Avalos

アヴァーロス家

ベアトリーチェ・ダヴァーロス Beatrice d'Avalos

イニーゴ1世・ダヴァーロス
アントネッラ・デ・アクィーノ
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ
ジョヴァンニ・ニッコロ・トリヴルツィオ
外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』

イニーゴ1世・ダヴァーロス Iñigo I d'Avalos

生没
~1484年
没地
ナポリ
ロドリーコ・ダヴァーロス
アルフォンソ2世・ダヴァーロス
イニーゴ2世・ダヴァーロス
ベアトリーチェ・ダヴァーロス
概要

 イニーゴ1世・ダヴァーロスは、15世紀頃の男性。

外部リンク

 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

イニーゴ2世・ダヴァーロス Iñigo II d'Avalos

生没
1467年~1504年
イニーゴ1世・ダヴァーロス
アルフォンソ3世・ダヴァーロス
概要

 イニーゴ2世・ダヴァーロスは、15世紀~16世紀の男性。

外部リンク

 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』

アルフォンソ2世・ダヴァーロス Alfonso II d'Avalos

生没
1465年~1495年
イニーゴ1世・ダヴァーロス
ディアナ・デ・カルドーナ
フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス
概要

 アルフォンソ2世・ダヴァーロスは、15世紀のイタリアの男性。

在位

 ペスカーラ侯

関連項目

 1467年1月4日の同盟

別表記

 アルフォンソ・ディ・ダヴォーレス、DavolesDavalos

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『イタリア史』
 『Lucretia Borgia

アルフォンソ3世・ダヴァーロス Alfonso III d'Avalos

生没
1502年~1546年3月31日
イニーゴ2世・ダヴァーロス
概要

 アルフォンソ3世・ダヴァーロスは、16世紀の男性。

在位

 ミラノ総督 1525年~1546年3月31日  ペスカーラ侯・ヴァスト侯 1525年~1546年3月31日

年表

1541年7月2/3日
フランソワ1世スレイマン1世への使節Antonio Rincone(?~)とCesare Fregoso(1502年?~)、ミラノパヴィア近郊ティチーノのポー河口で何者かに暗殺される。
フランソワ1世、この暗殺はカール5世とそのミラノ総督・ペスカーラ侯・ヴァスト侯アルフォンソ3世・ダヴァーロス(1502年~:総督在位1538年~:侯在位1525年~)の指示によるものだと激怒し、これによってカール5世との和(1538年6月7日)は破られたと主張。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世カール5世ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
1542年夏~秋
カール5世ミラノ総督アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエモンテに出撃し、全戦線にわたってフランソワ1世軍を撃退。
1543年6月12日
フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1543年8月10日~1543年8月22日
フランソワ1世水軍とBarbarossa指揮の艦隊、ニースを攻撃。激しい抵抗を受けながらも市街を占領し略奪・破壊・砲火を行うが、領主Carlo II (il Buono)の要請によりアルフォンソ3世・ダヴァーロス指揮のカール5世軍進撃との報に、城塞は攻略できないまま撤退。
1544年4月13日~1544年4月14日
フランソワ1世のピエモンテ総督・アンギャン公François de Bourbon(1519年~1546年:総督在位1543年~1546年)指揮の軍、チェレゾーレでカール5世軍を指揮官アルフォンソ3世・ダヴァーロスに負傷を負わせるなど撃破し、ピエモンテの戦況を逆転させるが、自身も少なからぬ損害を被る。
1546年3月31日
アルフォンソ3世・ダヴァーロス死。代わってカール5世のシチリア総督・グアスタッラ伯フェッランテ・ゴンザーガ(シチリア総督在位1536年~:グアスタッラ伯1539年~)、ミラノ総督となる(在位~1554年2月)。

外部リンク

 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス Fernando Francesco d'Avalos

生没
1489年~1525年12月
アルフォンソ2世・ダヴァーロス
ヴィットーリア・コロンナ
概要

 フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ペスカーラ侯

年表

1521年8月1日
第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ候フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グィッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。
1521年11月19日
プロスペロ・コロンナやペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。
以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。
1525年2月24日
Charles de Lannoy総指揮のカール5世軍(=ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス指揮の軍とシャルル・ド・ブルボン指揮の軍)は、前年10月以来パヴィア包囲していたフランソワ1世軍を破る。フランソワ1世は負傷して捕虜となり、クレモーナ近郊Pizzighettoneに幽閉される。彼の将軍ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ(1460年~)、Guillaume de Bonnivet(1488年?~)らは戦死。カール5世軍の指揮官ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらは負傷。
1525年4月1日
クレメンス7世Charles de Lannoyは、クレメンス7世カール5世は共にミラノをフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに与えてこれの防衛に当たり、クレメンス7世Charles de Lannoyに軍資金を与え、Charles de Lannoyは教会領、フィレンツェ及びメディチ家を保護することなどを秘密裡に協定。5月1日または10日、ローマで公表される。この過程で、クレメンス7世の命に従いフィレンツェはペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに、ルッカとシエナはCharles de Lannoyに軍資金を支払う。
1525年6月7日
Charles de Lannoyは、カール5世陣営の指揮官ペスカーラ候フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスやシャルル・ド・ブルボンにもイタリアの君主たちにも知らせず、彼らの意図に反して独断でフランソワ1世をジェノヴァからカール5世のいるスペインに向けて海路、護送させる。陣営内でのCharles de Lannoyへの反発、強まる。
フランソワ1世のスペイン護送を知ったクレメンス7世らイタリアの諸権力者、諸国の間に、カール5世フランソワ1世の間でイタリア分割支配を条件として和が図られるのではとの不安、生ずる。
1525年7~8月
フランソワ1世のスペイン護送などを巡ってCharles de Lannoyとフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスなどとの間に生じた不和を利用してカール5世陣営を分断し、その支配から免れようと企むフランチェスコ・マリーア・スフォルツァの副王Girolamo Morone(1470年~1529年)、密かにルイーザ・ディ・サヴォイアクレメンス7世及びヴェネツィアの支持・参加を得て反カール5世同盟を結成。フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスに同盟軍の最高指揮官ともナポリ王ともするとの条件を示して彼を陰謀・同盟に引き入れる。
1525年10月14日
カール5世同盟の内情・非力さを知って到底カール5世に対抗できないと感じたフェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスの裏切り・通報により、一連の陰謀・同盟露見し、主謀者Girolamo Moroneカール5世の命によって逮捕される(1526年1月釈放)。
1525年11月末/12月初旬
フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス死(1490年~)。

別表記

 FerdinandFerrante

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2010年10月15日

更新日

 2020年2月20日