ネリ・ピッティ Neri Pitti
- 生没
- 1???年~1374年
- 父
- ブオナッコルソ・ピッティ
- 母
- ジョヴァンナ・デリ・インファンガーティ
- 妻
- コッラディーナ・ストロッツィ
- 子
- ピエトロ・ピッティ
ルイジ・ピッティ
フランチェスコ・ピッティ
ブオナッコルソ・ピッティ
概要
ネリ・ピッティは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
フランチェスコ・ピッティ Francesco Pitti
- 父
- ネリ・ピッティ
- 母
- コッラディーナ・ストロッツィ
- 妻
- フランチェスカ・ビリオッティ
- 子
- ジャンノッツォ・ピッティ
概要
フランチェスコ・ピッティは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ブオナッコルソ・ピッティ Buonaccorso Pitti
- 生没
- 1354年4月25日~1432年8月5日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ネリ・ピッティ
- 母
- コッラディーナ・ストロッツィ
- 妻
- フランチェスカ・デリ・アルビッツィ
- 子
- ルカ・ピッティ
ロベルト・ピッティ
コッラディーナ・ピッティ
マッダレーナ・ピッティ
フランチェスコ・ピッティ
プリマヴェーラ・ピッティ
ネリ・ピッティ
概要
ブオナッコルソ・ピッティは、14世紀から15世紀のイタリア出身の男性、年代記作者。
著作
『リコルディ』
年表
別表記
ブォナッコルソ、Bonaccorso Pitti
外部リンク
Google Books
Google Books
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
ジャンノッツォ・ピッティ Giannozzo Pitti
- 生没
- 1402年1月6日~1478年4月13日
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- フランチェスコ・ピッティ
- 母
- フランチェスカ・ビリオッティ
- 妻
- フランチェスカ
コスタンツァ・コルビネッリ - 子
- チオーネ・ピッティ
アルフォンソ・ピッティ
ジョヴァンニ・ピッティ
バスティアーノ・ピッティ
概要
ジャンノッツォ・ピッティは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1466年1月24日
ヤコポ・ピッティとビーチェ・スピネッリの結婚式に参列。
1466年5月27日
ルカ・ピッティを指導者とし、ジャンノッツォ・ピッティ、Manno Temperani、アニョーロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、未だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。
別表記
ジャノッツォ・ピッティ、Giovannozzo Pitti
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルカ・ピッティ Luca Pitti
- 生没
- 1395年6月1日~1473年3月10日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ブオナッコルソ・ピッティ
- 母
- フランチェスカ・デリ・アルビッツィ
- 妻
- フィオレッタ・マキアヴェッリ
マリーア・デ・バルディ
カテリーナ・サッソーリ - 子
- フランチェスカ・ピッティ
ブオナッコルソ・ピッティ
ピエロ・ピッティ
バルトロメオ・ピッティ
ヤコポ・ピッティ
ルクレツィア・ピッティ
概要
ルカ・ピッティは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1448年7月~8月、1453年11月~12月、1458年7月~8月
年表
1398年
フィレンツェにて、生(1394年、1398年)。
1418年
フィオレッタ・マキアヴェッリと結婚。
1447年
マリーア・デ・バルディと結婚。
1452年
カテリーナ・サッソーリと結婚。
1450年3月
フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソ、ネリ・カッポーニ、ディエティサルヴィ・ネローニ、ルカ・ピッティの4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。
1452年7月14日
対アルフォンソ5世・デ・アラゴン戦のため、ジャンノッツォ・パンドルフィーニ、ルカ・ピッティ、ピエロ・ルチェッライ、ベルナルド・リドルフィらを委員とする新十人委員会を編成。さらに1452年8月、この委員の任期を5年間に延長。
1453年11月5日
イタリア諸国間の和平が実現しない状況に対処すべく、ルカ・ピッティ、コジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョロ・アッチャイウオリらを委員とする新十人委員会が編成され、委員の任期は5年と定められる。
このバーリア、アッコピアトーリのシニョーリアなど主要官職選出の大権の延長を承認。
1458年7月2日~7月31日
メディチ家に対抗心を燃やしながらもコジモ・イル・ヴェッキオの威勢に服しているルカ・ピッティは、1458年7月~8月の正義の旗手に就くや直ちに共和政の事実上の変改を試み続けるがジローラモ・マキャヴェリらの強い反対で斥けられる。
この間、かねてからコジモ・イル・ヴェッキオの莫大な財政的支援を受けてきたサン・マルコ修道院のアントニーノ・ピエロッツィは、敢然として自ら筆を取って国法遵守誓約違反及び共和政変改を非難する文書を書き、主要教会に張り出す。
1458年8月3日~8月4日
ルカ・ピッティ、軍を動員してジローラモ・マキャヴェリ及びピエロ・マキャヴェリ兄弟らを逮捕させる。
彼らを拷問にかけて体制転覆の陰謀を自白させ、その陰謀などを利用しパルラメント開催の雰囲気を作り出す。
1458年8月9日
ルカ・ピッティ、ファエンツァの君主アストッレ2世・マンフレディにその騎兵、歩兵を率いて市内を固めさせる。
1458年8月11日
武装兵が市内を固めシニョーリア広場を取り囲む中でパルラメント開催:ここでシニョーリア、250名からなる6ヶ月任期のバーリアの設置、シニョーリア及び治安八人委員会の選出方法の伝統的抽選の廃止、アッコピアトーリによる直接指名への変更、バーリア的な権限を有する永続的機関Consiglio de' Cento(百人委員会)の設置、を含む法案を、ルカ・ピッティの提案通り強引に万場一致で承認させる。
これにより1282年以来の共和政、事実上終焉。以後、表見上の共和政の下でのメディチ家による独裁的統治、曲折を経ながらも着実に進展。
1466年5月27日
コジモ・イル・ヴェッキオ死後もしばらくはピエロ・イル・ゴットーソの最強の支持者だったものの次第にメディチ家を離れ、その権力、威勢の限定、縮小と、共和政の復活を唱えてきたルカ・ピッティを指導者とし、ジャンノッツォ・ピッティ、Manno Temperani、アニョロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニらメディチ支配下で指導的地位を占めてきた有力者を中心とする約400名の市民、共和政の再建、維持に全力を尽くして当たるとの誓約を行う。但しこの誓約、今だピエロ・イル・ゴットーソの追放などは唱えず。
1466年8月
ルカ・ピッティの陰謀:新ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからの、父、故フランチェスコ1世・スフォルツァ時代以来の定期支援金の求めに応じようとするピエロ・イル・ゴットーソと対立したのを契機にメディチ支配の一掃を企図するようになったルカ・ピッティを中心とするアニョロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニ、ニッコロ・ソデリーニら、病弱なピエロ・イル・ゴットーソの行動力の欠如と彼の強大な支援者フランチェスコ1世・スフォルツァの死を利して一気にピエロ・イル・ゴットーソを殺害しメディチ支配を打倒することを狙う。このためボルソ・デステに密かに支援を求める。
1466年8月27日
ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオから反乱とエステ軍の領内侵入を通報する書状を受けたピエロ・イル・ゴットーソ、療養中だったカレッジの別荘から急ぎフィレンツェ市内に向かう。
市内に入ったピエロ・イル・ゴットーソ、直ちにメディチ派を集め、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオの書状を示して反乱と外敵の侵入を告げ、さらに書状をシニョーリアに運ばせ直ちに防衛体制を取らせる。
自らも兵を集めながらもピエロ・イル・ゴットーソ、ルカ・ピッティに交渉を呼びかける。反乱の早期の発覚と予想に反してのピエロ・イル・ゴットーソの迅速果敢な対応に機先を制された首謀者たち、呼びかけに応じざるを得なくなる。
交渉に現われた老ルカ・ピッティは、ピエロ・イル・ゴットーソと和解。しかし帰宅後ニッコロ・ソデリーニら陰謀仲間に説得され、すぐ翻心。
1466年8月29日
シニョーリアの選出結果を見たルカ・ピッティ、改めてピエロ・イル・ゴットーソと和解し、屈服。
1466年9月11日
バーリア、ピッティ陰謀事件の関係者の処罰を決める:アニョロ・アッチャイウオリは息子たちと共にバーリ近郊バルレッタへ、ディエティサルヴィ・ネローニは兄弟と共にシチリアへ、ニッコロ・ソデリーニは息子と共にフランス・プロヴァンスへ、それぞれ20年追放する他、関係者をことごとく追放や罰金刑に処する。しかし中心メンバーのルカ・ピッティのみは処罰せず放置。
以後ルカ・ピッティ、各派から軽蔑され、事実上の陰棲を余儀なくされる。
1467年5月10日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍、エルコーレ1世・デステ及びアレッサンドロ・スフォルツァらの軍も加え、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョロ・アッチャイウオリ、ディエティサルヴィ・ネローニらルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。
1473年3月10日
死(1472年)。
別表記
ルーカ・ピッティ
関連項目
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
フランチェスカ・ピッティ Francesca Pitti
- 生没
- 14??年~1477年9月23日
- 没地
- ローマ
- 父
- ルカ・ピッティ
- 夫
- ジョヴァンニ・トルナブオーニ
- 子
- ロレンツォ・トルナブオーニ
アントーニオ・トルナブオーニ
概要
フランチェスカ・ピッティは、15世紀のイタリアの女性。
年表
外部リンク
ブオナッコルソ・ピッティ Buonaccorso Pitti
- 生没
- 1419年~
- 父
- ルカ・ピッティ
- 母
- フィオレッタ・マキアヴェッリ
- 妻
- フランチェスカ・スコラーリ
- 子
- ロレンツォ・ピッティ
ジョヴァンニ・ピッティ
概要
ブオナッコルソ・ピッティは、15世紀頃のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1487年3月~4月
外部リンク
ピエロ・ピッティ Piero Pitti
- 生没
- 14??年~
- 父
- ルカ・ピッティ
- 子
- アントーニオ・ピッティ
概要
ピエロ・ピッティは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
外部リンク
参考文献
ヤコポ・ピッティ Jacopo Pitti
- 生没
- 1449年~
- 父
- ルカ・ピッティ
- 母
- マリーア・デ・バルディ
- 妻
- ビーチェ・スピネッリ
概要
ヤコポ・ピッティは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
別表記
ジャーコポ
外部リンク
Google Books - The Spinelli of Florence fortunes
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
ルクレツィア・ピッティ Lucrezia Pitti
- 生没
- 14??年~
- 父
- ルカ・ピッティ
- 夫
- ピエロ・トルナブオーニ
概要
ルクレツィア・ピッティは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1475年7月22日
ピエロ・トルナブオーニと結婚。
外部リンク
ロレンツォ・ピッティ Lorenzo Pitti
- 父
- ブオナッコルソ・ピッティ
- 子
- ブオナッコルソ・ピッティ
フィオレッタ・ピッティ
概要
ロレンツォ・ピッティは、15世紀頃のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1515年3月~4月
外部リンク
アントーニオ・ピッティ Antonio Pitti
- 生没
- 1???年~15??年
- 父
- ピエロ・ピッティ
- 妻
- フランチェスカ・マルテッリ
概要
アントーニオ・ピッティは、15~16世紀頃のイタリアの男性。
年表
別表記
Antonio di Piero di Luca Pitti
外部リンク
ブオナッコルソ・ピッティ Buonaccorso Pitti
- 父
- ロレンツォ・ピッティ
概要
ブオナッコルソ・ピッティは、16世紀頃のイタリアの男性。
在職
プリオーレ 1528年
外部リンク
フィオレッタ・ピッティ Fioretta Pitti
- 生没
- 1???年~15??年
- 父
- ロレンツォ・ピッティ
- 夫
- ドメニコ・マルテッリ
- 子
- アゴスティーノ・マルテッリ
アントーニオ・マルテッリ
ニッコロ・マルテッリ
概要
フィオレッタ・ピッティは、16世紀頃のイタリアの女性。
年表
1513年
アントーニオ・マルテッリを出産。
外部リンク
ルイジ・ピッティ Luigi Pitti
概要
ルイジ・ピッティは、15世紀頃のイタリアの男性、ルカ・ピッティの弟?。娘婿にルイジ・スカランピがいる。
1465年3月22日に亡くなったルドヴィーコ・スカランピ枢機卿がフィレンツェに残した莫大な財産を、教会財産であるとして教皇パウルス2世は引渡しを要求するが、ルカ・ピッティは義理の甥ルイジ・スカランピを擁護してこれを拒否。最終的には教皇に屈する。
別表記
Amerigo di messer Luca Pitti
外部リンク
Google Books
Google Books
Wikisource
参考文献
『フィレンツェ史』
ピエロ・ピッティ Piero Pitti
- 生没
- 14??年~15??年
- 子
- フランチェスコ・ピッティ
概要
ピエロ・ピッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1506年
息子フランチェスコ・ピッティとクラリーチェ・デ・メディチを婚約させた嫌疑で四十人法廷に審理される。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
フランチェスコ・ピッティ Francesco Pitti
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ピエロ・ピッティ
概要
フランチェスコ・ピッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
マリーア・ピッティ Maria Pitti
- 生没
- 14??年~1467年10月10日
- 父
- ルカ・ピッティ
- 夫
- アントーニオ・デリ・アルビッツィ
- 子
- ルカ・デリ・アルビッツィ
マリエッタ・デリ・アルビッツィ
概要
マリーア・ピッティは、15世紀のイタリアの女性。
年表
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2021年11月28日