- 生没
- 1463年~1509年5月28日
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
- 母
- ルクレツィア・ランドリアーニ
- 夫
- ジローラモ・リアリオ
ヤコポ・フェオ
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノ - 子
- オッタヴィアーノ・リアリオ
チェーザレ・リアリオ
ビアンカ・リアリオ
ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオ
ガレアッツォ・リアリオ
フランチェスコ・スフォルツィーノ・リアリオ
ベルナルディーノ・カルロ・フェオ
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
概要
カテリーナ・スフォルツァは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
10歳でジローラモ・リアリオと初夜を迎え、14歳からようやく夫との結婚生活が始まる。
夫ジローラモ・リアリオが殺された時、持ち前の勇猛心と機転を発揮し、城塞を叛徒から守った。
オルシの陰謀での逸話
人質になった子供たちを殺すと脅された時「局部を露出して、子供ならまだ産めると言い放った」という有名な話はニッコロ・マキアヴェッリが『政略論』第3巻第6章において書いたものである。現場を目撃していたレオーネ・コベッリとアンドレア・ベルナルディの年代記にはカテリーナ・スフォルツァは城から出てこなかったと記載されているため、彼女自身が姿を見せて直接返答したのではないと断じてもよいだろう。ただ、レオーネ・コベッリとアンドレア・ベルナルディや、当時のフォルリ周辺から発せられた複数の書簡にも、カテリーナ・スフォルツァが妊娠中であるとか、新しく身ごもる能力を失っていないだとか主張したというようなことが書かれているので、城主トンマーゾ・フェオが代わりにあるいは独自の判断でそのように答えた可能性はある。おそらくニッコロ・マキアヴェッリはこれを劇的に表現したのだろう。「スカートをまくり上げた」などという記述は彼以前には見られず、この箇所は完全に作話のようである。カテリーナ・スフォルツァが城に入る時に跳ね橋の上で振り返り、握り拳の親指を人差し指と中指の間から出すという卑猥な仕草をしたという目撃証言から、並びにニッコロ・マキアヴェッリ自身の女性蔑視から端を発して、この逸話は生み出されたのかもしれない。
ちなみに、ラヴァルディーノ要塞の胸壁の上から堀の外では声が届くはずもないという指摘があるが、この事件以前にも何度もそういう場面があるため、会話が成立する距離内であるようだ。また、狙い撃ちにされるのではという疑問だが、弓矢を構えるのが見えたなら隠れるなり要塞の中に引っ込めばいいだけの話である。さらに言えば、彼女を殺したところで要塞は降伏せず、実家のスフォルツァ家からと同盟関係にあるジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオからの軍が復讐で虐殺や略奪をする恐れが強い。子供を殺せばスフォルツァ家は言うに及ばず、従兄にはラッファエーレ・サンソーニ枢機卿がいるのだ。カテリーナ・スフォルツァとトンマーゾ・フェオはこけおどしに過ぎないことを見抜いていたのである。
ならばなぜ出産能力を誇示する必要があったのか疑問は残る。この時点で故ジローラモ・リアリオの長男が領主であり、カテリーナ・スフォルツァはその保護者という立場でしかないのだから、彼女がこの後何人産もうと継承権があるわけではない。出産が可能だと言うより、亡夫の子がお腹にいると騙した方が良かったはずだが。
在位
年表
1463年
ミラノにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとルクレツィア・ランドリアーニの婚外子として生。
母ルクレツィア・ランドリアーニのもとで育てられる。
1466年
父ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァがミラノ公位に就くと、ルクレツィア・ランドリアーニの子供たち、カルロ・スフォルツァ、カテリーナ・スフォルツァ、アレッサンドロ・スフォルツァはミラノ宮廷に連れてこられ、祖母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティに養育される。
1468年7月6日
父ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァがボーナ・ディ・サヴォイアと結婚。
以後、継母ボーナ・ディ・サヴォイアに養育される。
1471年3月
父ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァのフィレンツェ訪問に同行し、出発。
マントヴァに数日滞在。
1471年3月13日
フィレンツェ到着。
1472年12月25日
日没から、ミラノのスフォルツェスコ城にて、降誕祭を祝う。ジローラモ・リアリオ、ボローニャ領主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ、マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、フォルリ領主ピーノ3世・オルデラッフィらも参加。
1473年1月17日
パヴィアにて、教皇シクストゥス4世の甥ジローラモ・リアリオと結婚(1473年1月14日ミラノ、1477年1月14日)。チッコ・シモネッタが2人の結婚式を取り仕切る。
1473年9月12日
ミラノに到着したピエトロ・リアリオを、ラテン語の詩で歓迎する。
1476年
夫ジローラモ・リアリオがいるローマへ向け出発。
1476年12月26日(木)
1477年2月
教皇代理として派遣されてきたジャンバッティスタ・メッリーニ枢機卿が取り仕切り、ジローラモ・リアリオとの結婚式が行われる。理由は不明だが夫本人は不在で、喪中のため簡素に行われ、婚姻が完了する。
1477年4月23日
1477年4月26日
ピアチェンツァ到着。
1477年4月27日
妹キアラ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。パルマに到着したことを知らせ、別離の寂しさを訴える。
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。別離の寂しさを訴える。
1477年4月28日(月)
レッジョ到着。
1477年4月29日(火)
モデナ到着。
1477年4月30日(水)
ボローニャ到着。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに歓迎される。
1477年5月1日
ボローニャ出発。
夕方前にイーモラ到着。
1477年5月3日
妹キアラ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。イーモラでの祝祭について。「イーモラの民は普段あまり祝い事をしませんが、石さえも私の到着を喜んでいるかのようでした。」
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。
1477年5月24日
1477年5月25日
ローマの城郭から7マイル地点で出迎えられ、夫ジローラモ・リアリオと手を取り合い、接吻し、抱擁。ジャンバッティスタ・メッリーニの邸宅に宿泊。
1477年5月26日
聖霊降臨祭。サン・ピエトロ大聖堂で教皇シクストゥス4世に拝謁。シクストゥス4世の執り行いで改めて再びカテリーナ・スフォルツァとジローラモ・リアリオの結婚式が挙行される。
カンポ・デ・フィオーリの新居に夫と共に住む。
1477年5月28日
妹キアラ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。ローマ入りについて。
1477年9月10日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。ジャンバッティスタ・マルテッリのために。
1477年9月28日
ローマにて、継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。ニッコロ・ダ・リツィオを推薦。
1477年10月19日
ローマにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。フランチェスコを推薦。
1477年10月28日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。
1477年12月20日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。
1478年1月20日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。帽子と2匹の猟犬のお礼。犬が「とても愛おしく、夫は私以上にかわいがっています。・・・・彼は見て喜び、何時間も遊びました。」
1478年3月6日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。
1478年4月12日
妹キアラ・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。
1478年7月8日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。キアラヴァッレ修道院からの収入をラッファエーレ・サンソーニ枢機卿に譲るよう要望する。
1479年3月20日
ローマにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ジローラモ・ダ・ボローニャを推薦。
1479年8月31日
6刻フォルリにて、オッタヴィアーノ・リアリオを出産。
1479年9月1日
継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。男児の誕生を報告。
1479年9月18日
ローマにて、ミラノ公秘書バッティスタ・カルキ宛てに手紙をしたためる。チッコ・シモネッタの投獄を歓迎。
ローマにて、継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。チッコ・シモネッタの投獄を祝福。
1479年11月18日
ローマにて、継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。
1480年4月20日
ローマにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ドメニコ・ダ・ボローニャ司祭を推薦。
1480年8月24日
ローマにて、チェーザレ・リアリオを出産。
1480年8月25日
ローマにて、継母ボーナ・ディ・サヴォイア宛てに手紙をしたためる。息子の誕生を報告。
1480年11月12日
ローマにて、弟のミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ宛に手紙をしたためる。ミラノに書記官を派遣したことを伝える。
1481年8月15日
イーモラにて、ファエンツァ駐在ミラノ大使アントーニオ・アッピアーニ宛てに手紙をしたためる。
1481年8月16日
イーモラにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。猟犬を頼む。
1481年9月22日
コティニョーラ到着。「スフォルツァ」と民衆が叫び、歓迎される。
1481年10月
50人の騎兵に護衛され、10名の侍女を連れてフォルリ出発。
イーモラに子供、財産、夏服を置く。
リーミニで夫ジローラモ・リアリオと合流し、ローマに向かう。
1481年10月30日
1482年1月29日
ミラノ大使のミラノ公宛手紙には、カテリーナ・スフォルツァが「これらのことを宥め鎮静化するために」ミラノに一緒に行きたがっていたとジローラモ・リアリオが言ったと記されている。
1482年8月21日
夜6刻ローマにて、シエナ宛てに手紙をしたためる。カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナを敗ったことについて。
1483年3月27日
聖木曜日、巡礼者ステファノ・マンゲッリがピラテッロの路上にある聖母子の絵の前で聖母マリアからイーモラに彼女を祀る教会を建てるよう啓示を受ける。
1484年7月
パリアーノ近郊に駐屯するジローラモ・リアリオのもとにいる。
1484年8月12日
義理の伯父シクストゥス4世、死。
1484年8月
夫ジローラモ・リアリオと共にローマに戻る。
1484年8月15日
夜、パオロ・オルシーニを伴ってサンタンジェロ城に入り、要塞を掌握。大砲をヴァティカンに向かう全ての道に向ける。
1484年8月
ジローラモ・リアリオ自ら任命した副城主インノチェンツォ・コドロンキを含む、サンタンジェロ城の全ての管理者を解雇。
故シクストゥス4世はサンタンジェロ城を夫ジローラモ・リアリオの監督下に置いたため、新教皇にのみ引き渡すことを宣言。
1484年8月17日
シクストゥス4世の葬儀が行われるが、サンタンジェロ城を恐れてヴァティカンに近づけず、枢機卿は11人のみが参列。ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレも参列せず。
1484年8月18日
カメルレンゴのラッファエーレ・サンソーニ枢機卿から使者が手紙を携えて到着。「知力で戦いを挑もうというわけね。私がガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ公の頭脳を持ち、同じく秀でているということをお分かりでないわ。」と返答したという。
1484年8月23日
ジローラモ・リアリオが枢機卿団と合意。
1484年8月24日
夜、新たに兵士1百50をサンタンジェロ城内に入れる。
しかし、夫ジローラモ・リアリオはローマを出発。
1484年8月25日
叔父アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿が8名の枢機卿を伴ってサンタンジェロ城を訪れ、イーモラとフォルリがリアリオ家に属すること、ローマ出発に際し護衛1百50をつけることを約束。
1484年8月26日
朝、サンタンジェロ城を出発。
1484年10月30日
フォルリにて、ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオを出産。
1484年11月
ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオの洗礼がサン・メルクリアーレ修道院で行われる。ルドヴィーコ・オルシが赤ん坊を抱いて修道院まで連れて行き、フェッラーラ、マントヴァ、リーミニの大使などが参列。
1484年12月
四日熱マラリアに罹患。
1485年1月10日
フォルリにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ルドヴィーコ・デル・ポンテを推薦。
1485年12月18日
フォルリにて、ガレアッツォ・リアリオを出産。
1486年1月31日
ジョヴァンニ・カスティリオーネを自身の領地ボスコの副監察官と検察官に任命。
1486年1月16日
マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。羽毛の購入。
1486年7月9日
フォルリにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。亜麻布と金の鎖などの装飾品をミラノのいとこに送ったが、モデナの役人が取ってしまったので、返却を依頼。
1486年7月19日
フォルリにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。亜麻布と金の鎖などの装飾品をミラノのいとこに送ったが、モデナの役人が取ってしまったので、返却を依頼。
1486年11月26日
ミラノ大使フランチェスコ・ヴィスコンティの部屋を突然訪れ、取り乱して「夫と私の仲がどんなに惨めなものかご存じないでしょう。彼のせいで死んだ人を羨むくらい、ひどい扱いを受けています」と大使に漏らす。
1486年12月2日
フォルリにて、フェッラーラ公妃エレオノーラ・ダラゴーナ宛てに手紙をしたためる。ベルナルディーノ・デ・リ・グアンティについて。
1487年4月7日
イーモラにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。医師ルドヴィーコ・パオルッチを送る。
1487年4月9日
イーモラ出発。
1487年4月
ミラノ到着。
1487年5月31日
夫ジローラモ・リアリオ重篤の知らせを受け、この日イーモラ到着。
1487年
城主メルキオッレ・ゾッケイオにラヴァルディーノ要塞の引き渡しを要求するが、ジローラモ・リアリオが死んだと聞いており、そうであれば息子にのみ応じ、加えて借金の返済しなければならないと拒否される。
1487年7月24日
イーモラにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。フォルリ滞在時に「・・・・閣下がフォルリに残したと仰る椅子の覆い布の返却を要求する手紙を携えた使者が来て、信じがたく無礼で傲慢な言葉が用いられていました。・・・・不当に他人のものを欲しがったり致しませんし、こういった調度品は十分以上に足りているのでそのような必要もございません。」フェッラーラ公の宮廷人たちの不手際を仄めかし、「自分たちの不実と下品を隠すために」リアリオ家に罪を擦り付けているのだろうと書く。
1487年8月10日
ラヴァルディーノ要塞にて、前城主でジローラモ・リアリオの護衛隊長インノチェンツォ・コドロンキとメルキオッレ・ゾッケイオが翌日の昼食を賭けてサイコロ遊びをし、インノチェンツォ・コドロンキが負けて、ラヴァルディーノ要塞を去る。
1487年8月11日
朝、インノチェンツォ・コドロンキの召使モスカルディーノがラヴァルディーノ要塞に来て昼食を準備。
正午、インノチェンツォ・コドロンキが到着し昼食を共にした後、メルキオッレ・ゾッケイオを彼のトルコ人奴隷とモスカルディーノが手伝って殺害。遺体を城内の井戸に投げ入れ、跳ね橋を上げる。
フォルリ知事ドメニコ・リッチから事件の報告を受けたカテリーナ・スフォルツァ、イーモラ出発。
1487年8月12日
真夜中、フォルリ到着。
ドメニコ・リッチと共にラヴァルディーノ要塞に到着し、胸壁の上の者と会話し、翌日交渉することになる。
シニョーリア宮殿に宿泊。
ラヴァルディーノ要塞に入り、インノチェンツォ・コドロンキと交渉。
1487年8月15日
トンマーゾ・フェオを連れてラヴァルディーノ要塞に入り、トンマーゾ・フェオを新城主に任命して残し、カテリーナ・スフォルツァはインノチェンツォ・コドロンキと共に出る。
シニョーリア宮殿で夕食後、インノチェンツォ・コドロンキはフォルリを出発し消息を絶つ。
1487年8月16日
イーモラ到着。
1487年8月17日
イーモラにて、フランチェスコ・スフォルツィーノ・リアリオを出産。
1487年8月19日
フェッラーラとの境界に農家を建設し、トレンティーノから牛30頭を購入し、羊、鶏が飼育されていた。加えて、派遣兵がフェッラーラを監視する役目も担っていた。しかしこの日、マッサ・ロンバルダの農民がその農家を略奪し破壊する。
1487年8月
抗議の手紙を出すが、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステにフェッラーラ領内に建てたことが誤りであると返答される。
最終的にローマの法廷で訴訟を起こすが、敗訴。
1487年9月
ドメニコ・リッチからコトーニ門襲撃の報告を受け、彼と共にフォルリに向かう。
ニーノ・ロッフィを自ら尋問するとパッシなる者が首謀者であると告白するが、パッシは8か月会っていないと主張。絞首台でニーノ・ロッフィがパッシは無罪であることを白状したため釈放。
6名を斬首刑に処す。
1487年11月29日
マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。ベルナルディーノ・デ・リ・グアンティを推薦。
1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:昼食後、フォルリのシニョーリア宮殿にて、夫ジローラモ・リアリオが彼の役人チェッコ・オルシら3名の主導により殺害される(1488年4月15日)。
カテリーナ・スフォルツァは窓からルドヴィーコ・エルコラーニにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオとジャン・ガレアッツォ・スフォルツァに知らせるよう指示。そして家臣にラヴァルディーノ要塞に集結し死守するよう命ずる。
シニョーリア宮殿は略奪され、カテリーナ・スフォルツァは母ルクレツィア・ランドリアーニ、異母姉ビアンカ・ランドリアーニとステッラ・ランドリアーニ、継子スキピオーネ・リアリオと6人の子供たちと共に捕らえられ、オルシ宮殿に連行される。
蜂起にもかかわらず、叛徒は40人評議会に対抗する力を持っていず、40人評議会は同日夜に会合し、都市が教皇領の管轄下に戻ることを決定。
1488年4月15日(火)
ルドヴィーコ・オルシとヤコポ・デル・ロンケにラヴァルディーノ要塞に連れていかれ、市民の見守る中涙ながらに要塞を引き渡すよう頼むが、城主トンマーゾ・フェオは故ジローラモ・リアリオの世継ぎのために城塞を守っていることが自分の務めであると返答。ミラノ公、ベンティヴォーリオ家、ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿の名前が聴衆の前で強調される。
ロッケッタ・ディ・スキアヴォーニアでも同様のやり取りを繰り返すと、生命を脅されるが屈せず、オルシ宮殿に戻る。
ベルナルディーノ・サヴェッリが誰であれ接触を禁じていたにもかかわらず僧侶が来て、ジローラモ・リアリオの罪から恩恵を受けていたカテリーナ・スフォルツァは同様の運命を辿り、要塞を引き渡さなければ子供たちも地獄の炎に焼かれるだろうと言われる。後に彼女は夫が残忍に殺されたことよりもこの痛烈な言葉の方が堪えたと明かしている。
サン・ピエトロ門の塔に移される。忍び込んできたルドヴィーコ・エルコラーニと作戦を練る。
1488年4月16日(水)
朝、トンマーゾ・フェオがルドヴィーコ・エルコラーニを通じてベルナルディーノ・サヴェッリに、給与の支払いと推薦状を条件としてラヴァルディーノ要塞明け渡しに応じると伝える。
カテリーナ・スフォルツァのみ要塞内に入ることにはオルシが反対したものの、塁壁下に到着するとトンマーゾ・フェオが推薦状の署名が必要だとして言い募ったため、ベルナルディーノ・サヴェッリが許可。市民が注視する中、カテリーナ・スフォルツァは馬丁1名のみ伴いラヴァルディーノ要塞に入る。
3時間後にトンマーゾ・フェオが胸壁に現れ、カテリーナ・スフォルツァを人質としてオルシ派の貴族たちとの人質交換を申し出る。
オルシ兄弟とヤコポ・デル・ロンケがサン・ピエトロ門の塔からオッタヴィアーノ・リアリオ、ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオ、ルクレツィア・ランドリアーニ、ステッラ・ランドリアーニをラヴァルディーノ要塞へ連れだしてきて、槍や短剣を突きつけ脅すが、カテリーナ・スフォルツァは姿を現さず。故ジローラモ・リアリオの子を妊娠中の上、懐妊能力をあることを宣言したという。
ラヴァルディーノ要塞からオルシ宮殿に向け砲撃。
1488年4月18日(金)
ユダヤ人質屋、フォルリの職人が製品を携え、ラヴァルディーノ要塞に避難。
反逆者がこの逃亡者の家族を堀に連れてきて脅したが、要塞から動かず。
1488年4月19日(土)
オルシ兄弟はロレンツォ・イル・マニーフィコ宛てにフィレンツェの支援を求める手紙をしたためる。自分たちの仲間ばかりでなく、メディチ家の復讐をも果たした。自分たちは「弱者の血を啜り、言行不一致で、自分以外の誰も愛さなかった」圧政者をフォルリから排除した志士だ。「本日攻囲を開始したい」。
1488年4月29日
総司令官ガレアッツォ・サンセヴェリーノ率いる総勢1万2千の派遣軍がフォルリから5マイル地点のコジーナに到着。
騎兵50がコトーニ門から入り、ラヴァルディーノ要塞の跳ね橋を渡ってカテリーナ・スフォルツァと合流。
義理の甥ラッファエーレ・サンソーニがカテリーナ・スフォルツァを支援するため、教皇軍50騎を率いてくる。
オルシ兄弟とヤコポ・デル・ロンケは子供たちを殺すためサン・ピエトロ門の塔に急行するが、ベルナルディーノ・サヴェッリ配下の兵の抵抗を受け失敗。
1488年4月30日
幼子オッタヴィアーノ・リアリオにフォルリとイーモラを継承させてカテリーナ・スフォルツァはその摂政となり、支配権を掌握(1488年4月25日)。
フォルリの守護聖人聖メルクリアーレの祭りと同時にリアリオ家も祝われる。
オッタヴィアーノ・リアリオがサン・ピエトロ門から騎乗して練り歩き、広場を3度回る。市民が見守る中、ラヴァルディーノ要塞の跳ね橋で母子が抱擁。サン・ピエトロ門へ他の子どもたちを迎えに行く。チェーザレ・リアリオ、ビアンカ・リアリオ、ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオ、ガレアッツォ・リアリオ、フランチェスコ・スフォルツィーノ・リアリオと再会。
オッタヴィアーノ・リアリオと共にコトーニ門からフォルリ入城式を行う。
オルシ宮殿に隠れていたチェッコ・オルシ、ルドヴィーコ・オルシ、ヤコポ・デル・ロンケは、「公爵!」「オッタヴィアーノ!」の叫び声を聞くと、病気で動けない父アンドレア・オルシに妻子を預け、総額1万ドゥカートもの銀や宝石を携え、17名の供を連れ、ラヴェンナに向かう。しかし、ヴェネツィア共和国政府に拒絶され、教皇領に逃げ込む。
ジローラモ・リアリオの死に際しフォルリに戻っていた追放者に対し、日没前に去るように布告。
教皇を警戒し保険としてベルナルディーノ・サヴェッリとその助手を拘留。
ルッフォ・ヌーマイの邸宅での夕食に軍の隊長たちを招待し、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロの怒りを買うだろうと脅し、軍がフォルリに入って略奪することを拒絶。
子供たちを守り抜いた兵士3名、カポフェッリ、セルーギ、デンティを称え感謝し褒美を与える。
サン・フランチェスコ教会の貧民の墓場にあった夫ジローラモ・リアリオの遺体を回収。フォルリのサンタ・クローチェ大聖堂に拒絶され、要望のあったイーモラのサン・カッシアーノ大聖堂に埋葬。これ以後カテリーナ・スフォルツァがサンタ・クローチェ大聖堂に赴くことはなかったという。
1488年5月1日(木)
夜、降伏条件決定のため、ラヴァルディーノ要塞にルッフォ・ヌーマイ、トンマーゾ・デリ・オルチオーリ、ルドヴィーコ・エルコラーニ、レオーネ・コベッリらを召集。フォルリ人がリアリオ家に対して行った数々の悪行を厳しく非難し、市民は略奪を受けて当然だと激高して叫ぶ。いったん落ち着くと、女性たちを気遣って略奪は望まないと述べる。
夜、矢文を使って、市民に敵を捕らえるよう命ずる。
ラヴァルディーノ要塞に子供たちと共に居住。
夜明け、カテリーナ・スフォルツァはサン・フランチェスコ教会で亡夫の鎮魂のために祈る。その間、マッテオ・バボーネが、ジローラモ・リアリオの遺骸を窓からマッジョーネ広場に放り投げたマルコ・スコッチアカーロを窓から絞首刑に処す。遺骸をマッジョーネ広場で引き回した、ヤコポ・デル・ロンケの甥で29歳のパリアーノも窓から絞首刑。ラヴァルディーノ要塞でオルシ兄弟に子供たちを殺すよう囃し立て、カテリーナ・スフォルツァに向かって暴言を叫んだピエロ・アルバネーゼは絞首台に吊るされる。
1488年5月2日(金)
日没後、シニョーリア宮殿から盗んだ所有物を返却するよう触れを出す。
夜明けに、オルシたちが持ち去った以外の盗品がラヴァルディーノ要塞の前に全て山積みにされる。
サン・ドメニコ修道院に隠れていた80歳のアンドレア・オルシは、マッテオ・バボーネに首に縄をかけられ、オルシ宮殿に引っ張っていかれる。太鼓を叩いて集められた市民たちの前でオルシ宮殿が取り壊され、残りの拠点には火が放たれる。アンドレア・オルシは逆さで頭部のみはみ出て固定されない状態で板に括り付けられ、それを馬が引いてマッジョーネ広場を3周する。頭が石畳に何度も打ち付けられ、絶命。
暗殺者たちを生け捕りにした場合は1千ドゥカート、死体の場合は5百ドゥカートの報奨を出すと布告。
1人は乳飲み子を抱いたオルシ家の女性7名を招集し、追放処分もなく無条件で解放。
ミラノの将軍たちや貴族をラヴァルディーノ要塞での昼食に招く。
1488年5月3日(土)
日没後、フォルリの全家長をラヴァルディーノ要塞に呼び出し、フォルリ領主オッタヴィアーノ・リアリオと摂政である自身に忠誠を誓わせる。
1488年5月4日(日)
8人評議会を招集し、叱責する。4名を除名。故ジローラモ・リアリオの公証人で収税官であり、dazi税の再導入を勧めたニッコロ・パンセキ、広場で警察長官アントーニオ・ダ・モンテッキオの遺体を刺すなどしたシモーネ・デ・フィオリーニ他2名をミラノへ追放。
1488年5月7日
援軍が追放者を連行し、フォルリを出発。
1488年5月
息子オッタヴィアーノ・リアリオがフォルリの貴族を従え、イーモラに向かい、恭順を受ける。
母ルクレツィア・ランドリアーニ、異母姉ビアンカ・ランドリアーニとステッラ・ランドリアーニのチェゼーナからの安全な帰還と引き換えに、ベルナルディーノ・サヴェッリを釈放。
認可なしに市民の武器携帯を禁ずると共に、夜間外出禁止令を出す。
義理の甥ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿をフォルリンポーポリでブランビッラと共に出迎える。枢機卿はラヴァルディーノ要塞に滞在し、フォルリに数か月間留まる。
1488年6月
ガレオット・マンフレディが暗殺され、ファエンツァにブランビッラ指揮の分遣隊を送るが、彼はジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオとの食事中に殺される。
1488年7月18日
オッタヴィアーノ・リアリオを末代までフォルリとイーモラの領主と宣言する勅書が、12頁にわたる文書で教皇インノケンティウス8世と16名の枢機卿の署名入りで発行され、カテリーナ・スフォルツァが摂政であることが正式に認められる。
1488年7月30日
教皇勅書を公表し、祝う。
1488年
義理の甥ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿と共に、穀物税であるdaziと塩税を下げ、守護兵を3分の1にする。
1488年10月19日
ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、フォルリ出発。
1488年12月6日
手紙をしたためる。
1489年冬
マントヴァから寝具用に大量の羽毛を購入。
1489年1月27日
教皇インノケンティウス8世からイーモラにピラテッロ聖処女聖堂建設の許可をもらう。
1489年
娘ビアンカ・リアリオのアストッレ3世・マンフレディとの結婚の交渉を開始。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから歓迎されるが、ロレンツォ・イル・マニーフィコには何度も手紙を送り、ようやく支持を得る。
奪われた農家と家畜を取り戻すべくフェッラーラ公エルコーレ1世・デステとやり取りするが、贈り物や社交辞令はかわすもののまともに相手にされず。
1489年4月
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィをフォルリに招き、しばしば訪れるようになる。
1489年夏
イーモラ近郊の別荘にアントーニオ・マリーア・オルデラッフィを招待。
カテリーナ・スフォルツァがアントーニオ・マリーア・オルデラッフィと結婚するのではないかという噂が流れる。
1489年
カテリーナ・スフォルツァとアントーニオ・マリーア・オルデラッフィの紋章が絡んだ旗を制作したレオーネ・コベッリを逮捕。
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィとの結婚を否定する手紙を叔父ルドヴィーコ・イル・モーロとラッファエーレ・サンソーニ枢機卿に送り、ヴェネツィア共和国に苦情を呈する。
ヴェネツィア共和国はアントーニオ・マリーア・オルデラッフィを呼び戻し、フリウリでの軍事に就かせる。
1489年10月
ピラテッロ聖処女聖堂建設視察のためイーモラに赴き、イーモラの要塞に立ち寄るがサヴォーナ出身で城主のジャナンドレア・ゲラルディに拒絶される。城前で怒鳴り、ようやく入ると、城主は亡夫ジローラモ・リアリオに5千ドゥカートを貸し付けていて、要塞を離れる前に返済するよう要求される。
この調停のためカテリーナ・スフォルツァはラッファエーレ・サンソーニ枢機卿を呼ぶ。
1489年11月2日
イーモラにラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、到着。一緒にイーモラの要塞に入り、金を集めてジャナンドレア・ゲラルディに返すことが決まる。
1489年11月
カテリーナ・スフォルツァ、オッタヴィアーノ・リアリオは、ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿と共にフォルリへ行き、枢機卿を歓待。
1490年
宝石をジェノヴァやボローニャなどの大金がすぐに手に入りやすい都市の質に入れ、資金繰りに苦心。ジローラモ・リアリオ暗殺事件後、ユダヤ金融商はフォルリを離れていた。
この年頃までに、亡夫ジローラモ・リアリオの下級の臣ヤコポ・フェオと事実上、再婚。カテリーナ・スフォルツァは最後の遺言書でベルナルディーノ・カルロ・フェオをヤコポ・フェオとの正式な婚姻により生まれたものとしている。しかし、結婚の日についての記載はない。
1490年2月
フォルリの4つの区の代表が訪れ、フォルリにユダヤ人を呼び込み現金流量を取り戻すことを要望される。ジローラモ・リアリオが生前公営質屋モンテ・ディ・ピエタを提案した時彼らが嘲ったことを持ち出し、その設立を約束させると共に、ボローニャのユダヤ人グリエルモ・ダリアを呼び寄せて、フォルリで商いを始めさせる。
なお、ジローラモ・リアリオ発案のモンテ・ディ・ピエタは1527年になるまで開設されることはなかった。
クリストフォロ・タルターニにイーモラの広い区域の管理を任せる。
1490年2月26日
イーモラでグエルフィのジューリオ・メルカーティがギベッリーニのクリストフォロ・タルターニを襲い、短剣で頭部に傷を負わせる。
数時間後に両陣営による抗争が始まる。
イーモラ知事グリエルモ・ダ・テデスコから知らせを受けたカテリーナ・スフォルツァは、騎兵80を向かわせ鎮圧。
1490年8月30日
オッタヴィアーノ・リアリオとヤコポ・フェオを連れてラヴァルディーノ要塞に赴き、城主トンマーゾ・フェオと昼食を共にする。
油断させておき、トンマーゾ・フェオを難なく逮捕。
フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。「もはやトンマーゾ・フェオを信用できなかったのです」
ラヴァルディーノ要塞城主にヤコポ・フェオを任命。
1490年12月16日
ジャナンドレア・ゲラルディがモデナ近郊で4千ドゥカートの預金を受け取れると信じ、イーモラの要塞を出発。しかし、カテリーナ・スフォルツァが渡した信用状は無効だった。
1490年12月
義父ジャンピエロ・ランドリアーニをフォルリンポーポリから呼び寄せ、イーモラの要塞城主に任命。
1491年1月23日(日)
朝、ミラノの使節団がラヴァルディーノ要塞に到着。ヤコポ・フェオが騎士に叙される。ミラノ大使がかかとに金の拍車を付け、腰に剣を吊るす。ルッフォ・ヌーマイが金の鎖を首にかける。
1491年夏
夏は例年ならばイーモラで過ごしていたが、この年はフォルリに留まり、オッタヴィアーノ・リアリオとチェーザレ・リアリオが三日熱に罹患。
イーモラに滞在。カテリーナ・スフォルツァ自身も三日熱に冒され、ヤコポ・フェオがおじチェーザレ・フェオにラヴァルディーノ要塞を任せ、イーモラに見舞いに来る。
1491年9月
ヤコポ・フェオと共にトッシニャーノに出かける予定だったが、出発直前になって罠が仕掛けられているとの情報を得て、兵士を要塞に先行させる。
マルカントーニオ・タルターニ、テゼオ・タルターニ、ドメニコ・ヴィアーニを捕らえるが、家長のエネア・ヴィアーニはフェッラーラ公エルコーレ1世・デステのもとに亡命。
カテリーナ・スフォルツァの寵愛が継承者オッタヴィアーノ・リアリオの正当な権利を損なう恐れがあるとして、彼女を投獄し、ヤコポ・フェオを殺し、主要な市民たちで摂政を務める計画が判明。
ラヴァルディーノ要塞の塔に禁固。家を破壊し、ヴィアーニ家に嫁いだコジモ・パッラヴィチーニの娘ら妻たちをイーモラから追放し、持参金を没収。
1491年12月7日
イーモラの要塞にて、ミラノ公宛に手紙をしたためる。サン・マウロ城奪還の支援を求める。
1492年1月30日
ラヴァルディーノ要塞にて、ミラノ公宛に手紙をしたためる。サン・マウロ奪還を伝える。
1492年初旬
フェッラーラに逃亡していたエネア・ヴィアーニを捕らえ、ラヴァルディーノ要塞に禁固。
1492年夏
ベルナルディーノ・カルロ・フェオを出産(1489年、1490年)。
1494年2月8日
ラヴァルディーノ要塞にて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。フィレンツェのコッミッサーリオたちの領民に対する行いの苦情。
1494年2月10日
ラヴァルディーノ要塞から、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てにいつもの林檎と胡桃を贈る。
1494年2月?日
ファエンツァ駐在コッミッサーリオのプッチョ・プッチ宛てに手紙をしたためる。1月25日にフェッランテ・ダラゴーナが崩御したことを伝える、新ナポリ王アルフォンソ2世・ダラゴーナからの直接の手紙を届けてくれたことへの感謝。
1494年3月16日
ラヴァルディーノ要塞にて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。チェゼーナなどで深刻な混乱が生じていると警告。
1494年5月8日
フォルリにて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。1人の軍人を雇い入れたことを後悔。
1494年5月27日
フォルリにて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。雇い入れた軍人オノラート・ダ・フォルマについて。
1494年6月11日
フォルリにて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。初めに相談なく雇い入れられた軍人オノラート・ダ・フォルマについて後悔。
1494年7月1日
フォルリにて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。ナポリ王アルフォンソ2世・ダラゴーナと活動を共にせざるを得なくなった経緯。
1494年8月3日
フォルリにて、ミラノ大司教グイダントーニオ・アルチンボルディとボローニャ駐在ミラノ外交官フランチェスコ・トランケディーニ宛てに手紙をしたためる。フォルリンポーポリでラッファエーレ・サンソーニ枢機卿に大変失望した。枢機卿がすべきことを成さぬなら、相応の対応を取る。
1494年
教皇アレクサンデル6世により、傭兵契約料1万6千ドゥカートをもらい、1484年からザンペスキ家に占領されていたサン・マウロを返還される。
ナポリからは兵士と武器を供与される。
1494年9月4日
ナポリ兵の食糧確保のためパン職人に徹夜で作るよう命じる。
1494年10月20日~1494年10月21日
1494年10月25日
イーモラにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙をしたためる。カラブリア公フェッランディーノ・ダラゴーナの援軍が来ず。「このような扱いを受ける謂れはございませんでした。約束を守り、責務以上に尽くしましたのに」
1494年11月23日
最後のフランス軍が領内からエミリア街道を通って去る。
1495年7月19日
フォルリにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙をしたためる。マッサの男による損害の不満を述べる。
1495年7月27日
フォルリにて、叔父ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。チェゼーナで暴動。フランス王国アルル大司教ニッコロ・チーボの家令が絞首刑にされる。
1495年8月27日
ヤコポ・フェオが、亡夫ジローラモ・リアリオとの子オッタヴィアーノ・リアリオの重臣たちに殺害される。
カテリーナ・スフォルツァ、ヤコポ・フェオ、オッタヴィアーノ・リアリオ、チェーザレ・リアリオ、ビアンカ・リアリオは、フォルリ周辺の森へ狩りに行く。帰り道、モントーネ川を渡ってスキアヴォーニア門を潜ったところで、ジャナントーニオ・ゲッティが物陰から出てきて馬上のヤコポ・フェオを他と引き離し、彼の使用人が後ろから刺殺。ビアンカ・リアリオと一緒に馬車に乗っていたカテリーナ・スフォルツァは、馬に飛び乗り、ラヴァルディーノ要塞に急行。オッタヴィアーノ・リアリオとチェーザレ・リアリオはパオロ・デンティ邸に逃げ込む。
ジャナントーニオ・ゲッティは従兄弟ベルナルディーノと聖職者2名と共に広場で民衆を集め、裏切者ヤコポ・フェオから町を解放したと宣言。レオーネ・コベッリが目撃。兵士が来ると暗殺者たちは散開し、聖職者アントーニオ・パヴァリョッタは市民に助けられて都市城壁を登ろうとし、聖職者ドメニコ・ダ・バニャカヴァッロはいとこの家に隠れる。ジャナントーニオ・ゲッティは兵士からもがいて逃れるが、サンタ・クローチェの墓地で切り刻まれる。
トンマーゾ・フェオをイーモラから呼び、ゲッティ邸の略奪と倒壊を命じる。
1495年8月28日
朝、ラヴァルディーノ要塞から、フォルリ司教代理とスキピオーネ・リアリオが先頭を歩き、次にベルナルディーノ・カルロ・フェオを抱いたカテリーナ・スフォルツァが続き、大使、官女、警護兵、貴族ら葬列がサン・ビアージオ教会に向かう。
1495年
マルコベッリ家、オルチオーリ家、デッレ・セッレ家などヤコポ・フェオ暗殺事件に関与した者を逮捕、略奪する。
ドメニコ・ダ・バニャカヴァッロ司祭が逮捕され、ラヴァルディーノ要塞で拷問され、共謀者の名を白状。ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿とオッタヴィアーノ・リアリオが暗殺を承認していたことが判明。
ドメニコ・ダ・バニャカヴァッロは広場で裸同然にされ、足を縛られ馬に繋がれる。殺害現場のスキアヴォーニア門まで都市城壁の通りを馬を走らせ、路地に下ろし、ごみ、石の上を引きずって、また広場に戻る。この時点でまだ生きていた彼は、顔を切り開かれ、殴られ、刺されて死ぬ。
1495年8月30日
パオロ・デンティ邸に武装した兵士を差し向け、そこにいた子オッタヴィアーノ・リアリオとチェーザレ・リアリオをラヴァルディーノ要塞に連れて来させる。オッタヴィアーノ・リアリオと面会した後、ラヴァルディーノ要塞に軟禁。その場で反対したスキピオーネ・リアリオを18か月間投獄。
1495年
アントーニオ・パヴァリョッタの愛人と3人の子供は殺され、アントーニオ・パヴァリョッタ自身はラヴェンナの外で捕らえられ、市日の広場で石炭で焼かれ、斬首される。
暗殺者たちの遺体は都市城壁の外側に吊られ、首はフォルリ市の塔に吊るされる。
1495年11月
ラヴェンナ大司教フィリアージオ・ロヴェレッラからカストロカーロを奪っていたグイド・グエッラ・ダ・バーニョを、傭兵隊長アキッレ・ティベルティに攻撃させ、クゼルコリ城は同盟国のもとに戻り、カストロカーロを手に入れる。
1496年冬
厳しい寒さでロマーニャに飢饉。この頃から梅毒の症状が人々に現れ始める。
1496年1月3日
フォルリにて、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。
1496年1月16日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。
1496年1月22日
フォルリにて、ロレンツォ・イル・ポポラーノとジョヴァンニ・イル・ポポラーノ宛てに手紙をしたためる。フィレンツェで作った錦について。
1496年2月~6月
大量の穀物を購入して人々に安く売る。2月から6月まで1日500ポンドの小麦粉をフォルリの貧しい人々に無料で配布。将来の飢餓から貧困層を守ろうと、カテリーナとフォルリ司教トンマーゾ・アスティは地元の団体に助成金を支給し、恵まれない家族に食糧を保証する慈善団体を設立。
1496年の塩不足は深刻手前といった状況で、雨の多い冬はチェルヴィアの塩床が乾燥するのを妨げ収穫できず。貴重な鉱物がなければ肉など食べ物を保存したりすることができないため、カテリーナはアドリア海沿岸からフォルリに輸送するために4百袋の塩を購入。この貨物は非常に貴重だったので、軍の分遣隊の保護の下で移動。大きな塊で砂でいっぱいになって到着したにもかかわらず、この塩によってフォルリとイーモラが1年間飢饉が食い止められた。
1496年2月27日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。ボローニャ領主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオが彼女の敵を匿っていることについて。
1496年3月21日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。自分に対するラッファエーレ・サンソーニ枢機卿とジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの策略について。
1496年3月27日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。ヴェネツィアのプロヴェディトーレがファエンツァの政府を変えようとしていることについて書き、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオのもとに亡命している元臣下のジャンバッティスタ・ブロッキを暗殺しようとしたことを告白。「ひどい不義を働かれたのです。私に対して陰謀を企てている者たちをさらに妨害するよう、まだ彼を捕まえたいと思っています。あなたが仰るように私は良い行いをしなかったことを告白いたしますが、私と行動原理の変わらないジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿が驚くふりをする必要性はないでしょう。」
1496年4月10日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。ファエンツァ駐在ヴェネツィア共和国プロヴェディトーレが政権を変えようと暗躍していることを警告。
1496年4月11日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。ラッファエーレ・サンソーニ枢機卿の策謀にどれほど悩まされているかについて。
1496年4月14日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。ファエンツァ領主アストッレ3世・マンフレディに対するヴェネツィア人の危険性と、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの敵意について。息子オッタヴィアーノ・リアリオとジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの娘イゾッタ・ベンティヴォーリオとの婚約の交渉をしていたが、彼女が修道女になることを希望したため頓挫してしまい、「忍耐強く耐えたものの、怒りはしばしば忍耐力を削り、さらに、多くの過ちや傷が何ら効果がないことを示すことで、邪悪な者がさらに悪いことをするように促すことがよくあります。」しかし、「復讐よりも許しに傾倒する」という約束で手紙を締めくくる。
1496年
息子ジョヴァンニ・リヴィオ・リアリオ、死。
住環境を整えるため、ラヴァルディーノ要塞を増改築。
1496年5月
異父妹ビアンカ・ランドリアーニ、死。イーモラに弔問。
1496年8月22日
フォルリにて、ルドヴィーコ・イル・モーロ宛てに手紙をしたためる。イタリアの混乱を考えると、オッタヴィアーノ・リアリオの結婚をゴンザーガ家と交渉したくない。
1496年9月24日
ミラノ公宛に手紙をしたためる。16歳の息子オッタヴィアーノ・リアリオに幸先の良い軍事的な経験を積ませてやって欲しいとお願いする。
1496年10月26日
フォルリにて、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。侯の妻、故アニェーゼ・ヴィスコンティがマントヴァのポデスタにフォルリ市民のルドヴィーコ・パオルッチを承認したことを述べ、彼を推挙。
1497年
ジョヴァンニ・イル・ポポラーノと結婚。
1498年4月6日
フォルリにて、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレを出産。
1499年
オッタヴィアーノ・リアリオ以外の子供たちをフィレンツェに向かわせる。
1499年12月
フォルリの意思を確かめるため弟アレッサンドロ・スフォルツァを派遣。アンツィアーニ評議会は街を明け渡すことを決定し、40人評議会(Consiglio dei Quaranta)は意見が分かれたとの報告を受け、ラヴァルディーノ要塞だけを守ることを決意。
1499年12月14日
オッタヴィアーノ・リアリオをフィレンツェに向かわせる。フォルリの主要市民たちであるルッフォ・ヌーマイ、アントーニオ・テオドーリ、バルトロメオ・マラティーニを捜索。ルッフォ・ヌーマイは逃亡しており、広場に武装した市民たちに囲まれ夜を明かす。
1499年12月15日
他の市民を捜索するが、「ポーポロ!ポーポロ!」という叫びが発せられ、警護していた門を市民たちに奪われる。一般評議会が各地区から5人ずつ20人のアンツィアーニを選出し、チェーザレ・ボルジアにフォルリを明け渡すことを決定。
1499年12月
アンツィアーニ評議会議長ニッコロ・トルニエッリ、ルドヴィーコ・エルコラーニを逮捕。市庁舎を砲撃し、塔を破壊。
1499年12月25日
ラヴァルディーノ要塞の塔にマルコの獅子の旗を掲げヴェネツィアの保護があるかのように見せるが、戦場にいるヴェネツィア人傭兵隊長には見破られていた。
1499年12月26日
堀からのチェーザレ・ボルジアの呼びかけに応じ外に出るが、事前に彼が足をかけるや否や跳ね橋を上げるように城主ジョヴァンニ・ダ・カザーレに命令、しかし上げるのが早すぎたため失敗に終わる。
1500年1月12日
チェーザレ・ボルジアにフォルリを制圧される。
カテリーナ・スフォルツァは家臣と共に勇敢に抵抗したが、市民がいち早くチェーザレ・ボルジアに忠誠を誓ったこともあって敗北し捕らえられ、ローマに送られて一時サンタンジェロ城に幽閉される。
1500年1月23日
チェーザレ・ボルジア軍と共にフォルリ出発。カテリーナ・スフォルツァはチェーザレ・ボルジアとイヴ・ダレーグルに挟まれ、トルコの黒い服で葦毛の馬に騎乗。
1500年1月23日
1500年1月30日
チェゼーナ出発。
1500年2月26日(水)
チェーザレ・ボルジアにローマに連行され、ベルヴェデーレ小宮殿に軟禁される。フランス王ルイ12世への配慮から、チェーザレ・ボルジアの凱旋式にカテリーナ・スフォルツァが捕虜として誇示されるということはなかった。
1500年6月
逃亡を試みるも失敗。サンタンジェロ城に移される。
1501年6月26日
サンタンジェロ城から釈放(1500年、1501年5月)。フィレンツェ領で子供たちと再会、隠遁。
1509年4月
肺炎を罹患。
1509年5月28日
フィレンツェ領で死(1509年5月29日)。
1509年
フィレンツェのムラーテ修道院の主祭壇前に埋葬される。
15??年
孫コジモ1世・デ・メディチにより墓碑が付けられるが、現存せず。
肖像
関連項目
別表記
カテリーナスフォルツァ、カテリーナ・リアーリオ
異名
フォルリの牝虎(ティグレ)、フォルリ女伯、イタリアの女傑(La virago d'Italia)
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
歴史データベース
Genealogy.EU
Google Books - Caterina Sforza
Google Books - Caterina Sforza Volume III
Google Books - Moral Combat
Google Books - The Tigress of Forlì
HighBeam Research
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
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THE BORGIAS wiki
Treccani
Visitare Imola
Wikipedia - Imola
Wikipedia - Santuario della Beata Vergine del Piratello
Wikisource - Discourses on Livy/Third Book/Chapters I-VII
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『君主論』
『世界悪女大全』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネッサンス百科事典』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『At the Court of the Borgia』
『Dizionario di Erudizione Storico-Ecclesiastica』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年10月1日以前
更新日
2021年2月13日