Ippolito d'Este

イッポーリト・デステ

生没
1479年3月20日~1520年9月3日
出身
フェッラーラ
没地
フェッラーラ
エルコーレ1世・デステ
エレオノーラ・ダラゴーナ
ルドヴィーコ・デステ
エリザベッタ・デステ

概要

 イッポーリト・デステは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、枢機卿。

性格

 数ある同僚たちの中でも最も慇懃かつ皮肉屋で、また最も放埓な枢機卿として知られた。

在位

 エステルゴム教区長 1487年5月21日~1497年12月20日
 枢機卿(任命アレクサンデル6世) 1493年9月20日~1520年9月3日
 サンタ・ルチア・イン・シリーチェ助祭枢機卿 1493年9月23日~1520年9月3日
 ミラノ大司教 1497年11月8日~1519年5月20日
 エゲル教区長 1497年12月20日~1520年9月3日
 サン・ピエトロ大聖堂主席司祭 1501年9月~1520年9月3日?
 カプア教区長 1502年7月20日~1520年9月3日
 フェッラーラ教区長 1503年10月8日~1520年9月3日
 首席助祭枢機卿 1519年6月~1520年9月3日

年表

1479年3月20日

フェッラーラにて、生。

1493年9月20日

アレクサンデル6世により、枢機卿に叙任される。

1499年

特製の剣を注文したことで、父エルコーレ1世・デステから叱責される。

1501年9月17日

オルシーニ家からボローニャの公使職を受け取る。

1501年9月

サン・ピエトロ大聖堂主席司祭に任命される。

1501年

ローマに邸宅を所有。

1501年12月8日

習慣に従って、通過していく先々の客となる花嫁ルクレツィア・ボルジア出迎えの一行全員に食糧と衣類の世話をすることを任務とする家令や執事からなる一隊が、フェッラーラを出発。

1501年12月9日

花婿アルフォンソ1世・デステを伴ってエルコーレ1世・デステがチェルトーザの自邸で合流。自身と公爵家の5人を先頭に、兄フェッランテ・デステ、弟シジスモンド・デステニッコロ・マリーア・デステメリアドゥーセ・デステ、コレッジョの君主、ミランドラの君主、モデナのランゴーネの君主、カルピのピオ家の者、べヴィラクア、ロベレッラ、サグラートの君主たち、フェッラーラのストロッツィ、アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオなどが陣容。13人のトランペット奏者、8人の横笛奏者を先頭にして行進。フェッラーラ市内を横切り、カステル・テダルド橋で、エルコーレ1世・デステアルフォンソ1世・デステに見送られる。

1501年12月10日

ボローニャ到着。ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオアンニーバレ2世・ベンティヴォーリオ父子の出迎えを受ける。アンニーバレ2世・ベンティヴォーリオローマまで同行。

1501年12月半ば

フィレンツェ到着。

1501年12月17日

ポッジボンシ到着。

夕方、シエナ到着。

1501年12月20日

ボルセーナ湖岸を進む。

1501年12月22日

花嫁出迎えの一行はロンチリオーネを出発し、モンテロージに到着。この地から先触れとして使者をローマに送り、教皇アレクサンデル6世の指示を仰ぐ。ポポロ門から入るよう指示される。

1501年12月23日

晴天。8時頃、フェッラーラの一行5百名はミルヴィオ橋の袂に到着。近くの邸宅で朝食が給される。

教皇の式典係の一隊を待ち、10時頃動き出す。貴族たち、ついで枢機卿が行き、その両側をフェッランテ・デステシジスモンド・デステが並んで進む。さらに、メリアドゥーセ・デステ司教とニッコロ・マリーア・デステ司教、新任のローマ駐在フェッラーラ大使ベルトランド・コスタビリ、公国顧問ジャンルカ・カステッリーニ、その他の貴族が続き、従者や馬丁がしんがりを務める。ミルヴィオ橋を渡ると、フアン・デ・ボルハ枢機卿、ジョヴァンニ・スフォルツァジョルジョ・コスタ枢機卿、サンタンジェロ枢機卿の代理人らが前に進み出て、不在の本人たちに代わり謝罪を伝え、挨拶と祝辞を述べる。ローマ知事、評議員、管理人、教皇庁尚書官、同書記官、教皇代書生、そして教皇の「家族」全員が、次々と進み出る。最後に、ポポロ広場の近くで、チェーザレ・ボルジア所有の騎馬の一隊が姿を見せ、たくさんの軍馬の一頭一頭を進ませたり退かせたりして、入念が紹介がされる。そのすぐ後から、煌びやかに着飾り、衣服に金銀宝石をちりばめ、「翼が生えているような」駿馬に跨ったチェーザレ・ボルジアが現れる。その周囲を黄と黒の教皇庁の制服を纏った80名の矛槍兵が取り巻き、その後には徒歩と騎馬の4千名の騎士が続く。チェーザレ・ボルジアとの抱擁と儀式を行い、ついで、チェーザレ・ボルジアと並んで立ち、その後ろにフェッランテ・デステシジスモンド・デステ、フランス及びスペインの大使が立った。ディ・アドリア卿の傍らには、ローマ知事、コマッキオの司教、教皇秘書官アドリアーノ・ダ・カステッレジ、さらにイギリス王の代理が並んだ。ポポロ門では、19名の会員からなる枢機卿会の挨拶が行われた。そして、膝を折っての敬礼、演説、儀式が繰り返された。「我々は、トランペット、風笛、ホルンに迎えられて、ローマの最も美しい通りを通って教皇館に着いた」。先頭の騎馬がサンタンジェロ門にちょうど差し掛かった時に、臼砲が放たれる。サン・ピエトロ広場で、各国大使と枢機卿の一部が辞去。

アレクサンデル6世の足と手へ接吻し、両腕での抱擁を受ける。フェッランテ・デステシジスモンド・デステも同様にする。全ての貴族が、教皇の白いスリッパに触れることを許され、競ってその足下へ駆け寄る。最後に、教皇は全員に祝福を授けた後、12本ずつの松明の束に火を点させ、人々を花嫁のもとへ移るよう促す。

フェッラーラ一行の中の主だった者だけが、チェーザレ・ボルジアに導かれて、サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に行く。愛用の暗褐色に紫が混じった錦の衣服を纏い、黒貂の皮で裏打ちされた金糸のマントで肩を覆い、縁に宝石をちりばめた緑の絹のヘアネットで髪を包み、首には真珠とルビーの首飾りを垂らしたルクレツィア・ボルジアが、黒い服を纏った白髪の貴族に腕を預けて、正面階段の上に現れる。夜会の最後に、彼女から杯、水差し、銀皿が贈られる。

フェッラーラ一行は、サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿ヴァティカン宮殿、ベルヴェデーレなどに分宿。

夜、ローマにて姉イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。

1501年12月28日

夜、チェーザレ・ボルジアフェッランテ・デステと共に、仮面を被って街へ繰り出す。

1501年12月30日

夜、サン・ピエトロ大聖堂にて、兄フェッランテ・デステを花婿の代理人とした、兄アルフォンソ1世・デステルクレツィア・ボルジアの結婚式に参列(1501年12月29日)。

1502年1月6日(木)

出発するルクレツィア・ボルジアを見送った後、チェーザレ・ボルジアと共にヴァティカンに戻る(1502年1月5日)。

1502年1月16日

ローマにてルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。彼女の息子ロドリゴ・ダラゴーナを訪問すると、彼は眠っていた。

1502年2月9日

ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。アレクサンデル6世に、チェーザレ・ボルジアフランセスク・デ・ボルジャサンチャ・ダラゴーナとの夕食に招待された。

1502年7月20日

カプア教区長に指名される。

1502年夏以降

エルコーレ1世・デステの政治方針が原因で、アレクサンデル6世との関係が悪化し始める。

1503年2月15日(水)

フェッラーラに向け、ローマ出発(1503年春)。

1503年9月16日~1503年9月22日

コンクラーヴェに不参加。フィレンツェに到着した際に馬から落ちて脚を骨折したことが原因とされる。

1503年10月8日

フェッラーラ教区長に任命される。

1503年10月31日~1503年11月1日

コンクラーヴェに参加。ジューリオ・デステローマに同行。

1503年

アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの助力を得て、兄フェッランテ・デステユリウス2世の娘の結婚を企図するが、教皇庁フェッラーラミラノ公国の関係が悪化したため頓挫。

1503年12月10日

フェッラーラへ向け、ローマ出発。

1504年1月

ミラノで総督シャルル・ダンボワーズ と何度も会談。

1505年春

イーモラユリウス2世に合流した際、アルベルト3世・ピオから「まるで女性のよう」と、当時の流行に反して髪を長く伸ばしていることを揶揄われる。

1505年

マリオ・エクイコーラをブロワに派遣。

1505年10月12日

フランスとスペインが第二次ブロワ条約締結。

1505年11月3日

使用人たちに異母兄ジューリオ・デステを襲撃させる。

1505年11月

マントヴァに避難。

1506年7月

エステ家の内紛:兄フェッランテ・デステと異母兄ジューリオ・デステアルフォンソ1世・デステとイッポーリト・デステの殺害を企んだが発覚。両名、死刑の宣告を受けるがアルフォンソ1世・デステの取り成しにより終身刑に処される。

1516年4月

ルドヴィーコ・アリオストOrlando furioso(狂乱のオルランド)をフェッラーラで刊行。枢機卿イッポーリト・デステに献上。

1520年3月

フェッラーラに戻る。

1520年9月3日

フェッラーラにて、ザリガニを食した後、死。

作品

別表記

 イッポリート

外部リンク

 世界帝王事典
 Find A Grave
 GCatholic.com
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年5月9日