Bartolomeo d'Alviano

バルトロメオ・ダルヴィアーノ

生没年:1455年~1515年10月7日
父:フランチェスコ・ダルヴィアーノ
母:イザベッラ・デリ・アッティ
妻:バルトロメア・ディ・ナポリオーネ・オルシーニ
  ペンテジーレア・バリオーニ
子:イザベッラ・リヴィアーナ・ダルヴィアーノ

概要

 バルトロメオ・ダルヴィアーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

年表

1498年10月末
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロと共に指揮するヴェネツィア軍は、カゼンティーノ地区のビッビエーナを占領。この軍にピエロ・イル・ファトゥオジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟が従う。
1503年8月
アレクサンデル6世の死の知らせを受けるとすぐ、ヴェネツィア共和国シニョーリアの許可を得ずに、ローマに向かい進軍。
ラヴェンナにて、パンドルフォ4世・マラテスタと合流し、リーミニ奪還を助勢。
1503年8月29日
リーミニの抵抗を受け、失敗。
この日付でヴェネツィア共和国がラヴェンナレットーレ宛に手紙を書き、バルトロメオ・ダルヴィアーノに帰還命令を出す。
1503年9月1日
ヴェネツィア共和国からの手紙が届かなかったとして、チェゼナーティコを占領。ディオニジ・ナルディチェゼーナに撤退。
1503年9月3日
ジョヴァンニ・スフォルツァペーザロ奪還を助勢。
1503年9月
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ軍と共にチェゼーナ攻撃を準備。
1503年10月
ローマ到着。
1503年10月10日
10刻、ジャンパオロ・バリオーニを伴って、教皇庁駐在ヴェネツィア共和国大使アントーニオ・ジュスティニアーニを突如訪問。激怒して、チェーザレ・ボルジアを「死ぬまで攻め苛む」と言い放つ。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世ヴェネツィアヴィテッリ家オルシーニ家パンドルフォ・ペトルッチフィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家ジョヴァンニ・デ・メディチジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。その軍事行動の指揮を担当。
1505年5月28日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ、ペストにより急死。しかしその反フィレンツェ策動は、パンドルフォ・ペトルッチジャンパオロ・バリオーニと共に継承する。
1505年7月末~8月初旬
シエナからフィレンツェに向かって進軍を開始。
1505年8月17日
指揮下のフィレンツェ攻撃軍は、Antonio Giacomini Tebalducciを前線総監としエルコーレ・ベンティヴォーリオマルカントーニオ・コロンナヤコポ・サヴェッリら傭兵隊長を指揮官とするフィレンツェ軍にサン・ヴィンチェンツォで撃破される。自身はシエナに敗走。
1508年2月下旬~3月
マクシミリアン1世は、軍と共にヴェネツィア領フリウーリ、Cadoreに侵攻するが、指揮下のヴェネツィア軍はこれを撃破し、逆にゴリツィア、トリエステなどハプスブルク家の所領を占領。
1509年4月15日
指揮下のヴェネツィア軍、ヴェネツィアを攻撃するフランチェスコ2世・ゴンザーガを撃退。
1509年5月14日
アニャデッロの戦:指揮下のヴェネツィア軍、ルイ12世自ら率いるフランス軍にヴァイラ(ヴァイラーテ)近くのアニャデッロにおいて3時間余の戦闘で撃破される。大戦の中で自身は負傷し捕虜となる。以後、ヴェネツィアは領土拡大政策を放棄(1425年~1509年)。
1513年3月23日
ブロワ協定:イタリア侵攻とミラノ奪回を目指すルイ12世と自領回復、拡大を目指すヴェネツィアは、ルイ12世ヴェネツィアにベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、Ghiara d'Addaの領有を認め、捕虜としているバルトロメオ・ダルヴィアーノを釈放すること、ヴェネツィアは彼に軍を提供することなどにつきブロワで協定。
1513年5月
Louis de la Trémouilleジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍は、ミラノを奪回すべくイタリアに侵攻し、アレッサンドリアなどを難なく制圧。
ジェノヴァルイ12世軍に服し、Antoniotto Adornoルイ12世の総督になる。
指揮下のヴェネツィア軍も出陣し、ヴァレッジョ、ペスキエーラを占領してクレモーナに入る。ベルガモ、ブレッシャもヴェネツィアに服し、マッシミリアーノ・スフォルツァ軍の入城を拒絶。
1513年6月6日
ルイ12世は、ノヴァーラで大激戦の末ミラノ側のスイス連邦軍に完敗するなど、各地で敗退。指揮下のヴェネツィア軍もローディでライモンド・ディ・カルドーナ指揮のフェルディナンド・ダラゴーナ軍に阻まれてルイ12世軍を支援できず。ルイ12世軍は、間もなくイタリアから撤退。
1513年9月17日
ライモンド・ディ・カルドーナヴェネツィアを全面的に屈服させるべく神聖同盟軍を率いてヴェローナを出、パドヴァを攻撃し、その周辺地域で略奪、放火を欲しいままにすると共にヴェネツィア市内をも砲撃するが、指揮下のヴェネツィア軍が阻んで撤退させる。
1513年10月7日
指揮下のヴェネツィア軍、ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍に、ヴィチェンツァ近郊Olmoで大激戦の末、破られる。ヴェネツィア軍総指揮官ジャンパオロ・バリオーニなど捕虜となる。
ライモンド・ディ・カルドーナはなおパドヴァを攻撃し続け、ヴェネツィアは戦闘態勢を再整備。
1515年8月
フランソワ1世、大軍を率いてCol d'Argentièreからアルプスを越えイタリアに侵攻。サヴォーナを海から攻めて制圧し、ジェノヴァを押さえ、トルトーナ、アレッサンドリア、アスティなどを占領。
オッタヴィアーノ・フレゴーソは、彼に忠誠を誓い、その総督としてジェノヴァを統治。
フランソワ1世軍の侵攻と同時に指揮下のヴェネツィア軍もロンバルディアに出撃。マントヴァ、クレモーナを制圧しフランソワ1世の名で占領。
1515年9月13~14日
マリニャーノの戦:指揮下の精鋭部隊も加わったフランソワ1世軍は、ミラノ軍、スイス連邦軍をミラノ近郊マリニャーノで撃破。
マッシミリアーノ・スフォルツァは、フランソワ1世のもとに使節を送ってミラノの鍵と大金の提供を約束するが、城塞はなお自ら確保。そのためフランソワ1世は、ミラノに入城せず城塞の攻撃を開始。
スイス連邦軍は、マリニャーノの敗北を機にイタリアから撤退し帰国。以後、独立した軍としてはイタリア戦争から姿を消す。
1515年10月7日
ブレッシャで死。

別表記

 バルトロンメーオ・アルヴィアーノ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2006年10月27日以前
傭兵隊長
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで