人物1

ヘンリー7世 Henry VII

生没
1457年1月28日~1509年4月21日
エリザベス・オブ・ヨーク
アーサー・チューダー
マーガレット・チューダー
ヘンリー8世
エリザベス・チューダー
メアリー・チューダー
エドマンド・チューダー
エドワード・チューダー
キャサリン・チューダー
概要

 ヘンリー7世は、15世紀~16世紀のイングランドの男性。

年表

1492年11月13日
シャルル8世、1492年10月フランスに侵攻してきたイングランド王ヘンリー7世とフランス北部パ=ド=カレーのエタープルで協定を結び、大金を供してヘンリー7世のブルターニュ公領への介入を止める(エタープル協定)。以後も、周辺の列強と和を結びイタリア侵攻の態勢を整える。
1498年6月24日
この日?、ルイ12世、ヘンリー7世とのElaplesの協定(1492年)を更新。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステ、マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年4月21日
ヘンリー7世、死。——ヘンリー8世、イングランド王に即位。

外部リンク

 ウィキペディア
 捕鯨ライブラリー
 Find A Grave

参考文献

 『世界悪女大全』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ラヨシュ2世 Lajos II

生没
1506年7月1日~1526年8月29日
ウラースロー2世・ヤギェウォ
マリア・フォン・ハプスブルク
概要

 ラヨシュ2世は、16世紀の男性。

在位

 ボヘミア王 1516年~1526年
 ハンガリー王 1516年~1526年
  先代:ウラースロー2世・ヤギェウォ

年表

1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルクウラースロー2世・ヤギェウォ子ラヨシュ2世と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
1516年3月16日
ハンガリー・ボヘミア王Ulászló II死。子ラヨシュ2世、ハンガリー・ボヘミア王となる。
1521年5月
カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナンド1世、ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世の妹アンナ・ヤギェウォと結婚。
1526年8月29日
スレイマン1世は、モハーチでハンガリー軍を撃破。ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世、戦死。

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU
 kleio.org

参考文献

 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『ハプスブルク家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ウラースロー2世・ヤギェウォ Ulászló II Jagiełło

生没
1456年3月1日~1516年3月13日
ベアトリーチェ・ダラゴーナ
ラヨシュ2世
アンナ・ヤギェウォ
概要

 ウラースロー2世・ヤギェウォは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ボヘミア王ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー 1471年~1516年
 ハンガリー王 1490年~1516年
  先代:マティアス・コルヴィヌス
  次代:ラヨシュ2世

年表

1490年4月4/6日
マティアス・コルヴィヌス、後継者を残さず死。ボヘミア(共同)王Vladislav II、ウラースロー2世・ヤギェウォとしてハンガリー王に即位。
1491年11月7日
マクシミリアン1世、ボヘミア(共同)王ウラースロー2世・ヤギェウォのハンガリー王即位(1490年)を、後継者がない場合はハプスブルク家がボヘミア及びハンガリーの王位を継承するとの条件つきで承認(Preßburg協定)。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラアルフォンソ1世・デステ、マントヴァ候フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルクをウラースロー2世・ヤギェウォ子ラヨシュ2世と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。

別表記

 ラディスラス、ラディスラウス、Vladislav IILadislao VII Jagellone

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Genealogy.EU

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

フィリッポ・デル・プリエーゼ Filippo del Pugliese

フランチェスコ・デル・プリエーゼ
フランチェスコ・デル・プリエーゼ
参考文献

 『イコノロジー研究

フランチェスコ・デル・プリエーゼ Francesco del Pugliese

フィリッポ・デル・プリエーゼ
ピエロ・デル・プリエーゼ
参考文献

 『イコノロジー研究

フランチェスコ・デル・プリエーゼ Francesco del Pugliese

生没
1458年5月30日~1519年頃
出身
フィレンツェ
フィリッポ・デル・プリエーゼ
概要

 フランチェスコ・デル・プリエーゼは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

別表記

 フランチェスコ・ディ・フィリッポ・ディ・フランチェスコ・デル・プリエーゼ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

ピエロ・デル・プリエーゼ Piero del Pugliese

生没
1430年~1498年
出身
フィレンツェ
フランチェスコ・デル・プリエーゼ
概要

 ピエロ・デル・プリエーゼは、15世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

ジャン・ド・リュジニャン Jean II de Lusignan

生没
1418年5月16日~1458年7月28日
出身
ニコシア
没地
ニコシア
ヘレナ・パレオロギナ
ジャック2世・ド・リュジニャン
シャルロット・ド・リュジニャン
クレオファ・ド・リュジニャン
概要

 ジャン・ド・リュジニャンは、15世紀の男性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』

レオナルド・ロレダン Leonardo Loredan

生没
1436年11月16日~1521年6月21日
概要

 レオナルド・ロレダンは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在位

 ヴェネツィア共和国ドージェ 1501年~1521年

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルネサンスの華』

アントーニオ・グリマーニ Antonio Grimani

生没
1434年12月28日~1523年5月7日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
マリーノ・グリマーニ
アニェジーナ・モンタネール
カテリーナ・ロレダン
ドメニコ・グリマーニ
概要

 アントーニオ・グリマーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在位

 ヴェネツィア共和国ドージェ 1521年~1523年

年表

1434年12月28日
ヴェネツィアにて、生(1434年1月17日)。
1496年9月14日
アントーニオ・グリマーニとマルコ・モロジーニはミラノに到着し、メルツォ伯ガレアッツォ・スフォルツァに迎えられる。
カルマニョーラ宮殿に宿泊し、チェチーリア・ガッレラーニとルドヴィーコ・カルミナーティに歓待される。
1496年9月15日
アッビアーテグラッソに到着し、フランチェスコ・フォスカリと合流。
1496年9月16日
その場にはアントーニオ・グリマーニ、マルコ・モロジーニの他に、フランチェスコ・フォスカリに随行していたマリン・サヌードミラノルドヴィーコ・イル・モーロベアトリーチェ・デステベルナルディーノ・カルバハル枢機卿、ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノマルケジーノ・スタンガ、アンジェロ・タレンティなどがいた。

別表記

 グリマンノ、Grimanno

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』

マリーノ・グリマーニ Marino Grimani

アントーニオ・グリマーニ
ジローラモ・グリマーニ

ジローラモ・グリマーニ Girolamo Grimani

マリーノ・グリマーニ
ジョヴァンニ・グリマーニ
ルクレツィア・グリマーニ
別表記

 Gerolamo Grimani

ルクレツィア・グリマーニ Lucrezia Grimani

ジローラモ・グリマーニ
バルトロメオ・カッペッロ

ヴィッラーノ・ヴィッラーニ Villano Villani

ストルド・ヴィッラーニ
ソフィア・ダ・コルドジャ
フランチェスコ・ヴィッラーニ
ジョヴァンニ・ヴィッラーニ
ベルトーラ・ヴィッラーニ
カパッキア・ヴィッラーニ
フィリッポ・ヴィッラーニ
マッテオ・ヴィッラーニ
外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ジョヴァンニ・ヴィッラーニ Giovanni Villani

生没
1275~80年~1348年
ヴィッラーノ・ヴィッラーニ
概要

 ジョヴァンニ・ヴィッラーニは、13世紀~14世紀のイタリアの男性。

別表記

 ジョヴァンニ・ヴィラーニ

外部リンク

 ウィキペディア
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス夜話』

フィリッポ・ヴィッラーニ Filippo Villani

生没
1325年~1407年
出身
フィレンツェ
マッテオ・ヴィッラーニ
概要

 フィリッポ・ヴィッラーニは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

マッテオ・ヴィッラーニ Matteo Villani

生没
~1363年
出身
フィレンツェ
ヴィッラーノ・ヴィッラーニ
フィリッポ・ヴィッラーニ
概要

 マッテオ・ヴィッラーニは、14世紀頃のイタリアの男性。

別表記

 マテオ、マッテーオ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『快楽の中世史』
 『君主論』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

リオネット・デ・ロッシ Lionetto de Rossi

マリーア・デ・メディチ
ルイジ・デ・ロッシ
年表

1485年
メディチ銀行リヨン支店の支配人リオネット・デ・ロッシ、経営失敗の責任を問われてフィレンツェに召喚され、直ちに逮捕される。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

コスタンツァ・デ・ロッシ Costanza de' Rossi

生没
1503年~
トロイロ1世・デ・ロッシ
ビアンカ・リアリオ
ジローラモ・デリ・アルビッツィ
概要

 コスタンツァ・デ・ロッシは、16世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ピエル・マリーア3世・デ・ロッシ Pier Maria III de' Rossi

生没
1504年~1547年8月15日
出身
サン・セコンド・パルメンセ
没地
サン・セコンド・パルメンセ
トロイロ1世・デ・ロッシ
ビアンカ・リアリオ
カミッラ・ゴンザーガ
概要

 ピエル・マリーア3世・デ・ロッシは、16世紀のイタリアの男性。

年表

1523年

別表記

 ピエトロ・マリーア

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

ピエル・マリーア2世・デ・ロッシ Pier Maria II de' Rossi

生没
1413年3月25日~1482年9月1日
出身
ベルチェート
没地
トッレキアーラ
ピエル・マリーア1世・デ・ロッシ
アントーニア・トレッリ
概要

 ピエル・マリーア2世・デ・ロッシは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 ピエル・マリーア・ロッシ、Pietro Maria II

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』

ジャック2世・ド・リュジニャン Jacques II de Lusignan

生没
1438/1439/1440年頃~1473年7月10日
出身
ニコシア
没地
ファマグスタ
ジャン2世・ド・リュジニャン
カテリーナ・コルネール
概要

 ジャック2世・ド・リュジニャンは、15世紀の男性。

別表記

 ジャコモ・イル・バスタルド、Jacob II

外部リンク

 Genealogy.EU
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』

アゴスティーノ・バルバリーゴ Agostino Barbarigo

生没
1419年6月3日~1501年9月20日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
フランチェスコ・バルバリーゴ
カッサンドラ・モロジーニ
概要

 アゴスティーノ・バルバリーゴは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在位

 ヴェネツィア共和国ドージェ 1486年~1501年

年表

1495年3月31日
アレクサンデル6世ヴェネツィアミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国が、対フランス神聖同盟(ヴェネツィア同盟)を結成。フィレンツェフェッラーラは加盟を拒否。
1495年4月10日
ヴェネツィア同盟公表。

献呈された著作

 マリン・サヌード著『La spedizione di Carlo VIII(シャルル8世のイタリア遠征)』

別表記

 バルバディゴ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

トット・マキャヴェリ Totto Machiavelli

生没
1475年~1522年
ベルナルド・マキアヴェッリ
バルトロメア・デ・ネッリ
概要

 トット・マキャヴェリは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ベルナルド・マキアヴェッリ Bernardo Machiavelli

生没
1428年~1500年
バルトロメア・デ・ネッリ
プリマヴェーラ・マキアヴェッリ
マルゲリータ・マキアヴェッリ
ニッコロ・マキアヴェッリ
トット・マキアヴェッリ
概要

 ベルナルド・マキアヴェッリは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

別表記

 ベルナルド・ディ・ニッコロ・マキアヴェリ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アントーニオ・カニジャーニ Antonio Canigiani

生没
1449年~
シモーネ・カニジャーニ
マルゲリータ・デリ・アルベルティ
概要

 1484年に正義の旗手だった同姓同名のいとこがいる。

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』

ベネデット・デリ・アルベルティ Benedetto degli Alberti

ネロッツォ・デリ・アルベルティ
フィリッパ・デ・パッツィ
リーサ・デ・バルディ
年表

1350年
フィリッパ・デ・パッツィと結婚。
1357年
リーサ・デ・バルディと結婚。

関連項目

 チオンピの乱

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

ジョヴァンニ・カニジャーニ Giovanni Canigiani

生没
1404年11月28日~
アントーニオ・カニジャーニ
タッデア・デリ・アルビッツィ
サンドラ・デ・バルディ
コスタンツァ・カニジャーニ
アントーニオ・カニジャーニ
マッテオ・カニジャーニ
概要

 ジョヴァンニ・カニジャーニは、15世紀頃のイタリアの男性。

年表

1420年頃
サンドラ・デ・バルディと結婚。六男三女もうける。
1473年3月15日
アントーニオ・バルトロメイがジョヴァンニ・カニジャーニの遺言書を作成。

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』

ベルナルド・ベンボー Bernardo Bembo

生没
1433年10月19日~1519年5月28日
ニッコロ・ベンボー
エリザベッタ・パルータ
エレーナ・モロジーニ
エレーナ・マルチェッロ
ピエトロ・ベンボー
カルロ・ベンボー
概要

 ベルナルド・ベンボーは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

カルロ・ベンボー Carlo Bembo

生没
~1503年
ベルナルド・ベンボー
概要

 カルロ・ベンボーは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

トンマーゾ・ベンチ Tommaso Benci

生没
1427年~1470年4月16日
没地
フィレンツェ
ロレンツォ・ベンチ
概要

 トンマーゾ・ベンチは、15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

アメリゴ・ベンチ Amerigo Benci

ジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ
ジネヴラ・ペルッツィ
ジョヴァンニ・ベンチ
ジネヴラ・ベンチ
概要

 アメリゴ・ベンチは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1431年以降
おそらくフィレンツェにて、生。
1463年3月~4月
フィレンツェ共和国のプリオーレを務める。
1474年1月15日以前
死。

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

ジネヴラ・ベンチ Ginevra Benci

生没
1457年8月~1505年3月31日以降
出身
フィレンツェ
アメリゴ・ベンチ
ルイジ・ニッコリーニ
概要

 ジネヴラ・ベンチは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1457年8月
フィレンツェにて、生。
1473年8月17日
ルイジ・ニッコリーニの妻、死。
1474年1月15日
持参金1千4百フィオリーノで、15歳年上のルイジ・ニッコリーニと結婚。
公証人シモーネ・グラッツィーニ作成の結婚証書の日付は1473年1月15日になっているが、フィレンツェ共和国では3月25日を1年の始まりとするため、実際は1474年。
1505年3月31日
夫ルイジ・ニッコリーニが遺言書を作成し、妻に持参金を返すよう記載されているため、ジネヴラ・ベンチの死はこの日以降であると推測される。

外部リンク

 Treccani

別表記

 ジネヴラ・デ・ベンチ

ニッコロ・リドルフィ Niccolò Ridolfi

生没
1444年~1497年
ルイジ・リドルフィ
ジュリアーナ・スピネッリ
ピエロ・リドルフィ
概要

 ニッコロ・リドルフィは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1464年2月3日
1497年8月5日
メディチ派の陰謀。メディチ家復辟の陰謀が発覚し、官職の指導的地位を占める有力者を含む多数の者が逮捕される。
陰謀の首謀者として死刑を宣告されたベルナルド・デル・ネロ、ニッコロ・リドルフィ、ジャンノッツォ・プッチロレンツォ・トルナブオーニジョヴァンニ・カンビの5名、1495年3月19日の法によりコンシーリオ・マッジョーレへ提訴。
緊迫した険悪な空気が広まる中で市民の陰謀への恐怖と首謀者への憎悪募り、その提訴権の否認、反逆者への復讐の声が高まる。

別表記

 Niccolò di Luigi di Mefs. Lorenzo Ridolfi

外部リンク

 Google Books
 Treccani
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

アンナ・ヤギェウォ Anna Jagiełło

生没
~1547年
ウラースロー2世・ヤギェウォ
フェルディナンド1世
マクシミリアン2世
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク
カタリーナ・フォン・ハプスブルク
エレオノーラ・ダズブルゴ
バルバーラ・ダズブルゴ
カール
ジョヴァンナ・ダズブルゴ
概要

 アンナ・ヤギェウォは、16世紀頃の女性。

年表

1515年5月20日
1521年5月
カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナンド1世と結婚。

別表記

 ヤギエロ

外部リンク

 ウィキペディア
 Find A Grave
 Genealogy.EU

参考文献

 『ハプスブルク家』
 『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジグムント1世・ヤギェウォ Zygmunt I Jagiełło

生没
1467年1月1日~1548年4月1日
ボーナ・スフォルツァ
概要

 ジグムント1世・ヤギェウォは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ポーランド王 1506年8月19日~1548年
 リトアニア大公 1506年~1548年

年表

1506年8月19日
Aleksander Jagiełłończyk死、ポーランド王となる。

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

シャルロット・ド・リュジニャン Charlotte de Lusignan

生没
1444年6月28日~1487年7月16日
ジャン2世・ド・リュジニャン
ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
概要

 シャルロット・ド・リュジニャンは、15世紀の女性。

年表

1463年
ローマに逃亡。ローマボルゴ地区に住み、そこを宮廷とする。

別表記

 カルロッタ・ルジニャーノ

外部リンク

 Genealogy.EU
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの女たち』
 『Lucretia Borgia

ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ Bongianni Gianfigliazzi

生没
1418年3月9日~1484年11月11日
出身
フィレンツェ
没地
ピサ
ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ
シモーナ・トシンギ
アドリアーナ・テリアッチ
コスタンツァ・デル・ヴィーニャ
マッダレーナ・パレンティ
シモーナ・ジャンフィリアッツィ
ヤコポ・ジャンフィリアッツィ
概要

 ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1463年
妻アドリアーナ・テリアッチ、死。

別表記

 ボンジャニオ・デ・ジャンフィアリッツィ、ブォンジアノ

外部リンク

 Google Books
 Treccani

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』

シモーナ・ジャンフィリアッツィ Simona Gianfigliazzi

生没
1456年~
父;ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ
ピエロ・ディ・ヤコポ・ディ・ピエログィッチャルディーニ
ルイジ・グィッチャルディーニ
コスタンツァ・グィッチャルディーニ
マッダレーナ・グィッチャルディーニ
ヤコポ・グィッチャルディーニ
ボンジャンニ・グィッチャルディーニ
ボンジャンニ・グィッチャルディーニ
ジローラモ・グィッチャルディーニ
ディアノーラ・グィッチャルディーニ
フランチェスコ・グィッチャルディーニ
概要

 シモーナ・ジャンフィリアッツィは、15世紀頃のイタリアの女性。

別表記

 Simona di Bongianni Gianfigliazzi

外部リンク

 Genealogy

参考文献

 『フィレンツェ史』

ニッコロ・サヴォナローラ Niccolò Savonarola

ミケーレ・サヴォナローラ
ジローラモ・サヴォナローラ
参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

クリストフォロ・モーロ Cristoforo Moro

生没
1390年~1471年11月10日
概要

 クリストフォロ・モーロは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

在位

 第67代ヴェネツィア共和国ドージェ 1462年~1471年

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの女たち』

アンドレア・グリッティ Andrea Gritti

生没
1455年~1538年
概要

 アンドレア・グリッティは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在位

 ヴェネツィア共和国ドージェ 1523年~1538年

肖像

 ティツィアーノ

外部リンク

 ウィキペディア

アンジェロ・ターニ Angelo Tani

生没
1415年~1492年
ヤコポ・ターニ
概要

 アンジェロ・ターニは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 Angelo di Jacopo TaniAgnolo Tani

外部リンク

 Wikidata

参考文献

 『メディチ家』

アントーニオ・ジェンナロ Antonio Gennaro

参考文献

 『フィレンツェ史』

アントーニオ・ジャコミーニ Antonio Giacomini

生没
1456年~1518年
概要

 アントーニオ・ジャコミーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

別表記

 Antonio Giacomini TebalducciAntonio Giacomino

外部リンク

 Italies
 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』

アントーニオ・ダ・ヴェナーフロ Antonio da Venafro

生没
1459年~1530年
概要

 アントーニオ・ダ・ヴェナーフロは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1502年9月末
パンドルフォ・ペトルッチの代理として、マジョーネの会合に出席。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。

別表記

 アントニオ・ダ・ヴェナフロ、Antonio Giordani da Venafro

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』

アントーニオ・ディ・サッソ Antonio di Sasso

参考文献

 『フィレンツェ史』

アントーニオ・ディ・ミニアート・ディニ 
Antonio di Miniato Dini

ベルナルド・ディ・ミニアート・ディニ
別表記

 Antonio di Bernardo di Miniato Dini

参考文献

 『フィレンツェ史』

アントーニオ・デリ・アーリ Antonio degli Agli

生没
1400年~1477年
出身
フィレンツェ
概要

 アントーニオ・デリ・アーリは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 ディ・ベリンチョーネ、di Bellincione

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

アントーニオ・ロリーニ Antonio Rorini

参考文献

 『フィレンツェ史』

ウグッチオーネ・コントラーリ Uguccione Contrari

生没
~1516年5月10日
アンブロージオ・コントラーリ
ディアーナ・デステ
概要

 ウグッチオーネ・コントラーリは、16世紀頃のイタリアの男性。

別表記

 ディ・コントラーリ

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

エッツェリーノ・ダ・ロマーノ Ezzelino da Romano

生没
1194年~1259年
概要

 エッツェリーノ・ダ・ロマーノは、12世紀~13世紀のイタリアの男性、皇帝派の闘将。

年表

1236年
マントヴァを占領。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界大百科事典』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』

エンリコ・スクロヴェニ Enrico Scrovegni

生没
~1336年
没地
ヴェネツィア
レジナルド・スクロヴェニ
カペッリーナ・マラカペッリ
?・カッラーラ
ヤコピーナ・デステ
概要

 エンリコ・スクロヴェニは、14世紀頃のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

オッタヴィアーノ・ウバルディーニ Ottabiano Ubaldini

生没
~1498年
ベルナルディーノ・ウバルディーニ
アウラ・ダ・モンテフェルトロ
概要

 オッタヴィアーノ・ウバルディーニは、政治よりも錬金術や占星術に関心を持っていたが、時折フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの相談相手を務めた。そしてフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの死後は彼の息子グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの後見人となり、彼に代わって国事を取り仕切った。

年表

1478年2月15日
ウルビーノピエロ・フェリーチ宛書簡をしたためる。この書簡により、彼がパッツィ家の陰謀の全貌を知っていて、成功には悲観的であることが分かる。他にグイドバルド・ダ・モンテフェルトロが日曜のミサで首飾りを大喜びして見せびらかしていたことを述べている。

外部リンク

 Google Books - The Book of the Courtier
 VER SACRUM

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェ Ottaviano della Croce

生没
148?年~1486年
ジョルジョ・デッラ・クローチェ
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
概要

 オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェは、15世紀の男性。

外部リンク

 RootsWeb.com

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

オッド・アルトヴィッティ Oddo Altoviti

バルトロメア・アルトヴィッティ
別表記

 オッド・デリ・アルトヴィッティ

参考文献

 『メディチ家の人びと』

オドアルド・ブエリ Odoardo Bueri

ピッカルダ・ブエリ
概要

 オドアルド・ブエリは、14世紀頃のフィレンツェの男性。

別表記

 オドラルド・デ・ブエリ、Edoardo

外部リンク

 RootsWeb.com

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ガスパーレ・ダ・ヴェローナ Gaspare da Verona

出身
ヴェローナ
ルクレツィア・タスカ
フランチェスコ・ダ・ヴェローナ
クリストフォーラ・ダ・ヴェローナ
テレンツィア・ダ・ヴェローナ
マルツィア・ダ・ヴェローナ
概要

 ガスパーレ・ダ・ヴェローナは、歴史家。

別表記

 ヴェロナ

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

カミッロ・ベネイムベネ Camillo Beneimbene

生没
~1505年11月
概要

 カミッロ・ベネイムベネは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、ローマの公証人。現在サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(ロンバルド広場?)が建っているところに彼の事務所があった。

年表

1486年6月8日
1489年5月20日
1501年8月26日
1505年4月9日
1505年
この年まで法的書類を作成する仕事を続ける。

別表記

 カミーロ・ベネインベーネ、BenembeneBenimbene

外部リンク

 Treccani.it

参考文献

 『Lucretia Borgia

カングランデ・デッラ・スカーラ Cangrande I della Scala

生没
1291年3月9日~1329年7月22日
概要

 カングランデ・デッラ・スカーラは、13世紀~14世紀のイタリアの男性。

在位

 ヴェローナの君主 1308年~1329年
 ヴィチェンツァの君主 1312年~1329年
 パドヴァの君主 1328年~1329年

別表記

 カン・グランデ、デラ・スカラ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『サロメの乳母の話』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

キメンティ・チェルペローネ Chimenti Cerpellone

参考文献

 『フィレンツェ史』

グァルテロット・グァルテロッティ Gualterotto Gualterotti

参考文献

 『フィレンツェ史』

グリエルモ2世 Guglielmo II

生没
1153年~1189年
概要

 グリエルモ2世は、12世紀の男性。

在位

 シチリア王 1166年~1189年

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

グレゴーリオ・ザンパンテ Gregorio Zampante

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

コジモ・バルトリ Cosimo Bartoli

生没
1503年12月20日~1572年10月25日
概要

 コジモ・バルトリは、16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

コーラ・ディ・リエンツォ Cola di Rienzo

生没
1313年?~1354年
年表:1347年 ローマで革命
概要

 コーラ・ディ・リエンツォは、14世紀のイタリアの男性。

年表

1347年5月20日
ローマの民衆が、コラ・ディ・リエンツォに「護民官」の称号を与える。
1347年12月15日
コラ・ディ・リエンツォが民衆の離反で退位し、ローマから逃亡する。
1354年8月1日
リエンツォがローマに帰還し、政権を回復する。
1354年10月8日
ローマに帰還したリエンツォが民衆の反乱で殺害される。

別表記

 ニコラ・ディ・リエンツォ、Cola di Rienzi

外部リンク

 Wikipedia
 歴史データベース

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンスの歴史』
 『Lucretia Borgia

ジアーノ・デッラ・ベッラ Giano della Bella

生没
13世紀後半~1306年4月19日以前
出身
フィレンツェ
没地
フランス
概要

 ジアーノ・デッラ・ベッラは、13世紀~14世紀のイタリアの男性、政治家。13世紀後半のフィレンツェ共和国の重要人物。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

別表記

 ジャーノ

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

シジスモンド・デッラ・ストゥファ Sigismondo della Stufa

別表記

 ジスモンド・デッラ・ストゥーファ

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』

ジャン・ヤコポ・アングィッソーラ Gian Jacopo Anguissola

ジョヴァンニ・アングィッソーラ
カテリーナ・トレッリ
アンジェラ・テデスキ
ジョヴァンニ・アングィッソーラ
カテリーナ・アングィッソーラ
在位

 ピアチェンツァ伯

ジャン・ヤコポ・カランドラ Gian Jacopo Calandra

生没
1488年~1543年
出身
マントヴァ
没地
マントヴァ
著書:微風
概要

 ジャン・ヤコポ・カランドラはイザベッラ・デステの秘書。

別表記

 Giovanni Giacomo

外部リンク

 Treccani

ジャン・ルイジ・ダル・フィエスコ Gian Luigi dal Fiesco

別表記

 ジャンルイジ、Gianluigi

参考文献

 『イタリア史』
 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・アルノルフィニ Giovanni Arnolfini

生没
1400年~1472年9月11日
出身
ルッカ
没地
ブルージュ
概要

 ジョヴァンニ・アルノルフィニは、15世紀の男性、商人。

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンニ・アングィッソーラ Giovanni Anguissola

生没
1514年~1578年6月28日
出身
ピアチェンツァ
没地
コモ
ジャン・ヤコポ・アングィッソーラ
概要

 ジョヴァンニ・アングィッソーラは、16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ジョヴァンニ・カナッチ Giovanni Canacci

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・セッリストーリ Giovanni Serristori

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・ダ・プラートヴェッキオ 
Giovanni da Pratovecchio

バルトロメオ・ダ・プラートヴェッキオ
別表記

 Giovanni di Bartolomeo da Pratovecchio

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・デュマ Giovanni Dumas

別表記

 モンシニョール・ド・リーユ

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・ドメニコ Giovanni Domenico

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ジョヴァンニ・ボンシ Giovanni Bonsi

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・バッティスタ・アドリアーニ 
Giovanni Battista Adriani

生没
1511年~1579年
出身
フィレンツェ
概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・アドリアーニは、16世紀のイタリアの男性、歴史家。

年表

1511年
1541年~1542年
コジモ1世・デ・メディチ、1540年創立されたAccademia degli Umidiを自分の支配下に収めて公的なAccademia Fiorentina(フィレンツェ学園)に改組し、ベネデット・ヴァルキG. GelliB Segniジョヴァンニ・バッティスタ・アドリアーニP. Vettoriらをメンバーとしてトスカーナ語の純化、古典の収集・編纂・刊行を行わせる。
君主・宮廷を中心のその委嘱の下で、ないしはそれとの主従関係の中で生ずる宮廷文学・学芸が支配的になり始める。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタ Giovanni Battista della Porta

生没
1535年10月~1615年2月4日
概要

 ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタは、16世紀~17世紀の物理学者、劇作家。

年表

1535年10月
ナポリに生(1535年11月、1538年)。

別表記

 ジャンバッティスタ、ジャン・バッティスタ、ジャン・バティスタ、GiambattistaGiovambattista

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『錬金術』

ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラングィッラーラ 
Giovanni Battista dell'Anguillara

ジュリアーノ・デッラングィッラーラ
外部リンク

 Geneanet

参考文献

 『Lucretia Borgia

ジョヴァンニ・フォルキ Giovanni Folchi

生没
1475年~1518/24年?
概要

 ジョヴァンニ・フォルキは、15世紀~16世紀の男性。

参考文献

 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』

ジョルジョ・スカーリ Giorgio Scali

生没
~1382年1月17日
ジーノ・スカーリ
概要

 1378年のチオンピの乱の後、トンマーゾ・ストロッツィと共に、一般大衆の人気に支えられてフィレンツェを3年間支配する。しかし、政敵であるピエロ・デリ・アルビッツィドナート・バルバドーリなど多くの無辜の人々を処刑し、権勢を揮って執政官たちを陵駕した尊大な振る舞いにより、大衆に見捨てられ、ジョルジョは首をはねられる。トンマーゾ・ストロッツィは逃亡して一命を取り留めるが、一族と共に永久追放に処せられる。彼らの早くからの支持者の一人であったベネデット・デリ・アルベルティも監禁されている。

参考文献

 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』

ジョルジョ・デッラ・クローチェ Giorgio della Croce

生没
~1486年
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェ
概要

 ジョルジョ・デッラ・クローチェは、15世紀のイタリアの男性。
 ミラノ人。ロドリゴ・ボルジアのおかげで、教皇シクストゥス4世の秘書の地位を手にしている。裕福になり、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に自分と自分の家族の礼拝堂を作っている。

年表

1486年
死(1485年)。

別表記

 ジョルジョ・ディ・クローチェ

外部リンク

 RootsWeb.com

参考文献

 『ボルジア家の黄金の血』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ジョルジョ・ベニーノ Giorgio Benino

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジローラモ・モレッリ Girolamo Morelli

年表

1478年
ミラノに同盟に基づく支援を要請するための特使に任命される。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

テギア・ディ・シッツィ Teghia de' Sizi

概要

 テギア・ディ・シッツィは、アヴェラルド・デ・メディチの母の兄。

外部リンク

 The Tragedies of the Medici - Project Gutenberg

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ドナート・バルバドーリ Donato Barbadoli

参考文献

 『フィレンツェ史』

ドメニコ・ダ・リニャーノ Domenico da Rignano

生没
1440年頃~1474年末
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
概要

 ドメニコ・ダ・リニャーノは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1440年頃
生。
1474年末
死(1475年初め)。

別表記

 ドメニコ・ダリニャーノ、Domenico Giannozzo di RignanoDomenico Giannozzo Signore di ArignanoDomenico d' ArignanoDomenico d'Arignano

外部リンク

 RootsWeb.com

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

トンマーゾ・デ・カヴァリエリ Tommaso de' Cavalieri

生没
1509年~1587年
出身
ローマ
没地
ローマ
概要

 トンマーゾ・デ・カヴァリエリは、16世紀の男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

ナッティオ・チーニ Nattio Cini

カッサンドラ・チーニ
別表記

 ナッティオ・デ・チーニ、Nattio de' Cini

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ナルド・ナルディ Naldo Naldi

生没
1439年8月31日~1513年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ヤコポ・ナルディ
フィアンメッタ
外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『ルネサンス精神の深層』

ニッコロ・デ・ペレガディ Niccolò de' Pelegati

外部リンク

 A Theory Of Civilization

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ニッコロ・ニッコリ Niccolò Niccoli

生没
1364年~1437年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
概要

 ニッコロ・ニッコリは、14世紀~15世紀のフィレンツェの男性、人文主義者、古典収集家並びに研究家。

年表

1437年2月3日
フィレンツェで死(1364年頃~1437年)。
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオニッコロ・ニッコリの遺した古典書と自ら収集した古典書(計800余巻?)収蔵の間をサン・マルコ修道院ミケロッツォの設計で作らせ、ニッコロ・ニッコリの遺言通り、かつエウゲニウス4世の侍従として市内にあったTommaso Parentucelli(1397年~)の協力を得て定めた規則に則り、全ての研修者に開放させる。ヨーロッパ最初の公開図書館、誕生。

別表記

 ニッコロニッコリ

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ニッコロ・バルバドーリ Niccolò Barbadoli

参考文献

 『フィレンツェ史』

ニッコロ・ミケロッツィ Niccolò Michelozzi

生没
1447年~1527年
ミケロッツォ
概要

 ニッコロ・ミケロッツィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1474年8月8日
フィレンツェジェンティーレ・ベッキ宛書簡をしたためる。1474年7月29日付のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書簡について批評。

外部リンク

 Wikipédia

参考文献

 『君主論』
 『逆光のメディチ』
 『メディチ家』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

バルトロメオ・セラ Bartolomeo Serra

フアナ・デ・ボルハ・イ・エスクリヴァ
概要

 バルトロメオ・セラは、14~15世紀頃の男性。

チェーザレ・ボルジア数

 妻フアナ・デ・ボルハ・イ・エスクリヴァ→きょうだいホフレ・デ・ボルハ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 BartomeuBartolomé

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

バルトロメオ・ファツィオ Bartolomeo Facio

生没
1400年頃~1457年
出身
ラ・スペツィア
没地
ナポリ
概要

 バルトロメオ・ファツィオは、15世紀のイタリアの男性、人文主義者、歴史家。

年表

1400年頃
リグーリアのラ・スペツィアにて、生。
1457年11月
ナポリで死(1400年頃~)。

別表記

 Bartolommeo Facio

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

バルトロメオ・ボナッティ Bartolomeo Bonatti

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ピエトロ・アレティーノ Pietro Aretino

生没
1492年4月20日~1556年10月21日
概要

 ピエトロ・アレティーノは詩人、散文家、劇作家。

年表

1492年4月20日
アレッツォに生。
1525年
喜劇La Cortigiana(遊女)を執筆。(1534年刊行。1537年初演)。
1534年4月
Ragionamenti(艶話)第1巻を刊行。
1536年
Ragionamenti(艶話)第2巻を刊行。
1546年
悲劇Orazia(オラツィア)を刊行。
1556年10月21日

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ピエトロ・パオロ・ボスコリ Pietro Paolo Boscoli

生没
1478年~1513年1513年2月22日
概要

 ピエトロ・パオロ・ボスコリは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:アゴスティーノ・カッポーニと共に中心となって若者20名ほどとジュリアーノ・デ・メディチとその甥ロレンツォ・デ・メディチを襲撃する陰謀を企んでいたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見された自身の手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。
1513年2月22~23日
深夜、アゴスティーノ・カッポーニと共に処刑される。

別表記

 ピエートロ・パーオロ・ボスコリ

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ピエトロ・マトゥッツィ Pietro Giovanni Matuzzi

イザベッラ・ボルジア
概要

 ピエトロ・マトゥッツィは、15世紀頃のイタリアの男性。パリオーネ地区に住む小身の貴族で、市政に一生を費やしている。

年表

1483年4月1日

チェーザレ・ボルジア数

 妻イザベッラ・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

ピエルアントーニオ・カルネセッキ Pierantonio Carnesecchi

参考文献

 『フィレンツェ史』

ピエロ・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ 
Piero Dovizi da Bibbiena

別表記

 ピエロ・ドリッツィ・ディ・ビッビエナ、ピエトロ

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』

ビンダッチョ・リカソーリ Bindaccio Ricasoli

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

ファーツィオ・デリ・ウベルティ Fazio degli Uberti

生没
1305/1309年~1367年以降
出身
ピサ
没地
ヴェローナ
概要

 ファーツィオ・デリ・ウベルティは、14世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

フランチェスコ・ガセット Francesco Gaçet

年表

1489年5月21日

別表記

 ガセト

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

フランチェスコ・カッターニ・ダ・ディアッチェート Francesco Cattani da Diacceto

生没
1466年11月16日~1522年4月10日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
概要

 フランチェスコ・カッターニ・ダ・ディアッチェートは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

別表記

 ディ・ディアッチェート

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

フランチェスコ・カンテルモ Francesco Cantelmo

生没
~1555年
ジョヴァンニ・ジュゼッペ・カンテルモ
ジューリア・デ・メディチ
概要

 フランチェスコ・カンテルモは、16世紀頃のイタリアの男性。

年表

1550年

別表記

 フランチェスコ・デ・バルテレンミ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家の人びと』

フランチェスコ・ジノーリ Francesco Ginori

参考文献

 『メディチ家の人びと』

フランチェスコ・ダティーニ Francesco Datini

生没
1335年頃~1410年8月16日
出身
プラート
没地
プラート
マルコ・ダティーニ
モンナ・ヴェルミーニャ
概要

 フランチェスコ・ダティーニは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『メディチ家』

フランチェスコ・ダ・ブーティ Francesco da Buti

生没
1324年?~1406年7月25日
出身
ピサ
没地
ピサ
概要

 フランチェスコ・ダ・ブーティは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イコノロジー研究

フランチェスコ・ノリ Francesco Nori

生没
~1478年4月26日
概要

 フランチェスコ・ノリは、15世紀頃のイタリアの男性。

年表

1475年初頭
1475年1月19日
ローマロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ジローラモ・リアリオを金と友人で抱き込むことは可能だが、ヤコポ・デ・パッツィが干渉してこなければの話で、その見込みは全くないと報告。
1475年
ジローラモ・リアリオと、ピサ大司教に関する休戦協定をどうにか結ぶ。
1478年4月26日(日)
パッツィ家の陰謀。殺害される。

別表記

 フランチェスキーノ・ノーリ

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

フランチェスコ・バンディーニ Francesco Bandini

参考文献

 『ルネサンス精神の深層』

ベネデット・ヴァルキ Benedetto Varchi

生没
1503年3月19日~1565年12月18日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
概要

 ベネデット・ヴァルキは、16世紀のイタリアの男性、人文主義者、歴史家。

別表記

 ベネデットー・ヴァルキ、ヴァルキィ

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『The Life of Cesare Borgia

ベルナルド・ダ・ディアッチェート Bernardo da Diacceto

参考文献

 『フィレンツェ史』

ベルナルド・リヌッチーニ Bernardo Rinuccini

ヤコポ・リヌッチーニ
別表記

 Bernardo di Jacopo Rinuccini

参考文献

 『カトリーヌ・ド・メディシス』

ベルナルド・ボナジュースティ Bernardo Buonagiusti

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ベルナルド・ミケロッツィ Bernardo Michelozzi

生没
1455年8月13日~1519年3月7日
出身
フィレンツェ
ミケロッツォ
フランチェスカ・ガリガーリ
概要

 ベルナルド・ミケロッツィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Treccani
 Wikipédia

参考文献

 『逆光のメディチ』

マルコ・パレンティ Marco Parenti

パレンテ・パレンティ
カテリーナ・ストロッツィ
ピエロ・パレンティ
マリーア・パレンティ
コスタンツァ・マリーア・パレンティ
マリーア・マッダレーナ・パレンティ
ジネヴラ・マテア・パレンティ
リーザ・トンマーザ・パレンティ
アニョレッタ・マルゲリータ・パレンティ
エリザベッタ・マリーア・パレンティ
年表

1447年8月4日

別表記

 マルコ・パレンテ

外部リンク

 Google Books - The Memoir of Marco Parenti

マルコ・ポーロ Marco Polo

生没
1254年9月15日~1324年1月8日
出身
ヴェネツィア
概要

 マルコ・ポーロは、13世紀~14世紀の男性、旅行家。

年表

1271年
東方旅行の出発(-95)
1295年
中国から帰国
1299年
『東方見聞録』
1477年
マルコ・ポーロの遺作Le divisament dou monde(世界の叙述=東方見聞録)の最初の印刷本(但しドイツ語訳)ニュルンベルクで刊。
1490年
この年頃、マルコ・ポーロの『世界の叙述(東方見聞録)』のラテン語訳、印刷、公刊。

別表記

 Il Milione(百万長者または百万虚言者)

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『服飾の中世』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニ Marcello Virgilio Adriani

生没
1464年~1521年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
概要

 マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在職

 フィレンツェ第一書記局首席書記官
  前任:バルトロメオ・スカーラ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』

ヤコポ・ナルディ Jacopo Nardi

生没
1476年~1563年
概要

 ヤコポ・ナルディは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1563年3月
ヤコポ・ナルディフィレンツェで死(1476年~)。(遺作Istorie della città di Firenze(フィレンツェ市国史)、1582年リヨンで刊。)

別表記

 Iacopo

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ヤコポ・ブラッチョリーニ Jacopo Bracciolini

ポッジョ・ブラッチョリーニ
教養

 マルシリオ・フィチーノの教え子。

年表

1478年4月26日(日)
朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、フランチェスコ・サルヴィアーティ大司教、ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコ

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ルカ・デッラ・ロッビア Luca della Robbia

生没
1484年~1519年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
シモーネ・デッラ・ロッビア
フィアンメッタ・デル・ネンテ
概要

 ルカ・デッラ・ロッビアは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』

ルドヴィーコ・カゼッラ Ludovico Casella

生没
1406年~1469年
出身
カゼッレ
ヤコパ・ダ・カリギイス
コスタンツァ・デイ・ノヴェッリ
概要

 ルドヴィーコ・カゼッラは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1406年
カゼッレにて、生(1407年)。

別表記

 ロドヴィーコ・カセラ、Lodovico Casella

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』

カルロ・カナーレ Carlo Canale

ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
概要

 カルロ・カナーレはマントヴァ人、教皇庁内赦院長。

年表

1472年
この頃?、マントヴァの人文主義者たちの間で評判であり、アンジェロ・ポリツィアーノから彼の著作『オルフェオ』についての手紙を受け取っている。1808年ミラノ版『ジュリアーノ殿下の騎馬槍試合の詩』『オルフェオ』には「A Messer Carlo Canale」と記されている。
1483年10月21日
フランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿の執事を務めていたが、この日枢機卿が死ぬ。執事であった間に、ロドリゴ・ボルジア枢機卿と面識があった。
ローマに行き、ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティ枢機卿に雇用されているが、ゴンザーガ家との繋がりは持ち続ける。
1483年10月27日
ルドヴィーコ・ゴンザーガがマントヴァ司教となる。彼の司教昇格に貢献。
1486年6月8日
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイとの婚姻契約を結ぶ。ボルジア家の公証人カミッロ・ベネイムベネによって契約書が作成され、教皇秘書及びサン・ピエトロ大聖堂司教座聖堂参事会員フランチェスコ・マッフェイ、市民ロレンツォ・バルベリーニ・デ・カテッリニス、ローマの裕福な商人ジュリアーノ・ガッロ、ブルカルド・バルベリーニ・デ・カルナリス他が証人。持参金は1千フィオリーノと、sollicitator bullarumに任命されること。(1486年6月6日)
1493年
この頃?、アレクサンデル6世により、トッレ・ディ・ノーラの刑務所長に任命される。
1499年12月4日
この日付のイザベッラ・デステからの手紙を受け取る。

外部リンク

 RootsWeb.com

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『Lucretia Borgia

フランチェスコ・コッポラ Francesco Coppola

生没
1420年~1487年
ロイゼ・コッポラ
エリザベッタ・リゴーリオ
マルコ・コッポラ
フィリッポ・コッポラ
概要

 フランチェスコ・コッポラは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 サルノ伯

年表

1486年8月13日
長男マルコ・コッポラマリーア・トデスキーニとの結婚式に参列するつもりでカステル・ヌオーヴォに赴いたところ、大広間に兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして息子たちと共に逮捕され投獄され、また私財を没収される。
1486年11月13日
裁判にかけられ、この日死刑を宣告される。
1487年5月11日
斬首される。

外部リンク

 Academia.edu
 Treccani
 Treccani
 Gallicchio in Web
 Google Books
 Google Books
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジョヴァンニ・アントーニオ・フラミーニオ Giovanni Antonio Flaminio

生没
1464年~1536年
出身
イーモラ
没地
ボローニャ
ルドヴィーコ・ツァッラービニ・ディ・コティニョーラ
マルカントーニオ・フラミーニオ
概要

 ジョヴァンニ・アントーニオ・フラミーニオは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1464年
イーモラにて、スフォルツァ家の家来の子として、生。
14??年
ボローニャにて、フィリッポ・ベロアルドの下で学ぶ。
14??年
疫病を避けてヴェネツィアへ。ヴェネツィアの裕福な家に教師として雇われる。おそらくこの間に、イーモラの古名をたぶん由来として、フラミーニオという姓を名乗る。
1485年
1489年までヴェネツィア領マルカ・トレヴィジアーナのセッラヴァッレに。結婚し、マルカントーニオを含む4人の子を持つ。
1489年
1498年までモンタニャーナで教える。
1498年
セッラヴァッレに帰る。
15??年
教皇ユリウス2世からのローマ招致を断る。
15??年
ヴェネツィアカンブレー同盟に敗北したため財産を失う。
15??年
イーモラへ。この時には妻を亡くしていた。修道院長となる。
1536年
ボローニャにて、死。

別表記

 Zarrabini

外部リンク

 Google Books
 Wikipedia

ジョヴァンニ・ビーキ Giovanni Bichi

グッチオ・ビーキ
概要

 ジョヴァンニ・ビーキはシエナの有力者、裕福な銀行家。

年表

1433年
神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクより、パラティーノ伯に叙せられる。
1452年
教皇ニコラウス5世より、シエナビーキ宮殿(現シエナ国立絵画館)に移動可能な祭壇の設置と、シエナ郊外にあるクアットロ・トッラ城の礼拝堂でミサを挙行する許しを与えられる。
1453年
納税申告書で、ビーキ宮殿の完成に少なくとも6百フィオリーノ要すると記載。
1456年
この年以降、フィレンツェとの新同盟の条項の概略をまとめるため、雄弁家としてコジモ・イル・ヴェッキオのもとへ派遣される。このフィレンツェ訪問がドナテッロシエナ行きの誘因となる。
1458年10月
早くてこの頃、サンタゴスティーノ教会の西に位置するサンタ・マルタ小宮殿をシエナ政府から許可され購入。
1459年4月18日
この日にはロドリゴ・ボルジア枢機卿がビーキ宮殿に滞在。
14??年
ビーキ宮殿とクアットロ・トッラ城をルイージ・テリアッチに売却。
1460年6月8日
テリアッチ宮殿の庭園で、ロドリゴ・ボルジア枢機卿が1名の枢機卿と共に乱痴気騒ぎ。

外部リンク

 Google Books

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Siena: Constructing the Renaissance City
 『The Life of Cesare Borgia

ロレンツォ・ジュスティーニ Lorenzo Giustini

生没
~1487年11月13日
概要

 ロレンツォ・ジュスティーニは、15世紀頃のイタリアの男性、ジローラモ・リアリオの腹心の部下。

年表

1473年1月14日
1477年11月
ナポリへ使節。
1477年9月
ペルージアの反逆者たちの裁判でロレンツォ・イル・マニーフィコを非難する主張を行う。
その後モントーネの包囲に向かった。
1478年2月14日
朝、ウルビーノ公宮殿小書斎で、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと会合。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロへのシクストゥス4世からの贈り物である首飾りを持参。
1478年3月27日
ヴァティカン宮殿で会合。出席者はジローラモ・リアリオ、ナポリ大使アネッロ・アルカモーネ、ウルビーノ公使アゴスティーノ・スタッコーリ及びピエロ・フェリーチ
1480年3月6日
アラゴン家の代表としてのイッポーリタ・スフォルツァと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの代わりにナポリに留まったニッコロ・ミケロッツィの間で交わされた法的合意書を書いた。
1480年3月13日
フィレンツェ共和国とナポリ王国の協定書に代理人により署名がされる。フィレンツェ共和国の譲歩には、彼自身の死刑宣告の取消も含まれていた。彼を許すことで、ロレンツォ・イル・マニーフィコは自分の身の安全を守ったのである。しかし、シクストゥス4世ジローラモ・リアリオは、教会にとって不利な和平を成立させられてしまったため腹心の部下に裏切られたように感じる。
1487年11月13日
昔の敵の息子であるパオロ・ヴィテッリに決闘を申し込まれて殺される。首を切り落とされ、服を盗まれて、首のない裸の死体は地面に放置されたまま腐っていったという。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ニッコロ・フランチオッティ Niccolò Franciotti

生没
1485年頃~1530年頃
出身
ルッカ
没地
ローマ
ジャンフランチェスコ・フランチオッティ
ルキナ・デッラ・ローヴェレ
ラウラ・ミリオラーティ
エレーナ・フランチオッティ
ジューリオ・フランチオッティ
ラヴィーニャ・フランチオッティ
概要

 ニッコロ・フランチオッティは、イタリアの男性。

年表

1485年頃
おそらくルッカにて、生。
1499年
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿と共に、ジャンフランチェスコ・フランチオッティ一家はアヴィニョンに避難。
150?年
教皇ユリウス2世により、ローマ守備隊隊長に任ぜられる。
1505年11月16日
ラウラ・ミリオラーティと結婚。持参金は3万ドゥカート
1530年頃
ローマにて、死(1535年)。

チェーザレ・ボルジア数

 妻ラウラ・ミリオラーティ→父オルシーノ・ミリオラーティ→母アドリアーナ・デル・ミラ→父ペレ・デル・ミラ→母カテリーナ・デ・ボルハ→きょうだいイサベル・デ・ボルハ・イ・マルティ→子アレクサンデル6世→子チェーザレ・ボルジア

別表記

 ニコル、ニッコロ・デッラ・ローヴェレ、Niccolò della RovereNicola Della Rovere

外部リンク

 JDA's Family Tree
 RootsWeb.com
 Treccani
 Vasanello (VT)

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia

パオロ・グイニジ Paolo Guinigi

生没
1376年~1432年
出身
ルッカ
没地
パヴィア
フランチェスコ・グイニジ
フィリッパ・セルペンティ
マリーア・カテリーナ・アンテルミネッリ
イラリア・デル・カッレット
概要

 パオロ・グイニジは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

在位

 ルッカの領主 1400年11月21日~1430年

年表

1429年11月
ジェノヴァと同盟関係を保ち、ジェノヴァを支配するミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの側に立ってきたものの、そのフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティがトスカーナへの不介入を約したため、ルッカは孤立していた。ヴォルテッラ平定後間もなくミラノやヴェネツィアのように支配領を拡大、強化する必要性が認識されてきたフィレンツェ共和国で、ルッカを今こそ制圧せよとの声が急速に高まる。
1430年2月18日
以降、フィレンツェ共和国軍がルッカ近郊に陣を敷く。
1430年春
フィレンツェ共和国軍がルッカを包囲。フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びシエナに支援を求める。
1430年7月
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの指示を受けたフランチェスコ1世・スフォルツァが、4千5百の兵と共にトスカーナに入り、各地を占領しながらルッカに至る。このためフィレンツェ軍は、ルッカ包囲網を大幅に後退。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍に敵し得ないと判断したフィレンツェ共和国は、多額の資金の提供を条件に撤兵を提案し、フランチェスコ1世・スフォルツァはこれを受け、ルッカをルッカ人の手に戻さないことを約して撤兵。
フィレンツェ共和国によるこのフランチェスコ1世・スフォルツァ買収後、ルッカ市内に、パオロ・グイニジもまたフィレンツェに多額の金でルッカを売り渡そうとしているとの噂が反グイニジ派により広められる。
1430年8月14日
フランチェスコ1世・スフォルツァと結んだルッカの反グイニジ派に捕縛され、子共々フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティのもとに送られる。(1430年8月15日)

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ Vittorino da Feltre

生没
1378年頃~1446年2月2日
出身
フェルトレ
没地
マントヴァ
概要

 ヴィットリーノ・ダ・フェルトレは、14世紀~15世紀の男性、イタリアの教育家。ヴェネツィア近郊フェルトレ生まれの人文主義者マントヴァゴンザーガ家の子女の人文主義に基づく全人教育のための学園喜びの家の創設者。

喜びの家(カ・ゾイオーザ、Ca' ZoiosaCa' GioiosaLa Giocosa

 1427年(1423年)、マントヴァの郊外に創設され、19世紀に至るまで人文主義的教育のモデルとなった学校。ギリシア語とラテン語の作文、文法、修辞学、論理学が主体となり、数学や哲学、倫理教育、社交儀礼の他、本格的な軍隊訓練及び運動訓練も行われていた。体操は、軍事教練からも単なる遊戯からも解放されて、おそらくこの学校によって初めて教えられたが、その後、高等教育には欠かせないものとなった。
 ここで学んだ人物には、ウルビーノフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロマントヴァルドヴィーコ3世・ゴンザーガアレッサンドロ・ゴンザーガチェチーリア・ゴンザーガマントヴァ大使ザッカーリア・サッジがいる。

肖像

本名

 Vittorino dei Rambaldoni

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ジローラモ・トゥッタヴィッラ Girolamo Tuttavilla

生没
14??年~15??年
ギヨーム・デストゥトヴィル
ジローラマ・トーリ
イッポーリタ・オルシーニ
グリエルモ・トゥッタヴィッラ
概要

 ジローラモ・トゥッタヴィッラは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在位

 第1代サルノ伯 1494年~150?年、1505年~

年表

1483年2月22日
1494年2月
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ並びに彼の兄弟たちとの喧嘩が原因でミラノを去る。
1494年
フェッランテ・ダラゴーナにより、サルノ伯に叙される。
1495年7月6日
ナポリ軍騎兵隊の指揮を任され、フォルノーヴォの戦いに出陣した時、ミラノ軍指揮官ガレアッツォ・サンセヴェリーノガスパーレ・サンセヴェリーノと接触するが、すぐに離れている。
1495年
ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ公就位を祝う手紙を公とベアトリーチェ・デステ宛てに送る。
1501年8月1日
フェデリーコ・ダラゴーナが、フランス軍に降伏。
150?年
フランス王ルイ12世ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿をサルノ伯に叙任。
1505年
フェルナンド2世・デ・アラゴンの下、ジョルジュ・ダンボワーズによる公式承認の上、ジローラモ・トゥッタヴィッラにサルノが返される。

別表記

 GerolamoGeronimo Tuttavilla

外部リンク

 Geneanet
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright

アタランテ・ミリオロッティ Atalante Migliorotti

生没
1466年~1532年頃
出身
フィレンツェ
概要

 アタランテ・ミリオロッティは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、音楽家。レオナルド・ダ・ヴィンチにリラの手ほどきを受けたとされる。

年表

1482年

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

マルカントーニオ・ミキエル Marcantonio Michiel

生没
1484年~1552年5月9日
出身
ヴェネツィア
没地
ヴェネツィア
ヴィットーレ・ミキエル
パオラ・ペッシーナ
マッフェア・ソランツォ
概要

 マルカントーニオ・ミキエルは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1525年
ヴェネツィアのタッデオ・コンタリーニ邸で絵画を見て、「婦人の横顔と胸部。ルドヴィーコ・イル・モーロのご息女で、マクシミリアン1世とご結婚。ミラノ人の手による・・・・」と記す。ビアンカ・スフォルツァビアンカ・マリーア・スフォルツァを混同している。
1528年5月23日
マッフェア・ソランツォと結婚。

別表記

 Marc Antonio Michieli

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

ビアージオ・ブオナッコルシ Biagio Buonaccorsi

生没
1472年~1526年?
出身
フィレンツェ
ブオナッコルソ・ブオナッコルシ
アレッサンドラ・フィチーノ
マッダレーナ・ネローニ
ピエラ・リドルフィ
ジネヴラ・ヴェッキエッティ
ブオナッコルソ・ローモロ・ブオナッコルシ
アニョーラ・ブオナッコルシ
フィリッポ・ブオナッコルシ
アレッサンドラ・ブオナッコルシ
アニョーラ・マリーア・ブオナッコルシ
フィリッポ・ローモロ・ブオナッコルシ
概要

 ビアージオ・ブオナッコルシは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、ニッコロ・マキアヴェッリの親友。 ジョヴァンニ・ピコ

年表

1495年
1498年
日記をつけ始める。
1510年10月16日
151?年
1512年
マッダレーナ・ネローニとの間に子アレッサンドラ・ブオナッコルシ又はアレッサンドロ・ブオナッコルシ、生。「永久に残るように」長女に前妻の名前を付ける。
1517年
ピエラ・リドルフィと結婚。
1522年
妻ピエラ・リドルフィ、死。
ジネヴラ・ヴェッキエッティと結婚。
1523年
子フィリッポ・ローモロ・ブオナッコルシ、生。
1525年1月24日
葡萄畑を売却。
これ以降の記録なし。
1526年?
死(1522年、1523年)。

別表記

 ビアジオ・ボナコルシ

外部リンク

 Google Books
 Treccani
 Treccani
 Wikipedia

ベルナルド・ブオンジローラミ Bernardo Buongirolami

生没
1425年?~1484年6月
出身
フィレンツェ
ジョヴァンニ・ブオンジローラミ
概要

 ベルナルド・ブオンジローラミは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1425~1430年
フィレンツェにて、生。

別表記

 ベルナルド・デ・ブォンジロラーミ

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』

フランチェスコ・フィレルフォ Francesco Filelfo

生没
1398年7月25日~1481年7月31日
出身
トレンティーノ
没地
フィレンツェ
概要

 フランチェスコ・フィレルフォは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、人文主義者

年表

1398年7月25日
アンコーナ近郊トレンティーノにて、生。
1440年
1466年
減給され、生活が困窮する。
1469年
シエナに2日間滞在。
1475年
ローマ到着。
1481年7月31日
フィレンツェにて、死。

別表記

 フィエルフォ

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

アゴスティーノ・キージ Agostino Chigi

生没
1465年~1520年
フランチェスカ・オルデアスカ
インペリア
概要

 アゴスティーノ・キージは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、シエナの銀行家。

年表

1520年4月11日

埋葬地

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界悪女大全』
 『メディチ家』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
 『Lucretia Borgia

イザベッラ・ディ・キアロモンテ Isabella di Chiaromonte

生没
1424年頃~1465年3月30日
出身
タラント
没地
ナポリ
トリスターノ・ディ・キアロモンテ
フェッランテ・ダラゴーナ
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
エレオノーラ・ダラゴーナ
フェデリーコ・ダラゴーナ
ジョヴァンニ・ダラゴーナ
ベアトリーチェ・ダラゴーナ
概要

 イザベッラ・ディ・キアロモンテは、15世紀のイタリアの女性。

チェーザレ・ボルジア数

 子アルフォンソ2世・ダラゴーナ→子フェッランディーノ・ダラゴーナ→妻ジョヴァンナ・ダラゴーナ→母フアナ・ダラゴーナ→母フアナ・エンリケス→きょうだいエンリケ・エンリケス→子マリーア・エンリケス→夫フアン・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
 子アルフォンソ2世・ダラゴーナ→子アルフォンソ・ダラゴーナ→妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Famille de Carné
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンスの華』

ルチア・マルリアーニ Lucia Marliani

生没
1455年~1522年12月15日
出身
ミラノ
没地
ミラノ
ピエトロ・マルリアーニ
カテリーナ・ダンゲラ
アンブロージョ・ラヴェルティ
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
オッタヴィアーノ・スフォルツァ
ガレアッツォ・スフォルツァ
概要

 ルチア・マルリアーニは、15世紀~16世紀のイタリアの女性、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの愛人。

年表

1455年
ミラノにて、生。
1471年
アンブロージョ・ラヴェルティと結婚。
1474年
1475年1月
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、メルツォとゴルゴンツォーラの領地、城、多くの宝石や稀少石を与えられる。
夫アンブロージョ・ラヴェルティは妻との関係を持たないことを約束し、その見返りにコモポデスタミラノのカピターノ・ディ・ジュスティツィアに任命される。
1475年
1476年?
1522年12月15日
ミラノにて、死。

備考

 2001年、法医学者のチームがサンタンドレア・ディ・メルツォ教会で発掘された頭蓋骨を鑑定した。頭蓋骨の年齢と特徴、特に頭蓋上部の突出部の穴と歯科疾患の形跡は、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァのものと一致するらしい。ルチア・マルリアーニは彼の死の2年ほど前から愛人で、さらに彼の子を身ごもっていた。サンタンドレア・ディ・メルツォ教会は、彼女が通っていたミラノ郊外にある教会である。彼女が後日、愛人の頭蓋骨を仮の墓所からどうにかして盗み出し、自分の教会に納めたのかもしれない。

外部リンク

 kleio.org
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ルチア・テルツィアーニ Lucia Terziani

生没
1380年~1461年
出身
トルジャーノ
没地
ミラノ
ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
マルコ・フォリアーニ
フランチェスコ1世・スフォルツァ
エリーザ・スフォルツァ
アルベリコ・スフォルツァ
アントーニア・スフォルツァ
レオーネ・スフォルツァ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
オルソーラ・スフォルツァ
リナルド・フォリアーニ
コッラード・フォリアーニ
ボーナ・カテリーナ・フォリアーニ
概要

 ルチア・テルツィアーニは、14世紀~15世紀のイタリアの女性。

年表

1380年
トルジャーノにて、生(1370年頃)。
1401年7月23日
サン・ミニアートにて、フランチェスコ1世・スフォルツァを出産。
1402年
サン・ミニアートにて、エリーザ・スフォルツァを出産。
1403年
アルベリコ・スフォルツァを出産。
1404年
アントーニア・スフォルツァを出産。
1406年
カステルフィオレンティーノにて、レオーネ・スフォルツァを出産。
1407年
コティニョーラにて、ジョヴァンニ・スフォルツァを出産。
1409年10月21日
コティニョーラにて、アレッサンドロ・スフォルツァを出産。
1411年
コティニョーラにて、オルソーラ・スフォルツァを出産。
マルコ・フォリアーニと結婚。
1411年頃
リナルド・フォリアーニを出産。
1420年頃
コッラード・フォリアーニを出産。
14??年
ボーナ・カテリーナ・フォリアーニを出産。
1461年
ミラノにて、死。

別表記

 ルチア・テルツィアーニ・ダ・マルシャーノ、ルチーア・ダ・テルツァーノ、Lucia da TerzanoTorgianodi TorscianoTerzania

外部リンク

 Famille de Carné
 JDA's Family Tree
 RootsWeb.com
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ルネサンスの女たち』

ルクレツィア・クリヴェッリ Lucrezia Crivelli

生没
1452年7月27日~1534年4月12日
出身
ミラノ
没地
カンネート・スッローリオ
ベルナボ・クリヴェッリ
ルドヴィーコ・イル・モーロ
ボーナ・スフォルツァ
ジャンパオロ1世・スフォルツァ
概要

 ルクレツィア・クリヴェッリは、イタリアの女性、ベアトリーチェ・デステの侍女、ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人。

年表

1452年7月27日?
ミラノにて、生。
1491年1月17日
149?年
ベアトリーチェ・デステの侍女だったが、ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人となり、ボーナ・スフォルツァを出産。
1496年11月
ルドヴィーコ・イル・モーロがルクレツィア・クリヴェッリとよく一緒にいることが報告されている。
1497年3月
1501年
1???年
ルドヴィーコ・イル・モーロ失脚後、イザベッラ・デステの保護の下、カンネート要塞に居住。
1534年4月12日
カンネート・スッローリオにて、死。

肖像

外部リンク

 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

シモネッタ・カッターネオ Simonetta Cattaneo


生没
1453年1月28日~1476年4月26日
ガスパーレ・カッターネオ
カトッキア・スピノーラ
マルコ・ヴェスプッチ
概要

 シモネッタ・カッターネオは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1468年

別表記

 シモネッタ・ヴェスプッチ

外部リンク

 ウィキペディア
 Google Books
 Google Books
 Google Books
 Google Books
 Google Books

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

トルージア・ガッツェッラ Trusia Gazzella

生没
1460年頃~1511年
出身
ガエータ
没地
ナポリ
アントーニオ・ガッツェッラ
オルシーナ・カラーファ
アントーニオ・カルボーネ
チェーザレ・ゲスアルド・ディ・カプア
アルフォンソ2世・ダラゴーナ
サンチャ・ダラゴーナ
アルフォンソ・ダラゴーナ
ルクレツィア・カルボーネ
概要

 トルージア・ガッツェッラは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1495年
チェーザレ・ゲスアルド・ディ・カプアと結婚。

チェーザレ・ボルジア数

 子アルフォンソ・ダラゴーナ→妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 トロージア・ガッゼラ、トルシーア・ガズッロ、トルーシア、トッシア、トウシア、ガズーロ、Trogia GazzelaTuscia GazulloTrogia GazzellaTurziaDrusa

外部リンク

 GeneaNet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea - CARBONE
 Google Books - Dell'historia napoletana
 Google Books - Famiglie nobili del regno di Napoli
 Wikipedia

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

アニェーゼ・デル・マイーノ Agnese del Maino

生没
1401年頃~1465年12月13日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
概要

 アニェーゼ・デル・マイーノは、15世紀のイタリアの女性。

別表記

 アネーゼ

外部リンク

 kleio.org
 RootsWeb.com
 Wikipedia

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

アンナ・ダ・マッサ Anna da Massa

アレッサンドロ・デ・メディチ
ジューリオ・デ・メディチ
ポルツィア・デ・メディチ
ジューリア・デ・メディチ
外部リンク

 Google Books - The Tragedies Of The Medici

参考文献

 『メディチ家の人びと』

イザベッラ・アルドゥイーノ Isabella Arduino

エルコーレ1世・デステ
ジューリオ・デステ
参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

イゾッタ・デリ・アッティ Isotta degli Atti

生没
1432年頃~1474年7月9日
フランチェスコ・デリ・アッティ
シジスモンド・マラテスタ
概要

 イゾッタ・デリ・アッティは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1432年頃
生(1433年)。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

インペリア Imperia

生没
1481年~1512年
ディアナ
アゴスティーノ・キージ
概要

 インペリアは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

別表記

 インペーリア

本名

 ルクレツィア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『世界悪女大全』

ヴィットーリア・アッコランボーニ Vittoria Accoramboni

生没
1557年2月15日~1585年12月22日
フランチェスコ・ペレッティ
概要

 ヴィットーリア・アッコランボーニは、16世紀のイタリアの女性。

別表記

 ヴィットリア・アッコランボーニ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』

カッサンドラ・コッレオーニ Cassandra Colleoni

バルトロメオ・コッレオーニ
ニッコロ・ダ・コッレッジョ
ジャン・ガレアッツォ・ダ・コッレッジオ
ベアトリーチェ・ダ・コッレッジオ
エレオノーラ・ダ・コッレッジオ
イゾッタ・ダ・コッレッジオ
年表

1472年

カッサンドラ・チーニ Cassandra Cini

ナッティオ・チーニ
レオニーダ・マラテスタ
ヤコポ・マラテスタ
マラテスタ8世・マラテスタ
別表記

 カッサンドラ・デ・チーニ

参考文献

 『メディチ家の人びと』

カテリーナ・アングィッソーラ Caterina Anguissola

生没
1508年頃~1550年12月13日
出身
ピアチェンツァ
没地
カステル・ゴッフレード
ジャン・ヤコポ・アングィッソーラ
アンジェラ・テデスキ
アロイジオ・ゴンザーガ
概要

 カテリーナ・アングィッソーラは、16世紀のイタリアの女性。

外部リンク

 Wikipedia

ジリオラ・ダ・カラーラ Gigliora da Carrara

生没
1379年~1416年
フランチェスコ・ノヴェッロ・ダ・カラーラ
ニッコロ3世・デステ
概要

 ジリオラ・ダ・カラーラは、14世紀~15世紀の女性。

年表

1397年

別表記

 ジリオーラ・ダ・カッラーラ

外部リンク

 Famille de Carné
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

ニコロジア・ベッリーニ Nicolosia Bellini

ヤコポ・ベッリーニ
アンドレア・マンテーニャ

パオラ・セッコ Paola Secco

フランチェスコ・セッコ
カテリーナ・ゴンザーガ
マルシリオ・トレッリ
クリストフォロ2世・トレッリ
フランチェスコ1世・トレッリ
バルバラ・トレッリ
オルシーナ・トレッリ

バルトロメア・アルトヴィッティ Bartolomea Altoviti

オッド・アルトヴィッティ
サルヴェストロ・デ・メディチ
マルゲリータ・デ・メディチ
オノフリア・デ・メディチ
ニッコロ・デ・メディチ
アラマンノ・デ・メディチ
グレゴーリオ・デ・メディチ
カテリーナ・デ・メディチ
別表記

 バルトロンメア、バルトロンメオ・デリ・アルトヴィッティ、Bartolommea

参考文献

 『メディチ家の人びと』

バルトロメア・デ・ネッリ Bartolomea de' Nelli

生没
1441年~1496年10月11日
ステファノ・デ・ネッリ
ニッコロ・ベノッツィ
ベルナルド・マキアヴェッリ
プリマヴェーラ・マキアヴェッリ
マルゲリータ・マキアヴェッリ
ニッコロ・マキアヴェッリ
トット・マキアヴェッリ
概要

 バルトロメア・デ・ネッリは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1441年
生。
14??年
ニッコロ・ベノッツィと結婚。
夫ニッコロ・ベノッツィ、死。
1465年
プリマヴェーラ・マキアヴェッリを出産。
1468年
マルゲリータ・マキアヴェッリを出産。
1469年5月3日
1475年
1496年10月11日
死。

外部リンク

 Online Library of Liberty

参考文献

 『君主論』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ビアンカ・ルチア・マンデッリ Bianca Lucia Mandelli

概要

 ビアンカ・ルチア・マンデッリは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1491年2月27日
ガスパーレ・スタンガと結婚。持参金6千ドゥカート

別表記

 ビアンカ・ルチア・スタンガ、Bianca Lucia Mandelli di Caorso

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』

ピエラ・マネッティ Piera Manetti

ジャンノッツォ・マネッティ
アントーニオ・プッチ
ジャンノッツォ・プッチ
ロベルト・プッチ
ピエロ・プッチ
レーナ・プッチ
ナンニーナ・プッチ
アレッサンドラ・プッチ
概要

 ピエラ・マネッティは、15世紀頃のイタリアの女性。

ピッカルダ・ブエリ Piccarda Bueri

生没
1368年~1432/1433年
オドアルド・ブエリ
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
コジモ・イル・ヴェッキオ
ロレンツォ・イル・ヴェッキオ
概要

 ピッカルダ・ブエリは、14世紀~15世紀のイタリアの女性。

別表記

 ナンニーナ、ピッカルダ・ブエーリ、de' Bueri

外部リンク

 Wikipedia
 JDA's Family Tree
 RootsWeb.com

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フランチェスカ・アドルノ Francesca Adorno

プロスペロ・アドルノ
フランチェスコ・マルテッリ

ベアトリーチェ・バルボ・ラスカリス Beatrice Balbo Lascaris

生没
1372年~1418年
ファチーノ・カーネ
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
概要

 ベアトリーチェ・バルボ・ラスカリスは、14世紀~15世紀の女性。

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Wikipedia

別表記

 ベアトリーチェ・ディ・テンダ

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ルキナ・ブッソーネ Luchina Bussone

フランチェスコ・ブッソーネ
アントーニア・ヴィスコンティ
ルイジ・ダル・ヴェルメ
ピエトロ・ダル・ヴェルメ
アントーニア・ダル・ヴェルメ
タッデオ・ダル・ヴェルメ

ルクレツィア・ガラ Lucrezia Gara

生没
1485年~1552年
没地
ローマ
ガブリエッロ・ガラ
ルキナ・デッラ・ローヴェレ
マルカントーニオ・コロンナ
ポルツィア・コロンナ
オルテンシア・コロンナ
アルテミシア・コロンナ
リヴィア・コロンナ
概要

 ルクレツィア・ガラは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1506年7月
ローマにて、マルカントーニオ・コロンナと結婚(1507年1月2日)。

別表記

 Lucrezia Gara della Rovere

参考文献

 『Lucretia Borgia

ルクレツィア・ダラーニョ Lucrezia d'Alagno

アルフォンソ5世・デ・アラゴン
別表記

 ルクレツィア・ダラーニャ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ルドヴィーカ・グイディ Ludovica Guidi

フランチェスコ・グイディ
マッダレーナ・ヴィスコンティ
ニッコロ・フォルテブラッチョ
ニッコロ・グエッリエリ
年表

1434年10月

トンマーゾ・トシンギ Tommaso Tosinghi

別表記

 トンマーゾ・トッシンギ

参考文献

 『フィレンツェ史』

アレッサンドラ・フィチーノ Alessandra Ficino

生没
14??年~1510年10月16日
ダニエッロ・フィチーノ
マリエッタ・ベッラッチ
ビアージオ・ブオナッコルシ
ブオナッコルソ・ローモロ・ブオナッコルシ
アニョーラ・ブオナッコルシ
フィリッポ・ブオナッコルシ
概要

 アレッサンドラ・フィチーノは、15世紀~16世紀のイタリアの女性、マルシリオ・フィチーノの姪。

年表

1495年
1496年
ブオナッコルソ・ローモロ・ブオナッコルシを出産。
1503年
アニョーラ・ブオナッコルシを出産。
1505年
フィリッポ・ブオナッコルシを出産。
1506年8月9日
子アニョーラ・ブオナッコルシ、死。
1509年
子フィリッポ・ブオナッコルシ、死。
1510年10月16日
死。

アントーニア・ダル・ヴェルメ Antonia dal Verme

生没
~1487年9月19日
没地
ボルゴヌオーヴォ
ルイジ・ダル・ヴェルメ
ルキナ・ブッソーネ
スフォルツァ・セコンド・スフォルツァ
概要

 アントーニア・ダル・ヴェルメは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1451年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ドミティッラ・ランゴーニ Domitilla Rangoni

生没
14??年~
グイド・ランゴーニ
ジョヴァンナ・ボイアルド
ティート・ヴェスパジアーノ・ストロッツィ
エルコーレ・ストロッツィ
グイド・ストロッツィ
ロレンツォ・ストロッツィ
概要

 ドミティッラ・ランゴーニは、15世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ステファノ・マルガーニ Stefano Margani

生没
14??年~
ピエトロ・マルガーニ
チェッコレッラ・カピズッキ
アンジェラ・チェザリーニ
パオロ・マルガーニ
概要

 ステファノ・マルガーニは、15世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。

年表

1480年11月18日
ピエトロ・マルガーニを殺害したプロスペロ・サンタクローチェと講和を結ぶ。
1481年1月14日
1483年
暗殺者を雇い、プロスペロ・サンタクローチェを殺そうとするが失敗。
1485年
プロスペロ・サンタクローチェを殺害。

外部リンク

 Google Books
 Google Books

パオロ・マルガーニ Paolo Margani

生没
14??年~1487年
ステファノ・マルガーニ
アンジェラ・チェザリーニ
ヤコペッラ・カエターニ
ピエトロ・マルガーニ
概要

 パオロ・マルガーニは、15世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。

年表

1484年5月
ヤコペッラ・カエターニと結婚(1484年12月)。
1485年
パオロ・デッラ・ヴァッレを殺そうとしたことへの復讐のため、バルトロメオ・サンタクローチェとヴァレリアーノ・サンタクローチェを殺害。
教皇シクストゥス4世は財産の没収、家屋の解体を命じ、サンタクローチェはローマから追放される。

別表記

 Paolo di Stefano Margani

外部リンク

 Google Books
 Claudio Valerio Gaetani

ピエトロ・マルガーニ Pietro Margani

生没
14??年~
パオロ・マルガーニ
ヤコペッラ・カエターニ
ジューリア・コロンナ
概要

 ピエトロ・マルガーニは、15世紀頃のイタリアの男性、ローマの貴族。

外部リンク

 Google Books

ピエトロ・マルガーニ Pietro Margani

生没
1410年頃~1480年9月15日
出身
ローマ
パオロ・マルガーニ
チェッコレッラ・カピズッキ
ステファノ・マルガーニ
ルクレツィア・マルガーニ
ジローラマ・マルガーニ
概要

 ピエトロ・マルガーニは、15世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。
 マルガーニ家はヴァッレ家とコロンナ家の味方で、サンタクローチェ家オルシーニ家に支援されているクレシェンツィ家と敵対していた。

在職

 コンセルヴァトーレ 1449年10月~12月

年表

1464年11月3日
チェッコレッラ・カピズッキと結婚。
1480年9月15日
追放処分を受けているにもかかわらず戻ってきたプロスペロ・サンタクローチェに短剣で刺殺される。シジスモンド・デ・コンティによれば、自邸の扉で立ったまま殺されたという。

別表記

 Piero Margani

外部リンク

 Treccani

ジローラマ・マルガーニ Girolama Margani

生没
14??年~
ピエトロ・マルガーニ
フィリッポ・デッラ・ヴァッレ
バルトロメオ・デッラ・ヴァッレ
年表

1461年

外部リンク

 Geneanet
 Google Books

ステファノ・ポルカリ Stefano Porcari

生没
?~1453年1月9日
パルッツォ・ポルカリ
カテリーナ
概要

 ステファノ・ポルカリは、15世紀頃のイタリアの男性、熱狂的な共和政論者。

年表

1453年1月3日
ニコラウス5世によりローマから遠ざけられボローニャの教皇軍指揮官に左遷されていたがその地を逃亡し、共和政ローマの復活を目指す反乱の陰謀を胸にローマに潜入。
1453年1月5日
ボローニャからの通報により、陰謀は発覚。チェストの中に隠れ、妹ともう1人の女性が上に座って守ろうとするが、引きずり出され捕らえられる。
1453年1月9日
サンタンジェロ城内で絞首刑に処せられる。

別表記

 ステーファノ・ポルカーリ

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『April Blood
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

フィリッポ・デッラ・ヴァッレ Filippo della Valle

生没
1431年~1494年
出身
ローマ
パオロ・デッラ・ヴァッレ
サベッラ・サヴェッリ
ジローラマ・マルガーニ
バルトロメオ・デッラ・ヴァッレ
概要

 フィリッポ・デッラ・ヴァッレは、15世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Geneanet

フランチェスコ・デッラ・ヴァッレ Francesco della Valle

レーリオ・デッラ・ヴァッレ
?・マルガーニ
概要

 フランチェスコ・デッラ・ヴァッレは、ピエトロ・マルガーニの義理の息子。

年表

1478年
サンタクローチェ邸の晩餐会にてフランチェスコ・サンタクローチェを殺害。

パオロ・デッラ・ヴァッレ Paolo della Valle

生没
1385年頃~1440年
レーリオ・デッラ・ヴァッレ
ロレンツァ・デ・ロッシ
サベッラ・サヴェッリ
レーリオ・デッラ・ヴァッレ
フィリッポ・デッラ・ヴァッレ
ヤコポ・デッラ・ヴァッレ
ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ
概要

 パオロ・デッラ・ヴァッレは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

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 Geneanet
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ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ Giovanna della Valle

パオロ・デッラ・ヴァッレ
サベッラ・サヴェッリ
ドメニコ・ポルカリ
ジローラモ・ポルカリ
サーバ・ポルカリ
プロスペロ・ポルカリ
ジェンティレスカ・ポルカリ
ブリージダ・ポルカリ
外部リンク

 Google Books

プロスペロ・サンタクローチェ Prospero Santacroce

生没
14??年~
出身
ローマ
ヴァレリアーノ・サンタクローチェ
ヤコペッラ・アルツァテッリ
リヴィア・デッラ・ヴァッレ
タルクイーニオ・サンタクローチェ
年表

1460年6月19日
リヴィア・デッラ・ヴァッレと結婚(1461年5月29日、1463年6月19日)。
1480年9月15日
1490年
カターニア司教の故ジョヴァンニ・ガットーに貸し付けた3千ドゥカートを回収するため、2人の訴追者を雇う。

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 Geneanet
 Google Books

ヴァレリアーノ・サンタクローチェ Valeriano Santacroce

ヤコポ・サンタクローチェ
ヤコペッラ・アルツァテッリ
プロスペロ・サンタクローチェ
外部リンク

 Geneanet

ヤコポ・サンタクローチェ Jacopo Santacroce

ピエトロ・サンタクローチェ
アンドレア・サンタクローチェ
ピエトロ・サンタクローチェ
パオロ・サンタクローチェ
ヴァレリアーノ・サンタクローチェ
別表記

 Giacomo Santacroce

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 Geneanet

ピエトロ・サンタクローチェ Pietro Santacroce

ヤコポ・サンタクローチェ
バルトロメオ・サンタクローチェ

バルトロメオ・サンタクローチェ Bartolomeo Santacroce

ピエトロ・サンタクローチェ
ピエトロ・サンタクローチェ
アンドレア・サンタクローチェ

パオロ・サンタクローチェ Paolo Santacroce

生没
~1470年
ヤコポ・サンタクローチェ
ブリージダ・チェザリーニ
アルフォンソ・サンタクローチェ
フランチェスコ・サンタクローチェ
ヤコポ・サンタクローチェ
ジューリア・サンタクローチェ
ジョルジョ・サンタクローチェ
マルゲリータ・サンタクローチェ ニンファ・サンタクローチェ
アレッサンドラ・サンタクローチェ
概要

 パオロ・サンタクローチェは、15世紀頃のイタリアの男性。カンポ・デ・フィオーリで銀行を営み、アレヌーラに住む。

埋葬

 ローマ、サンタ・マリア・イン・プブリコリス教会

外部リンク

 Geneanet

フランチェスコ・サンタクローチェ Francesco Santacroce

生没
~1478年
パオロ・サンタクローチェ
年表

1478年

ジューリア・サンタクローチェ Giulia Santacroce

生没
14??年~
パオロ・サンタクローチェ
ブリージダ・チェザリーニ
パオロ・オルシーニ
ファビオ・オルシーニ
ロベルト・オルシーニ
ポルツィア・オルシーニ
カミッロ・オルシーニ
概要

 ジューリア・サンタクローチェは、15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1473年

外部リンク

 Geneanet

マルゲリータ・サンタクローチェ Margherita Santacroce

生没
14??年~
パオロ・サンタクローチェ
ブリージダ・チェザリーニ
バッティスタ・カピズッキ
アガピート・カプラーニカ
バルトロメオ・カプラーニカ
概要

 マルゲリータ・サンタクローチェは、15世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Geneanet

ジョルジョ・サンタクローチェ Giorgio Santacroce

生没
1452年~1498年
出身
ローマ
パオロ・サンタクローチェ
ブリージダ・チェザリーニ
アウレリア・サヴェッリ
オノフリオ・サンタクローチェ
パオロ・サンタクローチェ
概要

 ジョルジョ・サンタクローチェは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1482年4月3日
ジローラモ・リアリオから提供された武装兵2百を率い、夜、ヴァッレ宮殿を襲撃し、ジローラモ・コロンナを殺害。
1482年4月4日
教皇シクストゥス4世の命で、家が破壊される。
1493年9月12日
ヴィルジーニオ・オルシーニからヴェヤーノ、イスキア・ディ・カストロ、ロータをもらう。

外部リンク

 Geneanet
 Treccani

アンドレア・リッチ Andrea Ricci

生没
14??年~
ドメニコ・リッチ
ヴィオランテ・リアリオ
ステッラ・ランドリアーニ
概要

 アンドレア・リッチは、15世紀頃のイタリアの男性。

年表

1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:チェッコ・オルシの息子アガメンノーネ・オルシと戦って倒す。アガメンノーネ・オルシは12日後に死亡。
1488年4月19日
ベルナルディーノ・サヴェッリの取り仕切りで、ステッラ・ランドリアーニと結婚し、チェゼーナへ向かう。又はチェゼーナで結婚。

外部リンク

 Google Books
 Google Books - Tigress of Forli

ドメニコ・リッチ Domenico Ricci

ヴィオランテ・リアリオ
ビアンカ・リッチ
アンドレア・リッチ
概要

 ドメニコ・リッチは、15世紀頃のイタリアの男性。

年表

14??年
イーモラの知事に任命され、妻ヴィオランテ・リアリオと共にイーモラに赴任。
1478年4月
教皇シクストゥス4世によりスポレート、アメーリア、テッレ・アルノルフェの知事に任命される。
1487年9月
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィ配下のニーノ・ロッフィ、ビアージオ・ロッフィ、ドメニコ・ロッフィがルバーノで農民を集め、フォルリのコトーニ門を襲撃。塔を占拠されるが、ドメニコ・リッチが奪還し、首謀者たちを捕らえる。内5名をすぐさま絞首刑に処し、イーモラに報告に行く。

ビアンカ・ランドリアーニ Bianca Landriani

生没
145?年~1496年5月
ジャンピエロ・ランドリアーニ
ルクレツィア・ランドリアーニ
トンマーゾ・フェオ
コッラディーノ・フェオ
概要

 ビアンカ・ランドリアーニは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:シニョーリア宮殿で捕らえられる。
1488年4月
1489年6月
1496年5月
出産時に死亡。

埋葬地

 イーモラ、オッセルヴァンツァ修道院

外部リンク

 Academia.edu - Skirting the Issue: Machiavelli's Caterina Sforza by Julia L. Hairston
 Geneanet
 Google Books

ルクレツィア・ランドリアーニ Lucrezia Landriani

生没
1440年頃~15??年
出身
ミラノ
ジャンピエロ・ランドリアーニ
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
ビアンカ・ランドリアーニ
ステッラ・ランドリアーニ
ピエロ・ランドリアーニ
カルロ・スフォルツァ
カテリーナ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
キアラ・スフォルツァ

概要

 ルクレツィア・ランドリアーニは、15世紀~16世紀のイタリアの女性、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの愛人。旧姓は不明。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの間にもうけた子供たちは皆認知され、ミラノ宮廷で彼の母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティに教育された。

年表

1440年頃
ミラノにて、生。
145?年
1460年頃
1461年
1463年
1465年
1467年
1488年~1499年
カテリーナ・スフォルツァの宮廷に住む。
1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:シニョーリア宮殿で捕らえられる。
1488年4月
1501年~

別表記

 ルクレーツィア・ランドリアーニ

外部リンク

 ウィキペディア
 Google Books

ステッラ・ランドリアーニ Stella Landriani

生没
145?年~
ジャンピエロ・ランドリアーニ
ルクレツィア・ランドリアーニ
アンドレア・リッチ
概要

 ステッラ・ランドリアーニは、15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:シニョーリア宮殿で捕らえられる。
1488年4月

外部リンク

 Google Books - Tigress of Forli

ジャンピエロ・ランドリアーニ Giampiero Landriani

生没
14??年~
ルクレツィア・ランドリアーニ
ビアンカ・ランドリアーニ
ステッラ・ランドリアーニ
ピエロ・ランドリアーニ
概要

 ジャンピエロ・ランドリアーニは、15~16世紀頃のイタリアの男性。

在職

 フォルリンポーポリ要塞城主 1490年
 イーモラの要塞城主 1490年~

年表

1488年
この年から、ミラノ派遣隊の一員としてロマーニャに赴任。
1490年7月30日
1490年12月
フォルリンポーポリ要塞の城主を息子ピエロ・ランドリアーニと代わり、イーモラの要塞の城主に任命される。

別表記

 Gian Piero LandrianiGian Pietro Landriani

外部リンク

 Geneanet
 Google Books - Tigress of Forli

ピエロ・ランドリアーニ Piero Landriani

生没
145?年~
ジャンピエロ・ランドリアーニ
ルクレツィア・ランドリアーニ
概要

 ピエロ・ランドリアーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

在職

 フォルリンポーポリ要塞城主 1490年~

年表

1490年12月
フォルリンポーポリ要塞の城主に任命される。

別表記

 Pietro Landriani

外部リンク

 Google Books - Tigress of Forli

コロンブス Columbus

生没
1451年頃~1506年5月20日
概要

 コロンブスは、15世紀~16世紀の男性。

年表

1451年8~10月
この頃、ジェノヴァ近郊に生(1446年頃)。
1474年
パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ、ポルトガルの聖職者Fernão Martinesへの手紙で、東アジアへの最短コースはポルトガルが行なっているアフリカ周航コースではなくイベリア半島の緯度に沿って西に航海するコースであると説く。
この説を知って西航計画を誘発されたと言われる。
1492年4月17日
イサベル1世・デ・カスティーリャと協定を交わす。彼が発見するであろう島々や大陸の総督などの位、及びその領内での取引額の10分の1を彼自身が取得する。
1492年8月3日
イサベル1世・デ・カスティーリャと交わした協定に従い、第1回航海に出発(~1493年3月15日)。
1492年10月12日
新大陸の「発見」:西インド諸島のバハマ群島に上陸し、サンサルバドルと命名。
1493年9月25日
第2回航海に出発。
1498年5月30日
第3回航海に出発。
1498年7月末
南米に至る。
1502年5月9日
第4回航海に出発(~1504年11月)。
1506年5月20日
スペイン北西部バリャドリッドで死。

関連項目

 The Borgias: 104

別表記

 クリストバル・コロン、クリストフォロ・コロンボ、クリストファ、クリストファー・コロンブス、Christopher ColumbusChristóbal ColónCristoforo Colombo

外部リンク

 ウィキペディア
 歴史データベース

参考文献

 『イタリア遺聞』
 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『性病の世界史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンス百科事典』
 『ローマ教皇検死録』
 『The Life of Cesare Borgia

ジローラモ・オルジアーティ Girolamo Olgiati

生没
1453年~1477年1月2日
概要

 ジローラモ・オルジアーティは、15世紀のイタリアの男性、ミラノ公国の政府の役人。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ暗殺者の1人。

教養

 非常な教養人であり博学だったという。
 サッルスティウス著『カティリナの陰謀』を信奉していた。

暗殺の動機

 陰謀者たちの間で急進的存在であり、他の者たちのように怨恨によるものではなく、彼の場合、それは共和政の理念のためであった。民衆蜂起、自由政体の実現を目指しての暴君殺害は、彼が師事していた人文主義者のコーラ・モンターノの教えによるものだと告白している。

暗殺

 1476年12月26日、ミラノサント・ステファノ教会に3人は集まる。この日はサント・ステファノの日であり、ここでミサが執り行われることになっていた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ一行が到着すると、3人は彼の前に出、一言二言交わした後、まずジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニが刺し、カルロ・ヴィスコンティ、ジローラモ・オルジアーティと、ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニの使用人フランツォーネがそれに続いた。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが殺され、人々は恐慌状態となり、教会から逃げ出す。ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニは教会の女性側に向かって逃走を試みたが、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの護衛に捕らえられてその場で惨殺された。他の共犯者3人は、群集の間に強引に入り込み、逃走に成功する。

暗殺後

 1476年12月27日、フランツォーネが捕まり、共犯者を自白。
 1476年12月29/30日、カルロ・ヴィスコンティは、怯えた親族と、彼を謀反人と非難した父親によって警吏に引き渡される。
 ジローラモ・オルジアーティの父親は息子のしでかしたことにおののき、逃亡に手を貸そうとはしなかったが、母親は変装した息子を友人の聖職者の家に匿っていた。オルジアーティ家の2人の使用人が青年の身を守ろうとしたものの、2人は捕らえられた後に四つ裂きの刑に処せられた。
 ニッコロ・マキアヴェッリによれば、ジローラモ・オルジアーティは拷問されている時に、「死は悲惨だ。だが勝利は永遠であり、我が行為は存続するであろう」との言葉を残したという。
 1477年1月2日、カルロ・ヴィスコンティ、ジローラモ・オルジアーティとフランツォーネは死刑に処せられ、死体は警告として曝された。
 ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは冷酷な君主として知られていたにもかかわらず、民衆が彼の暗殺に呼応することはなかった。

別表記

 ジェロラーモ・オルジャーティ、Gerolamo Olgiati

外部リンク

 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood

マッテオ・コントゥージ Matteo Contugi

出身
ヴォルテッラ
エルコラーノ・コントゥージ
概要

 マッテオ・コントゥージは写本家。モンテフェルトロ家の有名な蔵書の中でも特に美しい写本を書き写すためにウルビーノに雇われていた。
 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの商売敵であるマントヴァフェデリーコ1世・ゴンザーガウルビーノ駐在スパイ。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが略奪した街ヴォルテッラの出身であるため、密かな恨みを抱く十分な理由があったのだが、ウルビーノの宮廷でも相当の地位にあったため、疑いをかけられる余地は全くなかった。

年表

1478年4月1日
1478年6月17日
ウルビーノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの傭兵契約の俸給が支払われたことについて。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロチッコ・シモネッタから、馬の頭につける豪華なカバーと美しい兜及び剣を贈り物として受け取ったこと。
1478年10月16日
フェッラーラフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。同盟国ナポリの軍隊はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロをカインという渾名で呼んでいたと伝える。彼が弟のオッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロの暗殺に関わっていたという噂に重ねられている。
1479年2月5日
ウルビーノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。フィレンツェ共和国が徴税に難儀していることについて、強制的に取り立てるために任命された役人の介入について、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに報告がもたらされていたこと。
1480年5月18日
ウルビーノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロシクストゥス4世が互いに疑心暗鬼に陥っていると報告。
1480年5月22日
ウルビーノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがヴィテルボの群衆の前で行った演説について報告。
1481年11月28日
ウルビーノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコが自分の立場を強化するため、あらゆる無礼を忘れたふりをして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのもとに友好的に訪問したことについて。
1481年12月13日
ウルビーノフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコと和解したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロだったが、その本心については分からないという。

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ベルナルド・バンディーニ Bernardo Bandini

生没
~1479年12月28日
概要

 ベルナルド・バンディーニは、15世紀のフィレンツェの男性。

教養

 マルシリオ・フィチーノの教え子。

年表

1478年4月26日
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。
1479年12月28日
1478年のパッツィ家の陰謀、決起におけるジュリアーノ・デ・メディチ殺害者の一人でコンスタンティノポリスまで逃亡していたベルナルド・バンディーニ、オスマン・トルコにより身柄を引き渡され、この日、処刑される。
1479年12月28日
絞首刑に処せられる。嘲笑いを誘うためにトルコ人の服装をさせられていた。ロレンツォ・イル・マニーフィコの留守中に反逆を考えるかもしれない人々へ向けた警告でもあった。
1479年12月28日

肖像

 バンディーニの処刑

参考文献

 『世界の歴史12 ルネッサンス』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

マリーア・ゴンディ Maria Gondi

生没
1530年頃~1580年5月
没地
ラッコニージ
アントーニオ・ゴンディ
マリー・カトリーヌ・ド・ピエルヴィーヴ
ニコラ・グリエ
クラウディオ・ディ・サヴォイア
イザベッラ・グリエ
フィリッポ・グリエ
マリーア・グリエ
カルロ・マッシミリアーノ・グリエ
概要

 マリーア・ゴンディは、16世紀~17世紀のイタリアの女性。

年表

1530年頃
生(1542年、1543年)。
1551年7月18日
ブロワ城にて、ニコラ・グリエと結婚式を挙げる。後のフランス王フランソワ2世と妻メアリー・スチュアートも列席。
155?年
フランス宮廷に入り、フランソワ1世の娘マグリット・ド・ヴァロワ付き侍女となる。
155?年
イザベッラ・グリエを出産(1551年)。
1554年
フィリッポ・グリエを出産。
1555年
マリーア・グリエを出産。
1557年6月
マリーア・ゴンディが5人目の子を身ごもっている時、夫ニコラ・グリエ、死。
1558年
5人目の子カルロ・マッシミリアーノ・グリエを出産。
1559年7月10日
結婚式に後に夫となるクラウディオ・ディ・サヴォイアも列席。
マリーア・ゴンディはピエモンテマグリット・ド・ヴァロワに供せず。
1562年
カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイアを出産後のマグリット・ド・ヴァロワエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアが、フォッサーノに引っ越す。
1562年8月
マリーア・ゴンディがピエモンテに到着。
マグリット・ド・ヴァロワの第一侍女として、サヴォイア宮廷に入る。
1562年
フォッサーノ到着。
156?年
クラウディオ・ディ・サヴォイアピエモンテに到着して数か月後、彼と結婚(1576年以降)。以後ピエモンテに住み続ける。
1563年
この年には、カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイアの後見人となる。
1574年
マグリット・ド・ヴァロワエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアが人事異動を行い、息子カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイアのために新宮廷を作る。マリーア・ゴンディはその新宮廷の官長を任せられる。
1576年8月30日
遺言書を作成。
1580年5月
おそらくラッコニージにて、死(1603年2月)。

備考

 塩野七生著『愛の年代記』収録の『エメラルド色の海』にて、マグリット・ド・ヴァロワの代わりにウルグ・アリに会ったのは、このマリーア・ゴンディではなく、フィリッポ・ディ・サヴォイア=ラッコニージの妻パオラ・コスタである。
 1560年6月にマリーア・ゴンディはまだサヴォイア宮廷にはいなかったが、パオラ・コスタは1560年春にニースにおり、『Histoire généalogique del Guichenon』に「dama di Racconigi」との記載があり、当時のmadama di Racconigiとはパオラ・コスタのことであるから、間違いないようである。

別表記

 ピアンカリエリ伯爵夫人マリア・デ・ゴンディ

外部リンク

 Geneanet
 GENEALOGIE DELLE FAMIGLIE NOBILI ITALIANE
 Treccani

参考文献

 『愛の年代記』

アガメンノーネ・マレスコッティ Agamennone Marescotti

生没
1434年頃~1501年5月3日
出身
ボローニャ
ガレアッツォ・マレスコッティ
エミーリア・ダル・リーノ
ガレアッツォ・マレスコッティ
アウレリア・マレスコッティ
ラウラ・マレスコッティ
テオドーラ・マレスコッティ
概要

 アガメンノーネ・マレスコッティは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。ボローニャチェーザレ・ボルジアに引き渡すべく陰謀を企んだとして、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに数人の兄弟たちと共に殺害される。アガメンノーネ・マレスコッティの陰謀が事実だったのかどうかは不明。

年表

1434年頃
ボローニャにて生。ガレアッツォ・マレスコッティの長男で庶出。
1464年11月~1464年12月
アンツィアーニに選出される。
1466年9月7日
エミーリア・ダル・リーノと結婚。
1466年10月2日
兄アキッレ・マレスコッティと共に法律を学び、この日、卒業。
1467年9月~1467年10月
アンツィアーニに選出される。
1469年9月12日
候補者の策略により2回投票と選出が行われたが、市民法博士会員に亡くなったボルニオ・ダ・サラに代わって選出される。
1471年1月31日
ボローニャアンツィアーニ宛に手紙をしたためる。フィレンツェポデスタ選出に際して、36歳と記述。
1471年
父ガレアッツォ・マレスコッティのシクストゥス4世との友人関係により、ローマ元老院議員に任命される。
1480年3月~1480年4月
アンツィアーニに選出される。
1488年11月
マルヴェッツィ家と共謀し、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに対する陰謀を企てるが失敗。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは凄惨な粛清を行うが、アガメンノーネ・マレスコッティは父ガレアッツォ・マレスコッティの利点のおかげで逃れる。
この後数年間、ローマボローニャを行き来することになる。
1494年
アレクサンデル6世により、ローマ元老院議員に任命される。
1496年8月~1496年12月
ルッカポデスタに選出される。
1497年1月
ボローニャ帰還。証拠はないものの追放されたマルヴェッツィ家と手紙で連絡を取っているのではないかと懐疑的に迎え入れられる。危険を承知でボローニャに住む。
1500年
アレクサンデル6世により、ローマ元老院議員に任命される。
1501年
ボローニャに住む。
1501年2月
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにより、きょうだいジアゾーネ・マレスコッティ、甥アゲジラーオ・マレスコッティ、甥ルドヴィーコ・マレスコッティ、きょうだいティデオの息子たちと共に拘留される。Sedici del Reggimentoに召喚され、敵軍をボローニャに招き入れるためチェーザレ・ボルジアと通じようとしていると追及される。
1501年4月27日
再び親族と共に拘留される。
1501年5月1日
4日間取り調べを受けた後、親族と共に釈放される。
1501年5月3日
口実をつけて親族と共に逮捕され、収監場所で貴族たちを従えたエルメス・ベンティヴォーリオに親族ともども殺される。

別表記

 マリスコッティ、Mariscotti

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『フィレンツェ史』

プロスペロ・アドルノ Prospero Adorno


生没
1428年~1486年
出身
ジェノヴァ
没地
ナポリ
バルナバ・アドルノ
ブリージダ・ジュスティニアーニ
クレメンツァ・マラスピーナ
ベルナルド・アドルノ
マリーア・アドルノ
フランチェスカ・アドルノ
ダーリア・アドルノ
ブリージダ・アドルノ
ルイジア・アドルノ
概要

 プロスペロ・アドルノは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1461年3月9日~1461年3月10日
フランス支配下で重税に不満を高めてきたジェノヴァの民衆、大司教パオロ・フレゴーソ(1430年~1498年)の巧妙な策に導かれ武装蜂起。たちまちシャルル7世総督府の者たちを城塞に追いやる。
間もなくパオロ・フレゴーソ及びプロスペロ・アドルノ(1428年~1485年)がそれぞれ武装農民を率いて市内に入る。長年の宿敵フレゴーソ家とアドルノ家、対立を残しながらも和を結んでフランス支配に反抗し、シャルル7世軍守備隊を城塞に追い込む。
1461年3月12日
プロスペロ・アドルノが、ジェノヴァのドージェに選出される。
パオロ・フレゴーソ、自らミラノに赴いてフランチェスコ1世・スフォルツァに支援を求め、ジェノヴァからシャルル7世の勢威を排したいフランチェスコ1世・スフォルツァから十分な支援の約束を得る。
1461年7月17日
フランチェスコ1世・スフォルツァから新たに支援の将軍3名が到着してフランチェスコ1世・スフォルツァの全面支援を信じたパオロ・フレゴーソ・プロスペロ・アドルノ指揮のジェノヴァ市民、総反撃しフランス軍を撃退。シャルル7世のジェノヴァ支配、事実上、終わる(1458年~1461年)。
間もなくフレゴーソ、アドルノ両家の対立、激化。前者が主導権を握り、元ドージェ(在位1448年~1450年)ルドヴィーコ・フレゴーソ(1406年頃~1489年)がドージェに復帰(在位1461年~1463年)。
1477年4月30日
ジェノヴァの反乱、ミラノ軍に鎮圧される。——元ドージェ、プロスペロ・アドルノ(在位1461年3月~1461年7月)をミラノ総督としてジェノヴァを統治(1477年~1478年)。
1478年3月27日
ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノは、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。
1478年6月25日
シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナは、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。
1478年8月7日
ジェノヴァのプロスペロ・アドルノによる反乱鎮圧に送られたミラノ軍、ジェノヴァ軍に破れる。
これに対しボーナ・ディ・サヴォイア、アドルノ家の宿敵フレゴーソ家のバッティスタ2世・フレゴーソ(1453年~1504年)を、彼の独立のドージェとしてジェノヴァを統治することを認めかつ周辺の城塞を与えた上で市内に送り込む。
1478年11月25日
この日バッティスタ2世・フレゴーソが、アドルノ陣営の内部の分裂を利してプロスペロ・アドルノら首脳を追放し、自らドージェとなる。ミラノのジェノヴァ支配終わる(1464年~1478年)。

外部リンク

 Geneanet
 Google Books
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

ベリザーリオ・ヴィンタ Belisario Vinta

生没
1542年10月13日~1613年10月14日
出身
ヴォルテッラ
アレッサンドラ・ディ・アントーニオ・バルトリーニ・バルデッリ
アントン・フランチェスコ・ヴィンタ
エリザベッタ・ヴィンタ
トンマーザ・ヴィンタ
概要

 フランチェスコ1世・デ・メディチの秘書官。

年表

1572年
アレッサンドラ・ディ・アントーニオ・バルトリーニ・バルデッリと結婚。
1584年2月17日
友人宛書簡をしたためる。ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの男性能力を証明するための試験に相応しい女性として、健康で、見目麗しく、エレオノーラ・デ・メディチと同年齢(17歳くらい)の処女を探して欲しいと、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチとマントヴァ公グリエルモ・ゴンザーガから頼まれたことを書いている。
1584年2月21日(火)
フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。ピエロ・カッペッロと共に、捨て子養育院などの施療院で探し回り、見た目は悪くないが21歳の女性を発見したことを報告。
1584年2月22日(水)
その21歳の女性、ジューリア・デリ・アルビッツィを自分の屋敷に連れてくる。
夜、フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。ジューリア・デリ・アルビッツィの人物像などを報告。聖週間までに試験を終わらせられるか心配している。
1584年2月23日(木)
フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。マルチェッロ・ドナーティがジューリア・デリ・アルビッツィを見定めるためにフィレンツェに来て、もっと美しければよかったが、彼女でよいとする。
1584年2月24日(金)
1584年3月10日(土)
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡を短くもう1通したためる。
1584年3月11日(日)
夜、別室で控える中試験が行なわれ、ヴィンチェンツォ・ゴンザーガがお腹を押さえながら部屋から出てきた時、ジューリア・デリ・アルビッツィに付き添っていた女性が調べるが、彼女はまだ処女であるという。
1584年3月12日(月)
朝、フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。試験が失敗に終わったことを報告。
1584年3月14日(水)
夜、再び別室に控える中、試験が実施される。成功する。
1584年3月16日(金)
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。1584年3月15日に書き留めていた、ジューリア・デリ・アルビッツィに対する詳細かつ執拗な問答の内容を報告。
1584年3月17日(土)
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。
1584年3月18日(日)
夜、試験の成功を確かなものとするため、もう1度実施される。

外部リンク

 Google Books - Bibliotechina grassoccia
 Google Books - Il Bibliofilo: Giornale dell'arte antica e moderna
 Google Books - Lost Girls: Sex and Death in Renaissance Florence
 Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
 Scientific Itineraries in Tuscany
 The Medici Archive Project

参考文献

 『愛の年代記』
 『Bibliotechina Grassoccia
 『Lost Girls
 『Pompeo Caccini and Euridice

コーラ・モンターノ Cola Montano

生没
1400年代前半~1482年3月
出身
ガッジョ・モンターノ
概要

 人文主義教師コーラ・モンターノは、生徒のジローラモ・オルジアーティローマ共和政の理念、暴君殺害を吹き込んだ。そして、1476年12月26日、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは暗殺された。

経歴

 1462年頃、進取の気性に富んだコーラ・モンターノは、ボローニャの近くにある山の村から、ミラノに移った。その地で古典ラテン語修辞学を教え始め、高い身分の若者を惹きつけた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに気に入られて庇護を受け、1468年10月14日に修辞学の教職の地位を得る。それから4年後の1472年には、幾人かの人物と共同で印刷所を設立。

ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァへの憎悪

 コーラ・モンターノのこのような成功は文学界で猛烈な嫉妬を呼び寄せ、多くの敵を作ることになる。これらの敵は宮廷内に友人を持っていて、彼の幸運にも陰りが生じ始めた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァもまた背を向け始め、1474年、つまらぬ口論が元で短い期間牢獄へ送られる。1475年5月、突然パヴィアに召喚され、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、人々を堕落させたとして告発される。告発を否定するが投獄され、皆の前で裸の尻を鞭打たれる。この屈辱のためにガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに対し、激しい憎しみを抱く。
 ジローラモ・オルジアーティガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ殺害はコーラ・モンターノの教えによるものだとしているが、彼が実際にどこまで暴君殺しを教唆したのかについては不明である。

年表

1462年頃
ミラノに移住。古典ラテン語修辞学を教える。
1468年10月14日
修辞学の教職の地位を得る。
1472年
何人かと共同で印刷所を設立。
1474年
短い期間牢獄へ送られる。
1475年5月
パヴィアに召喚され、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより人々を堕落させたとして告発される。
告発を否定するが投獄され、皆の前で裸の尻を鞭打たれる。
1475年6月頃
ミラノ公国からボローニャへ追放される。
1476年12月26日(木)
1478年4月26日
1478年7月
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと共にウルビーノを出発。トスカーナ出征の初期段階の間は同行していた。
14??年
ピストイアが降伏する覚悟でいることをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに知らせるが、フィレンツェ共和国に完全な壊滅ではなく、規模の縮小を望んでいた彼はその迅速な勝利にも熱狂しなかったという。
14??年
ジローラモ・リアリオに会い、多くの人々はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロロレンツォ・イル・マニーフィコの敵だと思っているがそうではないことを伝える。
1482年2月
ジェノヴァからローマへ旅している間、フィレンツェ共和国の諜報に密かにつけられる。
1482年2月12~15日
ポルト・エルコーレ近郊のフィレンツェ共和国領内にて取り押さえられ、直ちにフィレンツェへ移送される。ジローラモ・リアリオに雇われ、パッツィ家の陰謀に関わっていたという容疑による。
1482年
この頃、拷問され、フィレンツェ共和国及びロレンツォ・イル・マニーフィコに対する依然として続けられていた陰謀活動について白状させられる。
1482年3月
反逆罪により絞首刑。バルジェッロの窓から吊るされる。

別表記

 コーラ・デ・モンターニ

本名

 Nicola Capponi da Gaggio

外部リンク

 Storia di Milano
 Treccani
 Wikisource

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood

トンマーゾ・フェオ Tommaso Feo

生没
14??年~
ビアンカ・ランドリアーニ
コッラディーノ・フェオ
概要

 トンマーゾ・フェオは、15世紀頃のイタリアの男性、ヤコポ・フェオの兄。

在職

 ラヴァルディーノ城城主 1487年~1490年
 フォルリ知事 1494年~
 イーモラ知事

年表

1489年6月
カテリーナ・スフォルツァによりボスコ領の土地を与えられるが、ラヴァルディーノ城を離れず。
1490年8月30日
カテリーナ・スフォルツァの命により、ジャナントーニオ・ゲッティに逮捕される。
1495年8月
カテリーナ・スフォルツァイーモラからフォルリに呼ばれ、ゲッティ邸の略奪と倒壊を命じられ実行。命じられてはいなかったが、ラヴァルディーノ城にいた故ジャナントーニオ・ゲッティの妻ローザと子供たちを井戸に突き落とし、殺害。

外部リンク

 Geneanet
 Google Books

ヤコポ・フェオ Jacopo Feo

生没
1471年~1495年8月28日
出身
フォルリ
没地
フォルリ
カテリーナ・スフォルツァ
概要

 ヤコポ・フェオは、15世紀のイタリアの男性、ジローラモ・リアリオの下級の臣。

在職

 ラヴァルディーノ城城主 1490年~

容姿

 襟にかかるくらいの明るい茶色の巻き毛。

年表

1471年
この年頃、生(1468年、1472年頃)。
1490年
この年頃までに、フォルリにて、カテリーナ・スフォルツァと事実上、結婚(1494年)。
1491年1月23日(日)
朝、ミラノの使節団がラヴァルディーノ城に到着。騎士に叙される。ミラノ大使がかかとに金の拍車を付け、腰に剣を吊るす。ルッフォ・ヌーマイが金の鎖を首にかける。
1494年9月半ば
カテリーナ・スフォルツァ軍の最高司令官、領地の副領主となる。
1495年8月27日
義理の息子オッタヴィアーノ・リアリオの重臣ジャナントーニオ・ゲッティらに殺害される。
1495年8月28日
夜、バットゥティ・ネリの信心会会員たちがヤコポ・フェオの遺体をスキアヴォーニア門外の側溝から引き上げ、サン・ビアージオ教会に運ぶ。
遺体を目撃したレオーネ・コベッリは「何たる不名誉。残酷さ。かくも美しかった顔が割れた柘榴のように裂けている。」と書く。
1495年
サン・ビアージオ教会に埋葬される。

肖像

別表記

 ジャコモ・フェロ、デ・フェオ、Giacomo Feo

外部リンク

 世界帝王事典
 Wikipedia

参考文献

 『世界悪女大全』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ルネサンスの女たち』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

エレオノーラ・マルッリ Eleonora Marulli

生没
15??年~
ヴィンチェンツォ・マルッリ
ポルツィア・カラーファ
ジョヴァンニ・バッティスタ・ボルジア
ピエトロ・ボルジア
概要

 エレオノーラ・マルッリは、16世紀頃のイタリアの女性。

別表記

 Leonora Marullo

外部リンク

 Geneanet
 Google Books

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2021年2月13日