- 生没
- 1445年~1510年10月11日
- 出身
- ポントレーモリ
- 没地
- ボローニャ
概要
ジャンルカ・カステッリーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、トスカーナ貴族。ローマ駐在フェッラーラ公国大使。
在位
レッジョ・エミーリア司教 1508年~1510年
年表
1501年12月23日
夜、ローマにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。秘書の代筆に自身が若干手を加え署名。ローマ入りの儀式についての長文の描写。モデナ古文書保管所に2部現存。
夜、ローマにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。直筆で、ルクレツィア・ボルジアについての情報に全文を当てている。モデナ古文書保管所所蔵。
ご主人様へ。ジェラルド・サラチェーニと夕食を共にした後、我々は閣下とアルフォンソ1世・デステ殿下の名の下にルクレツィア・ボルジアを表敬いたしました。多岐にわたって長い会話が持たれました。彼女は聡明で愛らしく、ことのほか思いやりのある淑女でございました。そのような次第で、閣下とアルフォンソ1世・デステ殿下が大変満足されるであろうと、我々は結論付けました。あらゆる所作において極めて優雅であるばかりか、謙虚で愛嬌があり、上品であられます。また、献身的で信心深いキリスト教徒です。明日は告解に行き、降誕祭の週に聖体を拝受されます。とてもお美しいですが、所作の魅力の方が優っています。短く言えば、彼女の人格は「邪悪」さを疑うことなど不可能で、それどころか良い部分のみ見出せます。この手紙で正確な真実を述べることが我々の使命だと心得ます。閣下の寛大なご慈愛を。
1501年12月25日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。フェッラーラの公子たちはヴァティカン宮殿に滞在し、他の貴族たちはベルヴェデーレに滞在。市民たちに扶養され、歓待された。その間、教皇アレクサンデル6世はまるで国事のように彼らの個人的な事柄を処理し、宮廷人から税を徴収して支出を賄う。この宮廷人たちはそれにもかかわらず、豊かな生活をし、教皇のおかげでより富をなしている。商人たちは同じく教会の催し物の経費を負担する義務がある。宮廷人の多くはフェッラーラ人たちを歓待することに苦情を言い、不十分にしかなされていなかったので、教皇が干渉を余儀なくされた。降誕祭行事の間教皇アレクサンデル6世はサン・ピエトロ大聖堂でミサを行う。公子たちが出席。エルコーレ1世・デステの大使たちは、成功した俳優の外見を言い表す方が適しているような言葉で、アレクサンデル6世が堂々としており、高徳でさえあったと描写。
1501年12月28日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアがフェッラーラに向かう時のための多くの乗り物はローマで作られ、150頭の騾馬が嫁入り衣装を運ぶ。アレクサンデル6世が許可するもの全てを持参。カミッロ・ベネイムベネが目録を作成するよう助言するも、教皇は拒否し、「所持品の扱いを彼女がしたいようにすることを望んでいるのだ」と話した。教皇はまた、彼女と彼女の召使いたちの衣装代に9千ドゥカートを渡した。フランス製の美しい椅子籠には、ウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガが、行進に加わった時にルクレツィア・ボルジアの隣に座ることになる。
1501年12月28日
ローマにて、ジェラルド・サラチェーニと連名でエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアはアレクサンデル6世に恥をかかせるようなことは一切しないと言い、「我々の見解では、そのような機会が訪れることはないでしょうし、長く接するほど、また生活を吟味すればするほど、彼女の美点、礼儀作法、慎み深さに対する評価が高くなってまいります。宮殿での生活は、キリスト者のそれというだけではなく、敬虔なそれでもあります」
1501年12月30日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
ルクレツィア・ボルジアに贈り物として結婚指輪を与えられると端的に記載されているが、他の贈り物については何も書かれていない、この結婚についての文書がございます。閣下の目的は、それ故、ぴったり叶えられます。何ら贈り物についての記載はないならば、閣下の心配は無用でございます。
1501年12月31日
夜、ヴァティカン宮殿にて、アレクサンデル6世と面談し、彼自身の枢機卿任命と、結婚協定の完全な履行の2点について協議。持参金10万ドゥカート金貨の支払いは、金の重さが両者は異なるため、ダ・カメラではなくラルギでなければならないと主張。教皇はこの主張を退けたが、彼がそれに固執するので、それなら法律家に問題を任せようと言った。「思うに、このことはもはや話題にならないでありましょうし、ラルギ金貨で支払われることもないでありましょう」。教皇がエステ家の非礼に大いに不満を示し、求められた持参金の他に2万5千ドゥカート分の利得にも同意したではないかと述べている、とエルコーレ1世・デステに書き送る。
1502年1月1日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。結婚の祝賀は何日間か続き、ローマ中がお祭り騒ぎに包まれていた。昨年末の頃フェデリーコ・サンセヴェリーノとチェーザレ・ボルジアは幾つかの演劇を催した。その内チェーザレ・ボルジアが主催したものでは、田園風景の牧歌で、エルコーレ1世・デステとフェッラーラの守護者としてアレクサンデル6世を羊飼いが称える歌を歌うものだった。
ヴァティカン宮殿の一室で、聖庁財務官と証人らを前にして、持参金のドゥカート金貨が入念に数えられ、幾つもの山に分けて卓上に並べられ始める。
1502年1月2日
ローマにて、ジェラルド・サラチェーニと連名でエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
今夜教皇の部屋でプラウトゥスの『Menaechmi』が上演され、奴隷、寄生者、パンドラとメナエクムスの妻はよく演じられておりました。メナエクムス兄弟たち自身は、しかしながら、よくありませんでした。仮面を被らず、それには部屋が小さすぎるため背景はございません。メナエクムスが狂っていると信じる義父の命令で捕らえられた時、彼は力を受けていると言い、加えて、「それは人知を超える、チェーザレ・ボルジアの強さ、ユピテルの慈悲深さとヘラクレスの優しさのために」と申しました。
この喜劇の前に次のような劇が上演されました。初めに登場したのは、女性の服を着た少年で美徳を具現し、運命も登場しました。彼らはどちらがより強いかお互いにからかいだすと、そこへ名誉が突然現れ、台車に置かれた球の上に立ち、「勝利はボルジアに座す」と言いました。光とも自身を呼ぶ名誉は、美徳を運命よりも重んじて、チェーザレ・ボルジアとエルコーレ1世・デステは美徳によって運命を克服したと言い、そこでロマーニャ公の数々の英雄談を述べました。獅子の毛皮と棍棒を携えたヘラクレスが現れ、ユノが彼を攻撃するように運命を送り込みました。ヘラクレスは、しかしながら運命を倒し、捕らえて鎖に繋ぎました。ユノは彼女を放すように懇願し、彼は、慈悲深くも親切にも、エルコーレ1世・デステ一家やチェーザレ・ボルジア一家を傷つけるような如何なることも彼女が行わないという条件の上で、要請に応じました。これに彼女は合意し、加えて2つの家門の結びつきを祝福するとも約束しました。
そして、ローマが他の台車に乗って入ってきました。ユピテルの座を占めるアレクサンデル6世がルクレツィア・ボルジアが行くことを許可するという、ローマに対して不当な行いを働いたと彼女は苦情を述べました。ルクレツィア・ボルジアを褒め称え、彼女は全ローマの避難所なのだと言いました。そこで、台車に乗ってはいませんでしたが、フェッラーラの化身がやってきて、不相応な町に住居を定めるわけではないし、ローマが彼女を失うことはないだろうと言いました。ローマとフェッラーラを宥めるために神々により遣わされたヘルメスが続き、彼女たちの希望に従ってルクレツィア・ボルジアは後者の町に行くのだとしました。そして、フェッラーラを名誉ある台車の上の彼の隣に座らせました。
全て洗練された六脚韻での説明に伴われながら、それはチェーザレ・ボルジアとエルコーレ1世・デステの同盟を祝い、後者の敵を共に打倒するものと予見するものでした。もしこの予言通りになれば、この結婚は我々に有利な結果をもたらすでしょう。閣下のお情けにすがります。
持参金が2万5千ドゥカートに達する。
1502年1月3日
持参金にさらに数千ドゥカートが加えられる。そのうちに「端を削られた」ものと偽の金貨が見つかったため、財務官は作業の速度を落とし、日が暮れた後松明の明かりで仕事を続けることは拒否。
1502年1月4日
持参金の勘定が続けられる。
1502年1月5日
フェッランテ・デステが持参金の総額を受け取る。
1502年1月6日(木)
ジェラルド・サラチェーニと連名でエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。1502年1月5日に持参金の残金がフェッラーラの大使たちに現金で支払われ、全ての用意は整った。ルクレツィア・ボルジアが教皇勅書を持参することになる。行進開始の準備ができた。
1502年1月13日(木)
フォリーニョにて、ジェラルド・サラチェーニと連名でエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
ご主人様へ。テルニからスポレートへ向かい、スポレートからは止まることはないでしょうと、ナルニにて書き送りましたが、ルクレツィア・ボルジア公爵と侍女たちはたいそうお疲れで、スポレートに1泊し、フォリーニョで1泊することになりました。それ故、明日までここを出発しないでしょうし、ウルビーノに1502年1月18日である次の火曜日より前に到着することはないでしょう。明日1502年1月14日はノチェーラに到着し、1502年1月15日土曜日にグァルド、1502年1月16日日曜日にグッビオ、1502年1月17日月曜日にカーリ、そして1502年1月18日火曜日にウルビーノに着きましたらもう1日休むことになりますので、それが1502年1月19日水曜日です。1502年1月20日にペーザロに向かい、そこから町から町へ、すでに閣下に書きました通りです。
しかしながら公爵は頻繁にお休みになられるでしょうし、その結果フェッラーラに末日か次の月の1日、おそらく2日、3日よりも前に着くことはないと、我々は確信しております。そのためここから閣下に手紙を送り、どこにいてどこに行くかをお知らせしておけば、閣下が最良だと思えるように取り計らいになられるだろうと、我々は考えました。もしフェッラーラに2日か3日までに到着して欲しくないならば、そのように計らうのは難しくないでしょう。ですが、今月末か2月初日に到着する方が良いならば、これまでしたように休む期間を短くするように努力致します。
このように述べましたのには、ルクレツィア・ボルジアは虚弱体質で、他の淑女と同じく鞍に慣れておられず、それにフェッラーラに到着した際に疲弊していたくはないと思っておられるようなのです。
殿下は全ての町で愛情の表現と名誉をもって迎えられ、女性たちから数々の贈り物を渡されました。全て彼女が居心地よいようにされております。どこでも歓迎され、また、スポレートの前知事としてよく人々に知られておりました。ここフォリーニョでは、ローマの外のどこよりも、より心のこもっていて、喜びの表明に溢れておりました。市の政府だけでなくコムーネの役人たちも呼ばれ、赤い絹を着て、歩いて彼女に会いに来て、広場の宿泊所まで付き添い、門のところでは、台車の上に乗り短剣を手にしたルクレティアにより、殿下が優雅、貞節、知性、思いやりに秀でているため、今の地位を勝ち取ったことを謳う幾つかの詩を暗唱されました。
クピドが台車に乗ったものもあり、天辺には黄金の林檎を手にしたパリスが幾つか韻文節をそらんじました。概要を申し上げますと、美においてはユノとミネルウァに唯一勝るウェヌスに林檎を約束しましたが、決定を翻し、3者を合わせても上回る美と知性と富裕と権力を有し、全ての女性の中で唯1人女神たちを超える殿下に贈りました。
ようやく広場では、武装したトルコのガレー船がやってきて、舷墻の上に立ったトルコ人の1人が韻文節を暗唱しました。スルタンはイタリアにおいてルクレツィア・ボルジアがどれほど力を持っておられるかご存じであり、あいさつと、主人がキリスト者から奪った全てのものを明け渡すだろうことを伝えさせるために彼を送った、という内容でございました。フランチェスコ・ペトラルカ風というわけにはいきませんでしたから、これらの詩を覚えるのに特に努力を払いませんでした。もっと言えば、この船の発想はあまりいいものとは思えず、場違いでした。
お伝えするのを忘れてはならないのは、ペルージアやそれぞれの城から君臨するバリオーニ家全員がやってきて、フォリーニョから4マイルほどのところでルクレツィア・ボルジアを待っていて、ペルージアへと招いたことです。
ナルニからの手紙に書きましたように、乗馬と陸上での移動による厳しさから逃れるために、ボローニャからフェッラーラへは水上で向かう意向に殿下は固執しておられます。
我らが聖下は殿下をとても心配なさっておられ、日々の、むしろ時間毎の旅の報告を要求なさり、全ての町から体調について彼女は自筆で手紙を書かなくてはなりません。よく閣下に申されていましたように、聖下は自分の血を分けた誰よりも彼女のことを愛しているという発言を裏付けるものです。
何かにつけこの旅についての報告を怠ってはならないでしょう。
テルニとスポレートの境、ストレットゥーラの谷で、シジスモンド・デステの馬丁の1人が、公爵の護衛の一員であるローマ人のステファノ・デイ・ファビイ配下の者と、コキジバトのことで激しい口論になりました。両者は腕を掴み合いになり、これまたシジスモンド・デステの配下の1人であるピツァグェッラが馬に乗って通りかかり、馬丁の頭を傷つけました。それ故、喧嘩っ早くてすぐにやり返すステファノ・デイ・ファビイはとても怒って、行進にはもはや同行しないと言い放ちました。アルボルノツィアーナ要塞に着く頃で、彼はシジスモンド・デステとフェッランテ・デステに話しかけないばかりか目も合わせず通り過ぎようとしました。事件の全ては誤解によるもので、皆とても後悔しましたが、ピツァグェッラと馬丁が逃げてしまったので、もはやどうしようもございませんでした。フランセスク・デ・ボルジャ枢機卿とルクレツィア・ボルジアや他の者も、ステファノ・デイ・ファビイが悪いと一致しました。そのため、彼は宥められ、旅を続けました。
追伸。聞くところによると、フランセスク・デ・ボルジャ枢機卿はウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの領地を通過するのは気が進まないそうです。
1502年1月22日
リーミニにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ペーザロでルクレツィア・ボルジアは誰とも会わず1日を過ごし、夜侍女たちには舞踏会で踊ることを許したが、自身は祭りには参加せず部屋に四六時中いた。「髪を洗うためと、それに孤独を好む傾向にあるためです」
1502年1月31日(月)
ベンティヴォーリオでエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。夕刻、ベンティヴォーリオの城に到着。到着後すぐにアルフォンソ1世・デステが突然現れる。ルクレツィア・ボルジアは激しく動揺するが、すぐに落ち着き、「尊厳と優雅さをもって」あいさつし、アルフォンソ1世・デステは優しく応えた。
別表記
ジャン・ルーカ・カステリーニ・ダ・ポントレモリ、Gianluca Pozzi、da Pozzo、da Pontremoli、Giovan Luca、Gianluca、Johannes Lucas、Johann Lucas
外部リンク
Google Books
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2010年10月11日