランテ・ゴンザーガ
- 子
- マルゲリータ・ゴンザーガ
概要
チェーザレ1世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。
在位
グアスタッラ伯 1557年~1575年
アマルフィ公 15??年~1575年
先代:アルフォンソ2世・ピッコロ―ミニ
次代:フェッランテ2世・ゴンザーガ
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ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ Gian Vincenzo Gonzaga
- 生没
- 1540年9月8日~1591年12月23日
- 出身
- パレルモ
- 没地
- ローマ
- 父
- フェッランテ・ゴンザーガ
概要
ジャン・ヴィンチェンツォ・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1578年2月21日~
サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ助祭枢機卿 1578年11月21日~1583年12月19日
年表
1578年2月21日
グレゴリウス13世により、枢機卿に選出される。
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The Cardinals of the Holy Roman Church
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参考文献
『Lost Girls』
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ Vespasiano I Gonzaga
- 生没
- 1531年12月6日~1591年2月26日
- 出身
- フォンディ
- 没地
- サッビオネータ
- 父
- ロドモンテ・ゴンザーガ
- 妻
- ディアナ・デ・カルドーナ
アンナ・デ・アラゴン
マルゲリータ・ゴンザーガ - 子
- イザベッラ・ゴンザーガ
概要
ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガは、16世紀のイタリアの男性。
在位
サッビオネータ公 1577年~1591年2月26日
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
アンナ・ゴンザーガ Anna Gonzaga
- 生没
- 1566年1月17/27日~1621年8月3日
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- インスブルック
- 父
- グリエルモ・ゴンザーガ
- 母
- エレオノーラ・ダズブルゴ
- 夫
- フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク
概要
アンナ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀の女性。
年表
1582年5月14日
インスブルックでフェルディナンド2世・フォン・ハプスブルクと結婚。
別表記
Anna Caterina
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参考文献
『愛の年代記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ Vincenzo Gonzaga
- 生没
- 1562年9月21日~1612年2月9日
- 出身
- マントヴァ
- 父
- グリエルモ・ゴンザーガ
- 母
- エレオノーラ・ダズブルゴ
- 妻
- マルゲリータ・ファルネーゼ
エレオノーラ・デ・メディチ - 子
- フランチェスコ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
概要
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。
在位
第4代マントヴァ公 1587年~1612年
モンフェッラート公 1587年~1612年
年表
1562年9月21日(月)
マントヴァで生。
1581年3月2日(木)
ピアチェンツァでマルゲリータ・ファルネーゼと結婚。
1582年5月14日(月)
姉アンナ・ゴンザーガがフェルディナンド2世・フォン・ハプスブルクと結婚。
1583年5月26日(木)
マルゲリータ・ファルネーゼとの結婚解消。
1583年5月
1583年11月12日(土)
メディチ家が要求する男性能力を証明するための「試験」に同意。より具体的には処女と性交できるだけの持続力が疑問視されていた。
1584年1月6日(金)
持参金は30万スクードとされることが交渉される。
1584年1月30日(月)
メディチ家はフィレンツェ人処女との試験を中立のフェッラーラにおいて行なうことを要求。女性はその後女子修道院に入り、子供はフィレンツェの捨て子養育院に入る予定だった。
1584年
この頃、しかし、ヴィンチェンツォとチェーザレ・デステが難色を示すと、メディチ家は妥協することに同意。
1584年2月17日(金)
試験実施に両家が同意。犠牲が少なく、後で面倒がかからないようなフィレンツェ人の処女が探し始められる。
1584年2月21日(火)
秘書官で医者のマルチェッロ・ドナーティに書簡をしたためる。相手となる女性を見定めるように。もし相応しくないようであれば、秘密を守らせたまますぐにヴェネツィアへ送るように、などと書く。
1584年3月8日(木)
ヴェネツィアに到着。すぐにジューリア・デリ・アルビッツィに会うが、旅のせいで疲れていてはいけないので試験は実施されず。
1584年3月9日(金)
夜、再びジューリア・デリ・アルビッツィと会うが、贖罪の日の金曜日は禁欲しなければならないとされているので、実施されず。しかし、聖週間に入る前までには試験を終わらせる予定。
1584年3月11日(日)
夜、ジューリア・デリ・アルビッツィの滞在する屋敷に行き、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチの側近ベリザーリオ・ヴィンタ大臣が別室に控える中、試験を試みるも失敗。理由は腹痛。
1584年3月14日(水)
朝、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。
夜、再び試験実施。成功する。
1584年3月15日(木)
朝、隣にジューリア・デリ・アルビッツィが横たわっているベッドの上で、医師ピエトロ・ガッレットによる診察を受ける。陰茎の付け根に瘻孔があるが、性交の障害とはならないと診断される。(梅毒の初期症状)
1584年3月18日(日)
夜、試験の成功を確かなものとするため、もう1度実施される。
1584年4月29日(日)
マントヴァでエレオノーラ・デ・メディチと再婚。持参金は30万スクード。
1584年6月
花嫁のエレオノーラ・デ・メディチと共にヴェネツィアを公式訪問、大歓迎を受ける。
1609年
アメリカ探索に出資。原住民がそう言われているように精力旺盛で、そういう薬や塗り薬などがあるのかを探す目的のものであった。しかし、この探検隊が帰国する前に彼は亡くなっている。
1612年2月9日(木)
死。
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けんてーごっこ
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Famille de Carné
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Genealogy
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Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
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The Medici Archive Project
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参考文献
『愛の年代記』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『Bibliotechina Grassoccia』
『Lost Girls』
『Pompeo Caccini and Euridice』
マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga
- 生没
- 1564年~1618年
- 父
- グリエルモ・ゴンザーガ
- 母
- エレオノーラ・ダズブルゴ
- 夫
- アルフォンソ2世・デステ
概要
マルゲリータ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
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参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
マルゲリータ・ゴンザーガ Margherita Gonzaga
- 生没
- 1562年~1618年6月14日
- 出身
- ローマ
- 没地
- グアスタッラ
- 父
- チェーザレ1世・ゴンザーガ
- 夫
- ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ
概要
マルゲリータ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
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Treccani.it
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参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
イザベッラ・ゴンザーガ Isabella Gonzaga
- 生没
- 1565年1月12日~1637年2月10日
- 出身
- サッビオネータ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- ヴェスパシアーノ1世・ゴンザーガ
概要
イザベッラ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
在位
サッビオネータ公 1591年2月26日~1637年2月10日
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参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
エレオノーラ・ゴンザーガ Eleonora Gonzaga
- 生没
- 1598年~1655年
- 父
- ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
- 母
- エレオノーラ・デ・メディチ
- 夫
- 皇帝フェルディナンド2世
概要
エレオノーラ・ゴンザーガは、16世紀から17世紀の女性。
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『メディチ家の人びと』
フランチェスキーノ・ゴンザーガ Franceschino Gonzaga
- 生没
- 1???年~15??年
概要
フランチェスキーノ・ゴンザーガは、ローマ駐在マントヴァ侯国大使。
参考文献
『ルネサンスの華』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2023年5月15日