ヤコポ・サルヴィアーティ Jacopo Salviati
- 生没
- 1360年~1412年11月
- 没地
- ピオンビーノ
- 父
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 母
- コンテッサ・ボンフィリオーリ
- 妻
- アルビエラ・グッチ
ディアノーラ・ペトリボーニ - 子
- カテリーナ・サルヴィアーティ
アラマンノ・サルヴィアーティ
ベルナルド・サルヴィアーティ
フィリッポ・サルヴィアーティ
カルヴァーノ・サルヴィアーティ
ヤコポ・サルヴィアーティ
概要
ヤコポ・サルヴィアーティは、14世紀から15世紀のフィレンツェの男性。
年表
1388年
アルビエラ・グッチと結婚。
1404年
ディアノーラ・ペトリボーニと結婚。
外部リンク
カテリーナ・サルヴィアーティ Caterina Salviati
- 生没
- 13??年~14??年
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- アルビエラ・グッチ
- 夫
- アンドレア・デ・パッツィ
- 子
- アントーニオ・デ・パッツィ
ヤコポ・デ・パッツィ
グリエルモ・デ・パッツィ
ピエロ・デ・パッツィ
アポッローニア・デ・パッツィ
エレーナ・デ・パッツィ
アルビエラ・デ・パッツィ
概要
カテリーナ・サルヴィアーティは、14世紀から15世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
アラマンノ・サルヴィアーティ Alamanno Salviati
- 生没
- 1389年~1456年
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- アルビエラ・グッチ
- 妻
- カテリーナ・デ・メディチ
- 子
- フランチェスコ・サルヴィアーティ
ピエトロ・サルヴィアーティ
アラマンノ・サルヴィアーティ
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
アヴェラルド・サルヴィアーティ
ヤコポ・サルヴィアーティ
概要
アラマンノ・サルヴィアーティは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1439年5月~6月、1448年9月~10月
年表
1409年
カテリーナ・デ・メディチと結婚。
外部リンク
ベルナルド・サルヴィアーティ Bernardo Salviati
- 生没
- 1397年~14??年
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- アルビエラ・グッチ
- 妻
- エリザベッタ・ボッロメオ
- 子
- ヤコポ・サルヴィアーティ
ボッロメオ・サルヴィアーティ
フランチェスコ・サルヴィアーティ
フィリッポ・サルヴィアーティ
概要
ベルナルド・サルヴィアーティは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1425年
エリザベッタ・ボッロメオと結婚。
ヤコポ・サルヴィアーティ Jacopo Salviati
- 生没
- 1412年~14??年
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ディアノーラ・ペトリボーニ
- 妻
- マリーア・ヴェットーリ
エレーナ・デ・パッツィ - 子
- ヤコポ・サルヴィアーティ
概要
ヤコポ・サルヴィアーティは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1433年
マリーア・ヴェットーリと結婚。
1436年
エレーナ・デ・パッツィと結婚。
ヤコポ・サルヴィアーティ Jacopo Salviati
- 生没
- 1443年~1478年4月27日
- 父
- ベルナルド・サルヴィアーティ
- 母
- エリザベッタ・ボッロメオ
概要
ヤコポ・サルヴィアーティは、15世紀のイタリアの男性、フランチェスコ・サルヴィアーティの兄弟。
年表
1478年4月26日(日)
パッツィ家の陰謀:ヤコポ・サルヴィアーティには、ヴェッキオ宮殿の占拠と正義の旗手チェーザレ・ペトルッチの殺害を任されていたが、失敗に終わる。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンス宮廷大全』
フランチェスコ・サルヴィアーティ Francesco Salviati
- 生没
- 1425年~1478年4月27日
- 父
- ベルナルド・サルヴィアーティ
- 母
- エリザベッタ・ボッロメオ
概要
フランチェスコ・サルヴィアーティは、15世紀の男性、聖職者。カテリーナ・サルヴィアーティの甥。
在位
ピサ大司教 1474年10月14日~1478年4月26日
年表
1473年
イーモラを買い取るジローラモ・リアリオのためにパッツィ家が貸した金を、ミラノに運ぶ。
1474年1月5日
ピエトロ・リアリオ急死。
シクストゥス4世、反メディチ派のフランチェスコ・サルヴィアーティ(?~1478年)をフィレンツェ大司教に任命。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあいフランチェスコ・サルヴィアーティは着任できず。やむなく後にシクストゥス4世、ロレンツォ・イル・マニーフィコの義兄弟リナルド・オルシーニを任命。
1474年10月14日
シクストゥス4世により、ピサ大司教に任命される。しかし、ロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあい、以後3年着任できず。
1475年10月
ピサ大司教に就任。年間4千ドゥカートを得る。
1476年6月20日
ピサでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。ロレンツォ・イル・マニーフィコに支払うべき個人的負債の返済の一部として、腐った魚を百ポンド送り届けて、からかいの手紙を添えている。「もしこの魚が貴殿に相応しい贈り物でなく、私の望みや恩義にも相応しくない品であれば、お詫び申し上げます。魚釣りは運命の女神の娯楽で、女神は我々の強い望みを満たしてくれぬことが多いものなのです」
1477年7月11日
ローマでニッコロ・バルドヴィーニ宛書簡をしたためる。法律上のごたごたを仲裁してもらえないかと頼んできた友人に次のように答えている。「そういった司法手続きは、そのやり方を悪用できないように定められている。このような小さな法律問題に並々ならぬ努力を注ぐのは適切なこととは思えない」
1477年9月11日
ロレンツォ・イル・マニーフィコに対する正式な抗議を携えて、ローマを出発。抗議の内容は、ロレンツォ・イル・マニーフィコはモントーネの件に関与すべきではなかったというものである。
1477年9月17日
フィレンツェを経由してピサに到着。
1478年
1478年初めからシクストゥス4世とロレンツォ・イル・マニーフィコの関係がますます緊迫する中、ジローラモ・リアリオは、メディチ家の最大の敵手と化したパッツィ家の銀行のローマ支店で教皇庁の財務管理に当たっているフランチェスコ・デ・パッツィおよびロレンツォ・イル・マニーフィコに進路を妨害されてきた(1474年~)ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティら、ローマでメディチ家打倒、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟殺害の陰謀を企み謀議を重ねる。パッツィ家の当主ヤコポ・デ・パッツィ(?~1478年)も参加するが同家のレナート・デ・パッツィはメディチ家の倒産、没落は近いと判断し、参加せず。
1478年4月26日
パッツィ家の陰謀決起:
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニがシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィとベルナルド・バンディーニがジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手、チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。
1478年4月26日日曜日
朝ヴィッラ・ラ・ロッジャを出発して馬でフィレンツェに向かった。一行はラッファエーレ・サンソーニ枢機卿、ジョヴァンニ・バッティスタ・ダ・モンテセッコ、ヤコポ・ブラッチョリーニ。
別表記
フランチェスコ・デ・サルヴィアーティ、サルヴィアーティ大司教、Francesco Salviati Riario
外部リンク
Europe in the Late Middle Ages - Knox
GCatholic.com
Google Books
The Assassin's Creed Wiki
Treccani
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
フランチェスコ・サルヴィアーティ Francesco Salviati
- 生没
- 1412年~1464年
- 父
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 母
- カテリーナ・デ・メディチ
- 妻
- エリザベッタ・ジューニ
- 子
- ピエトロ・サルヴィアーティ
ジュリアーノ・サルヴィアーティ
概要
フランチェスコ・サルヴィアーティは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1445年
エリザベッタ・ジューニと結婚。
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ Giovanni Salviati
- 生没
- 1419年~1472年
- 父
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 母
- カテリーナ・デ・メディチ
- 妻
- エレーナ・ゴンディ
- 子
- ヤコポ・サルヴィアーティ
カテリーナ・サルヴィアーティ
概要
ジョヴァンニ・サルヴィアーティは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1472年1月~2月
外部リンク
アヴェラルド・サルヴィアーティ Averardo Salviati
- 生没
- 1424年~1496年
- 父
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 母
- カテリーナ・デ・メディチ
- 妻
- マッダレーナ・ネローニ
- 子
- アラマンノ・サルヴィアーティ
アレッサンドラ・サルヴィアーティ
概要
アヴェラルド・サルヴィアーティは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1459年
マッダレーナ・ディ・フランチェスコ・ネローニと結婚(1457年)。
外部リンク
ヤコポ・サルヴィアーティ Jacopo Salviati
- 生没
- 14??年~1478年4月27日
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
概要
ヤコポ・サルヴィアーティは、15世紀のイタリアの男性。長年フランチェスコ・サルヴィアーティ大司教とは不和だったが、和解。パッツィ家の陰謀に無関係だったが、同時に処刑される。
参考文献
『フィレンツェ史』
ジュリアーノ・サルヴィアーティ Giuliano Salviati
- 生没
- 14??年~
- 父
- フランチェスコ・サルヴィアーティ
- 母
- エリザベッタ・ジューニ
- 子
- フランチェスコ・サルヴィアーティ
概要
ジュリアーノ・サルヴィアーティは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1493年5月~6月、1498年1月~2月
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ヤコポ・サルヴィアーティ Jacopo Salviati
- 生没
- 1461年9月15日~1533年9月6日
- 父
- ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
- 母
- エレーナ・ゴンディ
- 妻
- ルクレツィア・デ・メディチ
- 子
- ロレンツォ・サルヴィアーティ
ピエトロ・サルヴィアーティ
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
ベルナルド・サルヴィアーティ
アラマンノ・サルヴィアーティ
ジョヴァンニ・バッティスタ・サルヴィアーティ
マリーア・サルヴィアーティ
フランチェスカ・サルヴィアーティ
ルイーザ・サルヴィアーティ
エレーナ・サルヴィアーティ
カテリーナ・サルヴィアーティ
概要
ヤコポ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀の男性、フィレンツェ共和国の外交官、政治家。
在職
正義の旗手 1514年1月~2月
年表
1503年1月
ニッコロ・マキアヴェッリの後任として、チェーザレ・ボルジアのもとへ派遣される。
1506年10月末
ナポリのフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとに、ピサ制圧の支持を取り付けるため使節フランチェスコ・グァルテロッティ、ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティを派遣。
1508年
ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチと有力貴族ストロッツィ家のフィリッポ・ストロッツィとの婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・デ・メディチと有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・サルヴィアーティの甥ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。
これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。
1512年9月3日
ラモン・デ・カルドナのもとへBaldassarre Carducci、Ormannozzo Deti、Niccolò del Nero、ニッコロ・ヴァローリ、コジモ・デ・パッツィ、ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、パオロ・ヴェットーリを送り、メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びラモン・デ・カルドナへの献金、ラモン・デ・カルドナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロレンツォ・モレッリ、ヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
1529年9月下旬~末
1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グイッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、トンマーゾ・ソデリーニ、ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。
逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。
別表記
ジャーコモ・サルヴィアーティ、Iacopo Salviati
外部リンク
Famille de Carné
Geneanet
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
Treccani
Treccani
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
『The Life of Cesare Borgia』
カテリーナ・サルヴィアーティ Caterina Salviati
- 生没
- 14??年~
- 父
- ジョヴァンニ・サルヴィアーティ
- 母
- エレーナ・ゴンディ
- 夫
- ルカ・デリ・アルビッツィ
- 子
- マーゾ・デリ・アルビッツィ
ジョヴァンニ・デリ・アルビッツィ
ジローラモ・デリ・アルビッツィ
アントーニオ・デリ・アルビッツィ
アルビエーラ・デリ・アルビッツィ
ナンナ・デリ・アルビッツィ
マッダレーナ・デリ・アルビッツィ
概要
カテリーナ・サルヴィアーティは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1471年
ルカ・デリ・アルビッツィと結婚。
1478年10月20日
マーゾ・デリ・アルビッツィを出産。
1479年12月20日
ジョヴァンニ・デリ・アルビッツィを出産。
1483年10月8日
フィレンツェにて、ジローラモ・デリ・アルビッツィを出産。
1484年8月7日
アントーニオ・デリ・アルビッツィを出産。
アラマンノ・サルヴィアーティ Alamanno Salviati
- 生没
- 1459年~1510年以降
- 父
- アヴェラルド・サルヴィアーティ
- 母
- マッダレーナ・ネローニ
- 妻
- ルクレツィア・カッポーニ
- 子
- マリーア・サルヴィアーティ
アヴェラルド・サルヴィアーティ
マッダレーナ・サルヴィアーティ
マルゲリータ・サルヴィアーティ
概要
アラマンノ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1499年10月12日
アラマンノ・サルヴィアーティ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ロレンツォ・レンツィの3名は、使節としてミラノでルイ12世と折衝し、フィレンツェが彼にそのナポリ攻略のための資金と軍隊を提供する代償に彼はフィレンツェにそのピサ攻略を支援することを約定。
1501年
シニョーリアは、急ぎ使節ピエロ・ソデリーニ、アラマンノ・サルヴィアーティ、ヤコポ・デ・ネルリをSieveの近くのチェーザレ・ボルジアのもとに派遣し彼の要求を聞く。
チェーザレ・ボルジアは、フィレンツェ領内自由通行の承認、自らをフィレンツェの傭兵隊長に雇う契約の締結、フィレンツェの政体の変更を要求。
1506年9月11日
ナポリに向かう途上ピオンビーノに立ち寄ったフェルナンド2世・デ・アラゴンのもとに表敬使節としてピエロ・ソデリーニの弟ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニ、Niccolè del Nero、アラマンノ・サルヴィアーティを送る。
1506年12月6日
市民軍の創設がコンシーリオ・マッジョーレで正式に承認され、Nove Ufficiali dell' Ordinanza(フィレンツェ市民軍九人委員会)、通称Nove Ufficiali di Miliziaが設置される。
ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィやアラマンノ・サルヴィアーティを初めとする有力貴族のピエロ・ソデリーニに対する反発、憎悪、抵抗、一段と強まる。
1508年
ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチと有力貴族ストロッツィ家のフィリッポ・ストロッツィとの婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・デ・メディチと有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・サルヴィアーティの甥ヤコポ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。
これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。
1509年3月7日
ピサ戦線の前線総監としてアラマンノ・サルヴィアーティとAntonio da Filicaiaを派遣。
1510年以降
死(1509年)。
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アレッサンドラ・サルヴィアーティ Alessandra Salviati
- 生没
- 14??年~
- 父
- アヴェラルド・サルヴィアーティ
- 母
- マッダレーナ・ネローニ
- 夫
- フィリッポ・ヴァローリ
- 子
- バッチオ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
概要
アレッサンドラ・サルヴィアーティは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1477年12月5日
バッチオ・ヴァローリを出産。
別表記
アレッサンドラ・ダヴェラルド・サルヴィアーティ
外部リンク
フランチェスコ・サルヴィアーティ Francesco Salviati
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ジュリアーノ・サルヴィアーティ
- 妻
- ラウドミア・デ・メディチ
- 子
- ジュリアーノ・サルヴィアーティ
概要
フランチェスコ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1502年
ラウドミア・デ・メディチと結婚。
別表記
Francesco di Giuliano Salviati
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ Giovanni Salviati
- 生没
- 1490年~1553年10月28日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ラヴェンナ
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
概要
ジョヴァンニ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1517年7月1日~1553年
任命した教皇:レオ10世
年表
1517年7月1日
レオ10世、ウルビーノ争奪戦の費用などを調達すると共に教皇庁内における自己の立場を固めるため、自らの甥ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、ニッコロ・リドルフィ及び高名な人士ないし学者ロレンツォ・カンペッジオ(1474年~1539年)、J. Cajetanus、エジーディオ・ダ・ヴィテルボ、F. Ximénez de Cisnerosらを含む31名の枢機卿を任命し、かつ多くの聖職を新たに設けて競売に付す。これにより巨額の資金を得る。
1525年5月5日
この頃?、クレメンス7世、1525年4月1日協定の一部条項の批准を躊躇うカール5世のもとに、その真意を探ると共に協定の全面的批准を促すべく使節として枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティを派遣することに決める。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1537年1月
フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、ジョヴァンニ・サルヴィアーティ、Iacopo Gaddiらローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。
情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。
1537年1月中旬
コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。——パウルス3世には特使Alessandro Strozziを送ってローマ教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父ジョヴァンニ・サルヴィアーティには特使Alessandro del Cacciaも送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、カール5世には特使ベルナルド・デ・メディチを送って政変と自身の支配の承認、アレッサンドロ・ヴィテッリの占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。
外部リンク
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
The Medici Archive Project
Treccani
Wikipedia
参考文献
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ベルナルド・サルヴィアーティ Bernardo Salviati
- 生没
- 1508年2月17日~1568年5月6日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
概要
ベルナルド・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1561年2月26日~
年表
1508年2月17日
フィレンツェにて、生(1492年)。
1537年7月下旬
軍の編成に励み、ミランドラで決起したフィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリら亡命者たちに、数千の兵をピエロ・ストロッツィと共に指揮を任される。アペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。
外部リンク
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
アラマンノ・サルヴィアーティ Alamanno Salviati
- 生没
- 1510年~1571年
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
- 妻
- コスタンツァ・セッリストーリ
概要
アラマンノ・サルヴィアーティは、16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
マリーア・サルヴィアーティ Maria Salviati
- 生没
- 1499年7月17日~1543年12月12日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
- 夫
- ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
- 子
- コジモ1世・デ・メディチ
概要
マリーア・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
墓
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
Geneanet
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
Treccani
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『銀色のフィレンツェ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フランチェスカ・サルヴィアーティ Francesca Salviati
- 生没
- 1505年8月23日~1536年6月11日以降
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
- 夫
- ピエロ・グァルテロッティ
オッタヴィオ・デ・メディチ - 子
- マリーア・グァルテロッティ
レオ11世
概要
フランチェスカ・サルヴィアーティは、16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
エレーナ・サルヴィアーティ Elena Salviati
- 生没
- 149?年~1552年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ジェノヴァ
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
- 夫
- パッラヴィチーノ・パッラヴィチーニ
ヤコポ5世・ダッピアーノ - 子
- ルイーザ・パッラヴィチーニ
ヤコポ6世・ダッピアーノ
アルフォンソ・ダッピアーノ
概要
エレーナ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
カテリーナ・サルヴィアーティ Caterina Salviati
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・デ・メディチ
- 夫
- フィリッポ・デ・ネルリ
- 子
- レオーネ・デ・ネルリ
概要
カテリーナ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1509年
フィリッポ・デ・ネルリと結婚。(1511年)。
外部リンク
マリーア・サルヴィアーティ Maria Salviati
- 生没
- 14??年~1559年
- 父
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・カッポーニ
- 夫
- フランチェスコ・グイッチャルディーニ
- 子
- シモーナ・ロモーラ・グイッチャルディーニ
シモーナ・グイッチャルディーニ
ルクレツィア・グイッチャルディーニ
エリザベッタ・グイッチャルディーニ
マッダレーナ・グイッチャルディーニ
概要
マリーア・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1507年1月4日
1508年5月22日
フランチェスコ・グイッチャルディーニとの婚約が公表される。
1508年11月2日
1509年12月28日
長女シモーナ・ロモーラ・グイッチャルディーニを出産。
1512年4月14日
シモーナ・グイッチャルディーニを出産。
1514年10月30日
ルクレツィア・グイッチャルディーニを出産。
1520年4月28日
双子のエリザベッタ・グイッチャルディーニとマッダレーナ・グイッチャルディーニを出産。
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『ルネサンスの歴史』
マッダレーナ・サルヴィアーティ Maddalena Salviati
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 母
- ルクレツィア・カッポーニ
- 夫
- マッテオ・ストロッツィ
- 子
- ロレンツォ・ストロッツィ
カルロ・ストロッツィ
カミッロ・ストロッツィ
ルクレツィア・ストロッツィ
概要
マッダレーナ・サルヴィアーティは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
ピエロ・サルヴィアーティ Piero Salviati
- 父
- ヤコポ・サルヴィアーティ
年表
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手でフランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボとイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニやピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1529年4月17日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、クレメンス7世との秘密折衝の件でニッコロ・カッポーニを召喚、審問。反ニッコロ・カッポーニ派は最大の反逆罪の嫌疑でニッコロ・カッポーニを拷問にかけるよう主張し、ニッコロ・カッポーニは辛うじて無実を主張。審議中、Ottimatiを中心とするピエロ・サルヴィアーティ指導のニッコロ・カッポーニ支持者は、武装してシニョーリア広場に集合。Ottoは武装した者の広場からの退出を命令。
ニッコロ・カッポーニ処刑の声が挙がる中、彼の支持者たち、民衆暴動の発生を恐れて彼の正義の旗手辞任を了承。コンシーリオ・デリ・オッタンタは、新正義の旗手を翌18日に選出すると市内に布告。
別表記
ピエトロ・サルヴィアーティ、Pietro Salviati、Piero di Jacopo
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年8月7日