- 生没
- 1462年6月27日~1515年1月1日
- 父
- シャルル1世・ド・ヴァロワ
- 母
- マリー・ド・クレーヴ
- 妻
- ジャンヌ・ド・ヴァロワ
アンヌ・ド・ブルターニュ
メアリー・チューダー
- 子
- クロード・ド・フランス
ルネ・ド・フランス
概要
ルイ12世は、15世紀~16世紀のフランスの男性。
在位
オルレアン公ルイ2世 1465年~1498年
先代:シャルル1世・ド・ヴァロワ
次代:王位に統合
フランス王 1498年5月27日~1515年
先代:シャルル8世
次代:フランソワ1世
ナポリ王 1501年~1504年
先代:フェデリーコ・ダラゴーナ
次代:フェルナンド2世・デ・アラゴン
年表
1475年7月
イングランド王
Edward IV、ブルゴーニュ公
シャルル・ル・テメレールから十分な支援を得られず、ルイ・ドルレアンの勧誘に応じて終身年金を得ることを条件にアミアン近郊ピキニーで協定を結ぶ。間もなくフランスから撤退。
1484年1月5日
フランスの全国三部会、初めての全地方の全三身分代表が出席してトゥールで開催される。この中でフランス王
シャルル8世・アンヌ・ド・フランス側、ルイ・ドルレアンの摂政就任要求を却ける。
1484年2月
ヴェネツィア共和国から軍事的支援を約束されて
ミラノ公国への侵攻を促されるも、フランス摂政アンヌ・ド・フランスは
イタリア干渉を拒絶。
1485年1月14日
ルイ・ドルレアンとフランソワ・ド・ブルターニュが、アンヌ・ド・フランスの支配に対して反乱。道化戦争(1485年~1488年)。
1488年7月27/28日
ルイ・ドルレアンとフランソワ・ド・ブルターニュ軍、フランス西部レンヌ近郊のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦で王
シャルル8世と摂政アンヌ・ド・フランス軍に敗れ、ルイ・ドルレアンは捕らえられて(1488年~1491年)公領は事実上、王領に併合され、フランソワ・ド・ブルターニュはフランス北西部
Sable近郊
Vergerで自領における王の至上権を事実上、認める協定への署名を強いられる。
1494年5~6月
シャルル8世、リヨンに軍を結集。他方でジェノヴァに艦隊を用意し、ルイ・ドルレアンの指揮下の軍勢を送る。
1494年7月10日
フランス軍を率いてアルプスを越え、アスティ到着。
1494年7月13日
1494年7月
1494年9月5日
ルイ2世・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ラパッロの戦で
ナポリ艦隊を破って制海権を奪う。
1494年10月
罹患。
1495年6月11日
1495年9月26日
1495年10月10日
1498年4月7/8日
シャルル8世死。
——オルレアン公ルイ・ドルレアン、フランス王に即位しルイ12世を名乗る(在位1498年~1515年)。
1498年6月24日
この日?、ルイ12世、
ヘンリー7世との
Elaplesの協定(1492年)を更新。
1498年8月16日
1498年10月
1499年1月7日
1499年2月9日
1499年3月初旬
1499年4月15日
ブロワでの盟約を公表(1499年3月25日)。
1499年7月~8月
1499年9月初旬
1499年9月11日
1499年9月21日
ヴェルチェッリ到着。
1499年9月26日
1499年10月2日
1499年10月6日
1499年10月7日
朝、サンタンブロージョ教会のミサに参列。
1499年10月12日
1499年11月7日
1500年2月
1500年4月初旬
ルドヴィーコ・イル・モーロは、スイス人傭兵に戦闘を拒否されて1500年4月5日ノヴァーラの戦いでルイ12世軍に敗れ、1500年4月10日捕らえられる。(その後フランスのロシェに連行され、1508年5月その地で死)。
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァは逃亡するが程なく捕らえられ、フランスのブールジュに連行、幽閉される。(1502年釈放されローマに帰る)。
ルイ12世軍は、
ミラノを奪還。その他のロンバルディアの諸都市も次々にフランスの軍門に下る。
1500年4月8日
1500年11月11日
1500年11月24日
1501年4月26~27日
1501年5月半ば~下旬
1501年5月
1501年5月
1501年6月1日
1501年6月19~23日
1501年6月25日
1501年6月29日
1501年7月9日
1501年7月24日
1501年8月1~3日
1501年8月4日
1501年9月6日
1501年10月13日
1501年10/11月
1502年2月
1502年3月
1502年4月16日
チェーザレ・ボルジアの攻撃から防衛、保護してくれるよう懇請し続ける使節に対し、ルイ12世は、自分の
ナポリ支配のための資金と騎兵とをフィレンツェが提供することを条件にフィレンツェを防衛すると約束。
1502年6月半ば
1502年6月23日
Imbault指揮のルイ12世援軍、ムジェッロ地区に到着。
1502年7月初旬~1504年
1502年7月2日
Imbault指揮のルイ12世援軍、アレッツォに到着。
1502年7月6日
1502年7月7日
ルイ12世、アルプスを越えてアスティに入り
ミラノを目指す。
1502年7月25日
1502年7月29日
1502年7月
1502年8月5日
1502年8月6日
1502年8月
1502年8月14日
1502年10月
1502年10月31日
1502年11月27日
1503年3月初旬
1503年3月29日
1503年4月21日
1503年4月28日
1503年5月13/14日
この頃、ルイ12世は、
ナポリ奪回のため新たな侵攻軍を準備。
1503年6月1日
この日?、9名の新枢機卿を任命。これによって巨額の収入を得、
チェーザレ・ボルジアの軍資金とすると共に、9名の内5名はスペイン人を任命してスペインへの傾斜を示す。
チェーザレ・ボルジアはルイ12世の勢力を無視できず、彼のもとに自分の将兵2名を送るなど、態度の変更を明示せず。
1503年7月
1503年8月初旬~9月初旬
1503年8月下旬~9月1日
チェーザレ・ボルジア、1503年8月23日頃までに
コロンナ家と、これまで同家から奪った領地を返還すること、
オルシーニ家に共同で対抗することについて合意し、さらに1503年9月1日一身及びロマーニャの保護、防衛についてルイ12世と新たに協定して彼に再接近。
1503年
ヴェネツィアのロマーニャ進出を阻むため、ルイ12世と1503年9月1日、防衛の協定を結んだ
チェーザレ・ボルジアを支持する方針に傾く。
1503年10月12日
1503年11月2日
1503年12月28日
1503年12月28日
1503年12月31日
1504年1月1日
1504年1月初旬
対スペイン戦争に関するルイ12世の意図と準備態勢を知るため、ルイ12世のもとに
ニッコロ・ヴァローリ(1464年~1526年)を派遣。
1504年2月11日
1504年9月22日
1505年3月
1505年5月31日
ルイ12世の病気を機に、その王参議会は前年9月のブロワでの協定を事実上解消。
1505年10月12日
1505年10月12日
1506年2月18日
手紙をしたためる(1507年2月18日)。ヴァレンティノワ公国とディユワ伯領とイスーダン領はフランス王国に復した。「教皇
アレクサンデル6世崩御後、余の臣下と軍が
ナポリ王国の回復に尽力していた時、
チェーザレ・ボルジアは余の敵の味方に付き、奉仕し利し軍をもって支援した。すなわち余と先述した臣下と軍に刃向かい、回復不可能な損失を与えた。」
1506年3月18日
1506年5月21日
1506年6?~10月
ジェノヴァで民衆の革命的反乱発生:前年から、ルイ12世の支配下で実権を握っていた貴族に対抗していた民衆は、官職の三分の二を民衆に与えよとの要求を受諾された後もなお反貴族政体の革命を志向し、民衆政府を樹立(1506年~1507年)。
1506年8月26日
ユリウス2世、ロマーニャの教会領の直轄統治、教会国家再建を目指し、ペルージアとボローニャを制圧すべく、軍と枢機卿(24名)を率いてローマを出発。これにより先ルイ12世、ヴェネツィア、フィレンツェ、マントヴァ、フェッラーラなどこの遠征に対する支援を要求。
1506年9月25日
ルイ12世の動きを牽制しかつローマで神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行すべくイタリアに侵攻しようと画策中の
マクシミリアン1世、子
フェリペ1世の急死により、重要な支持者を失い、一時、計画を延期して改めて帝国内に支持を求めざるを得なくなる。
1506年10月20日
1507年2月22日
ルイ12世がジェノヴァ平定、占領の態勢を取りつつあるとの報に、ジェノヴァを生地とする
ユリウス2世、ルイ12世に怒りを覚えつつジェノヴァのために両者の仲介を考慮。
1507年3月下旬
ルイ12世、ジェノヴァ平定のためブロワを出発し、イタリアに向かう。
1507年4月初旬
ルイ12世、大軍を率いてイタリアに入る。初め自らはアスティに留まり、水軍をジェノヴァに向ける。後陸軍を率いてジェノヴァに向かう。
1507年4月28日
ルイ12世、ジェノヴァに入城。反乱に対しては比較的穏便な処罰を行い、懐柔策をとる。
1507年4月
1507年5月11日
ルイ12世、ジェノヴァをフランスに併合。
1507年5月14日
1507年5月23日
1507年5月
ジェノヴァ平定、併合に対する
ユリウス2世とヴェネツィアの懸念を解くため、自軍の一部を帰国させ傭兵を解雇するなど、ジェノヴァ制圧軍を解散。
1507年6月28日
1507年7月
1507年初秋
1507年
ヴェネツィア、内部で
マクシミリアン1世の側につくべきかルイ12世の側につくべきか激論の上、前者に軍を伴わないことを条件に領内通行を認めると決め、事実上、要求を拒否。
1508年2月下旬~3月
1508年4月
マクシミリアン1世、やむなくヴェネツィアと休戦交渉を行い、1508年4月30日、3年間の休戦協定を締結。
マクシミリアン1世、ヴェネツィアに対する怒り、不満を一段と強め、ルイ12世も自分に無断で
マクシミリアン1世と休戦協定を締結したヴェネツィアに対する不満を強める。これら不満、怒りを、ロマーニャを占領し続けるヴェネツィアを敵視していた
ユリウス2世が、さらに助長し両権力者を反ヴェネツィアで結束させるべく腐心。
1508年12月10日
1509年3月12日
1509年3~4月
1509年4月初旬
1509年4月15~16日
ミラノに結集した
シャルル・ダンボワーズ指揮のルイ12世軍は、ルイ12世の命を受けて出撃。ルイ12世も自ら軍を率いてアルプスを越え、またイタリアに侵入。
1509年5月8~10日
1509年5月14日
1509年5月15日~6月初旬
ルイ12世軍、ベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、ペスキエーラなどを制圧。
ユリウス2世軍、ファエンツァ、リーミニ、チェルヴィア、ラヴェンナなどを制圧。
1509年6月
ルイ12世、軍を残して帰国。
1509年7月8日
1509年10~11月
ユリウス2世、ヴェネツィアの過度の弱体化はルイ12世と
マクシミリアン1世の、ことに前者の威勢をさらに強め、教会とりわけ教皇である自身の威力を脅かすことになるとの懸念を強める。
1509年11月15~16日
ヴィチェンツァが、
マクシミリアン1世の支配に反乱を起こし、ヴェネツィアに城門を開く。戦局の中心はヴェローナに移る。
ヴィチェンツァを制したヴェネツィアは、さらにヴェローナを攻撃するが、シャルル指揮のルイ12世軍に撃退される。
マクシミリアン1世は辛うじてヴェローナを守る。
1510年1月
1510年2月24日
ユリウス2世、ヴェネツィアと和解。教皇はヴェネツィアに対する破門及び聖務の禁止処分を解除し、ヴェネツィアは教皇の至上権及びフェッラーラ攻撃を承認。
カンブレー同盟陣営、とりわけルイ12世は、教皇の方針変更に気づき、大いに不満を覚える。
1510年3月14日
ユリウス2世、ルイ12世の勢力一掃に利用すべくスイスの全州と協定し、その軍事的協力を取り付ける。
1510年3月下旬
1510年4~5月
1510年5月25日
1510年6月
ヴェネツィアは、軍備を増強すると共に教皇による状況の転換を期待。
1510年6月
ユリウス2世とルイ12世の対立が深まる中、伝統的親フランスの方針を取る
ピエロ・ソデリーニ派とメディチ派など反
ピエロ・ソデリーニ派との対立も深まる。しかしフランスとの同盟も断てず、近隣諸国に布陣する教皇軍も無視できず、態度決定をなし得ぬまま動揺を続ける。
ルイ12世より、政治方針を明確化せよと執拗な要求を受ける。
1510年6月20日
1510年7月
ユリウス2世、すでにフィレンツェの傭兵隊長の任を離れた
マルカントーニオ・コロンナの指揮する陸軍をフィレンツェ領経由で送り、ヴェネツィアの水軍と協同でジェノヴァを攻撃。しかし、期待した市内での市民の反乱生じず、ルイ12世軍により撃退される。
1510年8月16日
ルイ12世、
ユリウス2世に対抗すべく、全てのフランス人臣民にローマ
教皇庁への出入りを禁ずる王令を発する。
1510年9月14/15日
ルイ12世、
ユリウス2世に対抗すべく、トゥールにフランス公会議を召集し、教会改革のための万国公会議の開催について検討。
1510年11月17日
1510年12月中旬
1510年
フィレンツェに
ユリウス2世とルイ12世の仲介を託す案がルイ12世の宮廷で討議されていると伝えられるが、この役を回避することに決める。
1511年1月初旬
1511年1月半ば
ミランドラの間近に宮廷を置いた
ユリウス2世、ルイ12世軍の砲撃に曝される。
1511年2月11日
1511年5月16日
1511年7月25日
ユリウス2世、自分の廃位を狙ってルイ12世が開こうとしているピサの分離公会議に対抗すべく、1512年4月19日、ローマのラテラーノ大聖堂で万国公会議を開くと宣言。
1511年8月17~28日
周辺の誰もが高齢の教皇の再起不能を信じ、枢機卿らと彼らからの報を受けた諸国、諸権力者の間で後継選出争いの動きの強まる中で奇跡的に回復した
ユリウス2世、対フランス同盟を目指して活動を再開。
1511年9月
1511年10月4日
対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙う
ユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙う
フェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日
ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。
マクシミリアン1世は態度を保留。
1511年11月初旬
1512年
ボローニャでルイ12世軍が神聖同盟軍を撃退したとの報が伝えられ、
ピエロ・ソデリーニは市民に、フィレンツェの利益と威信を守る上でフランス側につくことこそが必要だと力説。
1512年2月19~21日
ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍は、ブレッシャを奪還し、続いてベルガモも奪還。両地で同軍による凄惨な暴行、略奪、虐殺が行われる。
1512年
この頃、ルイ12世より、再三に渡って新たな協定の締結を強く求められる。
フランス側と神聖同盟側のいずれに立つべきかについて指導層の見解対立して方針を決定できず、しばらく時間を稼ぐ。
1512年4月11日
ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、
フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。
1512年5月3~17日
ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、
ユリウス2世はその勅書を発する。
このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァーラ王国の
ジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。
ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、
ミラノ攻撃態勢を整える。
ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いて
ミラノ防衛に回すよう指示。
1512年5月21日
ルイ12世と神聖同盟の間で動揺していた
マクシミリアン1世、
ユリウス2世の説得を容れてヴェネツィアと休戦し、神聖同盟に加入。スイス連邦軍のティロル通過の承認、ルイ12世軍の精鋭をなしていたドイツ人歩兵全員の召還など反ルイ12世の方針を打ち出す。
1512年6月初旬~半ば
神聖同盟軍(
ユリウス2世軍、
フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ヴェネツィア軍)、
マクシミリアン1世軍、スイス連邦軍は、ラヴェンナ、リーミニ、チェゼーナを奪い、1512年6月13日、ボローニャを制止、クレモーナ、ブレッシャ、ベルガモを奪うなど、ロマーニャ及びロンバルディアにおけるルイ12世の支配を次々と打破。
1512年6月6日
ユリウス2世、イタリアからのルイ12世軍勢の追放に貢献したスイス連邦に「教会の自由の警護者」の永久称号を賦与するとの小勅書を発する。
1512年6月10日
神聖同盟軍から兵を得たGiano II Fregoso(1445年頃~1527年以降)がジェノヴァに迫るや、市内にルイ12世の支配に対する反乱発生。
1512年6月
1512年6月半ば
この頃?、
ミラノでルイ12世の支配に対する反乱発生。
1512年6月下旬
1512年6月下旬~末
ルイ12世軍の敗北、全面撤退。スイス連邦軍に
パヴィアも攻略されたルイ12世、さらにアスティまで追われ、そのアスティまで攻略されてイタリアから全面的に撤退。代わってスイス連邦軍とヴェネツィア軍が、ロンバルディアに進出。
1512年6月
1512年7月4日
1512年7月18日
1512年8月12日
この過程で、ルイ12世に代わる
ユリウス2世のロンバルディアにおける勢力拡大に
マクシミリアン1世陣営が不満を残すなど参加諸権力者間の思惑の違いが明らかになる中、ルイ12世支持、分離公会議保護を続けたフィレンツェの処罰については全参加者が完全に合意。
1512年12月3~10日
ラテラーノ公会議再開。ピサの分離公会議を異端とすること、ルイ12世を教会及び教皇の敵と見なすことなどを決議。
1513年3月23日
ブロワ協定:イタリア侵攻と
ミラノ奪回を目指すルイ12世と自領回復、拡大を目指すヴェネツィアは、ルイ12世はヴェネツィアにベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、
Ghiara d'Addaの領有を認め、捕虜としている(1509年~)
バルトロメオ・ダルヴィアーノを釈放すること、ヴェネツィアは彼に軍を提供することなどにつきブロワで協定。
1513年4月1日
1513年4月5日
1513年
1513年5月
ジェノヴァもルイ12世軍に服し、Antoniotto Adorno(1479年頃~1530年)がルイ12世の総督になる。
1513年6月6日
1513年6月17日
1513年8月16日
フランス軍は、
Guinegatteの戦で
ヘンリー8世軍に敗北。
1513年9月13日
1513年夏~1513年秋
ルイ12世軍がイタリアから撤退し、かつフランス本国が
ヘンリー8世軍やスイス連邦軍の攻撃を受けてルイ12世が軍をイタリアに新たに侵攻させることは不可能になったために孤立したヴェネツィア軍は、神聖同盟軍(
マクシミリアン1世軍、
フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、及びスイス連邦軍を中心とする
ミラノ軍)とヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァなどを巡って戦闘を続けていたが、パドヴァに撤収して防備を固める。
レオ10世、神聖同盟陣営に小軍を送って同盟側に断つ態度をようやく明確に示し始めると共に、ヴェネツィアに対しフランスとの同盟を破棄するよう工作するが失敗。
1513年10月
ルイ12世軍により
ルッカに売却された(1494年)ピエトラサンタと
Mutroneを奪還すべく
ルッカに軍を派遣し、周辺の要塞を占領。問題を提訴してきた
ルッカに対して
レオ10世は、1513年10月12日、領地のフィレンツェへの帰属、フィレンツェ軍が占領した要塞の
ルッカへの返還と裁定。
1513年11月6日
この年6月から折衝を続けてきた
レオ10世とルイ12世は、ピサ分離公会議(1511年)問題についてフランス・コルベイユで和解、協定。ルイ12世はこの公会議を断念、否認し、教皇はこの公会議推進派として
ユリウス2世に破門された枢機卿5名を赦免。
1513年12月19日
この日、開会されたラテラーノ公会議の第八回会議の冒頭、ピサ分離公会議を否認しラテラーノ公会議を唯一の公会議として承認するとのルイ12世の宣言文が読み上げられる。
1514年5月13日
1514年5月18日
1514年6月半ば
1514年8月6/7日
ルイ12世と
ヘンリー8世は、ロンドンで相互防衛協定を結び、ルイ12世は
ヘンリー8世の妹メアリー・チューダー(1496年~1533年)と婚約。1514年10月9日結婚。
1515年1月1日
死。
チェーザレ・ボルジア数
子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
ルイ・ドルレアン、Louis d'Orléans
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Genealogy.EU
Google Books
kleio.org
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『マキアヴェリ』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ローマ教皇検死録』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2019年12月15日