Cosimo de' Medici

コジモ・デ・メディチ

コジモ・イル・ヴェッキオ Cosimo il Vecchio

生没
1389年9月27日~1464年8月1日
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
ピッカルダ・ブエリ
コンテッシーナ・デ・バルディ
ピエロ・イル・ゴットーソ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
カルロ・デ・メディチ

概要

 コジモ・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
 コジモは15世紀フィレンツェ最大の商人であり、ある意味で最良の統治者であった。
 都市国家フィレンツェは毛織物業を中心とした産業で大いに繁栄し、政治的、経済的に完全なる独立を手にしていた。フィレンツェの政治は体面は民主主義という形をとっていたが、実は極めて少数の大商人の完全な寡占状態で、共和国ローマの最後の状況とよく似ていた。すなわち民衆は権利を求め、すでに権利を得ていたものはそれを抑圧しようとあの手、この手を尽くすのである。フィレンツェは党派争いの渦の中にあった。
 そんな状況の下、当時はまだ新興の商家であったメディチ家を継いだのがコジモである。彼の父ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチは上流商人たちへの課税政策で民衆に人気を博しており、コジモもその路線を引き継いでいたので、実際は大金持ちなのだが民衆派とみなされていた。彼はそこのところをとてもよく理解していた。政治への野心は剥き出しにせず、ちょっとした要職に就いただけであり、せっせと家業の銀行業に精を出していた。政敵の策略で10年の追放刑を宣告されても黙ってそれに従った。
 こういう人間が人気が出ないわけがなく、メディチへの信望は高まるばかりである。彼はフィレンツェの民主制はとっくに死に絶えたことはよく知っていがそれを廃止しようとは決してせず、形骸を利用して巧みに政治を行っていたのである。
 表立っては従来の政治体制の擁護者として振舞っていたが、民主制に引導を渡したのである。残酷なことは好まなかったし、敵は赦した。
 コジモは教皇庁や皇帝にまで出資しており、それにより強大な発言力をもち、意のままに動かすことができた。彼が仕掛けるのは経済的な攻撃であり、何かあるとすぐ傭兵軍を繰り出す君主たちとは一線も二線も画していた。そのためかどうか、彼はとても長生きできた。
 コジモを語る上で欠かせないのが芸術庇護である。彼は実に多くの芸術家のパトロンとなっている。
 フィレンツェ・ルネサンスというと孫のロレンツォ・イル・マニーフィコの名がよく上がるが、コジモのおかげでメディチ家に芸術家のパトロンというイメージが定着していたので、実際にはあまり熱心ではなかったロレンツォ・イル・マニーフィコもパトロンであったように錯覚されている。
 コジモが援助した建築家、芸術家、文人には、ドナテッロロレンツォ・ギベルティボッティチェッリベノッツォ・ゴッツォーリフィリッポ・リッピフラ・アンジェリコなど枚挙に暇がない。当時のフィレンツェの有名な芸術家でコジモに接しなかったものはいなかったのであろう。
 彼の保護とその長命のおかげで、フィレンツェは当時としては実に長い間の安定と繁栄を謳歌できた。これがフィレンツェが特筆すべき芸術都市になり得た大きな要素であった。

在職

 正義の旗手 1435年1月~2月、1439年1月~2月、1445年9月~10月

年表

1429年2月20日

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ没。コジモがメディチ家の当主となる。

1431年

メディチ家、公会議の開催されたバーゼルに臨時の事務所を開設(~1443年)。

1433年4月26日

フェッラーラで、フィレンツェ共和国使節としてフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとの和を結ぶ。

1433年9月

9月~10月期の正義の旗手に、強い反メディチ感情を抱くベルナルド・グァダーニが就任。

1433年9月初め

ムジェッロで休養中、シニョーリアから緊急召喚状を受け取る。

リナルド・デリ・アルビッツィは、ベルナルド・グァダーニと6名の反メディチ派プリオーレと共に、1433年4月のフェッラーラでの和への市内各層の不満を、この和の調印者コジモ・イル・ヴェッキオに転嫁することによって一挙にメディチ一族を排斥する企図の実行に立つ。

1433年9月4日

政庁宮に出頭しベルナルド・グァダーニに面会、3日後に重大決定と通告される。

1433年9月7日

一族や支持者が留めるのを押して政庁宮に出頭し、シニョーリアによって逮捕、拘留されると共に、チオンピの乱(1378年~1382年)以来メディチ家が加担した策謀の数々の責任を問うとして同家を追放されることが決定。

1433年9月9日

シニョーリアは、シニョーリア広場パルラメントを招集し、メディチ派の参加を排しながら、1433年9月7日のシニョーリアの決定、及びプリオーレにより選出される200名からなる国制改革のバーリア(非常大権委員会)の設置を承認。

1433年9月29日

バーリアは、メディチ家の追放を具体的に決める。コジモ・イル・ヴェッキオをパドヴァに10年、弟ロレンツォ・イル・ヴェッキオをヴェネツィアに5年、従弟アヴェラルド・デ・メディチをナポリに10年、その子ジュリアーノ・デ・メディチをローマに2年追放、一族全員を永久公職追放、メディチ派リーダーのジョヴァンニ・プッチプッチョ・プッチAquilaに10年追放、とする。しかしリナルド・デリ・アルビッツィは、企図していたメディチ一族の処刑をバーリアに決めさせることに失敗。

1433年10月3日

パドヴァへ到着。次いでヴェネツィアへ行き、各地で賓客として歓迎される。

1434年8月28日

ニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍は、イーモラ近郊で大激戦。同盟軍が大敗を喫する。

1434年9月初め

大敗を機に市内にシニョーリアへの憤懣と反感、急速に高まり、新シニョーリアプリオーレはメディチ派が多数を占める。

1434年9月25日

自派の没落の危機を痛感し武装蜂起によって一気に状況を逆転しようと狙ってきたリナルド・デリ・アルビッツィは、この日、自身の親衛隊に政庁舎占拠態勢を取らせながら実行の機を捉えられずにいる内、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からエウゲニウス4世が、司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキを遣わして調停、事態収拾工作に乗り出す。

1434年9月26日

シニョーリアは、エウゲニウス4世の下で武器を置くよう説得を受けていたリナルド・デリ・アルビッツィを除くアルビッツィ家の家族を逮捕。

1434年9月28日

シニョーリアは、パルラメントを招集し、プリオーレが選出する350名からなる国制改革のためのバーリアの編成を承認させる。

1434年9月29日

バーリアは、前年追放されたコジモ・イル・ヴェッキオを初めとするメディチ一族及び同派の貴族たちの帰還、その財産の返還、名誉の復活を決める。

1434年9月

ヴェネツィアを出発。

1434年9月31日

亡命先のヴェネツィアからフィレンツェに帰還。

1434年10月2日

バーリアは、リナルド・デリ・アルビッツィをナポリ領Traniに、その子オルマンノ・デリ・アルビッツィをガエータにそれぞれ8年間追放することを決める。加えて以後、翌1435年にかけてアルビッツィ一族と同派の有力者たち総計100名近くの追放を決める。

但し、アルビッツィ父子は間もなく禁を破って追放地からミラノに行き、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティフィレンツェ復帰への支援を求めると共にメディチ勢力下のフィレンツェへの戦闘を勧奨。

1434年10月5日

メディチ家支配開始:コジモ・イル・ヴェッキオ、帰還。直ちにアルビッツィ派の一掃を促進。アルビッツィ家中心の実質上の貴族寡頭政終わり(1381年~)、メディチ家支配始まる(~1494年)。

以後コジモ・イル・ヴェッキオ、自派の家門を含むあらゆる家門、権門の抑制、減殺に努め、自家の優位の確立を図る。

同時にコジモ・イル・ヴェッキオ、官職被選出資格名札の管理事務担当に過ぎないアッコピアトーリを自派で固めつつ、これに、被選出資格の審査、資格者の名札の管理、名札からのシニョーリアなど主要官職の委員の抽出までの全過程を実質上、行う権限を持たせていく。これにより、伝統的共和政の形態を残しつつ実質上の独裁体制を築き始める。

1435年1月初め

コジモ・イル・ヴェッキオ、1月~2月期の正義の旗手に就任し、リナルド・デリ・アルビッツィおよびオルマンノ・デリ・アルビッツィ父子を初めとする宿敵アルビッツィ家を叛徒とするなど、アルビッツィ派の一掃をさらに厳しく進める。

1435年

メディチ銀行(1397年~)再編成。フランチェスコ・サルターティ(1391年~)とジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ(1394年~1455年)が総支配人となる。以後20年、コジモ・イル・ヴェッキオの統率の下で興隆を続ける。

1437年頭

依然としてニッコロ・ピッチニーノ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がルッカ領に留まっている事態に対処すべく、フィレンツェは新十人委員会を編成。

1437年

ニッコロ・ニッコリの古典収集を資金面で支援してきたコジモ・イル・ヴェッキオ、彼の死後、収集のために残された負債を引き受ける。

1437年

フィレンツェ生まれのドミニコ会総長(在位1433年~1443年)アントニーノ・ピエロッツィ(1389年~)、コジモ・イル・ヴェッキオの大きな協力を得てサン・マルコ修道院の修築を始める。

1438年

コジモ・イル・ヴェッキオ、バーリアで、アッコピアトーリシニョーリアなどの委員の事実上の選出権を改めて認めさせる。

1439年頭

コジモ・イル・ヴェッキオ、1439年1月~2月、再び正義の旗手に就任。

1439年3月24日

メディチ銀行ブールジュ支店開設。

1440年

コジモ・イル・ヴェッキオや彼を囲む文人、学者ら、前年のフィレンツェ公会議終了後もこの地に留まったゲオルギオス・ゲミストス・プレトンやその弟子・枢機卿ヨハネス・ベッサリオン(在位1439年12月~1472年)からプラトン哲学を知るなど強い刺激を受ける。コジモ・イル・ヴェッキオは以後プラトン学園の設立を構想。

1442年12月26日

メディチ銀行ピサ支店開設。

1443年

メディチ銀行総支配人(1435年~)フランチェスコ・サルターティ死(1391年~)。ジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ、単独の支配人となり、コジモ・イル・ヴェッキオの信頼を得て銀行の発展に尽力(~1455年)。

1443年

メディチ家のバーゼル臨時事務所閉鎖(1431年~)。

1444年10月10日

エウゲニウス4世、ヴェネツィア及びコジモ・イル・ヴェッキオの推奨と仲介によりフランチェスコ1世・スフォルツァと和を結び、アンコーナ、オージモ、レカナーティ及びファブリアーノを除くマルケ全域を封与してフランチェスコ1世・スフォルツァをその侯と認める。しかし両者の関係、以後も曲折を経て複雑に展開。

1444年

コジモ・イル・ヴェッキオ、新たなバーリアを編成させ、1434年のアルビッツィ派被追放者の追放期限の10年延長を決めさせ、自派、自家への反対勢力の再興の道を閉ざす。

1444年

アントニーノ・ピエロッツィは、コジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援の下、コジモ・イル・ヴェッキオが指定し雇ったミケロッツォ(1396年~)の設計、指揮により、サン・マルコ修道院・聖堂を再建。

1444年

コジモ・イル・ヴェッキオ、ニッコロ・ニッコリの遺した古典書と自ら収集した古典書(計800余巻?)収蔵の間をサン・マルコ修道院ミケロッツォの設計で作らせ、ニッコロ・ニッコリの遺言通り、かつエウゲニウス4世の侍従として市内にあったトンマーゾ・パレントゥチェリ(1397年~)の協力を得て定めた規則に則り、全ての研修者に開放させる。ヨーロッパ最初の公開図書館、誕生。

1445年11/12月

フランチェスコ1世・スフォルツァ、自らフィレンツェに赴き、コジモ・イル・ヴェッキオら首脳に援助を求め、多額の軍資金を得る。

1446年

ヴェネツィア軍ミラノ城門に迫るとの報に、ヴェネツィアによるミラノ支配、ヴェネツィアの強大化を懸念していたフィレンツェ、ヴェネツィア軍の撤退の報に安堵。

1446年

メディチ銀行ロンドン支店開設。但し、これまでロンドンの業務を代行していたブールジュ支店と共同経営。同アヴィニョン支店開設。

1447年

アルフォンソ5世・デ・アラゴンの侵入防止、撃退がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ死後の最大の課題となる。

1448年12月

フランチェスコ1世・スフォルツァ、フィレンツェに使節を送り、シニョーリア及びコジモ・イル・ヴェッキオに資金援助を要請。翌1449年にかけて両者から、ことにコジモ・イル・ヴェッキオから多額の資金を得る。以後もコジモ・イル・ヴェッキオは、彼への支援を続ける。

1449年1月1日

コジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~1469年)の長子で後にil Magnificoと称されることになる。ロレンツォ・イル・マニーフィコ生(1449年~1492年)。

1450年3月

フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソネリ・カッポーニ(1388年~1457年)、ディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティ(1394年~1472年)の4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。

1450年6月20日

フィレンツェと対立するシエナと同盟を結んだヴェネツィアは、全ての支配領からフィレンツェ人を追放。

1450年

ニコラウス5世、1450年をカトリック大祭の年としてローマの諸建築の再建に着手し、人文主義者や芸術家をローマに呼ぶ。

かつてトンマーゾ・パレントゥチェリとしてフィレンツェでコジモ・イル・ヴェッキオによるヨーロッパ初の公開図書館の開設(1444年)に協力したニコラウス5世、さらにヨーロッパ諸国に使節を派遣して文献を収集し、ヴァティカン図書館の基礎を築く。

1451年5月初め

ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンらの同盟に対抗すべく、この頃?、コジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニアニョーロ・アッチャイウオリ(?~1467年)、ルカ・デリ・アルビッツィ(1382年~1458年)らを委員とする新十人委員会を編成。

1451年

メディチ銀行ロンドン、ブールジュ両支店分離、独立。両支店ともイタリアからの輸入(明礬、絹、香料その他)額が輸出(羊毛)額を超過し、経営圧迫される。

1452/1453年

メディチ銀行、ミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァの求めによりミラノに支店を開設。

1453年11月5日

イタリア諸国間の和平が実現しない状況に対処すべく、ルカ・ピッティ、コジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョーロ・アッチャイウオリらを委員とする新十人委員会が編成され、委員の任期は5年と定められる。

このバーリア、アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出の大権の延長を承認。

1454年4月9日

ローディの和ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、ニコラウス5世の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってフランチェスコ1世・スフォルツァとヴェネツィアの交渉が妥結し、この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、コジモ・イル・ヴェッキオらフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内、この日ローディで協定。5日後、フィレンツェが加入すると共に、この和が公表される。

突然、和平の成立を知らされたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。

1455年5月22日

大封建貴族ランカスター、ヨーク両家の王位継承を巡る争いに端を発するイングランド封建貴族の私闘、内乱(バラ戦争)発生(~1485年)。

1455年

バラ戦争によりイングランド王朝の財政荒廃し、以後、王朝へのメディチ銀行ロンドン支店の貸付、巨額になる。

1455年7月

メディチ銀行の総支配人(1435年~1455年)で、コジモ・イル・ヴェッキオの最も信頼するジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ死(1394年~1455年)。

コジモ・イル・ヴェッキオ、次子ジョヴァンニ・デ・メディチ(1421年~1463年)をメディチ銀行の総支配人とする。

メディチ銀行の隆盛この頃をもって終わる。

1456年

フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438年~1439年)に出席したギリシアの人文主義者Ioannes Argyropoulos(1415年頃~1487年)をフィレンツェ大学及び自分の息子らの師として招いたコジモ・イル・ヴェッキオ、公会議後に着想を得た哲学及び哲学的討論に関心を抱く有能な若者たちの集いアカデミア・プラトニカの実現に向かう。自分の侍医の息子で1451年頃からプラトン哲学を学ばせておいた最も有能な23歳の青年マルシリオ・フィチーノをその中心メンバーと想定。

1457年9月7日

有力家門で共和政と近年の政情に不満・不安を募らせる者たちの反体制の陰謀発覚。主導者Piero RicciCarlo de' Bardi、逮捕される。

1457年11月27日

コジモ・イル・ヴェッキオの最大の敵手ネリ・カッポーニ、フィレンツェで死(1388年~1457年)。

1457年

この年以降間もない頃?、メディチ銀行ピサ支店廃止。

1458年1月11日

公債を償還するための財源を確保すべく、新カタスト法、定められる。これに民衆は喜び、有力家門、資産家は驚き反発し共和政への不満を強める。

カタスト法の必要性とその民衆による熱狂的支持を知悉しながらも上層有産者、有力者層の心情と動向にも逆らいたくないコジモ・イル・ヴェッキオ、後者はメディチ家の権力を縮減しようとしてきたことも考慮し、表面上、中立の姿勢をとる。

1458年4月15日

バーリアの設置及びその権限を厳しく限定する法が定められる。特定家門ないし実力者による独裁的統治を阻止しようと狙うこの法に、コジモ・イル・ヴェッキオを初めとするメディチ派、共和政の更なる変改の必要性を痛感。

1458年7月2日~7月31日

メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキアヴェッリらの強い反対で斥けられる。

この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院アントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。

1458年7月14日

カリストゥス3世、ナポリは正統継承権を欠きその支配領は全て教会の属すると宣言すると共にナポリ領民にフェッランテ・ダラゴーナへの一切の忠誠誓約を禁ずる勅書を発する。同時に、イタリア諸国、諸権力者にフェッランテ・ダラゴーナに対して戦うよう呼びかける。

しかしアンジュー家及びフランス王家のナポリへの野心を警戒するフランチェスコ1世・スフォルツァが勅書への不同意を宣言したのに続き、コジモ・イル・ヴェッキオもフェッランテ・ダラゴーナナポリ王位継承を承認。

1458年8月1日

ピッティらメディチ派、1434年9月以来召集されたことのないパルラメントを利用してのバーリアを設置、バーリアによる共和政の変改、の強硬手段を取る方途を選び、この日、プラティカパルラメントの召集、開催を辛うじて認めさせる。

表面的には常に中立的態度を取り続けメディチ派内部で不満さえ抱かれていたコジモ・イル・ヴェッキオは、この日のプラティカの開催に先立ち、朝、フランチェスコ1世・スフォルツァの使節と極秘裏に会い、不測の事態の際のフランチェスコ1世・スフォルツァの軍事的支援について打診。

1458年8月10日

シニョーリアは、翌11日のパルラメント開催を布告し、14歳以上の市民に非武装でシニョーリア広場に集合するよう命令。

1458年8月10日

フランチェスコ1世・スフォルツァからコジモ・イル・ヴェッキオに、でき得る限りの軍事的支援を惜しまないとの返書、届く。

1458年8月18日

新設されたバーリアは、ジローラモ・マキアヴェッリの25年間の領外追放など陰謀関係者を厳しく処罰すると共に、1434年のアルビッツィ派の被追放者の追放期限を1494年まで延期することを決める。

1458年11月29日

百人委員会、設置される。

1459年5月5日

ピウス2世、フィレンツェ市内を離れボローニャに向かう。

コジモ・イル・ヴェッキオは、健康が優れないことを理由に、ついにピウス2世に表敬せず。

1459年

コジモ・イル・ヴェッキオは、次子でメディチ銀行総支配人のジョヴァンニ・デ・メディチの非力を補うためフランチェスコ・サッセッティ(1421年~1490年)を助手につける。

1459年

コジモ・イル・ヴェッキオは、ミケロッツォを用いて市内の中心ヴィアラルガに邸宅Palazzo Medici(メディチ宮)を完成(1444年~)。

1459年

この頃、コジモ・イル・ヴェッキオ、マルシリオ・フィチーノプラトンの著作のラテン語への翻訳、註解を指示し、そのための支援を始める。

1460年5~6月

ナポリ領で争う両派から——フェッランテ・ダラゴーナからはイタリア同盟を基に、アンジュー家派からはフィレンツェとフランス王家との長年の友好関係を元に——支援を求められる中で議論を続けた末、フィレンツェはナポリでの争いには関与しないことを決める。

1461年

イングランドのランカスター王朝の崩壊により、王朝へのメディチ銀行ロンドン支店の巨額の貸付、回収不能になる。加えて以後ヨーク王朝への貸付も巨額になり、合わせて支店の経営不振の一因となる。

1462年1月

アッコピアトーリシニョーリアなど主要官職選出権をさらに延長して承認。

1462年

コジモ・イル・ヴェッキオは、マルシリオ・フィチーノプラトンの著作のラテン語への翻訳・註解の場としてカレッジの自分の別荘を提供。プラトン・アカデミーは、以後この別荘でマルシリオ・フィチーノを中心に発展。

1464年8月1日

コジモ・イル・ヴェッキオ、カレッジの別荘で死(1389年~1464年)。——長子ピエロ・イル・ゴットーソ(1416年~)、メディチ家の当主となる(1464年~1469年)。

折りしもメディチ銀行の衰退始まる。

1464年8月8日

ピウス2世、コジモ・イル・ヴェッキオの死を悼み、継承者、長子ピエロ・イル・ゴットーソにアンコーナから弔文を送る。最後の手紙となる。

1465年

故コジモ・イル・ヴェッキオにシニョーリアから祖国の父(Pater Patriae)の称号が与えられる。

肖像

座右の銘

 主の祈りで国家を治めることはできない。——この格言は同時代の様々なフィレンツェの文筆家によって彼の作とされている。

関連項目

 ローディの和
 イタリア同盟

別表記

 コシモ・デ・メディチ、コジモ・ディ・メディチ、大コージモ

異名

 国父、祖国の父(Pater Patriae

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 造物主願望と不可視の導線
 歴史データベース
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 RootsWeb.com
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『イタリア史』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『逆光のメディチ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『Lost Girls

コジミーノ・デ・メディチ Cosimino de' Medici

生没
1455年~1459年11月18日
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ジネヴラ・デリ・アレッサンドリ

概要

 コジミーノ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1459年11月18日

死(1459年11月17日、1461年)。

別表記

 Cosimo

外部リンク

 世界帝王事典

参考文献

 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

コジモ1世・デ・メディチ Cosimo I de' Medici

生没
1519年2月19日~1574年
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
マリーア・サルヴィアーティ
エレオノーラ・ディ・トレド
カミッラ・マルテッリ
エレオノーラ・デリ・アルビッツィ
マリーア・ルクレツィア・デ・メディチ
フランチェスコ1世・デ・メディチ
イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ルクレツィア・デ・メディチ
アントーニオ・デ・メディチ
ピエロ・デ・メディチ
ガルツィア・デ・メディチ
フェルディナンド1世・デ・メディチ
ピエトロ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ヴィルジーニア・デ・メディチ

概要

 コジモ1世・デ・メディチは、16世紀のフィレンツェの男性、トスカーナ大公。

在位

 トスカーナ大公 1569年~

年表

1519年2月19日

生。

1519年6月11/12日

ジョヴァンニ・イル・ポポラーノカテリーナ・スフォルツァの子・メディチ家随一の勇将ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ(1498年~)の長子コジモ1世・デ・メディチ生(1519年~1574年:フィレンツェ公在位1537年~1569年:トスカーナ大公1569年~1574年)。

1537年1月8日

午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。

インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。

午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。

夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。

深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。

1537年1月9日

早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グイッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グイッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリMatteo Niccoliniヤコポ・ジャンフィリアッツィGiuliano CapponiRaffaello de' Mediciの8名を指名。

1537年1月

フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティIacopo Gaddiローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。

情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。

1537年1月中旬

コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。——パウルス3世には特使Alessandro Strozziを送ってローマ教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父ジョヴァンニ・サルヴィアーティには特使Alessandro del Cacciaも送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、カール5世には特使ベルナルド・デ・メディチを送って政変と自身の支配の承認、アレッサンドロ・ヴィテッリの占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。

1537年1月20/21日

軍と共にフィレンツェに向かっていた3名の枢機卿と司教Giovanni Soderini、コジモ1世・デ・メディチの説得に乗り、軍を解いた上亡命者たちの代表として市民の歓迎を受けながら市内に入る。しかし、領内・市内を固める多数のスペイン人・ドイツ人兵士と非武装の自派一族・市民を目にし、コジモ1世・デ・メディチの擁立の無効、貴族寡頭政の再建、など自派の主張の実現可能性はないことを直ちに悟る。

1537年1月30日

3名の枢機卿ら、亡命者たちの帰国を許すとの布告以外、何らの成果も得られず、市を離れる。

1537年3月13日

アレッサンドロ・デ・メディチの葬儀、サン・ロレンツォ教会でコジモ1世・デ・メディチも出席して執り行われる。

1537年4月末

この頃までに?、コジモ1世・デ・メディチ、使節を通してカール5世に、その庶出の娘でアレッサンドロ・デ・メディチの寡婦マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚を希望する旨申し出、その承認を懇請。

1537年5月初旬

カール5世の全権代理・シフエンテス伯Jun de Silva、政変に関わる事情調査のため市内に入る。以後、コジモ1世・デ・メディチにはマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚の可能性を示唆してその意を引きながら、四十八人評議会を召集・開催させ、政変とその後の政体について説明させると共に亡命者たちの政体変更に関する見解も収集。

この過程でコジモ1世・デ・メディチ、内心で強めてきた独裁君主Ducaへの志向をカール5世の支持の下で実現すべく、君主独裁の抑制・フィレンツェの独立を志向するフランチェスコ・グイッチャルディーニら有力貴族を排斥し、単独で、カール5世への領内城塞の譲渡などをJun de Silvaに約束。

1537年6月12日

Jun de Silva、四十八人評議会において、コジモ1世・デ・メディチとマルゲリータ・ディ・パルマとの結婚問題は保留するがコジモ1世・デ・メディチをPrincipato di Firenzeフィレンツェ君主国)のCapo(元首)として承認し、以後の事情変更については全てカール5世の承認を要することとすると宣言。これにより、1532年Principato体制を維持することで政体問題、落着。

1537年6月

3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。

1537年8月1日

午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィLudovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。

正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。

夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。

1537年8月3~4日

捕虜の内Ludovico Rucellai(?~)ら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。

フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリの監視下でフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉されてカール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。

1537年8~9月

コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Averardo SerristoriGiovanni Campanaを送り、マルゲリータ・ディ・パルマと自身の結婚、フィレンツェ領内の城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分、を懇請。

1537年9月30日

カール5世パウルス3世を自陣に引き入れるべく、その申し出を受け入れて彼の孫オッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマを与えることを内心で決めると共に、かねてから彼女との結婚を求めていたコジモ1世・デ・メディチも自陣に確保しておくべく、慰撫策として彼にDuca(公)の称号を認める。(以後コジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチとなる)。

1537年

カール5世の裁定により、1532年Principato体制の継続、最終的に固まる。

このPrincipato体制、コジモ1世・デ・メディチによる専制支配の度を急速に強めた後、1737年1月メディチ家支配の終焉・ロレーヌ家支配下での政体変改まで続く。

1538年6月28日

パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。

フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。

1538年11月4日

3日前にパウルス3世からローマの総督に任命されたばかりのオッタヴィオ・ファルネーゼマルゲリータ・ディ・パルマの結婚式が、コジモ1世・デ・メディチとの結婚を希望し続けるマルゲリータ・ディ・パルマの意を抑えて、ローマで盛大華麗に行われる。

1538年

コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。

1538年12月18日

自分の身柄と処分がすでにカール5世から全面的にコジモ1世・デ・メディチに任せられていることを知って絶望したフィリッポ・ストロッツィ、この日、自ら剣で喉をかき切って死(1489年~)。(但し、1538年8月とする異説、処刑されたとする異説、などあり)。

1539年1月初旬

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレと妻ジューリア・ダ・ヴァラーノ、自分たちのカメリーノ領有権を支持するコジモ1世・デ・メディチの具体的支援も、父・故フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレの健在時に得てきたヴェネツィアフェッラーラの支援も共に得られず、パウルス3世の強い要求に屈してカメリーノ領有を断念・放棄。代わりに報償金と、これまで拒否されてきたパウルス3世によるグイドバルド2世・デッラ・ローヴェレウルビーノ公への叙任を得る。

1539年

グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレのカメリーノ領有を支援したいコジモ1世・デ・メディチ、その意をカール5世に承認されず、具体的な行動を起こせずに終わる。

1539年3月

結婚

1539年6月29日

コジモ1世・デ・メディチ、カール5世ナポリ総督ペドロ・デ・トレドの娘エレオノーラ・ディ・トレド(1522年~1562年)と結婚。

1540年5月16日

メディチ家に臣従していた(1535年~)リドルフォ・バリオーニ、コジモ1世・デ・メディチの許可を得てペルージアに帰り、「救世主」として迎え入れられる。

1540年

コジモ1世・デ・メディチ、メディチ宮殿から、共和政の政庁のPrioriがその任期中、居を移していたヴェッキオ宮殿に、妻と共に居を移してこれを私邸とし、フィレンツェの統治者は自分1人であることを示す。以後コジモ1世・デ・メディチ夫妻、ジョルジョ・ヴァザーリらを用いて宮内を自らの絶対的権力を表すものに大幅に改造。ヴェッキオ宮殿は公爵宮(Palazzo ducale)と通称される。

1541年2月25日

パウルス3世、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)コロンナ家の統領Ascanio Colonna(1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。

しかしAscanio Colonna、これを拒否しコジモ1世・デ・メディチに支援を求める。これに対しパウルス3世、直ちにピエル・ルイジ・ファルネーゼ指揮の軍をローマに結集。

以後、ペドロ・デ・トレドカール5世の特使としてローマに入って両者の仲介を、ヴィットーリア・コロンナローマに帰り両者の交渉の進展を、それぞれ試みるが実らず。

1541年3月25日

コジモ1世・デ・メディチの長子フランチェスコ1世・デ・メディチ生(~1587年)。

1541年9月13日~9月18日

パウルス3世カール5世ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。

フランソワ1世ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。

フェッラーラエルコーレ2世・デステフィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。

1541年~1542年

コジモ1世・デ・メディチ、1540年創立されたAccademia degli Umidiを自分の支配下に収めて公的なAccademia Fiorentina(フィレンツェ学園)に改組し、ベネデット・ヴァルキG. GelliB Segniジャンバッティスタ・アドリアーニP. Vettoriらをメンバーとしてトスカーナ語の純化、古典の収集・編纂・刊行を行わせる。

君主・宮廷を中心のその委嘱の下で、ないしはそれとの主従関係の中で生ずる宮廷文学・学芸が支配的になり始める。

1542年6月13日

トスカーナとシチリアに大地震発生。トスカーナではムジェッロ地区が壊滅し、4百名を超える死傷者が出たのを初め、全域で被害が出、以後40日余り、余震続く。

1543年1月

この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、知識層を支配する文化政策の一環として、かつ文芸・学問の愛好者であることを顕示して人心を収攬しようとも目論みながら、Accademia Fiorentina(1541年)に続き、ピサ大学を再建。

1543年6月12日

フランソワ1世戦に対処するためスペインから海路イタリアに入り、アルフォンソ3世・ダヴァーロスピエル・ルイジ・ファルネーゼフランチェスコ3世・ゴンザーガ及びコジモ1世・デ・メディチらの表敬訪問を受けていたカール5世、この日パヴィアでコジモ1世・デ・メディチに、フィレンツェ領内の城塞を巨額の軍資金との引き換えで返還すると約束。1543年7月3日?、返還。

1544年

ピエモンテにおけるカール5世軍敗北の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、援軍として歩兵4千をリヴォルノから海路ジェノヴァに送り、ミラノに向かわせる。

1544年9月

クレピーの和の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、フランソワ1世宮廷に特使を送って祝意を表させ、カトリーヌ・ド・メディシスにも表敬させるが、特使は冷遇されてすぐ帰国。

1545年12月

コジモ1世・デ・メディチ、L. Ghiniフィレンツェにも研究機関Orto Botanicoを設立させる。

1546年2月6日

シエナで、市を支配する貴族に対し民衆、反乱。政庁宮を襲撃して貴族ら30名余を殺害。後、市駐屯スペイン軍守備隊を追放。

これに対しコジモ1世・デ・メディチ、シエナとの領境に兵を集め、撤退するスペイン軍守備隊を防衛。

1546年8月7日

カール5世軍、パウルス3世が派遣したオッタヴィオ・ファルネーゼ総指揮の大援軍とランツフートで合流することに成功。以後さらにコジモ1世・デ・メディチからリドルフォ・バリオーニ指揮の援軍、エルコーレ2世・デステからの援軍などをも加え、大幅に増強される。

1546年8月26日

夕刻、Francesco Burlamacchiに反感を抱きかつ報償金を得ようと企むAndrea Passini、コジモ1世・デ・メディチのもとに出頭して決起計画を報告。これにより、計画、全面的に発覚。

夜、このことを知ったFrancesco Burlamacchi、逃亡しようとして阻まれ、ルッカシニョーリアにより捕縛される。

1546年8月28日~1546年9月3日

Francesco Burlamacchiの処遇についてルッカシニョーリアカール5世の判断を待ちながらも、コジモ1世・デ・メディチからの裁判権の要求は拒否して自らのRuota della Giustizia(司法・治安委員会)で拷問を加えながら彼を厳しく取り調べる。

1547年8月12日~8月13日

トスカーナを大雨による大洪水が襲い、ムジェッロ地区を中心に家屋の損壊及び死者などこの世紀最大とも見られる損害、発生。

1547年10月20日

この頃までにシエナ、軍による威嚇を背景とするコジモ1世・デ・メディチの強制に従い、追放した(1546年)カール5世軍守備隊の再駐屯を認める。カール5世はこの日、ローマ駐在大使Diego Hurtado de Mendozaを総督としてシエナに派遣。

1547年

コジモ1世・デ・メディチ、ナポリペドロ・デ・トレドへの援軍を準備するが派遣せず、これをシエナに向かわせる。

1548年2月26日

フランソワ1世宮廷からヴェネツィアに移って逃亡生活を続けていたロレンツィーノ・デ・メディチは、コジモ1世・デ・メディチのヴェネツィア駐在大使Pierfilippo Pandolfini(1502年~1560年:在位1545年~1549年)の雇った2人の刺客に、母マリーア・ソデリーニの兄弟アレッサンドロ・ソデリーニと同道していたところを襲われて刺殺され(1513/1514年~)、遺骸は間もなく駆けつけたマリーア・ソデリーニに渡される。ロレンツィーノ・デ・メディチを守ろうとして刺されたアレッサンドロ・ソデリーニも数日後、死。

1548年6月22日~7月24日

カール5世、コジモ1世・デ・メディチから巨額の資金を得て彼にピオンビーノを委譲し、後見下に置いていたヤコポ4世・ダッピアーノ(1539年~1585年:在位1545年~1562年)をジェノヴァに隠遁させる。しかし自身の重臣たちの強い反対を受け、間もなくエルバ島を除くピオンビーノ領を取り上げる。コジモ1世・デ・メディチは同島の主要都市ポルトフェッラーイオを要塞化。

1548年

コジモ1世・デ・メディチ、Giordano Orsiniを名代としてトリノに送り、フェリペ2世アンリ2世に表敬。

1548年

コジモ1世・デ・メディチ、ジェノヴァフェリペ2世のもとに長子フランチェスコ1世・デ・メディチを名代として送り、巨額の金品を貢納。

1549年7月30日

コジモ1世・デ・メディチの第二子フェルディナンド1世・デ・メディチ生(1549年~1609年:枢機卿在位1563年~1588年:トスカーナ大公在位1587年~1609年)。

1549年

コジモ1世・デ・メディチ、妻エレオノーラ・ディ・トレドの生活を快適にするため、アルノ河の対岸のピッティ宮殿を購入し大改造・拡張工事を始めさせる。

1550年2月8日

枢機卿ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~:在位1536年~)、教皇に即位し、ユリウス3世を名乗る(在位~1555年)。

教皇選出枢機卿会議、カール5世派の枢機卿が推すReginald Poleを再三、首位に立てながら決定できず、対立するカール5世アンリ2世両派に中立的なジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテを立てることでようやく決着。

教皇ユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの使節団全員にCavaliere(騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノをdel Monte家に委譲するよう求める。ユリウス3世の自家勢力拡大策(nepotismo)、早くも始まる。

1550年

コジモ1世・デ・メディチ、新教皇ユリウス3世のもとにGirolamo GuicciardiniPiero Salviatiら6名の貴族からなる使節団を送り、教皇即位への祝意を表明。

1550年5月15日

コジモ1世・デ・メディチ一家、ヴェッキオ宮殿から1549年購入のピッティ宮殿に転居し新生活を始める。以後、この新邸の背後にボーボリ庭園を築造。

ヴェッキオ宮殿Palazzo vecchio(旧宮)と通称されるようになる。

1550年6月28日

Barbarossaの後継者的な海賊Dragut(本名Torghud 'Ali Paşa:1485年~1565年)を先頭に南イタリア地中海沿岸諸都市で略奪・破壊を働き続けるSinan Paşa(?~1578年)総指揮のオスマン・トルコ水軍がこの春、占領したマーディアを奪還すると共にその海賊行為を断つべく、カール5世の指示により、アンドレア・ドーリアを総指揮官としてその軍及びカール5世のシチリア総督Juan de Vegaの軍にペドロ・デ・トレド及びコジモ1世・デ・メディチからの援軍を加えた大軍、この日アフリカ(マーディア)に上陸。

1550年7月

コジモ1世・デ・メディチ、ユリウス3世にモンテ・サン・サヴィーノを無条件で委譲。これをユリウス3世、兄Baldovino del Monteに封与。

1552年7月26日~7月27日

堅固な城塞の構築を進めるなどさらに圧制の度を強めてきたカール5世の絶対的支配(1547年~)を脱すべく1551年来アンリ2世との接触を深めていたシエナ市民、アンリ2世の指示の下で領内に入ったピティリアーノニッコロ2世・オルシーニ軍が前夜、市の城門に迫ったのに呼応し、「フランス、勝利、自由」を叫んで武器を手に決起。

カール5世軍(スペイン軍)守備隊長はコジモ1世・デ・メディチに援軍を求め、コジモ1世・デ・メディチは直ちに小軍を送るが抗しきれず、カール5世軍(スペイン軍)守備隊は構築中の城塞に引きこもる。

1552年

シエナ市民、特使Calisto Ceriniをコジモ1世・デ・メディチのもとに送り、シエナの自由回復を妨害しないよう要請。

1552年8月1日

この日頃?、コジモ1世・デ・メディチ、特使Ippolito da Correggio(1510年~1552年)をシエナに送り、カール5世軍(スペイン軍)守備隊と和を結ぶよう強く勧告。

アンリ2世ローマ駐在大使Ludovic Lansacシエナに送り、決起を支持し軍を派遣することを約束すると共に、カール5世軍(スペイン軍)守備隊との協定は無益だと強調。アンリ2世配下の軍、各地からシエナに向かう。

1552年8月3日

この日?、8千を超える市民がカール5世軍(スペイン軍)守備隊の籠る城塞を取り囲む中コジモ1世・デ・メディチ、シエナと、(1)守備隊はシエナから撤退する、(2)城塞は壊され、すべての外国軍はシエナから撤退する、(3)シエナは自由を得るがカール5世の下に留まり、彼に敵対する者を領内に入れない、(4)コジモ1世・デ・メディチは自軍がこの間に占領したシエナの領地を全て返還する、ことを約定。

これに強い不満を唱えるカール5世軍(スペイン軍)守備隊に対しコジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世が新たに各地からシエナに向かいつつある中で逡巡していれば事態はさらに悪化すると懸命に弁明。

1552年8月4日

この日?、シエナ、コジモ1世・デ・メディチのもとに特使Ambrosio Nutiを送り、コジモ1世・デ・メディチに敵対しないことを表明すると共に回復した自由の承認・保証を求める。

これに対しコジモ1世・デ・メディチ、シエナに特使Leone Ricasoliを送り、その自由を保証すると共に友好関係の維持を承認。

同時にこの頃コジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世に、彼とカール5世との間で厳正な中立を保つと約束。

1552年8月5日

シエナ制圧にコジモ1世・デ・メディチの支持を確保すると共に自軍の戦費を調達するため1548年に続いて重ねてピオンビーノを巨額の金でコジモ1世・デ・メディチに委譲したカール5世の政略に絶望したヤコポ4世・ダッピアーノ、この日、両者によるこの自領譲渡協定に署名。

1552年8月13日

シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。

この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、Diego Hurtado de MendozaFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。

1553年2月上旬

この頃?、ガルシア・デ・トレド指揮のカール5世軍(スペイン軍)、イタリアにおけるカール5世軍の指揮官の1人(1552年~)でペドロ・デ・トレドによりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられたユリウス3世の甥Ascanio della CorniaCorgna:1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。

1553年2月

海路リヴォルノに着いたペドロ・デ・トレド、フィレンツェにコジモ1世・デ・メディチ及びその妻、自分の娘エレオノーラ・ディ・トレドを訪ねるが、この地で急死(1484年~)。

1553年秋~冬

コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Bartolomeo Concini(1507年~1578年)を派遣し、カール5世の名の下でシエナを制圧する企図を示して同意を得ると共に、軍指揮官としてマリニャーノ侯ジャン・ヤコポ・デ・メディチ(1495年~1555年:侯在位1532年~1555年)を送るなどの支援を約束される。

1553年

コジモ1世・デ・メディチ、ジェノヴァアンリ2世への反抗・コルシカ奪還を勧奨し、援軍を送る。

1554年1月1日

ピエロ・ストロッツィアンリ2世軍の総指揮官としてシエナに到着。

フィレンツェの亡命者でメディチ家に宿怨を抱くピエロ・ストロッツィが総指揮官としてシエナに入ったとの報にコジモ1世・デ・メディチ、シエナの武力制圧の早期断行を決意。

1554年1月22日~1月25日

コジモ1世・デ・メディチ、4市(フィレンツェ、アレッツォ、ヴォルテッラピサ)の城門を全て閉めて出入りを禁じ、ジローラモ・デリ・アルビッツィ指揮の下で秘密裏に軍を整える。

1554年1月28/29日

コジモ1世・デ・メディチ、海陸両面からシエナ領攻撃を開始。カール5世から送られたジャン・ヤコポ・デ・メディチも加わってシエナの市の城門に通ずるCamolliaを攻撃させ、その城塞を一気に占領。

しかし折からの嵐のためガレー船を使用できなかったのを初め海陸両面で攻撃に難渋し、シエナ市内には入城できず。以後、シエナを守るアンリ2世軍とカール5世の支援を受けるフィレンツェ軍、周辺各地で一進一退の攻防を続ける(~1555年)。

1555年1月

コジモ1世・デ・メディチ、配下の全軍をシエナ攻撃に集中させるが市の城門を開かせるに至らず、以後、再び包囲作戦をとらせる。間もなくシエナは深刻な食糧不足に陥る。

1555年4月17日

1554年来のジャン・ヤコポ・デ・メディチ軍の攻撃に耐えながらも、狭まる包囲戦の中で深刻な飢餓状態に陥り、期待していたアンリ2世からの援軍も得られないでいるシエナ、特使Niccolò SergardiCamillo d' EleiLelio PecciAgostino Bardiをコジモ1世・デ・メディチのもとに送って降伏し、(1)カール5世の庇護の下で「自由」を保持し自らを統治すること、(2)自らの費用でカール5世軍を守備隊として駐屯させること、などを協定。

1555年4月21日~5月2日

モンルックの君主Blaise de Lasseren de Massancome(1502年頃~1577年)指揮のアンリ2世軍、シエナ市を去る。しかしキウージ、グロッセート、ポルト・エルコーレ、モンタルチーノをなお手中に収め、この軍と共にシエナを去った有力貴族ら数百名はモンタルチーノなどに籠って小共和政を樹立する。

間もなく代わってジャン・ヤコポ・デ・メディチ麾下のカール5世軍が市内に入り、シエナは実質上コジモ1世・デ・メディチの支配下に陥る。

1555年9月15日

スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。4日後パウルス4世グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。

しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。

1556年6月27日

パウルス4世フェリペ2世ナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。

これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。

1557年5月9日

フェリペ2世エルバ島を含むピオンビーノ領をコジモ1世・デ・メディチから返還させ、本来の領主ヤコポ4世・ダッピアーノに再び領有させることを承認。但しコジモ1世・デ・メディチが要塞化した(1548年)ポルトフェッライオのみはコジモ1世・デ・メディチに引き続き領有を認める。

1557年7月3日

シエナがカラーファ一族ないしファルネーゼ一族に委譲されるとの噂に危機感を覚え、フェリペ2世に対して、これまでの巨額の貸し付けを仄めかすと共にパウルス4世アンリ2世からの同盟加入の勧誘と彼らへの接近の必要性とを示唆しながらシエナ委譲を迫ってきたコジモ1世・デ・メディチ、ようやくフェリペ2世と、(1)シエナを受領する(但しタラモーネ、ポルト・エルコーレ、オルベテッロなど海岸地帯はフェリペ2世の直轄領とする)、(2)ピオンビーノフェリペ2世に返還する(但しエルバ島のポルトフェッライオは引き続き領有する)、(3)フェリペ2世に対する債権は全て放棄することを協定。

1557年7月19日

コジモ1世・デ・メディチ、正式にシエナを自領に併合し支配。

1557年9月13日~9月15日

イタリアに記録的大雨が降り、ローマではテヴェレ川が、フィレンツェではアルノ河が氾濫して市内全域が水に浸り、建物・橋など多数が流され、夥しい数の死者が出る。以後、悪疫、流行。

1557年10月初旬

フェリペ2世パウルス4世アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。

コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。

1557年初冬

孤立感を深めるエルコーレ2世・デステ、コジモ1世・デ・メディチを介してフェリペ2世との和解の方途を探り始める。

1558年初旬

この頃?、エルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステ(1533年~1597年:フェッラーラ・モデナ・レッジョ公1559年~1597年)指揮の軍、1557年秋オッタヴィオ・ファルネーゼ軍に占領されたサン・ポーロ、カノッサ、グァルダゾーネとその城塞、などを奪回すると共に繰り返しパルマの市の城門に迫る。

これに対しオッタヴィオ・ファルネーゼ軍、ミラノフェリペ2世陣営から軍を、コジモ1世・デ・メディチから戦費を得て反撃し、グァルダゾーネの城塞を取り戻す。

1558年5月18日

フェリペ2世、1557年末からのFernando Álvares de Toledoを介してのコジモ1世・デ・メディチの働きかけに応じ、パウルス4世アンリ2世陣営を離れて中立を維持することを条件にエルコーレ2世・デステを赦免。両者和解しエルコーレ2世・デステフェリペ2世に占領された(1557年)領地を回復。

1558年6月18日

コジモ1世・デ・メディチ、フェリペ2世エルコーレ2世・デステの和解(1558年5月)の保障として娘ルクレツィア・デ・メディチ(1545年~1561年)をエルコーレ2世・デステの長男アルフォンソ2世・デステに与え、この日、その結婚式をフィレンツェで盛大に挙行。

1559年4月3日

アンリ2世フェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹マグリット・ド・ヴァロワ(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。

この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。

シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。

フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。

1559年7月半ば

高齢のパウルス4世の死期が迫る中、枢機卿ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチ(1499年~1565年:教皇在位1559年~1565年)フィレンツェに入り、コジモ1世・デ・メディチと教皇選出枢機卿会議について協議を開始。トスカーナの「王」たらんとする野望実現のため教皇位を利用したいコジモ1世・デ・メディチ、フィレンツェのメディチ一族ではないが一族と認められたいジョヴァンニ・アンジェロ・メディチに一族の紋章の利用を認めるなど、ジョヴァンニ・アンジェロ・メディチの教皇擁立の準備を進める。

1559年

パウルス4世の死(1559年8月)後この頃までの間に、熱烈な共和主義者パンドルフォ・プッチを中心とする反コジモ1世・デ・メディチの「陰謀」、発覚。パンドルフォ・プッチが絞首刑に処された他、Stordo Cavalcantiら3名が斬首され、Bernardo CorbinelliIacopo Corbinelli(1535年~1590年)兄弟が翌1560年叛徒として追放される。

1560年1月31日

ピウス4世、教皇即位(1559年12月)にあたって絶大な尽力・支援を得たコジモ1世・デ・メディチへの見返りとして、その次男ジョヴァンニ・デ・メディチ(1543年~1562年)を枢機卿に叙任(在位1560年~1562年)。

1560年

この年コジモ1世・デ・メディチ、ジョルジョ・ヴァザーリに命じ、市内各所に分散する行政・司法機関をヴェッキオ宮殿の隣接地に統合するための総合庁舎ウフィッツィ宮殿の設計図を作成させ、翌1561年7月から工事を始めさせる。(1572年利用開始)。

1562年11月20日

コジモ1世・デ・メディチの次男・枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチ病死(1543年~:在位1560年~)。

1562年12月12日

コジモ1世・デ・メディチの四男ガルツィア・デ・メディチ、病死(1547年~1562年)。

1562年12月17日

コジモ1世・デ・メディチの妻エレオノーラ・ディ・トレド、病死(1522年~)。

1561年の娘ルクレツィア・デ・メディチの死に続くこの年の家族3名の相次ぐ死を巡って、以後、ガルツィア・デ・メディチジョヴァンニ・デ・メディチを刺殺し、怒ったコジモ1世・デ・メディチがガルツィア・デ・メディチを刺殺し、エレオノーラ・ディ・トレドは悲嘆・絶望のあまり医師の処方を拒んで死んだ、との「メディチ家の悲劇」伝説(虚偽)が生ずる。

1562年

シエナ併合・領有(1555年)後、海軍に関心を深めてきたコジモ1世・デ・メディチ、オスマン・トルコ軍やトルコ人・Barbaria人海賊に抗して船舶の安全を確保すべく、小規模ながらピサを拠点とする水軍、聖ステーファノ騎士団(Ordine cavallesco di Santo Stefano)を創設し、自ら団長となる。

1564年5月1日

コジモ1世・デ・メディチ、公の名称と重要人事事件などの最高指揮権とを保持しながらも、通常の政務の実権を長子フランチェスコ1世・デ・メディチに委譲。1564年6月11日以降アレッサンドロ・デ・メディチは摂政的な位置を占める。

1565年9月7日

オスマン・トルコの大水軍、フェリペ2世軍やコジモ1世・デ・メディチの小水軍の救援を得たマルタ島を攻略しきれず、撤退を始める。

1565年12月16日

1564年から通常の政務を担当するフランチェスコ1世・デ・メディチ、故フェルディナンド1世の娘で現神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョヴァンナ・ダズブルゴ(1547年~1578年)と結婚。自身の大公位を皇帝の側に承認させようとの底意を秘めてこの結婚を求めたコジモ1世・デ・メディチ、生涯最大とも言うべき婚儀を挙行させる。

この年、これ以前にコジモ1世・デ・メディチ、自邸(旧ピッティ宮殿)からヴェッキオ橋、ウフィッツィ宮殿を経て政庁宮(ヴェッキオ宮殿)に至る高架の通廊をジョルジョ・ヴァザーリに命じて作らせ、一族が身辺警護の必要なく安全に公・私両邸を往来できるようにする。

1566年6月19日

クレメンス7世の書記官を務めた(1533年)が後に改革派(Valdés派)に傾斜したためパウルス4世の下で再三、異端審問に晒され、一旦は有罪判決を受け(1558年)ながらも、パウルス4世の死後ピウス4世の下でコジモ1世・デ・メディチの仲介により判決を取り消され(1560年)、この頃コジモ1世・デ・メディチの客としてフィレンツェに招かれていたPietro Carnesecchi(1508年~1567年)について、新教皇ピウス5世の下のローマ異端審問所、その身柄を引き渡すようコジモ1世・デ・メディチに要求。

1566年6月26日

トスカーナの「王」となるためにピウス5世の支援を得たいコジモ1世・デ・メディチ、Pietro Carnesecchiの期待に反し、要求を拒まず彼の身柄を教皇庁の特使に引き渡す。

1569年8月27日

ピウス5世Santo Stefano騎士団の創設(1562年)、Pietro Carnesecchiの身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献にGran Duca di Toscana(トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。

この勅書に、フィレンツェシエナ神聖ローマ帝国の封土と考えるマクシミリアン2世及びイタリア諸侯、こぞって反発。

1569年

この頃までにコジモ1世・デ・メディチ、ピウス5世の要請を受け入れフランス・カトリック陣営への援軍を整備。

1569年

トスカーナ大公国成立、コジモ1世

1570年3月5日

ピウス5世、この日のために1570年2月18日ローマに入ったコジモ1世・デ・メディチに、システィーナ礼拝堂でトスカーナ大公の冠を授与。

これに対し、当初は静観していたフェリペ2世が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念してナポリ王ミラノ公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日マクシミリアン2世も重ねて反対の意を表明。

1570年3月29日

コジモ1世・デ・メディチ、年来の愛人ですでに一女ヴィルジーニア・デ・メディチ(1568年~1615年)ももうけているカミッラ・マルテッリ(1545/1547年~1590年)と結婚。

1571年5月20日

対トルコ十字軍の理念を唱えるピウス5世を中心に、ヴェネツィアフェリペ2世の三者、対オスマン・トルコ神聖同盟をローマで秘密裏に締結。

この神聖同盟とトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチ、サヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアパルマ・ピアチェンツァ公オッタヴィオ・ファルネーゼウルビーノ公グイドバルド2世・デッラ・ローヴェレジェノヴァ、マルタ騎士団とが提携し、直ちに共に同盟軍の編成に着手。

1572年

1571年からこの頃までに(?)コジモ1世・デ・メディチ、自身のトスカーナ大公位をなお承認しないフェリペ2世マクシミリアン2世への反発を根にし、ピウス5世の支持を背にして使者をフランスに送り、まずLa RochelleLodewijkに、トスカーナ大公である自分とシャルル9世による反フェリペ2世マクシミリアン2世同盟を提示。次いでこの同盟案をG. de Colignyを介してシャルル9世に提示して同意を得るが、カトリーヌ・ド・メディシスの同意を得られる見込みがないとみて、最終的に撤回。

1573年7月

コジモ1世・デ・メディチ、発作に見舞われ、半身不随となる。

1574年4月21日

近郊カステッロの別荘で死。

肖像

注文

別表記

 コシモ1世、コージモ1世

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『銀色のフィレンツェ』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネッサンス夜話』
 『Lost Girls

コジモ2世・デ・メディチ Cosimo II de' Medici

生没
1590年5月12日~1621年2月28日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
フェルディナンド1世・デ・メディチ
クリスティーヌ・ド・ロレーヌ
マリーア・マッダレーナ・ダウストリア
マリア・クリスティーナ・デ・メディチ
フェルディナンド2世・デ・メディチ
ジャンカルロ・デ・メディチ
マルゲリータ・デ・メディチ
マッテオ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ
アンナ・デ・メディチ
レオポルド・デ・メディチ

概要

 コジモ2世・デ・メディチは、16世紀から17世紀のイタリアの男性。

在位

 第4代トスカーナ大公 1609年~1621年

外部リンク

 ウィキペディア

コジモ3世・デ・メディチ Cosimo III de' Medici

生没
1642年8月14日~1723年10月31日
フェルディナンド2世・デ・メディチ
ヴィットーリア・デッラ・ローヴェレ
マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス
フェルディナンド・デ・メディチ
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチ
ジャン・ガストーネ・デ・メディチ

概要

 コジモ3世・デ・メディチは、17世紀~18世紀のイタリアの男性。

在位

 第6代トスカーナ大公 1670年~1723年

外部リンク

 ウィキペディア

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年1月1日