ヴェッキオ宮殿 Palazzo Vecchio
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
- 建築
- 1299年~1314年
- 設計
- アルノルフォ・ディ・カンビオ?
概要
ヴェッキオ宮殿は、フィレンツェのシニョーリア広場に面して建つゴシック風の建物。1299年から建築が開始され、アルノルフォ・ディ・カンビオが担当したと言われている。以前の建物を利用して建てられたため、塔の位置が中央ではない。アルノルフォ・ディ・カンビオの死後は2人の建築家に任され、1314年に完成された。塔の高さは94メートル。
1302年3月26日(フィレンツェの暦で元旦)からシニョーリアの所在地となる。
アルノルフォの塔 Torre di Arnolfo
高さは約94メートル。1310年までに、以前に建っていた牛の塔(Torre della Vacca)を再利用して建てられた塔。
アルベロゲットと呼ばれる小さな部屋が牢獄として使われており、1433年コジモ・イル・ヴェッキオが、1498年ジローラモ・サヴォナローラが収監された。
風見獅子
アルノルフォの塔の頂上には獅子がついている。これは風見鶏ならぬ風見獅子で、現在でも動いている。しかしながら原作品は、ヴェッキオ宮殿の正面部から入って2番目の中庭に置かれている。
獅子は大きな青銅の浮彫を2枚合わせた形になっており、中は空洞である。その上に金箔が貼られた。そして頑丈な金具で細長い柱に付けられている。柱の頂上にはフィレンツェ市の象徴である、菖蒲(百合)の花が付いている。
この獅子、柱に挑みかかる姿に作られているが、フィレンツェ人には違った風に見えるらしい。獅子が風で南に向いている時、つまりアルノ川に向かっている時、フィレンツェは雨になる。これを称してフィレンツェでは、「ヴェッキオ宮殿の獅子がアルノ川におしっこするので、雨が降る」と言うとか。
第一中庭 Primo cortile
五百人広間 Salone dei Cinquecento
フランチェスコ1世・デ・メディチのストゥディオーロ Studiolo di Francesco I de' Medici
コジモ・イル・ヴェッキオの間 Sala di Cosimo il Vecchio
ロレンツォ・イル・マニーフィコの間 Sala di Lorenzo il Magnifico
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレの間 Sala di Giovanni delle Bande Nere
クレメンス7世の間 Sala di Clemente VII
百合の間 Sala dei Gigli
題材作品
所蔵品
別表記
政庁舎、シニョリーア宮殿、パラッツォ・ヴェッキオ、パラッツォ・デラ・シニョリーア
外部リンク
ウィキペディア
とーるブロ
Google Maps
Pinterest
Repertorio delle Architetture Civili di Firenze
Web Gallery of Art
ピッティ宮殿 Palazzo Pitti
- 所在地
- イタリア共和国トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ
概要
ピッティ宮殿は、フィレンツェにある建物。アルノ川の西岸に位置し、ウフィッツィ宮殿とヴァザーリの通廊で繋がっている。
15世紀フィレンツェ建築の四大傑作の1つであるこの宮殿は、1440年頃、大商人ルカ・ピッティがフィリッポ・ブルネッレスキに設計を依頼し、1466年に完成した。1549年、メディチ家のコジモ1世・デ・メディチが、エレオノーラ・ディ・トレドのために買い取り、それ以来、増改築を重ねて現在の姿になった。
所蔵品
パラティーナ美術館 Galleria Palatina
別名、ピッティ美術館。
衣装博物館 Museo della Moda e del Costume
外部リンク
ウルビーノ公宮殿 Palazzo Ducale di Urbino
- 所在地
- イタリア共和国マルケ州ペーザロ・エ・ウルビーノ県ウルビーノ
概要
ウルビーノ公宮殿は、ウルビーノにある建物。2つの細い円塔に挟まれた上下に重なる開廊のあるファサードが特徴。
寝室
小書斎 Studiolo
マルケ国立美術館 Galleria nazionale delle Marche
公式サイト
Galleria Nazionale delle Marche
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
Cultura Italia
Bacchiocca
Crosio Roberto_dominio
Flickr
Flickr
Flickriver
Google Maps
Il Rinascimento a Urbino
Italica
Panoramio
Pinterest
Studiolo Urbino
Wikipedia
モンテ・ジョルダーノ宮殿 Palazzi di Monte Giordano
- 所在地
- イタリア共和国ラツィオ州ローマ県ローマ
- 地区
- ポンテ
概要
モンテ・ジョルダーノ宮殿は、ローマにある建物。
モンテ・ジョルダーノ
モンテ・ジョルダーノとは、パリオーネ通りとテヴェレ川の間の小さな丘のことである。中世に入るとリアーノ領主ジョヴァンニ・ロンチオーネがここに要塞を建て、1242年~1262年の間に徐々にオルシーニ家がこの辺りの唯一の所有者となり始め、1286年から建設も始められた。その名称はたぶん、ニコラウス3世のきょうだいジョルダーノ・オルシーニ枢機卿からか、1339年にローマ元老院議員を務めたジョルダーノ・オルシーニから付けられた。ユダヤ人居住区の端にある、オルシーニ家のこの飛び領地は、ダンテ・アリギエーリの『神曲』地獄篇18章30~33節で引用されている。
建築物群
14世紀にオルシーニ家が相当な大きさの防備力のある複合の建物を建てる。分家のブラッチャーノ系、モンテロトンド系、ピティリアーノ系が交差していた、現在のガブリエッリ通りがおそらく入口であった。このいくつかの建物はしかし、オルシーニ家の一族が住まうことは少なく、特定の人々に賃貸していた。
カリストゥス3世は1455年4月8日に行った教皇即位式でここから出発した。
15世紀終わり、建物の最も古い部分が崩れてしまい、アトリウムが石その他の落下物で覆われてしまう。ナポリ王国における諸侯の陰謀でのヴィルジーニオ・オルシーニの立場が原因で、1485年11月30日から12月1日にかけての夜にモンテ・ジョルダーノの家々が燃やされた。さらに、教皇アレクサンデル6世の死後、1503年8月20日にミケーレ・ダ・コレーリア率いるチェーザレ・ボルジア軍に略奪され、放火される。
16世紀後半、フランチオット・オルシーニとそのモンテロトンド系、ブラッチャーノ系の武将アレッサンドロ・オルシーニにより、建物群を引き離そうとする動きが起こる。
1688年にフラヴィオ・オルシーニが分家の建物、ブラッチャーノ公宮殿とピティリアーノ伯宮殿とモンテロトンド領主宮殿を兄弟たちから強制的に買い取って、拡張した。
ブラッチャーノ公宮殿
ブラッチャーノ領主たちの建物は今日のモンテ・ジョルダーノ通りに突き出して建設された。
所有者、居住者
おそらくエレーナ・オルシーニから息子ルドヴィーコ・ミリオラーティが相続し、妻アドリアーナ・デル・ミラと共に居住。1489年頃夫が亡くなるも住み続け、ロドリゴ・ボルジア枢機卿の子供たち、チェーザレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジアらを引き取る。チェーザレ・ボルジアはペルージア大学に入学するまでの1年間、ルクレツィア・ボルジアは1486年6月頃から1493年まで居住していた。
イッポーリト・デステのローマの代理官事務所の1つとなった邸宅があり、ベルナルド・タッソーやその息子トルクワト・タッソーをよく招いた。1572年12月2日にその宮殿にて枢機卿は亡くなり、ミトラを被せられ紫の祭服を着せられて、翌日サンタ・カテリーナ・デイ・フナーリ教会に移されるまで、主室に遺体が横たえられた。
1574年、ブラッチャーノ公パオロ・ジョルダーノ・オルシーニとイザベッラ・ロモーラ・デ・メディチ夫妻がフィレンツェからこちらに移り住んだ。
1888年プラチード・ガブリエッリがタヴェルナ伯爵に売却。1923年から半世紀以上、ジュスティーノ・フォルトゥナート南部学会図書館が所有。
塔と噴水
モンテ・ジョルダーノ通りの門には関係者以外は立ち入り禁止のため柵があり、そこから見える18世紀に要塞を宮殿として建て替えた中庭には、豪華な噴水、中世風の塔がある。噴水はアントーニオ・カゾーニによる17世紀バロックの作品で、オルシーニ家の熊も付けられていたが、現在は壁の上に移動されている。塔は、テヴェレ川にかかる現在のウンベルト1世橋のたもとにも建っていたようである。
別表記
タヴェルナ・モンテ・ジョルダーノ、タベルナ宮殿、Palazzo di Monte Giordano、Palazzo sul Monte Giordano、Palazzo Orsini Taverna
外部リンク
ボルジア解体新書
Cepolina Photo
Google Books - The Fountains of Rome
Google Maps
RomaSegreta.it
STEFANINA ALDOBRANDINI
Wikipedia - Monte Giordano
記載日
2006年7月24日
更新日
2023年6月6日