- 生没
- 1522年~1586年
- 父
- カール5世
- 夫
- アレッサンドロ・デ・メディチ
オッタヴィオ・ファルネーゼ
概要
マルゲリータ・ディ・パルマは、16世紀の女性。
年表
1529年6月29日
バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世はメディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世はCervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世はクレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
1531年7月5日
カール5世の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマの婚約者としてカール5世と共にブリュッセルにあったアレッサンドロ・デ・メディチ、フィレンツェに帰着。
1536年2月
カール5世とアレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世はアレッサンドロ・デ・メディチをフィレンツェのSignore(統治者)として公認し、アレッサンドロ・デ・メディチに自分の庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)を嫁がせ、アレッサンドロ・デ・メディチはカール5世に巨額の軍資金を供与することで合意。
他方カール5世、亡命者たちにフィレンツェへの帰国の安全、没収財産の返還、通常の市民と同等の公職の享受、を保証すると明言するが、亡命者たちはこれに応じずに終わる。
1536年2月29日
アレッサンドロ・デ・メディチ、カール5世自身の出席も得てマルゲリータ・ディ・パルマとの盛大な結婚式を挙げる。数日後アレッサンドロ・デ・メディチ、ナポリを発って揚々とフィレンツェへの帰途に着く。
1536年5月31日
マルゲリータ・ディ・パルマ、全市を挙げての歓迎の中、市内に入る。
1536年6月13日
アレッサンドロ・デ・メディチとマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式、続いてその祝賀行事、壮大華麗に繰り広げられる。
1537年1月10日
アレッサンドロ・ヴィテッリ、フォルテッツァ・ダ・バッソを占拠し、メディチ宮殿から奪った財宝を持ってインノチェンツォ・チーボ及びアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマらと籠る。
1537年4月末
この頃までに?、コジモ1世・デ・メディチ、使節を通してカール5世に、その庶出の娘でアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚を希望する旨申し出、その承認を懇請。
1537年5月初旬
カール5世の全権代理・シフエンテス伯Jun de Silva、政変に関わる事情調査のため市内に入る。以後、コジモ1世・デ・メディチにはマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚の可能性を示唆してその意を引きながら、四十八人評議会を召集・開催させ、政変とその後の政体について説明させると共に亡命者たちの政体変更に関する見解も収集。
この過程でコジモ1世・デ・メディチ、内心で強めてきた独裁君主Ducaへの志向をカール5世の支持の下で実現すべく、君主独裁の抑制・フィレンツェの独立を志向するフランチェスコ・グイッチャルディーニら有力貴族を排斥し、単独で、カール5世への領内城塞の譲渡などをJun de Silvaに約束。
1537年6月12日
Jun de Silva、四十八人評議会において、コジモ1世・デ・メディチとマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚問題は保留するがコジモ1世・デ・メディチをPrincipato di Firenze(フィレンツェ君主国)のCapo(元首)として承認し、以後の事情変更については全てカール5世の承認を要することとすると宣言。これにより、1532年Principato体制を維持することで政体問題、落着。
1537年8~9月
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Averardo Serristori、Giovanni Campanaを送り、マルゲリータ・ディ・パルマと自身の結婚、フィレンツェ領内の城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分、を懇請。
1537年9月30日
カール5世、パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼにマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。
1538年6月22日
パウルス3世とカール5世、ニースから同道でジェノヴァに到着。この地に滞在中、両者は、公会議の1539年4月6日までの延期、パウルス3世の孫オッタヴィオ・ファルネーゼとカール5世の庶出の娘、故アレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマの結婚、スペインにおける教会収入5年分のカール5世への付与について正式に合意。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年11月4日
3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼとマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。
1538年
コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。
1545年8月12日
パウルス3世、枢機卿会議で、カメリーノとネピをオッタヴィオ・ファルネーゼから取り上げて教会直轄領とし、代わりに教会領のパルマとピアチェンツァを結合した上でピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与すること、オッタヴィオ・ファルネーゼにはカストロ公国を封与すること、などを、かねてから娘婿オッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ・ピアチェンツァ封与を公然と希望していたカール5世側の枢機卿の猛反対を押して強引に議決。1545年8月26日付の勅書で公表。
パウルス3世のこの自家勢力拡大策(nepotismo)をカール5世、準備しつつあるプロテスタントとの戦にパウルス3世の指示を必要とすること、1545年8月27日娘マルゲリータ・ディ・パルマとオッタヴィオ・ファルネーゼの間に子供が生まれ、子供のないピエル・ルイジ・ファルネーゼへの1545年8月26日付の封与はこの新たな孫への継承の可能性を持つこと、から表面上、黙過。
1559年8月20日
カール5世からのネーデルラント委譲の式典(1555年)以降ネーデルラントにあったフェリペ2世、ヨーロッパにおける覇権を目指すべくスペインに向かう。
ネーデルラントについてはフェリペ2世、異母姉マルゲリータ・ディ・パルマ(パルマ公・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼの妃)を摂政に任じ(在位~1567年)、警察・裁判、財務、国務の3顧問会議と王室顧問会議を設けて統治の実務に当たらせる。以後、王室顧問会議の最高顧問A. P. de Granvelle(在位~1564年)の過酷なプロテスタント弾圧に対する政治的・宗教的不満、高じ、反抗運動、芽生える。
1573年11月17日
1572年フェリペ2世によりネーデルラント総督に任命されたミラノ総督Luis de Requesens y Zúñiga(1528年~1576年)、この日ブリュッセルに到着。以後、騒乱対策委員会(血の法廷:1567年~)を廃止するなど、Fernando Álvares de Toledoの強圧策に代えて融和策を実施(在位~1576年)。
以後、融和主義者Luis de Requesens y Zúñigaの死(1576年3月)後のフェリペ2世軍の暴虐に抗してネーデルラント南北両部諸州、1576年11月8日平和協定を結んで団結(ヘントの和約)したものの、南部諸州は後任総督・(前摂政マルゲリータ・ディ・パルマの子)アレッサンドロ・ファルネーゼ(1545年~1592年:ネーデルラント総督在位1578年~1586年:パルマ・ピアチェンツァ公在位1586年~1592年)の工作に乗って、1579年1月6日フェリペ2世とカトリック擁護・フェリペ2世への服従を約定し(アラス同盟)、これに対して北部7州が1579年1月23日スペインへの抵抗を約定し(ユトレヒト同盟)、ネーデルラントは南北に分裂。
さらに北部7州は、1581年7月26日フェリペ2世への服従拒否・スペインからの独立を宣言し、ネーデルラント共和国(オランダ共和国)を創立。1648年10月国際的に承認される(ヴェストファーレン条約)。
別表記
マルゲリータ・ダスブゥルゴ、マルガレーテ・ダウストリア、Margarete von Habsburg、von Parma
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『世界大百科事典』
『銀色のフィレンツェ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
記載日
2006年10月27日以前