コジモ・イル・ヴェッキオ Cosimo il Vecchio
生没 1389年9月27日~1464年8月1日
父 ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
母 ピッカルダ・ブエリ
妻 コンテッシーナ・デ・バルディ
子 ピエロ・イル・ゴットーソ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
カルロ・デ・メディチ
概要
コジモ・デ・メディチは、14世紀~15世紀のイタリア の男性、フィレンツェ 共和国の政治家。
コジモは15世紀フィレンツェ 最大の商人であり、ある意味で最良の統治者であった。
都市国家フィレンツェ は毛織物業を中心とした産業で大いに繁栄し、政治的、経済的に完全なる独立を手にしていた。フィレンツェ の政治は体面は民主主義という形をとっていたが、実は極めて少数の大商人の完全な寡占状態で、共和国ローマの最後の状況とよく似ていた。すなわち民衆は権利を求め、すでに権利を得ていたものはそれを抑圧しようとあの手、この手を尽くすのである。フィレンツェ は党派争いの渦の中にあった。
そんな状況の下、当時はまだ新興の商家であったメディチ家 を継いだのがコジモである。彼の父ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ は上流商人たちへの課税政策で民衆に人気を博しており、コジモもその路線を引き継いでいたので、実際は大金持ちなのだが民衆派とみなされていた。彼はそこのところをとてもよく理解していた。政治への野心は剥き出しにせず、ちょっとした要職に就いただけであり、せっせと家業の銀行業に精を出していた。政敵の策略で10年の追放刑を宣告されても黙ってそれに従った。
こういう人間が人気が出ないわけがなく、メディチへの信望は高まるばかりである。彼はフィレンツェ の民主制はとっくに死に絶えたことはよく知っていがそれを廃止しようとは決してせず、形骸を利用して巧みに政治を行っていたのである。
表立っては従来の政治体制の擁護者として振舞っていたが、民主制に引導を渡したのである。残酷なことは好まなかったし、敵は赦した。
コジモは教皇庁や皇帝にまで出資しており、それにより強大な発言力をもち、意のままに動かすことができた。彼が仕掛けるのは経済的な攻撃であり、何かあるとすぐ傭兵軍を繰り出す君主たちとは一線も二線も画していた。そのためかどうか、彼はとても長生きできた。
コジモを語る上で欠かせないのが芸術庇護である。彼は実に多くの芸術家のパトロンとなっている。
フィレンツェ ・ルネサンスというと孫のロレンツォ・イル・マニーフィコ の名がよく上がるが、コジモのおかげでメディチ家 に芸術家のパトロンというイメージが定着していたので、実際にはあまり熱心ではなかったロレンツォ・イル・マニーフィコ もパトロンであったように錯覚されている。
コジモが援助した建築家、芸術家、文人には、ドナテッロ 、ロレンツォ・ギベルティ 、ボッティチェッリ 、ベノッツォ・ゴッツォーリ 、フィリッポ・リッピ 、フラ・アンジェリコ など枚挙に暇がない。当時のフィレンツェ の有名な芸術家でコジモに接しなかったものはいなかったのであろう。
彼の保護とその長命のおかげで、フィレンツェ は当時としては実に長い間の安定と繁栄を謳歌できた。これがフィレンツェ が特筆すべき芸術都市になり得た大きな要素であった。
在職
正義の旗手 1435年1月~2月、1439年1月~2月、1445年9月~10月
年表
1429年2月20日
1431年
メディチ家 、公会議の開催されたバーゼルに臨時の事務所を開設(~1443年)。
1433年4月26日
1433年9月
1433年9月初め
リナルド・デリ・アルビッツィ は、
ベルナルド・グァダーニ と6名の反メディチ派プリオリと共に、1433年4月のフェッラーラでの和への市内各層の不満を、この和の調印者コジモ・イル・ヴェッキオに転嫁することによって一挙にメディチ一族を排斥する企図の実行に立つ。
1433年9月4日
1433年9月7日
一族や支持者が留めるのを押して政庁宮に出頭し、
シニョーリア によって逮捕、拘留されると共に、
チオンピの乱 (1378年~1382年)以来メディチ家が加担した策謀の数々の責任を問うとして同家を追放されることが決定。
1433年9月9日
1433年9月29日
1433年10月3日
パドヴァへ到着。次いでヴェネツィアへ行き、各地で賓客として歓迎される。
1434年8月28日
1434年9月初め
1434年9月25日
1434年9月26日
1434年9月28日
1434年9月29日
バーリアは、前年追放されたコジモ・イル・ヴェッキオを初めとするメディチ一族及び同派の貴族たちの帰還、その財産の返還、名誉の復活を決める。
1434年9月
ヴェネツィアを出発。
1434年9月31日
1434年10月2日
バーリアは、
リナルド・デリ・アルビッツィ をナポリ領
Trani に、その子オルマンノ・デリ・アルビッツィをガエータにそれぞれ8年間追放することを決める。加えて以後、翌1435年にかけてアルビッツィ一族と同派の有力者たち総計100名近くの追放を決める。
1434年10月5日
同時に
コジモ・イル・ヴェッキオ 、官職被選出資格名札の管理事務担当に過ぎない
アッコピアトーリ を自派で固めつつ、これに、被選出資格の審査、資格者の名札の管理、名札からの
シニョーリア など主要官職の委員の抽出までの全過程を実質上、行う権限を持たせていく。これにより、伝統的共和政の形態を残しつつ実質上の独裁体制を築き始める。
1435年1月初め
1435年
1437年頭
1437年
1437年
1438年
1439年頭
1439年3月24日
メディチ銀行ブールジュ支店開設。
1440年
1442年12月26日
メディチ銀行ピサ支店開設。
1443年
1443年
メディチ家 のバーゼル臨時事務所閉鎖(1431年~)。
1444年10月10日
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオ 、新たなバーリアを編成させ、1434年のアルビッツィ派被追放者の追放期限の10年延長を決めさせ、自派、自家への反対勢力の再興の道を閉ざす。
1444年
1444年
1445年11/12月
1446年
ヴェネツィア軍ミラノ城門に迫るとの報に、ヴェネツィアによるミラノ支配、ヴェネツィアの強大化を懸念していたフィレンツェ、ヴェネツィア軍の撤退の報に安堵。
1446年
メディチ銀行ロンドン支店開設。但し、これまでロンドンの業務を代行していたブールジュ支店と共同経営。同アヴィニョン支店開設。
1447年
1448年12月
1449年1月1日
1450年3月
1450年6月20日
フィレンツェと対立するシエナと同盟を結んだヴェネツィアは、全ての支配領からフィレンツェ人を追放。
1450年
1451年5月初め
1451年
メディチ銀行ロンドン、ブールジュ両支店分離、独立。両支店ともイタリアからの輸入(明礬、絹、香料その他)額が輸出(羊毛)額を超過し、経営圧迫される。
1452/1453年
1453年11月5日
1454年4月9日
1455年5月22日
大封建貴族ランカスター、ヨーク両家の王位継承を巡る争いに端を発するイングランド封建貴族の私闘、内乱(バラ戦争)発生(~1485年)。
1455年
バラ戦争によりイングランド王朝の財政荒廃し、以後、王朝へのメディチ銀行ロンドン支店の貸付、巨額になる。
1455年7月
メディチ銀行の隆盛この頃をもって終わる。
1456年
フェッラーラ・フィレンツェ公会議(1438年~1439年)に出席したギリシアの
人文主義者 Ioannes Argyropoulos (1415年頃~1487年)をフィレンツェ大学及び自分の息子らの師として招いた
コジモ・イル・ヴェッキオ 、公会議後に着想を得た哲学及び哲学的討論に関心を抱く有能な若者たちの集いアカデミア・プラトニカの実現に向かう。自分の侍医の息子で1451年頃から
プラトン 哲学を学ばせておいた最も有能な23歳の青年
マルシリオ・フィチーノ をその中心メンバーと想定。
1457年9月7日
有力家門で共和政と近年の政情に不満・不安を募らせる者たちの反体制の陰謀発覚。主導者Piero Ricci とCarlo de' Bardi 、逮捕される。
1457年11月27日
1457年
この年以降間もない頃?、メディチ銀行ピサ支店廃止。
1458年1月11日
公債を償還するための財源を確保すべく、新
カタスト 法、定められる。これに民衆は喜び、有力家門、資産家は驚き反発し共和政への不満を強める。
新
カタスト 法の必要性とその民衆による熱狂的支持を知悉しながらも上層有産者、有力者層の心情と動向にも逆らいたくない
コジモ・イル・ヴェッキオ 、後者はメディチ家の権力を縮減しようとしてきたことも考慮し、表面上、中立の姿勢をとる。
1458年4月15日
バーリアの設置及びその権限を厳しく限定する法が定められる。特定家門ないし実力者による独裁的統治を阻止しようと狙うこの法に、
コジモ・イル・ヴェッキオ を初めとするメディチ派、共和政の更なる変改の必要性を痛感。
1458年7月2日~7月31日
1458年7月14日
1458年8月1日
ピッティらメディチ派、1434年9月以来召集されたことのない
パルラメント を利用してのバーリアを設置、バーリアによる共和政の変改、の強硬手段を取る方途を選び、この日、プラティカ(特別諮問会議)で
パルラメント の召集、開催を辛うじて認めさせる。
1458年8月10日
1458年8月10日
1458年8月18日
新設されたバーリアは、ジローラモ・マキアヴェッリの25年間の領外追放など陰謀関係者を厳しく処罰すると共に、1434年のアルビッツィ派の被追放者の追放期限を1494年まで延期することを決める。
1458年11月29日
百人委員会、設置される。
1459年5月5日
ピウス2世 、フィレンツェ市内を離れボローニャに向かう。
1459年
1459年
1459年
1460年5~6月
ナポリ領で争う両派から
—— フェッランテ・ダラゴーナ からはイタリア同盟を基に、アンジュー家派からはフィレンツェとフランス王家との長年の友好関係を元に
—— 支援を求められる中で議論を続けた末、フィレンツェはナポリでの争いには関与しないことを決める。
1461年
イングランドのランカスター王朝の崩壊により、王朝へのメディチ銀行ロンドン支店の巨額の貸付、回収不能になる。加えて以後ヨーク王朝への貸付も巨額になり、合わせて支店の経営不振の一因となる。
1462年1月
1462年
1464年8月1日
折りしもメディチ銀行の衰退始まる。
1464年8月8日
1465年
肖像
サン・マルコ祭壇画
東方三博士の旅
東方三博士の礼拝
コジモ・イル・ヴェッキオの肖像
コジモの帰還
座右の銘
主の祈りで国家を治めることはできない。—— この格言は同時代の様々なフィレンツェの文筆家によって彼の作とされている。
関連項目
ローディの和
イタリア同盟
別表記
コシモ・デ・メディチ、コジモ・ディ・メディチ、大コージモ
異名
国父、祖国の父(Pater Patriae)
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
造物主願望と不可視の導線
歴史データベース
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
Treccani.it
『イタリア・ルネサンスの文化』
『イタリア史』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『君主論』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家の人びと』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『逆光のメディチ』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『マキアヴェリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『April Blood 』
『Lost Girls 』
コジモ1世・デ・メディチ Cosimo I de' Medici
生没 1519年2月19日~1574年
父 ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
母 マリーア・サルヴィアーティ
妻 エレオノーラ・ディ・トレド
カミッラ・マルテッリ
女 エレオノーラ・デリ・アルビッツィ
子 マリーア・ルクレツィア・デ・メディチ
フランチェスコ1世・デ・メディチ
イザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ルクレツィア・デ・メディチ
アントーニオ・デ・メディチ
ピエロ・デ・メディチ
ガルツィア・デ・メディチ
フェルディナンド1世・デ・メディチ
ピエトロ・デ・メディチ
ジョヴァンニ・デ・メディチ
ヴィルジーニア・デ・メディチ
概要
コジモ1世・デ・メディチは、16世紀のフィレンツェ の男性、トスカーナ 大公。
在位
トスカーナ 大公 1569年~
年表
1519年2月19日
生。
1519年6月11/12日
1537年1月8日
1537年1月9日
1537年1月
1537年1月中旬
コジモ1世・デ・メディチ、外交活動を次々に展開し、支配の安定を図る。
—— パウルス3世 には特使
Alessandro Strozzi を送って
ローマ 教会への恭順の意を表し、編成したばかりの軍を率いて北上していた3名の枢機卿らには書簡を、その内自身の伯父
ジョヴァンニ・サルヴィアーティ には特使
Alessandro del Caccia も送って彼らの厚遇を示唆しながら、軍を解いたうえで彼らだけで市内に入って協定を結ぶよう説得し、
カール5世 には特使
ベルナルド・デ・メディチ を送って政変と自身の支配の承認、
アレッサンドロ・ヴィテッリ の占拠しているフォルテッツァ・ダ・バッソの返還、などを懇請。
1537年1月20/21日
軍と共に
フィレンツェ に向かっていた3名の枢機卿と司教
Giovanni Soderini 、コジモ1世・デ・メディチの説得に乗り、軍を解いた上亡命者たちの代表として市民の歓迎を受けながら市内に入る。しかし、領内・市内を固める多数のスペイン人・ドイツ人兵士と非武装の自派一族・市民を目にし、コジモ1世・デ・メディチの擁立の無効、貴族寡頭政の再建、など自派の主張の実現可能性はないことを直ちに悟る。
1537年1月30日
3名の枢機卿ら、亡命者たちの帰国を許すとの布告以外、何らの成果も得られず、市を離れる。
1537年3月13日
1537年4月末
1537年5月初旬
カール5世 の全権代理・シフエンテス伯
Jun de Silva 、政変に関わる事情調査のため市内に入る。以後、コジモ1世・デ・メディチには
マルゲリータ・ディ・パルマ との結婚の可能性を示唆してその意を引きながら、四十八人評議会を召集・開催させ、政変とその後の政体について説明させると共に亡命者たちの政体変更に関する見解も収集。
1537年6月12日
Jun de Silva 、四十八人評議会において、コジモ1世・デ・メディチと
マルゲリータ・ディ・パルマ との結婚問題は保留するがコジモ1世・デ・メディチを
Principato di Firenze (
フィレンツェ 君主国)の
Capo (元首)として承認し、以後の事情変更については全て
カール5世 の承認を要することとすると宣言。これにより、1532年
Principato 体制を維持することで政体問題、落着。
1537年6月
3人の枢機卿ら
フィレンツェ の亡命者たちとの友好を表明していた
パウルス3世 、
カール5世 に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、
カール5世 の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、
フィリッポ・ストロッツィ ら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年8月1日
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellai (?~)ら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
1537年8~9月
1537年9月30日
1537年
カール5世 の裁定により、1532年
Principato 体制の継続、最終的に固まる。
この
Principato 体制、コジモ1世・デ・メディチによる専制支配の度を急速に強めた後、1737年1月
メディチ家 支配の終焉・ロレーヌ家支配下での政体変改まで続く。
1538年6月28日
パウルス3世 、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
1538年11月4日
1538年
1538年12月18日
自分の身柄と処分がすでに
カール5世 から全面的にコジモ1世・デ・メディチに任せられていることを知って絶望した
フィリッポ・ストロッツィ 、この日、自ら剣で喉をかき切って死(1489年~)。(但し、1538年8月とする異説、処刑されたとする異説、などあり)。
1539年1月初旬
1539年
1539年3月
結婚
1539年6月29日
1540年5月16日
1540年
コジモ1世・デ・メディチ、
メディチ宮殿 から、共和政の政庁の
Priori がその任期中、居を移していた
ヴェッキオ宮殿 に、妻と共に居を移してこれを私邸とし、
フィレンツェ の統治者は自分1人であることを示す。以後コジモ1世・デ・メディチ夫妻、
ジョルジョ・ヴァザーリ らを用いて宮内を自らの絶対的権力を表すものに大幅に改造。
ヴェッキオ宮殿 は公爵宮(
Palazzo ducale )と通称される。
1541年2月25日
パウルス3世 、対オスマン・トルコ軍事費のためとして加重した塩税の納入を拒否していた(1537年~)
コロンナ家 の統領
Ascanio Colonna (1490年代~1557年)に、3日以内に出頭しその未納について弁明するよう命令。
1541年3月25日
1541年9月13日~9月18日
1541年~1542年
コジモ1世・デ・メディチ、1540年創立された
Accademia degli Umidi を自分の支配下に収めて公的な
Accademia Fiorentina (フィレンツェ学園)に改組し、
ベネデット・ヴァルキ 、
G. Gelli 、
B Segni 、
ジョヴァンニ・バッティスタ・アドリアーニ 、
P. Vettori らをメンバーとしてトスカーナ語の純化、古典の収集・編纂・刊行を行わせる。
君主・宮廷を中心のその委嘱の下で、ないしはそれとの主従関係の中で生ずる宮廷文学・学芸が支配的になり始める。
1542年6月13日
トスカーナとシチリアに大地震発生。トスカーナではムジェッロ地区が壊滅し、4百名を超える死傷者が出たのを初め、全域で被害が出、以後40日余り、余震続く。
1543年1月
この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、知識層を支配する文化政策の一環として、かつ文芸・学問の愛好者であることを顕示して人心を収攬しようとも目論みながら、
Accademia Fiorentina (1541年)に続き、
ピサ 大学を再建。
1543年6月12日
1544年
ピエモンテにおける
カール5世 軍敗北の報を得たコジモ1世・デ・メディチ、援軍として歩兵4千をリヴォルノから海路
ジェノヴァ に送り、
ミラノ に向かわせる。
1544年9月
1545年12月
コジモ1世・デ・メディチ、
L. Ghini に
フィレンツェ にも研究機関
Orto Botanico を設立させる。
1546年2月6日
夜
シエナ で、市を支配する貴族に対し民衆、反乱。政庁宮を襲撃して貴族ら30名余を殺害。後、市駐屯スペイン軍守備隊を追放。
これに対しコジモ1世・デ・メディチ、
シエナ との領境に兵を集め、撤退するスペイン軍守備隊を防衛。
1546年8月7日
1546年8月26日
夕刻、Francesco Burlamacchi に反感を抱きかつ報償金を得ようと企むAndrea Passini 、コジモ1世・デ・メディチのもとに出頭して決起計画を報告。これにより、計画、全面的に発覚。
夜、このことを知った
Francesco Burlamacchi 、逃亡しようとして阻まれ、
ルッカ の
シニョーリア により捕縛される。
1546年8月28日~1546年9月3日
Francesco Burlamacchi の処遇について
ルッカ の
シニョーリア 、
カール5世 の判断を待ちながらも、コジモ1世・デ・メディチからの裁判権の要求は拒否して自らの
Ruota della Giustizia (司法・治安委員会)で拷問を加えながら彼を厳しく取り調べる。
1547年8月12日~8月13日
トスカーナを大雨による大洪水が襲い、ムジェッロ地区を中心に家屋の損壊及び死者などこの世紀最大とも見られる損害、発生。
1547年10月20日
この頃までに
シエナ 、軍による威嚇を背景とするコジモ1世・デ・メディチの強制に従い、追放した(1546年)
カール5世 軍守備隊の再駐屯を認める。
カール5世 はこの日、
ローマ 駐在大使
Diego Hurtado de Mendoza を総督として
シエナ に派遣。
1547年
1548年2月26日
1548年6月22日~7月24日
カール5世 、コジモ1世・デ・メディチから巨額の資金を得て彼に
ピオンビーノ を委譲し、後見下に置いていたヤコポ4世・ダッピアーノ(1539年~1585年:在位1545年~1562年)を
ジェノヴァ に隠遁させる。しかし自身の重臣たちの強い反対を受け、間もなくエルバ島を除く
ピオンビーノ 領を取り上げる。コジモ1世・デ・メディチは同島の主要都市ポルトフェッラーイオを要塞化。
1548年
1548年
1549年7月30日
コジモ1世・デ・メディチの第二子
フェルディナンド1世・デ・メディチ 生(1549年~1609年:枢機卿在位1563年~1588年:トスカーナ大公在位1587年~1609年)。
1549年
1550年2月8日
教皇
ユリウス3世 、コジモ1世・デ・メディチの使節団全員に
Cavaliere (騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノを
del Monte 家に委譲するよう求める。
ユリウス3世 の自家勢力拡大策(
nepotismo )、早くも始まる。
1550年
コジモ1世・デ・メディチ、新教皇
ユリウス3世 のもとに
Girolamo Guicciardini 、
Piero Salviati ら6名の貴族からなる使節団を送り、教皇即位への祝意を表明。
1550年5月15日
コジモ1世・デ・メディチ一家、
ヴェッキオ宮殿 から1549年購入の
ピッティ宮殿 に転居し新生活を始める。以後、この新邸の背後にボーボリ庭園を築造。
ヴェッキオ宮殿 は
Palazzo vecchio (旧宮)と通称されるようになる。
1550年6月28日
故
Barbarossa の後継者的な海賊
Dragut (本名
Torghud 'Ali Paşa :1485年~1565年)を先頭に南イタリア地中海沿岸諸都市で略奪・破壊を働き続ける
Sinan Paşa (?~1578年)総指揮のオスマン・トルコ水軍がこの春、占領したマーディアを奪還すると共にその海賊行為を断つべく、
カール5世 の指示により、
アンドレア・ドーリア を総指揮官としてその軍及び
カール5世 のシチリア総督
Juan de Vega の軍に
ペドロ・デ・トレド 及びコジモ1世・デ・メディチからの援軍を加えた大軍、この日アフリカ(マーディア)に上陸。
1550年7月
コジモ1世・デ・メディチ、
ユリウス3世 にモンテ・サン・サヴィーノを無条件で委譲。これを
ユリウス3世 、兄
Baldovino del Monte に封与。
1552年7月26日~7月27日
堅固な城塞の構築を進めるなどさらに圧制の度を強めてきた
カール5世 の絶対的支配(1547年~)を脱すべく1551年来
アンリ2世 との接触を深めていた
シエナ 市民、
アンリ2世 の指示の下で領内に入ったピティリアーノ伯ニッコロ2世・オルシーニ軍が前夜、市の城門に迫ったのに呼応し、「フランス、勝利、自由」を叫んで武器を手に決起。
カール5世 軍(スペイン軍)守備隊長はコジモ1世・デ・メディチに援軍を求め、コジモ1世・デ・メディチは直ちに小軍を送るが抗しきれず、
カール5世 軍(スペイン軍)守備隊は構築中の城塞に引きこもる。
1552年
シエナ 市民、特使
Calisto Cerini をコジモ1世・デ・メディチのもとに送り、
シエナ の自由回復を妨害しないよう要請。
1552年8月1日
この日頃?、コジモ1世・デ・メディチ、特使
Ippolito da Correggio (1510年~1552年)を
シエナ に送り、
カール5世 軍(スペイン軍)守備隊と和を結ぶよう強く勧告。
1552年8月3日
この日?、8千を超える市民が
カール5世 軍(スペイン軍)守備隊の籠る城塞を取り囲む中コジモ1世・デ・メディチ、
シエナ と、(1)守備隊は
シエナ から撤退する、(2)城塞は壊され、すべての外国軍は
シエナ から撤退する、(3)
シエナ は自由を得るが
カール5世 の下に留まり、彼に敵対する者を領内に入れない、(4)コジモ1世・デ・メディチは自軍がこの間に占領した
シエナ の領地を全て返還する、ことを約定。
これに強い不満を唱える
カール5世 軍(スペイン軍)守備隊に対しコジモ1世・デ・メディチ、
アンリ2世 が新たに各地から
シエナ に向かいつつある中で逡巡していれば事態はさらに悪化すると懸命に弁明。
1552年8月4日
この日?、
シエナ 、コジモ1世・デ・メディチのもとに特使
Ambrosio Nuti を送り、コジモ1世・デ・メディチに敵対しないことを表明すると共に回復した自由の承認・保証を求める。
これに対しコジモ1世・デ・メディチ、
シエナ に特使
Leone Ricasoli を送り、その自由を保証すると共に友好関係の維持を承認。
1552年8月5日
シエナ 制圧にコジモ1世・デ・メディチの支持を確保すると共に自軍の戦費を調達するため1548年に続いて重ねて
ピオンビーノ を巨額の金でコジモ1世・デ・メディチに委譲した
カール5世 の政略に絶望したヤコポ4世・ダッピアーノ、この日、両者によるこの自領譲渡協定に署名。
1552年8月13日
この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、
Diego Hurtado de Mendoza や
Fransicso Alba から
シエナ の反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていた
カール5世 のもとに特使
Ippolito da Correggio と
Leone Santi を送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀な
シエナ に制裁を加えると誓約。
1553年2月上旬
この頃?、
ガルシア・デ・トレド 指揮の
カール5世 軍(スペイン軍)、イタリアにおける
カール5世 軍の指揮官の1人(1552年~)で
ペドロ・デ・トレド によりシエナ攻撃イタリア人歩兵隊指揮官に任じられた
ユリウス3世 の甥
Ascanio della Cornia (
Corgna :1513年~1571年)がコジモ1世・デ・メディチの同意を得て集めた歩兵隊と合流し、シエナ領に入る。
1553年2月
1553年秋~冬
コジモ1世・デ・メディチ、
カール5世 のもとに特使
Bartolomeo Concini (1507年~1578年)を派遣し、
カール5世 の名の下で
シエナ を制圧する企図を示して同意を得ると共に、軍指揮官としてマリニャーノ候
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ (1495年~1555年:候在位1532年~1555年)を送るなどの支援を約束される。
1553年
1554年1月1日
1554年1月22日~1月25日
1554年1月28/29日
しかし折からの嵐のためガレー船を使用できなかったのを初め海陸両面で攻撃に難渋し、
シエナ 市内には入城できず。以後、
シエナ を守る
アンリ2世 軍と
カール5世 の支援を受ける
フィレンツェ 軍、周辺各地で一進一退の攻防を続ける(~1555年)。
1555年1月
コジモ1世・デ・メディチ、配下の全軍を
シエナ 攻撃に集中させるが市の城門を開かせるに至らず、以後、再び包囲作戦をとらせる。間もなく
シエナ は深刻な食糧不足に陥る。
1555年4月17日
1554年来の
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ 軍の攻撃に耐えながらも、狭まる包囲戦の中で深刻な飢餓状態に陥り、期待していた
アンリ2世 からの援軍も得られないでいる
シエナ 、特使
Niccolò Sergardi 、
Camillo d' Elei 、
Lelio Pecci 、
Agostino Bardi をコジモ1世・デ・メディチのもとに送って降伏し、(1)
カール5世 の庇護の下で「自由」を保持し自らを統治すること、(2)自らの費用で
カール5世 軍を守備隊として駐屯させること、などを協定。
1555年4月21日~5月2日
モンルックの君主
Blaise de Lasseren de Massancome (1502年頃~1577年)指揮の
アンリ2世 軍、
シエナ 市を去る。しかしキウージ、グロッセート、ポルト・エルコーレ、モンタルチーノをなお手中に収め、この軍と共に
シエナ を去った有力貴族ら数百名はモンタルチーノなどに籠って小共和政を樹立する。
1555年9月15日
しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続ける
カール5世 軍(スペイン軍)と、北の境界で
アンリ2世 軍の一掃を狙う
カール5世 陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれた
パウルス4世 、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。
1556年6月27日
1557年5月9日
フェリペ2世 、エルバ島を含む
ピオンビーノ 領をコジモ1世・デ・メディチから返還させ、本来の領主ヤコポ4世・ダッピアーノに再び領有させることを承認。但しコジモ1世・デ・メディチが要塞化した(1548年)ポルトフェッライオのみはコジモ1世・デ・メディチに引き続き領有を認める。
1557年7月3日
シエナ がカラーファ一族ないしファルネーゼ一族に委譲されるとの噂に危機感を覚え、
フェリペ2世 に対して、これまでの巨額の貸し付けを仄めかすと共に
パウルス4世 ・
アンリ2世 からの同盟加入の勧誘と彼らへの接近の必要性とを示唆しながら
シエナ 委譲を迫ってきたコジモ1世・デ・メディチ、ようやく
フェリペ2世 と、(1)
シエナ を受領する(但しタラモーネ、ポルト・エルコーレ、オルベテッロなど海岸地帯は
フェリペ2世 の直轄領とする)、(2)
ピオンビーノ を
フェリペ2世 に返還する(但しエルバ島のポルトフェッライオは引き続き領有する)、(3)
フェリペ2世 に対する債権は全て放棄することを協定。
1557年7月19日
コジモ1世・デ・メディチ、正式に
シエナ を自領に併合し支配。
1557年9月13日~9月15日
イタリアに記録的大雨が降り、
ローマ では
テヴェレ川 が、
フィレンツェ ではアルノ河が氾濫して市内全域が水に浸り、建物・橋など多数が流され、夥しい数の死者が出る。以後、悪疫、流行。
1557年10月初旬
1557年初冬
1558年初旬
1558年5月18日
1558年6月18日
1559年4月3日
この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけ
アンリ2世 は、
ナポリ 、
ミラノ に続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。
シャルル8世 の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。
フランス軍庇護下で
シエナ 亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。
1559年7月半ば
1559年
パウルス4世 の死(1559年8月)後この頃までの間に、熱烈な共和主義者
パンドルフォ・プッチ を中心とする反コジモ1世・デ・メディチの「陰謀」、発覚。
パンドルフォ・プッチ が絞首刑に処された他、
Stordo Cavalcanti ら3名が斬首され、
Bernardo Corbinelli ・
Iacopo Corbinelli (1535年~1590年)兄弟が翌1560年叛徒として追放される。
1560年1月31日
ピウス4世 、教皇即位(1559年12月)にあたって絶大な尽力・支援を得たコジモ1世・デ・メディチへの見返りとして、その次男
ジョヴァンニ・デ・メディチ (1543年~1562年)を枢機卿に叙任(在位1560年~1562年)。
1560年
1562年11月20日
1562年12月12日
1562年12月17日
1562年
シエナ 併合・領有(1555年)後、海軍に関心を深めてきたコジモ1世・デ・メディチ、オスマン・トルコ軍やトルコ人・
Barbaria 人海賊に抗して船舶の安全を確保すべく、小規模ながら
ピサ を拠点とする水軍、聖ステーファノ騎士団(
Ordine cavallesco di Santo Stefano )を創設し、自ら団長となる。
1564年5月1日
1565年9月7日
オスマン・トルコの大水軍、
フェリペ2世 軍やコジモ1世・デ・メディチの小水軍の救援を得たマルタ島を攻略しきれず、撤退を始める。
1565年12月16日
1566年6月19日
クレメンス7世 の書記官を務めた(1533年)が後に改革派(
Valdés 派)に傾斜したため
パウルス4世 の下で再三、異端審問に晒され、一旦は有罪判決を受け(1558年)ながらも、
パウルス4世 の死後
ピウス4世 の下でコジモ1世・デ・メディチの仲介により判決を取り消され(1560年)、この頃コジモ1世・デ・メディチの客として
フィレンツェ に招かれていた
Pietro Carnesecchi (1508年~1567年)について、新教皇
ピウス5世 の下の
ローマ 異端審問所、その身柄を引き渡すようコジモ1世・デ・メディチに要求。
1566年6月26日
トスカーナの「王」となるために
ピウス5世 の支援を得たいコジモ1世・デ・メディチ、
Pietro Carnesecchi の期待に反し、要求を拒まず彼の身柄を
教皇庁 の特使に引き渡す。
1569年8月27日
ピウス5世 、
Santo Stefano 騎士団の創設(1562年)、
Pietro Carnesecchi の身柄引き渡し(1566年)、フランス・カトリック陣営への支援、など教皇・教会への協力姿勢の顕著なコジモ1世・デ・メディチを「カトリック信仰擁護の貢献者」などと評価し、この多大な貢献に
Gran Duca di Toscana (トスカーナ大公)の位をもって報いるとの勅書を発する。
1569年
この頃までにコジモ1世・デ・メディチ、
ピウス5世 の要請を受け入れフランス・カトリック陣営への援軍を整備。
1569年
トスカーナ大公国成立、コジモ1世
1570年3月5日
これに対し、当初は静観していた
フェリペ2世 が教皇の世俗権力への介入・干渉とコジモ1世・デ・メディチの権力の増大を懸念して
ナポリ 王・
ミラノ 公の名で反対に回ったのを初め、1570年3月29日
マクシミリアン2世 も重ねて反対の意を表明。
1570年3月29日
1571年5月20日
1572年
1573年7月
コジモ1世・デ・メディチ、発作に見舞われ、半身不随となる。
1574年4月21日
肖像
チェーザレ・ボルジア数
子ルクレツィア・デ・メディチ →夫アルフォンソ2世・デステ →父エルコーレ2世・デステ →母ルクレツィア・ボルジア →きょうだいチェーザレ・ボルジア
別表記
コシモ1世、コージモ1世
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
歴史データベース
Famille de Carné
Genealogy.EU
The Medici Archive Project
Treccani.it
『イタリア・ルネサンスの文化』
『銀色のフィレンツェ』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス夜話』
『Lost Girls 』