Gian Jacopo Trivulzio

ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ

生没
1440年~1518年12月5日
出身
ミラノ公国ミラノ
没地
アルパジョン
アントーニオ・トリヴルツィオ
フランチェスカ・アイカルディ
マルゲリータ・コッレオーニ
ベアトリーチェ・ダヴァーロス
ジャンニッコロ・トリヴルツィオ
マリーア・カリータ・トリヴルツィオ
アンブロージョ・トリヴルツィオ
ルイジ・トリヴルツィオ
エリザベッタ・トリヴルツィオ
バルバラ・トリヴルツィオ
カテリーナ・トリヴルツィオ
フランチェスカ・トリヴルツィオ
カミッロ・トリヴルツィオ

概要

 ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 フランス元帥 1499年~
 ミラノ総督 1499年~1500年
 ヴィジェヴァーノ侯 1499年~1518年

戦歴

 フォルノーヴォの戦い:フランス王国

年表

1440年

ミラノで生(1441年、1447年頃)。

1467年

フランチェスカ・コッレオーニと結婚。

1486年

ナポリにて、ベアトリーチェ・ダヴァーロスと結婚。

1488年

インノケンティウス8世から祝福された剣を拝受。

1499年7~8月

ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオを名目上の指揮者とし、ロベール・スチュアート・ドオービニイを実質上の指揮者とするルイ12世軍は、アルプスを越えてイタリアに侵攻し、アスティに結集。

1499年8月13日

アンノーナ陥落。

1499年9月6日

市民から鍵を渡され、リニー伯シャルル・ド・ブルボンと共に騎士2百を従え、ティチネーゼ門からミラノに入る。

コモ司教アントーニオ・トリヴルツィオの邸宅で朝食をとる。

1499年9月11日

ミラノスフォルツェスコ城城主ベルナルディーノ・ダ・コルテが降伏を申し入れ、ルイ12世の名において入る。ルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世を頼ってティロルへ敗走。ルイ12世軍はミラノを制圧し、ヴェネツィアも盟約によりクレモーナ、Ghiara d'Addaを獲得。

1499年9月29日

フランス元帥に任命される。

1499年11月8日

ルイ12世によりミラノ総督に任命され、ルイ12世ミラノを去る。

1500年1月31日(金)

ミラノで反乱発生。ミラノ公宮殿ミラノ大聖堂の防備を固め、歩兵2千で甲冑師や建築家や帽子屋の通りを示威のため行進。

1500年2月2日(日)

午前、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿とフェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿の進軍を知り、スフォルツェスコ城の広場に軍を集結。

市内の鐘が一斉に鳴らされ、全市が蜂起。6万人以上の市民がフランス軍を攻撃したという。フランス軍はスフォルツェスコ城内に退避。軍馬の飼料もなく、一夜を明かす。

1500年2月3日(月)

朝、ミラノからフランス軍撤退。橋が壊されていたが、ティチーノの川は浅かったためガイアタに到着。

1509年5月8~10日

シャルル・ダンボワーズと共にルイ12世に従い、軍を指揮してミラノから出撃。

1510年4~5月

シャルル・ダンボワーズとジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。

1510年5月24日

ルイ12世軍、ヴィチェンツァも奪回。

1511年2月11日

ルイ12世ミラノ総督、軍総指揮官シャルル・ダンボワーズ、死。その地位はジャン・ヤコポ・トリヴルツィオとガストン・ド・フォワが継承。

1511年5月上旬

フランス軍の新総指揮官として、大軍を率いて、ユリウス2世が宮廷を置いたボローニャに迫り、教皇軍・ヴェネツィア軍と対峙。

1511年5月21~23日

ボローニャアルフォンソ1世・デステとも通じた市民の反乱生じ、教皇代理フランチェスコ・アリドージ逃亡。フランス軍を率いて、ベンティヴォーリオ家と共にボローニャに入る。

1512年6月半ば

この頃?、ミラノルイ12世の支配に対する反乱発生。

指揮下のルイ12世軍は、ミラノからパヴィアに撤退。ミラノはスイス連邦軍が制圧。

1513年5月

ルイ2世・ド・ラ・トレモイユと共に指揮指揮するルイ12世軍は、ミラノを奪回すべくイタリアに侵攻し、アレッサンドリアなどを難なく制圧。

ジェノヴァもルイ12世軍に服し、Antoniotto Adornoルイ12世の総督になる。

バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍も出陣し、ヴァレッジョ、ペスキエーラを占領してクレモーナに入る。ベルガモ、ブレッシャもヴェネツィアに服し、マッシミリアーノ・スフォルツァ軍の入城を拒絶。

1518年

カステルヌオーヴォ・スクリーヴィアを取り上げられ、ガレアッツォ・サンセヴェリーノに与えられる。

ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオはこれを不服とし、抗議するが、棄却される。

1518年12月5日

叛徒の汚名を着せられたまま、失意の内にパリ近郊アルパジョンで死。

別表記

 ジャン・ジャコーモ、ジャン・ガレアッツォ、Gian GiacomoGiangiacomo

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Famille de Carné
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア史』
 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2023年5月1日