Gerardo Saraceni

ジェラルド・サラチェーニ

概要

 ジェラルド・サラチェーニは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、ローマ駐在フェッラーラ大使。

年表

1501年9月15日
エットーレ・ベリンジェーリと共にローマ到着。サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に滞在。
ローマにて、フェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアから「極めて快くしかも分別のある言葉をもって」迎えられた。
1501年9月16日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ヴァティカン宮殿では毎晩のように歌い、遊び、踊っている。教皇アレクサンデル6世の楽しみの1つは美しい女性たちが踊っているところを見ることであり、ルクレツィア・ボルジアと宮女たちが熱中している時に、教皇は抜かりなくフェッラーラ大使を呼び、娘の優雅さに気づくようにした。ある晩「公爵夫人は愚かではないことが分かるだろう」と教皇は笑いながら言った。
1501年9月16日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。チェーザレ・ボルジアが大使たちの謁見を許した時、服は着ていたがベッドに横になっていた。「彼は病気なのかもしれません。昨晩彼は休みなく踊り、今夜も教皇の宮殿で行われます」
1501年9月28日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「彼女の息子ロドリゴ・ダラゴーナがいる時、その意味を勘違いしたりしないような言い方で、ルクレツィア・ボルジアにご子息をどうすべきか話しますと、「ローマに残り、1万5千ドゥカートを受け取るでしょう」と返答なさいました」
1501年10月6日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。

 高名なる閣下へ。本日6時ヘクトールと私は教皇お1人だけといて、先月26日と今月1日の閣下のお手紙と、随行員の一覧を目を通していただきました。聖下は非常に満足なされ、裕福で地位の高いたくさんの人々と、聖下がすぐにお分かりになられたように、身分と地位は明確に示されておりました。閣下が教皇の全ての期待を凌駕なさったことを、確かな情報筋から聞き及んでおります。聖下と少しの間話し合った後、ロマーニャチェーザレ・ボルジアジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニが召喚されました。エルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリス閣下、フランソワ・トローシェ閣下と、アドリアーノ殿もおられました。教皇は一覧を2度お読みになり、再び称賛され、特にロマーニャ公は幾人かの人物と面識があるとおっしゃっていました。一覧を私に返されましたが、再び渡すと温かく感謝され、そのまま持っていらっしゃいました。
 公爵夫人ルクレツィア・ボルジアの随行員一覧を手に入れようと努力を払いましたが、あいにくまだ用意されてはおりませんでした。ローマの女性は乗馬がそれほど上手くないので、あまり多くの女性は随行しないだろうと、聖下はおっしゃっていました。これまでに公爵夫人は5、6人の宮女を抱えておられましたが、4人の非常に若い女性と3人の既婚女性は同行します。しかしながら、フェッラーラの多くの素晴らしい女性たちが奉仕するので、彼女たちを連れていかないように助言されております。フアン・ランソル・イ・モンカーダ枢機卿の妹で、オルシーニ家の者と結婚したジロラーマ・ランソルも連れていき、彼女の他3人が同行します。これまでいた信用できる女性のみです。ナポリで他を当たろうとしていると聞いておりますが、少数しか確保することはできないし、同行するだけに留まるでしょう。ウルビーノ公妃エリザベッタ・ゴンザーガは馬に乗った50人の護衛と共に来ることを期待するとおっしゃいました。男性陣に関しては、オルシーニ家の者以外のローマ貴族はいず、彼らは概して町の外にいるため、そんなに多くはいないと、聖下はおっしゃっておられました。それでも、追従者に多くの貴族を抱えているロマーニャチェーザレ・ボルジアが戦地に連れていかなかった、満足のいく、十分な数の貴族を揃えられるよう、聖下は期待しておられます。多くの司教や学者を送ることはできるが、このような任務に適した者たちではないとおっしゃいます。しかしながら、閣下が用意された随行員が両者に役立つことになるでしょう。特に、聖下によれば、花婿から多くの護衛を送られた方がよいであろうとのこと、また花嫁にとっては彼女がより少ない従者を連れてきた方がよいそうです。とは言え、彼女の随行員が2百名を下るだろうとは思えませんが。彼女はボローニャに向かう道を通るはずで、フィレンツェも同様に招待していると、聖下はおっしゃっていました。聖下はまだ決定を下されてはおりませんでしたが、ルクレツィア・ボルジアからマルケ地方を旅するつもりでいると伝えられまして、聖下もそれに同意なさいました。おそらくボローニャに向かう途上でロマーニャ公の領土を通ってもらいたかったのでしょう。
 閣下の意志により1人の枢機卿がルクレツィア・ボルジアにお供することですが、枢機卿がローマを彼女と共に旅立ってしまうことは適当ではないと聖下はおっしゃられましたが、マルケの教皇特使であるサレルノの枢機卿フアン・デ・ヴェラ宛てに、ロマーニャの公爵の座に行って待機し、結婚式でのミサを執り行うためにルクレツィア・ボルジアフェッラーラにお連れするように手紙をお書きになりました。病にならない限り枢機卿は任務を遂行するだろうとお考えになられ、もしそうなれば他の枢機卿を送るおつもりです。
 この会談の間に、ロマーニャチェーザレ・ボルジアとこれまで会うことができないことに教皇はお気づきになり、たいそう不満を示され、ロマーニャ公自身を貶めることになる過ちであると言い出され、昼を夜に夜を昼に変えてしまう癖のせいでリーミニの使節はここで2か月も彼と話せないままでいるとも付け加えられました。厳しくご子息を批評なさっておられました。一方、ルクレツィア・ボルジアは親切で、快く謁見に応じ、必要な時には宥め方を知っていると評価されました。彼女を大変賛美されまして、皆が満足するようにスポレートを治めていたし、私的な自身と公的な教皇とに常に公平な接し方を心得ていると話されました。聖下がこのようにお話になりましたのは、彼女のことを悪く言うことを避けるよりも、もっともそんなことがあったとしてもですけれども、良く言うためだと思われます。彼女はその良い評価に値するというのが私の意見ですが。閣下に忠実な者より。
1501年10月15日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「ルクレツィア・ボルジアに閣下がご病気であることを伝えた時、公爵夫人はすごく心配なさっておられました。青白い顔になり、下を向いて考え込みました。自身が手当てできるようにフェッラーラにいないことを悔やんでおられました。ヴァティカン宮殿の大広間の壁が崩れ落ちた時には、アレクサンデル6世が他の誰もそばに近づけず、公爵夫人が2週間休みなく聖下を看病なされました」
1501年10月26日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。エルコーレ1世・デステアレクサンデル6世は皆からお祝いを受け、枢機卿たちと大使たちは手紙の中で、ルクレツィア・ボルジアの美と親切を称えた。ローマ駐在スペイン特使はルクレツィア・ボルジアを大袈裟な言葉で賞賛した。アレクサンデル6世ルクレツィア・ボルジアが1502年10月で22歳を終え、チェーザレ・ボルジアが同じ月に26歳になると話した。「Facendomi intendere the epsa Duchessa é di etá di anni ventidui, li quali finiranno a questo Aprile; in el qual tempo anche lo Illmo. Duca di Romagna fornirá anni ventisei.
1501年12月23日
同僚ジャンルカ・カステッリーニと夕食を共にした後、2人でルクレツィア・ボルジアを表敬。
1501年12月28日
持参金契約の形式についてカミッロ・ベネイムベネ公証人及びその助手のパンドルフォと口論を交わす。それは弁護人に関する問題であったが、アレクサンデル6世が全てはフェッラーラ側の見解に基づいて行われるべきことを指令し、「不測の事態(すなわち罠)を少しも恐れていない」ことを表明して、解決される。
1502年5月4日
ローマにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ヴェローナ司教ベルナルディーノ・ボンジョヴァンニアドリアーナ・デル・ミラフェッラーラから戻ってきて、アレクサンデル6世に彼らの暖かい歓待に感謝していることを伝えた。

別表記

 GerardiGerardus Saracenus

参考文献

 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2013年7月1日