- 生没
- 1472年1月17日~1508年4月11日
- 出身
- ウルビーノ公国グッビオ
- 没地
- フォッソンブローネ
- 父
- フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
- 母
- バッティスタ・スフォルツァ
- 妻
- エリザベッタ・ゴンザーガ
概要
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ウルビーノ公 1482年~1502年
グッビオ公
ウルビーノ公 1503年~1508年
教会の旗手 1504年~1508年?
年表
1472年1月17日
グッビオにて、生。
1478年2月14日
シクストゥス4世からの贈り物である首飾りを受け取る。日曜日のミサで大喜びで見せびらかす。
1482年9月10日
父フェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロ死。ウルビーノ公となる。
1489年2月11日
エリザベッタ・ゴンザーガと結婚。
1496年6月1日
この日?アレクサンデル6世、再びローマ貴族の制圧に乗り出し、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロを雇ってオルシーニ家に公然と宣戦。バリオーニ家、ローヴェレ家、ヴィテッリ家はオルシーニ家を、コロンナ家はアレクサンデル6世を支援(1496年~1497年)。
1498年10月末
バルトロメオ・ダルヴィアーノやグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの指揮するヴェネツィア軍は、カゼンティーノ地区のビッビエーナを占領。この軍にピエロ・イル・ファトゥオ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟が従う。
1499年2月半ば
この頃?、病に陥ったヴェネツィア共和国軍の指揮官グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは、自身と自身の軍隊の安全を保障するよう、フィレンツェ共和国軍傭兵隊長パオロ・ヴィテッリに要請。直ちに受諾される。
1502年6月11日
アレッツォの外交官に金と軍需品を送るのと同時に、手紙をしたためる。ヴィテロッツォ・ヴィテッリに歩兵1千の援軍を求められたが、教皇の許可を要することを告げると、「彼は強い拒絶を示し、できないと言った」。
1502年6月
教皇アレクサンデル6世のコッミッサーリオ・ジェネラーレのフランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスに返信するため、総代理官ドルチェ・デ・ロッティをペルージアに派遣し、要請を受託。さらに、スポレートにいるチェーザレ・ボルジアのもとにもドルチェ・デ・ロッティを向かわせ、便宜全てを図ると申し出る。
1502年6月20日(月)
戻ってきたドルチェ・デ・ロッティを、この日、再びチェーザレ・ボルジアのもとへ派遣。「フランス王ルイ12世から解放されるための」教皇小勅書は間に合わない。それよりも、歩兵5百を集めるためにヴィテロッツォ・ヴィテッリが部下の1人を送れば、十分足りるであろう1千ドゥカートを出す用意がある。
カーリのコッミッサーリオが、「チェーザレ・ボルジアが敵としてやってきており、翌朝ウルビーノに向かう」と警告。
1502年6月21日(火)
▼チェーザレ・ボルジア軍にウルビーノが占領される。
24刻(現21時)、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが町の外で夕食を食べている時、フォッソンブローネの代理官から警告を聞く。イーゾラ・ディ・ファーノとサン・マリーノ共和国から兵1千の他、ヴェルッキオ、サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャから進軍しているとの情報を得る。
4刻(現1時)、サン・レオ要塞へ向け、弩兵数人とフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと共に、出発。
夜明け、サン・レオ要塞から4マイル地点で、チェーザレ・ボルジア軍歩兵が道を占拠していることに気づき、フィレンツェ共和国との国境に位置するサンターガタ・フェルトリアに向かう。
サンターガタ・フェルトリアで、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレをバーニョ・ディ ロマーニャに向かわせる。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは農夫に変装し、弩兵を解散し、サルシーナ司教区の城の間の山を通って逃げる。
ボレッロで悪漢の襲撃から逃れ、1502年6月22日にかけての夜、ヴェネツィア共和国領カステルヌオーヴォ到着。
1502年6月22日(水)
事情を知っていたラヴェンナのレットーレが馬数頭を連れた者を向かわせるが、痛風のグイドバルド・ダ・モンテフェルトロを休息させるため、メルドーラの役人がその者を引き留める。
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロはメルドーラの城に留まる。メルドーラの役人はフィレンツェ共和国領ガレアータの方角つまりトスカーナに向かわないように、ラヴェンナ直通の道を指示。
夜を待たずにメルドーラ出発。ベルティノーロとチェゼーナの間を行く。
1502年6月23日
夜明け、ラヴェンナ到着。
1502年6月25日
フェッラーラ到着。
1502年6月28日
マントヴァ到着。マントヴァにて、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿宛に手紙をしたためる。自分の状況を記述。
1502年
義兄マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガと共にミラノにいるフランス王ルイ12世のもとへ。
自分の不名誉を訴えるが、ルイ12世には冷たくされる。
1502年8月5日
チェーザレ・ボルジアがミラノ到着。
1502年9月初め
妻エリザベッタ・ゴンザーガと、ヴェネツィアに亡命。
1502年9月末~10月9日
甥オッタヴィアーノ・フレゴーソを代理として、マジョーネの会合に送る。
1502年10月15日
姉ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロのセニガッリアで上陸。
1502年10月18日
ウルビーノに復帰:モンテフェルトロ経由で、10人の供を率いて馬に乗り、ウルビーノ到着。外套と司教冠を着けたウルビーノ司教ジャン・ピエトロ・アッリヴァベーネが祝う。
甥オッタヴィアーノ・フレゴーソとジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノが追従。
1502年
タヴォレートを奪還した後、リーミニ周辺へ目指す。
1502年11月前半
安全保障を交渉するため、オッタヴィアーノ・フレゴーソをチェーザレ・ボルジアのもとへ送る。
1502年11月
カーリ司教に相談し、主権の譲渡が必要と言われる。しかし、パオロ・オルシーニが戻ってくるまで執行せず。
領民からは堅持するよう求められ、ヴァルボーナの女性から銀と金の装身具を戦いのために贈与される。しかし、マジョーネ同盟に見捨てられ、ヴェネツィア共和国の支援も望めず、退去を決意。
ペルゴーラとカーリを含む修復された要塞を破壊。
1502年12月
パオロ・オルシーニとアントーニオ・チョッキ・デル・モンテがウルビーノから5マイルの城に到着し、来るよう求められるが、痛風を理由に謝絶。
パオロ・オルシーニとアントーニオ・チョッキ・デル・モンテがウルビーノ到着。サン・マリーノが直ちに協定を結ぶために大使を派遣。
チェーザレ・ボルジアの代理パオロ・オルシーニと、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロが動産を持参できること、チェーザレ・ボルジアが「確約する」までサン・レオとマイウオーロとモンテクッコロとサン・マリーノの城の所有を維持できることを合意。
1502年12月7日
有力者たちを集め、教皇とチェーザレ・ボルジアに対抗することはできないので、民衆に害が及ばないよう退去することを決定。「神が運命をお変えになる気になられるまで、皆じっと耐え、ヴァレンティーノ公に仕えるよう」決断を下す。
1502年12月8日
アントーニオ・チョッキ・デル・モンテに地位を譲り、2千人を伴ってチッタ・ディ・カステッロへ向けウルビーノ出発(1502年12月19日)。チッタ・ディ・カステッロ司教ジューリオ・ヴィテッリが随行。
1502年12月
フォッソンブローネ、ペルージアを経て、チッタ・ディ・カステッロ到着。
1503年1月
チッタ・ディ・カステッロ出発。フィレンツェ共和国領を通って、ヴェネツィアへ向かう。
ヴェネツィア共和国政府から月1百ドゥカート支給され、カンナレージョに滞在。
1503年8月
ヴェネツィア共和国から3千ドゥカートを借り、出発。ラヴェンナ、メルドーラを経由して、ウルビーノへ向かう。
1503年8月24日
1503年8月28日
ウルビーノにグイドバルド・ダ・モンテフェルトロが復辟。
1503年9月16日
ジャンパオロ・バリオーニやグイドバルド・ダ・モンテフェルトロを中心とするチェーザレ・ボルジアのかつての傭兵隊長たちは、反ボルジアの同盟をペルージアで締結。
1503年9月29日
フランス王ルイ12世からの警告により自国の傭兵隊長を差し向けられないヴェネツィア共和国の支援を得て、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ軍がセニガッリア占領。
1503年9月
グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ軍がファーノとフェルモを攻撃するが、市民の抵抗にあう。
1503年12月2日
チェーザレ・ボルジア、ユリウス2世の代理グイドバルド・ダ・モンテフェルトロにロマーニャの全面返還を承認し、ユリウス2世に全面的に降伏。
1504年5月10日
この日頃?、ユリウス2世、すでに教会の旗手に登用していたグイドバルド・ダ・モンテフェルトロをウルビーノ公として正式に承認すると共に彼の養子として自分の甥でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレを縁組させ、ウルビーノの公位の後継者に指名。
1504年
甥フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレを養子に迎える。
1506年9月8日
ペルージアの君主ジャンパオロ・バリオーニは、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの勧奨に従い、オルヴィエートに駆けつけてユリウス2世に、ペルージアとその要塞の明け渡し、子どもの人質としての提出、ボローニャ制圧への参陣などを約して全面的に屈服。
1506年9月25日
1508年4月11日
フォッソンブローネで死。
肖像
持病
痛風。
別表記
グイード、グィード・ウバルド、グィドバルド公
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Treccani.it
Treccani.it
Treccani.it
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前