- 生没
- 1414年7月21日~1484年8月12日
- 父
- レオナルド・デッラ・ローヴェレ
- 母
- ルキーナ・モンレオーネ
概要
フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレは、15世紀のイタリアの男性、聖職者。第212代教皇シクストゥス4世。
在位
フランシスコ会総長 1464年5月20日~1469年5月19日
枢機卿(任命パウルス2世) 1467年9月18日~1471年
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ司祭枢機卿 1467年11月20日~1471年8月10日
第212代教皇 1471年8月25日~1484年8月12日
著作
『キリストの血』
『神の力』
『将来起こる出来事について』
年表
1471年8月9日
教皇に選出される。
1471年8月25日
教皇に即位。
1471年9~10月
ロレンツォ・イル・マニーフィコを代表とするフィレンツェ使節団が、ローマに来て表敬、教皇即位を祝賀される。
メディチ銀行に教皇庁の財務管理を正式に委ねる。
1471年12月6日
甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレと、ピエトロ・リアリオとを枢機卿に叙任。
さらに、間もなくピエトロ・リアリオをフィレンツェ大司教にも叙任。
1471年12月23日
オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を説く使節を枢機卿の中から選んでヨーロッパ各国に送ることを決め、ヨハネス・ベッサリオン、ロドリゴ・ボルジア、アンジェロ・カプラーニカ、マルコ・バルボをこの任に当てる。
1471年
マティアス・コルヴィヌスに祝福された剣を授与。
1477年
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガに黄金の薔薇を授与。
1471年12月末
各国にオスマン・トルコに対する防衛の具体案を講ずるよう促す勅書を発する。
1472年3月末
甥レオナルド・デッラ・ローヴェレをローマの総督に任命。さらにこの直後レオナルド・デッラ・ローヴェレとフェッランテ・ダラゴーナの庶出の娘との結婚を整え、フェッランテ・ダラゴーナよりラツィオのフロジノーネ近郊ソーラなどの領地を婚資として得る。
1472年4月以降
オスマン・トルコに対するキリスト教世界の防衛を説く使節が出発。
1473年2月26日
カテリーナ・スフォルツァの結婚における変則を整える勅書を発行。
1473年7~8月初め
この頃、フィレンツェのフランチェスコ・デ・パッツィから得た資金を基にガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからイーモラを購入し、間もなく甥ジローラモ・リアリオに封与。
1474年1月5日
甥ピエトロ・リアリオ急死。
反メディチ派のフランチェスコ・サルヴィアーティをフィレンツェ大司教に任命。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあいフランチェスコ・サルヴィアーティは着任できず。やむなく後に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの義兄弟リナルド・オルシーニを任命。
1474年
フランセスク・デル・ミラがバルセロナ大聖堂参事会員に就けるよう勅書を発する。
1474年6月初め~半ば
フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配しているニッコロ・ヴィテッリを排しようと企図して、甥ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿配下の軍を向ける。しかし、ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。
1474年7月
メディチ銀行への教皇庁の財産管理の委託を中止し、これをパッツィ銀行に委託。
1474年8月21日
ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロをウルビーノ公に叙任。
1474年8月23日
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロをニッコロ・ヴィテッリ排除の軍の指揮官に任命。
1474年8月末
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの令名と威勢によりニッコロ・ヴィテッリをチッタ・ディ・カステッロからようやく排除。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコらを支援者とするニッコロ・ヴィテッリを厳罰には処せず。ニッコロ・ヴィテッリはフィレンツェに保護される。
1474年10月10日
甥ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロを結婚させることにする。
1474年10月12日
1474年10月14日
先に他界したピサ大司教フィリッポ・デ・メディチの後任にフランチェスコ・サルヴィアーティを任命。しかし、またロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあい、以後3年着任できず。
1474年11月2日
ヴェネツィア、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコ及びミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが、25年間の共同防衛同盟を締結。加盟を呼びかけられるが、これに警戒心を強める。
1475年1月上旬
この頃?、ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ同盟に対抗して、ローマでフェッランテ・ダラゴーナと同盟を結ぶ。以後イタリアはしばらくこの二大同盟に分かれる。
1475年3月26日
復活祭、神聖ローマ帝国トレント司教領トレントでシモニーノという2歳半の男児の死体が、ユダヤ人の住居近くの水路で発見される。
1475年6月6日
1475年5月末からウクライナ南部クリミアにおけるジェノヴァの植民地の拠点フェオドシヤ(カッファ)を攻撃していたオスマン・トルコ軍、これを占領・制圧。1475年以降クリミア・ハン国はオスマン・トルコに臣従。
1475年8月3日
トレント司教ヨハネス・ヒンダーバッハに対し、教皇特使ヴェンティミーリア司教ジャンバッティスタ・デ・ジューディチが到着するまでシモニーノ・ディ・トレント死亡事件の司法手続きを中断するよう命じる。
1475年11月
この頃までに、バルトロメオ・プラティナをヴァティカン図書館長に任命し、教皇列伝の執筆を依頼。
1475年
1476年6月
トルファの明礬の販売に関する独占権をメディチ家から取り上げ、パッツィ家に与える。
1477年5月
甥ジローラモ・リアリオの暗殺を計画していたとして、ローマで2人の男が捕らえられる。
1477年5月11日
ローマ駐在ミラノ大使を通じて、ジローラモ・リアリオの妻カテリーナ・スフォルツァがローマに来るのは安全ではないとして延期を促す。
1477年5月18日
カテリーナ・スフォルツァ宛てに歓迎の小勅書を発する。
1477年
アルフォンソ2世・ダラゴーナに祝福された剣を授与。
1478年2月8日
1477年来、ロレンツォ・イル・マニーフィコの後援を得たカルロ・フォルテブラッチの攻撃に曝され教皇に支援を求めてきたシエナが、この日、フェッランテ・ダラゴーナとの同盟に加盟。
1478年3月27日
ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノが、フェッランテ・ダラゴーナとの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。
1478年4月26日
1478年
フィレンツェの事態を知り、聖職者、教会関係者の免責権が犯されたと激怒し、その罪の償いとラッファエーレ・サンソーニの即時釈放、ロレンツォ・イル・マニーフィコの追放などを強く求める。
1478年6月1~4日
1日に公布。ロレンツォ・イル・マニーフィコとロレンツォ・イル・マニーフィコに追従する官職者の破門を宣言し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの追放、身柄の教会への引渡しを行わなければフィレンツェを聖務禁止に処すと警告する勅書を発する。
1478年6月20日
フィレンツェを聖務禁止に処する。しかしフィレンツェはこれを無視。
教皇勅書を発行し、シモニーノ・ディ・トレント死亡事件における捜査が合法的に行われたことを認めるが、男児の死に関する事実認定を避け、ユダヤ人に対する教皇の保護と儀式的殺人裁判の違法性を再度主張。
1478年6月25日
フェッランテ・ダラゴーナと共に、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。
1478年7月半ば
この頃までに、フェッランテ・ダラゴーナと共に、フィレンツェに宣戦。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教会軍とカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ指揮のフェッランテ・ダラゴーナ軍、モンテプルシアーノ方面からフィレンツェ領内に侵攻。なお戦闘態勢の整わないフィレンツェ軍を圧して各地の城塞を占領。
1478年7月25日
ローマでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ宛書簡をしたためる。半分はぎこちないラテン語で、残りの半分は俗語であるイタリア語で綴られており、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの全面的な勝利を信じていると励ましの言葉を送る。
1478年8月1日
ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ、フェッラーラ及びルイ11世の使節たち、会合し、教皇のロレンツォ・イル・マニーフィコ及びフィレンツェへの敵対はオスマン・トルコを利するだけの、キリスト教世界への敵対行為であると非難の声明を発表。
この頃?、フリードリヒ3世からも、フィレンツェに向けている軍を直ちにオスマン・トルコに向けるよう勧奨される。
しかし、これらの非難、勧奨を無視しフィレンツェ領内で戦闘を続行。
1478年夏
ヴェネツィア、ローマ及びトスカーナ各地などでペスト蔓延。フィレンツェ領内の両陣営、共にペストに悩まされる。
1478年11月1日
カスティーリャ王イサベル1世・デ・カスティーリャの要請により、主としてConversos(改宗者、新キリスト教徒)の異端を取り締まる異端審問所の開設を許可。
1479年1~2月半ば
公会議の開催を求めるルイ11世の使節に対し、これを拒否すると共にロレンツォ・イル・マニーフィコを強く非難し、ルイ11世は彼に贖罪を説くべきと反論。
1479年2月15日
この日から開催された枢機卿会議でフリードリヒ3世の使節は、ルイ11世の求める公会議の開催は否定しながらも教皇に対し、フリウーリや上部イタリアにも及んでいるオスマン・トルコの進撃を考慮し慈悲をもってフィレンツェと和を講ずるべきと主張。枢機卿の多くもこれに賛同するが、ジローラモ・リアリオとフェッランテ・ダラゴーナの対フィレンツェ強硬姿勢に傾く教皇は首肯せず。
1479年4月
ロレンツォ・イル・マニーフィコの追放を求め、これを峻拒するフィレンツェと、非難を応酬。
1479年5月
義姪カテリーナ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。男女の修道院入りを許可。
1479年5月末
ヴェネツィアとミラノの使節団から、それぞれフィレンツェとの和平を求められるが、峻拒する。
1479年9月18日
ミラノ公妃ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。チッコ・シモネッタの逮捕を喜ぶ。
1479年9月20~22日
自陣の指揮官カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナとフェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロへの書簡で、ロレンツォ・イル・マニーフィコのフィレンツェからの追放をこれまでにも増して強く主張。
1480年1月8日
ローマの復元計画を発表。
1480年3月6日
ロレンツォ・イル・マニーフィコはポッジボンシ、Colle Valdelsaなどを回復するがロマーニャの諸領を放棄し、対フィレンツェ攻撃軍を指揮してきたアルフォンソ2世・ダラゴーナに年貢を支払い、かつ両者は相互防衛、友好を維持することなどの条件で和平に合意。7日後、両者の代理人により協定書に署名される。
ほぼ手中にしたと思っていた対ロレンツォ・イル・マニーフィコ・フィレンツェ戦の勝利を彼の姿勢の急変により逃す。フェッランテ・ダラゴーナ・ロレンツォ・イル・マニーフィコの和平協定に不満と怒りを露にしながらも、単独では戦うことができないため沈黙を余儀なくされる。以後、ようやくオスマン・トルコ対策に意を向ける。
1480年夏
オルマン・トルコ軍が、キリスト教世界の地中海における最東端の拠点、聖ヨハネ騎士団の根拠地ロードス島を攻撃。騎士団の守備に攻撃を阻まれている中、騎士団への援軍が接近との報が伝わり、退却。
イタリアの諸国、諸権力者を初めヨーロッパの諸権力者に、オスマン・トルコの攻撃に一致して対処するよう繰り返し訴える。
1480年8月11日
ナポリ領プーリアを攻撃してきたオスマン・トルコ軍、レッチェ近郊オトラントを占領。
この報が届くや、ローマにトルコの脅威が城壁間近に迫ってきたとの恐怖と不安が広まる。教皇は危難がさらに及べばフランスのアヴィニョン方面に避難することを決める。
1480年8月23日
フォルリをジローラモ・リアリオに封与。
1480年12月3日
ようやくフィレンツェ使節団との謁見を許し、使節団は地にひれ伏して謝罪。オスマン・トルコの進軍に脅かされているため、フェッランテ・ダラゴーナの忠言をも考慮に入れ、対トルコ戦に15隻のガレー船を派遣することなどを条件に聖務禁止処分を解き、フィレンツェに改めて祝福を与える。
1480年
1481年3月21日
署名捺印したフィレンツェ共和国に対する赦罪文をフィレンツェに送る。
1481年4月4日
1480年からイタリア及びヨーロッパの諸国、諸権力者に対オスマン・トルコ戦への積極的参加を促し続けている教皇、この日、改めてその旨の勅書を発する。しかし諸国、諸権力者は緩慢な反応を示し続ける。ことに1479年1月オスマン・トルコと和を結んだヴェネツィアは全く無視。
1481年4月13日
フィレンツェ共和国における罪と罰の大赦を宣言。これは贖宥のことで、復活祭までに市民が6つの異なる教会で6つの礼拝に出席すれば手に入れることができる。これらの教会をキリスト聖週間の神聖なる3つの朝に訪れた者は誰でも、懺悔と告解の秘跡の後、対トルコ十字軍に寄付すれば、罪を清められるのである。フィレンツェ共和国は、教会のために15隻の高価なカタロニアのガレー船を借りて東方での戦いに送り込むことに同意。
教皇の秘書からフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニに送られた非公式書簡には、赦罪文と共に、トルコとの商品取引を続けることを許可する文面が記されていた。木材と鉄だけは認可された取引から除外された。兵器を作るために利用される可能性があまりに高いため。
1481年夏
この頃?、完成したシスティーナ礼拝堂の壁画製作の契約をボッティチェッリ、ドメニコ・ギルランダイオ、コジモ・ロッセッリ、ルカ・シニョレッリ、ピントゥリッキオらと結ぶ。
1482年5月3日
ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアに教皇、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1482年11月28日
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナと休戦を締結。
1482年12月12日
ヴェネツィアと同盟して他のイタリア諸国と戦うことがヴェネツィアを強大化する結果に終わることを懸念するに至ったため、ローマでフェッランテ・ダラゴーナ、ルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェと20年間の講和を結ぶ。2週間後のクリスマスを期してこれを公表。
これへのヴェネツィアの加入はその意思に任せられたがヴェネツィアはこれを無視し、フェッラーラに対する戦闘を続行。
1482年
イングランド王エドワード4世に祝福された剣を授与。
アルフォンソ2世・ダラゴーナ に祝福された剣を授与。
1482年末
この頃?、歴史家シジスモンド・デ・コンティを特使としてヴェネツィアに送り、フェッラーラへの敵対を中止するよう勧告するが完全に黙殺される。両者間に敵対意識が強まり、いずれも戦闘態勢を整え始める。
1483年2月28日
イタリアの主な諸国のほとんどを網羅する反ヴェネツィア同盟国会議をクレモーナで開き、ヴェネツィア領総攻撃を決める。直ちに軍をフェッラーラに集結。
1483年5月24日
ヴェネツィアと反ヴェネツィア同盟諸国との戦闘が続く中、ヴェネツィアを聖務禁止に処するとの勅書を発す。しかし以後ヴェネツィアは戦闘をさらに激しく展開。
1483年6月22日
ヴェネツィアを聖務停止に処する。
1483年8月2日
ドミニコ会修道士・Santa Cruz修道院長Tomás de Torquemada(1420年~)をレオン及びカスティーリャの異端審問長官に任命。
1483年10月17日
Tomás de Torquemadaをアラゴン、カタルーニャ、ヴァレンシア及びマヨルカの異端審問を全て統括する長官に任命。以後、スペインの異端審問、教皇の認可を光背として王権の管理の下で迫害をさらに激しく展開。
1484年8月7日
バニョーロの和:教皇を除く反ヴェネツィア同盟陣営とヴェネツィアは、反ヴェネツィア側の、とりわけルドヴィーコ・イル・モーロの状況と戦意喪失に押されて、軍事面では不利に陥っているヴェネツィア側に圧倒的に有利な和をブレッシャ近郊バニョーロで結ぶ。
1484年8月11日
バニョーロの和の条項がローマに届く。
これを知った病臥中の教皇は、ほぼ手中にしたはずの勝利を逃したと激怒し、ルドヴィーコ・イル・モーロを激しく非難するが行動に移れず。
1484年8月12日
死。遺体は黒く、変形し、喉は膨れて、眠っている悪魔のようだったという。
1484年8月17日
葬儀。
肖像
注文
キリストの血 De sanguine Christi
- 執筆
- 1460年代
- 初版
- 1471年、ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・リグナミーネ
- 写本
- キリストの血、神の力、将来起こる出来事について
将来起こる出来事について De futuris contingentibus
- 初版
- 1473年、ジョヴァンニ・フィリッポ・デ・リグナミーネ
- 写本
- キリストの血、神の力、将来起こる出来事について
埋葬地
登場する創作物
宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』
The Borgias: 101
本名
フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ、Francesco della Rovere
別表記
シスト4世、デラ・ローヴェレ、デルラ・ロヴェレ
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
GCatholic.com
RootsWeb.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
YouTube
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『性病の世界史』
『西洋拷問刑罰史』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『April Blood』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月12日以前
更新日
2024年6月4日