フアン1世・デ・カスティーリャ Juan I de Castilla
- 生没
- 1358年7月20日~1390年10月9日
- 出身
- アラゴン王国エピラ
- 没地
- カスティーリャ王国アルカラ・デ・エナーレス
- 父
- エンリケ2世・デ・カスティーリャ
- 母
- フアナ・マヌエル・デ・カスティーリャ
- 妻
- レオノール・デ・アラゴン
ベアトリス・デ・ポルトゥガル - 子
- エンリケ3世・デ・カスティーリャ
フェルナンド1世・デ・アラゴン
レオノール・デ・カスティーリャ
ミゲル・デ・カスティーリャ
概要
エンリケ3世・デ・カスティーリャは、15世紀のスペインの男性。
在位
カスティーリャ王 1379年5月29日~1390年10月9日
埋葬地
トレド大聖堂
外部リンク
エンリケ3世・デ・カスティーリャ Enrique III de Castilla
- 生没
- 1379年10月4日~1406年12月25日
- 出身
- カスティーリャ王国ブルゴス
- 没地
- カスティーリャ王国トレド
- 父
- フアン1世・デ・カスティーリャ
- 母
- レオノール・デ・アラゴン
- 妻
- カタリナ・デ・ランカステル
- 子
- マリア・デ・カスティーリャ
カタリナ・デ・カスティーリャ
フアン2世・デ・カスティーリャ
概要
エンリケ3世・デ・カスティーリャは、15世紀のスペインの男性。
在位
カスティーリャ王 1390年10月9日~1406年12月25日
埋葬地
トレド大聖堂
外部リンク
フェルナンド1世・デ・アラゴン Ferdinando I d'Aragona
- 生没
- 1380年11月27日~1416年4月2日
- 出身
- メディーナ・デル・カンポ
- 没地
- イグアラーダ
- 父
- フアン1世・デ・カスティーリャ
- 母
- レオノール・デ・アラゴン
- 子
- アルフォンソ5世・デ・アラゴン
マリーア・ダラゴーナ
フアン2世・デ・アラゴン
エンリケ・ダラゴーナ
レオノール・ダラゴーナ
ペドロ・ダラゴーナ
サンチョ・ダラゴーナ
概要
フェルナンド1世・デ・アラゴンは、14世紀から15世紀のスペインの男性。
別表記
フェルディナンド・ダラゴーナ
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史Ⅴ』
『フィレンツェ史』
マリア・デ・カスティーリャ Maria di Castiglia
- 生没
- 1401年9月1日~1458年10月4日
- 出身
- カスティーリャ王国セゴビア
- 没地
- アラゴン王国ヴァレンシア
- 父
- エンリケ3世・デ・カスティーリャ
- 母
- カタリナ・デ・ランカステル
- 夫
- アルフォンソ5世・デ・アラゴン
概要
マリア・デ・トラスタマラは、15世紀のスペインの女性。
年表
1415年6月12日
ヴァレンシア大聖堂にて、アルフォンソ5世・デ・アラゴンと結婚。
埋葬地
ナポリ、サンタンナ・デイ・ロンバルディ聖堂
別表記
マリア・ディ・カスティーリャ、マリーア・ディ・カスティーリア
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンスの歴史』
フアン2世・デ・カスティーリャ Juan II de Castilla
- 生没
- 1405年3月6日~1454年7月21日
- 出身
- カスティーリャ王国トーロ
- 没地
- カスティーリャ王国バリャドリッド
- 父
- エンリケ3世・デ・カスティーリャ
- 母
- カタリナ・デ・ランカステル
- 妻
- マリア・デ・アラゴン
イサベル・デ・ポルトゥガル - 子
- カタリナ・デ・カスティーリャ
レオノール・デ・カスティーリャ
エンリケ4世・デ・カスティーリャ
マリア・デ・カスティーリャ
イサベル1世・デ・カスティーリャ
アルフォンソ・デ・カスティーリャ
概要
フアン2世・デ・カスティーリャは、15世紀のスペインの男性。
在位
カスティーリャ王 1406年12月25日~1454年7月21日
年表
剣
埋葬地
グラナダ、カルトゥハ修道院
別表記
カスティーリャ王ホアン2世
外部リンク
フアン2世・デ・アラゴン Juan II de Aragón
- 生没
- 1397年6月29日~1479年1月20日
- 出身
- カスティーリャ王国メディナ・デル・カンポ
- 没地
- カタルーニャ君主国バルセロナ
- 父
- フェルナンド1世・デ・アラゴン
- 母
- レオノール・デ・アルブルケルケ
- 妻
- ブランカ1世・デ・エヴルー
フアナ・エンリケス - 子
- アロンソ・デ・トラスタマラ・イ・エスコバル
フアン・デ・トラスタマラ
カルロス・デ・トラスタマラ
フアナ・デ・トラスタマラ
ブランカ・デ・トラスタマラ
レオノール1世・デ・ナヴァラ
フェルナンド・デ・トラスタマラ
レオノール・デ・トラスタマラ・イ・アルヴァレス
マリーア・デ・トラスタマラ
レオノール・デ・トラスタマラ
フェルナンド2世・デ・アラゴン
フアナ・ダラゴーナ
概要
フアン2世・デ・アラゴンは、14世紀から15世紀のスペインの男性。
在位
ナヴァラ王 1425年~1479年
シチリア王フアン1世 1458年~1468年
アラゴン王、ヴァレンシア王、サルデーニャ王、バルセロナ伯 1458年~1479年
年表
1458年6月27日
遺言により、ナポリ王位は先にエウゲニウス4世及びニコラウス5世から正統継承者として認承された(1444年、1447年)庶出の長子フェッランテ・ダラゴーナに、アラゴン、シチリア、サルデーニャ王位は次弟ナヴァラ王フアン2世・デ・アラゴンに継承される。
1468年
アラゴン・シチリア・サルデーニャ王フアン2世・デ・アラゴン、長子フェルナンド2世・デ・アラゴンのシチリア王即位を宣言し、シチリア王位を退く。
1469年10月19日
カスティーリャ王エンリケ4世・デ・カスティーリャの妹イサベル1世・デ・カスティーリャ、アラゴン・サルデーニャ王フアン2世・デ・アラゴンの長子で1468年シチリア王と宣言されたフェルナンド2世・デ・アラゴンと結婚。
1479年1月19日
フアン2世・デ・アラゴン死。
別表記
ファン2世、ホアン・デ・ナバラ、ジョヴァンニ、Juan II d'Aragona
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
エンリケ4世・デ・カスティーリャ Enrique IV de Castilla
- 生没
- 1425年1月25日~1474年12月11日
- 出身
- カスティーリャ王国バリャドリッド
- 没地
- カスティーリャ王国マドリード
- 父
- フアン2世・デ・カスティーリャ
- 母
- マリア・デ・アラゴン
- 妻
- ブランカ・デ・ナバラ
フアナ・デ・ポルトゥガル - 子
- フアナ・ラ・ベルトラネーハ
概要
エンリケ4世は、15世紀の男性、カスティーリャ王。
在位
カスティーリャ王 1454年7月21日~1474年12月11日
年表
1454年7月21日
父フアン2世・デ・カスティーリャ、死。子エンリケ4世、カスティーリャ王に即位。
1458年
1462年
カタルーニャ議会(ジェネラリタート)にアラゴン王として擁立される。
1463年5月16日
リュイス・ジョアン・デル・ミラとロドリゴ・ボルジア枢機卿宛てに手紙をしたためる。状況を説明し、アラゴン王位への権利を主張し、フアン2世・デ・アラゴンの要請に基づいて教会の恩恵を授けないように嘆願。
1467年以降
パウルス2世から、1467年か1469年に制作された祝福された剣を拝受。
1468年
トロス・デ・ギサント協定を結び、カスティーリャ王位継承者を娘のフアナ・ラ・ベルトラネーハではなく、貴族らが推す異母妹イサベル1世・デ・カスティーリャとすることに同意。
1474年12月11日
死。
埋葬地
サンタ・マリア・デ・グアダルーペ王立修道院
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Google Books
参考文献
『世界悪女大全』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
コーリア・ダラゴーナ Colia d'Aragona
- 生没
- 1423/24年~1473年
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 没地
- ピオンビーノ
- 父
- アルフォンソ5世・デ・アラゴン
- 母
- イッポーリタ・デ・ジューディチ
- 夫
- エマヌエレ・ダッピアーノ
概要
コーリア・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1445年
ナポリにて、エマヌエレ・ダッピアーノと結婚。
外部リンク
マリーア・ダラゴーナ Maria d'Aragona
- 生没
- 1425年~1449年12月9日
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- アルフォンソ5世・デ・アラゴン
- 母
- グエラルドーナ・カルリーノ
- 夫
- レオネッロ・デステ
概要
マリーア・ダラゴーナは、15世紀の女性。
年表
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
エレオノーラ・ディアーナ・ダラゴーナ Eleonora Diana d'Aragona
- 父
- アルフォンソ5世・デ・アラゴン
- 母
- グエラルドーナ・カルリーノ
- 夫
- ジャンフランチェスコ・マリーノ・ダ・マルツァーノ
- 子
- ルイーザ・ダ・マルツァーノ
ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・マルツァーノ
フランチェスカ・マルゲリータ・ダ・マルツァーノ
カテリーナ・ダ・マルツァーノ
カミッラ・ダ・マルツァーノ
マリーア・ダ・マルツァーノ
概要
エレオノーラ・ディアーナ・ダラゴーナは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1444年5月3日
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
アロンソ・デ・トラスタマラ・イ・エスコバル Alonso de Trastámara
- 生没
- 1415年~1485年
- 出身
- オルメド
- 没地
- リナーレス
- 父
- フアン2世・デ・アラゴン
- 母
- レオノール・デ・エスコバル
- 妻
- レオノール・デ・ソトマヨル
- 女
- マリーア・フンケルス
- 子
- フアン・デ・トラスタマラ・イ・フンケルス
レオノール・デ・トラスタマラ・イ・フンケルス
フェルディナンド・デ・トラスタマラ・イ・ソトマヨル
アロンソ・デ・トラスタマラ・イ・ソトマヨル
マリーア・デ・トラスタマラ・イ・ソトマヨル
概要
アロンソ・デ・トラスタマラは、15世紀の男性。
在位
第1代ビジャエルモーサ公 1464年~1485年
次代:アロンソ・デ・トラスタマラ
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
レオノール1世・デ・ナヴァラ Leonor I de Navarra
- 生没
- 1426年2月2日~1479年2月12日
- 出身
- ナヴァラ王国オリテ
- 没地
- ナヴァラ王国トゥデラ
- 父
- フアン2世・デ・アラゴン
- 母
- ブランカ1世・デ・エヴルー
- 夫
- ガストン4世・ド・フォワ
- 子
- ガストン・ド・フォワ
ピエール・ド・フォワ
ジャン・ド・フォワ
マリー・ド・フォワ
ジャンヌ・ド・フォワ
ジャック・ド・フォワ
カトリーヌ・ド・フォワ
マルグリット・ド・フォワ
イザベル・ド・フォワ
エレオノール・ド・フォワ
アンヌ・ド・フォワ
概要
レオノール・デ・トラスタマラは、15世紀のナヴァラ王国の女性、ナヴァラ王。
在位
ナヴァラ王国摂政 1455年~1479年
ナヴァラ王 1479年
外部リンク
フアナ・ダラゴーナ Juana d'Aragona
- 生没
- 1455年6月16日~1517年1月9日
- 出身
- バルセロナ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- フアン2世・デ・アラゴン
- 母
- フアナ・エンリケス
- 夫
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 子
- ジョヴァンナ・ダラゴーナ
カルロ・ダラゴーナ
概要
フアナ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の女性。
別表記
ジョヴァンナ・ダラゴナ(Giovannna d'Aragona)、ファナ
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Genealogy.EU
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ルネサンスの華』
エンリコ・ダラゴーナ Enrico d'Aragona
- 生没
- 1431年頃~1478年11月21日
- 没地
- テッラノーヴァ・ダ・シーバリ
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 妻
- ポリッセーナ・デ・サンテーリャス
- 子
- カテリーナ・ダラゴーナ
ルドヴィーコ・ダラゴーナ
カルロ・ダラゴーナ
イッポーリタ・ダラゴーナ
ジョヴァンナ・ダラゴーナ
概要
エンリコ・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの男性。
在位
ジェラーチェ侯 1473年5月21日~1478年11月21日
年表
1431年頃
生(1451年頃)。
1478年11月21日
テッラノーヴァ・ダ・シーバリにて、毒茸を食して死(1478年5月11日)。
別表記
Arrigo d'Aragona
外部リンク
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
マリーア・ダラゴーナ Maria d'Aragona
- 生没
- 1440年頃~1460年頃
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- ディアーナ・グアルダート
- 夫
- アントーニオ・ピッコローミニ
- 子
- イザベッラ・ピッコローミニ
マリーア・ピッコローミニ
ヴィットーリア・ピッコローミニ
概要
マリーア・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1458年
ナポリにて、アントーニオ・ピッコローミニと結婚。
外部リンク
Famille de Carné
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
フェデリーコ・ダラゴーナ Federico d'Aragona
- 生没
- 1451年10月16日~1504年11月9日
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 没地
- フランス王国トゥール
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- イザベッラ・ディ・キアロモンテ
- 妻
- アンナ・ディ・サヴォイア
イザベッラ・デル・バルツォ - 子
- カルロッタ・ダラゴーナ
フェルディナンド・ダラゴーナ
ジューリア・ダラゴーナ
イザベッラ・ダラゴーナ
アルフォンソ・ダラゴーナ
チェーザレ・ダラゴーナ
概要
フェデリーコ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の男性。ナポリ王アルフォンソ2世・ダラゴーナの弟。アラゴン系の最後のナポリ王。
スペインのカトリック王フェルナンド2世・デ・アラゴンがフランス王ルイ12世と結んだグラナダ条約によって、政体を失った。フランスに連れて行かれ、トゥールにて没する。
在位
ターラントの君主
アルタムーラの君主、アンドリア公、モンテスカリオーゾ、アクアヴィーヴァ、ミネルヴィーノ、カッステル・デル・モンテ、ルーヴォ、モンテミローネ、ラヴェッロ、モンテペローゾ伯、モンテクート、グロットラ、ポマリコ、オジャーノ、トルヴァ、サン・ジェルヴァージオ、フルマリ、ヴィーコ、ラセドーニア、ビサッチャ、カルボナーラ、アッカディア、カリーフェ、ヴァッラールタ、サン・ソロ、カステッロ、サン・ニコラ、プイルカリーノ、ロッケッタ、グアルディア・ロンバルダ男爵、アチェッラ伯、コペルティーノ伯、ヴェーリエ、レヴェラーノ、ガラティーナ、カルピニャーノ、サン・ヴィート、ヴェノーザ、モットーラ、トッレディマーレ、トレザンティ、サラプレ、モンテセリコ、アルトジョヴァンニ領主 1487年8月3日~
ニカトロ、サンビアーゼ、ザンガローナ、フェロレト、マイダ、ラッコニア伯 1482年~1496年
ナポリ王 1496年~1501年
メーヌ伯爵
年表
1451年10月16日
ナポリにて、生(1452年4月19日)。
1478年9月11日
ミラノにて、アンナ・ディ・サヴォイアと結婚。
1484年8月16日
カンチェッラーラにて、イザベッラ・デル・バルツォと婚約。
1486年11月28日
アンドリアにて、イザベッラ・デル・バルツォと結婚。
1492年
父フェッランテ・ダラゴーナの名代として教皇アレクサンデル6世に表敬するため、ローマに赴く。ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿の歓迎を受ける。妹ベアトリーチェ・ダラゴーナの夫であるハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォの離婚の申し入れに特赦を与えないよう要請。
1492年
1493年6月末
フェッランテ・ダラゴーナの命により、アレクサンデル6世と協議するため、ローマに赴く。ヴィルジーニオ・オルシーニがフランチェスケット・チーボから購入したアングィッラーラ、チェルヴェーテリなどの教会領は、その死に際し教会に返還されること。すでにフランチェスケット・チーボに支払った4万ドゥカートは教会に支払うこと。スクイッラーチェとカリアーティを持参金として、サンチャ・ダラゴーナとホフレ・ボルジアを婚姻させることを決める。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿の追放は拒否されるが、ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿との和解は受け入れられる。
1493年8月16日
姪サンチャ・ダラゴーナとホフレ・ボルジアの代理人を立てて行われた、ヴァティカン宮殿でのの婚姻式に参列。花嫁を紹介。公正証書が読み上げられ、指輪の交換が行われている間に、ある花嫁の不安と興奮についての即席のパロディーを披露すると、教皇アレクサンデル6世その他の列席者は大口を開けて笑う。列席しているボルジア家の全員を抱擁。
1494年4月2?日
ナポリ王戴冠式のための教皇特使フアン・デ・ボルハ枢機卿一行を、カプアで出迎える。
1494年
ナポリ艦隊を率いてジェノヴァを攻撃。ポルトヴェーネレとラパッロに上陸しようとするが、ジェノヴァ、ルイ2世・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ガスパーレ・サンセヴェリーノとアントーニオ・マリーア・サンセヴェリーノ指揮のミラノ軍に押し返され、リヴォルノに退避。
ナポリ防衛のため戻る。
1496年10月5日
フェッランディーノ・ダラゴーナ死。フェデリーコ・ダラゴーナ、ナポリ王に即位。
1496年
ニカトロ、サンビアーゼ、ザンガローナ、フェロレト、マイダ、ラッコニア伯をカラッチオーロ家に売却。
1497年6月26日
ナポリ王として戴冠。
1499年1月
チェーザレ・ボルジア、ナポリ王女カルロッタ・ダラゴーナとの結婚問題について、父王フェデリーコ・ダラゴーナと直接、折衝。ルイ12世は、チェーザレ・ボルジアの意図を支持。しかしフェデリーコ・ダラゴーナとカルロッタ・ダラゴーナに峻拒される。
1500年7月16日
アルフォンソ・ダラゴーナ負傷の知らせを受け、医師ガリアーノ・デ・アンナを派遣。
1501年
息子をタラントへ送った後、フランス軍に対し防衛するため、自軍の大半を率いさせて、ファブリツィオ1世・コロンナとリヌッチョ・ダ・マルチアーノをカプアに送る。
1501年
アヴェルサに数日いた後、プロスペロ・コロンナを連れてナポリへ避難。
1501年7月5日?~9月初旬
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍、カラブリアのトロペーアに上陸。ナポリ分割のグラナダ条約の存在を知らなかったナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは、カラブリアの城塞を開けさせ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍を歓迎させる。フェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、2ヶ月足らずでカラブリアを制圧。フェデリーコ・ダラゴーナの長子でカラブリア公フェルディナンド・ダラゴーナは捕らえられてスペインに送られる。
1501年8月1日
ルイ12世軍に降伏。
1501年8月3日
イスキアへの安全通行とそこで6か月間留まる条件で、全ての城塞を明け渡し降伏。動産と大砲を持っていく許可が下りたが、大砲は後日アレクサンデル6世に売る。
ナポリからイスキアに逃亡(1501年8月2日)。ヤコポ・サンナザーロも随行。
ナポリのアラゴン家王朝、事実上滅亡。
1501年9月6日
ルイ12世から安全を保証され、次子アルフォンソ・ダラゴーナを連れてフランスに行く。
1502年3月
ナポリ王位をルイ12世に譲り、代償に年金とアンジュー公領を与えられる。
1504年11月9日
フランス王国トゥールで客死(1504年9月9日)。
別表記
フェデリーゴ2世、フェデリゴ、Federigo、Federico I、Fridericum de Aragonia
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『ヨハン・ブルカルトの日記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ジョヴァンナ・ダラゴーナ Giovanna d'Aragona
- 生没
- 1455年~1475年3月7日以前
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- ディアーナ・グアルダート
- 夫
- レオナルド・デッラ・ローヴェレ
概要
ジョヴァンナ・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの女性、庶子。
年表
外部リンク
ジョヴァンニ・ダラゴーナ Giovanni d'Aragona
- 生没
- 1456年6月25日~1485年10月17日
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- イザベッラ・ディ・キアロモンテ
概要
ジョヴァンニ・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
モンテヴェルジーネ名誉修道院長 1465年~
チェヴァとモンテカッシーノ修道院長 1471年~
枢機卿 1477年12月10日~1485年10月17日
任命した教皇:シクストゥス4世
首席書記官
サンタドリアーノ助祭枢機卿 1477年12月12日~
サン・ロレンツォ・イン・ルチーナ助祭枢機卿 1483年9月10日~
タラント大司教 1477年12月10日~
サビーナ司教枢機卿 1483年9月10日~
外部リンク
GCatholic.com
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『The Life of Cesare Borgia』
ベアトリーチェ・ダラゴーナ Beatrice d'Aragona
- 生没
- 1457年9月14日~1508年9月23日
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 没地
- イスキア
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- イザベッラ・ディ・キアロモンテ
- 夫
- マティアス・コルヴィヌス
ウラースロー2世・ヤギェウォ
概要
ベアトリーチェ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1457年9月14日
ナポリにて、生(1457年11月16日)。
1475年
マティアス・コルヴィヌスと結婚。
1476年10月
ハンガリーへ向かう途上、姉エレオノーラ・ダラゴーナのいるフェッラーラを訪れる。
1486年
甥イッポーリト・デステにエステルゴム教区長の地位を与える。
1490年10月4日
ウラースロー2世・ヤギェウォと結婚。
1508年9月23日
イスキアにて、死。
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
マリーア・チェチーリア・ダラゴーナ Maria Cecilia d'Aragona
- 生没
- 1473年~1503年
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- Eulalia Ravignano
- 夫
- ジャン・ジョルダーノ・オルシーニ
概要
マリーア・チェチーリア・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1503年1月
死(1503年2月、1513年)。
別表記
マリア・チェチーリア・ダラゴナ
外部リンク
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史』
『Lucretia Borgia』
ジョヴァンナ・ダラゴーナ Giovanna d'Aragona
- 生没
- 1478年~1518年
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- フアナ・ダラゴーナ
- 夫
- フェッランディーノ・ダラゴーナ
概要
ジョヴァンナ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
Genealogy.EU
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
ルクレツィア・ダラゴーナ Lucrezia d'Aragona
- 生没
- 1???年~1549年
- 父
- フェッランテ・ダラゴーナ
- 母
- エウラーリア・ラヴィニャーノ
- 夫
- オノラート3世・カエターニ
- 子
- フェデリーコ・カエターニ
ルイジ・カエターニ
ニコラ・カエターニ
イザベッラ・カエターニ
ポルツィア・カエターニ
ベアトリーチェ・カエターニ
フェルディナンド・カエターニ
ジョヴァンナ・カエターニ
概要
ルクレツィア・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1493年11月
ナポリにて、オノラート3世・カエターニと結婚。
外部リンク
レオノール・デ・トラスタマラ・イ・フンケルス Leonor de Trastámara
- 生没
- 1430年頃~
- 父
- アロンソ・デ・トラスタマラ・イ・エスコバル
- 母
- マリーア・フンケルス
- 夫
- ジャウマ・デル・ミラ
- 子
- マリーア・デル・ミラ・ダラゴ
クリストフォル・デル・ミラ
エリオノール・デル・ミラ
アンジェラ・デル・ミラ
ジェロニマ・デル・ミラ
概要
レオノール・デ・トラスタマラは、15世紀頃のスペインの女性。
在位
初代ヴィラフェルモーザ公爵
リーバゴルサ伯爵
年表
1478年5月28日
ジャウマ・デル・ミラと結婚(1477年、1488年5月28日)。
別表記
Elionor d'Aragó
外部リンク
アロンソ・デ・トラスタマラ Alonso de Trastámara
- 生没
- 1470年3月10日~1520年2月23日
- 出身
- サルベーラ
- 没地
- レセラ
- 父
- フェルナンド2世・デ・アラゴン
- 母
- アルドンザ・ローチ
- 妻
- アナ・デ・グレア
- 子
- マルティン・デ・トラスタマラ
フアン・デ・トラスタマラ・イ・グレア
フェルナンド・デ・トラスタマラ
アルフォンソ・デ・トラスタマラ
フアナ・デ・トラスタマラ・イ・グレア
アナ・デ・トラスタマラ
アントーニオ・デ・トラスタマラ
概要
アロンソ・デ・トラスタマラは、15世紀から16世紀のスペインの男性、聖職者。
在位
ヴァレンシア大司教 1512年1月23日~1520年2月24日
作品
別表記
アルフォンソ・ダラゴーナ
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
Foundation for Medieval Genealogy
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
フアン・デ・トラスタマラ Juan de Trastámara
- 生没
- 1478年6月30日~1497年10月4日
- 父
- フェルナンド2世・デ・アラゴン
- 母
- イサベル1世・デ・カスティーリャ
- 妻
- マルグリット・ドートリッシュ
概要
フアン・デ・トラスタマラは、15世紀の男性。
年表
別表記
フアン・ダラゴーナ、ホアン、Juan d'Aragona
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史Ⅴ』
『世界悪女大全』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フアナ1世・デ・トラスタマラ Juana I de Trastámara
- 生没
- 1479年11月6日~1555年4月12日
- 父
- フェルナンド2世・デ・アラゴン
- 母
- イサベル1世・デ・カスティーリャ
- 夫
- フェリペ1世
- 子
- レオノール・デ・アウストリア
カール5世
フェルディナント1世
マリア・フォン・ハプスブルク
カタリナ・デ・アブスブルゴ
概要
フアナ1世・デ・トラスタマラは、15世紀から16世紀の女性。
在位
カラブリア公 1504年3月31日~1516年1月23日
カスティーリャ、レオン王 1504年11月26日~1555年4月12日
アラゴン王、バルセロナ伯、ヴァレンシア王、シチリア王、ナポリ王、ナヴァラ王 1516年~1555年
アストゥリアス公 1502年~1504年
ジローナ公 1502年~1509年、1509年~1516年
年表
1496年10月21日
ブルゴーニュ公フィリップ4世と結婚。
1504年11月26日
母イサベル1世・デ・カスティーリャ、死。フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャのスペイン共同統治終わる。
カスティーリャ王位を継ぐが、父フェルナンド2世・デ・アラゴンが摂政としてカスティーリャを統治(1504年~1506年)。これに対し、自ら摂政の位を望む夫フィリップ4世は不満を抱く。
1506年4月
病弱な自分の摂政としてカスティーリャを支配しようとする夫フィリップ4世と共にカスティーリャに到着。フェルナンド2世・デ・アラゴンに反感を抱く貴族たちの支持を受ける。
別表記
ホアナ、ジョヴァンナ、Juana la Loca
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Medici Archive Project
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ハプスブルク家』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス百科事典』
カテリーナ・ダラゴーナ Caterina d'Aragona
- 生没
- 1485年12月16日~1536年1月7日
- 父
- フェルナンド2世・デ・アラゴン
- 母
- イサベル1世・デ・カスティーリャ
- 夫
- アーサー
ヘンリー8世 - 子
- メアリー1世
概要
カテリーナ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1502年
アーサーと結婚。
1503年
アーサー没。
1509年6月3日
ヘンリー8世と結婚。
1527年5月初頭
この頃?、ヘンリー8世、教皇特使(1524年~)としての(自分の大法官)トマス・ウルジーに、妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認、宣言するよう求める。
1528年6月
前年ヘンリー8世から出された妻カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立確認の訴えについて、カテリーナ・ダラゴーナの甥カール5世の監視下で自由な判定をなし得ないまま逃避的な態度を取り続けてきたクレメンス7世、ヘンリー8世の執拗な要求の前に、イングランドで教皇使節法廷を開いて問題を審議、判定することをやむなく認め、使節として枢機卿ロレンツォ・カンペッジオを任命。
1529年5月31日
ヘンリー8世から出された彼とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立の訴えを審議するロンドンの教皇特使法廷が、ロレンツォ・カンペッジオ、トマス・ウルジーの主導下で開催される。
1529年7月16日
バルセロナ協定によってカール5世との関係を確立したクレメンス7世、婚姻不成立の訴えに関してヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナをローマに召喚する令状に署名。
1529年11月3/4日
宗教改革議会:ヘンリー8世、議会の反ローマ教会的立法によってクレメンス7世を脅かし、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻不成立を承認させるべく、第五議会を招集。トマス・モアが開会の辞を述べる。以後、この議会は彼の当初の目的を超えた立法を重ね、イングランドの主権国家としての自立の、さらには宗教改革の幕を開く。
1533年5月23日
1533年1月10日ヘンリー8世にってカンタベリー大司教に任命されクレメンス7世の承認を得て1533年3月30日公式に叙階されたThomas Cranner(1489年~:在位~1553年)、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は無効と宣言。
1533年7月9日
もはやクレメンス7世が自分とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻を無効と認める可能性はないと見たヘンリー8世、1532年1月議会の制定した「初年度収入税上納制限法」を発効させる。
1533年7月11日
クレメンス7世、ヘンリー8世とアン・ブーリンとの結婚を無効と宣言すると共に、カテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は依然として有効であり、1533年9月までに彼女を正妻と認めなければその時をもって破門に処すと宣言。
1534年3月23/24日
クレメンス7世、秘密枢機卿会議でヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナとの婚姻は有効であることを改めて最終的に確認し、ヘンリー8世にその婚姻に復帰するよう命令。(この報、1534年4月4日ロンドンに届く)。
1534年3月23日
「宗教改革議会」、ヘンリー8世とカテリーナ・ダラゴーナの子メアリー1世を非正統とし、アン・ブーリンとの子エリザベスを正統な王位継承者と認めると共に、この継承者に反対する者を反逆罪に問い、かつこの「内容と効果を支持する」誓約を義務付けることを定めた「王位継承法」を可決。
1536年1月7日
婚姻無効宣言を下された(1533年)後も王妃の称号と権利の放棄を認めず軟禁状態に置かれていたカテリーナ・ダラゴーナ、失意の内に病(?)死(1485年~)。
これによりカール5世への対応の自由を得たヘンリー8世の心、この頃すでに現王妃アン・ブーリンを離れ、宮廷の女性Jane Seymour(1509年頃~1537年)に傾く。これをアラゴン家系貴族など反ブーリン家派、裏面から助長。
別表記
キャサリン・オブ・アラゴン、カタリナ、Catherine of Aragon、Catalina d'Aragona、Catarina
外部リンク
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Famille de Carné
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Foundation for Medieval Genealogy
Genealogy.EU
The Medici Archive Project
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『メディチ家の人々』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの華』
フェッランディーノ・ダラゴーナ Ferrandino d'Aragona
- 生没
- 1469年8月26日~1496年9月7日
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- アルフォンソ2世・ダラゴーナ
- 母
- イッポーリタ・スフォルツァ
- 妻
- ジョヴァンナ・ダラゴーナ
概要
フェッランディーノ・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの男性。
在位
カラブリア公 1494年1月25日~1495年1月23日
ナポリ王 1495年~1496年
年表
1469年8月26日
ナポリに生(1467年6月26日)。
1494年
軍を率いてロマーニャに配置。
1494年9月5日
ナポリ軍を指揮してヴィッラフランカ(現フォルリのフラツィオーネ)到着。
1494年9月23日
バニャーラ要塞の外でカテリーナ・スフォルツァと会い、共同軍事行動に合意。
1494年10月17日
近くのモルダーノに進軍し、戦場に誘い込むよう挑発的な攻撃をフランスの野営地に繰り返し行う。
1495年1月23日
父アルフォンソ2世・ダラゴーナが退位し、ナポリ王に即位。
1495年2月21日
シャルル8世軍の入城を前にナポリを逃亡。ホフレ・ボルジアも随行。
1495年5月
スペインのフェルナンド2世・デ・アラゴン・イサベル1世・デ・カスティーリャ両王、ゴンザロ・デ・コルドバ指揮の自軍にフェッランディーノ・ダラゴーナのためナポリ奪回の戦いを開始させる(1495年~96年)。
1495年7月7日
ナポリに復帰。
1495年
この年、コロンナ家を引き入れるため、フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスとヴィットーリア・コロンナを婚約させる。
1496年7月20/21日
シャルル8世のナポリ総督モンパンシエ公ジルベール・ド・ブルボンは、アテッラでゴンザロ・デ・コルドバに降伏し、シャルル8世の残留軍はナポリより撤退。フェッランディーノ・ダラゴーナは、スペイン軍やヴェネツィア艦隊の支援を得てナポリ全土をほぼ回復。但しナポリ奪還の戦いに加わったヴェネツィアは、アドリア海沿岸のナポリ領5都市を占拠し続ける。
1496年9月7日
熱病で死(1496年10月5日)。
別表記
フェランティノ、小フェランテ、フェルランド2世、カラブリア公フェルディナンド、フェルディナンド2世、フェランディーノ、Ferdinando II d'Aragona
外部リンク
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世界帝王事典
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
イザベッラ・ダラゴーナ Isabella d'Aragona
- 生没
- 1470年10月2日~1524年2月11日
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 没地
- バーリ
- 父
- アルフォンソ2世・ダラゴーナ
- 母
- イッポーリタ・スフォルツァ
- 夫
- ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ
- 子
- フランチェスコ・スフォルツァ
イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ
ボーナ・スフォルツァ
ビアンカ・マリーア・スフォルツァ
概要
イザベッラ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
在位
バーリ公 1499年~1524年
年表
1470年10月2日
ナポリで生。
1488年12月22日
ナポリにて、ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァと婚約。
1489年1月18日
ナポリから海路ジェノヴァに到着(1489年2月7日、1489年2月17日)。大砲と鐘の音で歓迎される。
1489年1月25日
トルトーナ到着。
1489年1月28日
ヴィジェヴァーノのスフォルツェスコ城にて初夜。しかし果たされず。
1489年1月
アッビアーテグラッソの義母ボーナ・ディ・サヴォイアを訪問。
1489年2月1日
ミラノ到着。民衆に歓声をもって迎えられる。
1491年1月22日(土)
新婚のルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステ一行をサンテウストルジョ教会で出迎える。
1491年1月30日
フランチェスコ・スフォルツァを出産。
1493年1月26日
1493年
父アルフォンソ2世・ダラゴーナ宛てに手紙をラテン語でしたためる。ルドヴィーコ・イル・モーロによって物理的、政治的に阻害された屈辱的な状況下に置かれていることをを訴える。
1494年2月2日
ボーナ・スフォルツァを出産。
1494年10月14日
フランス王シャルル8世がパヴィア到着。パヴィアのヴィスコンティ城に滞在。
フランス王の足下にひれ伏し、この王が彼女の出身ナポリ王家を打ち破るためにイタリアに入ったことを知りながらも、スフォルツァ家の正統の子孫である彼女の夫と息子たちを救い、ルドヴィーコ・イル・モーロの不当な主張を退けて頂きたいと哀願?。
1494年10月21日
1494年10月
パヴィアにて、何日か部屋に引きこもり、食事もとらず。
ニッコロ・ダ・クザーノの治療を受け、健康回復。
ミラノのスフォルツェスコ城に帰るように勧められるが、パヴィアのヴィスコンティ城を離れず。
1494年12月6日
子フランチェスコ・スフォルツァ、イッポーリタ・マリーア・スフォルツァ、ボーナ・スフォルツァを連れて、ミラノ到着。
1495年
ビアンカ・マリーア・スフォルツァを出産。3年で夭折。
1499年
ルドヴィーコ・イル・モーロからバーリをもらう(1500年11月)。
1499年9月2日(月)
ルドヴィーコ・イル・モーロは逃亡するが、イザベッラ・ダラゴーナはミラノを離れず。
1499年10月6日
フランス王ルイ12世がミラノに入城。息子フランチェスコ・スフォルツァをルイ12世と会わせる。
1499年10月9日
息子フランチェスコ・スフォルツァと最後の別れとなる。
1499年11月7日
ルイ12世、ミラノ出発。息子フランチェスコ・スフォルツァもフランスへ連れていかれる。
1500年
1512年10月14日
バーリにて、ビシェーリエ市長ペロット・カステッラル宛てに手紙をしたためる。
ペロット殿へ。甥の故ビシェーリエ公ロドリゴ・ダラゴーナの歳入から、支払わなければならないものを支払わせるように、コラートの者たちを従わせるよう頼みます。近々、フェッラーラ公妃ルクレツィア・ボルジアから請求書が送付されるため、もしお金がまだ用意されていないのであれば大変困ったことになります。コラートの者たちが先延ばしすれば、即刻お金を捻出しなければならなくなるかもしれません。このようなわけで、これ以上不都合を被らないよう、すぐに支払を受けるよう、取り計らってください。この義務を果たせば、恩義に報います。
1524年2月11日
バーリで死。
外部リンク
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス舞踊紀行』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
サンチャ・ダラゴーナ Sancia d'Aragona
- 生没
- 1478年頃~1506年
- 出身
- ガエタ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- アルフォンソ2世・ダラゴーナ
- 母
- トルージア・ガッツェッラ
- 夫
- ホフレ・ボルジア
概要
サンチャ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、庶子、ナポリ王女。
容姿
褐色の肌、黒髪、青緑色の目。
年表
1478年頃
ガエタで生。
1487年頃
オノラート3世・カエターニと婚約。
1493年8月16日
1493年9月
オノラート3世・カエターニとの婚約破棄。
1494年5月7日(水)
カステル・ヌオーヴォ内の聖堂で、ホフレ・ボルジアと結婚式(1494年5月11日)。
1496年5月20日
聖霊降臨節。夫ホフレ・ボルジアと共に10時頃ローマに到着。6人の道化によって活気を添えられた王家の行列を率いる。互い違いの帯を巻かれ、ビロードと黒のサテンの馬衣を着せられた儀式用の馬に乗り、南部地方特有の、たっぷりした袖がついた黒地の礼服を着用。ラテラーノ門で供を連れた義姉ルクレツィア・ボルジア、外交官、枢機卿、役人、貴族たちに出迎えられ、ヴァティカン宮殿へ付き添われる。「極めて美しい姫」との伝説を信用しすぎていた人々の中に失望の気配があったが、「彼女はほどほどであり、しぐさも風貌も雌羊であり、容易に狼の欲望に従うだろう」。お付の少女たちについては、「彼女らは女主人に見劣りせず、美しい学校ができるだろうと人々は公然と口にしている」と当時の年代記作家は記す。
サン・ピエトロ大聖堂で、ルクレツィア・ボルジアは教皇の右に、自身は左に、緋のビロードのクッションの上に座る。スペイン人高位聖職者が長々と話している間、おそらくサンチャ・ダラゴーナの方の思い付きで、ルクレツィア・ボルジアと共に祈祷席に上り、彼女たちの随行員たちもそれに続く。このいたずらに人々は驚く。
1497年6月14日
フアン・ボルジアが暗殺される。
1499年8月2日
弟アルフォンソ・ダラゴーナがローマを逃亡。
1499年8月
義父アレクサンデル6世から即刻ナポリに戻るよう命じられる。ローマを去ろうとしないでいると、力で「外へ放り出す」と脅迫され、出発。
1500年7月15日
弟アルフォンソ・ダラゴーナが襲撃され、重傷を負う。
1500年8月18日
アルフォンソ・ダラゴーナが暗殺される。
1503年
サンタンジェロ城に幽閉される。
1503年8月18日
1503年9月2日
釈放され、プロスペロ・コロンナに護衛され、ナポリへ向けローマ出発。
1504年4月28日
チェーザレ・ボルジアがナポリに到着。
1506年
ナポリで病死。
肖像
関連項目
The Borgias: 104, 105, 106, 107, 109
別表記
Sancha
外部リンク
世界帝王事典
チェーザレ・ボルジアに守護された楽園ローマ
ボルジア解体新書
Genealogy.EU
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
THE BORGIAS wiki
Treccani
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
アルフォンソ・ダラゴーナ Alfonso d'Aragona
- 生没
- 1481年~1500年8月18日
- 出身
- ナポリ王国
- 没地
- ローマ
- 父
- アルフォンソ2世・ダラゴーナ
- 母
- トルージア・ガッツェッラ
- 妻
- ルクレツィア・ボルジア
- 子
- ロドリゴ・ダラゴーナ
概要
アルフォンソ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の男性、ルクレツィア・ボルジアの2番目の夫。ナポリとの関係を断とうとするチェーザレ・ボルジアに暗殺される。
在位
ビシェーリエ公 ~1500年8月18日
サレルノの君主 1485年~1500年8月18日
性格
温和。
容姿
際立った美貌。
年表
1494年5月2日(金)
1498年6月20日
ルクレツィア・ボルジアとの結婚が取り決められる。
1498年7月半ば
ローマに到着。
1498年7月21日
ルクレツィア・ボルジアとの結婚式が行われる。列席者は、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ、フアン・ロペス、フアン・デ・ボルハ、フアン・マラデス司教。スペイン人隊長フアン・セルヴィロンが、儀式の間中、抜き放った剣を新郎新婦の頭上に捧げる。祝宴が始まり、チェーザレ・ボルジアの手勢の者とサンチャ・ダラゴーナの手勢の者の間で、ヴァティカン宮殿へ入るに際して席順のことで派手な争いが起きる。その後の舞踏や余興の出し物は明け方まで続く。チェーザレ・ボルジアが、純粋と誠実のシンボルである一角獣に扮して再度姿を現す。アレクサンデル6世も「若者の所作」をする。
1498年12月25日(火)
サン・ピエトロ大聖堂での降誕祭のミサに出席。
1499年8月2日
教皇アレクサンデル6世の放った騎兵に追跡されるが、逃れる。
1499年
ジャナッツァーノにて妻ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。自分のもとに来てほしいと懇請。
この手紙はアレクサンデル6世の手に渡ってしまう。
1499年
ローマ市内には入らずにフォリーニョを通って、ルクレツィア・ボルジアのいるスポレートに向かい、妻を連れてネピに行くようアレクサンデル6世に命じられる。
1499年9月
9月半ば少し過ぎにフェッランテ・ダラゴーナのかつての寵臣であったピニャテッリ家の1人と共にナポリを出立。
1499年9月19日
夕刻、スポレート到着。アルボルノツィアーナ要塞に滞在。
1499年12月25日(水)
サン・ピエトロ大聖堂での降誕祭のミサに、ナポリの枢機卿ルドヴィーコ・ダラゴーナの補佐として出席。
1500年7月15日
アレクサンデル6世、ルクレツィア・ボルジア、姉サンチャ・ダラゴーナとのヴァティカン宮殿での晩餐会の後、夕刻19時、トンマーゾ・アルバネーゼと馬丁の2人を従え、「祝福のロッジア」の下に設けられた門をくぐって、サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿へ向かう。サン・ピエトロ広場に出ようとするところを、サン・ピエトロ大聖堂の階段に寝ているふりをしていたチェーザレ・ボルジアの配下の者たちに襲われ、頭と右腕と腿を切り付けられて重傷を負うが、馬丁が助けを呼び、トンマーゾ・アルバネーゼが戦って、ヴァティカン宮殿に逃れる。
1500年7月16日
早朝、ヴィンチェンツォ・コッリの小姓バボイーノが、サン・ピエトロ広場で、トンマーゾ・アルバネーゼの引き裂かれたマントと、アルフォンソ・ダラゴーナの服からちぎり取られた金の刺繍を拾う。トンマーゾ・アルバネーゼは、ヴィンチェンツォ・コッリの家に避難し、傷の手当てを受けていた。
1500年7月
16人の教皇の衛兵が守る巫女の間に移され、手当てを受ける。フェデリーコ・ダラゴーナから派遣されたナポリの高名な医師であるガリアーノ・デ・アンナとクレメンテ・ガクトゥーラ、叔父ジョヴァンニ・マリーア・ガッツェッラが到着。
1500年8月18日
12時、ヴァティカン宮殿で、チェーザレ・ボルジアの命を受けたミケーレ・ダ・コレーリアを指揮者とする一部隊が、コロンナ家の支援の下にボルジア家に対して企てた陰謀の責任を取らせるべく、医師ガリアーノ・デ・アンナとクレメンテ・ガクトゥーラと召使の背むし男を逮捕。ルクレツィア・ボルジアとサンチャ・ダラゴーナがミケーレ・ダ・コレーリアにその理由を詰問し、アレクサンデル6世に回答を求めるよう言われ、2人はその場を離れる。その間殺され、教皇の間から戻ってきたルクレツィア・ボルジアとサンチャ・ダラゴーナに、ミケーレ・ダ・コレーリアはベッドから落ちてそれが致命的な出血の原因になったなどと説明し、死者に会わせることを拒否。
18時、フランセスク・デ・ボルジャが執り行った質素な葬儀が行われるが、ルクレツィア・ボルジアとサンチャ・ダラゴーナは参列を認められず。サン・ピエトロ大聖堂の隣のサンタ・マリア・デッレ・フェッブレ教会に埋葬される。
逮捕されたガリアーノ・デ・アンナとクレメンテ・ガクトゥーラと背むし男は、サンタンジェロ城で尋問され、無罪として釈放される。
別表記
ドン・アルフォンソ、Alphonsus de Aragonia、Alphonsum de Aragonia
外部リンク
世界帝王事典
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kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
THE BORGIAS wiki
Wikipedia
参考文献
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ヨハン・ブルカルトの日記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
カルロッタ・ダラゴーナ Carlotta d'Aragona
- 生没
- 1480年頃~1506年10月16日
- 没地
- フランス王国ヴィトレ
- 父
- フェデリーコ・ダラゴーナ
- 母
- アンナ・ディ・サヴォイア
- 夫
- ギー16世・ド・ラヴァル
- 子
- ギー・ド・ラヴァル
ルイ・ド・ラヴァル
フランソワ・ド・ラヴァル
カトリーヌ・ド・ラヴァル
アンヌ・ド・ラヴァル
概要
カルロッタ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1480年頃
生(1479年)。
1500年
ギー16世・ド・ラヴァルと結婚。
1501年11月22日
ルイ・ド・ラヴァルを出産。
1503年4月30日
フランソワ・ド・ラヴァルを出産。
1504年
カトリーヌ・ド・ラヴァルを出産。
1505年9月23日
アンヌ・ド・ラヴァルを出産。
外部リンク
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参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
フェルディナンド・ダラゴーナ Ferdinando d'Aragona
- 生没
- 1488年12月15日~1550年10月26日
- 出身
- ナポリ王国アンドリア
- 没地
- スペイン帝国ヴァレンシア
- 父
- フェデリーコ・ダラゴーナ
- 母
- イザベッラ・デル・バルツォ
- 妻
- ジェルメーヌ・ド・フォワ
メンシア・デ・メンドーサ
概要
フェルディナンド・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の男性。
在位
カラブリア公 1496年9月7日~1550年10月26日
ヴァレンシア副王 1526年~1550年
年表
1501年7月5日?~9月初旬
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍、カラブリアのトロペーアに上陸。ナポリ分割のグラナダ条約の存在を知らなかったナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは、カラブリアの城塞を開けさせ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍を歓迎させる。フェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、2ヶ月足らずでカラブリアを制圧。フェデリーコ・ダラゴーナの長子でカラブリア公フェルディナンド・ダラゴーナ(1488年~1559年)は捕らえられてスペインに送られる。
1526年
ジェルメーヌ・ド・フォワと結婚。
1538年
妻ジェルメーヌ・ド・フォワ、死。
1541年
メンシア・デ・メンドーサと結婚。
別表記
Ferdinando d'Aragona
外部リンク
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Treccani
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参考文献
『イタリア史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジューリア・ダラゴーナ Giulia d'Aragona
- 生没
- 1492年~1542年3月10日
- 没地
- スペイン帝国ヴァレンシア
- 父
- フェデリーコ・ダラゴーナ
- 母
- イザベッラ・デル・バルツォ
- 夫
- ジャンジョルジョ・パレオロゴ
概要
ジューリア・ダラゴーナは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1492年
生。
1533年4月21日
フェッラーラにて、ジャンジョルジョ・パレオロゴと結婚。
1533年4月30日
夫ジャンジョルジョ・パレオロゴ、死。
1542年3月10日
ヴァレンシアにて死(1542年2月10日)。
別表記
インファンタ・ジュリア
外部リンク
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参考文献
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
ルドヴィーコ・ダラゴーナ Ludovico d'Aragona
- 生没
- 1474年10月6日~1519年1月21日
- 出身
- ナポリ王国ナポリ
- 没地
- ローマ
- 父
- エンリコ・ダラゴーナ
- 母
- ポリッセーナ・デ・サンテーリャス
- 妻
- バッティスティーナ・ウソディマーレ
- 子
- トゥッリア・ダラゴーナ?
概要
ルドヴィーコ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ジェラーチェ侯 1478年~1494年
枢機卿 1494年5月~
任命した教皇:アレクサンデル6世
年表
1492年6月3日
ヴァティカン宮殿でバッティスティーナ・ウソディマーレとの結婚式を挙げる(1489年)。
1494年3月
アレクサンデル6世により、バッティスティーナ・ウソディマーレとの結婚が無効になる。
1494年5月5日
領地を兄弟のカルロ・ダラゴーナに譲渡。
1494年5月6日(火)
ナポリにて、ナポリ司教アレッサンドロ・カラーファにより剃髪される。
フアン・デ・ボルハから教会首席書記官となった証しを受け取る。
1497年9月6日(水)
朝、サンタ・マリア・ノヴァ聖堂でナポリ王戴冠式から帰還したチェーザレ・ボルジアを迎える。
1503年9月10日
埋葬地
別表記
ロドヴィーコ、ルイジ、アラゴナ枢機卿、Lodovico、Luigi d'Aragona、Aloysius de Aragonia、cardinali Neapolitano
外部リンク
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ヨハン・ブルカルトの日記』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの華』
カルロ・ダラゴーナ Carlo d'Aragona
- 生没
- 14??年~1494年5月以降
- 父
- エンリコ・ダラゴーナ
- 母
- ポリッセーナ・デ・サンテーリャス
- 妻
- イッポーリタ・ダヴァーロス
- 子
- エレオノーラ・ダラゴーナ
概要
カルロ・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの男性。
在位
ジェラーチェ侯 1478年~
年表
別表記
Charles d'Aragon、Carolus de Aragonia
外部リンク
ジョヴァンナ・ダラゴーナ Giovanna d'Aragona
- 生没
- 1477年~1510年
- 父
- エンリコ・ダラゴーナ
- 母
- ポリッセーナ・デ・サンテーリャス
- 夫
- アルフォンソ・ピッコローミニ
アントーニオ・ボローニャ - 子
- アルフォンソ2世・ピッコローミニ
イザベッラ・ピッコローミニ
概要
ジョヴァンナ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
フアン・デ・トラスタマラ・イ・グレア Juan de Trastámara
- 生没
- 1498年~1530年11月25日
- 父
- アロンソ・デ・トラスタマラ
- 母
- アナ・デ・グレア
概要
フアン・デ・トラスタマラは、15世紀から16世紀の男性、聖職者。
在位
サラゴサ大司教 1520年3月28日~1530年11月25日
別表記
ホアン・デ・アラゴン、フアン・ダラゴーナ、Juan d'Aragona、Juan de Aragón
外部リンク
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
フアナ・デ・トラスタマラ・イ・グレア Juana de Trastámara
- 生没
- 14??年~1521年
- 父
- アロンソ・デ・トラスタマラ
- 母
- アナ・デ・グレア
- 夫
- フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケス
- 子
- フランシスコ・デ・ボルハ
アルフォンス・デ・ボルジャ
エンリック・デ・ボルジャ
ルイザ・デ・ボルジャ
概要
フアナ・デ・トラスタマラは、15世紀から16世紀のスペインの女性。
年表
1509年1月31日
バリャドリードにて、フアン・デ・ボルハ・イ・エンリケスと結婚。
1510年10月28日
ガンディアにて、フランシスコ・デ・ボルハを出産。
1520年
ルイザ・デ・ボルジャを出産。
1521年
死。
別表記
フアナ・ダラゴーナ、ファナ・ダラゴン、ホアナ・デ・アラゴン、Juana d'Aragona
外部リンク
世界帝王事典
Famille de Carné
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参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『Lucretia Borgia』
ロドリゴ・ダラゴーナ Rodorigo d'Aragona
- 生没
- 1499年11月1日~1512年8月28日
- 出身
- ローマ
- 没地
- バーリ
- 父
- アルフォンソ・ダラゴーナ
- 母
- ルクレツィア・ボルジア
概要
ロドリゴ・ダラゴーナは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
セルモネータ公 1501年9月17日~1504年1月24日
ビシェーリエ公 1502年1月7日~
コラート領主 1502年1月7日~
年表
1499年11月1日
1499年10月31日夜から11月1日にかけて、ローマで生。
1499年11月11日
洗礼式:16名の枢機卿とヨハン・ブルカルトがサンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿に参集。アレッサンドリーノ式と呼ばれていた薄青いアネモネ色のビロードで飾られた部屋の、金糸の浮き模様を打ち出したサテン張りのベッドに母ルクレツィア・ボルジアは上半身を起こし、緋と青色の服を着ている。40名余の貴婦人、大公使、高位聖職者、友人らが居並ぶ。
館の礼拝堂から隣のシスティーナ礼拝堂へ移る。今日では『最後の審判』が掛けられている仕切り壁は、この日、金色の教会旗で覆われ、その前には金色の錦を掛けられた特別席が設けられる。床には、大きな絨毯が何枚も敷かれる。教皇の親衛隊、薔薇色のラシャの服を纏った侍従たち、鼓手、横笛吹きの楽士などがまず進み出る。その後、白貂の裏皮のついた金糸の錦に包まれた嬰児を腕に抱いたフアン・セルヴィロンが進む。2人ずつ組になって、金や宝石からなる聖器を捧げた従者らが続き、ローマの知事、各国の大公使、そして2列になった高位聖職者の列が長く延びる。祭壇の前に達すると、フアン・セルヴィロンは嬰児を代父のコゼンツァ大司教フランセスク・デ・ボルジャに渡す。大司教は嬰児を銀の洗礼盤に近づけ、オリヴィエーロ・カラーファ枢機卿の手で洗礼を授けられ、祖父と同じくロドリゴ・ダラゴーナと名づけられる。儀式には、多数の夫人や淑女たちが参列していて、嬰児をよく見ようとして最前列の枢機卿席まで進み出ていたため、自分の席を占領されてしまった枢機卿たちは後列に下がり、厳しい寒さの中でむき出しの土間に立っていなければならなかった。
式が終わると、ロドリゴ・ダラゴーナは、教皇アレクサンデル6世とオルシーニ家のより緊密な友情の新たな印としてパオロ・オルシーニに預けられる。それまで静かだったが、パオロ・オルシーニの腕の中にいる間中泣き続けた。
1501年9月17日
1502年1月7日
フェルナンド2世・デ・アラゴンとイサベル1世・デ・カスティーリャのローマ駐在大使フランチェスコ・デ・ロクサスにより、ビシェーリエ公とコラートの領主として承認される(1502年5月20日)。
1503年8月18日
教皇アレクサンデル6世死。
ナポリに残る。おそらく、伯母サンチャ・ダラゴーナに育てられる。
1505年3月26日
母ルクレツィア・ボルジアの家計簿に「公妃はバーリのご子息ロドリゴに、贈り物としてダマスク織と絹織の服1着を送られた」と記載がある。
この時にはバーリにて、イザベッラ・ダラゴーナに育てられている。
1505年4月3日
ルクレツィア・ボルジアが、ナポリに来ていた家庭教師バルタッサーレ・ボンフィーリオを自分のもとへ返す。
1505年9月
ペレ・リュイス・リャンソル枢機卿とフランシスコ・デ・レモリンス枢機卿の管理の下、スペイン王フェルナンド2世・デ・アラゴンに忠誠の誓いを立てる。
1512年8月28日
バーリで死(1512年12月)。
別表記
Roderigo
外部リンク
世界帝王事典
そらのお城
チェーザレ・ボルジアとその周辺
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
トゥッリア・ダラゴーナ Tullia d'Aragona
- 生没
- 1510年頃~1556年3月12日
- 出身
- ローマ
- 没地
- ローマ
- 父
- ルドヴィーコ・ダラゴーナ?
- 母
- ジューリア・カンパーナ
概要
トゥッリア・ダラゴーナは、15世紀のイタリアの女性、詩人。
年表
1510年
この年頃、ローマに生(1508年)。
1547年
抒情詩集Rime(リーメ)をヴェネツィアで刊行。
1549年
Dialogo della infintà di amore(愛の無限性についての対話)を刊行。
1556年3月12日
ローマで死(1556年3月13日)。
1560年
遺作・伝承詩集Guerino(グエリーノ)、ヴェネツィアで刊。
埋葬地
別表記
トゥルリア・ダラゴーナ
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
エレオノーラ・ダラゴーナ Eleonora d'Aragona
- 生没
- 14??年~
- 父
- カルロ・ダラゴーナ
- 母
- イッポーリタ・ダヴァーロス
- 夫
- バルダッサーレ・カラッチオーロ
- 子
- ピエラントーニオ・カラッチオーロ
カルロ・カラッチオーロ
マルゲリータ・カラッチオーロ
ボーナ・カラッチオーロ
ジューリア・カラッチオーロ
イザベッラ・カラッチオーロ
ベアトリーチェ・カラッチオーロ
ゼノビア・カラッチオーロ
コスタンツァ・カラッチオーロ
概要
エレオノーラ・ダラゴーナは、15~16世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年7月5日