Foix

フォワ家

ガストン・ド・フォワ Gaston de Foix

生没
1489年12月10日~1512年4月11日
ジャン・ド・フォワ
マリー・ド・ヴァロワ
概要

 ガストン・ド・フォワは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ヌムール公 1507年~1512年
  次代:ジュリアーノ・デ・メディチ

年表

1511年2月11日
ルイ12世のミラノ総督、軍総指揮官シャルル・ダンボワーズ、死(1473年~)。その地位はジャン・ヤコポ・トリヴルツィオガストン・ド・フォワ(1489年~1512年)が継承。
1511年11月初旬
この頃?、スイス連邦軍がイタリアに侵入しミラノを攻撃。防御するガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍としばらく一進一退の攻防を展開するが、後理由不明のまま撤退。ガストン・ド・フォワに買収されたとの噂が広まる。
1512年1月下旬~2月2日
ヴェネツィア、ブレッシャを、一部貴族と内通の上、軍を送って攻撃し、フランスの支配に反抗する市民に迎えられて占領。
ヴェネツィア、ブレッシャのフランス支配からの脱出に刺激を受けて同じフランス支配に反抗する市民に迎えられ、ベルガモを占領。
1512年2月4/5日
ボローニャ防衛のためモデナから援軍を送っていたガストン・ド・フォワは、吹雪の中を自らも小軍を率いてボローニャに密かに入る。
1512年2月6日
ボローニャを包囲していた神聖同盟軍、深夜、包囲を解いてひとまずイーモラに撤退。
1512年2月19~21日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍は、ブレッシャを奪還し、続いてベルガモも奪還。両地で同軍による凄惨な暴行、略奪、虐殺が行われる。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。

別表記

 ガストン・ド・フォア、ガストン・ドゥ・フォア

外部リンク

 ウィキペディア
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 kleio.org
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia

ジェルメーヌ・ド・フォワ Germaine de Foix

生没
1488年~1538年10月18日
出身
フォワ
没地
リリア
ジャン・ド・フォワ
マリー・ド・ヴァロワ
フェルナンド2世・デ・アラゴン
概要

 ジェルメーヌ・ド・フォワは、15世紀~16世紀の女性。

年表

1505年10月12日
ブロワ協定:フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリをも求める女婿フェリペ1世とその父マクシミリアン1世に対抗すべくルイ12世に急速に接近し、自分は彼の姪ジェルメーヌ・ド・フォワ(1488年~1538年)と再婚し、彼はナポリに対する一切の要求を放棄することなどにつき協定。これにより、フェルナンド2世・デ・アラゴンへのカスティーリアの貴族たちの反感強まる。
1506年3月18日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、1505年10月のブロワ協定によりルイ12世の姪ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚。同協定によりルイ12世はナポリに対する一切の要求を放棄。フェルナンド2世・デ・アラゴンはナポリ王としてFernando IIIを名乗る。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジャン・ド・フォワ Jean de Foix

生没
1450年~1500年11月5日
没地
エタンプ
ガストン4世・ド・フォワ
レオノール・デ・トラスタマラ・イ・エヴルー
マリー・ド・ヴァロワ
ジェルメーヌ・ド・フォワ
ガストン・ド・フォワ
概要

 ジャン・ド・フォワは、15世紀~16世紀の男性。

在位

 ナルボンヌ子爵

年表

1450年
生。
1476年
1483年1月7日
甥のナヴァーラ王フランソワ・ド・フォワ、死。その妹カトリーヌ・ド・フォワが後継者となる。
1483年
ナヴァーラの相続法がサリカ法を採らないにもかかわらず、ジャン・ド・フォワはフォワ家でフランソワ・ド・フォワに次ぐ男子であることを理由に継承権を主張し、ナヴァーラに内乱を起こす。
1497年9月7日
タルブにて、和平を結ぶ。
1500年11月5日
エタンプにて、死。

別表記

 ジャン・ド・フォア

外部リンク

 ウィキペディア
 Famille de Carné
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU

ピエール・ド・フォワ Pierre de Foix

生没
1386年12月13日~1464年12月13/30日
Archambaud de Grailly
イザベル・ド・フォワ
概要

 ピエール・ド・フォワは、14世紀~15世紀の男性、聖職者、枢機卿。

在位

 枢機卿 1414年9月~1464年12月13/30日
     任命した教皇:ヨハネス23世

別表記

 ポール・ドゥ・フォワ

外部リンク

 Gallia christiana novissima. Histoire des archevêchés, évêques et abbayes de France.
 GCatholic.com
 Genealogy.EU
 HISTOIRE de CAROMB
 The Cardinals of the Holy Roman Church
 Wikipedia

参考文献

 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年2月22日