- 生没
- 1462年6月27日~1515年1月1日
- 父
- シャルル1世・ド・ヴァロワ
- 母
- マリア・フォン・クレーフェ
- 妻
- ジャンヌ・ド・ヴァロワ
アンヌ・ド・ブルターニュ
メアリー・チューダー - 子
- クロード・ド・フランス
ルネ・ド・フランス
概要
ルイ12世は、15世紀から16世紀のフランスの男性。
在位
オルレアン公ルイ2世 1465年~1498年
先代:シャルル1世・ド・ヴァロワ
次代:王位に統合
フランス王 1498年5月27日~1515年
ナポリ王 1501年~1504年
年表
1475年7月
イングランド王Edward IV、ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールから十分な支援を得られず、ルイ・ドルレアンの勧誘に応じて終身年金を得ることを条件にアミアン近郊ピキニーで協定を結ぶ。間もなくフランスから撤退。
1476年9月8日
ジャンヌ・ド・ヴァロワと結婚。
1484年1月5日
フランスの全国三部会、初めての全地方の全三身分代表が出席してトゥールで開催される。この中でフランス王シャルル8世・アンヌ・ド・フランス側、ルイ・ドルレアンの摂政就任要求を却ける。
1484年2月
ヴェネツィア共和国から軍事的支援を約束されてミラノ公国への侵攻を促されるも、フランス摂政アンヌ・ド・フランスはイタリア干渉を拒絶。
1485年1月14日
ルイ・ドルレアンとフランソワ2世・ド・ブルターニュが、アンヌ・ド・フランスの支配に対して反乱。道化戦争(1485年~1488年)。
1488年7月27/28日
ルイ・ドルレアンとフランソワ2世・ド・ブルターニュ軍、フランス西部レンヌ近郊のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦で王シャルル8世と摂政アンヌ・ド・フランス軍に敗れ、ルイ・ドルレアンは捕らえられて(1488年~1491年)公領は事実上、王領に併合され、フランソワ2世・ド・ブルターニュはフランス北西部Sable近郊Vergerで自領における王の至上権を事実上、認める協定への署名を強いられる。
1494年5~6月
シャルル8世、リヨンに軍を結集。他方でジェノヴァに艦隊を用意し、ルイ・ドルレアンの指揮下の軍勢を送る。
1494年7月10日
フランス軍を率いてアルプスを越え、アスティ到着。
1494年7月13日
アレッサンドリアにてルドヴィーコ・イル・モーロと軍事会議。
1494年7月
海軍を指揮するためジェノヴァへ向かう。
1494年9月5日
ルイ2世・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ラパッロの戦でナポリ艦隊を破って制海権を奪う。
1494年10月
罹患。
1495年6月11日
この日?、初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘ヴァレンティーナ・ヴィスコンティの孫としてミラノ公位を要求するルイ・ドルレアン、ルドヴィーコ・イル・モーロの対フランス神聖同盟への加盟を契機に彼に対する反攻を開始し、ミラノ近郊ノヴァーラを占領。しかし直ちに同盟軍に包囲される。
1495年9月26日
ノヴァーラを軍と共に出発し、フランス軍の前哨地までマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガとガレアッツォ・サンセヴェリーノに付き添われる。
1495年10月10日
ルイ・ドルレアンのミラノ公位奪還を目指しての決起を見たルドヴィーコ・イル・モーロ、対シャルル8世、対フランス神聖同盟を脱退してシャルル8世ちヴェルチェッリで協定を結び、ルイ・ドルレアンのノヴァーラからの撤退の安全保障、シャルル8世の次回のイタリア侵攻への支持を約束し、代わりにノヴァーラを返還される。
1498年4月7/8日
シャルル8世死。——オルレアン公ルイ・ドルレアン、フランス王に即位しルイ12世を名乗る(在位1498年~1515年)。
ルイ12世、初代ミラノ公ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘ヴァレンティーナ・ヴィスコンティの孫としてミラノ公位を、フランス王としてアンジュー家のナポリ王位を、それぞれ要求。
1498年6月24日
この日?、ルイ12世、ヘンリー7世とのElaplesの協定(1492年)を更新。
1498年8月16日
ルイ12世とアレクサンデル6世の秘密協定:ルイ12世はチェーザレ・ボルジアにヴァレンティノワ領などを与え、彼を軍事的に支援し、彼とナポリの王女カルロッタ・ダラゴーナとの結婚の実現に配慮することなどを、アレクサンデル6世はルイ12世と妻ジャンヌ・ド・ヴァロワの婚姻の無効を承認し、ジョルジュ・ダンボワーズを枢機卿に叙任することなどを、それぞれ約束。
1498年8月
エタンプにて、チェーザレ・ボルジアにベリー公爵領に所在するイスーダンの白塔とそれに付随する権利、及びイスーダンの塩倉庫における塩税を贈与する命令書を発行。
エタンプにて、チェーザレ・ボルジアにヴァレンティノワ及びディユワの伯爵領を贈与する命令書を発行。ギヨーム・ブリソンネ枢機卿、ジョルジュ・ダンボワーズ他が立ち会う。
1498年9月20日
シャルル8世の未亡人であるアンヌ・ド・ブルターニュに対して寡婦財産を割り当てる勅許状を発行。ラ・ロシェルやペズナ伯領など複数の土地と領地、これに関連する塩倉の利益や税収を生涯にわたり享受できる権利を与える。軍隊配置の費用は王室が負担。いかなる妨害も排除され、過去の譲渡は無効とする。
1498年10月
ジャンヌ・ド・ヴァロワとの結婚解消。
ヴァレンティノワ伯爵領とディユワ伯爵領を公爵領に昇格させる命令書を発行。ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿、ラヴァスタン卿他が立ち会う。
1498年12月17日(月)
狩りに行くという口実で出発。
1498年12月18日(火)
偶然を装い、シノンから2リュー離れた場所でチェーザレ・ボルジアと出会い、親しげに迎える(水曜日)。
1498年12月25日(火)
1498年12月26日
ルダンにて、元妻ジャンヌ・ド・ヴァロワに対するベリー公爵領の譲渡に関する勅許状を発行。毎年3万リーヴル・トゥルノワの収入を得る権利を与え、不足分は他の領地から補填。一部の役職や領地管理に関してはルイ12世が任命権を留保。
1499年1月7日(月)
ナントにて、アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚証明書に署名。
ナントにて、ブルターニュ公爵領の統治に関する特許状を発行。シャルル8世の死後、アンヌ・ド・ブルターニュが任命した官職や役人はそのまま維持され、新たな任命は彼女の推薦によって行われること。司教の推薦はブルターニュの君主に属すこと。租税や負担の徴収、財政問題はブルターニュ議会で解決されるべきこと。ブルターニュの貨幣はアンヌ・ド・ブルターニュの名の下で発行され、独立した権利が守られること。公爵領外での戦争に、ブルターニュ貴族が必ずしも従軍する必要はないこと。フランスとブルターニュの境界に関する紛争は現地の裁判官が解決することなどを定める。アンヌ・ド・ブルターニュと合意。
1499年1月8日(火)
ナント城にて、アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚式を挙げる。
1499年2月9日
ヴェネツィア共和国と、ヴェネツィアは一定の金額を支払い、引き換えにルドヴィーコ・イル・モーロからミラノの政権を奪取した時には、ヴェネツィアがクレモーナとアッダ川以東を領有するという趣旨の盟約を結ぶ。
1499年3月初旬
チェーザレ・ボルジアとナポリ王女カルロッタ・ダラゴーナとの結婚の実現に努力するが失敗。間もなくこの結婚は最終的に断念される。
1499年4月15日
ブロワでの盟約を公表(1499年3月25日)。
1499年4月
ブロワにて、チェーザレ・ボルジアに、義理の又姪シャルロット・ダルブレとの結婚を提案。フランス王国での必要経費として11万5千リーヴルを補償。手渡しで貸し付けられた5万エキュの返済を約束。2万リーヴルの年金を保証し、彼とその後継者がヴァレンティノワ公爵領及びディユワ伯爵領における全ての権利、利益、特権を完全に享受できるようにする命令書を発行。
ブロワにて、5万リーヴル・トゥルノワの借金返済を延期する代わりに、先の書状でチェーザレ・ボルジアとその後継者に与えたイスーダンとその塩倉庫の収益に加え、その全ての権利を付与する。塩倉庫その他の役職の任命権を与える命令書を発行。
1499年5月
ロモランタンにて、チェーザレ・ボルジア宛てに手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアとその子孫をフランス王室の一員として認め、フランス王家の紋章である青地に金の百合の花3つを、左上と右下に配置することを許可。直筆で署名。純金製印章を同梱。ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿が立ち会う。
1499年7月~8月
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオを名目上の指揮者とし、ロベール・スチュアート・ドオービニイを実質上の指揮者とするフランス軍、アルプスを越えてイタリアに侵攻し、アスティに結集。
1499年9月初旬
フランス軍、ミラノを攻撃。これと共にヴェネツィアもミラノを挟撃。
1499年9月11日
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオが、フランス王の名においてミラノに入る。ルドヴィーコ・イル・モーロは、マクシミリアン1世を頼ってティロルへ敗走。フランス軍はミラノを制圧し、ヴェネツィアも盟約によりクレモーナ、Ghiara d'Addaを獲得。
1499年9月21日
ヴェルチェッリ到着。
1499年9月26日
ヴィジェヴァーノ到着。
1499年10月2日
パヴィア到着。マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガとフェッラーラ公エルコーレ1世・デステに迎えられる。
1499年10月6日
ミラノ入城。この時チェーザレ・ボルジアもルイ12世に従ってミラノに入り市民の歓迎を受ける。
1499年10月7日
朝、サンタンブロージョ教会のミサに参列。
1499年10月12日
ミラノにて、フィレンツェ使節のアラマンノ・サルヴィアーティ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ロレンツォ・レンツィの3名と折衝し、フィレンツェが彼にそのナポリ攻略のための資金と軍隊を提供する代償に彼はフィレンツェにそのピサ攻略を支援することを約定。
1499年11月7日
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオをミラノ総督に任命して、フランスへ向かいミラノ出発(1499年11月8日)。
1500年2月
1500年2月4日にヴェネツィア共和国で表決され、ファエンツァとリーミニを攻撃することはヴェネツィア共和国との敵対を意味する、ということが伝えられる。
1500年4月初旬
ルドヴィーコ・イル・モーロは、スイス人傭兵に戦闘を拒否されて1500年4月5日ノヴァーラの戦いでルイ12世軍に敗れ、1500年4月10日捕らえられる。(その後フランスのロシェに連行され、1508年5月その地で死)。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは逃亡するが程なく捕らえられ、フランスのブールジュに連行、幽閉される。(1502年釈放されローマに帰る)。
ルイ12世軍は、ミラノを奪還。その他のロンバルディアの諸都市も次々にフランスの軍門に下る。
ルイ12世はシャルル・ダンボワーズ(1473年~1511年)をミラノ総督に任命。
1500年4月8日
ルドヴィーコ・イル・モーロを捕虜にする(1500年4月10日)。
1500年11月11日
グラナダ条約:ルイ12世とフェルナンド2世・デ・アラゴンは、グラナダでナポリ分割の秘密協定を結ぶ。ルイ12世はテッラ・ディ・ラヴォーロ(カンパーニア)、アブルッツィを含む北部、それにナポリ王とエルサレム王の称号を取る。フェルナンド2世・デ・アラゴンはブーリア及びカラブリア公の称号と共に両地方を取るというものである。これに教皇の承認を必要とする。
1500年11月24日
フィレンツェ大使ニッコロ・マキアヴェッリには、「チェーザレ・ボルジアがフィレンツェやボローニャを害しようとしていることが分かれば、チェーザレ・ボルジアの不利益を考慮せず直ちに行動できるように、イタリア駐在の代理人たちを強化するために書かれたものである。」と話し、グラナダ条約について知らせず。
1501年4月26~27日
チェーザレ・ボルジア、ボローニャ制圧を決意し、カステル・ボロネーゼを要求すると共に、ヴィテロッツォ・ヴィテッリの軍にカステル・ボロネーゼで行動を起こさせる。同時に自らも軍を進めてボローニャに向かう。
ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオを保護下に置いていたルイ12世は、チェーザレ・ボルジアの動きを牽制。
1501年5月半ば~下旬
この頃、ルイ12世、チェーザレ・ボルジアにトスカーナから撤兵するよう繰り返して強く指示。
1501年5月
ルクレツィア・ボルジアとアルフォンソ1世・デステの結婚に反対し、代わりにルクレツィア・ボルジアとフェッランテ・デステを結婚させ、ピオンビーノを与えようとする。
1501年5月
シニョーリア、ルイ12世のチェーザレ・ボルジアに対する指示を知ってひとまず安堵。
1501年6月1日
ロベール・スチュアート・ドオービニイ指揮のルイ12世軍、ナポリ攻略のためアルプスを越えてイタリアに侵攻。
1501年6月19~23日
ルイ12世軍は、まずイヴ・ダレーグル指揮の小隊、続いてロベール・スチュアート・ドオービニイの主力部隊の順でローマに入る。
1501年6月25日
アレクサンデル6世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、ルイ12世の三者、協定を結び、アレクサンデル6世は後二者のナポリ分割のグラナダ条約(1500年11月)を承認。1501年6月29日三者の協定、公表される。
1501年6月29日
夕刻、ルイ12世軍、ナポリに向けローマを出発。
1501年7月9日
チェーザレ・ボルジア、ルイ12世軍を追ってナポリに向かう。
1501年7月24日
ルイ12世軍とチェーザレ・ボルジア、カプアを占領し略奪。後彼を先導者としてナポリに入る。
1501年8月1~3日
フェデリーコ・ダラゴーナ、1501年8月1日ルイ12世軍に降伏し、1501年8月3日ナポリから逃亡。ナポリのアラゴン家王朝、事実上滅亡。
1501年8月4日
ルイ12世軍、ナポリ市内を制圧。
1501年9月6日
フェデリーコ・ダラゴーナ、ルイ12世から安全を保証され、次子アルフォンソ・ダラゴーナを連れてフランスに行く。
1501年10月13日
この日?、マクシミリアン1世とルイ12世(の代理、宰相ジョルジュ・ダンボワーズ)、イタリアの処置に関して秘密裡に協定。
1501年10/11月
この頃?、ヴォルテッラの司教フランチェスコ・ソデリーニとルカ・デリ・アルビッツィをルイ12世と宰相ジョルジュ・ダンボワーズのもとに送り、ブロワで、ナポリ攻略の成功に対する祝意を表すると共に、チェーザレ・ボルジアのトスカーナ攻略からフィレンツェを防衛してくれるよう懇請するが、冷たく拒絶される。
1502年2月
ルイ12世との関係が冷却化したマクシミリアン1世、特使をイタリア各国に派遣。
1502年3月
フェデリーコ・ダラゴーナ、ナポリ王位をルイ12世に譲り、代償に年金とアンジュー公領を与えられる。
1502年4月16日
チェーザレ・ボルジアの攻撃から防衛、保護してくれるよう懇請し続ける使節に対し、ルイ12世は、自分のナポリ支配のための資金と騎兵とをフィレンツェが提供することを条件にフィレンツェを防衛すると約束。
1502年6月半ば
ルイ12世、リヨンでチェーザレ・ボルジアとその傭兵隊長たちによるフィレンツェへの敵対行動を知り、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに援軍をトスカーナに送るよう指令。
1502年6月23日
Imbault指揮のルイ12世援軍、ムジェッロ地区に到着。
1502年7月初旬~1504年
フェルナンド2世・デ・アラゴン軍とルイ12世軍2万、ナポリ領内の境界を巡って開戦。
1502年7月2日
Imbault指揮のルイ12世援軍、アレッツォに到着。
1502年7月6日
ルイ12世の使者が、フィレンツェを圧迫するなとの指示を持ってチェーザレ・ボルジアの陣に到着。
1502年7月7日
ルイ12世、アルプスを越えてアスティに入りミラノを目指す。
1502年7月25日
チェーザレ・ボルジア、ミラノのルイ12世のもとに向かってウルビーノを出発。
1502年7月29日
ヴィテロッツォ・ヴィテッリとジャンパオロ・バリオーニは、アレッツォをルイ12世軍に手渡して撤退。
1502年7月
ピエロ・ソデリーニ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ルイジ・デッラ・ストゥファ(1453年~1535年)の3名、使節としてアスティでルイ12世と会見し、そのフィレンツェ支持の意図を再確認。
1502年8月5日
朝、チェーザレ・ボルジアが到着することを知ったルイ12世は、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの耳に、しかし周囲に聞こえるくらいの大きさで、そのことを囁いたという。
数時間後、チェーザレ・ボルジアを好意的に迎える。自ら、スフォルツェスコ城に用意された彼の部屋まで付き添う。
1502年8月6日
チェーザレ・ボルジアを歓迎する宴を主催。
1502年8月
チェーザレ・ボルジアの娘ルイーズ・ボルジアと、フランチェスコ2世・ゴンザーガの息子フェデリーコ2世・ゴンザーガの結婚を勧める。
1502年8月14日
ルイ12世軍指揮官Imbaultとアレッツォの返還につき協議するためルカ・デリ・アルビッツィとニッコロ・マキアヴェッリをアレッツォに派遣することを決める。
1502年10月
ヴェネツィア共和国宛に手紙をしたためる。「教会に反抗するなら敵とみなす」として、ヴェネツィア共和国のマジョーネ同盟支援を牽制。1502年10月23日、この手紙の写しをチェーザレ・ボルジアがニッコロ・マキアヴェッリに読み上げる。
1502年10月31日
チェーザレ・ボルジア支援に送った軍がファエンツァに到着。
1502年11月27日
チェーザレ・ボルジアとボローニャ領主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの同盟批准に合意。
1503年3月初旬
フランチェスコ・ダ・ナルニを直接ではなくおそらくジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿を通してトスカーナに派遣し、フィレンツェ、ボローニャ、ルッカ、シエナと同盟し、フランス保護下に置くことを提案。
1503年3月29日
パンドルフォ・ペトルッチは、ルイ12世を後ろ盾としてシエナに復辟。
アレクサンデル6世、チェーザレ・ボルジア親子の版図、権勢のこれ以上の拡大を警戒し、フィレンツェやシエナなどと秘密裡に交渉していた彼は、これら諸国の保護とこれら諸国による自分のナポリ攻略の支援とについて合意し、シエナにパンドルフォ・ペトルッチを復辟させてチェーザレ・ボルジアを退ける。
アレクサンデル6世、チェーザレ・ボルジア親子、とりわけアレクサンデル6世はルイ12世から離反し、彼と対抗するフェルナンド2世・デ・アラゴン及びヴェネツィアに傾倒し始める。
1503年4月21日
フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ナポリ領でルイ12世軍を圧倒し始める。
1503年4月28日
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、チェリニョーラでルイ12世軍に完勝。ルイ12世軍は完全に孤立。
1503年5月13/14日
ゴンザロ・デ・コルドバ、ナポリに入城。
この頃、ルイ12世は、ナポリ奪回のため新たな侵攻軍を準備。
1503年6月1日
この日?、9名の新枢機卿を任命。これによって巨額の収入を得、チェーザレ・ボルジアの軍資金とすると共に、9名の内5名はスペイン人を任命してスペインへの傾斜を示す。
チェーザレ・ボルジアはルイ12世の勢力を無視できず、彼のもとに自分の将兵2名を送るなど、態度の変更を明示せず。
1503年7月
この頃、ナポリ奪回を目指してアルプスを越えたルイ2世・ド・ラ・トレモイユ(1460年~)指揮のルイ12世軍、パルマに結集。
1503年8月初旬~9月初旬
フランス人兵士の他、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガの指揮するイタリア人傭兵などからなるルイ12世軍、フィレンツェを経由して続々とナポリに向かう。
1503年8月下旬~9月1日
チェーザレ・ボルジア、1503年8月23日頃までにコロンナ家と、これまで同家から奪った領地を返還すること、オルシーニ家に共同で対抗することについて合意し、さらに1503年9月1日一身及びロマーニャの保護、防衛についてルイ12世と新たに協定して彼に再接近。
1503年
ヴェネツィアのロマーニャ進出を阻むため、ルイ12世と1503年9月1日、防衛の協定を結んだチェーザレ・ボルジアを支持する方針に傾く。
1503年10月12日
オルシーニ家、コロンナ家及びフェルナンド2世・デ・アラゴンは、チェーザレ・ボルジアとルイ12世の協定に対抗する協定を締結。コロンナ家の離反により、チェーザレ・ボルジアには実際の支援を望めないルイ12世、フランスのみが残る。
1503年11月2日
フォルリでチェーザレ・ボルジアの支配に対する反乱発生。
この頃?、4歳の娘ルイーズ・ボルジア(1490年~)と教皇ユリウス2世の縁戚でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ(1490年~1538年:セニガッリアの君主在位1501年~:ウルビーノ公1508年~1516年、1523年~1538年)との婚姻などの約束が取り交わされ、ユリウス2世をなお信頼し続ける。
この頃?、ルイ12世軍はナポリ領に入りフェルナンド2世・デ・アラゴン軍と交戦。
1503年12月28日
ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ガリリャーノの戦いでルイ12世に完勝。
1503年12月28日
ルイ12世軍の陣にいたピエロ・イル・ファトゥオは、ガリリャーノ川で溺死(1472年~1503年)。
1503年12月31日
対スペイン戦争におけるルイ12世軍の最後の拠点ガエタは、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍に降伏。
1504年1月1日
すでにガエタニ押し込まれていたルイ12世軍は、ゴンザロ・デ・コルドバから帰国の安全を保障するとの撤退条件を提示されて受諾し、ナポリにおける最後の拠点であるこの力惨憺たる状態で帰国の途につく。ナポリは事実上、フェルナンド2世・デ・アラゴンの手に入る。
1504年1月初旬
対スペイン戦争に関するルイ12世の意図と準備態勢を知るため、ルイ12世のもとにニッコロ・ヴァローリ(1464年~1526年)を派遣。
1504年2月11日
ルイ12世とフェルナンド2世・デ・アラゴンは、リヨンで休戦協定を締結。ルイ12世は、ナポリ領有をひとまず断念し、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ支配を承認。これによりフィレンツェの対ピサ戦争を除くイタリアの戦乱、ひとまず終息。
1504年9月22日
ルイ12世、マクシミリアン1世、マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世の3者、ユリウス2世の指示の下にブロワで協定を締結。ルイ12世のミラノ支配、ルイ12世の娘クロード・ド・フランス(1499年~1524年)とフェリペ1世の長子(すなわちマクシミリアン1世の孫)カール5世の結婚、ロンバルディアやロマーニャに進出してきたヴェネツィアへの対抗などで合意。
1505年3月
この頃?、ルイ12世が瀕死の重病に陥り、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァはミラノ奪還の策動を開始。ユリウス2世、ヴェネツィア、ヴィテッリ家、オルシーニ家、パンドルフォ・ペトルッチ、フィレンツェの傭兵隊長の一人ジャンパオロ・バリオーニを巻き込み、当面はメディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟のフィレンツェ復帰を図る。軍事行動の指揮はバルトロメオ・ダルヴィアーノが担当。
1505年5月31日
ルイ12世の病気を機に、その王参議会は前年9月のブロワでの協定を事実上解消。
1505年10月12日
ブロワ協定:フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリをも求める女婿フェリペ1世とその父マクシミリアン1世に対抗すべくルイ12世に急速に接近し、自分は彼の姪ジェルメーヌ・ド・フォワ(1488年~1538年)と再婚し、彼はナポリに対する一切の要求を放棄することなどにつき協定。これにより、フェルナンド2世・デ・アラゴンへのカスティーリャの貴族たちの反感強まる。
1505年10月12日
フェルナンド2世・デ・アラゴンとルイ12世のブロワ協定締結により、フェルナンド2世・デ・アラゴンの軍、ピサ及びピオンビーノから撤退。
1506年2月18日
手紙をしたためる(1507年2月18日)。ヴァレンティノワ公国とディユワ伯領とイスーダン領はフランス王国に復した。「教皇アレクサンデル6世崩御後、余の臣下と軍がナポリ王国の回復に尽力していた時、チェーザレ・ボルジアは余の敵の味方に付き、奉仕し利し軍をもって支援した。すなわち余と先述した臣下と軍に刃向かい、回復不可能な損失を与えた。」
1506年3月18日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、1505年10月のブロワ協定によりルイ12世の姪ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚。同協定によりルイ12世はナポリに対する一切の要求を放棄。フェルナンド2世・デ・アラゴンはナポリ王としてFernando IIIを名乗る。
1506年5月21日
1504年9月のブロワでの協定でフェリペ1世の子カール5世と結婚することになっていたルイ12世の娘クロード・ド・フランスは、ルイ12世の従兄弟フランソワ・ダングレーム(1494年~1547年:在位1515年~1547年)と婚約。
1506年6?~10月
ジェノヴァで民衆の革命的反乱発生:前年から、ルイ12世の支配下で実権を握っていた貴族に対抗していた民衆は、官職の三分の二を民衆に与えよとの要求を受諾された後もなお反貴族政体の革命を志向し、民衆政府を樹立(1506年~1507年)。
1506年8月26日
ユリウス2世、ロマーニャの教会領の直轄統治、教会国家再建を目指し、ペルージアとボローニャを制圧すべく、軍と枢機卿(24名)を率いてローマを出発。これにより先ルイ12世、ヴェネツィア、フィレンツェ、マントヴァ、フェッラーラなどこの遠征に対する支援を要求。
1506年9月25日
カスティーリャの摂政フェリペ1世急死し、フェルナンド2世・デ・アラゴンが再び摂政となってカスティーリャの実権を掌握。
ルイ12世の動きを牽制しかつローマで神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行すべくイタリアに侵攻しようと画策中のマクシミリアン1世、子フェリペ1世の急死により、重要な支持者を失い、一時、計画を延期して改めて帝国内に支持を求めざるを得なくなる。
1506年10月20日
ユリウス2世がイーモラに到着。直ちにジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにボローニャ明け渡しをさらに強く要求。
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオは、ルイ12世の支援を期待し、防衛態勢を整える。
すでにルイ12世から軍を率いてユリウス2世を支援するよう指令を受けていたミラノ総督シャルル・ダンボワーズは、ユリウス2世の軍(マントヴァ、フェッラーラ、ウルビーノ、フィレンツェなどからの援軍を含む)と反対側からボローニャに迫る。ヴェネツィアはユリウス2世の援軍派遣の要求に応じず、中立を守る。
1507年2月22日
ユリウス2世、ボローニャを出発しローマに向かう。
ルイ12世がジェノヴァ平定、占領の態勢を取りつつあるとの報に、ジェノヴァを生地とするユリウス2世、ルイ12世に怒りを覚えつつジェノヴァのために両者の仲介を考慮。
1507年3月下旬
ルイ12世、ジェノヴァ平定のためブロワを出発し、イタリアに向かう。
1507年4月初旬
ルイ12世、大軍を率いてイタリアに入る。初め自らはアスティに留まり、水軍をジェノヴァに向ける。後陸軍を率いてジェノヴァに向かう。
1507年4月28日
ルイ12世、ジェノヴァに入城。反乱に対しては比較的穏便な処罰を行い、懐柔策をとる。
1507年5月11日
ルイ12世、ジェノヴァをフランスに併合。
1507年5月14日
ルイ12世、ジェノヴァ出発。
1507年5月23日
ミラノに到着。
1507年5月
ジェノヴァ平定、併合に対するユリウス2世とヴェネツィアの懸念を解くため、自軍の一部を帰国させ傭兵を解雇するなど、ジェノヴァ制圧軍を解散。
1507年6月28日
フェルナンド2世・デ・アラゴン、待機していたルイ12世の歓迎を受けてサヴォーナに到着。両者この地で7月1日まで会見し、ヴェネツィア攻撃、マクシミリアン1世の自軍への勧誘、教会改革のための公会議開催、ピサのフィレンツェへの帰属について合意。
1507年7月
この月?、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ルイ12世により宮廷画家兼技師に任命される。
1507年初秋
マクシミリアン1世のもとに正式の大使を派遣して関係を改善すべきか、ルイ12世との従来の友好関係を重視すべきかで指導的貴族層の意見対立。結局、後者を重視するよう主張するピエロ・ソデリーニらの意見に落ち着き、前者に関しては使節フランチェスコ・ヴェットーリに正式の大使の権限を付与することになる。
1507年
マクシミリアン1世、ヴェネツィアに対し、ローマ遠征のため領内通行の許可を求める。
ヴェネツィア、内部でマクシミリアン1世の側につくべきかルイ12世の側につくべきか激論の上、前者に軍を伴わないことを条件に領内通行を認めると決め、事実上、要求を拒否。
1508年2月下旬~3月
マクシミリアン1世は、軍と共にヴェネツィア領フリウーリ、Cadoreに侵攻するが、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍はこれを撃破し、逆にゴリツィア、トリエステなどハプスブルク家の所領を占領。
ルイ12世は、ミラノ総督シャルル・ダンボワーズに、ヴェネツィアを支持し、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ指揮の軍を用いてマクシミリアン1世からミラノを防衛せよと指令。
1508年4月
マクシミリアン1世、やむなくヴェネツィアと休戦交渉を行い、1508年4月30日、3年間の休戦協定を締結。
マクシミリアン1世、ヴェネツィアに対する怒り、不満を一段と強め、ルイ12世も自分に無断でマクシミリアン1世と休戦協定を締結したヴェネツィアに対する不満を強める。これら不満、怒りを、ロマーニャを占領し続けるヴェネツィアを敵視していたユリウス2世が、さらに助長し両権力者を反ヴェネツィアで結束させるべく腐心。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年3月12日
この日?、ルイ12世及びフェルナンド2世・デ・アラゴンと協定。両者に献金する代償としてピサ支援の中止を約束させる。
1509年3~4月
ルイ12世軍、ミラノに結集。
1509年4月15~16日
ミラノに結集したシャルル・ダンボワーズ指揮のルイ12世軍は、ルイ12世の命を受けて出撃。ルイ12世も自ら軍を率いてアルプスを越え、またイタリアに侵入。
1509年5月8~10日
ルイ12世は、ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオとシャルル・ダンボワーズ指揮の全軍を率いて改めてミラノから出撃。
1509年5月14日
アニャデッロの戦い:ルイ12世自ら率いるフランス軍、ヴァイラ(ヴァイラーテ)近くのアニャデッロにおいて3時間余の戦闘でバルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍を撃破。大戦の中でバルトロメオ・ダルヴィアーノは負傷し捕虜となる(1513年釈放)。以後、ヴェネツィアは領土拡大政策を放棄(1425年~1509年)。
1509年5月15日~6月初旬
ルイ12世軍、ベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、ペスキエーラなどを制圧。
ユリウス2世軍、ファエンツァ、リーミニ、チェルヴィア、ラヴェンナなどを制圧。
マクシミリアン1世軍、ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドヴァ、トレヴィーゾなどを制圧。
フェルナンド2世・デ・アラゴン、オトラント、ブリンディジ、トラーニなどナポリ領内のヴェネツィア占領地を制圧。
1509年6月
ルイ12世、軍を残して帰国。
1509年7月8日
アニャデッロの戦い以後のルイ12世及びマクシミリアン1世の勢力伸長を懸念していたユリウス2世、両者の反対を押してヴェネツィアの使節1名を内々に迎え、全占領地の放棄を要求。折衝、中断。ヴェネツィアで教皇に対する強硬論、噴出。
1509年10~11月
ユリウス2世、ヴェネツィアの過度の弱体化はルイ12世とマクシミリアン1世の、ことに前者の威勢をさらに強め、教会とりわけ教皇である自身の威力を脅かすことになるとの懸念を強める。
1509年11月15~16日
ヴィチェンツァが、マクシミリアン1世の支配に反乱を起こし、ヴェネツィアに城門を開く。戦局の中心はヴェローナに移る。
ヴィチェンツァを制したヴェネツィアは、さらにヴェローナを攻撃するが、シャルル指揮のルイ12世軍に撃退される。マクシミリアン1世は辛うじてヴェローナを守る。
1510年1月
オスマン・トルコ、フランスルイ12世、ドイツマクシミリアン1世、スペインフェルナンド2世・デ・アラゴンへの、とりわけフランスルイ12世への対抗勢力として利用するためヴェネツィアを過度に弱めない方針をとることを決めた教皇は、対ヴェネツィア戦をさらに強く断行すべしとのルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズの申し入れを拒絶。
1510年2月24日
ユリウス2世、ヴェネツィアと和解。教皇はヴェネツィアに対する破門及び聖務の禁止処分を解除し、ヴェネツィアは教皇の至上権及びフェッラーラ攻撃を承認。
カンブレー同盟陣営、とりわけルイ12世は、教皇の方針変更に気づき、大いに不満を覚える。
ユリウス2世、教会領の完全な回復を目指し、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステにルイ12世からの離反、ヴェネツィアへの敵対の中止を指示。しかし、アルフォンソ1世・デステは依然ルイ12世と協同歩調をとってヴェネツィアに敵対。
1510年3月14日
ユリウス2世、ルイ12世の勢力一掃に利用すべくスイスの全州と協定し、その軍事的協力を取り付ける。
1510年3月下旬
この頃?、ユリウス2世、ルイ12世に敵対させるべく、ヘンリー8世に秘密裡に働きかけるが失敗。
1510年4~5月
シャルル・ダンボワーズとジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、アルフォンソ1世・デステの率いるフェッラーラ軍、ヴェネツィアの占領地を再奪還し始める。1510年5月24日ヴィチェンツァも奪回。
1510年5月25日
ルイ12世の宰相、枢機卿ジョルジュ・ダンボワーズ、リヨンで死。
ルイ12世をユリウス2世と和解させることに努めてきたジョルジュ・ダンボワーズの死により、以後、両者の対立、より深刻化する。
1510年6月
ルイ12世軍、マクシミリアン1世軍、フェッラーラ軍のヴェネツィア領攻撃、奪還続く。
ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。
すでに実質上カンブレー同盟を破棄しているユリウス2世、ルイ12世の孤立化を図ってアルフォンソ1世・デステにルイ12世からの離反を指令すると共に、マクシミリアン1世、ヘンリー8世及びジェノヴァに反ルイ12世の行動を取らせるべく画策。
1510年6月
ユリウス2世とルイ12世の対立が深まる中、伝統的親フランスの方針を取るピエロ・ソデリーニ派とメディチ派など反ピエロ・ソデリーニ派との対立も深まる。しかしフランスとの同盟も断てず、近隣諸国に布陣する教皇軍も無視できず、態度決定をなし得ぬまま動揺を続ける。
ルイ12世より、政治方針を明確化せよと執拗な要求を受ける。
1510年6月20日
ピエロ・ソデリーニ及びディエチ、ルイ12世のもとに、これまでの彼との合意は遵守することを伝えるべく、ニッコロ・マキアヴェッリを派遣することに決める。
1510年7月
ユリウス2世、すでにフィレンツェの傭兵隊長の任を離れたマルカントーニオ・コロンナの指揮する陸軍をフィレンツェ領経由で送り、ヴェネツィアの水軍と協同でジェノヴァを攻撃。しかし、期待した市内での市民の反乱生じず、ルイ12世軍により撃退される。
ユリウス2世、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの指揮する自己の大軍にフェッラーラ攻撃の、スイス連邦軍にミラノ攻撃の態勢をそれぞれ整えさせる。
1510年8月16日
ルイ12世、ユリウス2世に対抗すべく、全てのフランス人臣民にローマ教皇庁への出入りを禁ずる王令を発する。
1510年9月14/15日
ルイ12世、ユリウス2世に対抗すべく、トゥールにフランス公会議を召集し、教会改革のための万国公会議の開催について検討。
1510年11月17日
ルイ12世、マクシミリアン1世と新たに協定を結び関係を強化。
1510年12月中旬
この頃?、ユリウス2世、ルイ12世のローマにおける代理役を務める枢機卿Clermont卿を逮捕させ、サンタンジェロ城に幽閉させる。
1510年
フィレンツェにユリウス2世とルイ12世の仲介を託す案がルイ12世の宮廷で討議されていると伝えられるが、この役を回避することに決める。
1511年1月初旬
フェルナンド2世・デ・アラゴンにフィレンツェの政治的態度を説明してその支持を得るべく、彼のもとにフランチェスコ・グイッチャルディーニを派遣するが失敗に終わり、かつルイ12世の反感を誘うに至る。
1511年1月半ば
ミランドラの間近に宮廷を置いたユリウス2世、ルイ12世軍の砲撃に曝される。
1511年2月11日
ルイ12世のミラノ総督、軍総指揮官シャルル・ダンボワーズ、死(1473年~)。その地位はジャン・ヤコポ・トリヴルツィオとガストン・ド・フォワ(1489年~1512年)が継承。
1511年5月16日
マクシミリアン1世の同意を得たルイ12世、1511年9月1日にフィレンツェ領ピサで公会議を開くと宣言。但しマクシミリアン1世は間もなく動揺し態度を変更。
1511年7月25日
ユリウス2世、自分の廃位を狙ってルイ12世が開こうとしているピサの分離公会議に対抗すべく、1512年4月19日、ローマのラテラーノ大聖堂で万国公会議を開くと宣言。
1511年8月17~28日
ヘンリー8世らと対ルイ12世・対フランス同盟の結成について合意を得つつあったユリウス2世、繰り返し高熱に襲われ倒れる。
周辺の誰もが高齢の教皇の再起不能を信じ、枢機卿らと彼らからの報を受けた諸国、諸権力者の間で後継選出争いの動きの強まる中で奇跡的に回復したユリウス2世、対フランス同盟を目指して活動を再開。
1511年9月
ユリウス2世の圧迫、攻撃を防ぐためルイ12世に分離公会議をフィレンツェ領外で開催するよう求めることにし、ニッコロ・マキアヴェッリをルイ12世のもとへ派遣。
1511年10月4日
対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。
フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ラモン・デ・カルドナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。
1511年11月初旬
この頃?、スイス連邦軍がイタリアに侵入しミラノを攻撃。防御するガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍としばらく一進一退の攻防を展開するが、後理由不明のまま撤退。ガストン・ド・フォワに買収されたとの噂が広まる。
1512年
ボローニャでルイ12世軍が神聖同盟軍を撃退したとの報が伝えられ、ピエロ・ソデリーニは市民に、フィレンツェの利益と威信を守る上でフランス側につくことこそが必要だと力説。
1512年2月19~21日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍は、ブレッシャを奪還し、続いてベルガモも奪還。両地で同軍による凄惨な暴行、略奪、虐殺が行われる。
1512年
この頃、ルイ12世より、再三に渡って新たな協定の締結を強く求められる。
フランス側と神聖同盟側のいずれに立つべきかについて指導層の見解対立して方針を決定できず、しばらく時間を稼ぐ。
1512年4月11日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ラモン・デ・カルドナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。
完敗した同盟軍はラモン・デ・カルドナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ1世・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。
1512年5月3~17日
ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、ユリウス2世はその勅書を発する。
ヘンリー8世は、ユリウス2世の勧奨も受けて大軍をフランス領に接したスペインのオンダリビアに上陸させ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍と共にギュイエンヌ攻撃態勢を整えさせる。
このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァーラ王国のジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。
ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、ミラノ攻撃態勢を整える。
ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いてミラノ防衛に回すよう指示。
1512年5月21日
パンドルフォ・ペトルッチ死。——子ボルゲーゼ・ペトルッチ、シエナの君主となる(在位1512年~1516年)。
ルイ12世と神聖同盟の間で動揺していたマクシミリアン1世、ユリウス2世の説得を容れてヴェネツィアと休戦し、神聖同盟に加入。スイス連邦軍のティロル通過の承認、ルイ12世軍の精鋭をなしていたドイツ人歩兵全員の召還など反ルイ12世の方針を打ち出す。
1512年6月初旬~半ば
神聖同盟軍(ユリウス2世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ヴェネツィア軍)、マクシミリアン1世軍、スイス連邦軍は、ラヴェンナ、リーミニ、チェゼーナを奪い、1512年6月13日、ボローニャを制止、クレモーナ、ブレッシャ、ベルガモを奪うなど、ロマーニャ及びロンバルディアにおけるルイ12世の支配を次々と打破。
1512年6月6日
ユリウス2世、イタリアからのルイ12世軍勢の追放に貢献したスイス連邦に「教会の自由の警護者」の永久称号を賦与するとの小勅書を発する。
1512年6月10日
神聖同盟軍から兵を得たGiano II Fregoso(1445年頃~1527年以降)がジェノヴァに迫るや、市内にルイ12世の支配に対する反乱発生。
1512年6月
この頃、ジョヴァンニ・デ・メディチ、ルイ12世の捕虜としてフランスに護送される途中ポー河畔で逃亡し、ボローニャに逃れる。
1512年6月半ば
この頃?、ミラノでルイ12世の支配に対する反乱発生。
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオ指揮のルイ12世軍はミラノからパヴィアに撤退。ミラノはスイス連邦軍が制圧。
1512年6月下旬
ルイ12世軍の敗退で孤立したアルフォンソ1世・デステ、姉イザベッラ・デステの夫フランチェスコ2世・ゴンザーガや自分が捕らえていたファブリツィオ1世・コロンナらの仲介でユリウス2世から自身及び領国の安全を保証されローマに向かう。
1512年6月下旬~末
ルイ12世軍の敗北、全面撤退。スイス連邦軍にパヴィアも攻略されたルイ12世、さらにアスティまで追われ、そのアスティまで攻略されてイタリアから全面的に撤退。代わってスイス連邦軍とヴェネツィア軍が、ロンバルディアに進出。
1512年6月
ヘンリー8世軍とフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ナヴァーラへのルイ12世の支援を阻むためギュイエンヌに侵攻。
1512年7月4日
アルフォンソ1世・デステ、ローマ着。ユリウス2世に拝謁を許され、ルイ12世との同盟について許しを乞う。後、ユリウス2世からフェッラーラの放棄、譲渡を求められるがこれを拒絶して怒りを買い、ファブリツィオ1世・コロンナ、マルカントーニオ・コロンナ兄弟らの協力により変装して、1512年7月19日ローマを逃亡、フェッラーラに向かう。
ユリウス2世は、すでにアルフォンソ1世・デステの領国の一つレッジョを占領。
1512年7月18日
ルイ12世とジャン・ダルブレ、ブロワで協定。
1512年8月12日
この日?、神聖同盟諸国の代表、対ルイ12世戦勝利後の相互関係の確認、イタリア各地の処理、再編のためマントヴァで会合。ミラノ公としてルドヴィーコ・イル・モーロの子マッシミリアーノ・スフォルツァ(1493年~1530年:ミラノ公在位1512年~1515年)をスイス連邦の後見の下に立てること、ユリウス2世はロマーニャの全教会領の他、パルマ、ピアチェンツァ、レッジョ、モデナを得ること、フィレンツェにメディチ家を復帰させることなどを決める。
この過程で、ルイ12世に代わるユリウス2世のロンバルディアにおける勢力拡大にマクシミリアン1世陣営が不満を残すなど参加諸権力者間の思惑の違いが明らかになる中、ルイ12世支持、分離公会議保護を続けたフィレンツェの処罰については全参加者が完全に合意。
1512年12月3~10日
ラテラーノ公会議再開。ピサの分離公会議を異端とすること、ルイ12世を教会及び教皇の敵と見なすことなどを決議。
1513年3月23日
ブロワ協定:イタリア侵攻とミラノ奪回を目指すルイ12世と自領回復、拡大を目指すヴェネツィアは、ルイ12世はヴェネツィアにベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、Ghiara d'Addaの領有を認め、捕虜としている(1509年~)バルトロメオ・ダルヴィアーノを釈放すること、ヴェネツィアは彼に軍を提供することなどにつきブロワで協定。
1513年4月1日
ルイ12世、フェルナンド2世・デ・アラゴンと、前年フェルナンド2世・デ・アラゴンが自領に併合しなかったフランス側ナヴァーラの地(ベアルンのオルテズ)でイタリア以外の問題に関して協定を結び、イタリア侵攻の態勢をさらに整える。
1513年4月5日
神聖同盟(1511年)の更新:新教皇レオ10世、マクシミリアン1世、ヘンリー8世、及びフェルナンド2世・デ・アラゴンが、ネーデルラントのメヘレンで対フランス神聖同盟を更新することにつき協定。但し、レオ10世は同盟とルイ12世の間で中立的な姿勢を、フェルナンド2世・デ・アラゴンは、1513年4月1日のルイ12世との協定を優先的に遵守する姿勢を保ち続ける。
1513年
この頃?、レオ10世、ルイ12世とヴェネツィアのブロワ協定及びそれによって釈放されたバルトロメオ・ダルヴィアーノを指揮官とするヴェネツィア軍の強化などを挙げてマッシミリアーノ・スフォルツァを脅かし、ラモン・デ・カルドナが彼に服従させたパルマ、ピアチェンツァを取り上げる。
1513年5月
ルイ2世・ド・ラ・トレモイユとジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの指揮するルイ12世軍は、ミラノを奪回すべくイタリアに侵攻し、アレッサンドリアなどを難なく制圧。
ジェノヴァもルイ12世軍に服し、Antoniotto Adorno(1479年頃~1530年)がルイ12世の総督になる。
バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍も出陣し、ヴァレッジョ、ペスキエーラを占領してクレモーナに入る。ベルガモ、ブレッシャもヴェネツィアに服し、マッシミリアーノ・スフォルツァ軍の入城を拒絶。
1513年6月6日
ルイ12世は、ノヴァーラで大激戦の末ミラノ側のスイス連邦軍に完敗するなど、各地で敗退。バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍もローディでラモン・デ・カルドナ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に阻まれてルイ12世軍を支援できず。ルイ12世軍は、間もなくイタリアから撤退。
1513年6月17日
オッタヴィアーノ・フレゴーソ(1470年~1524年)、ラモン・デ・カルドナから与えられた軍を率いてジェノヴァに入り、ルイ12世の総督Antoniotto Adornoを追放してドージェに就任。
1513年8月16日
フランス軍は、Guinegatteの戦でヘンリー8世軍に敗北。
1513年9月13日
ディジョンでスイス連邦軍に包囲されていたルイ12世軍の指揮官ルイ2世・ド・ラ・トレモイユが、ミラノに対するルイ12世の要求権を放棄することに同意。
1513年夏~1513年秋
ルイ12世軍がイタリアから撤退し、かつフランス本国がヘンリー8世軍やスイス連邦軍の攻撃を受けてルイ12世が軍をイタリアに新たに侵攻させることは不可能になったために孤立したヴェネツィア軍は、神聖同盟軍(マクシミリアン1世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、及びスイス連邦軍を中心とするミラノ軍)とヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァなどを巡って戦闘を続けていたが、パドヴァに撤収して防備を固める。
レオ10世、神聖同盟陣営に小軍を送って同盟側に断つ態度をようやく明確に示し始めると共に、ヴェネツィアに対しフランスとの同盟を破棄するよう工作するが失敗。
1513年10月
ルイ12世軍によりルッカに売却された(1494年)ピエトラサンタとMutroneを奪還すべくルッカに軍を派遣し、周辺の要塞を占領。問題を提訴してきたルッカに対してレオ10世は、1513年10月12日、領地のフィレンツェへの帰属、フィレンツェ軍が占領した要塞のルッカへの返還と裁定。
1513年11月6日
この年6月から折衝を続けてきたレオ10世とルイ12世は、ピサ分離公会議(1511年)問題についてフランス・コルベイユで和解、協定。ルイ12世はこの公会議を断念、否認し、教皇はこの公会議推進派としてユリウス2世に破門された枢機卿5名を赦免。
1513年12月19日
この日、開会されたラテラーノ公会議の第八回会議の冒頭、ピサ分離公会議を否認しラテラーノ公会議を唯一の公会議として承認するとのルイ12世の宣言文が読み上げられる。
1514年5月13日
ルイ12世とフェルナンド2世・デ・アラゴン、オルレアンで前年4月の協定を更新し、フェルナンド2世・デ・アラゴンはルイ12世のミラノ攻撃に際して中立を保つことをも保証。
1514年5月18日
ルイ12世と故アンヌ・ド・ブルターニュの娘クロード・ド・フランス、ルイ12世の親族フランソワ・ダングレームと結婚。
1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、マクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1514年8月6/7日
ルイ12世とヘンリー8世は、ロンドンで相互防衛協定を結び、ルイ12世はヘンリー8世の妹メアリー・チューダー(1496年~1533年)と婚約。1514年10月9日結婚。
1515年1月1日
死。
別表記
ルイ・ドルレアン、Louis d'Orléans
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Genealogy.EU
Google Books
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『Ordonnances des roys de France de la troisième race』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年10月9日