ラヨシュ2世 Lajos II
- 生没
- 1506年7月1日~1526年8月29日
- 父
- ウラースロー2世・ヤギェウォ
- 妻
- マリア・フォン・ハプスブルク
概要
ラヨシュ2世は、16世紀の男性。
在位
ボヘミア王 1516年~1526年
ハンガリー王 1516年~1526年
先代:ウラースロー2世・ヤギェウォ
年表
1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルクをウラースロー2世・ヤギェウォ子ラヨシュ2世と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
1516年3月16日
ハンガリー・ボヘミア王Ulászló II死。子ラヨシュ2世、ハンガリー・ボヘミア王となる。
1521年5月
カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナンド1世、ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世の妹アンナ・ヤギェウォと結婚。
1526年8月29日
スレイマン1世は、モハーチでハンガリー軍を撃破。ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世、戦死。
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Genealogy.EU
kleio.org
参考文献
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『ハプスブルク家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
レオナルド・ロレダン Leonardo Loredan
- 生没
- 1436年11月16日~1521年6月21日
概要
レオナルド・ロレダンは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ヴェネツィア共和国ドージェ 1501年~1521年
年表
1509年4月4日
カンブレー同盟陣営の動きを知ったヴェネツィア共和国、ファエンツァとリーミニの返還を決める。
1509年4月7日
その後もマクシミリアン1世とフェルナンド2世・デ・アラゴンを懐柔しようとするなど、同盟陣営の分断、ルイ12世の孤立化を図るが失敗。
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルネサンスの華』
アゴスティーノ・バルバリーゴ Agostino Barbarigo
- 生没
- 1419年6月3日~1501年9月20日
- 出身
- ヴェネツィア
- 没地
- ヴェネツィア
- 父
- フランチェスコ・バルバリーゴ
- 母
- カッサンドラ・モロジーニ
概要
アゴスティーノ・バルバリーゴは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ヴェネツィア共和国ドージェ 1486年~1501年
年表
1495年3月29日(日)
アレクサンデル6世により、ヴェネツィア共和国にアンジェリーノ・ディ・ドメニコ・デ・スートリ作の黄金の薔薇を授与される。
サン・マルコ寺院の宝物庫に収めることが決定される。
1495年3月31日
アレクサンデル6世、ヴェネツィア、ミラノ、スペイン、神聖ローマ帝国が、対フランス神聖同盟(ヴェネツィア同盟)を結成。フィレンツェ、フェッラーラは加盟を拒否。
1495年4月10日
ヴェネツィア同盟公表。
1495年4月21日
カルドーナ公フアン・ラモン3世・デ・カルドーナの庶子ハイメ・デ・カルドーナが黄金の薔薇と共にヴェネツィアに到着し、サン・マルコ寺院で礼拝。アゴスティーノ・バルバリーゴは礼拝の後、黄金の薔薇を手に取り、ラテン語で答辞。黄金の薔薇を掲げた行列が行われ、サン・マルコ広場を周り、ドージェ宮殿に終着。
1495年4月28日
ハイメ・デ・カルドーナは大使として滞在し、共和国から3百ドゥカートの報酬とクリーム色のダマスク地の服を贈られ、この日ヴェネツィアを出発しローマに帰還。
献呈された著作
別表記
バルバディゴ
外部リンク
ウィキペディア
L'Erma di Bretschneider
Treccani
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
ベネデット・デリ・アルベルティ Benedetto degli Alberti
- 生没
- 1320年頃~1388年1月13日
- 父
- ネロッツォ・デリ・アルベルティ
- 妻
- フィリッパ・デ・パッツィ
リーサ・デ・バルディ
概要
ベネデット・デリ・アルベルティは、14世紀のイタリアの男性。
年表
1350年
フィリッパ・デ・パッツィと結婚。
1357年
リーサ・デ・バルディと結婚。
関連項目
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
ニッコロ・サヴォナローラ Niccolò Savonarola
- 生没
- 14??年~
- 父
- ミケーレ・サヴォナローラ
- 母
- カテリーナ・ダ・ペルヌーミア
- 妻
- エレーナ・ボナコッシ
- 子
- ジローラモ・サヴォナローラ
概要
ニッコロ・サヴォナローラは、15世紀頃のイタリアの男性。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
クリストフォロ・モーロ Cristoforo Moro
- 生没
- 1390年~1471年11月10日
概要
クリストフォロ・モーロは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
在位
第67代ヴェネツィア共和国ドージェ 1462年~1471年
年表
1463年
教皇ピウス2世にから祝福された剣「クリストフォロ・モーロの剣」を拝受。
所有
外部リンク
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの女たち』
アンドレア・グリッティ Andrea Gritti
- 生没
- 1455年~1538年
概要
アンドレア・グリッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ヴェネツィア共和国ドージェ 1523年~1538年
肖像
外部リンク
アンジェロ・ターニ Angelo Tani
- 生没
- 1415年~1492年
- 父
- ヤコポ・ターニ
概要
アンジェロ・ターニは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
Angelo di Jacopo Tani、Agnolo Tani
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
アントーニオ・ジェンナロ Antonio Gennaro
参考文献
『フィレンツェ史』
アントーニオ・テバルドゥッチ Antonio Giacomini Tebalducci
- 生没
- 1456年8月1日~1518年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ヤコポ・テバルドゥッチ
- 母
- ジョヴァンナ・ジューニ
概要
アントーニオ・テバルドゥッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。銀行員時代は犯罪を犯して投獄されるが、軍事的な才能があり、フィレンツェ共和国の特にピサ戦で活躍。ニッコロ・マキアヴェッリの市民軍創設に協力した。
年表
1466年
ルカ・ピッティ、アニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニが起こしたメディチ政権打倒の陰謀に、父方のおじピエロ・テバルドゥッチが関与したことで、家族全員が20年間公職追放とフィレンツェからの追放、多額の罰金の処分を受ける。
14??年
サルヴィアーティ銀行ピサ支店で見習い。
1477年
サルヴィアーティ銀行ピサ支店出納係として、ベルナルド・ペルッツィから多額の金を集めていたが、会計帳簿への記入を省略。故意か過失かは不明。
ベルナルド・ペルッツィの告発に基づいて追及され、ナポリに逃亡。
1483年~1484年
ラッファエーレ・アッチャイウオリに多額の借金を負わせ、数か月間投獄される。
1484年4月28日
フィレンツェに戻り、この日付の記録で、支払いの減額または延期を受けるために弁護士を雇う。
1484年
家族の資産に影響を及ぼさないように、父から勘当される。
フィレンツェにいることを知ったベルナルド・ペルッツィにより、治安八人委員会の前に召喚される。ピサでの事件について質問を受け、告白。
1486年11月18日
この日付けの判決で5年間の追放を宣告される。
14??年
パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、ミラノを放浪。武器使用経験があったアントーニオ・テバルドゥッチは傭兵になり、サンセヴェリーノとヴェローナのロベルテスキに雇われ、戦う。
1495年
政変によってテバルドゥッチ家は再び公職に就けるようになり、父がプリオーレに選ばれる。
1495年9月~1495年11月
ポンテデーラのコッミッサーリオ。ポンテデーラはピサ領カーシナ攻撃の拠点として、また反乱都市に対する作戦基地として擁された。
1495年12月~1496年2月
兵数と武装を管理するという任務を負うコッミッサーリオとして再びアレッツォに派遣される。
1496年5月~1496年6月
最初にリヴォルノに送られ、次にカンピーリア・マリッティマに送られ、要塞を監督し、海に出るための要所の安全を確保。
1496年8月~1497年1月
ルッカからピサへの物資輸送経路を妨害する目的で、セルキオ渓谷のモンテカルロに配置される。幾つかの襲撃を組織し、襲撃を成功させる。
リヴォルノの街と港は、ピサとその同盟国ヴェネツィアによって包囲されており、これにマクシミリアン1世が参戦し、マレンマとボルゲーリ城を制圧される。
しかし、艦隊の大部分が失われ、ラーリ占領が失敗したことで、マクシミリアン1世は戦場を離脱。
1497年1月
弟ロレンツォ・テバルドゥッチを残してリヴォルノに移動。
1498年前半
物資が陸路でピサに届けられていた別拠点であるルニジャーナに移動。
フィヴィッツァーノの近くヴェッルコラ要塞に基地を置き、絶え間なく周辺地域を捜索し、供給経路を遮断し、フィレンツェに忠実な地域を強化。
1498年4月
1498年
フィレンツェ共和国は総司令官としてパオロ・ヴィテッリを採用。
ピサの同盟国であるヴェネツィア共和国はこの報告を受け、迂回路を設けたいものの、ガスパーレ・サンセヴェリーノとアントーニオ・テバルドゥッチが監視するルニジャーナを通ってトスカーナに入ることができず、ファエンツァを作戦基地としてロマーニャから侵入を試み、ロマーニャにあるフィレンツェの前哨基地であるマッラディ(城は除く)を制圧。
1498年9月
その地域に急ぎ派遣されたアントーニオ・テバルドゥッチは、ロマーニャにおける陣地の防備を、ミラノ公の援軍を派遣し固める。
1498年10月
バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍がビッビエーナを攻撃。
アントーニオ・テバルドゥッチは少人数の精鋭を率い、たった4日でカゼンティーノに到着。
巧みにポッピの城を占拠し、そこからバルトロメオ・ダルヴィアーノへの抵抗を組織し、パオロ・ヴィテッリの制圧下のピサ領から援軍を待つ。
アントーニオ・テバルドゥッチは負傷したものの戦場を放棄せず。
パオロ・ヴィテッリがヴェネツィアの配達人を捕らえたが引き渡そうとせず、彼に対する疑念を抱き、十人委員会へ繰り返し不満を訴える。
十人委員会はアントーニオ・テバルドゥッチをフィレンツェに呼び戻し、代わりにカゼンティーノにピエルジョヴァンニ・リカーゾリを送る。
1499年1月末
フィレンツェに到着。
治安八人委員会に選出される。
1499年6月
サンタ・マリア・ノヴェッラ地区のプリオーレ就任。
1499年10月1日
パオロ・ヴィテッリ、死刑に処される。
1499年11月17日~1500年6月10日
ピサ再征服に対する不安感が漂う中、アントーニオ・テバルドゥッチが志願し、八十人評議会によってコッミッサーリオ・ジェネラーレに任命される。
カーシナに作戦基地を置き、そこから妨害工作を組織し、要塞への視察訪問を行う。
到着したフランス軍にソルドで支払う。
1500年6月19日
繰り返し休暇を求めた後カーシナを離れてヴォルテッラに向かい、ヴォルテッラのカピターノに就任。ヴォルテッラのカピターノ職はフィレンツェ共和国の多くの外部機関の1つで、任期は半年。
この間、シニョーリアはカーシナに留まるように命じ、弟のロレンツォ・テバルドゥッチをヴォルテッラに送ったが、すでにヴォルテッラに向かっている時に命令が届いたため、実行できず。
1500年6月
ヴォルテッラ到着時に病気に罹っていたためアントーニオ・テバルドゥッチはカーシナに戻れず、代わりにジャンバッティスタ・バルトリーニが派遣される。
体調が回復。
1500年
一時的にヴォルテッラにいたアントーニオ・ベノッツィが、ゴンファロニエーレ・ディ・コンパーニアという高い地位を利用して、アントーニオ・テバルドゥッチが課した社会秩序維持のための規則に従わず、衝突。
フィレンツェ政府に何度も不満を訴える。
1500年11月28日
シニョーリアとコッレージョの決議により、ヴォルテッラのカピターノの職を剥奪され、2年間主要な公職から追放処分を受ける。ヴォルテッラのカピターノの残りの期間は、弟のロレンツォ・テバルドゥッチが引き継ぐ。
1500年
フィレンツェ共和国に雇われた傭兵は、何度かピサを征服する寸前まで来ていたが、組織的欠陥と軍の内部紛争のために失敗。この事実は、特にニッコロ・マキアヴェッリやアントーニオ・テバルドゥッチなど間近で観察できた人々に傭兵隊長に対する信頼性の欠如と強欲に気づかせ、大きな衝撃を与えた。
アントーニオ・テバルドゥッチは、ピサ戦争時の傭兵隊長の行動についての経験を、十人委員会に警告、一連の措置を提案。傭兵隊長に兵士の正確な一覧を提出させ、逃亡したり負傷又は死亡し戦闘不能になった兵士の補充を約束させる。次に支払い方法を変更し、時折着服する傭兵隊長を通さず直接個々の兵士に支払うようにする。こうした措置を採用することで、出費を節約でき、軍の業績を向上させ、政府と兵士との直接的な関係を確立して傭兵隊長の役割と重要性を低下させる効果が期待できる。
しかし、経験を積んだ傭兵隊長でこのような条件を飲む者はおらず、十人委員会は彼の提案を無視して、これまでと同様に功績を上げられない傭兵隊長を多額で雇う。
1501年5月
チェーザレ・ボルジア軍がムジェッロに侵入したため、弩兵の一団と共に派遣される。
ヴォルテッラまで追う。
チェーザレ・ボルジア軍がフィレンツェ共和国領から退却。
フィレンツェに戻る。
1501年9月4日~1501年12月
ピストイアのコッミッサーリオとして、フィリッポ・カルドゥッチと共に十人委員会に召集される。
カンチェッリエーリ家とパンチャーティチ家の抗争が勃発しており、これに厳格に対処したため、フィレンツェ共和国に対するピストイア人の敵意が膨らむ。
1501年12月
フィレンツェに呼び戻される。
病気に罹っていたが、数日でヴォルテッラのコッミッサーリオとして派遣される。
ヴォルテッラとポマランチェの長い闘争に終止符を打つ。
1502年4月
まだヴォルテッラにいる間に、ピサ戦のコッミッサーリオに任命され、飢餓作戦その他妨害工作を行う。
ヴィーコ・ピサーノの城郭の下に大砲を配置することも担当するが、アレッツォの反乱の報を受けたため、軍の一部をその地域に派遣しなければならず、攻撃を続行できず。
フィレンツェに戻る。
1502年6月10日
十人委員会の委員にに選出される。
1502年7月2日~1503年1月末
モンテヴァルキに作戦基地を設け、近隣地域から募兵。
フランス軍が到着し、フィレンツェ軍はアレッツォに向かい、戦わずして征服。
その間、ルイ12世からアレッツォの城塞をフィレンツェに返還せよとの命令がチェーザレ・ボルジアと彼の将軍に届く。
この間、ピエロ・ソデリーニはアントーニオ・テバルドゥッチの資質を個人的に観察することができた。さらに、ニッコロ・マキアヴェッリがアレッツォ作戦に関して、彼が「全ての困難と厄介事」から解放してくれるので心配しないようにとピエロ・ソデリーニに手紙を書いている。
アレッツォを取り戻した後、バルボラーニ家の所領であるモンタウト他、周囲の城の再征服に着手。
1503年1月末
フィレンツェに戻る。
1503年4月
ピサ作戦のコッミッサーリオに、トンマーゾ・トシンギと共に選出される。
絶えず移動しながら、ピサに対する妨害工作を組織。
この軍事作戦で、それまでは補助的にしか採用されていなかったフィレンツェ自治領の住民で構成された市民軍が初めて大規模に投入される。4月から5月にニッコロ・マキアヴェッリが十人委員会を代表して、地方住民に2千人に軽装備で、簡単な訓練をし、アントーニオ・テバルドゥッチに提供。
アントーニオ・テバルドゥッチは傭兵軍を酷評していたものの、市民軍にはまだ懐疑的で、十人委員会にもっと良い軍隊を送るように頼んでいる。
にもかかわらず、セルキオ渓谷とアルノ渓谷で成果を上げ、ヴィコ・ピサーノを再征服。
1503年11月初め~1504年1月末
チェーザレ・ボルジアの失脚以来、ヴェネツィア共和国軍侵入の危機が高まっていたモディリアーナに派遣される。
1504年1月末
フィレンツェに戻る。
数日後、プラートに送られ、カーシナのコッミッサーリオであるジュリアーノ・ラーピとエルコーレ・ベンティヴォーリオと2名の水力技術者の会合に参加。アルノ川を分岐させることを検討するためで、軍事攻撃と飢餓によるピサ再征服は難しいと判断したピエロ・ソデリーニが考案した事業である。アルノ川はピサから数キロ上流のトッレ・アル・ファジアーノ近郊で曲がっていたが、リヴォルノ近郊への運河の建設を通じて、川を海への輸送経路として使用可能にすること、また水資源の確保と共に下流域に対するピサの支配権を奪うという計画である。
1504年4月
ピサ戦のコッミッサーリオとして、運河建設を実施。数十メートル掘り勧められたが、傾きの計算が間違っており、大雨で多大な努力は実を結ばず。
1504年9月18日
フィレンツェに戻る許可が下りる。
1504年12月10日
十人委員会の委員に就任。
この頃、十人委員会書記官のニッコロ・マキアヴェッリと毎日会う機会があり、共同で防衛体制の基盤となる市民軍創設に尽力。
1505年8月1日
バルトロメオ・ダルヴィアーノ軍が迫る中、全域のコッミッサーリオ・ジェネラーレに選出される。
バルトロメオ・ダルヴィアーノは、メディチ家とアスカーニオ・マリーア・スフォルツァから明示的に依頼されて、ピサに雇われようとしていると疑われていた。したがって、バルトロメオ・ダルヴィアーノが南からトスカーナを北上し始めるとすぐに、アントーニオ・テバルドゥッチはエルコーレ・ベンティヴォーリオ指揮の小隊と共に派遣される。
エルコーレ・ベンティヴォーリオ、マルカントーニオ・コロンナ、ヤコポ・サヴェッリら傭兵隊長の援軍と共に、カンピーリア・マリッティマ地域までバルトロメオ・ダルヴィアーノを追跡。
1505年8月17日
サン・ヴィンチェンツォでバルトロメオ・ダルヴィアーノを撃破。
1505年8月
ピサに対する決定的な攻撃の許可を、十人委員会と正義の旗手のピエロ・ソデリーニに繰り返し求める。
1505年9月6日
1505年9月
大砲がピサの壁を破壊するが、軍は突撃しようとせず。
十人委員会に報告。
ゴンザロ・デ・コルドバのスペイン歩兵隊の一部がピサに到着。
1505年9月14~15日
ピサ包囲を解く。
1505年9月
大きな失望感が広がり、特にピエロ・ソデリーニが、さらにアントーニオ・テバルドゥッチとエルコーレ・ベンティヴォーリオも非難される。
アントーニオ・テバルドゥッチの憤りと不満は大きく、十人委員会の許可を待たずにカーシナを去り、離職すると脅す。
1505年9月23日
この日付けのニッコロ・マキアヴェッリからの手紙で、「嫉妬深い人や裏切り者に」議論を与えないように、職務に留まるように勧められる。
1505年10月中旬
ようやく帰還を許される。
アントーニオ・テバルドゥッチを横領で告発するため、在任中の公的資金に関して調査が行われるが、記録管理の僅かな怠慢が発見されたのみに終わる。
1506年12月6日
市民軍を管理運営する新しい部署である市民軍の九人が設置される。市民軍は、傭兵部隊よりも安価であることに加えて、任務を果たせなかった者に対しては、効果的な抑止策として法的措置を講じることができる。フィレンツェ自治領の各地区は訓練のために共和国又は傭兵隊長に委託される歩兵部隊(バンディエーラ)を提供義務が課される。
1507年1月12日~1507年9月
市民軍の九人の委員に選出される。
バンディエーラを確認する責任を負う。
1507年2月4日
ペーシャとサン・ミニアートのバンディエーラの確認を実施。
1507年2月18日~1507年3月15日
フィレンツオーラとディコマーノのバンディエーラの確認を実施。
1512年
八十人評議会の議員に選出される。
帝国軍のトスカーナ領土への侵入が間近に迫る。年齢と健康状態の悪さにもかかわらず、帝国の進軍を阻止するために、歩兵3千を率いてムジェッロに向かうことを提案するが、却下される。
1512年9月1日
ジュリアーノ・デ・メディチがフィレンツェに入る。
1512年
ジュリアーノ・デ・メディチがアントーニオ・テバルドゥッチの自宅を訪問。
1513年7月8日
市民軍が解体される。
1514年2月
ロレンツォ・デ・メディチ、市民軍の復活、再編を決意。
1514年5月19日
市民軍、1万余の歩兵が復活、再編される。
1518年1月
フィレンツェにて、死。
埋葬地
別表記
アントーニオ・ディ・ヤコポ・テバルドゥッチ、アントーニオ・ジャコミーニ、Antonio Giacomino
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
アントーニオ・ダ・ヴェナーフロ Antonio da Venafro
- 生没
- 1459年~1530年
概要
アントーニオ・ダ・ヴェナーフロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1502年9月末
パンドルフォ・ペトルッチの代理として、マジョーネの会合に出席。
1502年10月9日
マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。
別表記
アントニオ・ダ・ヴェナフロ、Antonio Giordani da Venafro
外部リンク
参考文献
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
アントーニオ・ディ・サッソ Antonio di Sasso
参考文献
『フィレンツェ史』
アントーニオ・ディ・ミニアート・ディニ Antonio di Miniato Dini
- 父
- ベルナルド・ディ・ミニアート・ディニ
別表記
Antonio di Bernardo di Miniato Dini
参考文献
『フィレンツェ史』
アントーニオ・デリ・アーリ Antonio degli Agli
- 生没
- 1400年~1477年
- 出身
- フィレンツェ
概要
アントーニオ・デリ・アーリは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
ディ・ベリンチョーネ、di Bellincione
外部リンク
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
アントーニオ・ロリーニ Antonio Rorini
参考文献
『フィレンツェ史』
ウグッチオーネ・コントラーリ Uguccione Contrari
- 生没
- 1???年~1516年5月10日
- 父
- アンブロージオ・コントラーリ
- 妻
- ディアーナ・デステ
概要
ウグッチオーネ・コントラーリは、16世紀頃のイタリアの男性。
別表記
ディ・コントラーリ
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
エッツェリーノ・ダ・ロマーノ Ezzelino da Romano
- 生没
- 1194年~1259年
概要
エッツェリーノ・ダ・ロマーノは、12世紀~13世紀のイタリアの男性、皇帝派の闘将。
年表
1236年
マントヴァを占領。
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
エンリコ・スクロヴェニ Enrico Scrovegni
- 生没
- 1???年~1336年
- 没地
- ヴェネツィア
- 父
- レジナルド・スクロヴェニ
- 母
- カペッリーナ・マラカペッリ
- 妻
- ?・カッラーラ
ヤコピーナ・デステ
概要
エンリコ・スクロヴェニは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
オッタヴィアーノ・ウバルディーニ Ottabiano Ubaldini
- 生没
- 14??年~1498年
- 父
- ベルナルディーノ・ウバルディーニ
- 母
- アウラ・ダ・モンテフェルトロ
概要
オッタヴィアーノ・ウバルディーニは、15世紀のイタリアの男性。政治よりも錬金術や占星術に関心を持っていたが、時折叔父フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの相談相手を務めた。そしてフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの死後は彼の息子グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの後見人となり、彼に代わって国事を取り仕切った。
年表
1478年2月15日
ウルビーノでピエロ・フェリーチ宛書簡をしたためる。この書簡により、彼がパッツィ家の陰謀の全貌を知っていて、成功には悲観的であることが分かる。他にグイドバルド・ダ・モンテフェルトロが日曜のミサで首飾りを大喜びして見せびらかしていたことを述べている。
肖像
外部リンク
Google Books - The Book of the Courtier
VER SACRUM
参考文献
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェ Ottaviano della Croce
- 生没
- 148?年~1486年
- 父
- ジョルジョ・デッラ・クローチェ
- 母
- ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
概要
オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェは、15世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
オッド・アルトヴィッティ Oddo Altoviti
- 子
- バルトロメア・アルトヴィッティ
別表記
オッド・デリ・アルトヴィッティ
参考文献
『メディチ家の人びと』
オドアルド・ブエリ Odoardo Bueri
- 子
- ピッカルダ・ブエリ
概要
オドアルド・ブエリは、14世紀頃のフィレンツェの男性。
別表記
オドラルド・デ・ブエリ、Edoardo
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
ガスパーレ・ダ・ヴェローナ Gaspare da Verona
- 生没
- 14??年~
- 出身
- ヴェローナ
- 妻
- ルクレツィア・タスカ
- 子
- フランチェスコ・ダ・ヴェローナ
クリストフォーラ・ダ・ヴェローナ
テレンツィア・ダ・ヴェローナ
マルツィア・ダ・ヴェローナ
概要
ガスパーレ・ダ・ヴェローナは、15世紀頃のイタリアの男性、歴史家。
年表
14??年
おそらくグァリーノ・ダ・ヴェローナに師事。
1419年~1429年
修辞学を教授。
1425年~1427年
この年にはボローニャに移住。
ジョヴァンニ・デッレ・フォルナーチとガスパーレ・シギチェッリに師事し、論理学と哲学を学ぶ。
14??年
フィレンツェに移住。
レオナルド・ブルーニ、ポッジョ・ブラッチョリーニ、カルロ・マルズッピーニ、フランチェスコ・フィレルフォ、アンブロージョ・トラヴェルサーリ、トンマーゾ・パレントゥチェリらと交流。
1431年
ステファノ・ポルカリ、彼の末弟マリアーノ・ポルカリと共に、フランス、ブルターニュ、スコットランドを旅行。
1432年末
1434年
シエナから来たステファノ・ポルカリとマリアーノ・ポルカリ兄弟と共に、フィレンツェにアンブロージョ・トラヴェルサーリを訪問。
1445年
この年にはローマに移住。
私立学校を設立し、ガブリエーレ・マルチェッロ、ロドリゴ・ボルジア、リュイス・ジョアン・デル・ミラなど教皇庁の影響力のある高位聖職者や、アルドー・マヌツィオ、マルカントーニオ・サベリコなど後に文化に貢献することになる若者たちを教育。
1448年夏
ステファノ・ポルカリと共に、ラツィオ、ナポリ王国、プーリアを旅行。
1465年
貴重なギリシャ詩人の作品群をレオノーロ・デ・レオノーリに売却。
1465年頃
カンチェッレーリア宮殿をイタリアで最も壮麗な建物の1つであるとし、その建設費用はロドリゴ・ボルジア枢機卿がペドロ・ルイス・デ・ボルハが死去した際に受け取った遺産から得たと述べる。
別表記
ヴェロナ
外部リンク
Palazzo Sforza Cesarini
Treccani
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
カミッロ・ベネイムベネ Camillo Beneimbene
- 生没
- 14??年~1505年11月
概要
カミッロ・ベネイムベネは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ローマの公証人。現在サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会(ロンバルド広場?)が建っているところに彼の事務所があった。
年表
1486年6月8日
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイとカルロ・カナーレの婚姻契約書を作成。
1489年5月20日
ジューリア・ファルネーゼとオルシーノ・ミリオラーティの婚姻契約書を作成。
1501年8月26日
ヴァティカン宮殿にて、ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの婚姻契約書を作成。
1505年4月9日
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレとエレオノーラ・ゴンザーガの婚姻契約書を作成。
1505年
この年まで法的書類を作成する仕事を続ける。
別表記
カミーロ・ベネインベーネ、Benembene、Benimbene
外部リンク
参考文献
カングランデ・デッラ・スカーラ Cangrande I della Scala
- 生没
- 1291年3月9日~1329年7月22日
概要
カングランデ・デッラ・スカーラは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。
在位
ヴェローナの君主 1308年~1329年
ヴィチェンツァの君主 1312年~1329年
パドヴァの君主 1328年~1329年
別表記
カン・グランデ、デラ・スカラ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『サロメの乳母の話』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
キメンティ・チェルペローネ Chimenti Cerpellone
参考文献
『フィレンツェ史』
グァルテロット・グァルテロッティ Gualterotto Gualterotti
参考文献
『フィレンツェ史』
グリエルモ2世 Guglielmo II
- 生没
- 1153年~1189年
概要
グリエルモ2世は、12世紀の男性。
在位
シチリア王 1166年~1189年
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
グレゴーリオ・ザンパンテ Gregorio Zampante
- 生没
- 14??年~
- 出身
- ルッカ
概要
グレゴーリオ・ザンパンテは、15世紀頃のイタリアの男性、フェッラーラの司法長官。
年表
1491年9月
エルコーレ1世・デステの顧問法律家ジルフレード・デ・カバッリが自宅で殺害される。
1491年9月27日
ジルフレード・デ・カバッリの甥3名が逮捕される。
1491年
下級聖職者のベルナルド・ダ・ヴェローナは民事裁判所による裁判を免除されるため、フェラーラ当局が彼を起訴するためには特別な要請をローマに送る必要があった。
グレゴーリオ・ザンパンテは、他の2人の兄弟チェーザレとニッコロ・ダ・ヴェローナに斬首刑を宣告。
1491年10月10日(月)
エルコーレ・デイ・フェデーリらの洗礼式の翌日のこの日に、チェーザレとニッコロ・ダ・ヴェローナの斬首刑が予定され、執行される。
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
コジモ・バルトリ Cosimo Bartoli
- 生没
- 1503年12月20日~1572年10月25日
概要
コジモ・バルトリは、16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
コーラ・ディ・リエンツォ Cola di Rienzo
- 生没
- 1313年?~1354年
年表:1347年 ローマで革命
概要
コーラ・ディ・リエンツォは、14世紀のイタリアの男性。
年表
1347年5月20日
ローマの民衆が、コラ・ディ・リエンツォに「護民官」の称号を与える。
1347年12月15日
コラ・ディ・リエンツォが民衆の離反で退位し、ローマから逃亡する。
1354年8月1日
リエンツォがローマに帰還し、政権を回復する。
1354年10月8日
ローマに帰還したリエンツォが民衆の反乱で殺害される。
別表記
ニコラ・ディ・リエンツォ、Cola di Rienzi
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
ジアーノ・デッラ・ベッラ Giano della Bella
- 生没
- 13世紀後半~1306年4月19日以前
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フランス
概要
ジアーノ・デッラ・ベッラは、13世紀から14世紀のイタリアの男性、政治家。13世紀後半のフィレンツェ共和国の重要人物。
外部リンク
別表記
ジャーノ
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
ジャン・ヤコポ・カランドラ Gian Jacopo Calandra
- 生没
- 1488年~1543年
- 出身
- マントヴァ
- 没地
- マントヴァ
著書:微風
概要
ジャン・ヤコポ・カランドラはイザベッラ・デステの秘書。
別表記
Giovanni Giacomo
外部リンク
ジャン・ルイジ・ダル・フィエスコ Gian Luigi dal Fiesco
別表記
ジャンルイジ、Gianluigi
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
ジョヴァンニ・アルノルフィニ Giovanni Arnolfini
- 生没
- 1400年~1472年9月11日
- 出身
- ルッカ
- 没地
- ブルージュ
概要
ジョヴァンニ・アルノルフィニは、15世紀の男性、商人。
外部リンク
ジョヴァンニ・ダ・プラートヴェッキオ Giovanni da Pratovecchio
- 父
- バルトロメオ・ダ・プラートヴェッキオ
別表記
Giovanni di Bartolomeo da Pratovecchio
参考文献
『フィレンツェ史』
ジョヴァンニ・デュマ Giovanni Dumas
別表記
モンシニョール・ド・リーユ
参考文献
『フィレンツェ史』
ジョヴァンニ・ドメニコ Giovanni Domenico
参考文献
『メディチ家の人びと』
ジョヴァンニ・ボンシ Giovanni Bonsi
参考文献
『フィレンツェ史』
ジャンバッティスタ・アドリアーニ Giovanni Battista Adriani
- 生没
- 1511年~1579年
- 出身
- フィレンツェ
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・アドリアーニは、16世紀のイタリアの男性、歴史家。
年表
1511年
フィレンツェに生。
1541年~1542年
コジモ1世・デ・メディチ、1540年創立されたAccademia degli Umidiを自分の支配下に収めて公的なAccademia Fiorentina(フィレンツェ学園)に改組し、ベネデット・ヴァルキ、G. Gelli、B Segni、ジャンバッティスタ・アドリアーニ、P. Vettoriらをメンバーとしてトスカーナ語の純化、古典の収集・編纂・刊行を行わせる。
君主・宮廷を中心のその委嘱の下で、ないしはそれとの主従関係の中で生ずる宮廷文学・学芸が支配的になり始める。
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタ Giovanni Battista della Porta
- 生没
- 1535年10月~1615年2月4日
概要
ジョヴァンニ・バッティスタ・デッラ・ポルタは、16世紀から17世紀の物理学者、劇作家。
年表
1535年10月
ナポリに生(1535年11月、1538年)。
別表記
ジャンバッティスタ、ジャン・バッティスタ、ジャン・バティスタ、Giambattista、Giovambattista
外部リンク
参考文献
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『錬金術』
ジョヴァンニ・フォルキ Giovanni Folchi
- 生没
- 1475年~1518/24年?
概要
ジョヴァンニ・フォルキは、15世紀から16世紀の男性。
参考文献
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
ジョルジョ・スカーリ Giorgio Scali
- 生没
- 1???年~1382年1月17日
- 子
- ジーノ・スカーリ
概要
1378年のチオンピの乱の後、トンマーゾ・ストロッツィと共に、一般大衆の人気に支えられてフィレンツェを3年間支配する。しかし、政敵であるピエロ・デリ・アルビッツィ、ドナート・バルバドーリなど多くの無辜の人々を処刑し、権勢を揮って執政官たちを陵駕した尊大な振る舞いにより、大衆に見捨てられ、ジョルジョは首をはねられる。トンマーゾ・ストロッツィは逃亡して一命を取り留めるが、一族と共に永久追放に処せられる。彼らの早くからの支持者の一人であったベネデット・デリ・アルベルティも監禁されている。
参考文献
『君主論』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
ジョルジョ・デッラ・クローチェ Giorgio della Croce
- 生没
- 1???年~1486年
- 妻
- ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
- 子
- オッタヴィアーノ・デッラ・クローチェ
概要
ジョルジョ・デッラ・クローチェは、15世紀のイタリアの男性。
ミラノ人。ロドリゴ・ボルジアのおかげで、教皇シクストゥス4世の秘書の地位を手にしている。裕福になり、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に自分と自分の家族の礼拝堂を作っている。
年表
1486年
死(1485年)。
別表記
ジョルジョ・ディ・クローチェ
外部リンク
参考文献
『ボルジア家の黄金の血』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジョルジョ・ベニーノ Giorgio Benino
参考文献
『フィレンツェ史』
ジローラモ・モレッリ Girolamo Morelli
年表
1478年
ミラノに同盟に基づく支援を要請するための特使に任命される。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
テギア・ディ・シッツィ Teghia de' Sizi
概要
テギア・ディ・シッツィは、アヴェラルド・デ・メディチの母の兄。
外部リンク
The Tragedies of the Medici - Project Gutenberg
参考文献
『メディチ家の人びと』
ドナート・バルバドーリ Donato Barbadoli
参考文献
『フィレンツェ史』
ドメニコ・ダ・リニャーノ Domenico da Rignano
- 生没
- 1440年頃~1474年末
- 妻
- ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
概要
ドメニコ・ダ・リニャーノは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1440年頃
生。
1474年末
死(1475年初め)。
別表記
ドメニコ・ダリニャーノ、Domenico Giannozzo di Rignano、Domenico Giannozzo Signore di Arignano、Domenico d' Arignano、Domenico d'Arignano
外部リンク
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
トンマーゾ・デ・カヴァリエリ Tommaso de' Cavalieri
- 生没
- 1509年~1587年
- 出身
- ローマ
- 没地
- ローマ
概要
トンマーゾ・デ・カヴァリエリは、16世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
ナッティオ・チーニ Nattio Cini
- 子
- カッサンドラ・チーニ
別表記
ナッティオ・デ・チーニ、Nattio de' Cini
参考文献
『メディチ家の人びと』
ナルド・ナルディ Naldo Naldi
- 生没
- 1439年8月31日~1513年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ヤコポ・ナルディ
- 母
- フィアンメッタ
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『ルネサンス精神の深層』
ニッコロ・デ・ペレガディ Niccolò de' Pelegati
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ニッコロ・ニッコリ Niccolò Niccoli
- 生没
- 1364年~1437年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
概要
ニッコロ・ニッコリは、14世紀から15世紀のフィレンツェの男性、人文主義者、古典収集家並びに研究家。
年表
1437年2月3日
フィレンツェで死(1364年頃~1437年)。
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオ、ニッコロ・ニッコリの遺した古典書と自ら収集した古典書(計800余巻?)収蔵の間をサン・マルコ修道院にミケロッツォの設計で作らせ、ニッコロ・ニッコリの遺言通り、かつエウゲニウス4世の侍従として市内にあったTommaso Parentucelli(1397年~)の協力を得て定めた規則に則り、全ての研修者に開放させる。ヨーロッパ最初の公開図書館、誕生。
別表記
ニッコロニッコリ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ニッコロ・バルバドーリ Niccolò Barbadoli
参考文献
『フィレンツェ史』
バルトロメア・デ・ネッリ Bartolomea de' Nelli
- 生没
- 1441年~1496年10月11日
- 父
- ステファノ・デ・ネッリ
- 夫
- ニッコロ・ベノッツィ
ベルナルド・マキアヴェッリ - 子
- プリマヴェーラ・マキアヴェッリ
マルゲリータ・マキアヴェッリ
ニッコロ・マキアヴェッリ
トット・マキアヴェッリ
概要
バルトロメア・デ・ネッリは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1441年
生。
14??年
ニッコロ・ベノッツィと結婚。
夫ニッコロ・ベノッツィ、死。
ベルナルド・マキアヴェッリと結婚。
1465年
プリマヴェーラ・マキアヴェッリを出産。
1468年
マルゲリータ・マキアヴェッリを出産。
1469年5月3日
長男ニッコロ・マキアヴェッリを出産。
1475年
トット・マキアヴェッリを出産。
1496年10月11日
死。
外部リンク
参考文献
『君主論』
『マキアヴェリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ニッコロ・ミケロッツィ Niccolò Michelozzi
- 生没
- 1447年~1527年
- 父
- ミケロッツォ
概要
ニッコロ・ミケロッツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1474年8月8日
フィレンツェでジェンティーレ・ベッキ宛書簡をしたためる。1474年7月29日付のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの書簡について批評。
外部リンク
参考文献
『君主論』
『逆光のメディチ』
『メディチ家』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
バルトロメ・セッラ Bartolomé Serra
- 妻
- ジョアナ・デ・ボルジャ・イ・エスクリヴァ
概要
バルトロメ・セラは、14~15世紀頃の男性。
別表記
バルトロメオ・セラ、Bartomeu、Bartolomeo
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
バルトロメオ・ファツィオ Bartolomeo Facio
- 生没
- 1400年頃~1457年
- 出身
- ラ・スペツィア
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
概要
バルトロメオ・ファツィオは、15世紀のイタリアの男性、人文主義者、歴史家。
年表
別表記
Bartolommeo Facio
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
バルトロメオ・ボナッティ Bartolomeo Bonatti
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ピエトロ・パオロ・ボスコリ Pietro Paolo Boscoli
- 生没
- 1478年~1513年2月22日
概要
ピエトロ・パオロ・ボスコリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:アゴスティーノ・カッポーニと共に中心となって若者20名ほどとジュリアーノ・デ・メディチとその甥ロレンツォ・デ・メディチを襲撃する陰謀を企んでいたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見された自身の手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。
1513年2月22~23日
深夜、アゴスティーノ・カッポーニと共に処刑される。
別表記
ピエートロ・パーオロ・ボスコリ
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエトロ・マトゥッツィ Pietro Giovanni Matuzzi
- 妻
- イザベッラ・ボルジア
概要
ピエトロ・マトゥッツィは、15世紀頃のイタリアの男性。パリオーネ地区に住む小身の貴族で、市政に一生を費やしている。
年表
1483年4月1日
イザベッラ・ボルジアと結婚。
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ピエルアントーニオ・カルネセッキ Pierantonio Carnesecchi
参考文献
『フィレンツェ史』
ピエロ・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ Piero Dovizi da Bibbiena
別表記
ピエロ・ドリッツィ・ディ・ビッビエナ、ピエトロ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ビンダッチョ・リカーゾリ Bindaccio Ricasoli
別表記
リカソーリ
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
ファーツィオ・デリ・ウベルティ Fazio degli Uberti
- 生没
- 1305/1309年~1367年以降
- 出身
- ピサ
- 没地
- ヴェローナ
概要
ファーツィオ・デリ・ウベルティは、14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
フランチェスコ・ガセット Francesco Gaçet
年表
1489年5月21日
ジューリア・ファルネーゼとオルシーノ・ミリオラーティの結婚式に参列。
別表記
ガセト
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
トルージア・ガッツェッラ Trusia Gazzella
- 生没
- 1460年頃~1511年
- 出身
- ガエータ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- アントーニオ・ガッツェッラ
- 母
- オルシーナ・カラーファ
- 夫
- アントーニオ・カルボーネ
チェーザレ・ゲスアルド・ディ・カプア - 男
- アルフォンソ2世・ダラゴーナ
- 子
- サンチャ・ダラゴーナ
アルフォンソ・ダラゴーナ
ルクレツィア・カルボーネ
概要
トルージア・ガッツェッラは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1495年
チェーザレ・ゲスアルド・ディ・カプアと結婚。
別表記
トロージア・ガッゼラ、トルシーア・ガズッロ、トルーシア、トッシア、トウシア、ガズーロ、Trogia Gazzela、Tuscia Gazullo、Trogia Gazzella、Turzia、Drusa
外部リンク
GeneaNet
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea - CARBONE
Google Books - Dell'historia napoletana
Google Books - Famiglie nobili del regno di Napoli
Wikipedia
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
フランチェスコ・カンテルモ Francesco Cantelmo
- 生没
- 1???年~1555年
- 父
- ジョヴァンニ・ジュゼッペ・カンテルモ
- 妻
- ジューリア・デ・メディチ
概要
フランチェスコ・カンテルモは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1550年
ジューリア・デ・メディチと結婚。
別表記
フランチェスコ・デ・バルテレンミ
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『メディチ家の人びと』
フランチェスコ・ダティーニ Francesco Datini
- 生没
- 1335年頃~1410年8月16日
- 出身
- プラート
- 没地
- プラート
- 父
- マルコ・ダティーニ
- 母
- ヴェルミーリア
- 妻
- マルゲリータ・バンディーニ
概要
フランチェスコ・ダティーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
フランチェスコ・ダ・ブーティ Francesco da Buti
- 生没
- 1324年?~1406年7月25日
- 出身
- ピサ
- 没地
- ピサ
概要
フランチェスコ・ダ・ブーティは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
フランチェスコ・ノリ Francesco Nori
- 生没
- 1???年~1478年4月26日
概要
フランチェスコ・ノリは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
1475年初頭
ローマへ赴く。ジュリアーノ・デ・メディチが同行。
1475年1月19日
ローマでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ジローラモ・リアリオを金と友人で抱き込むことは可能だが、ヤコポ・デ・パッツィが干渉してこなければの話で、その見込みは全くないと報告。
1475年
ジローラモ・リアリオと、ピサ大司教に関する休戦協定をどうにか結ぶ。
1478年4月26日(日)
パッツィ家の陰謀。殺害される。
別表記
フランチェスキーノ・ノーリ
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
フランチェスコ・バンディーニ Francesco Bandini
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
ベネデット・ヴァルキ Benedetto Varchi
- 生没
- 1503年3月19日~1565年12月18日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
概要
ベネデット・ヴァルキは、16世紀のイタリアの男性、人文主義者、歴史家。
別表記
ベネデットー・ヴァルキ、ヴァルキィ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『The Life of Cesare Borgia』
ベルナルド・ダ・ディアッチェート Bernardo da Diacceto
参考文献
『フィレンツェ史』
ベルナルド・リヌッチーニ Bernardo Rinuccini
- 父
- ヤコポ・リヌッチーニ
別表記
Bernardo di Jacopo Rinuccini
参考文献
『カトリーヌ・ド・メディシス』
ベルナルド・ボナジュースティ Bernardo Buonagiusti
参考文献
『メディチ家の人びと』
ベルナルド・ミケロッツィ Bernardo Michelozzi
- 生没
- 1455年8月13日~1519年3月7日
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ミケロッツォ
- 母
- フランチェスカ・ガリガーリ
概要
ベルナルド・ミケロッツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『逆光のメディチ』
マルコ・パレンティ Marco Parenti
- 生没
- 1421年4月25日~1497年6月7日
- 父
- パレンテ・パレンティ
- 母
- トンマーザ・サンガッリ
- 妻
- カテリーナ・ストロッツィ
- 子
- ピエロ・パレンティ
マリーア・パレンティ
コスタンツァ・マリーア・パレンティ
マリーア・マッダレーナ・パレンティ
ジネヴラ・マテア・パレンティ
リーザ・トンマーザ・パレンティ
アニョレッタ・マルゲリータ・パレンティ
エリザベッタ・マリーア・パレンティ
概要
マルコ・パレンティは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1447年8月4日
カテリーナ・ストロッツィと結婚。
別表記
マルコ・パレンテ
外部リンク
マルコ・ポーロ Marco Polo
- 生没
- 1254年9月15日~1324年1月8日
- 出身
- ヴェネツィア
概要
マルコ・ポーロは、13世紀から14世紀の男性、旅行家。
年表
1271年
東方旅行の出発(-95)
1295年
中国から帰国
1299年
『東方見聞録』
1477年
マルコ・ポーロの遺作Le divisament dou monde(世界の叙述=東方見聞録)の最初の印刷本(但しドイツ語訳)ニュルンベルクで刊。
1490年
この年頃、マルコ・ポーロの『世界の叙述(東方見聞録)』のラテン語訳、印刷、公刊。
別表記
Il Milione(百万長者または百万虚言者)
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『服飾の中世』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ビアージオ・マルティネッリ Biagio Martinelli
- 生没
- 1463年~1544年12月14日
- 出身
- チェゼーナ
- 没地
- ローマ
概要
ビアージオ・マルティネッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、司祭、公証人、教皇儀典長。
年表
別表記
Biagio da Cesena
外部リンク
マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニ Marcello Virgilio Adriani
- 生没
- 1464年~1521年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
概要
マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、外交官、教授。
書記官時代のニッコロ・マキアヴェッリの5歳年上の上司。
文学者アンジェロ・ポリツィアーノの弟子で、フィレンツェの典型的なエリート。法律学と論理学の教授で、書記官在任中も大学で講議を続けていた。
在職
フィレンツェ共和国書記局第一書記官 1498年2月13日~
外部リンク
参考文献
『君主論』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
ヤコポ・ナルディ Jacopo Nardi
- 生没
- 1476年~1563年
概要
ヤコポ・ナルディは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1563年3月
ヤコポ・ナルディ、フィレンツェで死(1476年~)。(遺作Istorie della città di Firenze(フィレンツェ市国史)、1582年リヨンで刊。)
別表記
Iacopo
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヤコポ・ブラッチョリーニ Jacopo Bracciolini
- 生没
- 14??年~
- 父
- ポッジョ・ブラッチョリーニ
概要
ヤコポ・ブラッチョリーニは、15世紀頃のイタリアの男性。マルシリオ・フィチーノの教え子。
年表
1459年10月30日
父ポッジョ・ブラッチョリーニ、死。
1469年2月7日
サンタ・クローチェ広場で行われた馬上槍試合に出場。
1472年
この年頃までに、死によって中断された父ポッジョ・ブラッチョリーニの著作を再編集し、8つの書籍に分ける。それをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに献呈。
1478年4月26日(日)
朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、フランチェスコ・サルヴィアーティ大司教、ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコ。
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『I centenari del 1898』
ルカ・デッラ・ロッビア Luca della Robbia
- 生没
- 1484年~1519年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- シモーネ・デッラ・ロッビア
- 母
- フィアンメッタ・デル・ネンテ
概要
ルカ・デッラ・ロッビアは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家の人びと』
ルドヴィーコ・カゼッラ Ludovico Casella
- 生没
- 1406年~1469年
- 出身
- カゼッレ
- 妻
- ヤコパ・ダ・カリギイス
コスタンツァ・デイ・ノヴェッリ
概要
ルドヴィーコ・カゼッラは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1406年
カゼッレにて、生(1407年)。
別表記
ロドヴィーコ・カセラ、Lodovico Casella
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
カルロ・カナーレ Carlo Canale
- 生没
- 14??年~1???年
- 妻
- ヴァノッツァ・デイ・カッタネイ
概要
カルロ・カナーレは、15世紀頃のマントヴァ出身の男性、教皇庁内赦院長。
年表
1472年
この頃?、マントヴァの人文主義者たちの間で評判であり、アンジェロ・ポリツィアーノから彼の著作『オルフェオ』についての手紙を受け取っている。1808年ミラノ版『ジュリアーノ殿下の騎馬槍試合の詩』『オルフェオ』には「A Messer Carlo Canale」と記されている。
1483年10月21日
フランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿の執事を務めていたが、この日枢機卿が死ぬ。執事であった間に、ロドリゴ・ボルジア枢機卿と面識があった。
ローマに行き、ジョヴァンニ・ヤコポ・スキアッフィナーティ枢機卿に雇用されているが、ゴンザーガ家との繋がりは持ち続ける。
1483年10月27日
ルドヴィーコ・ゴンザーガがマントヴァ司教となる。彼の司教昇格に貢献。
1486年6月8日
ヴァノッツァ・デイ・カッタネイとの婚姻契約を結ぶ。ボルジア家の公証人カミッロ・ベネイムベネによって契約書が作成され、教皇秘書及びサン・ピエトロ大聖堂司教座聖堂参事会員フランチェスコ・マッフェイ、市民ロレンツォ・バルベリーニ・デ・カテッリニス、ローマの裕福な商人ジュリアーノ・ガッロ、ブルカルド・バルベリーニ・デ・カルナリス他が証人。持参金は1千フィオリーノと、sollicitator bullarumに任命されること。(1486年6月6日)
1493年
この頃?、アレクサンデル6世により、トッレ・ディ・ノーラの刑務所長に任命される。
1499年12月4日
この日付のイザベッラ・デステからの手紙を受け取る。
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
フランチェスコ・コッポラ Francesco Coppola
- 生没
- 1420年~1487年
- 父
- ロイゼ・コッポラ
- 妻
- エリザベッタ・リゴーリオ
- 子
- マルコ・コッポラ
フィリッポ・コッポラ
概要
フランチェスコ・コッポラは、15世紀のイタリアの男性。
在位
サルノ伯
年表
1486年8月13日
長男マルコ・コッポラとマリーア・ピッコローミニとの結婚式に参列するつもりでカステル・ヌオーヴォに赴いたところ、大広間に兵を連れて入って来たフェッランテ・ダラゴーナにより、男爵たちの陰謀に加担したとして息子たちと共に逮捕され投獄され、また私財を没収される。
1486年11月13日
裁判にかけられ、この日死刑を宣告される。
1487年5月11日
斬首される。
外部リンク
Academia.edu
Treccani
Treccani
Gallicchio in Web
Google Books
Google Books
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジャナントーニオ・フラミーニオ Giovanni Antonio Flaminio
- 生没
- 1464年~1536年
- 出身
- イーモラ
- 没地
- ボローニャ
- 父
- ルドヴィーコ・ツァッラービニ・ディ・コティニョーラ
- 子
- マルカントーニオ・フラミーニオ
概要
ジョヴァンニ・アントーニオ・フラミーニオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1464年
14??年
ボローニャにて、フィリッポ・ベロアルドの下で学ぶ。
14??年
疫病を避けてヴェネツィアへ。ヴェネツィアの裕福な家に教師として雇われる。おそらくこの間に、イーモラの古名をたぶん由来として、フラミーニオという姓を名乗る。
1485年
1489年までヴェネツィア領マルカ・トレヴィジアーナのセッラヴァッレに。結婚し、マルカントーニオを含む4人の子を持つ。
1489年
1498年までモンタニャーナで教える。
1498年
セッラヴァッレに帰る。
15??年
15??年
15??年
イーモラへ。この時には妻を亡くしていた。修道院長となる。
1536年
ボローニャにて、死。
別表記
Zarrabini
外部リンク
ジョヴァンニ・ビーキ Giovanni Bichi
- 父
- グッチオ・ビーキ
概要
ジョヴァンニ・ビーキはシエナの有力者、裕福な銀行家。
年表
1433年
神聖ローマ帝国皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルクより、パラティーノ伯に叙せられる。
1452年
教皇ニコラウス5世より、シエナのビーキ宮殿(現シエナ国立絵画館)に移動可能な祭壇の設置と、シエナ郊外にあるクアットロ・トッラ城の礼拝堂でミサを挙行する許しを与えられる。
1453年
納税申告書で、ビーキ宮殿の完成に少なくとも6百フィオリーノ要すると記載。
1456年
この年以降、フィレンツェとの新同盟の条項の概略をまとめるため、雄弁家としてコジモ・イル・ヴェッキオのもとへ派遣される。このフィレンツェ訪問がドナテッロのシエナ行きの誘因となる。
1458年10月
早くてこの頃、サンタゴスティーノ教会の西に位置するサンタ・マルタ小宮殿をシエナ政府から許可され購入。
1459年4月18日
14??年
ビーキ宮殿とクアットロ・トッラ城をルイージ・テリアッチに売却。
1460年6月8日
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Siena: Constructing the Renaissance City』
『The Life of Cesare Borgia』
ロレンツォ・ジュスティーニ Lorenzo Giustini
- 生没
- 1???年~1487年11月13日
概要
ロレンツォ・ジュスティーニは、15世紀頃のイタリアの男性、ジローラモ・リアリオの腹心の部下。
年表
1473年1月14日
ミラノでのジローラモ・リアリオとカテリーナ・スフォルツァの結婚式に参列。
1477年11月
ナポリへ使節。
1477年9月
ペルージアの反逆者たちの裁判でロレンツォ・イル・マニーフィコを非難する主張を行う。
その後モントーネの包囲に向かった。
1478年2月14日
朝、ウルビーノ公宮殿小書斎で、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと会合。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロへのシクストゥス4世からの贈り物である首飾りを持参。
1478年3月27日
ヴァティカン宮殿で会合。出席者はジローラモ・リアリオ、ナポリ大使アネッロ・アルカモーネ、ウルビーノ公使アゴスティーノ・スタッコーリ及びピエロ・フェリーチ。
1480年3月6日
アラゴン家の代表としてのイッポーリタ・スフォルツァと、ロレンツォ・イル・マニーフィコの代わりにナポリに留まったニッコロ・ミケロッツィの間で交わされた法的合意書を書いた。
1480年3月13日
フィレンツェ共和国とナポリ王国の協定書に代理人により署名がされる。フィレンツェ共和国の譲歩には、彼自身の死刑宣告の取消も含まれていた。彼を許すことで、ロレンツォ・イル・マニーフィコは自分の身の安全を守ったのである。しかし、シクストゥス4世とジローラモ・リアリオは、教会にとって不利な和平を成立させられてしまったため腹心の部下に裏切られたように感じる。
1487年11月13日
昔の敵の息子であるパオロ・ヴィテッリに決闘を申し込まれて殺される。首を切り落とされ、服を盗まれて、首のない裸の死体は地面に放置されたまま腐っていったという。
参考文献
『フィレンツェ史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
パオロ・グイニジ Paolo Guinigi
- 生没
- 1376年~1432年
- 出身
- ルッカ
- 没地
- パヴィア
- 父
- フランチェスコ・グイニジ
- 母
- フィリッパ・セルペンティ
- 妻
- マリーア・カテリーナ・アンテルミネッリ
イラリア・デル・カッレット
概要
パオロ・グイニジは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
在位
ルッカの領主 1400年11月21日~1430年
年表
1429年11月
ジェノヴァと同盟関係を保ち、ジェノヴァを支配するミラノ公フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの側に立ってきたものの、そのフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティがトスカーナへの不介入を約したため、ルッカは孤立していた。ヴォルテッラ平定後間もなくミラノやヴェネツィアのように支配領を拡大、強化する必要性が認識されてきたフィレンツェ共和国で、ルッカを今こそ制圧せよとの声が急速に高まる。
1430年2月18日
以降、フィレンツェ共和国軍がルッカ近郊に陣を敷く。
1430年春
フィレンツェ共和国軍がルッカを包囲。フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ及びシエナに支援を求める。
1430年7月
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの指示を受けたフランチェスコ1世・スフォルツァが、4千5百の兵と共にトスカーナに入り、各地を占領しながらルッカに至る。このためフィレンツェ軍は、ルッカ包囲網を大幅に後退。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍に敵し得ないと判断したフィレンツェ共和国は、多額の資金の提供を条件に撤兵を提案し、フランチェスコ1世・スフォルツァはこれを受け、ルッカをルッカ人の手に戻さないことを約して撤兵。
フィレンツェ共和国によるこのフランチェスコ1世・スフォルツァ買収後、ルッカ市内に、パオロ・グイニジもまたフィレンツェに多額の金でルッカを売り渡そうとしているとの噂が反グイニジ派により広められる。
1430年8月14日
フランチェスコ1世・スフォルツァと結んだルッカの反グイニジ派に捕縛され、子共々フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティのもとに送られる。(1430年8月15日)
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ Vittorino da Feltre
- 生没
- 1378年頃~1446年2月2日
- 出身
- フェルトレ
- 没地
- マントヴァ
概要
ヴィットリーノ・ダ・フェルトレは、14世紀から15世紀の男性、イタリアの教育家。ヴェネツィア近郊フェルトレ生まれの人文主義者。マントヴァ公ゴンザーガ家の子女の人文主義に基づく全人教育のための学園喜びの家の創設者。
喜びの家(カ・ゾイオーザ、Ca' Zoiosa、Ca' Gioiosa、La Giocosa)
1427年(1423年)、マントヴァの郊外に創設され、19世紀に至るまで人文主義的教育のモデルとなった学校。ギリシア語とラテン語の作文、文法、修辞学、論理学が主体となり、数学や哲学、倫理教育、社交儀礼の他、本格的な軍隊訓練及び運動訓練も行われていた。体操は、軍事教練からも単なる遊戯からも解放されて、おそらくこの学校によって初めて教えられたが、その後、高等教育には欠かせないものとなった。
ここで学んだ人物には、ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、マントヴァ侯ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ、アレッサンドロ・ゴンザーガ、チェチーリア・ゴンザーガ、マントヴァ大使ザッカーリア・サッジがいる。
肖像
本名
Vittorino dei Rambaldoni
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス百科事典』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ジローラモ・トゥッタヴィッラ Girolamo Tuttavilla
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ギヨーム・デストゥトヴィル
- 母
- ジローラマ・トーリ
- 妻
- イッポーリタ・オルシーニ
- 子
- グリエルモ・トゥッタヴィッラ
概要
ジローラモ・トゥッタヴィッラは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
第1代サルノ伯 1494年~150?年、1505年~
年表
1483年2月22日
イッポーリタ・オルシーニと結婚。
1494年2月
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ並びに彼の兄弟たちとの喧嘩が原因でミラノを去る。
1494年
ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナに仕える。
フェッランテ・ダラゴーナにより、サルノ伯に叙される。
1495年7月6日
ナポリ軍騎兵隊の指揮を任され、フォルノーヴォの戦いに出陣した時、ミラノ軍指揮官ガレアッツォ・サンセヴェリーノとガスパーレ・サンセヴェリーノと接触するが、すぐに離れている。
1495年
ルドヴィーコ・イル・モーロのミラノ公就位を祝う手紙を公とベアトリーチェ・デステ宛てに送る。
1501年8月1日
フェデリーコ・ダラゴーナが、フランス軍に降伏。
150?年
フランス王ルイ12世がジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿をサルノ伯に叙任。
1505年
フェルナンド2世・デ・アラゴンの下、ジョルジュ・ダンボワーズによる公式承認の上、ジローラモ・トゥッタヴィッラにサルノが返される。
別表記
Gerolamo、Geronimo Tuttavilla
外部リンク
Geneanet
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
アゴスティーノ・キージ Agostino Chigi
- 生没
- 1465年~1520年
- 妻
- フランチェスカ・オルデアスカ
- 女
- インペリア
概要
アゴスティーノ・キージは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、シエナの銀行家。
年表
1520年4月11日
サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の半完成のキージ礼拝堂に埋葬される。
別荘
埋葬地
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
『メディチ家』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『ルネサンス百科事典』
『Lucretia Borgia』
フィアンメッタ Fiammetta Michaelis
- 生没
- 1465年頃~1512年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- ミケーレ・カッシーニ
- 母
- サンタ・カッシーニ
概要
フィアンメッタは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。遊女だったと言われているが、明確な証拠はない。ローマのフィアンメッタ邸に居住し、隣接する広場は現在に至るまでフィアンメッタ広場と呼ばれている。チェーザレ・ボルジアから財産をもらっているため、愛人だったかもしれない。
年表
1465年頃
フィレンツェにて、生。
1479年
父ミケーレ・カッシーニ、死。この時、母サンタと兄弟アンドレアとローマに居住。
1479年9月10日
ヤコポ・アンマンナーティ枢機卿、死。
1479年11月4日
故ヤコポ・アンマンナーティ枢機卿の遺産を管理する目的で、教皇シクストゥス4世が高位聖職者4名の委員会を設立。高位聖職者が亡くなった時の慣例に従って教皇庁に寄贈される。
1479年11月13日
ヴィリディアリア門の外にあるベルヴェデーレ近くの葡萄畑、ポンテ地区にある とコロナーリ通りの家とヴィコロ・デッラ・パルマの塔付きの邸宅を、この日付の証書にて上記委員会から持参金としてもらう。
ヤコポ・アンマンナーティ枢機卿との間に文書上の関係は存在しないため、この遺贈が行われた理由について仮説が提唱されている。
説1:前年のパッツィ家の陰謀で父ミケーレ・カッシーニがメディチ家による弾圧対象だった可能性があり、その場合、シクストゥス4世はローマに亡命してきたカッシーニ家に対し、救済責務を果たしたと考えられる。
説2:実際に遊女であった場合、14歳頃の彼女は活動を始めており、彼女か母親か、あるいは2人共がヤコポ・アンマンナーティ枢機卿に囲われていた可能性がある。
1505年12月6日
母サンタ、死。
1512年2月19日
遺言書を公証人 アンドレア・カルージが作成。
遺言者はhonesta mulier Dna Flammetta Michaelis de Florentiaと表記され、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂の自身の礼拝堂に埋葬を希望。大聖堂に礼拝堂を建設できるほどの資金力を持ち、当時の有名な遊女に関する文書でよく見られるようなmeretrixではなくmulierを使うことで単なる売春婦より高い地位であることが強調されている。
兄弟アンドレアをコロナーリ通りの家の用益権者とし、年36カルリーノの収入を与える。この収入から遺言者の鎮魂のためにミサが行われるように、サン・マリア・デッラ・パーチェ教会に6カルリーノ、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂に年6カルリーノの支払い義務を負う。
不動産の所有者は両教会のアウグスティヌス会修道士であり、用益権全体を相続。遺言者自身、弟アンドレア、母サンタ、父ミケーレ、祖母アントーニアが亡くなった月に、ミサを行う義務を負う。さらに遺言者の鎮魂のためのミサを毎日サン・マリア・デッラ・パーチェ教会で1回、サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂で1回行う義務を負う。
付随の転写の見出しにFlammettae Ducis Valentini Testi Transumptumと記載されており、これが唯一チェーザレ・ボルジアとの関係を示唆するものである。
1512年
ローマにて、死。
サンタゴスティーノ・イン・カンポ・マルツィオ聖堂に埋葬される。ピエトロ・アレティーノ著『艶話』の「フィアンメッタも美しい最期を迎えた。そして私はサンタゴスティーノ教会で彼女の礼拝堂を見た」という記述と一致するが、痕跡は現存せず。
埋葬地
別表記
フィアンメッタ・ミケーリ、フィアンメッタ・ミケリス
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Treccani
Wikipedia
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
フランチェスコ・カッターニ・ダ・ディアッチェート Francesco Cattani da Diacceto
- 生没
- 1466年11月16日~1522年4月10日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
概要
フランチェスコ・カッターニ・ダ・ディアッチェートは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
別表記
ディ・ディアッチェート
外部リンク
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
アタランテ・ミリオロッティ Atalante Migliorotti
- 生没
- 1466年~1532年頃
- 出身
- フィレンツェ?
概要
アタランテ・ミリオロッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、音楽家。レオナルド・ダ・ヴィンチにリラの手ほどきを受けたとされる。
年表
1482年
レオナルド・ダ・ヴィンチに同行し、ミラノへ行く。
外部リンク
マルカントーニオ・ミキエル Marcantonio Michiel
- 生没
- 1484年~1552年5月9日
- 出身
- ヴェネツィア
- 没地
- ヴェネツィア
- 父
- ヴィットーレ・ミキエル
- 母
- パオラ・ペッシーナ
- 妻
- マッフェア・ソランツォ
概要
マルカントーニオ・ミキエルは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1525年
ヴェネツィアのタッデオ・コンタリーニ邸で絵画を見て、「婦人の横顔と胸部。ルドヴィーコ・イル・モーロのご息女で、マクシミリアン1世とご結婚。ミラノ人の手による・・・・」と記す。ビアンカ・スフォルツァとビアンカ・マリーア・スフォルツァを混同している。
1528年5月23日
マッフェア・ソランツォと結婚。
別表記
Marc Antonio Michieli
外部リンク
ビアージオ・ブオナッコルシ Biagio Buonaccorsi
- 生没
- 1472年~1526年?
- 出身
- フィレンツェ?
- 父
- ブオナッコルソ・ブオナッコルシ
- 妻
- アレッサンドラ・フィチーノ
マッダレーナ・ネローニ
ピエラ・リドルフィ
ジネヴラ・ヴェッキエッティ - 子
- ブオナッコルソ・ローモロ・ブオナッコルシ
アニョーラ・ブオナッコルシ
フィリッポ・ブオナッコルシ
アレッサンドラ・ブオナッコルシ
アニョーラ・マリーア・ブオナッコルシ
フィリッポ・ローモロ・ブオナッコルシ
概要
ビアージオ・ブオナッコルシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ニッコロ・マキアヴェッリの親友。
職歴
第一書記局書記官補佐
年表
1495年
アレッサンドラ・フィチーノと結婚。
1498年
日記をつけ始める。
1510年10月16日
妻アレッサンドラ・フィチーノ、死。
151?年
マッダレーナ・ネローニと結婚。
1512年
妻マッダレーナ・ネローニとの間に子アレッサンドラ・ブオナッコルシ又はアレッサンドロ・ブオナッコルシ、生。「永久に残るように」長女に前妻の名前を付ける。
1517年
ピエラ・リドルフィと結婚。
1522年
妻ピエラ・リドルフィ、死。
ジネヴラ・ヴェッキエッティと結婚。
1523年
子フィリッポ・ローモロ・ブオナッコルシ、生。
1525年1月24日
葡萄畑を売却。
これ以降の記録なし。
1526年?
死(1522年、1523年)。
別表記
ビアジオ・ボナコルシ
外部リンク
ベルナルド・ブオンジローラミ Bernardo Buongirolami
- 生没
- 1425年?~1484年6月
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ジョヴァンニ・ブオンジローラミ
概要
ベルナルド・ブオンジローラミは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1425~1430年
フィレンツェにて、生。
別表記
ベルナルド・デ・ブォンジロラーミ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
フランチェスコ・フィレルフォ Francesco Filelfo
- 生没
- 1398年7月25日~1481年7月31日
- 出身
- トレンティーノ
- 没地
- フィレンツェ
概要
フランチェスコ・フィレルフォは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、人文主義者。
年表
1398年7月25日
アンコーナ近郊トレンティーノにて、生。
1440年
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに招聘され、ミラノへ行く。
1466年
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァがミラノ公位に就く。
減給され、生活が困窮する。
1469年
シエナに2日間滞在。
1475年
ローマ到着。
1481年7月31日
フィレンツェにて、死。
別表記
フィエルフォ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
イザベッラ・ディ・キアロモンテ Isabella di Chiaromonte
- 生没
- 1424年1月~1465年3月30日
- 出身
- コペルティーノ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- トリスターノ・ディ・キアロモンテ
- 母
- カテリーナ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 夫
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 子
- アルフォンソ2世・ダラゴーナ
エレオノーラ・ダラゴーナ
フェデリーコ・ダラゴーナ
ジョヴァンニ・ダラゴーナ
ベアトリーチェ・ダラゴーナ
フランチェスコ・ダラゴーナ
概要
イザベッラ・ディ・キアロモンテは、15世紀のイタリアの女性。
在位
ターラント公 1463年~1465年
年表
1424年1月
コペルティーノ又はタラントにて、生。
1445年5月28日
ナポリにて、フェッランテ・ダラゴーナと結婚(1445年5月30日)。
1448年11月4日
ナポリにて、アルフォンソ2世・ダラゴーナを出産。
1450年6月22日
ナポリにて、エレオノーラ・ダラゴーナを出産。
1451年10月16日
ナポリにて、フェデリーコ・ダラゴーナを出産(1452年4月19日)。
1456年6月25日
ナポリにて、ジョヴァンニ・ダラゴーナを出産。
1457年9月14日
ナポリにて、ベアトリーチェ・ダラゴーナを出産(1457年11月16日)。
1461年12月16日
フランチェスコ・ダラゴーナを出産。
埋葬地
ナポリ、サン・ピエトロ・マルティーレ教会
別表記
イザベル・ド・クレルモン
外部リンク
参考文献
『ルネサンスの華』
ルチア・マルリアーニ Lucia Marliani
- 生没
- 1455年~1522年12月15日
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- ミラノ公国ミラノ
- 父
- ピエトロ・マルリアーニ
- 母
- カテリーナ・ダンゲラ
- 夫
- アンブロージョ・ラヴェルティ
- 男
- ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
- 子
- オッタヴィアーノ・スフォルツァ
ガレアッツォ・スフォルツァ
概要
ルチア・マルリアーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの愛人。
年表
1455年
ミラノにて、生。
1471年
アンブロージョ・ラヴェルティと結婚。
1474年
1475年1月
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、メルツォとゴルゴンツォーラの領地、城、多くの宝石や稀少石を与えられる。
夫アンブロージョ・ラヴェルティは妻との関係を持たないことを約束し、その見返りにコモのポデスタとミラノのカピターノ・ディ・ジュスティツィアに任命される。
1475年
ミラノにて、オッタヴィアーノ・スフォルツァを出産。
1476年?
ミラノにて、ガレアッツォ・スフォルツァを出産。
1522年12月15日
ミラノにて、死。
備考
2001年、法医学者のチームがサンタンドレア・ディ・メルツォ教会で発掘された頭蓋骨を鑑定した。頭蓋骨の年齢と特徴、特に頭蓋上部の突出部の穴と歯科疾患の形跡は、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァのものと一致するらしい。ルチア・マルリアーニは彼の死の2年ほど前から愛人で、さらに彼の子を身ごもっていた。サンタンドレア・ディ・メルツォ教会は、彼女が通っていたミラノ郊外にある教会である。彼女が後日、愛人の頭蓋骨を仮の墓所からどうにかして盗み出し、自分の教会に納めたのかもしれない。
外部リンク
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ルチア・テルツィアーニ Lucia Terziani
- 生没
- 1380年~1461年
- 出身
- トルジャーノ
- 没地
- ミラノ公国ミラノ
- 男
- ムッツォ・アッテンドロ・スフォルツァ
- 夫
- マルコ・フォリアーニ
- 子
- フランチェスコ1世・スフォルツァ
エリーザ・スフォルツァ
アルベリコ・スフォルツァ
アントーニア・スフォルツァ
レオーネ・スフォルツァ
ジョヴァンニ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
オルソーラ・スフォルツァ
リナルド・フォリアーニ
コッラード・フォリアーニ
ボーナ・カテリーナ・フォリアーニ
概要
ルチア・テルツィアーニは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
年表
1380年
トルジャーノにて、生(1370年頃)。
1401年7月23日
サン・ミニアートにて、フランチェスコ1世・スフォルツァを出産。
1402年
サン・ミニアートにて、エリーザ・スフォルツァを出産。
1403年
アルベリコ・スフォルツァを出産。
1404年
アントーニア・スフォルツァを出産。
1406年
カステルフィオレンティーノにて、レオーネ・スフォルツァを出産。
1407年
コティニョーラにて、ジョヴァンニ・スフォルツァを出産。
1409年10月21日
コティニョーラにて、アレッサンドロ・スフォルツァを出産。
1411年
コティニョーラにて、オルソーラ・スフォルツァを出産。
マルコ・フォリアーニと結婚。
1411年頃
リナルド・フォリアーニを出産。
1420年頃
コッラード・フォリアーニを出産。
14??年
ボーナ・カテリーナ・フォリアーニを出産。
1461年
ミラノにて、死。
別表記
ルチア・テルツィアーニ・ダ・マルシャーノ、ルチーア・ダ・テルツァーノ、Lucia da Terzano、Torgiano、di Torsciano、Terzania
外部リンク
Famille de Carné
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネサンスの女たち』
ルクレツィア・クリヴェッリ Lucrezia Crivelli
- 生没
- 1452年7月27日~1534年4月12日
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- カンネート・スッローリオ
- 父
- ベルナボ・クリヴェッリ
- 男
- ルドヴィーコ・イル・モーロ
- 子
- ボーナ・スフォルツァ
ジャンパオロ1世・スフォルツァ
概要
ルクレツィア・クリヴェッリは、イタリアの女性、ベアトリーチェ・デステの侍女、ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人。
年表
1452年7月27日?
ミラノにて、生。
1491年1月17日
149?年
ベアトリーチェ・デステの侍女だったが、ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人となり、ボーナ・スフォルツァを出産。
1496年11月
ルドヴィーコ・イル・モーロがルクレツィア・クリヴェッリとよく一緒にいることが報告されている。
1497年3月
ジャンパオロ1世・スフォルツァを出産。
1501年
この頃、ジャンパオロ1世・スフォルツァを連れてマントヴァにいる。
1???年
ルドヴィーコ・イル・モーロ失脚後、イザベッラ・デステの保護の下、カンネート要塞に居住。
1534年4月12日
カンネート・スッローリオにて、死。
肖像
外部リンク
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
シモネッタ・カッターネオ Simonetta Cattaneo
- 生没
- 1453年1月28日~1476年4月26日
- 父
- ガスパーレ・カッターネオ
- 母
- カトッキア・スピノーラ
- 夫
- マルコ・ヴェスプッチ
概要
シモネッタ・カッターネオは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1468年
マルコ・ヴェスプッチと結婚。
別表記
シモネッタ・ヴェスプッチ
外部リンク
ウィキペディア
Google Books
Google Books
Google Books
Google Books
Google Books
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ローマ教皇検死録』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
アニェーゼ・デル・マイーノ Agnese del Maino
- 生没
- 1401年頃~1465年12月13日
- 男
- フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
- 子
- ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ
概要
アニェーゼ・デル・マイーノは、15世紀のイタリアの女性。
別表記
アネーゼ
外部リンク
kleio.org
RootsWeb.com
Wikipedia
参考文献
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
アンナ・ダ・マッサ Anna da Massa
- 男
- アレッサンドロ・デ・メディチ
- 子
- ジューリオ・デ・メディチ
ポルツィア・デ・メディチ
ジューリア・デ・メディチ
外部リンク
Google Books - The Tragedies Of The Medici
参考文献
『メディチ家の人びと』
イザベッラ・アルドゥイーノ Isabella Arduino
- 男
- エルコーレ1世・デステ
- 子
- ジューリオ・デステ
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
イゾッタ・デリ・アッティ Isotta degli Atti
- 生没
- 1432年頃~1474年7月9日
- 父
- フランチェスコ・デリ・アッティ
- 夫
- シジスモンド・マラテスタ
概要
イゾッタ・デリ・アッティは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1432年頃
生(1433年)。
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
インペリア Imperia
- 生没
- 1481年~1512年
- 母
- ディアナ
- 男
- アゴスティーノ・キージ
概要
インペリアは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
別表記
インペーリア
本名
ルクレツィア
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
ヴィットーリア・アッコランボーニ Vittoria Accoramboni
- 生没
- 1557年2月15日~1585年12月22日
- 夫
- フランチェスコ・ペレッティ
概要
ヴィットーリア・アッコランボーニは、16世紀のイタリアの女性。
別表記
ヴィットリア・アッコランボーニ
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
カッサンドラ・コッレオーニ Cassandra Colleoni
- 父
- バルトロメオ・コッレオーニ
- 夫
- ニッコロ・ダ・コッレッジョ
- 子
- ジャン・ガレアッツォ・ダ・コッレッジオ
ベアトリーチェ・ダ・コッレッジオ
エレオノーラ・ダ・コッレッジョ
イゾッタ・ダ・コッレッジオ
年表
1472年
ニッコロ・ダ・コッレッジョと結婚。
カッサンドラ・チーニ Cassandra Cini
- 父
- ナッティオ・チーニ
- 夫
- レオニーダ・マラテスタ
- 子
- ヤコポ・マラテスタ
マラテスタ8世・マラテスタ
別表記
カッサンドラ・デ・チーニ
参考文献
『メディチ家の人びと』
ジョヴァンニ・カナッチ Giovanni Canacci
参考文献
『フィレンツェ史』
ジョヴァンニ・セッリストーリ Giovanni Serristori
参考文献
『フィレンツェ史』
ジリオラ・ダ・カラーラ Gigliora da Carrara
- 生没
- 1379年~1416年
- 父
- フランチェスコ・ノヴェッロ・ダ・カラーラ
- 夫
- ニッコロ3世・デステ
概要
ジリオラ・ダ・カラーラは、14世紀から15世紀の女性。
年表
1397年
ニッコロ3世・デステと結婚。
別表記
ジリオーラ・ダ・カッラーラ
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ニコロジア・ベッリーニ Nicolosia Bellini
- 父
- ヤコポ・ベッリーニ
- 夫
- アンドレア・マンテーニャ
パオラ・セッコ Paola Secco
- 父
- フランチェスコ・セッコ
- 母
- カテリーナ・ゴンザーガ
- 夫
- マルシリオ・トレッリ
- 子
- クリストフォロ2世・トレッリ
フランチェスコ1世・トレッリ
バルバラ・トレッリ
オルシーナ・トレッリ
バルトロメア・アルトヴィッティ Bartolomea Altoviti
- 父
- オッド・アルトヴィッティ
- 夫
- サルヴェストロ・デ・メディチ
- 子
- マルゲリータ・デ・メディチ
オノフリア・デ・メディチ
ニッコロ・デ・メディチ
アラマンノ・デ・メディチ
グレゴーリオ・デ・メディチ
カテリーナ・デ・メディチ
別表記
バルトロンメア、バルトロンメオ・デリ・アルトヴィッティ、Bartolommea
参考文献
『メディチ家の人びと』
アルドー・マヌツィオ Aldo Manuzio
- 生没
- 1449年~1515年2月6日
- 出身
- バッシアーノ
- 没地
- ヴェネツィア
概要
アルドー・マヌツィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、古典学者、印刷出版業者。
年表
1449年
ラツィオのヴェッレトリ近郊バッシアーノに生(1450年、1452年)。
1494年
この年頃、ヴェネツィアに印刷所を開設し、ギリシア古典の編集・出版を開始。
1502年
ギリシア語研究及び古典出版のためAccademia veneta(ヴェネツィア学園)を設立。(1500年)。
1515年2月6日
ヴェネツィアで死。改訂版も含めて131点の本を出版。
アルドー・マヌツィオ書房出版物
1495年3月8日
最初の出版物としてコンスタンティーノ・ラスカリス著『Erotemata((ギリシア語文法)抜粋:1476)』の再版。
1495年12月25日
Theodoros Gazesの遺作『Grammatike eisagoge(ギリシア語文法)』。
1498年
アリストテレスの5巻本。
1499年
1501年
最初の小型本。八折版、アルダイン・イタリック体で、ウェルギリウスの作品集。序文に「この洗練された本文は御覧のとおりの姿で提供される。我々は卑小な詩作品を小型本に収めようとは思わない。全ての名作をこの同じ形式で出版するのが我々の意図なのである」
ウェルギリウスの作品集。
ホラティウスの作品集。
フランチェスコ・ペトラルカの詩集。
ユウェナリス、ペルシウスの作品集。
マルティアリスの作品集。
1502年
カトゥルスの作品集。
ティブルスの作品集。
プロペルティウスの作品集。
キケロ著『親近書簡集』。
ルーカーヌスの作品集。
ダンテ・アリギエーリ著『神曲』。
スタティウス作品集。
ウァレニウス・マクシムス著『著名言行録』。
オウィディウス著『変身物語』。
オウィディウス著『著名婦人への書簡集』。
1503年
2回目の出版目録。
1505年
ジョヴァンニ・ポンターノの詩集。
1507年
1508年
エラスムスの『格言集』。パリの初版では818の格言だったが、この第3版では3260の格言を収録。「プトレマイオス2世の図書館は自家の狭い壁を以って囲まれていたが、アルドゥスは世界の果て以外には壁のない図書館を建てる」
1508年
『小プリニウス書簡集』。
1509年
サッルスティウスの作品集。
1513年
ティート・ストロッツィ、エルコーレ・ストロッツィ父子の詩集。
キケロ著『アッティックス書簡集』
ユリウス・カエサル著『ガリア戦記』。
1513年
3回目の出版目録。
1514年
ヤコポ・サンナザーロ著『アルカディア』。
1515年
ルクレティウス『事物の本質について』 。
1518年
ギリシア語訳旧約聖書を刊行(Aldus版聖書)。印刷されながら販売を未だ認可されないPolyglotta Conpultensis(1517年)を置いて、入手可能な初のギリシア語訳旧約聖書となる。
1545年
別表記
アルド・マヌーツィオ、アルド・マヌッチ、アルドゥス・マヌティウス、アルダイン、アルドゥ、Manucci、Aldus Manutius、Aldine、Aldes
外部リンク
ウィキペディア
学術出版の祖アルド・マヌーツィオ
BOOKS-YUSHODO
BOOKS-YUSHODO
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
ビアンカ・ルチア・マンデッリ Bianca Lucia Mandelli
概要
ビアンカ・ルチア・マンデッリは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1491年2月27日
ガスパーレ・スタンガと結婚。持参金6千ドゥカート。
別表記
ビアンカ・ルチア・スタンガ、Bianca Lucia Mandelli di Caorso
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ピエラ・マネッティ Piera Manetti
- 生没
- 1438年~
- 父
- ジャンノッツォ・マネッティ
- 母
- アレッサンドラ・テバルドゥッチ
- 夫
- アントーニオ・プッチ
- 子
- ジャンノッツォ・プッチ
ロベルト・プッチ
ピエロ・プッチ
レーナ・プッチ
ナンニーナ・プッチ
アレッサンドラ・プッチ
概要
ピエラ・マネッティは、15世紀頃のイタリアの女性。
ピッカルダ・ブエリ Piccarda Bueri
- 生没
- 1368年~1432/1433年
- 父
- オドアルド・ブエリ
- 夫
- ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
- 子
- コジモ・イル・ヴェッキオ
ロレンツォ・イル・ヴェッキオ
概要
ピッカルダ・ブエリは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
別表記
ナンニーナ、ピッカルダ・ブエーリ、de' Bueri
外部リンク
Wikipedia
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
参考文献
『メディチ家の人びと』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルキナ・ブッソーネ Luchina Bussone
- 父
- フランチェスコ・ブッソーネ
- 母
- アントーニア・ヴィスコンティ
- 夫
- ルイジ・ダル・ヴェルメ
- 子
- ピエトロ・ダル・ヴェルメ
アントーニア・ダル・ヴェルメ
タッデオ・ダル・ヴェルメ
ルクレツィア・ダラーニョ Lucrezia d'Alagno
- 男
- アルフォンソ5世・デ・アラゴン
別表記
ルクレツィア・ダラーニャ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
ルドヴィーカ・グイディ Ludovica Guidi
- 父
- フランチェスコ・グイディ
- 母
- マッダレーナ・ヴィスコンティ
- 夫
- ニッコロ・フォルテブラッチョ
ニッコロ・グエッリエリ
年表
1434年10月
ニッコロ・フォルテブラッチョと結婚。
トンマーゾ・トシンギ Tommaso Tosinghi
別表記
トンマーゾ・トッシンギ
参考文献
『フィレンツェ史』
アレッサンドラ・フィチーノ Alessandra Ficino
- 生没
- 14??年~1510年10月16日
- 父
- ダニエッロ・フィチーノ
- 母
- マリエッタ・ベッラッチ
- 夫
- ビアージオ・ブオナッコルシ
- 子
- ブオナッコルソ・ローモロ・ブオナッコルシ
アニョーラ・ブオナッコルシ
フィリッポ・ブオナッコルシ
概要
アレッサンドラ・フィチーノは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、マルシリオ・フィチーノの姪。
年表
1495年
ビアージオ・ブオナッコルシと結婚。
1496年
ブオナッコルソ・ローモロ・ブオナッコルシを出産。
1503年
アニョーラ・ブオナッコルシを出産。
1505年
フィリッポ・ブオナッコルシを出産。
1506年8月9日
子アニョーラ・ブオナッコルシ、死。
1509年
子フィリッポ・ブオナッコルシ、死。
1510年10月16日
死。
アントーニア・ダル・ヴェルメ Antonia dal Verme
- 生没
- 14??~1487年9月19日
- 没地
- ボルゴヌオーヴォ
- 父
- ルイジ・ダル・ヴェルメ
- 母
- ルキナ・ブッソーネ
- 夫
- スフォルツァ・セコンド・スフォルツァ
- 子
- ジョヴァンナ・スフォルツァ
概要
アントーニア・ダル・ヴェルメは、15世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ドミティッラ・ランゴーニ Domitilla Rangoni
- 生没
- 14??年~
- 父
- グイド・ランゴーニ
- 母
- ジョヴァンナ・ボイアルド
- 夫
- ティート・ヴェスパジアーノ・ストロッツィ
- 子
- エルコーレ・ストロッツィ
グイド・ストロッツィ
ロレンツォ・ストロッツィ
概要
ドミティッラ・ランゴーニは、15世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
ステファノ・マルガーニ Stefano Margani
- 生没
- 14??年~
- 父
- ピエトロ・マルガーニ
- 母
- チェッコレッラ・カピズッキ
- 妻
- アンジェラ・チェザリーニ
- 子
- パオロ・マルガーニ
概要
ステファノ・マルガーニは、15世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。
年表
1480年11月18日
父ピエトロ・マルガーニを殺害したプロスペロ・サンタクローチェと講和を結ぶ。
1481年1月14日
教皇シクストゥス4世の干渉により、ギヨーム・デストゥトヴィル邸宅にてステファノ・クレシェンツィと講和を結ぶ。ギヨーム・デストゥトヴィル、ロドリゴ・ボルジア、ステファノ・ナルディーニ、ジョヴァンニ・アルチンボルディ、ジョヴァンニ・バッティスタ・チーボ、フランチェスコ・ピッコローミニ、ジョヴァンニ・コロンナ、バルトロメオ・マラスカがこれに出席。
1483年
暗殺者を雇い、プロスペロ・サンタクローチェを殺そうとするが失敗。
1485年
プロスペロ・サンタクローチェを殺害。
外部リンク
パオロ・マルガーニ Paolo Margani
- 生没
- 14??年~1487年
- 父
- ステファノ・マルガーニ
- 母
- アンジェラ・チェザリーニ
- 妻
- ヤコペッラ・カエターニ
- 子
- ピエトロ・マルガーニ
概要
パオロ・マルガーニは、15世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。
年表
1484年5月
ヤコペッラ・カエターニと結婚(1484年12月)。
1485年
パオロ・デッラ・ヴァッレを殺そうとしたことへの復讐のため、バルトロメオ・サンタクローチェとヴァレリアーノ・サンタクローチェを殺害。
別表記
Paolo di Stefano Margani
外部リンク
ピエトロ・マルガーニ Pietro Margani
- 生没
- 14??年~
- 父
- パオロ・マルガーニ
- 母
- ヤコペッラ・カエターニ
- 妻
- ジューリア・コロンナ
概要
ピエトロ・マルガーニは、15世紀頃のイタリアの男性、ローマの貴族。
外部リンク
ピエトロ・マルガーニ Pietro Margani
- 生没
- 1410年頃~1480年9月15日
- 出身
- ローマ
- 父
- パオロ・マルガーニ
- 妻
- チェッコレッラ・カピズッキ
- 子
- ステファノ・マルガーニ
ルクレツィア・マルガーニ
ジローラマ・マルガーニ
概要
ピエトロ・マルガーニは、15世紀のイタリアの男性、ローマの貴族。
マルガーニ家はヴァッレ家とコロンナ家の味方で、サンタクローチェ家とオルシーニ家に支援されているクレシェンツィ家と敵対していた。
在職
コンセルヴァトーレ 1449年10月~12月
年表
1464年11月3日
チェッコレッラ・カピズッキと結婚。
1480年9月15日
追放処分を受けているにもかかわらず戻ってきたプロスペロ・サンタクローチェに短剣で刺殺される。シジスモンド・デ・コンティによれば、自邸の扉で立ったまま殺されたという。
別表記
Piero Margani
外部リンク
ジローラマ・マルガーニ Girolama Margani
- 生没
- 14??年~
- 父
- ピエトロ・マルガーニ
- 夫
- フィリッポ・デッラ・ヴァッレ
- 子
- バルトロメオ・デッラ・ヴァッレ
年表
1461年
フィリッポ・デッラ・ヴァッレと結婚。
外部リンク
ステファノ・ポルカリ Stefano Porcari
- 生没
- 14??年~1453年1月9日
- 出身
- ローマ
- 父
- パルッツォ・ポルカリ
- 母
- カテリーナ
概要
ステファノ・ポルカリは、15世紀頃のイタリアの男性、熱狂的な共和政論者。
在位
年表
1453年1月3日
ニコラウス5世によりローマから遠ざけられボローニャの教皇軍指揮官に左遷されていたがその地を逃亡し、共和政ローマの復活を目指す反乱の陰謀を胸にローマに潜入。
1453年1月5日
ボローニャからの通報により、陰謀は発覚。チェストの中に隠れ、妹ともう1人の女性が上に座って守ろうとするが、引きずり出され捕らえられる。
1453年1月9日
サンタンジェロ城内で絞首刑に処せられる。
別表記
ステーファノ・ポルカーリ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『April Blood』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
フィリッポ・デッラ・ヴァッレ Filippo della Valle
- 生没
- 1431年~1494年
- 出身
- ローマ
- 父
- パオロ・デッラ・ヴァッレ
- 母
- サベッラ・サヴェッリ
- 妻
- ジローラマ・マルガーニ
- 子
- バルトロメオ・デッラ・ヴァッレ
概要
フィリッポ・デッラ・ヴァッレは、15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
フランチェスコ・デッラ・ヴァッレ Francesco della Valle
- 父
- レーリオ・デッラ・ヴァッレ
- 妻
- ?・マルガーニ
概要
フランチェスコ・デッラ・ヴァッレは、ピエトロ・マルガーニの義理の息子。
年表
1478年
サンタクローチェ邸の晩餐会にてフランチェスコ・サンタクローチェを殺害。
パオロ・デッラ・ヴァッレ Paolo della Valle
- 生没
- 1385年頃~1440年
- 父
- レーリオ・デッラ・ヴァッレ
- 母
- ロレンツァ・デ・ロッシ
- 妻
- サベッラ・サヴェッリ
- 子
- レーリオ・デッラ・ヴァッレ
フィリッポ・デッラ・ヴァッレ
ヤコポ・デッラ・ヴァッレ
ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ
概要
パオロ・デッラ・ヴァッレは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ジョヴァンナ・デッラ・ヴァッレ Giovanna della Valle
- 父
- パオロ・デッラ・ヴァッレ
- 母
- サベッラ・サヴェッリ
- 夫
- ドメニコ・ポルカリ
- 子
- ジローラモ・ポルカリ
サーバ・ポルカリ
プロスペロ・ポルカリ
ジェンティレスカ・ポルカリ
ブリージダ・ポルカリ
外部リンク
アンドレア・リッチ Andrea Ricci
- 生没
- 14??年~
- 父
- ドメニコ・リッチ
- 母
- ヴィオランテ・リアリオ
- 妻
- ステッラ・ランドリアーニ
概要
アンドレア・リッチは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:チェッコ・オルシの息子アガメンノーネ・オルシと戦って倒す。アガメンノーネ・オルシは12日後に死亡。
1488年4月19日
ベルナルディーノ・サヴェッリの取り仕切りで、ステッラ・ランドリアーニと結婚し、チェゼーナへ向かう。又はチェゼーナで結婚。
外部リンク
ドメニコ・リッチ Domenico Ricci
- 妻
- ヴィオランテ・リアリオ
- 子
- ビアンカ・リッチ
アンドレア・リッチ
概要
ドメニコ・リッチは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
14??年
ヴィオランテ・リアリオと結婚。
イーモラの知事に任命され、妻ヴィオランテ・リアリオと共にイーモラに赴任。
1478年4月
教皇シクストゥス4世によりスポレート、アメーリア、テッレ・アルノルフェの知事に任命される。
1487年9月
アントーニオ・マリーア・オルデラッフィ配下のニーノ・ロッフィ、ビアージオ・ロッフィ、ドメニコ・ロッフィがルバーノで農民を集め、フォルリのコトーニ門を襲撃。塔を占拠されるが、ドメニコ・リッチが奪還し、首謀者たちを捕らえる。内5名をすぐさま絞首刑に処し、イーモラに報告に行く。
コロンブス Columbus
- 生没
- 1451年頃~1506年5月20日
概要
コロンブスは、15世紀から16世紀の男性。
年表
1451年8~10月
この頃、ジェノヴァ近郊に生(1446年頃)。
1474年
パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ、ポルトガルの聖職者Fernão Martinesへの手紙で、東アジアへの最短コースはポルトガルが行なっているアフリカ周航コースではなくイベリア半島の緯度に沿って西に航海するコースであると説く。
この説を知って西航計画を誘発されたと言われる。
1492年4月17日
イサベル1世・デ・カスティーリャと協定を交わす。彼が発見するであろう島々や大陸の総督などの位、及びその領内での取引額の10分の1を彼自身が取得する。
1492年8月3日
イサベル1世・デ・カスティーリャと交わした協定に従い、第1回航海に出発(~1493年3月15日)。
1492年10月12日
新大陸の「発見」:西インド諸島のバハマ群島に上陸し、サンサルバドルと命名。
1493年9月25日
第2回航海に出発。
1498年5月30日
第3回航海に出発。
1498年7月末
南米に至る。
1502年5月9日
第4回航海に出発(~1504年11月)。
1506年5月20日
スペイン北西部バリャドリッドで死。
関連項目
The Borgias: 104
別表記
クリストバル・コロン、クリストフォロ・コロンボ、クリストファ、クリストファー・コロンブス、Christopher Columbus、Christóbal Colón、Cristoforo Colombo
外部リンク
参考文献
『イタリア遺聞』
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『新世紀ビジュアル大辞典』
『性病の世界史』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
『The Life of Cesare Borgia』
ジローラモ・オルジアーティ Girolamo Olgiati
- 生没
- 1453年~1477年1月2日
概要
ジローラモ・オルジアーティは、15世紀のイタリアの男性、ミラノ公国の政府の役人。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ暗殺者の1人。
教養
非常な教養人であり博学だったという。
サッルスティウス著『カティリナの陰謀』を信奉していた。
暗殺の動機
陰謀者たちの間で急進的存在であり、他の者たちのように怨恨によるものではなく、彼の場合、それは共和政の理念のためであった。民衆蜂起、自由政体の実現を目指しての暴君殺害は、彼が師事していた人文主義者のコーラ・モンターノの教えによるものだと告白している。
暗殺
1476年12月26日、ミラノのサント・ステファノ教会に3人は集まる。この日はサント・ステファノの日であり、ここでミサが執り行われることになっていた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ一行が到着すると、3人は彼の前に出、一言二言交わした後、まずジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニが刺し、カルロ・ヴィスコンティ、ジローラモ・オルジアーティと、ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニの使用人フランツォーネがそれに続いた。
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが殺され、人々は恐慌状態となり、教会から逃げ出す。ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニは教会の女性側に向かって逃走を試みたが、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの護衛に捕らえられてその場で惨殺された。他の共犯者3人は、群集の間に強引に入り込み、逃走に成功する。
暗殺後
1476年12月27日、フランツォーネが捕まり、共犯者を自白。
1476年12月29/30日、カルロ・ヴィスコンティは、怯えた親族と、彼を謀反人と非難した父親によって警吏に引き渡される。
ジローラモ・オルジアーティの父親は息子のしでかしたことにおののき、逃亡に手を貸そうとはしなかったが、母親は変装した息子を友人の聖職者の家に匿っていた。オルジアーティ家の2人の使用人が青年の身を守ろうとしたものの、2人は捕らえられた後に四つ裂きの刑に処せられた。
ニッコロ・マキアヴェッリによれば、ジローラモ・オルジアーティは拷問されている時に、「死は悲惨だ。だが勝利は永遠であり、我が行為は存続するであろう」との言葉を残したという。
1477年1月2日、カルロ・ヴィスコンティ、ジローラモ・オルジアーティとフランツォーネは死刑に処せられ、死体は警告として曝された。
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは冷酷な君主として知られていたにもかかわらず、民衆が彼の暗殺に呼応することはなかった。
別表記
ジェロラーモ・オルジャーティ、Gerolamo Olgiati
外部リンク
The Assassin's Creed Wiki
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『April Blood』
マッテオ・コントゥージ Matteo Contugi
- 生没
- 14??年~
- 出身
- ヴォルテッラ
- 父
- エルコラーノ・コントゥージ
概要
マッテオ・コントゥージは、15世紀頃のイタリアの男性、写本家。
1477年から1486年、モンテフェルトロ家の有名な蔵書の中でも特に美しい写本を書き写すためにフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに雇われていた。同時に、マントヴァ侯フェデリーコ1世・ゴンザーガのウルビーノ駐在諜報員でもあった。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが略奪したヴォルテッラの出身なので密かな恨みを抱くに足る理由があったのだが、宮廷で相当の地位にあったために疑われることはなかった。
写字
年表
1478年4月1日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。
1478年6月17日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの傭兵契約の俸給が支払われたことについて。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがチッコ・シモネッタから、馬の頭につける豪華なカバーと美しい兜及び剣を贈り物として受け取ったこと。
1478年10月16日
フェッラーラでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。同盟国ナポリの軍隊はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロをカインという渾名で呼んでいたと伝える。彼が弟のオッダントーニオ・ダ・モンテフェルトロの暗殺に関わっていたという噂に重ねられている。
1479年2月5日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。フィレンツェ共和国が徴税に難儀していることについて、強制的に取り立てるために任命された役人の介入について、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに報告がもたらされていたこと。
1480年5月18日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとシクストゥス4世が互いに疑心暗鬼に陥っていると報告。
1480年5月22日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロがヴィテルボの群衆の前で行った演説について報告。
1481年11月28日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。ロレンツォ・イル・マニーフィコが自分の立場を強化するため、あらゆる無礼を忘れたふりをして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのもとに友好的に訪問したことについて。
1481年12月13日
ウルビーノでフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛書簡を書く。ロレンツォ・イル・マニーフィコと和解したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロだったが、その本心については分からないという。
外部リンク
参考文献
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ベルナルド・バンディーニ Bernardo Bandini
- 生没
- 1???年~1479年12月28日
概要
ベルナルド・バンディーニは、15世紀のフィレンツェの男性。
教養
マルシリオ・フィチーノの教え子。
年表
1478年4月26日
パッツィ家の陰謀決起:
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・バンディーニがジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手、チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。
1479年12月28日
1478年のパッツィ家の陰謀、決起におけるジュリアーノ・デ・メディチ殺害者の一人でコンスタンティノポリスまで逃亡していたベルナルド・バンディーニ、オスマン・トルコにより身柄を引き渡され、この日、処刑される。
1479年12月28日
絞首刑に処せられる。嘲笑いを誘うためにトルコ人の服装をさせられていた。ロレンツォ・イル・マニーフィコの留守中に反逆を考えるかもしれない人々へ向けた警告でもあった。
1479年12月28日
レオナルド・ダ・ヴィンチ、「ベルナルド・バンディーニの処刑図」を素描。
肖像
参考文献
『世界の歴史12 ルネッサンス』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
マリーア・ゴンディ Maria Gondi
- 生没
- 1530年頃~1580年5月
- 没地
- ラッコニージ
- 父
- アントーニオ・ゴンディ
- 母
- マリー・カトリーヌ・ド・ピエルヴィーヴ
- 夫
- ニコラ・グリエ
クラウディオ・ディ・サヴォイア - 子
- イザベッラ・グリエ
フィリッポ・グリエ
マリーア・グリエ
カルロ・マッシミリアーノ・グリエ
概要
マリーア・ゴンディは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
年表
1530年頃
生(1542年、1543年)。
1551年7月18日
ブロワ城にて、ニコラ・グリエと結婚式を挙げる。後のフランス王フランソワ2世と妻メアリー・スチュアートも列席。
155?年
フランス宮廷に入り、フランソワ1世の娘マルグリット・ド・ヴァロワ付き侍女となる。
155?年
イザベッラ・グリエを出産(1551年)。
1554年
フィリッポ・グリエを出産。
1555年
マリーア・グリエを出産。
1557年6月
マリーア・ゴンディが5人目の子を身ごもっている時、夫ニコラ・グリエ、死。
1558年
5人目の子カルロ・マッシミリアーノ・グリエを出産。
1559年7月10日
マルグリット・ド・ヴァロワがエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアと結婚。
結婚式に後に夫となるクラウディオ・ディ・サヴォイアも列席。
マリーア・ゴンディはピエモンテへマルグリット・ド・ヴァロワに供せず。
1562年
カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイアを出産後のマルグリット・ド・ヴァロワとエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアが、フォッサーノに引っ越す。
1562年8月
マリーア・ゴンディがピエモンテに到着。
マルグリット・ド・ヴァロワの第一侍女として、サヴォイア宮廷に入る。
1562年
フォッサーノ到着。
156?年
クラウディオ・ディ・サヴォイアがピエモンテに到着して数か月後、彼と結婚(1576年以降)。以後ピエモンテに住み続ける。
1563年
この年には、カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイアの後見人となる。
1574年
マルグリット・ド・ヴァロワとエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアが人事異動を行い、息子カルロ・エマヌエレ1世・ディ・サヴォイアのために新宮廷を作る。マリーア・ゴンディはその新宮廷の官長を任せられる。
1576年8月30日
遺言書を作成。
1580年5月
おそらくラッコニージにて、死(1603年2月)。
備考
塩野七生著『愛の年代記』収録の『エメラルド色の海』にて、マルグリット・ド・ヴァロワの代わりにウルグ・アリに会ったのは、このマリーア・ゴンディではなく、フィリッポ・ディ・サヴォイア=ラッコニージの妻パオラ・コスタである。
1560年6月にマリーア・ゴンディはまだサヴォイア宮廷にはいなかったが、パオラ・コスタは1560年春にニースにおり、『Histoire généalogique del Guichenon』に「dama di Racconigi」との記載があり、当時のmadama di Racconigiとはパオラ・コスタのことであるから、間違いないようである。
別表記
ピアンカリエリ伯爵夫人マリア・デ・ゴンディ
外部リンク
Geneanet
GENEALOGIE DELLE FAMIGLIE NOBILI ITALIANE
Treccani
参考文献
『愛の年代記』
アガメンノーネ・マレスコッティ Agamennone Marescotti
- 生没
- 1434年頃~1501年5月3日
- 出身
- ボローニャ
- 父
- ガレアッツォ・マレスコッティ
- 妻
- エミーリア・ダル・リーノ
- 子
- ガレアッツォ・マレスコッティ
アウレリア・マレスコッティ
ラウラ・マレスコッティ
テオドーラ・マレスコッティ
概要
アガメンノーネ・マレスコッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。ボローニャをチェーザレ・ボルジアに引き渡すべく陰謀を企んだとして、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに数人の兄弟たちと共に殺害される。アガメンノーネ・マレスコッティの陰謀が事実だったのかどうかは不明。
年表
1434年頃
ボローニャにて生。ガレアッツォ・マレスコッティの長男で庶出。
1464年11月~1464年12月
アンツィアーニに選出される。
1466年9月7日
エミーリア・ダル・リーノと結婚。
1466年10月2日
兄アキッレ・マレスコッティと共に法律を学び、この日、卒業。
1467年9月~1467年10月
アンツィアーニに選出される。
1469年9月12日
候補者の策略により2回投票と選出が行われたが、市民法博士会員に亡くなったボルニオ・ダ・サラに代わって選出される。
1471年1月31日
ボローニャのアンツィアーニ宛に手紙をしたためる。フィレンツェのポデスタ選出に際して、36歳と記述。
1471年
父ガレアッツォ・マレスコッティのシクストゥス4世との友人関係により、ローマ元老院議員に任命される。
1480年3月~1480年4月
アンツィアーニに選出される。
1488年11月
マルヴェッツィ家と共謀し、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオに対する陰謀を企てるが失敗。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは凄惨な粛清を行うが、アガメンノーネ・マレスコッティは父ガレアッツォ・マレスコッティの利点のおかげで逃れる。
1494年
1496年8月~1496年12月
1497年1月
ボローニャ帰還。証拠はないものの追放されたマルヴェッツィ家と手紙で連絡を取っているのではないかと懐疑的に迎え入れられる。危険を承知でボローニャに住む。
1500年
1501年
ボローニャに住む。
1501年2月
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにより、きょうだいジアゾーネ・マレスコッティ、甥アゲジラーオ・マレスコッティ、甥ルドヴィーコ・マレスコッティ、きょうだいティデオの息子たちと共に拘留される。Sedici del Reggimentoに召喚され、敵軍をボローニャに招き入れるためチェーザレ・ボルジアと通じようとしていると追及される。
1501年4月27日
再び親族と共に拘留される。
1501年5月1日
4日間取り調べを受けた後、親族と共に釈放される。
1501年5月3日
口実をつけて親族と共に逮捕され、収監場所で貴族たちを従えたエルメス・ベンティヴォーリオに親族ともども殺される。
別表記
マリスコッティ、Mariscotti
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ベリザーリオ・ヴィンタ Belisario Vinta
- 生没
- 1542年10月13日~1613年10月14日
- 出身
- ヴォルテッラ
- 妻
- アレッサンドラ・ディ・アントーニオ・バルトリーニ・バルデッリ
- 子
- アントン・フランチェスコ・ヴィンタ
エリザベッタ・ヴィンタ
トンマーザ・ヴィンタ
概要
フランチェスコ1世・デ・メディチの秘書官。
年表
1572年
アレッサンドラ・ディ・アントーニオ・バルトリーニ・バルデッリと結婚。
1584年2月17日
友人宛書簡をしたためる。ヴィンチェンツォ・ゴンザーガの男性能力を証明するための試験に相応しい女性として、健康で、見目麗しく、エレオノーラ・デ・メディチと同年齢(17歳くらい)の処女を探して欲しいと、トスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチとマントヴァ公グリエルモ・ゴンザーガから頼まれたことを書いている。
1584年2月21日(火)
フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。ピエロ・カッペッロと共に、捨て子養育院などの施療院で探し回り、見た目は悪くないが21歳の女性を発見したことを報告。
1584年2月22日(水)
その21歳の女性、ジューリア・デリ・アルビッツィを自分の屋敷に連れてくる。
夜、フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。ジューリア・デリ・アルビッツィの人物像などを報告。聖週間までに試験を終わらせられるか心配している。
1584年2月23日(木)
フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。マルチェッロ・ドナーティがジューリア・デリ・アルビッツィを見定めるためにフィレンツェに来て、もっと美しければよかったが、彼女でよいとする。
1584年2月24日(金)
フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。
1584年3月10日(土)
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡を短くもう1通したためる。
1584年3月11日(日)
夜、別室で控える中試験が行なわれ、ヴィンチェンツォ・ゴンザーガがお腹を押さえながら部屋から出てきた時、ジューリア・デリ・アルビッツィに付き添っていた女性が調べるが、彼女はまだ処女であるという。
1584年3月12日(月)
朝、フランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。試験が失敗に終わったことを報告。
1584年3月14日(水)
夜、再び別室に控える中、試験が実施される。成功する。
1584年3月16日(金)
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。1584年3月15日に書き留めていた、ジューリア・デリ・アルビッツィに対する詳細かつ執拗な問答の内容を報告。
1584年3月17日(土)
ヴェネツィアでフランチェスコ1世・デ・メディチ宛書簡をしたためる。
1584年3月18日(日)
夜、試験の成功を確かなものとするため、もう1度実施される。
外部リンク
Google Books - Bibliotechina grassoccia
Google Books - Il Bibliofilo: Giornale dell'arte antica e moderna
Google Books - Lost Girls: Sex and Death in Renaissance Florence
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
Scientific Itineraries in Tuscany
The Medici Archive Project
参考文献
『愛の年代記』
『Bibliotechina Grassoccia』
『Lost Girls』
『Pompeo Caccini and Euridice』
コーラ・モンターノ Cola Montano
- 生没
- 1400年代前半~1482年3月
- 出身
- ガッジョ・モンターノ
概要
人文主義教師コーラ・モンターノは、生徒のジローラモ・オルジアーティにローマ共和政の理念、暴君殺害を吹き込んだ。そして、1476年12月26日、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは暗殺された。
経歴
1462年頃、進取の気性に富んだコーラ・モンターノは、ボローニャの近くにある山の村から、ミラノに移った。その地で古典ラテン語修辞学を教え始め、高い身分の若者を惹きつけた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに気に入られて庇護を受け、1468年10月14日に修辞学の教職の地位を得る。それから4年後の1472年には、幾人かの人物と共同で印刷所を設立。
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァへの憎悪
コーラ・モンターノのこのような成功は文学界で猛烈な嫉妬を呼び寄せ、多くの敵を作ることになる。これらの敵は宮廷内に友人を持っていて、彼の幸運にも陰りが生じ始めた。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァもまた背を向け始め、1474年、つまらぬ口論が元で短い期間牢獄へ送られる。1475年5月、突然パヴィアに召喚され、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、人々を堕落させたとして告発される。告発を否定するが投獄され、皆の前で裸の尻を鞭打たれる。この屈辱のためにガレアッツォ・マリーア・スフォルツァに対し、激しい憎しみを抱く。
ジローラモ・オルジアーティはガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ殺害はコーラ・モンターノの教えによるものだとしているが、彼が実際にどこまで暴君殺しを教唆したのかについては不明である。
年表
1462年頃
ミラノに移住。古典ラテン語修辞学を教える。
1468年10月14日
修辞学の教職の地位を得る。
1472年
何人かと共同で印刷所を設立。
1474年
短い期間牢獄へ送られる。
1475年5月
パヴィアに召喚され、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより人々を堕落させたとして告発される。
告発を否定するが投獄され、皆の前で裸の尻を鞭打たれる。
1475年6月頃
ミラノ公国からボローニャへ追放される。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。ジョヴァンニ・アンドレア・ランプニャーニとその使用人フランツォーネ、ジローラモ・オルジアーティ、カルロ・ヴィスコンティの手により、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは暗殺された。
1478年4月26日
1478年7月
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと共にウルビーノを出発。トスカーナ出征の初期段階の間は同行していた。
14??年
ピストイアが降伏する覚悟でいることをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに知らせるが、フィレンツェ共和国に完全な壊滅ではなく、規模の縮小を望んでいた彼はその迅速な勝利にも熱狂しなかったという。
14??年
ジローラモ・リアリオに会い、多くの人々はフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロはロレンツォ・イル・マニーフィコの敵だと思っているがそうではないことを伝える。
1482年2月
ジェノヴァからローマへ旅している間、フィレンツェ共和国の諜報に密かにつけられる。
1482年2月12~15日
ポルト・エルコーレ近郊のフィレンツェ共和国領内にて取り押さえられ、直ちにフィレンツェへ移送される。ジローラモ・リアリオに雇われ、パッツィ家の陰謀に関わっていたという容疑による。
1482年
この頃、拷問され、フィレンツェ共和国及びロレンツォ・イル・マニーフィコに対する依然として続けられていた陰謀活動について白状させられる。
1482年3月
反逆罪により絞首刑。バルジェッロの窓から吊るされる。
別表記
コーラ・デ・モンターニ
本名
Nicola Capponi da Gaggio
外部リンク
Storia di Milano
Treccani
Wikisource
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『April Blood』
エレオノーラ・マルッリ Eleonora Marulli
- 生没
- 15??年~
- 父
- ヴィンチェンツォ・マルッリ
- 母
- ポルツィア・カラーファ
- 夫
- ジョヴァンニ・バッティスタ・ボルジア
- 子
- ピエトロ・ボルジア
概要
エレオノーラ・マルッリは、16世紀頃のイタリアの女性。母方の再従兄ジョヴァンニ・バッティスタ・ボルジアと結婚。
別表記
Leonora Marullo
外部リンク
ファブリツィオ・カローゾ Fabrizio Caroso
- 生没
- 1526年~1605年以降
- 出身
- セルモネータ
概要
ファブリツィオ・カローゾは、16世紀から17世紀のイタリアの男性、舞踏家。
年表
1526年~1531年
セルモネータにて、生。
別表記
ファブリティオ・カローゾ、Marco Fabritio Caroso
外部リンク
参考文献
『ルネサンス舞踊紀行』
パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリ Paolo dal Pozzo Toscanelli
- 生没
- 1397年~1482年5月10日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
概要
パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、天文学、数学、地理学者。
年表
1450年頃
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に、太陽グノモンを設計(1475年)。
1474年
ポルトガルの聖職者Fernão Martinesへの手紙で、東アジアへの最短コースはポルトガルが行なっているアフリカ周航コースではなくイベリア半島の緯度に沿って西に航海するコースであると説く。(コロンブスはこの説を知って西航計画を誘発されたと言われる)。
1482年5月10日
フィレンツェで死。
作品
外部リンク
ウィキペディア
La Terrazza di Michelangelo
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス精神の深層』
フランチェスカ・ダ・ポレンタ Francesca da Polenta
- 生没
- 1259年~1285年
- 出身
- ラヴェンナ
- 没地
- リーミニ
- 父
- グイド・ミノーレ・ダ・ポレンタ
- 母
- ?・フォンターナ
- 夫
- ジャンチオット・マラテスタ
- 子
- コンコルディア・マラテスタ
概要
フランチェスカ・ダ・ポレンタは、13世紀のイタリアの女性。
ジャンチオット・マラテスタの最初の妻の名前がフランチェスカであることは義父マラテスタ6世・マラテスタの遺言書に記載があるものの、『神曲』の注釈者たちが断定するようにグイド・ミノーレ・ダ・ポレンタの娘かを保証する記録はない。
『神曲地獄篇』第5歌
ラヴェンナ出身のフランチェスカが不倫が原因で殺されたという記述があるだけで、夫や一緒に殺された不倫相手の名前など一切触れられていない。注釈者のみがジャンチオット・マラテスタの妻フランチェスカと特定しているのであり、それを保証するような文書は存在しない。さらに、本文にはランスロットの恋の物語を2人で読んだことをフランチェスカに語らさせることによって、彼女は既婚者で地獄で一緒にいる彼とは不倫だったことが仄めかされているわけだが、義兄であったなどという表現はない。もし彼女がフランチェスカ・ダ・ポレンタだとすれば、夫が再婚する1286年までに亡くなっているはずだから、地獄篇執筆開始時期とされる1304年から約20年も昔の出来事ということになる。そこまで記憶に残るような印象的な事件だろうか。道ならぬ恋の相手が義兄だったならば、そのことをこそ書かないだろうか。
年表
1259年
ラヴェンナにて、生(1260年)。
1275年
父グイド・ミノーレ・ダ・ポレンタが、ジャンチオット・マラテスタの騎兵隊の支援を得て、ラヴェンナを征服。
1275年頃
15~16歳で、ジャンチオット・マラテスタと結婚。
1283~1286年
リーミニにて、死。
別表記
フランチェスカ・ダ・リミニ、Francesca da Rimini
外部リンク
フランチェスコ・カウッツィ Francesco Cauzzi
- 生没
- 1494年~1528年
- 父
- ジョヴァンニ・マリーア・カウッツィ
- 妻
- イザベッラ・ボスケッティ
概要
フランチェスコ・カウッツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
カルヴィザーノ伯
別表記
フランチェスコ・カルヴィザーノ、Francesco Cauzzi Gonzaga、Cauzzio
外部リンク
参考文献
『ルネサンスの華』
ガレアッツォ・カッターネオ Galeazzo Cattaneo
- 生没
- 1370年?~1406年
- 没地
- メドラーゴ
概要
ガレアッツォ・カッターネオは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。ブーシコーと渾名されるジャン2世・ル・マングルとの決闘で有名。
別表記
ガレアッツォ・ゴンザーガ
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
ジョヴァンニ・カンビ Giovanni Cambi
- 生没
- 14??年~1497年8月21日
概要
ジョヴァンニ・カンビは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1497年8月5日
メディチ派の陰謀。メディチ家復辟の陰謀が発覚し、官職の指導的地位を占める有力者を含む多数の者が逮捕される。
陰謀の首謀者として死刑を宣告されたベルナルド・デル・ネロ、ニッコロ・リドルフィ、ジャンノッツォ・プッチ、ロレンツォ・トルナブオーニ、ジョヴァンニ・カンビの5名、1495年3月19日の法によりコンシーリオ・マッジョーレへ提訴。
緊迫した険悪な空気が広まる中で市民の陰謀への恐怖と首謀者への憎悪募り、その提訴権の否認、反逆者への復讐の声が高まる。
1497年8月17日
シニョーリアは、プラティカを開催し対策を諮問。プラティカで首謀者の提訴権につき賛否両論対立。
1497年8月21日
フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。
別表記
Giovanni Cambo
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ベアトリーチェ・カーネ Beatrice Cane
- 生没
- 1372年頃~1418年9月13日
- 出身
- テンダ
- 没地
- ビナスコ
- 父
- ルッジェーロ・カーネ
- 夫
- ファチーノ・カーネ
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ
概要
ベアトリーチェ・カーネは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
別表記
ベアトリーチェ・ディ・テンダ、ベアトリーチェ・バルボ・ラスカリス、Beatrice Balbo Lascaris
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエロ・ダ・ヴィンチ Piero da Vinci
- 生没
- 1426年~1504年7月9日
- 父
- アントーニオ・ダ・ヴィンチ
- 母
- ルチア・ゾージ
- 妻
- アルビエーラ・アマドーリ
フランチェスカ・ランフレディーニ
マルゲリータ・ジュッリ
ルクレツィア・コルティジャーニ - 女
- カテリーナ・リッピ
- 子
- レオナルド・ダ・ヴィンチ
アントーニオ・ダ・ヴィンチ
マッダレーナ・ダ・ヴィンチ
ジュリアーノ・ダ・ヴィンチ
ロレンツォ・ダ・ヴィンチ
ヴィオランテ・ダ・ヴィンチ
ドメニコ・ダ・ヴィンチ
マルゲリータ・ダ・ヴィンチ
ベネデット・ダ・ヴィンチ
パンドルフォ・ダ・ヴィンチ
グリエルモ・ダ・ヴィンチ
バルトロメオ・ダ・ヴィンチ
ジョヴァンニ・ダ・ヴィンチ
概要
ピエロ・ダ・ヴィンチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、公証人。
年表
1452年
アルビエーラ・アマドーリと結婚。
1464年
妻アルビエーラ・アマドーリ、死。
1465年
フランチェスカ・ランフレディーニと結婚。
1475年
マルゲリータ・ジュッリと結婚。
1485年
ルクレツィア・コルティジャーニと結婚。
外部リンク
ジローラモ・ジリオーロ Girolamo Ziliolo
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ジローラモ・ジリオーロは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。フェッラーラ公国侍従長として、宮廷に華を添える貴重な装飾品の入手、保管、修理を担当。
職歴
フェッラーラ公国侍従長 1485年~1502年
年表
1504年6月15日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。評価の高い芸術家エルコーレ・デイ・フェデーリは、どうしようもない嘘つきであると報告。
1504年8月22日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。イザベッラ・デステの腕輪の制作が遅れていることについて、ルクレツィア・ボルジアの前でエルコーレ・デイ・フェデーリを叱責。腕輪に専念しないことで、実際にはイザベッラ・デステの実家であるエステ家を支配する者に対して無礼を示しているのだから、この金細工師は「塔の地下に投獄」されるのが当然だと、フェッラーラの現公妃であるルクレツィア・ボルジアに語った。しかし、他の後援者たちから時間を割くよう要求されているため、全責任が彼にあるというわけではないと報告。
1504年8月28日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリが腕輪を20日以内に完成させると約束したと報告。
1504年9月22日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。腕輪の約束の期限が過ぎたが完成していなかったので、エルコーレ・デイ・フェデーリを投獄しようとの工房を訪問。そこで、彼がルクレツィア・ボルジアとイッポーリト・デステからの依頼で多忙であることに気づき、投獄を思い留まる。腕輪はほとんど完成しており、素晴らしい出来なので、イザベッラ・デステに待つことを勧める。
1504年11月24日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリの腕輪の完成をアルフォンソ1世・デステが監督していることを保証。
1505年1月19日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。アルフォンソ1世・デステの命でエルコーレ・デイ・フェデーリが投獄。
1505年5月29日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリの腕輪について、アルフォンソ1世・デステに干渉してもらうよう手紙を書いて促すことを助言。
1505年6月12日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリの長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが投獄されたことを報告。
1505年6月26日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリも投獄され、腕輪を完成させるまで釈放されないと報告。
1505年8月17日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリから完成した腕輪を受け取った。この街で生み出されたことがないほど洗練された優雅な作品。視察に来たアルフォンソ1世・デステが特定箇所のエナメル加工にこれ以上時間を費やさないようにと親子に命じていた。ベルリグアルドの別荘に行き、アルフォンソ1世・デステに腕輪を見せると、公爵は出来栄えに満足し、イザベッラ・デステに送るよう命じた。エルコーレ・デイ・フェデーリは息子が投獄されたことを非常に悲しんでいたと報告。
1506年4月20日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリの健康状態が悪化しており、金の容器の詳細について話し合うためにマントヴァに赴くことは不可能。代わりに息子アルフォンソ・デイ・フェデーリを送ることを申し出ている。エルコーレ・デイ・フェデーリの病気は、有毒ガスに晒され続けたことによる職業病ではないか。
1507年9月30日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。記章の制作に必要な金をエルコーレ・デイ・フェデーリの息子アルフォンソ・デイ・フェデーリに提供。速やかに納品させることを約束。
1507年11月1日
エルコーレ・デイ・フェデーリ作の記章をマントヴァに送る。
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。記章を制作するために掛かった経費の詳細な計算を記載。
1507年11月29日
エルコーレ・デイ・フェデーリに貸付金があるため、ルクレツィア・ボルジアからの報酬を代わりに受け取る。
1515年12月17日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。指示通りエルコーレ・デイ・フェデーリ宅を訪問した。提供した金を使った香水入れは未完成だった。長く深刻な病気と、ルクレツィア・ボルジア依頼の仕事で多忙だったことが原因。
1516年3月12日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリを訪問し、香水入れが完成していないことを指摘した。投獄する必要性があるが、そうすると家族とおそらく彼の人生の破滅をもたらすだろう。長い間病気で、回復も不十分で、ちょっとした動揺で地面に叩きつけられてしまう。金の蓋は作業が完了すれば素晴らしいものになるので、終わらせるよう促し続けるつもりである。不完全な段階で取り上げるのは正しいとは私には思えないが、回収を命じられれば従う。
1519年3月19日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。イザベッラ・デステの手紙と釦の試作品を騎士から受け取った。エルコーレ・デイ・フェデーリがフェッラーラにいないため、息子であるアルフォンソ・デイ・フェデーリに釦の試作品を渡し、イザベッラ・デステの指示を説明した。アルフォンソ・デイ・フェデーリは父親には及ばないが、若く健康。
1519年3月29日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。アルフォンソ・デイ・フェデーリが釦を完成。昼夜問わずに仕事に励んでいた。
1519年4月14日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。
1519年4月19日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。腕輪は未完成。貧困がエルコーレ・デイ・フェデーリの仕事の進捗に貢献している。
別表記
Ziliolo Zilioli
外部リンク
ジロラーモ・マニャニーニ Girolamo Magnanini
- 生没
- 14??年~15??年
概要
ジロラーモ・マニャニーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。アルフォンソ1世・デステの秘書官。
年表
1491年10月10日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリの洗礼式について報告。
1504年10月14日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。
1504年10月15日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。
1504年11月4日
エルコーレ・デイ・フェデーリの工房を訪問。
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリの工房に音を立てずに入った。エルコーレ・デイ・フェデーリと長男アルフォンソ・デイ・フェデーリが働いていた。非常に繊細な仕事であり、時間をかける必要があることを候妃は理解しているはずだが、美しい作品が仕上がるだろう。仕事の進捗を早めるために、彼に圧力をかけるつもりであると報告。
1504年11月11日
エルコーレ・デイ・フェデーリの工房を訪問。
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ・デイ・フェデーリに新たな納品日の約束を要求するが、拒否された。代わりに夜も作業を約束させた。最終的に候妃に相応しい作品ができるだろうと報告。
1505年1月19日
イザベッラ・デステ宛てに手紙を書く。アルフォンソ1世・デステの命でエルコーレ・デイ・フェデーリが投獄。
別表記
Girolamo Magnanino
外部リンク
参考文献
『Cesare Borgia: duca di Romagna』
『Gazette Archéologique, vol XIII』
『Lucretia Borgia』
フランチェスコ・ジノーリ Francesco Ginori
- 生没
- 15??年~1574年
- 父
- ヤコポ・ジノーリ
概要
フランチェスコ・ジノーリは、16世紀のフィレンツェ共和国の男性。ベルナルディーノ・アンティノーリに殺害される。
別表記
Checcino Ginori、Francesco di Iacopo Ginori
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『La basilica di S. Lorenzo di Firenze e la famiglia Ginori』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年7月17日