- 生没
- 1382年~1466年12月13日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ニッコロ・バルディ
- 師匠
- ロレンツォ・ギベルティ
概要
ドナテッロは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェの彫刻家、金工、石工。
ドナテッロは本名をドナート・バルディといい、1382年頃、梳き毛工の息子として生まれた。バルディ家とは関係がない。父ニッコロ・バルディは、1378年に起こった下層職人のチオンピの乱の首謀者の1人で死罪の判決を受けて一時亡命していたが、その後赦免されて帰国し、職人の仕事を続けていた。生粋のフィレンツェ職人としての父の激しい反骨精神や下層市民という出自は、ドナテッロの性格や思想形成に少なからぬ影響を与えたであろうことは、容易に想像できる。
親友のフィリッポ・ブルネッレスキが1401年芸術競技の課題作品で見せた激しく力強い近代的表現を、ドナテッロは彫刻の世界で受け継いだ。彼の厳格な写実主義、表現主義はもはや時代様式すら超越している。彫刻を建築の従属的地位から開放し彫刻的な量を掴み、古典精神と写実主義を融合させて、真のルネサンス彫刻様式の創始者となった。15世紀初頭の彫刻革命において、独創的な個性と桁外れの才能を持つ、偉大な天才芸術家と言えよう。
しかしながら彼の激しい新しさは、やはりフィリッポ・ブルネッレスキが同時代のフィレンツェ市民たちの無理解と嫉妬に苦しんだのと同様、フィレンツェにおいて十分にその力量を評価されることはなかった。しかも、フィリッポ・ブルネッレスキのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大円蓋造営事業に相当するような大事業をついに与えられることもなかったのである。それは彫刻の分野ではロレンツォ・ギベルティをはじめとして多くの天才たちがひしめき合っていたことにもよる。
ドナテッロの天才を正当に評価し、それに相応しい作品を生み出させたのはむしろパドヴァ人たちで、それは「ガッタメラータ騎馬像」や「サンタントーニオ聖堂の主祭壇」などの記念すべき作品に見て取れる。
逸話
年上のフィリッポ・ブルネッレスキとドナテッロは兄弟のように強い友情で結ばれており、フィリッポ・ブルネッレスキが1401年のコンクール優勝を辞退した後、2人でローマに旅行し、古代遺跡の研究に没頭したというのは有名な話である。
また、ジョルジョ・ヴァザーリは2人に関して、次のようなエピソードも伝えている。若いドナテッロがサンタ・クローチェ聖堂のために木彫りの十字架像を作った。彼がこの自信作をフィリッポ・ブルネッレスキに見せて評価を乞うと、「このイエス・キリストは野暮でまるで百姓のようだ。」と酷評された。怒ったドナテッロは「それなら自分で作ってみたらいい。」とやり返すと、フィリッポ・ブルネッレスキは何も言わずにその場を立ち去り、それから数ヶ月間、自分の家に閉じこもってひそかに木彫りの十字架像の制作に没頭した。やがて作品が完成すると、フィリッポ・ブルネッレスキはドナテッロを夕食に招待し、2人で一緒に市場で食材を仕入れた後、ドナテッロに食料を持って一足先に帰るように頼んだ。ドナテッロがフィリッポ・ブルネッレスキの家に着くと、見事な十字架像が飾られており、そのあまりの見事さに感嘆して思わず両手を広げたドナテッロは、せっかく買った卵やチーズが床に落ちて砕け散ったことにも気づかず、その場に立ちつくしていた。そこへ帰ってきたフィリッポ・ブルネッレスキが笑いながら「おやおや、一体僕たちは夕食に何を食べればいいのかね。」と言うと、ドナテッロは「僕はもうたくさんだ。・・・確かに君の言うとおりだ。君はキリストを彫ることができるが、僕には百姓しか彫れないのだ。」と興奮して答えたという。
この逸話の真偽はともかく、このような腕比べは、実力主義の当時のフィレンツェ人たちが大好きなものだった。
これらの十字架像は現在でもドナテッロの作品はサンタ・クローチェ聖堂で、「ブルネッレスキの十字架」はサンタ・マリア・ノヴェッラ教会で実際に見ることができる。無骨で朴訥な感じのドナテッロのキリスト像とすらりと引き締まったフィリッポ・ブルネッレスキのキリスト像、と確かにその違いは明らかなようである。これも物の本によると、上層知識人階級出身のフィリッポ・ブルネッレスキと下層職人階級出身のドナテッロとの人間解釈の差異の現れだ、と言われている。
メディチ家の庇護
また、ドナテッロの才能はコジモ・イル・ヴェッキオに深く愛され、2人で彫刻や詩や哲学を論じて1日を過ごすこともあった。コジモ・イル・ヴェッキオの注文によってたくさんの仕事をし、コジモ・イル・ヴェッキオは制作費としてたっぷりと謝礼を渡したが、ドナテッロはその金を工房の天井からつり下げた籠に無造作に放り込んでいたので、誰もが使うことができた。
さらにコジモ・イル・ヴェッキオの息子ピエロ・イル・ゴットーソにも保護され、別荘地を与えられて晩年を保証してもらった。しかしドナテッロは1年もしないうちに別荘地の管理というやっかいな仕事にすっかり参ってしまい、返却を申し出ている。そこでピエロ・イル・ゴットーソはその別荘地から上がるのと同じくらいの金額を、毎週ドナテッロが自由に銀行から引き出せるようにしてやった。ドナテッロは大いに喜んで、幸せな晩年を送ったという。
フィレンツェ市民に正当に評価されなかったとはいえ、メディチ家の庇護を受けたドナテッロは幸せである。オルサンミケーレ聖堂の外壁には「聖マルコ」や「聖ゲオルギウス」、大聖堂付属美術館には「エレミア」「預言者ハバクク」などの預言者像や大聖堂の「聖歌壇」の浮き彫り、バルジェッロ国立美術館には「少年の洗礼者ヨハネ」そして、「ダヴィデ像」など、約80年に及ぶ長い生涯で制作された作品は、今でもフィレンツェの街のそこここで見ることができるのである。
作品
年表
肖像
住居
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂近くのマルテッリ家所有の家。ドナテッロが20歳の時、ここに工房も持っていたとの記録がある。現在バルジェッロ国立美術館に所有されている、洗礼者ヨハネの彫像、胸像、ダヴィデ像は、3体ともそこにあったもの。
サンタ・クローチェの十字架 Crocifisso di Santa Croce
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1407~1408年頃
- 媒材
- 木材
- 寸法
- 縦168 cm×横173 cm
- 所蔵
- サンタ・クローチェ聖堂
概要
「サンタ・クローチェの十字架」は、ドナテッロ作の彫刻。
外部リンク
聖マルコ San Marco
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1411~1413年
- 媒材
- 大理石
- 所蔵
- オルサンミケーレ教会
概要
「聖マルコ」は、ドナテッロ作の彫刻。
外部リンク
プラート大聖堂説教壇 Il Pulpito del Duomo di Prato
- 作者
- ドナテッロ
ミケロッツォ - 制作
- 1428~1438年
- 媒材
- 大理石
- 所蔵
- プラート大聖堂
概要
「プラート大聖堂説教壇」は、ドナテッロとミケロッツォ作の彫刻。
別表記
聖歌壇
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
聖ゲオルギウス San Giorgio
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1415~1418年
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 高さ209 cm
- 所蔵
- バルジェッロ国立美術館
概要
「聖ゲオルギウス」は、ドナテッロ作の彫刻。
外部リンク
預言者ハバクク Zuccone
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1423~1435年
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 高さ195 cm
- 所蔵
- サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属美術館
概要
「預言者ハバクク」は、ドナテッロ作の彫刻。
別表記
ハバスク、Profeta Abacuc
外部リンク
エレミア Geremia
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1427~1435年
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 縦191 cm×横45 cm×幅45 cm
- 所蔵
- サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属美術館
概要
「エレミア」は、ドナテッロ作の彫刻。
別表記
エレミヤ
外部リンク
聖歌壇 Cantoria di Donatello
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1433~1438年
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 縦348 cm×横570 cm×幅98 cm
- 所蔵
- サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属美術館
概要
「聖歌壇」は、ドナテッロ作の彫刻、浮彫。
別表記
カントリーア
外部リンク
聖ペテロへの鍵の授与 Consegna delle chiavi
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1430年代
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 縦41 cm×横114.5 cm
- 所蔵
- ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館
概要
「聖ペテロへの鍵の授与」は、ドナテッロ作の彫刻、浮彫り。
元の場所は不明。1492年ロレンツォ・イル・マニーフィコの死に際して作成された目録でメディチ宮殿にあったことが記録され、1591年にフィレンツェのサルヴィアーティ宮殿に記録されている。
題材
公式サイト
外部リンク
ヘロデの饗宴 Banchetto di Erode
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1435年頃
- 媒材
- 大理石
- 寸法
- 縦43.5 cm×横65 cm
- 所蔵
- リール宮殿美術館
概要
「ヘロデの饗宴」は、ドナテッロ作の彫刻、浮彫り。
1492年ロレンツォ・イル・マニーフィコの死に際して作成された目録でメディチ宮殿にあったことが記録されている。
外部リンク
対立教皇ヨハネス23世の墓 Il Monumento Funebre dell'Antipapa Giovanni XXIII
- 作者
- ドナテッロ
ミケロッツォ - 制作
- 1435年頃
- 媒材
- 金鍍金したピエトラ・セレーナ
- 寸法
- 高さ419 cm
- 所蔵
- サン・ジョヴァンニ洗礼堂
概要
「対立教皇ヨハネス23世の墓」は、ドナテッロとミケロッツォ作の廟墓彫刻。
被葬者
別表記
バルダッサレ・コッサの墓碑、Tomb of Antipope John XXIII, Funeral Monument to John XXIII
外部リンク
参考文献
『メディチ家』
ダヴィデ像 David
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1440年頃
- 媒材
- ブロンズ
- 寸法
- 高さ158 cm
- 所蔵
- バルジェッロ国立美術館
概要
「ダヴィデ像」は、ドナテッロ作の鋳物。旧約聖書サムエル記17章に記されたダヴィデとゴリアテの話が主題。独立像としては古代ローマ以来否定されてきた裸体での表現である。
特徴
月桂樹で飾られた兜と長靴だけを身に着けたダヴィデが、奪った剣で斬り落としたゴリアテの首を左足で踏みつけ、勝ち誇るように微笑を浮かべている。ゴリアテの無骨な頭部とは対照的な、男性的な印象は全く与えないダヴィデの華奢な体格は、身体的能力ではなく神の意思によってもたらされた勝利であることを表している。片足に重心をかけた動静対比の姿勢で、若者の柔軟な肉体表現の美しさと共に、古代彫刻への接近が伺われる。
制作時期
1427年から1460年の間で異なる説が提唱されているが、最も一般的な見解はコジモ・イル・ヴェッキオに雇われていた1440年代の作品と位置づけるものである。初めて記録に現れるのは1469年であり、ロレンツォ・イル・マニーフィコとクラリーチェ・オルシーニの結婚式の際にメディチ宮殿の中庭にあったことが記されている。中庭は1440年代にはまだ完成していなかったため、より早い時期に鋳造されていた場合は広間に設置されていた可能性もある。
政治的意味
イスラエル軍とペリシテ軍との戦争において、ペリシテ軍最強の巨人兵ゴリアテが自分との一騎討ちで戦争全体の帰趨を決しようと何度も挑発した。怖気づいたイスラエル兵の中に挑む者はいなかったが、年少であったためにまだ兵役に就いていなかった羊飼いのダヴィデが名乗りを上げる。サウル王は鎧と剣を与えたが、ダヴィデは兵士としての訓練を積んでいないとしてこれらを断り、投石器を手にして対峙した。そして放った石が頭部に命中してゴリアテを倒し、剣を奪い取ってその首を落とした。ペリシテ軍は約束通り戦場から撤退したためにイスラエル軍は救われた。ダヴィデの特別な力は神の恩恵であり、善は悪に打ち勝つということを示している。
正規兵でない者が戦争の命運を決したこの逸話を、フィレンツェ共和国の一市民であると同時に支配者であり、自家と共和国の命運を同一視するメディチ家の歴史認識と政治的表現に用いたのである。
デジデリオ・ダ・セッティニャーノの失われた作品である木の葉とハルピュイアの装飾が施された多色の大理石の円柱の上に置かれていたことが、ジョルジョ・ヴァザーリによって言及されており、Victor est quisquis patriam tuetur/Frangit immanis Deus hostis iras/En puer grandem domuit tiramnum/Vincite cives(勝利は祖国を守護する者全てにもたらされる/神が邪悪な敵を打ち砕く/見よ、大いなる暴君を打倒した少年を。勝利は民とともに)という銘が刻まれていたという。
変遷
1494年2度目のメディチ家追放の際群衆によって略奪され、共和制の自由の象徴として1495年にヴェッキオ宮殿の第一中庭に設置された。メディチ宮殿での展示とヴェッキオ宮殿での展示において、ダヴィデ像とユディトとホロフェルネス像の配置は同じだった。2つの像は対を成す作品だが、後者はドナテッロの後期の活動時期に作られたものである。
コジモ1世・デ・メディチによってメディチ家の手に戻された後、1555年にはヴェッキオ宮殿の入り口付近の壁龕に置かれた。その後1592年に第二中庭に移され、さらに衣装部屋に移された。17世紀初頭には、ピッティ宮殿の応接室の暖炉の上に置かれていた。1777年にウフィッツィ美術館に運ばれ、ルイジ・ランツィによって現代彫刻の部屋に配置された。バルジェッロ国立美術館の創設に伴い、ルネサンス彫刻のコレクションに最初に選ばれた作品の1つとなり、19世紀後半に移管された。当初は青銅器の部屋に展示されていたが、1887年のドナテッロの祝賀行事の際に1階の大広間に移され、現在も15世紀の大理石の台に載せられている。
複製
2007年から2008年にかけて修復作業が行われ、元の金鍍金の痕跡が多く見つかった。その後、フィレンツェのフェルディナンド・マリネッリ美術鋳造工房で元の鋳型を使用して制作された複製が一時的に並べて展示され、これにより像の元々の外観を推定することができた。2009年5月7日から6月2日までミラノのフィエラ・カンピオナリアで複製が展示された。
題材
別表記
ダビデ像
外部リンク
Art Renewal Center
Flickr
The Artchive
Web Gallery of Art
Wikipedia
参考文献
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『メディチ家』
少年の洗礼者ヨハネ San Giovannino Martelli
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1442年頃
- 媒材
- 木材
- 寸法
- 高さ141 cm
- 所蔵
- バルジェッロ国立美術館
概要
「少年の洗礼者ヨハネ」は、ドナテッロ作の彫刻。
外部リンク
サンタントーニオ聖堂の主祭壇 Altare di Sant'Antonio da Padova
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1446~1453年
- 所蔵
- サンタントーニオ聖堂
概要
「サンタントーニオ聖堂の主祭壇」は、ドナテッロ作の青銅の聖母子と6人の聖者たちと22枚の青銅浮彫で構成された祭壇。
元の構造は16世紀後半に新しい祭壇にを建設するために破壊され、彫刻は再利用されるか、教会のさまざまな場所に移された。19世紀に全ての彫刻をまとめて再配置されたが、元の祭壇がどのように作られたかを証明する図像資料がないため、今日見ることができる祭壇は純粋に仮説的な復元であり、作品の配置はまだ学者の間で議論されている。
別表記
高祭壇
外部リンク
ガッタメラータ騎馬像 Monumento Equestre al Gattamelata
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1447~1453年
- 媒材
- 青銅
- 寸法
- 340 × 390 cm
- 所蔵
- サンタントーニオ聖堂広場
概要
「ガッタメラータ騎馬像」は、ドナテッロ作の鋳物。古代ローマ以後の最初の青銅騎馬像であり、ルネサンス期の鋳造技術が初めて達した1つの頂点でもあった。
題材
外部リンク
参考文献
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
ユディトとホロフェルネス像 Giuditta e Oloferne
- 作者
- ドナテッロ
- 制作
- 1455~1460年
- 媒材
- ブロンズ
- 高さ
- 236 cm
- 所蔵
- ヴェッキオ宮殿
概要
「ユディトとホロフェルネス像」は、ドナテッロ作の鋳物。
移転経緯
「ユディトとホロフェルネス像」はあちこちに移転された。
最初はカミッロ・カヴール通りにあるメディチ宮殿の中庭に置かれ、噴水として台に開けられた穴から水が出ていた。
1494年、ピエロ・イル・ファトゥオが追放された時に引きずり出されて、シニョーリア広場のヴェッキオ宮殿玄関の左手に自由と勝利の象徴として置かれる。メディチ家が復帰した後も、民衆を刺激せぬようそのままにされる。
1504年、ミケランジェロの「ダヴィデ像」に取って代わられる。「ダヴィデ像」は「ユディトとホロフェルネス像」より大きく、シニョーリア広場に後々設置されていく像の高さを決定するものとなった。「ユディトとホロフェルネス像」はランツィの開廊へ。
1582年、ジャンボローニャ「サビニ女の略奪」がやってきて、ヴェッキオ宮殿の南側へ。
1919年、現在「ユディトとホロフェルネス像」の複製が置かれている場所へ。
1988年、修復されてヴェッキオ宮殿百合の間へ。シニョーリア広場には複製が置かれた。
題材
別表記
ユーディットと死せるホロフェルネス、Judith and Holofernes
関連項目
『イコノロジー研究』
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家』
聖母子と天使 La Virgen con el Niño y ángeles
- 作者
- ドナテッロ?
- 制作
- 1460年頃
- 媒材
- カッラーラ産大理石
- 寸法
- 縦90 cm×横55 cm×厚み7 cm
- 所蔵
- ソゴルブ大聖堂博物館
概要
「聖母子と天使」は、ドナテッロ作とされる浮彫彫刻。彩色や金箔が一部残っている。
アーチを中心とした建築物を背景に、純古典様式の美しい横顔を持つ聖母マリアが幼子イエスに身を傾けている。イエスは巻物を持ち、それを読んでいる。2人の幼い天使又は智天使が両側から聖母子を囲んでいて、正三角形の構図である。聖母マリアの視線は右下の天使と、イエスの視線は左下の天使と交差している。下部には斜め格子の柵があり、左下の天使が肘を置く。元々は多色であり、上部の建物の隙間や格子の間には様々な色の板が配置されていた可能性がある。
彩色は完全に失われてしまったものの、フィレンツェ由来の非凡なルネサンス作品であり、通常は慰霊碑や礼拝堂に使用されるものだった。ドナテッロの様式と円熟期の手法に合致し、ベルリン、ロンドン、シエナ、ボストン、パドヴァの聖母子に匹敵するものである。
おそらくソゴルブ公アルフォンス・ダラーゴ(1563年没)によってイタリアから持ち込まれたもので、ソゴルブ城の礼拝堂の扉の上に配置されていた。1801年にソゴルブ大聖堂に寄贈され、現在大聖堂内にあるのは複製。
題材
外部リンク
El Periódico de Aquí
Wikimedia Commons
パッツィ家の紋章 Stemma Pazzi
- 作者
- ドナテッロ
- 所蔵
- パッツィ宮殿
概要
「パッツィ家の紋章」は、ドナテッロの作品。
外部リンク
Unicoop Firenze
Wikimedia Commons
Wikimedia Commons
別表記
ドナテルロ、ドナテロ、ドナート・デ・ベット・バルディ
本名
ドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディ、Donato di Niccolò Betto di Bardi
関連項目
外部リンク
ウィキペディア
Art cyclopedia
Firenze美術めぐり
Web Gallery of Art
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『逆光のメディチ』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『傭兵の二千年史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ルネッサンス夜話』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
記載日
2008年12月2日
更新日
2024年2月22日