ピエトロ・ファルネーゼ Pietro Farnese
- 生没
- 1350年頃~1415年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 妻
- ペンテジーレア・ドルチ
- 子
- ジョヴァンニ・ファルネーゼ
ペーポ・ファルネーゼ
ラヌッチョ・ファルネーゼ
シアッラ・ファルネーゼ
エミーリア・ファルネーゼ
バルトロメオ・ファルネーゼ
概要
ピエトロ・ファルネーゼは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
モンタルト、ラーテラ、ファルネーゼ、ヴァレンターノ、イスキア、チェッレーレ領主
外部リンク
ラヌッチョ・ファルネーゼ Ranuccio Farnese
- 生没
- 1390年頃~1450年7月2日
- 出身
- イスキア・ディ・カストロ
- 没地
- イスキア・ディ・カストロ
- 父
- ピエトロ・ファルネーゼ
- 母
- ペンテジーレア・ドルチ
- 妻
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 子
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
ルクレツィア・ファルネーゼ
アンジェロ・ファルネーゼ
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
ピエトロ・ファルネーゼ
アニェーゼ・ファルネーゼ
エウジェーニア・ファルネーゼ
ペンタジレア・ファルネーゼ
フランチェスカ・ファルネーゼ
ジューリア・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ・ファルネーゼは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
バルトロメオ・ファルネーゼ Bartolomeo Farnese
- 生没
- 1395年頃~1461年
- 出身
- イスキア・ディ・カストロ
- 没地
- ラーテラ
- 父
- ピエトロ・ファルネーゼ
- 母
- ペンテジーレア・ドルチ
- 妻
- ヨランダ・モナルデスキ
- 子
- イザベッラ・ファルネーゼ
チェチーリア・ファルネーゼ
ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ
コスタンツァ・ファルネーゼ
概要
バルトロメオ・ファルネーゼは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1461年
ラーテラにて、死(1460年)。
外部リンク
ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ Gabriele Francesco Farnese
- 生没
- 1420年~1475年
- 没地
- ヴィテルボ
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 妻
- イザベッラ・オルシーニ
- 子
- カテリーナ・ファルネーゼ
ラヌッチョ・ファルネーゼ
ピエルパオロ・ファルネーゼ
アニェーゼ・ファルネーゼ
概要
ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
別表記
Gian Francesco
外部リンク
ルクレツィア・ファルネーゼ Lucrezia Farnese
- 生没
- 1430年頃~1487年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 夫
- フランチェスコ・デッラングイッラーラ
- 子
- ヴァンノーラ・デッラングイッラーラ
バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
概要
ルクレツィア・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1445年頃
外部リンク
アンジェロ・ファルネーゼ Angelo Farnese
- 生没
- 1432年~1463年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 妻
- コスタンツァ・マラテスタ
- 子
- フランチェスカ・ファルネーゼ
概要
アンジェロ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1432年
生(1433年)。
外部リンク
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ Pier Luigi Farnese
- 生没
- 1435年頃~1487年頃
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 妻
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 子
- アンジェロ・ファルネーゼ
ジローラマ・ファルネーゼ
パウルス3世
バルトロメオ・ファルネーゼ
ジューリア・ファルネーゼ
概要
ピエル・ルイジ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1487年頃
死(1489年)。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
アニェーゼ・ファルネーゼ Agnese Farnese
- 生没
- 1421年?~1475年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 夫
- パオロ・サヴェッリ
- 子
- アウレリア・サヴェッリ
概要
アニェーゼ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1443年
パオロ・サヴェッリと結婚。
外部リンク
エウジェーニア・ファルネーゼ Eugenia Farnese
- 生没
- 14??年~
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- アニェーゼ・モナルデスキ
- 夫
- ステファノ・コロンナ
- 子
- フランチェスコ・コロンナ
ジョヴァンニ・コロンナ
ジョルダーノ・コロンナ
ピエトロ・コロンナ
概要
エウジェーニア・ファルネーゼは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1455年
ステファノ・コロンナと結婚。
外部リンク
ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ Pier Bertoldo Farnese
- 生没
- 1458年~1516年
- 父
- バルトロメオ・ファルネーゼ
- 母
- ヨランダ・モナルデスキ
- 妻
- バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
- 子
- ガレアッツォ・ファルネーゼ
フェルディナンド・ファルネーゼ
カテリーナ・ファルネーゼ
ヨランダ・ファルネーゼ
アンジェロ・ファルネーゼ
ベアトリーチェ・ファルネーゼ
概要
ピエル・ベルトルド・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ラヌッチョ・ファルネーゼ Ranuccio Farnese
- 生没
- 1456年~1495年7月6日
- 父
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・オルシーニ
- 妻
- イッポーリタ・パッラヴィチーニ
- 子
- フェデリーコ・ファルネーゼ
ガブリエーレ・ファルネーゼ
カミッラ・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
年表
1491年1月21日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
1491年2月17日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
1491年4月16日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
1491年4月23日
ヴァレンターノにて、ヴィルジーニオ・オルシーニ宛てに手紙をしたためる。
別表記
リヌッチョ・ダ・ファルネーゼ、Ranutyus da Farnesio
外部リンク
世界帝王事典
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Geneanet
Google Books
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ピエルパオロ・ファルネーゼ Pierpaolo Farnese
- 生没
- 1458年~1491年5月以降
- 没地
- ローマ
- 父
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・オルシーニ
概要
ピエルパオロ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性、教会首席書記官。
年表
別表記
Paolo Pietro
外部リンク
アニェーゼ・ファルネーゼ Agnese Farnese
- 生没
- 1460年頃~1509年10月23日
- 出身
- イスキア
- 没地
- シエナ
- 父
- ガブリエーレ・フランチェスコ・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・オルシーニ
- 夫
- アンドレア・ピッコローミニ
- 子
- ジョヴァンニ・ピッコローミニ
モンタニーナ・ピッコローミニ
ピエル・フランチェスコ・ピッコローミニ
アレッサンドロ・ピッコローミニ
アレッサンドロ・ピッコローミニ
カテリーナ・ピッコローミニ
ヴィットーリア・ピッコローミニ
概要
アニェーゼ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1475年1月
シエナにてアンドレア・ピッコローミニと結婚。
外部リンク
アンジェロ・ファルネーゼ Angelo Farnese
- 生没
- 1465年~1494年
- 出身
- カニーノ
- 没地
- カポディモンテ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 妻
- アンジェラ・オルシーニ
- 子
- フランチェスカ・ファルネーゼ
概要
アンジェロ・ファルネーゼは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1465年
カニーノで生。
1488年5月11日
ヴァレンターノでアンジェラ・オルシーニと結婚。
1493年10月23日
カポディモンテにて、義弟プッチョ・プッチ宛てに手紙をしたため、妹ジローラマ・ファルネーゼをカポディモンテに連れてくるように頼む。
1494年
カポディモンテで死。
別表記
Angiolo
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
世界帝王事典
Famille de Carné
Genealogy.EU
Google Books
JDA's Family Tree
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ジローラマ・ファルネーゼ Girolama Farnese
- 生没
- 1466年頃~1504年11月1日
- 出身
- カニーノ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 夫
- プッチョ・プッチ
ジュリアーノ・デッラングイッラーラ - 子
- イザベッラ・デッラングイッラーラ
概要
ジローラマ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀の女性。
年表
1466~1467年
カニーノで生。
1483年11月10日
カポディモンテにて、プッチョ・プッチと、代理人を立てた結婚。フィレンツェ人の公証人ツァーノビ・ボルジャンニが契約書作成。持参金は2千7百ドゥカート。
1486年10月
息子を死産。
1493年7月~1493年8月
1493年9月
罹患し、フィレンツェに戻る。
1493年10月
病気から全快。
妹ジューリア・ファルネーゼや、義母アドリアーナ・デル・ミラなどに手紙をしたため、義弟ロレンツォ・プッチの出世を働きかける。
1493年10月18日
教皇アレクサンデル6世宛てに手紙をしたため、感謝を伝える。
1493年10月21日
カジニャーノにて夫プッチョ・プッチ宛てに手紙をしたためる。「この手紙が届くよりも早くフィレンツェからの手紙を受け取るでしょう。ロレンツォ・プッチにもたらされた恩恵と、ジューリア・ファルネーゼが彼に確保してくれたことです。きっとお喜びになるでしょう」
1493年10月末頃
母ジョヴァンナ・カエターニがカポディモンテ邸で家族全員で集まり、教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジア枢機卿も招待することを計画。
里帰りできるように、義兄ロレンツォ・プッチとジャンノッツォ・プッチを頼る。
兄アンジェロ・ファルネーゼはファエンツァでコッミッサーリオとしてまだ忙しいプッチョ・プッチに手紙を送って、反対していた彼を説得。
1493年12月21日
ペストが流行するローマから出発したロレンツォ・プッチと共にファルネーゼの領地であるマルタに到着。
1494年8月31日
夫プッチョ・プッチ、死。
1494年
ジローラマ・ファルネーゼは妊娠していたが、その事実を知ることなく遺言書が作成されていたため、ロレンツォ・プッチが子供が相続するように変更。しかし、流産。
1494年10月5日
ロレンツォ・プッチが、ジャンノッツォ・プッチを相続人に指名。
1494年11月27日
弟アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿のいるヴィテルボへ向かい、妹ジューリア・ファルネーゼ、義母アドリアーナ・デル・ミラと共にカポディモンテの城を出発。少し行ったところでイヴ・ダレーグル以下フランス騎兵隊と遭遇。25人から30人の従者も共に、捕虜としてモンテフィアスコーネへ連れていかれる。
1494年12月1日
解放され、ローマ到着。
1495年2月15日
ローマにて、ジュリアーノ・デッラングイッラーラと結婚。
1495年
スタッビア城に住む。
1497年
スタッビアにて、イザベッラ・デッラングイッラーラを出産。
1504年11月1日
継子ジャンバッティスタ・デッラングイッラーラに斬り殺される(1504年11月16日、1505年11月1日)。
妹ジューリア・ファルネーゼがヴァザネッロに埋葬する。
外部リンク
Farnese Provincia di Viterbo
Genealogy.EU
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Treccani
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
パウルス3世 Paulus III
- 生没
- 1468年2月29日~1549年11月10日
- 出身
- カニーノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 女
- シルヴィア・ルッフィーニ
- 子
- コスタンツァ・ファルネーゼ
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
概要
アレッサンドロ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。第220代教皇パウルス3世。
在位
枢機卿 1493年9月20日~1534年
任命した教皇:アレクサンデル6世
第220代教皇 1534年~1549年
先代:クレメンス7世
次代:ユリウス3世
教養
ローマにてポンポーニオ・レトのもとで、フィレンツェ、ピサにて、学ぶ。
年表
1468年2月29日
カニーノにて、生(1468年2月28日)。
1486年7月~
フィレンツェに滞在。
1487年
インノケンティウス8世により、家族の争いにおける態度のためサンタンジェロ城に投獄される。
148?年
脱獄する。
1488年頃
ローマの聖職者。
1491年
ロレンツォ・イル・マニーフィコの推薦により、教皇秘書官、教会首席書記官になる。
1492年
財務長官。
1492年6月22日
ヴィテルボのサン・ロレンツォ大聖堂の司教座聖堂参事会員。
1493年9月20日
枢機卿会議で、助祭枢機卿に任命される。
1493年9月23日
赤い帽子とローマのサンティ・コスマ・ダミアーノ教会助祭を授かる。
義兄プッチョ・プッチ宛てに手紙をしたため、枢機卿に選出されたことを報告。
1493年10月20日
ローマにて、義兄弟ロレンツォ・プッチ宛てに手紙をしたため、教皇アレクサンデル6世とチェーザレ・ボルジア枢機卿がカポディモンテに来ることを伝える。
1494年11月14日
教皇領管区教皇代理。
1495年5月27日
1495年6月27日
1496年7月16日
アレクサンデル6世が勅書を発す。教皇代理アレッサンドロ・ファルネーゼを歓迎させるためヴィテルボ人を招待する。
1496年9月15日
1500年2月22日(土)
チェーザレ・ボルジアを迎えるためローマ出発。
1500年
ニコラウス・コペルニクスがローマを訪れた際、最も根気よい聞き手の1人だった。
1534年10月13日
教皇に枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ即位しパウルス3世を名乗る。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1534年11月13日
即位後、枢機卿たちにカトリック教会内改革のための公会議開催の必要性を説いていた教皇パウルス3世、この日の枢機卿会議でもその旨を強調。
1535年1月14~15日
パウルス3世、枢機卿会議で再び公会議早期開催の必要性を力説。
1535年5月20日
パウルス3世、ヘンリー8世により投獄されているJohn Fisherを枢機卿に任命。
1535年7月20日
パウルス3世、クレメンス7世によるS. Paolo (Paulus)律修聖職者会(バルナバ会)公認(1533年)を追認。
1535年7月26日
パウルス3世、John Fisherの処刑に抗議する書簡をキリスト教各国に送る。さらに1535年7月末、トマス・モアの処刑の報に激怒。
この他、John Fisher及びトマス・モア処刑の報、カール5世をも含む各君侯などヨーロッパ各地・各陣営に大きな反響を呼び起こす。これを鎮めるべくThomas Cromwell、ローマを初め各地に、彼ら両名は王ヘンリー8世の寛容・忍耐にもかかわらず王に反抗した王を打倒しようとしたと処刑を正当化する書簡を送る。
1535年8月
パウルス3世、枢機卿会議に、破門に動じないヘンリー8世の王位喪失、その臣下の忠誠の解除と反抗の勧奨、イングランドにおける聖務の禁止などを命ずる勅書を提出。
1535年9月10日
ペルージアに軍を送ってリドルフォ・バリオーニと従兄弟ジャンパオロ・バリオーニを放逐したパウルス3世、この日、自らペルージアに入りバリオーニ家を領外追放、封土、城塞没収に処すと共に領内統治のため自身の代理を置く。以後リドルフォ・バリオーニはフィレンツェでアレッサンドロ・デ・メディチに臣従。
1535年9月
ミケランジェロ、パウルス3世によりヴァティカン宮殿の絵画・彫刻・建築制作主任に任命され、システィーナ礼拝堂の「最後の審判」の制作に着手(~1541年)。
1535年
故ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子、カラヴァッジョ侯、Calliate伯Giampaolo Sforza、スフォルツァ家の嫡流が絶えたことを理由にミラノ公位の継承を望み、それをカール5世に承認させてくれるようパウルス3世に懇願すべくローマに向かうが、途中フィレンツェで急死(1497年~)。
フランソワ1世、ミラノ継承請求権を主張し、息子アンリ・ド・ヴァロワにミラノを与えるよう要求。
1536年4月5日
カール5世、兵7百を率いてナポリからローマに入り、以後パウルス3世と会談を重ねる。
1536年4月17日
カール5世、パウルス3世初め枢機卿及びフランソワ1世の大使を含む君主の駐教皇庁大使たちが居並ぶ前で演説し、フランソワ1世を、長年にわたって違約を続け、好戦的野望を満たそうとしていると激しく非難。
1536年5月11日
フランソワ1世、自分に対するカール5世の非難演説(1536年4月)への反論をパウルス3世に送る。1536年5月25日、反論は枢機卿及び教皇庁駐在大使たちの前で読み上げられる。
1536年5月23日
パウルス3世、ポルトガル王ジョアン3世(1502年~1557年)の強い要請に応じ、スペイン方式の厳格な王立異端審問所の設立を認可。
1536年6月2日
カトリック教会内改革に意欲を燃やすパウルス3世、1536年4月8日枢機卿会議で反対派の抵抗を押して開催を決め、1536年4月24日カール5世の残した使節との間でその日時について合意した公会議を、誤認・異端の排除、キリスト教諸国家の和平、などのため1537年5月23日マントヴァで開催するとの勅書を発する。
1536年7月後半
パウルス3世、公会議に備えて、教会内の諸問題を検討し教会改革案を作成するための九人委員会(Commissione novemvirale)を設立し、Reginald Pole(1500年~)、枢機卿G. Contarini(在位1535年~)、I. Sadoleto、ジャンピエトロ・カラーファら9名を委員に任命。
1536年9月5日
フランソワ1世、カール5世との戦闘が続いている現状ではフランスの聖職者をマントヴァに送ることはできないと言明し、パウルス3世のマントヴァ公会議開催の勅令(1536年6月)を拒絶。
1536年12月22日
パウルス3世、教会改革九人委員会のメンバーの内、Reginald Pole、I. Sadoleto、ジャンピエトロ・カラーファを枢機卿に叙任。
1537年1月31日
パウルス3世、自分の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ(1503年~1547年)を教会の旗手に任命。
1537年1月
ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514年~)とカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼ(1524年~1586年)と結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。
1537年3月9日
教会改革九人委員会、Consilium de emendanda ecclesia(教会改革草案)をパウルス3世に提出。
間もなく外部に漏洩したこの教会改革草案を知ったマルティン・ルター、これをドイツ語で公刊して嘲笑を加え、筆者たちを「嘘吐き」、「いかさま師」と決めつける。
1537年3月14日
枢機卿会議にて、新公国を創り、ネピとロンチリオーネをピエル・ルイジ・ファルネーゼに与える。
1537年
フェデリーコ2世・ゴンザーガに黄金の薔薇を授与。
1537年4月20日
パウルス3世、マントヴァでの公会議開催にあたって警護の兵1千6百を教皇の負担で整えるようにとの公フェデリーコ2世・ゴンザーガの要求を拒否し同地での公会議開催を延期することを、枢機卿会議で決める。
1537年6月9日
すでに1537年5月、インディオ保護の指示を発していたパウルス3世、1537年6月、彼ら新発見地の土着民は全て「真の人間」(veros homines)であり、決して彼らを奴隷にすることなくその「自由と所有する財産」を保護し、「イエス・キリストの信仰に導くために」彼らに「神の御言葉を説き教え」よ、との勅書を発する。
1537年6月24日
イグナティウス・デ・ロヨラとその同志5名、パウルス3世の格別な計らいと認可により、通常は10年を要する叙任過程を2週間で完了し、司祭に叙任される。
1537年6月
3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世、カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年7月26日
パウルス3世、キリスト教諸国・諸君主宛の勅書の中で、ヘンリー8世は異端・涜神者・反逆者でありすでに王位を失っていると激しく非難。
1537年7月
パウルス3世、エルコーレ・ダ・ヴァラーノを威嚇し、封与した(1535年)カメリーノを教会に返還させる。以後、カメリーノを教会領と主張。
1537年8月下旬
パウルス3世、ヘンリー8世の「罪」を列挙し2か月以内に改心しなければ破門に処する、それにより彼は王位を失い、臣下は忠誠を解除され、イングランドでの聖務は禁止されるとの勅書を枢機卿会議に提出。
1537年9月30日
カール5世、パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼにマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。
1537年10月8日
パウルス3世、公会議を延期し1538年5月1日にヴィチェンツァで開催することをヴィチェンツァの同意も得て枢機卿会議で決め、1537年10月18日公表。
1537年10月31日
パウルス3世、長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼとその正統相続人のためにカストロ公国を創り、これを近くの都市ネピ、ロンチリオーネ、カプラローラと共に封与(1537年11月1日)。
1537年
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費の増大による教皇庁財政の悪化に対処するため、教会領全域で塩税を大幅に増税。
コロンナ家が不払いを宣言し、各都市が増税撤回を求めたのに対しパウルス3世、一時的延滞を認めながらも増税撤回は拒否。
1537年
スコットランド王ジェームズ5世に祝福された剣を授与。
1538年2月8日
ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世及びフェルディナンド、ヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成(陸軍の指揮官ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、水軍の指揮官アンドレア・ドーリア)、戦費の分担(パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世が1対2対3の割合)などを約定し、2日後に公示。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
1538年2月
カール5世、パウルス3世の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼに、自身とパウルス3世の仲介者となることを期待してノヴァーラを封与。
1538年5月17日
公会議の早期開催とオスマン・トルコの脅威への対策についてキリスト教諸国の和解・同盟を実現すべくニースでのカール5世とフランソワ1世の会見を提案してきたパウルス3世、1538年3月23日ローマを発ち、この日ニース郊外に到着。以後、カール5世と1538年5月19日、1538年5月21日、1538年6月3日、1538年6月9日の4回、フランソワ1世と1538年6月2日、1538年6月13日、1538年6月17日の3回、個別に会談。
しかし、カール5世とフランソワ1世の直接の会談はついに実現できないままに終わる。
1538年6月22日
パウルス3世とカール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼとカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼとマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1538年11月15日
パウルス3世、カメリーノの領有を続けるウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノにカメリーノは教会直属領であると改めて主張し、領地返還を要求。
1538年11月29日
パウルス3世、ピエル・ルイジ・ファルネーゼにその軍を率いてカメリーノを攻撃するよう指令。
1538年12月7日
パウルス3世、1537年8月枢機卿会議に提出していたヘンリー8世処罰の勅書を公表。
1539年1月初旬
グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノ、自分たちのカメリーノ領有権を支持するコジモ1世・デ・メディチの具体的支援も、父・故フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの健在時に得てきたヴェネツィアとフェッラーラの支援も共に得られず、パウルス3世の強い要求に屈してカメリーノ領有を断念・放棄。代わりに報償金と、これまで拒否されてきたパウルス3世によるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレのウルビーノ公への叙任を得る。
1539年1月8日
パウルス3世、カメリーノ占領総督を任命。
1539年5月21日
パウルス3世、1539年5月1日にヴィチェンツァで開催予定であった公会議を、当日に司教が参集しなかった上、公会議開催に最も熱心なカール5世からプロテスタントとの交渉が進展しない現状では公会議に代表を派遣できないと伝えられ、この協力を期待できなくなったため、無期延期することを枢機卿会議で決める。
1539年5月
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費の増大などによる教皇庁の財政危機の深刻化に対処するため、塩税の増税(1537年)に加えて教皇領内全教会の聖職禄に対する課税率を20パーセントに上げる。
1539年7月
パウルス3世、教皇庁の財政危機の深刻化に対処するため、1539年5月の聖職禄への増税をさらにイタリア全土の全教会に対して実施。
1539年9月3日
イグナティウス・デ・ロヨラらのイエズス信徒会、正式の修道会としての許可を得るべく、枢機卿G. Contariniを介して5か条からなる会掟草案をパウルス3世に提出。
1539年9月
1539年1月占領したカメリーノの視察からローマへの帰途ペルージアに立ち寄ったパウルス3世、その執政長官から塩税の延滞金の軽減を懇願されるが拒絶。これに対しペルージア、間もなくその支払いを拒否。
1539年10/11月
イグナティウス・デ・ロヨラらイエズス信徒会メンバー、1538年と同じく1539年も聖地巡礼船の出航が不可能となったため、その活動の方向をパウルス3世の意に委ねることにし、その決定に従って世界各地での福音宣教に奉仕することを決める。
1540年2月7日
パウルス3世、改めて新塩税の支払いを命じ、違反者を重罪に処すとの勅書を発する。
これに対しペルージア、武装反乱に決起。
1540年3月
パウルス3世、ペルージアでの聖務を禁止。これに対しシエナ、オルヴィエート、スポレート、メディチ家及びコロンナ家など、ペルージア反乱への支援を協議。
1540年5月8日
パウルス3世がピエル・ルイジ・ファルネーゼ、アレッサンドロ・ヴィテッリ、ジローラモ・オルシーニらの指揮の下にペルージアに送った教皇軍とペルージア守備軍の衝突、戦闘、始まる。
1540年6月1日
パウルス3世と決定的に対立することを避けたいカール5世の制約の下、領国境界まで軍を進めながら対教皇軍戦の支援に踏み切れないメディチ家を初めコロンナ家や諸都市からも期待した支援を得られずに孤立し、資金と食糧の欠乏したペルージアの代表リドルフォ・バリオーニは、教皇軍のジローラモ・オルシーニに、市民の安全及び移転の自由などを条件として市の明け渡しを認める。
1540年6月5日
ペルージア、教皇軍により占領・制圧される。
1540年6月12日
シュパイエルで1540年5月23日開催を予定されていたドイツのカトリック・プロテスタント両派の宗教討議、同地でのペストの蔓延のためアグノーに場を移し、この日、フェルディナンドにより開会を宣言される。
自分の代理を討議に出席させておけばそこで生ずるかもしれない両派の和解・妥協を公認することになるのではないかと懸念したパウルス3世、代理を送らず無視。
1540年7月5日
パウルス3世、「天主の貧しき僕の会」(1532年~)を公認。
1540年9月27日
パウルス3世、イエズス信徒会を解消したイエズス会(Societas Jesu)を会員数の制限(60名)付きで公認。
1540年11月5日
パウルス3世、カメリーノをオッタヴィオ・ファルネーゼに封与。但しこの報、カメリーノには翌1541年7月12日に届く。
1540年11月25日
ドイツのカトリック・プロテスタント両派宗教討議、ヴォルムスで、カトリック側からJ. Eck、Giovanni Morone(1509年~1580年:枢機卿1542年~1580年)、パウルス3世の特使Tommaso Campeggio(1481年~1564年)ら、プロテスタント側からJ. Calvin、M. Bucerらが出席し、カール5世の大法官・全権特使Nicolas Perrenot de Granvelle(Granvela:1486年頃~1550年:大法官在位1530年~?)を議長として開会。しかし実質討議は翌1541年1月まで遅滞。
1540年
ポーランド王ジグムント2世に祝福された剣を授与。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドがカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナもローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリのClizia、ピエル・ルイジ・ファルネーゼの長子(パウルス3世の孫)・枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ邸(ローマ)で上演される。
1541年3月中旬
パウルス3世、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍にコロンナの家領を攻撃させ、主要地点を次々と陥落させる。
1541年4月27日~1541年5月25日
レーゲンスブルク帝国議会(1541年4月5日~)におけるドイツのカトリック・プロテスタント両派の宗教討議、カトリック側からJ. Eck、Nicolas Perrenot de Granvelle、Giovanni Morone、Tommaso Campeggio、パウルス3世の特使G. Contarini、プロテスタント側からMelanchthon、J. Calvin、M. Bucerらが出席して開催され、義認をめぐる教理の和解成立かとの期待、生ずる。
1541年5月26日
コロンナ家、ペドロ・デ・トレドにも支援を求めたものの、パウルス3世をフランソワ1世側に追いやることは避けたいカール5世側の思惑からここでも聞き入れられず、この日、最後の拠点パリアーノの城塞も制圧され、全面的に敗北。
統領Ascanio Colonnaを初め一族はナポリに亡命し、所領は全てパウルス3世に没収される。
1541年7月28日
レーゲンスブルク帝国議会、閉会(1541年4月~)。宗教討議(1541年4月~1541年5月)で成立を期待された義認をめぐる和解、カトリック側ではパウルス3世の、プロテスタント側ではマルティン・ルターの峻拒に会って成立せず、3次にわたる宗教討議は失敗に終わる(1540年~)。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世とカール5世、ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世、ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラ公エルコーレ2世・デステ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1541年10月下旬
カール5世、ルッカ会見におけるパウルス3世の忠言やアンドレア・ドーリアなど自軍首脳揃っての諌止を聞き入れず、アンドレア・ドーリア指揮の大艦隊を率いてBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェを攻撃。しかし、突然襲来した激しいハリケーンとそれに乗じての現地Barbaria人軍団の反撃にあって壊滅的打撃を受け、カール5世自身も危機に陥る。以後、オスマン・トルコ水軍、フランソワ1世水軍との提携の下、北アフリカのスペイン拠点を次々と攻略。
1542年4月26日
ドイツにおけるカトリック・プロテスタント両派の宗教討議の失敗を受けてパウルス3世、帝国都市トレント(トリエント)で1542年11月1日公会議を開催することを、フランソワ1世側の反対を抑えて枢機卿会議で決める。1542年5月22日、勅書を発して公表。
これに対してフランソワ1世、激しく反発し司教の派遣を拒否。
1542年7月21日
パウルス3世、ローマにジャンピエトロ・カラーファら6名の枢機卿からなるローマ及び世界異端審問所(Congregatio Momanae et universalis inquisitionis:のちの検邪聖省(Sanctum Officium))を、各キリスト教国にその代行機関をそれぞれ設置する勅書を発し、宗教改革運動排撃・反宗教改革の姿勢を明確に打ち出し始める。
1542年11月1日
この日トレントで開催予定の公会議、パウルス3世は特使・枢機卿Reginald Pole、Giovanni Morone、Pietro Paolo Parisio(1473年~1545年:在位1539年~1545年)を派遣したものの、フランソワ1世は司教を派遣せず、カール5世も大法官Nicolas Perrenot de Granvelleを派遣しながら司教をしないなど、参集者が少なく、開催できず。
1543年2月11日
カール5世とヘンリー8世、カール5世は自身の対戦相手である、ヘンリー8世は自身が併合を目指すスコットランドの背後にあるフランソワ1世に共に対抗する秘密同盟を締結。
この同盟についてカール5世、パウルス3世に使者を送り、対フランソワ1世戦ないしは対フランソワ1世同盟国(オスマン・トルコ)戦のためのものであり、イングランド教会を支持してローマ教会・パウルス3世に対抗するものではないどころか、ヘンリー8世を正道に引き戻すためのものであると弁明。
1543年
エルコーレ2世・デステに黄金の薔薇を授与。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世とカール5世、パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世はカール5世・フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1543年7月6日
パウルス3世、カール5世・フランソワ1世戦争及びオスマン・トルコによるキリスト教諸国侵攻という状況に鑑み、公会議の開催を適切な時期まで延期することを枢機卿会議で決め、直ちに勅書を発して公表。
1543年
ポルトガル船、種子島に漂着
1543年
コペルニクス「天球の回転について」
1543年
教皇庁、禁書目録作成
1544年9月18日
クレピーの和:カール5世・ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子Orléans公Charles(d'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Anna(von Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世はミラノ、ナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世・フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1545年3月15日
この日、トレントで開催予定の公会議、パウルス3世の特使・枢機卿Reginald Pole、ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~1555年:在位1536年~:教皇在位1550年~1555年)、マルチェロ・チェルヴィーニの他数名の司教・枢機卿しか集まらず、開催できずに終わる。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1545年11月6日
パウルス3世、1545年12月13日トレントで公会議を開催することを枢機卿会議で改めて決める。
1545年12月13日
トレント公会議開催:公会議、トレント(トリエント)大聖堂でようやく開会(~1563年)。但し、プロテスタントの出席者がないまま、教皇特使3名を含む34名のローマ教会高位聖職者が出席し、特使Reginald Poleを議長とする、かつ全議会に教皇の批准を必要とする、純然たるカトリック会議となる。
1545年
トリエント公会議(-63)
1546年1月22日
トレント公会議、主要審議課題は教義の確定だとするパウルス3世側と、教会改革だとするカール5世側とが鋭く対立する中、この日、両課題を同時並行的に審議していくことを決める。
1546年4月8日
トレント公会議、(1)旧約聖書・新約聖書の他、聖伝も信仰の基準とすること、(2)教会で伝統的に用いられてきたラテン語訳聖書Vulgataを公認基準聖書とすると共にその批評校訂版が必要であること、(3)教会を聖書の唯一の標準的解釈者とすること、(4)聖書の出版は教会の許可なくしては行ってはならないこと、など伝統的なカトリックの教義の基本原則を確認することにより、異端を認めない絶対的教条を決定。
1546年5月
すでに対シュマルカルデン同盟戦争を企図していたカール5世、軍の移動を始める一方、パウルス3世に同盟に対抗するための特別協定の素案を提示。
1546年6月7日
カール5世、パウルス3世の使節に、(1)自分がこの月内にもシュマルカルデン同盟に対して戦端を開き、以後パウルス3世の明確な同意なしにはプロテスタントとこの戦争の原因や目的に関して、とりわけ教会の教義や規定に触れる事柄についていかなる譲歩・合意もしない、(2)自分にパウルス3世は軍資金と大軍を送る、(3)両者はいずれか一方にとって障害となる者に共に対抗する、などを骨子とする対シュマルカルデン同盟特別協定案を、前日付で自分が署名した上で手渡す。
1546年6月26日
パウルス3世、4日前に枢機卿会議で承認を得たカール5世署名の対シュマルカルデン同盟特別協定に署名。これにより、パウルス3世・カール5世の対プロテスタント連合、成立。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1546年末
ジェノヴァやシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年1月2日~1月3日
ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo Fieschi、Ottobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
市内に戻ったアンドレア・ドーリア、Gerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
カール5世、ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼとパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。
1547年1月13日
トレント公会議、正義は信仰と人間の行為によると定め、信仰のみによるとする宗教改革の根本原理を否定してこれに対抗する立場を明確化する。
1547年1月22日
パウルス3世、カール5世はMoritzとの協定(1546年6月)などにより対シュマルカルデン同盟特別協定(1546年6月)の(1)に違反しているとして、自身がカール5世に派遣した(1546年8月)援軍を引き上げる勅書を発する。
1547年3月11日
パウルス3世の特使ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテらトレント公会議の多数派、パウルス3世の意を付度し、シュマルカルデン戦争における勝利を確定的にしたカール5世の圧力を回避すべく、発疹チフスの流行で会議参加者にも罹患・死亡が相次いでいることを理由に会議のボローニャ移転を決議。少数反対派はトレントに残留することを決め、これを支持するカール5世は以後、威嚇してボローニャ会議での決議宣言を阻止し続ける。
1547年9月12日
フェッランテ・ゴンザーガ、軍と共にピアチェンツァに入り、カール5世の名をもって占領。ピエル・ルイジ・ファルネーゼを倒した貴族たちにピアチェンツァはファルネーゼ家にもパウルス3世にも渡さぬと宣言。さらにパルマをも狙う。
1547年9月16日
子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼをパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世、カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1548年
カトリーヌ・ド・メディシスに黄金の薔薇を授与。
1548年7月31日
イエズス会の活動の精神的源泉として自己の魂の浄化、意志の発見、神の意志への完全な献身を説くイグナティウス・デ・ロヨラのEjercicios espirtuales(心霊修業(霊操))を、全篇くまなく敬神の心と至誠に満ちた書だと絶賛し全信徒にこの書から学べと勧奨する勅書を発すると共に、直ちにこの書を刊行させる。
1548年7月
この頃?、1547年来カール5世と信仰上も政治上も反発・対立を強めてきたパウルス3世、ピエモンテにあるアンリ2世に反カール5世協定の締結を密かに働きかける。しかしアンリ2世、この協定を望みながらも高齢のパウルス3世の死とそれによる同盟の瓦解の可能性を危惧し、イタリア諸都市の同盟参加を条件として提示するなどしながら状況の推移を見守る。
1549年9月13/14日
ボローニャでの多数派による公会議の中止を宣言。この会議はついに1度も議決宣言を出さず、カール5世の抗議に屈した形で終わる。
1549年11月10日
早朝死。
墓
本名
アレッサンドロ・ファルネーゼ、Alessandro Farnese
別表記
パウロ3世、パウル3世、ペチコート枢機卿
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Find A Grave
GCatholic.com
Genealogy.EU
Google Books
JDA's Family Tree
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家の人びと』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ハプスブルク家』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス百科事典』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
バルトロメオ・ファルネーゼ Bartolomeo Farnese
- 生没
- 1470年頃~
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
概要
バルトロメオ・ファルネーゼは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
ジューリア・ファルネーゼ Giulia Farnese
- 生没
- 1474年~1524年3月23日
- 出身
- カニーノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジョヴァンナ・カエターニ
- 夫
- オルシーノ・ミリオラーティ
ジョヴァンニ・マリーア・カペーチェ・ボッツート - 子
- ラウラ・ミリオラーティ
概要
ジューリア・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。アレクサンデル6世の愛人。その美貌が一地方貴族にすぎなかったファルネーゼ家を名家へとのし上げた。
容姿
褐色の肌、黒い目、丸い顔、金髪。
年表
1474年
生。
1489年5月20日
ボルジア宮殿(現スフォルツァ・チェザリーニ宮殿)の星の間でオルシーノ・ミリオラーティと婚姻契約。証人は、きょうだいではアンジェロ・ファルネーゼ、おじニコラ・カエターニ、おじの教皇庁首席書記官ヤコポ・カエターニ、バルトロメ・マルティ、その他高位聖職者、ローマの貴族ら。婚姻契約書は公証人カミッロ・ベネイムベネによって書かれ、教皇庁副尚書院長ロドリゴ・ボルジア枢機卿が第1証人で、持参金は3千フィオリーノ。
1489年5月21日
オルシーノ・ミリオラーティと結婚。ボルジア宮殿で行われたこの式には、ロドリゴ・ボルジア、サンタ・マリア・イン・ポルティコの枢機卿ジョヴァンニ・バッティスタ・ゼノ、ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿、フィレンツェ大司教リナルド・オルシーニ、その他の高位聖職者、商人、オルシーニ、ボルジア各家の親類などが列席。
1492年11月30日
娘ラウラ・ミリオラーティを出産。
1493年6月12日
ルクレツィア・ボルジアとジョヴァンニ・スフォルツァのヴァティカン宮殿での結婚式に参列。
1493年11月
この頃には教皇アレクサンデル6世のほぼ公然たる愛妾となる。
1493年
この頃?、サンタ・マリア・イン・ポルティコ宮殿にルクレツィア・ボルジア、アドリアーナ・デル・ミラと共に住む。夫のオルシーノ・ミリオラーティはヴァザネッロ城に住む。
1494年春
ルクレツィア・ボルジアらと共にペーザロへ赴く。
1494年6月8日
ペーザロ到着。
1494年6月
ペーザロにて、アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。「私の唯1人の殿御に」ルクレツィア・ボルジアは幸せな妻として暮らしており、遺漏なく振舞っているし、ペーザロはフォリーニョよりもずっとひらけた町であり、誰もがスフォルツァ家に心服しているので、教皇様にもご安堵頂きたい。たえず、踊ったり、歌ったり、音楽界を開いたり、仮面舞踏会を催したりしている。しかし、だからと言って、私とアドリアーナ・デル・ミラが楽しんでいるとは、教皇様にお考え頂きたくない。悲しいことに、「聖下はいらっしゃらないし、私の全ての幸せも喜びも聖下次第なのですから、どんな楽しみもありませんし、そういう楽しみを味わう喜びというものも持てないのです。私の宝のいられるところに、私の心もあるのですから。聖下のお膝元にいる時の他は、何もかも空しいのです。そうでないと言う人がいたら、その人はよほどどうかしているのです。聖下におかれては、私たちをお忘れになりませんことを、そして、ここに閉じ込められた私たちを程なく呼び戻してくださいますことを。そして、時々はお便りを下さり、心からお仕えする私のことを思い出してくださいますことを」。兄弟のアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿に新たに与えられた愛顧について教皇に感謝を述べる。「聖下を煩わさないために」、そこで手紙を結ぶ。
1494年7月12日
長兄アンジェロ・ファルネーゼが臨終の床にあることを知り、この日未明、アドリアーナ・デル・ミラ、フランチェスコ・ガセット、それに少人数の供を従え、ペーザロを出発し、カポディモンテに見舞いに行く。
1494年11月27日
兄アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿のいるヴィテルボへ向かい、アドリアーナ・デル・ミラと姉ジローラマ・ファルネーゼと共にカポディモンテの城を出発。少し行ったところでイヴ・ダレーグル以下フランス騎兵隊と遭遇。25人から30人の従者も共に、捕虜としてモンテフィアスコーネへ連れていかれる(1494年11月29日)。
好待遇を受けていること、身代金を送って欲しいという内容でローマに手紙を書く。
1494年12月1日
夜、4百名のフランス兵に護衛され、アドリアーナ・デル・ミラとジローラマ・ファルネーゼと共にローマに帰還。門のところで教皇の侍従フアン・マラデスに出迎えられる。
1504年
姉ジローラマ・ファルネーゼをヴァザネッロに埋葬する(1505年11月1日)。
この時には、ヴァザネッロ城に、オルシーノ・ミリオラーティと共に住む。
1505年
ローマに、オルシーノ・ミリオラーティと離れて住む。
1505年11月
ヴァティカンにて、娘ラウラ・ミリオラーティがニッコロ・フランチオッティと結婚。
1509年2月20日
ジョヴァンニ・マリーア・カペーチェ・ボッツートと結婚。
1524年3月14日
遺言書を作成。
1524年3月23日
ローマで死。
肖像
関連項目
The Borgias: 102, 103, 104, 105, 106, 107, 108, 109, 201
外部リンク
ウィキペディア
ボルジア解体新書
Famille de Carné
Find A Grave
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
RootsWeb.com
THE BORGIAS wiki
Treccani.it
参考文献
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ガレアッツォ・ファルネーゼ Galeazzo Farnese
- 生没
- 1477年?~1540年
- 父
- ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ
- 母
- バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
- 妻
- エルシーリア・コロンナ
イザベッラ・デッラングイッラーラ - 子
- フェッランテ・ファルネーゼ
ベルトルド・ファルネーゼ
バッティスティーナ・ファルネーゼ
ジャンフランチェスコ・ファルネーゼ
ファビオ・ファルネーゼ
ジローラマ・ファルネーゼ
ジューリア・ファルネーゼ
ヴィオランテ・ファルネーゼ
概要
ガレアッツォ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
外部リンク
フェルディナンド・ファルネーゼ Ferdinando Farnese
- 生没
- 1478年~1501年4月
- 没地
- ファエンツァ
- 父
- ピエル・ベルトルド・ファルネーゼ
- 母
- バッティスティーナ・デッラングイッラーラ
概要
フェルディナンド・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1478年
生(1479年)。
1498年5月~6月
コロンナ家と敵対するオルシーニ家に与し、キアラヴァッレを攻撃。
1499年
ピサ征服を目指すフィレンツェ共和国軍のパオロ・ヴィテッリ配下に入る。
1499年10月
パオロ・ヴィテッリが処刑された後も、フィレンツェ共和国に雇われ続ける。
1500年10月1日
ロマーニャ攻略に向かうチェーザレ・ボルジアの護衛隊として、ローマを出発。
1501年4月
ファエンツァ攻囲戦にて、戦死。
別表記
Ferrante Farnese
外部リンク
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
参考文献
フェデリーコ・ファルネーゼ Federico Farnese
- 生没
- 1480年~1511年
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- イッポーリタ・パッラヴィチーニ
- 妻
- イッポーリタ・スフォルツァ
概要
フェデリーコ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1499年4月2日
ローマのファルネーゼ宮殿で、ラウラ・ミリオラーティとの婚姻契約書が作成される。出席者は母ジューリア・ファルネーゼ、父オルシーノ・ミリオラーティ、伯父アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿。カミッロ・ベネイムベネが作成。
1504年
イッポーリタ・スフォルツァと結婚。
外部リンク
カミッラ・ファルネーゼ Camilla Farnese
- 生没
- 1482年~1550年
- 没地
- ローマ
- 父
- ラヌッチョ・ファルネーゼ
- 母
- イッポーリタ・パッラヴィチーニ
- 夫
- ヤコポ・サヴェッリ
- 子
- ジョヴァンニ・バッティスタ・サヴェッリ
概要
カミッラ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
フランチェスカ・ファルネーゼ Francesca Farnese
- 生没
- 1453年~1505年6月
- 没地
- サンタ・フィオーラ
- 父
- アンジェロ・ファルネーゼ
- 母
- アンジェラ・オルシーニ
- 夫
- グイド・スフォルツァ
- 子
- フェデリーコ1世・スフォルツァ
チェチーリア・スフォルツァ
ジューリア・スフォルツァ
マルツィア・スフォルツァ
アウレリア・スフォルツァ
ゼノービア・スフォルツァ
概要
フランチェスカ・ファルネーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
コスタンツァ・ファルネーゼ Costanza Farnese
- 生没
- 1500年?~1545年5月23日
- 没地
- ローマ
- 父
- パウルス3世
- 母
- シルヴィア・ルッフィーニ
- 夫
- ボジオ2世・スフォルツァ
- 子
- グイド・アスカーニオ・スフォルツァ
スフォルツァ・スフォルツァ
フランチェスカ・スフォルツァ
カルロ・スフォルツァ
ファウスティーナ・スフォルツァ
ジューリア・スフォルツァ
カミッラ・スフォルツァ
マリオ・スフォルツァ
ジュスティーナ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
パオロ・スフォルツァ
概要
コスタンツァ・ファルネーゼは、15~16世紀のイタリアの女性。
年表
1515年1月
ボジオ2世・スフォルツァと結婚(1515年2月)。
外部リンク
ピエル・ルイジ・ファルネーゼ Pier Luigi Farnese
- 生没
- 1503年11月19日~1547年9月10日
- 父
- パウルス3世
- 妻
- ジローラマ・オルシーニ
- 子
- アレッサンドロ・ファルネーゼ
ヴィットーリア・ファルネーゼ
オッタヴィオ・ファルネーゼ
ラヌッチオ・ファルネーゼ
オラツィオ・ファルネーゼ
概要
ピエル・ルイジ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。
在位
教会の旗手 1537年2月1日~1547年
カストロ公 1537年~1545年
次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
パルマ公 1545年9月16日~1547年9月10日
ピアチェンツァ公 1545年~1547年
次代:オッタヴィオ・ファルネーゼ
年表
1537年1月31日
1537年3月14日
教皇パウルス3世により、新公国として、ネピとロンチリオーネを封ぜられる。
1537年10月31日
パウルス3世、長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼとその正統相続人のためにカストロ公国を創り、これを近くの都市ネピ、ロンチリオーネ、カプラローラと共に封与(1537年11月1日)。
1538年2月
カール5世、パウルス3世の長子ピエル・ルイジ・ファルネーゼに、自身とパウルス3世の仲介者となることを期待してノヴァーラを封与。
1538年11月29日
パウルス3世、ピエル・ルイジ・ファルネーゼにその軍を率いてカメリーノを攻撃するよう指令。
1540年5月8日
パウルス3世がピエル・ルイジ・ファルネーゼ、アレッサンドロ・ヴィテッリ、ジローラモ・オルシーニらの指揮の下にペルージアに送った教皇軍とペルージア守備軍の衝突、戦闘、始まる。
1541年2月25日
パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。
以後、ペドロ・デ・トレドがカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナもローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリのClizia、ピエル・ルイジ・ファルネーゼの長子(パウルス3世の孫)・枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ邸(ローマ)で上演される。
1541年3月中旬
パウルス3世、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍にコロンナの家領を攻撃させ、主要地点を次々と陥落させる。
1543年6月12日
対フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロス、ピエル・ルイジ・ファルネーゼ、フランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアでコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1546年末
ジェノヴァやシエナのみならずパルマ・ピアチェンツァをも直接、支配下に収めようと企図し、後者の公ピエル・ルイジ・ファルネーゼの失脚を狙いながらもそのためにはパウルス3世の死を待つ他はないと考えるカール5世に、フェッランテ・ゴンザーガ、公の強力・苛烈な統治で伝来の封建的特権を制約され不満を強めている貴族を利用するよう提案。
1547年1月2日~1月3日
ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)(1522年~)とその兄弟Gerolamo Fieschi、Ottobono Fieschi(?~1555年)、カール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adorno(?~1558年)による統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
市の城門を閉め、港に停泊中のアンドレア・ドーリア艦船を捕獲し、彼の後継者Giannettino Doriaを殺害するなど目的完遂かと思われたが、アンドレア・ドーリア自身には逃げられた上、Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
市内に戻ったアンドレア・ドーリア、Gerolamo Fieschi(?~)らを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
カール5世、ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼとパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。
1547年9月10日
フェッランテ・ゴンザーガ、カール5世の承認の下、ピエル・ルイジ・ファルネーゼに不満を強めているピアチェンツァの貴族と結び、この日、彼らにピエル・ルイジ・ファルネーゼを刺殺させる。
肖像
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani.it
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『Lucretia Borgia』
アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese
- 生没
- 1520年9月27日~1589年3月2日
- 出身
- ヴァレンターノ
- 没地
- ローマ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 子
- クレーリア・ファルネーゼ
概要
アレッサンドロ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
パルマ教区長 1534年11月1日~1535年8月13日
枢機卿(任命パウルス3世) 1534年12月18日~1589年3月2日
サンタンジェロ・イン・ペスケリア助祭枢機卿 1534年12月18日~1535年8月13日
サン・ピエトロ大聖堂主席司祭 1535年?~?
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂主席司祭 1535年?~?
ハエン教区長 1535年7月30日~1537年7月6日
アヴィニョン教区長 1535年8月13日~1551年6月15日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ助祭枢機卿 1535年8月13日~1564年4月14日
教皇庁副尚書院長 1535年8月13日~1589年3月2日
モンレアーレ教区長 1536年5月15日~1568年1月14日
ビトント教区長 1537年6月17日~1538年1月8日
マッサ・マリッティマ・エ・ポポロニア教区長 1538年11月15日~1547年4月22日
エルサレム総大司教 1539年8月27日~1550年
カヴァイヨン教区長 1540年7月16日~1541年7月20日
ビトント司教 1544年~1544年10月27日
ヴィゼウ教区長 1547年4月22日~1552年6月27日
トゥール教区長 1553年4月28日~1554年6月25日
ヴィヴィエ教区長 1554年6月25日~1554年11月12日
カオール教区長 1554年11月12日~1557年5月7日
スポレート教区長 1555年~1562年12月16日
ベネヴェント教区長 1556年11月22日~1560年1月16日
ヴィヴィエ教区長 1560年~1565年
ソラ教区長 1561年~1561年
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ司祭枢機卿 1564年4月14日~1564年5月12日
サビーナ司教枢機卿 1564年5月12日~1565年2月7日
サン・ロレンツォ・イン・ダマーソ名誉司祭枢機卿 1564年5月12日~1589年3月2日
フラスカーティ司教枢機卿 1565年2月7日~1578年7月9日
モンレアーレ大司教 1568年1月14日~1573年12月9日
モンテフィアスコーネ教区長 1571年~1572年8月22日
コルネート教区長 1571年~1572年8月22日
ポルト・エ・サンタ・ルフィーナ司教枢機卿 1578年7月9日~1580年12月5日
枢機卿団副長 1578年7月9日~1580年12月5日
オスティア、ヴェッレトリ司教枢機卿 1580年12月5日~1589年3月2日
枢機卿団長 1580年12月5日~1589年3月2日
年表
1520年9月27日
ヴァレンターノにて、生(1520年10月7日)。
1541年2月
ニッコロ・マキアヴェッリのClizia、アレッサンドロ・ファルネーゼ邸(ローマ)で上演される。
1555年8月12日
奪ったガレー船の返還をスフォルツァ家になお強硬に命じながらも、教会領の南の境界におけるカール5世軍(スペイン軍)の動向を危惧せざるを得ない上ローマにおける兵力と資金の欠乏に悩むパウルス4世に対し、アンリ2世に与するアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿、一族を挙げて支援することを約すると共に、アンリ2世との同盟を勧奨。
1580年
ヴィッラ・ファルネジーナを購入。
肖像
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
GCatholic.com
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
The Cardinals of the Holy Roman Church
ヴィットーリア・ファルネーゼ Vittoria Farnese
- 生没
- 1521年8月10日~1602年9月13日
- 出身
- ヴァレンターノ
- 没地
- ウルビーノ
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 夫
- グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ
- 子
- フランチェスコ・マリーア2世・デッラ・ローヴェレ
イザベッラ・デッラ・ローヴェレ
ラヴィーニア・デッラ・ローヴェレ
概要
ヴィットーリア・ファルネーゼは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。
年表
1548年1月26日
外部リンク
オッタヴィオ・ファルネーゼ Ottavio Farnese
- 生没
- 1524年10月9日~1586年9月18日
- 父
- ピエル・ルイジ・ファルネーゼ
- 母
- ジローラマ・オルシーニ
- 妻
- マルゲリータ・ディ・パルマ
- 子
- カルロ・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
チェーザレ・ファルネーゼ
ヴィオランテ・ファルネーゼ
ラヴィーニア・ファルネーゼ
ジュリオ・オスティリオ・ファルネーゼ
エルシーリア・ファルネーゼ
イザベッラ・ファルネーゼ
概要
オッタヴィオ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。
在位
カメリーノ公 1540年~1545年
先代:エルコーレ・ダ・ヴァラーノ
次代:教皇領
パルマ公 1547年11月9日~1586年9月15日
ピアチェンツァ公 1547年~1586年
教会の旗手 1547年~1551年、1567年~15??年
カストロ公 1553年7月18日~1586年9月18日
年表
1537年1月
ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの子・後継相続者グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ(1514年~)とカメリーノの正統継承資格者の1人ジューリア・ダ・ヴァラーノ(1523年~?)、ジューリア・ダ・ヴァラーノを自分の孫オッタヴィオ・ファルネーゼと結婚させ、カメリーノを自家領としてウルビーノ公を押さえたいパウルス3世の妨害——(破門(1535年2月)、カメリーノでの聖務禁止(1535年3月)、カメリーノの封与(1535年5月))——に対してウルビーノ公の承認の下で結婚し、カメリーノを事実上、領有。
1537年9月30日
カール5世、パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼにマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。
1538年6月22日
パウルス3世とカール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼとカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼとマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1540年11月5日
パウルス3世、カメリーノをオッタヴィオ・ファルネーゼに封与。但しこの報、カメリーノには翌1541年7月12日に届く。
1543年6月22/23~24/25日
パウルス3世とカール5世、パウルス3世の申し込みによりパルマ近郊ブッセートで会見し、(1)ミラノ領有問題、(2)トレント公会議開催問題、などについて討議。しかし(1)についてはパウルス3世は自家ファルネーゼ家の威勢拡大を企図しながら自身の孫・カール5世の娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへの封与を提案し、カール5世は自身の子フェリペ2世による領有の現状維持を目論み、カール5世(2)についてパウルス3世はカール5世・フランソワ1世戦の終結までの延期を図り、カール5世は自身とフランソワ1世の間で中立を装うパウルス3世に不満を抱きながら自派の枢機卿の増員・トレントでの早期開催を主張するなど、懸案のいずれについても合意できずに終わる。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1546年8月7日
カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。
1547年9月16日
子ピエル・ルイジ・ファルネーゼ暗殺・フェッランテ・ゴンザーガによるピアチェンツァ占領の報を逗留中のペルージアで受けたパウルス3世、この日までにアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の軍と共に故人の子オッタヴィオ・ファルネーゼをパルマに急派。同時に教会領内で全力を傾注して兵を集め、次々とパルマに送る。これによりパルマは辛うじてファルネーゼ家の配下に残る。以後パウルス3世、カール5世にピアチェンツァの返還を求め続ける。
1549年11月29日
教皇選出枢機卿会議、開催。新教皇にオッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ委譲と教会改革のための公会議の開催を義務付ける選挙協定を採択した後、教皇選出に入るが、それぞれ自派から新教皇を送りたいカール5世・アンリ2世両派の対立、激化。
1550年2月17日
ユリウス3世、教皇選出枢機卿会議における選挙協約に従い、オッタヴィオ・ファルネーゼにパルマを封与。1550年2月25日オッタヴィオ・ファルネーゼ、パルマに入る。
1551年5月22日
ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマをミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼ、アンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。
1551年6月12日
オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
1552年2月5日
アンリ2世の特使・枢機卿François de Tournon、ローマに入り、直ちにユリウス3世に和平条件——(1)パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼのもとに残す、(2)2年間休戦する、(3)休戦期間経過後の協定についてはオッタヴィオ・ファルネーゼに一任する、など——を提示。
1552年4月29日
ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼのパルマ領有、再確認される。
1556年6月27日
パウルス4世、フェリペ2世のナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1556年9月15日
フェリペ2世、オッタヴィオ・ファルネーゼにピアチェンツァを返還。後ノヴァーラも返還。但し両地の城塞はなおスペイン軍の配下に置く。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼ、パウルス4世・アンリ2世に対抗するフェリペ2世支持に大きく傾く。
1556年10月
オッタヴィオ・ファルネーゼ、フェリペ2世支持を明確化する。
1557年10月初旬
フェリペ2世、パウルス4世・アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1558年初旬
この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。
これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノのフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。
1559年8月20日
カール5世からのネーデルラント委譲の式典(1555年)以降ネーデルラントにあったフェリペ2世、ヨーロッパにおける覇権を目指すべくスペインに向かう。
ネーデルラントについてはフェリペ2世、異母姉マルゲリータ・ディ・パルマ(パルマ公・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼの妃)を摂政に任じ(在位~1567年)、警察・裁判、財務、国務の3顧問会議と王室顧問会議を設けて統治の実務に当たらせる。以後、王室顧問会議の最高顧問A. P. de Granvelle(在位~1564年)の過酷なプロテスタント弾圧に対する政治的・宗教的不満、高じ、反抗運動、芽生える。
1567年
1571年5月20日
対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィア、フェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。
この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、パルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼ、ウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレ、ジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani.it
参考文献
『ルネサンスの歴史』
『銀色のフィレンツェ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
アレッサンドロ・ファルネーゼ Alessandro Farnese
- 生没
- 1545年8月27日~1592年12月3日
- 出身
- ローマ
- 没地
- アラス
- 父
- オッタヴィオ・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・ディ・パルマ
- 妻
- マリア・デ・アヴィシュ
- 子
- マルゲリータ・ファルネーゼ
ラヌッチョ1世・ファルネーゼ
オドアルド・ファルネーゼ
概要
アレッサンドロ・ファルネーゼは、16世紀のイタリアの男性。
在位
ネーデルラント総督 1578年~1586年
パルマ公 1586年9月15日~1592年12月3日
ピアチェンツァ公 1586年~1592年
年表
15??年
ボローニャ大学で、ウーゴ・ブオンコンパーニから法学を学ぶ。
1573年11月17日
1572年フェリペ2世によりネーデルラント総督に任命されたミラノ総督Luis de Requesens y Zúñiga(1528年~1576年)、この日ブリュッセルに到着。以後、騒乱対策委員会(血の法廷:1567年~)を廃止するなど、Fernando Álvares de Toledoの強圧策に代えて融和策を実施(在位~1576年)。
以後、融和主義者Luis de Requesens y Zúñigaの死(1576年3月)後のフェリペ2世軍の暴虐に抗してネーデルラント南北両部諸州、1576年11月8日平和協定を結んで団結(ヘントの和約)したものの、南部諸州は後任総督・(前摂政マルゲリータ・ディ・パルマの子)アレッサンドロ・ファルネーゼの工作に乗って、1579年1月6日フェリペ2世とカトリック擁護・フェリペ2世への服従を約定し(アラス同盟)、これに対して北部7州が1579年1月23日スペインへの抵抗を約定し(ユトレヒト同盟)、ネーデルラントは南北に分裂。
さらに北部7州は、1581年7月26日フェリペ2世への服従拒否・スペインからの独立を宣言し、ネーデルラント共和国(オランダ共和国)を創立。1648年10月国際的に承認される(ヴェストファーレン条約)。
1586年
シクストゥス5世から祝福された剣を拝受。
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani.it
参考文献
『愛の年代記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
マルゲリータ・ファルネーゼ Margherita Farnese
- 生没
- 1567年11月7日~1611年4月13日
- 出身
- パルマ
- 没地
- ピアチェンツァ
- 父
- アレッサンドロ・ファルネーゼ
- 母
- マリア・デ・アヴィシュ
- 夫
- ヴィンチェンツォ・ゴンザーガ
概要
マルゲリータ・ファルネーゼは、16世紀から17世紀のイタリアの女性。ヴィンチェンツォ・ゴンザーガと結婚するが、恐らく処女膜強靭症だったのだろうか、何らかの身体的原因により性交することができなかった。子供の誕生が望めないため、離婚に至り、修道女となる。
年表
1567年11月7日
パルマで誕生。
1581年3月2日
ピアチェンツァでヴィンチェンツォ・ゴンザーガと結婚。
1581年4月30日
マントヴァに入城。
1583年5月26日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガとの結婚解消。パルマに帰る。
1583年10月30日
マウラ・ルチェニア尼としてパルマのサン・パオロ修道院に入る。
1584年4月29日
ヴィンチェンツォ・ゴンザーガがエレオノーラ・デ・メディチと再婚。
1611年4月13日
ピアチェンツァにて没。
外部リンク
世界帝王事典
Genealogy.EU
Genealogy.EU
Journal Publishing Services - Pompeo Caccini and Euridice
kleio.org
Treccani.it
turismo.parma
Wikipedia
参考文献
『愛の年代記』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lost Girls』
『Pompeo Caccini and Euridice』
ラヌッチョ1世・ファルネーゼ Ranuccio I Farnese
- 生没
- 1569年5月28日~1622年3月5日
- 父
- アレッサンドロ・ファルネーゼ
- 母
- マリア・デ・アヴィシュ
- 妻
- マルゲリータ・アルドブランディーニ
- 子
- オッタヴィオ・ファルネーゼ
イザベッラ・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
オドアルド1世・ファルネーゼ
マリーア・ファルネーゼ
ヴィットーリア・ファルネーゼ
フランチェスコ・マリーア・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ1世・ファルネーゼは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1592年~1622年
ピアチェンツァ公
外部リンク
オドアルド1世・ファルネーゼ Odoardo I Farnese
- 生没
- 1612年4月28日~1646年9月11日
- 父
- ラヌッチョ1世・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・アルドブランディーニ
- 妻
- マルゲリータ・デ・メディチ
- 子
- カテリーナ・ファルネーゼ
ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
アレッサンドロ・ファルネーゼ
オラツィオ・ファルネーゼ
カテリーナ・ファルネーゼ
マリーア・マッダレーナ・ファルネーゼ
ピエトロ・ファルネーゼ
オッタヴィオ・ファルネーゼ
概要
オドアルド1世・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1622年~1646年
ピアチェンツァ公
カストロ公
外部リンク
マリーア・ファルネーゼ Maria Caterina Farnese
- 生没
- 1615年2月18日~1646年7月25日
- 出身
- パルマ
- 没地
- サッスオーロ
- 父
- ラヌッチョ1世・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・アルドブランディーニ
- 夫
- フランチェスコ1世・デステ
- 子
- アルフォンソ・デステ
アルフォンソ4世・デステ
イザベッラ・デステ
エレオノーラ・デステ
アルメリコ・デステ
エレオノーラ・デステ
マリーア・デステ
テバルド・デステ
概要
マリーア・カテリーナ・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの女性。
年表
1631年1月11日
パルマにて、フランチェスコ1世・デステと結婚。
1632年
アルフォンソ・デステを出産。
1634年2月2日
モデナにて、アルフォンソ4世・デステを出産。
1635年10月3日
1639年
エレオノーラ・デステを出産。
1641年5月8日
モデナにて、アルメリコ・デステを出産。
1643年
エレオノーラ・デステを出産。
1644年12月8日
マリーア・デステを出産。
1646年
テバルド・デステを出産。
外部リンク
ラヌッチョ2世・ファルネーゼ Ranuccio II Farnese
- 生没
- 1630年9月17日~1694年12月11日
- 父
- オドアルド1世・ファルネーゼ
- 母
- マルゲリータ・デ・メディチ
- 妻
- マルゲリータ・ヴィオランテ・ディ・サヴォイア
イザベッラ・デステ
マリーア・デステ - 子
- マルゲリータ・マリーア・ファルネーゼ
テレーザ・ファルネーゼ
オドアルド2世・ファルネーゼ
フランチェスコ・ファルネーゼ
アントーニオ・ファルネーゼ
概要
ラヌッチョ2世・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの男性。
在位
パルマ公 1646年~1694年
ピアチェンツァ公
外部リンク
オドアルド2世・ファルネーゼ Odoardo II Farnese
- 生没
- 1666年8月12日~1693年9月6日
- 出身
- コロルノ
- 没地
- パルマ
- 父
- ラヌッチョ2世・ファルネーゼ
- 母
- イザベッラ・デステ
- 妻
- ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ・ノイブルク
- 子
- アレッサンドロ・イニャーツィオ・ファルネーゼ
イサベル・ファルネシオ
概要
オドアルド2世・ファルネーゼは、17世紀のイタリアの男性。
外部リンク
イサベル・ファルネシオ Isabel Farnesio
- 生没
- 1692年10月22日~1766年7月11日
- 父
- オドアルド2世・ファルネーゼ
- 母
- ドロテア・ゾフィア・フォン・プファルツ・ノイブルク
- 夫
- フェリペ5世
- 子
- カルロス3世
マリアナ・ビクトリア・デ・ボルボーン
フィリッポ1世・ディ・ボルボーネ
マリー・テレーズ・アントワネット・ラファエル・ド・ブルボン
ルイス・アントニオ・デ・ボルボーン・イ・ファルネシオ
マリーア・アントニア・ディ・スパーニャ
概要
エリザベッタ・ファルネーゼは、17世紀~18世紀のイタリア出身の女性。
1700年、ハプスブルク朝スペインはカルロス2世がマドリードで亡くなった時に終わりを迎える。子供がいなかった彼の巨額の財産は、姉の子孫に渡ることになっていた。しかし、姉マリー・テレーズはフランスのルイ14世と結婚していた。ヨーロッパの最も強力な2つの国を単一の王の下に結びつけるという発想はあまりにも危険であると考えられていたので、ルイ14世とマリー・テレーズの孫の最年長ブルゴーニュ公ルイがフランス王を継承することが決定。最年少のアンジュー公フィリップはスペインの王となり、今日も王位に就いているスペインのボルボン王の血統が確立される。欧州、特にオーストリアとイングランドは、フランスに大きな権力を与えるため、そのような決定を受け入れるのは難しいと感じた。スペイン継承戦争は1701年に始まり12年間続く。1713年、ユトレヒト条約にてフランスとスペインが決して統一されないとの条件でフランスの継承を認める。
翌年、フェリペ5世の最初の妻マリア・ルイサ・デ・サボヤが25歳で亡くなった。スペインは新しい王妃を必要としたが、同じ政治的な理由から非常に慎重に選ばれなければならなかった。彼女はフランス人でもオーストリア人でもイングランド人でもいけない。カトリック教徒で、小国の王室の一員であることが好ましい。エリザベッタ・ファルネーゼは完璧な選択だった。彼女はパルマ公爵の娘で、その財産はやや少なかった。さらに、彼女の父親は死んでいて、叔父には息子がいなかったので、血統は断絶に近づいていた。彼女は22歳で、特別美貌というわけではなかったが、十分に美しかった。結婚は1714年8月25日にパルマで祝われた。
年表
別表記
Elisabetta Farnese
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年5月30日