Foix

フォワ家

イザベル・ド・フォワ Isabelle de Foix-Castelbon

生没
1361年11月2日~1428年
ロジェ・ベルナール4世・ド・フォワ
ジェロード・ド・ナヴァイユ
アルシャンボー・ド・グライー
ジャン1世・ド・フォワ
ガストン1世・ド・フォワ
アルシャンボー・ド・フォワ
マシュー・ド・フォワ
ピエール・ド・フォワ

概要

 イザベル・ド・フォワは、14世紀から15世紀のフランス王国の女性。

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ジャン1世・ド・フォワ Jean Ier de Foix

生没
1382年~1436年5月4日
没地
フランス王国フォワ伯爵領マゼール
アルシャンボー・ド・グライー
イザベル・ド・フォワ
ジャンヌ・デヴルー
ジャンヌ・ダルブレ
ジョアナ・ドゥルジェイ
ジャン・ド・フォワ
ベルナール・ド・フォワ
ガストン4世・ド・フォワ
ピエール・ド・フォワ
イザベル・ド・フォワ
ディアヌ・ド・フォワ
ピエール・ド・フォワ

概要

 ジャン1世・ド・フォワは、14世紀から15世紀のフランス王国の男性。

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ガストン1世・ド・フォワ Gaston Ier de Foix-Grailly

生没
1383年~1455年以降
アルシャンボー・ド・グライー
イザベル・ド・フォワ
マルグリット・ダルブレ
ジャン・ド・フォワ
ジャンヌ・ド・フォワ
イザボー・ド・フォワ
アニェス・ド・フォワ
ガストン・ド・フォワ
ジャネット・ド・フォワ
マルグリット・ド・フォワ
ジャンヌ・ド・フォワ

概要

 ガストン1世・ド・フォワは、14世紀から15世紀のフランス王国の男性。

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ジャン・ド・フォワ Jean de Foix-Candale

生没
1425年頃~1485年12月5日
出身
カステルノー・ド・メドック
ガストン1世・ド・フォワ
マルグリット・ダルブレ
マーガレット・カーデストン
ガストン2世・ド・フォワ
マルグリット・ド・フォワ
カトリーヌ・ド・フォワ
ジャン・ド・フォワ

概要

 ジャン・ド・フォワは、15世紀のフランス王国の男性。

外部リンク

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マルグリット・ド・フォワ Marguerite de Foix-Candale

生没
1473年~1536年12月9日
出身
フォワ
没地
カストル
ジャン・ド・フォワ
マーガレット・カーデストン
ルドヴィーコ2世・デル・ヴァスト
ミケーレ・アントーニオ・デル・ヴァスト
ジョヴァンニ・ルドヴィーコ・デル・ヴァスト
フランチェスコ・デル・ヴァスト
アドリアーノ・デル・ヴァスト
ガブリエーレ・デル・ヴァスト

概要

 マルグリット・ド・フォワは、15世紀から16世紀のフランス王国出身の女性。

埋葬地

 カストル、サン・ブノワ大聖堂

外部リンク

 Genealogy.EU
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ピエール・ド・フォワ Pierre de Foix

生没
1386年12月13日~1464年12月13日
没地
アヴィニョン
アルシャンボー・ド・グライー
イザベル・ド・フォワ

概要

 ピエール・ド・フォワは、14世紀から15世紀のフランス出身の男性、聖職者、対立教皇により叙階された枢機卿。

在位

 レスカー司教 1409年10月23日~1422年9月11日
 枢機卿 1414年9月~1464年12月13日
 会計院長 1414年10月30日~1419年7月19日
 サント・ステファノ・アル・モンテ・チェリオ司祭枢機卿 1417年12月16日以降~1431年3月14日
 サン=ベルトラン=ド=コマンジュ教区長 1422年8月7日~1451年7月5日
 ロンベズ教区長 1424年1月~1425年3月25日
 アルバーノ司教枢機卿 1431年3月14日~1464年12月13日
 ミルポワ教区長 1432年11月9日~1433年7月26日
 レスカー教区長 1433年1月26日~1464年12月13日
 コンタ・ヴネサン長官 1433年3月9日~1459年5月30日
 サン=スヴェ修道院長受益者 1446年1月1日~1454年1月1日
 モンマジュール修道院長受益者 1450年9月16日~1462年1月1日
 アルル教区長 1450年9月25日~1463年3月24日
 ダクス教区長 1451年7月5日~1459年5月30日
 タルブ教区長 1463年2月11日~1464年12月13日

年表

1414年9月

対立教皇ヨハネス23世により、枢機卿に選出される。

1464年12月13日

死(1464年12月30日)。

別表記

 ポール・ドゥ・フォワ

外部リンク

 Gallia christiana novissima. Histoire des archevêchés, évêques et abbayes de France.
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 HISTOIRE de CAROMB
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipédia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

ガストン4世・ド・フォワ Gaston IV de Foix-Béarn

生没
1423年2月26日~1472年7月25日
出身
フランドル伯領ペーテゲム・アーン・デ・スケルデ
没地
ナヴァラ王国ロンセスバーリェス
ジャン1世・ド・フォワ
ジャンヌ・ダルブレ
レオノール1世・デ・ナヴァラ
ガストン・ド・フォワ
ピエール・ド・フォワ
ジャン・ド・フォワ
マリー・ド・フォワ
ジャンヌ・ド・フォワ
ジャック・ド・フォワ
カトリーヌ・ド・フォワ
マルグリット・ド・フォワ
イザベル・ド・フォワ
エレオノール・ド・フォワ
アンヌ・ド・フォワ

概要

 ガストン4世・ド・フォワは、15世紀の男性。

在位

 フォワ伯 1436年~1472年

外部リンク

 ウィキペディア

ピエール・ド・フォワ Pierre de Foix-Lautrec

生没
1429年頃~1454年9月
ジャン1世・ド・フォワ
ジャンヌ・ダルブレ
カトリーヌ・ダスタラック
マドレーヌ・ド・フォワ
ジャン・ド・フォワ

概要

 ピエール・ド・フォワは、15世紀のフランス王国の男性。

外部リンク

 Genealogy.EU
 Wikipédia

ガストン・ド・フォワ Gaston de Foix

生没
1444年~1470年11月23日
没地
アキテーヌ公領リブルヌ
ガストン4世・ド・フォワ
レオノール1世・デ・ナヴァラ
マドレーヌ・ド・ヴァロワ
フランシスコ1世・デ・ナヴァラ
カタリナ1世・デ・ナヴァラ

概要

 ガストン・ド・フォワは、15世紀の男性。

在位

 ヴィアナ公 1461年~1470年11月23日

外部リンク

 ウィキペディア

ピエール・ド・フォワ Pierre de Foix

生没
1449年2月7日~1490年8月10日
出身
ナヴァラ王国ベアルン地方ポー
没地
教皇領ローマ
ガストン4世・ド・フォワ
レオノール1世・デ・ナヴァラ

概要

 ピエール・ド・フォワは、15世紀のフランス王国の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 エール司教 1475年7月31日~1484年5月5日
 ヴァンヌ司教 1476年3月11日~1490年8月18日
 枢機卿 1476年12月18日~1490年8月10日
 サンティ・コスマ・エ・ダミアーノ助祭枢機卿 1477年1月15日~1486年8月
 バイヨンヌ教区長 1484年5月5日~1490年8月10日
 パレルモ教区長 1485年5月14日~1489年7月6日
 サン・シスト司祭枢機卿 1485年8月~1490年8月10日
 ノートルダム=アン=サン=メレーヌ修道院長受益者 1486年1月1日~1490年8月10日
 サン=ベニーニュ・ド・ディジョン修道院長受益者 1488年1月1日~1490年8月10日
 マルタ教区長 1489年7月6日~1490年8月10日

年表

1476年12月18日

シクストゥス4世により、枢機卿に選出される。

1490年8月10日

ローマにて、死(1490年7月17日)。

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 Genealogy.EU
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ジャン・ド・フォワ Jean de Foix

生没
1450年~1500年11月5日
没地
エタンプ
ガストン4世・ド・フォワ
レオノール1世・デ・ナヴァラ
マリー・ド・ヴァロワ
ジェルメーヌ・ド・フォワ
ガストン・ド・フォワ

概要

 ジャン・ド・フォワは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ナルボンヌ子爵

戦歴

 フォルノーヴォの戦いフランス王国

年表

1450年

生。

1476年

マリー・ド・ヴァロワと結婚。

1483年1月7日

甥のナヴァーラ王フランソワ・ド・フォワ、死。その妹カトリーヌ・ド・フォワが後継者となる。

1483年

ナヴァーラの相続法がサリカ法を採らないにもかかわらず、ジャン・ド・フォワはフォワ家でフランソワ・ド・フォワに次ぐ男子であることを理由に継承権を主張し、ナヴァーラに内乱を起こす。

1497年9月7日

タルブにて、和平を結ぶ。

1500年11月5日

エタンプにて、死。

別表記

 ジャン・ド・フォア

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Foundation for Medieval Genealogy
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マリー・ド・フォワ Marie de Foix

生没
1452年以降~1465年1月19日
出身
カルカソンヌ
没地
カザーレ
ガストン4世・ド・フォワ
レオノール1世・デ・ナヴァラ
グリエルモ8世・パレオロゴ
ジョヴァンナ・パレオロガ

概要

 マリー・ド・フォワは、15世紀から16世紀のフランス王国出身の女性。

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マルグリット・ド・フォワ Marguerite de Foix

生没
1458年以降~1486年3月15日
没地
ブルターニュ公国ナント、ブルターニュ公爵城
ガストン4世・ド・フォワ
レオノール1世・デ・ナヴァラ
フランソワ2世・ド・ブルターニュ
アンヌ・ド・ブルターニュ
イザボー・ド・ブルターニュ

概要

 マルグリット・ド・フォワは、15世紀から16世紀のフランス王国の女性。

埋葬地

 ナント大聖堂

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU

ジャン・ド・フォワ Jean de Foix-Lautrec

生没
1454年~1498年頃
ピエール・ド・フォワ
カトリーヌ・ダスタラック
ジャンヌ・ダイディ
オデ・ド・フォワ
アンドレ・ド・フォワ
トマ・ド・フォワ
フランソワーズ・ド・フォワ

概要

 ジャン・ド・フォワは、15世紀のフランス王国の男性。

外部リンク

 Genealogy.EU
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カタリナ1世・デ・ナヴァラ Catalina I de Navarra

生没
1468年4月18日~1517年2月12日
没地
モン=ド=マルサン
ガストン・ド・フォワ
マドレーヌ・ド・ヴァロワ
ジャン・ダルブレ
アンヌ・ダルブレ
マドレーヌ・ダルブレ
カトリーヌ・ダルブレ
ジャン・ダルブレ
キトゥリー・ダルブレ
アンドレ・フェビュス・ダルブレ
エンリケ2世・デ・ナヴァラ
マルタン・フェビュス・ダルブレ
ボナバンチュール・ダルブレ
フランソワ・ダルブレ
シャルル・ダルブレ
イザボー・ダルブレ

概要

 カタリナ1世・デ・ナヴァラは、15世紀から16世紀の女性。

在位

 ナヴァラ王 1483年~1517年

埋葬地

 ベアルン、レスカー大聖堂

別表記

 カトリーヌ・ド・フォワ

外部リンク

 ウィキペディア

ジェルメーヌ・ド・フォワ Germaine de Foix

生没
1488年~1538年10月18日
出身
フランス王国フォワ
没地
スペイン帝国リリア
ジャン・ド・フォワ
マリー・ド・ヴァロワ
フェルナンド2世・デ・アラゴン
ヨハン・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ
フェルディナンド・ダラゴーナ
フアン・デ・トラスタマラ
イサベル・デ・カスティーリャ

概要

 ジェルメーヌ・ド・フォワは、15世紀から16世紀の女性。ルイ12世の姪。

年表

1505年10月12日

第二次ブロワ条約でフェルナンド2世・デ・アラゴンとの結婚が決まる。

1506年3月18日

ドゥエニャスにて、フェルナンド2世・デ・アラゴンと結婚(1506年3月22日)。

1506年

フアン・デ・トラスタマラを出産するも夭折。

1512年4月11日

ガストン・ド・フォワ、死。

1516年6月23日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、死。

1518年8月20日

ヴァレンシアにて、私生児イサベル・デ・カスティーリャを出産。

1519年6月17日

バルセロナにて、ヨハン・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハと再婚。

1526年8月1日

セビリアにて、フェルナンド・デ・アラゴンと再々婚。

埋葬地

 バレンシア、王立聖ミゲル修道院

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ガストン・ド・フォワ Gaston de Foix

生没
1489年12月10日~1512年4月11日
ジャン・ド・フォワ
マリー・ド・ヴァロワ

概要

 ガストン・ド・フォワは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ヌムール公 1507年~1512年
  次代:ジュリアーノ・デ・メディチ

年表

1511年2月11日

ルイ12世のミラノ総督、軍総指揮官シャルル・ダンボワーズ、死(1473年~)。その地位はジャン・ヤコポ・トリヴルツィオとガストン・ド・フォワが継承。

1511年11月初旬

この頃?、スイス連邦軍がイタリアに侵入しミラノを攻撃。防御するガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍としばらく一進一退の攻防を展開するが、後理由不明のまま撤退。ガストン・ド・フォワに買収されたとの噂が広まる。

1512年1月下旬~2月2日

ヴェネツィア、ブレッシャを、一部貴族と内通の上、軍を送って攻撃し、フランスの支配に反抗する市民に迎えられて占領。

ヴェネツィア、ブレッシャのフランス支配からの脱出に刺激を受けて同じフランス支配に反抗する市民に迎えられ、ベルガモを占領。

1512年2月4/5日

ボローニャ防衛のためモデナから援軍を送っていたガストン・ド・フォワは、吹雪の中を自らも小軍を率いてボローニャに密かに入る。

1512年2月6日

ボローニャを包囲していた神聖同盟軍、深夜、包囲を解いてひとまずイーモラに撤退。

1512年2月19~21日

ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍は、ブレッシャを奪還し、続いてベルガモも奪還。両地で同軍による凄惨な暴行、略奪、虐殺が行われる。

1512年4月11日

ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。

完敗した同盟軍はラモン・デ・カルドナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ1世・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。

ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。

ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。

別表記

 ガストン・ド・フォア、ガストン・ドゥ・フォア

外部リンク

 ウィキペディア
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

オデ・ド・フォワ Odet de Foix

生没
1485年~1528年8月16日
出身
フランス王国ギュイエンヌ
没地
ナポリ王国ナポリ
ジャン・ド・フォワ
ジャンヌ・ダイディ
シャルロット・ダルブレ
ガストン・ド・フォワ
アンリ・ド・フォワ
フランソワ・ド・フォワ
クロード・ド・フォワ

概要

 オデ・ド・フォワは、15世紀から16世紀の男性。

在位

 ロートレック子爵

年表

1521年8月1日

第二次イタリア戦争:レオ10世は、マントヴァ侯フェデリーコ2世・ゴンザーガ指揮の自軍とペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロス(1490年~)指揮のカール5世をボローニャに集めて同盟軍を結成し、その総指揮官にプロスペロ・コロンナを、前線総監にフランチェスコ・グイッチャルディーニを当て、間もなくジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮の軍も加え、フランソワ1世のミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワに宣戦布告。フランソワ1世カール5世のヨーロッパ覇権を巡る対立、イタリアでも公然たる戦争に発展し、第二次イタリア戦争始まる(~1559年)。

1521年8月29日~9月2日

プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(教会軍、フィレンツェ軍、カール5世軍)は、パルマを攻撃し一時、支配するが、新たにフェッラーラ軍の支援を受けたミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍を前にして後退。

1521年11月19日

プロスペロ・コロンナやペスカーラ侯フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァーロスらに指揮され、教皇特使ジューリオ・デ・メディチを加えた同盟軍の進撃を前に、ミラノ総督ロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍及びTeodoro Trivulzio(1474年~1551年)ら指揮のヴェネツィア軍は、城塞に守備隊を残してミラノを撤退。同盟軍は、ミラノ公フランチェスコ・マリーア・スフォルツァの名でミラノを制圧。

以後、同盟軍は、ナヴァーラ、アスティ、アレッサンドリア、パヴィア、ローディ、クレモーナ、パルマ、ピアチェンツァを相次いで占領し、パルマ、ピアチェンツァを教会領に併合。

1521年12月上旬~下旬

レオ10世の死の報に彼に押さえられていた者たちの反抗始まる:アルフォンソ1世・デステは奪われた諸領地を回復し、ロートレック子爵オデ・ド・フォワは教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニ配下のパルマを攻撃して撃退され、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレは1521年12月23日ウルビーノを奪回し、ペーザロ、カメリーノを制圧した上、レオ10世に追放されていた故ジャンパオロ・バリオーニの子マラテスタ・バリオーニ(1491年~1531年)、オラーツィオ・バリオーニ(1493年頃~1528年)と共にフィレンツェ軍の守備するペルージアに迫る。

1522年3月初旬

本国から援軍を得たロートレック子爵オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ヴェネツィア軍をも加えて、ミラノを奪還すべくロンバルディアに出撃。プロスペロ・コロンナ総指揮の同盟軍(主力はカール5世軍)と各地で激戦を展開。

1527年5月18日

ヘンリー8世フランソワ1世は、クレメンス7世の救出、解放を目指すことで合意し、ヘンリー8世は以後6ヶ月間フランソワ1世に軍資金を提供することを約定。フランソワ1世は間もなくオデ・ド・フォワ指揮の大軍(フランス人、スイス人、イタリア人兵)をアスティに結集。

1527年6月末/7月

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍が、イタリアに侵攻。

1527年8月19日~下旬

この日頃から?、オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍、陸からチェーザレ・フレゴーソ(1502年?~1541年)らが、海からジェノヴァの海将アンドレア・ドーリア(1466年~1560年)がジェノヴァを攻撃し占領。アントニオット・アドルノはドージェの座を追われ(在位1522年~)、代わってTeodoro Trivulzioがオデ・ド・フォワにより総督に任命されてジェノヴァはまたフランスの配下に陥る(~1528年)。

1527年8~9月

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、アレッサンドリア、ノヴァーラなどを攻撃し制圧。

1527年9月末~10月初頭

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、パヴィアを攻撃し占領。全市に渡って略奪の限りを尽くす。

1527年11月15日

アルフォンソ1世・デステ、オデ・ド・フォワ及び枢機卿インノチェンツォ・チーボの勧奨に従い、同盟軍による所領防衛、子エルコーレ2世・デステと故ルイ12世の娘ルネ・ド・フランス(1515年~1575年頃)との結婚など、提示された多くの名誉ある条項を受諾してカール5世陣営を離れ、同盟陣営に加わる。しかし当の条項はエルコーレ2世・デステルネ・ド・フランスの結婚以外ほとんど守られずに終わる。

1527年12月7日

フェデリーコ2世・ゴンザーガ、オデ・ド・フォワの勧奨に従い、カール5世陣営を離れてコニャック同盟陣営に加わる。

1528年2月10日

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロント河に着き、ナポリ領アブルッツォに入る。Chietiアクイラなど各地を次々に占領、略奪しながら進撃。

1528年3月半ば

この頃、Lucera近くでフィレンツェ軍を配下に加えるなど威勢を増したオデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、トロイアでフィリベール・ド・シャロン指揮のカール5世軍と対峙。後者は前者の威力を見て戦わずに退却。

1528年3月下旬~4月

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、分隊を派遣して各地を占領するなど目覚しい進撃を続け、Puglia及びカラブリアの大部分を制圧。ウク・デ・モンカーダ指揮のカール5世軍はナポリ城下まで撤退し、ナポリ防衛を図らざるを得なくなる。

1528年4月下旬

オデ・ド・フォワ配下のアンドレア・ドーリア及びその甥Filippo (Filippino) Doria(1470~1480年~1548~1558年)指揮のジェノヴァ艦隊は、海からナポリを包囲すると共にスペインからの補給物資輸送船のナポリ入港を阻止。これに対してウク・デ・モンカーダ指揮のナポリ守備軍が出撃し激戦を交わすが、1528年4月28日、Capo d'Orsoの戦に敗れ、ウク・デ・モンカーダ自身は戦死。輸送船はアンドレア・ドーリアに捕獲される。

1528年4月末~5月初旬

オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍は、ナポリに接近、市街直前ポッジョ・レアーレに布陣し包囲態勢を取り始める。フィレンツェ軍、マントヴァ軍、フェッラーラ軍は共に小軍ながら包囲陣に加わる。

1528年8月16日

疲労で病気がちだったオデ・ド・フォワ死(1528年8月15日)。ナポリ包囲軍の指揮はMichele Antonioが代わってとるが、ペストの猛威と食糧不足が続く中、兵士の士気・規律低下し、陸上の包囲態勢も崩れる。

1528年

この頃?、フィレンツェは、前年6月の協定に従い援軍を派遣せよとのオデ・ド・フォワの求めに応じて、そのナポリ攻撃にオラーツィオ・バリオーニ指揮の小軍(Bande Nere)を派遣することに決める。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2024年7月7日