ミケーレ・ディ・ランド Michele di Lando
- 生没
- 1343年頃~?
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ルッカ
概要
ミケーレ・ディ・ランドは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
梳毛(そもう)工で、正義の旗手に任命された人物。
小手工業者と下層労働者の市政参加を保証するために、3つのアルテを新設。しかしチオンピの過激化に恐れをなした穏健派の中小市民層の離反と敵対によって、反乱はたちまち鎮圧されてしまう。
在職
正義の旗手 1378年9月~10月
関連項目
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『ルネッサンス巷談集』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
ニッコロ・ダ・ウッツァーノ Niccolò da Uzzano
- 生没
- 1359年~1431年
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
概要
ニッコロ・ダ・ウッツァーノは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1421年3月~4月
別表記
ニッコロ・ダ・ウッザーノ、ニコロ・ウザーノ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『フィレンツェ史』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ベルナルド・グァダーニ Bernardo Guadagni
- 生没
- 1367年~1434年9月
概要
ベルナルド・グァダーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1433年9月~10月
年表
1433年9月初め
1433年4月26日、フェッラーラでフィレンツェ使節として和を結んだコジモ・イル・ヴェッキオは、ムジェッロで休養中、シニョーリアから緊急召喚状を受け取る。
着実に人望を深め威信を高めながら政治力を増してきたコジモ・イル・ヴェッキオに警戒を強めていたリナルド・デリ・アルビッツィは、強い反メディチ感情を抱くベルナルド・グァダーニを正義の旗手に就任させた上、彼と6名の反メディチ派プリオーレと共に、1433年4月のフェッラーラでの和への市内各層の不満を、この和の調印者コジモ・イル・ヴェッキオに転嫁することによって一挙にメディチ一族を排斥する企図の実行に立つ。
1433年9月4日
政庁宮に出頭したコジモ・イル・ヴェッキオと面会、3日後に重大決定と通告する。
1433年9月9日
シニョーリアは、シニョーリア広場にパルラメントを招集し、メディチ派の参加を排しながら、1433年9月7日のシニョーリアの決定、及びプリオーレにより選出される200名からなる国制改革のバーリア(非常大権委員会)の設置を承認。
別表記
グアダーニ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ニッコロ・コッキ Niccolò Cocchi
概要
ニッコロ・コッキは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1434年9月~10月、1438年1月~2月
参考文献
『フィレンツェ史』
バルトロメオ・オルランディーニ Bartolomeo Orlandini
概要
バルトロメオ・オルランディーニは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1438年5月~6月、1441年9月~10月
参考文献
『フィレンツェ史』
ジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ Giovanni d'Amerigo Benci
- 生没
- 1394年~1455年7月
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- アメリゴ・ディ・シモーネ・ベンチ
- 妻
- ジネヴラ・ペルッツィ
- 子
- ダミアーノ・ベンチ
アメリゴ・ベンチ
フランチェスコ・ベンチ
アレッサンドラ・ベンチ
マッダレーナ・ベンチ
概要
ジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチは、コジモ・イル・ヴェッキオの最も信頼するメディチ銀行総支配人。
在職
メディチ銀行総支配人 1435年~1455年
後任:ジョヴァンニ・デ・メディチ
正義の旗手 1443年11月~12月
年表
1431年
ジネヴラ・ペルッツィと結婚。
1435年
メディチ銀行再編成。フランチェスコ・サルターティと共に総支配人となる。以後20年、コジモ・イル・ヴェッキオの統率の下で興隆を続ける。
1439年9月~10月
フィレンツェ共和国のプリオーレを務める。
1443年
メディチ銀行総支配人フランチェスコ・サルターティ死。単独の支配人となり、コジモ・イル・ヴェッキオの信頼を得て銀行の発展に尽力。
1443年11月~12月
正義の旗手を務める。
1444年頃
妻ジネヴラ・ペルッツィ、死。少なくとも8人の子を出産。
1455年7月
死。
コジモ・イル・ヴェッキオ、次子ジョヴァンニ・デ・メディチをメディチ銀行の総支配人とする。
メディチ銀行の隆盛この頃をもって終わる。
外部リンク
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Treccani
参考文献
『逆光のメディチ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
ベルナルド・ジューニ Bernardo Giugni
- 生没
- 1396年11月19日~1466年7月5日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- フィリッポ・ジューニ
- 母
- アントーニア・サピティ
概要
ベルナルド・ジューニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1451年5月~6月
年表
1396年11月19日
フィレンツェのサンタ・クローチェ地区にて、生。
1466年3月8日
フランチェスコ1世・スフォルツァが没し、ミラノで政変が起こる可能性が危惧されたため、ルイジ・グイッチャルディーニと共にミラノへ派遣される。無事に新ミラノ公となったガレアッツォ・マリーア・スフォルツァと外交折衝し、ミラノ公国の最も安定した収入源を提供することを担保に貸付金を送るよう要請する書簡をピエロ・イル・ゴットーソに届ける。
1466年6月17日
フィレンツェ到着。
1466年7月5日
フィレンツェにて、死。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
アニョーロ・デッラ・ストゥファ Agnolo della Stufa
- 生没
- 1407年頃~1481年10月1日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ロレンツォ・ディ・アンドレア・デッラ・ストゥファ
- 母
- シモーナ・ディ・アンジェロ・スピーニ
- 妻
- マルゲリータ・リドルフィ
- 子
- クレオフェ・デッラ・ストゥファ
バルトロメア・デッラ・ストゥファ
ルイジ・デッラ・ストゥファ
パンドルフォ・デッラ・ストゥファ
シジスモンド・デッラ・ストゥファ
概要
アニョーロ・デッラ・ストゥファは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
十人委員会 1435年
プリオーレ 1446年
プラートのポデスタ
コルトーナのカピターノ 1457年
正義の旗手 1455年1月~2月、1471年1月~2月
アッコピアトーリ 1458年
年表
1427年
父ロレンツォ・ディ・アンドレア・デッラ・ストゥファが、4千4百15フィオリーノの課税所得を申告。
1428年
羊毛業組合に加入。
1433年9月15日
コジモ・イル・ヴェッキオが拘留されている際、シニョーリアから「不利益を被ることなく」彼と面会する許可を得る。
1433年10月2日
追放処分を受けパドヴァへ出発直前のコジモ・イル・ヴェッキオにより、他の人物と共に様々な業務遂行のための代理人に指名される。
1443年7月23日
フィレンツェとヴェネツィアの同盟者アンニーバレ1世・ベンティヴォーリオのもと、ボローニャに派遣される。
1446年
マルゲリータ・リドルフィと結婚。5人の子供をもうける。
1449年12月19日
フィレンツェとボローニャに仕える傭兵隊長アストッレ2世・マンフレディのもと、ファエンツァに派遣される。
1451年
ボローニャに派遣され、サンテ・ベンティヴォーリオとアンニーバレ1世・ベンティヴォーリオの傭兵契約の再確認について交渉。
1451年12月
同盟が変わったため、「ヴェネツィア共和国大使たちがフィレンツェの利益と平穏に反する事柄について協議するのではないかと懸念されたため、必要に応じて行動する権限を与えられてボローニャに派遣される。」
1452年5月23日
アストッレ2世・マンフレディの傭兵契約に関して、ボローニャに派遣される。
1452年7月20日
ロマーニャにあるシジスモンド・マラテスタの陣地に派遣され、フィレンツェ共和国とミラノ公の代表として「傭兵契約の条項」について交渉。
1453年5月
ヴェネツィアがミラノに対して、ナポリがフィレンツェに対して再び敵対行為を開始した後、シジスモンド・マラテスタのもとに派遣され、ベルナルド・デ・メディチとの合意通り、トスカーナへの進軍を促す。
1453年
フィレンツェ共和国軍のコッミッサーリオに任命される。
1453年10月
シジスモンド・マラテスタ軍が占領するヴァダに赴き、包囲戦中の彼の働きに対して共和国を代表して祝辞を述べる。
1458年
年齢のために引退を決意した父ロレンツォ・ディ・アンドレア・デッラ・ストゥファから、アッコピアトーリの職務を引き継ぐ。
1467年5月
ヴェネツィア共和国が支援するフィレンツェ被追放者軍がトスカーナへ進軍。
ボローニャに派遣され、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国が結成した同盟軍がボローニャ周辺に駐留できるよう、教皇特使アンジェロ・カプラーニカと交渉。
1467年
同盟軍のコッミッサーリオに任命される。
1468年
フィレンツェに帰還。
1469年12月2日
ピエロ・イル・ゴットーソ、死。
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛てに手紙をしたためる。エステ家が追放者たちを支援し、フィレンツェで政変を企てる可能性に備えて、適切な対策を講じるよう促す。
1470年4月28日
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの息子の洗礼式に参加し、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国の同盟を再確認するため、ミラノへ向け、フィレンツェ出発。
1470年8月12日
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、金拍車騎士に叙任される。
1471年1月~2月
正義の旗手。ピサのカピターノに任命されていたが辞退。
1471年9月23日
新教皇シクストゥス4世に表敬する使節団員として、フィレンツェ出発。
1472年4月30日
ヴォルテッラ反乱制圧のため、百人委員会によって選ばれた20人の市民からなるバーリアに選ばれる。
1476年4月19日
フィレンツェにて、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛書簡をしたためる。ルイジ・プルチを非常に奇妙な使者と評している。
1477年
フィレンツェ共和国へのフィヴィッツァーノの服従条件を決定するため、ルニジャーナのコッミッサーリオに任命される。
1480年1月4日
この時点で、10名からなるバーリアの一員。
ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛てに手紙をしたためる。
1480年4月19日
バーリアによって創設された七十人評議会に選ばれる。
1480年5月
特別諮問八人会議議員に選ばれる。
1480年10月
在職。
1481年10月1日
フィレンツェにて、死。
コムーネが葬儀を手配。
サン・ロレンツォ教会に埋葬される。
別表記
アニョロ・デッラ・ストゥファ、アニョーロ・デッラ・ストゥーファ、Angelo della Stufa
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
シジスモンド・デッラ・ストゥファ Sigismondo della Stufa
- 生没
- 1452年~1490年
- 父
- アニョーロ・デッラ・ストゥファ
- 母
- マルゲリータ・リドルフィ
概要
シジスモンド・デッラ・ストゥファは、15世紀頃のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
ピサのポデスタ 1475年
正義の旗手 1487年1月~2月
年表
1463年頃
アンジェロ・ポリツィアーノを秘書に雇う。
1473年7月14日
婚約者アルビエーラ・デリ・アルビッツィ、死(1476年)。
1473年
故アルビエーラ・デリ・アルビッツィの悲歌を執筆。
1478年
治安八人委員会の一員として、治安八人委員会の刑事事件における権限を強化し、民事事件における権限は規制する法令を立案。ジスモンディーナ法と呼ばれる。
1478年11月17日
ジスモンディーナ法が公布される。
別表記
ジスモンド・デッラ・ストゥーファ、Gismondo della Stufa
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
ロベルト・リオーニ Roberto Lioni
概要
ロベルト・リオーニは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1466年9月~10月
関連項目
参考文献
『フィレンツェ史』
ベルトルド・コルシーニ Bertoldo Corsini
- 生没
- 1415年11月28日~1497年12月19日
- 父
- ゲラルド・コルシーニ
- 子
- ピエロ・コルシーニ
ルカ・コルシーニ
カミッラ・コルシーニ
概要
ベルトルド・コルシーニは、15世紀頃のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1467年11月~12月
外部リンク
Internet Archive - Genealogia e storia della famiglia Corsini descritta da Luigi Passerini
Treccani
フランチェスコ・ゲラルディ Francesco Gherardi
概要
フランチェスコ・ゲラルディは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1494年9月~10月、1499年5月~6月
参考文献
『フィレンツェ史』
フランチェスコ・デッロ・スカルファ Francesco Sarfa
概要
フランチェスコ・デッロ・スカルファは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1494年11月~12月
別表記
Scarfi
参考文献
『フィレンツェ史』
ベルナルド・デル・ネロ Bernardo del Nero
- 生没
- 1426年~1497年
- 父
- ネロ・デル・ネロ
概要
ベルナルド・デル・ネロは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1497年3月~4月
年表
1497年3~4月
フランチェスコ・ヴァローリに代わり、メディチ派(=Bigi)で反ジローラモ・サヴォナローラ感情の極めて強い彼が正義の旗手に選出される。
1497年8月5日
メディチ派の陰謀。メディチ家復辟の陰謀が発覚し、官職の指導的地位を占める有力者を含む多数の者が逮捕される。
陰謀の首謀者として死刑を宣告されたベルナルド・デル・ネロ、ニッコロ・リドルフィ、ジャンノッツォ・プッチ、ロレンツォ・トルナブオーニ、ジョヴァンニ・カンビの5名、1495年3月19日の法によりコンシーリオ・マッジョーレへ提訴。
緊迫した険悪な空気が広まる中で市民の陰謀への恐怖と首謀者への憎悪募り、その提訴権の否認、反逆者への復讐の声が高まる。
1497年8月17日
シニョーリアは、プラティカを開催し対策を諮問。プラティカで首謀者の提訴権につき賛否両論対立。
1497年8月21日
フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。
別表記
ベルナルド・デル・ネッロ、Bernardo del Nero di Filippo del Nero
外部リンク
Treccani
Treccani
Treccani
Wikipedia
参考文献
『メディチ家の人びと』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス精神の深層』
ピエロ・デリ・アルベルティ Piero degli Alberti
概要
ピエロ・デリ・アルベルティは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家、アッラビアーティの代表的人物の1人。
在職
正義の旗手 1497年5月~6月
年表
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ドメニコ・バルトリ Domenico Bartoli
概要
ドメニコ・バルトリは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家、ジローラモ・サヴォナローラに忠実な人物。
在職
正義の旗手 1497年7月~8月
年表
1497年7月1日~8月
シニョーリアの選出でジローラモ・サヴォナローラ派が多数を占め、正義の旗手に選出される。
以後1498年2月末まで親ジローラモ・サヴォナローラ派が多数を占めるシニョーリアが続き、教皇庁にジローラモ・サヴォナローラ破門の撤回を求め続ける。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエロ・ポポレスキ Piero Popoleschi
概要
ピエロ・ポポレスキは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1498年3月~4月
年表
1498年2月26日
3月~4月期の正義の旗手にジローラモ・サヴォナローラに強い敵意を抱く彼が選出され、新シニョーリアの選出で反ジローラモ・サヴォナローラ派が半数を占める。但しシニョーリアの決議に必要な6名にはなお1名及ばず。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
タナイ・デ・ネルリ Tanai de' Nerli
- 生没
- 1427年4月18日~1498年7月27日
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- フランチェスコ・デ・ネルリ
- 母
- ディアノーラ・マラボッティーニ
- 妻
- ジョヴァンナ・カッポーニ
- 子
- ベネデット・デ・ネルリ
ジョヴァンニ・デ・ネルリ
フランチェスコ・デ・ネルリ
フィリッポ・デ・ネルリ
ベルナルド・デ・ネルリ
ネリ・デ・ネルリ
ヤコポ・デ・ネルリ
バルトロメオ・デ・ネルリ
ピエロ・デ・ネルリ
シモーネ・デ・ネルリ
カテリーナ・デ・ネルリ
ディアノーラ・デ・ネルリ
概要
タナイ・デ・ネルリは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1472年7月~8月、1495年3月~4月
年表
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ヤコポ・ランフレディーニ Jacopo Lanfredini
- 生没
- 1429年6月18日~1487年
- 父
- オルシーノ・ランフレディーニ
- 母
- ジネヴラ・カッポーニ
- 妻
- ジネヴラ・アンティノーリ
- 子
- ランフレディーノ・ランフレディーニ
概要
ヤコポ・ランフレディーニは、15世紀頃のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1477年11月~12月
年表
1480年
フィレンツェ共和国に対する破門の赦免を請うため、教皇シクストゥス4世への使節として派遣される。使節は11人で、フランチェスコ・ソデリーニ、ルイジ・グイッチャルディーニ、ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ、ピエロ・ミネルベッティ、グイダントーニオ・ヴェスプッチ、ジーノ・カッポーニ、ドメニコ・パンドルフィーニ、アントーニオ・デ・メディチ、ヤコポ・ランフレディーニ、ピエロ・メッリーニ。
別表記
Iacopo d'Orsino Lanfredini
外部リンク
Google Books - Istoria genealogica delle famiglie nobili toscane, et vmbre
参考文献
『フィレンツェ史』
バルトロメオ・スカーラ Bartolomeo Scala
- 生没
- 1430年5月17日~1497年7月24日
- 出身
- コッレ・ディ・ヴァル・デルザ
- 没地
- フィレンツェ
概要
バルトロメオ・スカーラは、15世紀のイタリアの男性、歴史家、人文主義者、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1486年5月~6月
フィレンツェ第一書記局首席書記官
後任:マルチェッロ・ヴィルジーリオ・アドリアーニ
年表
1430年5月17日
シエナ近郊コッレ・ディ・ヴァル・デルザに生(1428年)。
別表記
バルトロメオ・スカラ、Bartolomeo della Scala
外部リンク
参考文献
『逆光のメディチ』
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネッサンス夜話』
ネロ・カンビ Nero Cambi
- 父
- ステファノ・カンビ
- 妻
- トンマーザ・デッラ・パッラ
バルトロメア・パンチァティキ - 子
- ジョヴァンニ・カンビ
ステファノ・カンビ
ランベルト・カンビ
マルコ・カンビ
ジョヴァンニ・カンビ
ステファノ・カンビ
バルトロメオ・カンビ
ランベルト・カンビ
概要
ネロ・カンビは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1488年11月~12月
年表
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
フランチェスコ・ペピ Francesco Pepi
概要
フランチェスコ・ペピは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家、法学博士、フランチェスコ・グイッチャルディーニの民法の師。
在職
正義の旗手 1500年1月~2月、1513年5月~6月
年表
1501年5月17日
フィレンツェ共和国シニョーリア宛に手紙を書く。「・・・・教皇アレクサンデル6世は、ヴァレンティノワ公チェーザレ・ボルジアにロマーニャ公爵位を帽子と剣、さらに今年の四旬節に贈与せずに部屋に保管されていた黄金の薔薇を添えて贈りました。・・・・」
1501年11月4日
「教皇アレクサンデル6世は、万霊節の時にはカタルにかかったことを理由としてサン・ピエトロ大聖堂にも礼拝堂にも姿を見せなかったが、万聖節前日の日曜日の夜には、またもや遊女や娼婦を館に呼んでおいたチェーザレ・ボルジアと共に夜半過ぎまで過ごし、ダンスやその他の楽しみに耽った」と記す。
1505年
ピエルフランチェスコ・トシンギと共に、ピサ前線への特使。
外部リンク
Google Books - Machiavelli and Empire
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
フィリッポ・ブォンデルモンティ Filippo Buondelmonti
- 生没
- 1434年8月18日~1522年
- 父
- ロレンツォ・ブォンデルモンティ
- 妻
- コンスタンツァ・パレンティ
- 子
- トンマーゾ・ブォンデルモンティ
ベネデット・ブォンデルモンティ
ロレンツォ・ブォンデルモンティ
カテリーナ・ブォンデルモンティ
概要
フィリッポ・ブォンデルモンティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1512年11月~12月
年表
1512年11月1日
アッコピアトーリの選出したシニョーリアの新プリオーレが就任し、2ヶ月任期の新正義の旗手にはバーリアによりフィリッポ・ブォンデルモンティ(1434年~1522年)が選出される。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoni、ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティ、ベネデット・デ・ネルリ、ピエロ・グイッチャルディーニ、ロレンツォ・モレッリ、ネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエロ・アラマンニ Piero Alamanni
- 生没
- 1434年~1519年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- フランチェスコ・アラマンニ
- 妻
- ?
ナンナ・カッポーニ
?
ジネヴラ・パガネッリ - 子
- ルイジ・アラマンニ
概要
ピエロ・アラマンニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ミラノ駐在フィレンツェ共和国大使。
在職
正義の旗手 1490年9月~10月、1513年3月~4月
年表
1489年7月22日
ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛てに手紙を書く。ルドヴィーコ・イル・モーロはピエロ・アラマンニに次のように話した。
レオナルド・ダ・ヴィンチ師は天才だが、全て天才がそうであるように、恐ろしいまでに疲れ知らずだ。当地ではもう何年にもなるが、父君に捧げる大型の騎馬の記念像を実現するよう任務を受けていて、提出されたデッサンは彼のヴィジョンの壮大さを窺わせる。ところが、今現在、作業は進展しておらず、レオナルド・ダ・ヴィンチの気まぐれを承知しているだけに、これはもうインスピレーションが決定的に途切れたと信じる他ない。しかし、彼のデザインは残っていることだし、計画の実現に欠けていると言えば、恐らく実行に移す手だけなので、余としては馬の像の計画を仕上げてくれるような巨匠を誰か、ロレンツォ・イル・マニーフィコが向こうの宮廷から推薦してくれればと思う。
1491年1月23日
ローマにて、ロレンツォ・イル・マニーフィコ宛て手紙を書く。
1494年7月
ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。1494年7月13日アレクサンドリアでのルドヴィーコ・イル・モーロとルイ2世・ドルレアンの会見を見たピエロ・アラマンニは、ルイ2世・ドルレアンが「小さな頭であまり脳が詰まっておりません。ルドヴィーコはすぐに出し抜くでしょう。」
別表記
Pietro Alamanni
外部リンク
Google Books - Istoria genealogica delle famiglie nobili toscane, et vmbre
Google Books
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
パオロ・ファルコニエーリ Paolo Falconieri
概要
パオロ・ファルコニエーリは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1499年1月~2月
別表記
パゴロ、Pagolo
参考文献
『フィレンツェ史』
ジョヴァキーノ・グァスコーニ Giovacchino Guasconi
- 生没
- 1438年4月30日~1521年4月8日
- 出身
- アンコーナ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ビアジオ・グァスコーニ
- 母
- ナンナ・マチンギ
- 妻
- フランチェスカ・リドルフィ
- 子
- ラッファエーレ・グァスコーニ
ナンナ・グァスコーニ
ジュリアーノ・グァスコーニ
アレッサンドラ・グァスコーニ
概要
ジョヴァキーノ・グァスコーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1499年9月~10月
別表記
Gioacchino
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ピエロ・コルシーニ Piero Corsini
- 生没
- 1441年6月1日~1499年4月25日
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ベルトルド・コルシーニ
概要
ピエロ・コルシーニは、15世紀のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1491年3月~4月
外部リンク
Internet Archive - Genealogia e storia della famiglia Corsini descritta da Luigi Passerini
Treccani
参考文献
『フィレンツェ史』
フィリッポ・コルビッツィ Filippo Corbizzi
概要
フィリッポ・コルビッツィは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1495年1月~2月
年表
1496年4月26日
反ジローラモ・サヴォナローラ・反メディチの貴族200名余が参画し、官職候補者55名の名簿が秘密裡に回覧されていることが発覚。首謀者であるフィリッポ・コルビッツィを含む3名が逮捕・拘留される。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ロレンツォ・レンツィ Lorenzo Lenzi
- 生没
- 1444年7月27日~1517年7月18日以前
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- アンフリオーネ・レンツィ
- 母
- レーナ・デッラ・ストゥファ
- 妻
- マリーア・ソデリーニ
概要
ロレンツォ・レンツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1495年7月~8月
年表
1464年
マリーア・ソデリーニと結婚(1462年)。
1499年10月12日
アラマンノ・サルヴィアーティ、フランチェスコ・グァルテロッティと共に、使節としてミラノでルイ12世と折衝し、フィレンツェがルイ12世にそのナポリ攻略のための資金と軍隊を提供する代償に彼はフィレンツェにそのピサ攻略を支援することを約定。
外部リンク
Google Books
Google Books
Treccani
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエロ・レンツィ Piero Lenzi
概要
ピエロ・レンツィは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1496年11月~12月
参考文献
『フィレンツェ史』
ニッコロ・サッケッティ Niccolò Sacchetti
- 父
- マッテオ・サッケッティ
概要
ニッコロ・サッケッティは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1502年9月~10月
参考文献
『フィレンツェ史』
フランチェスコ・タッデイ Francesco Taddei
- 父
- アントーニオ・タッデイ
- 子
- タッデオ・タッデイ
概要
フランチェスコ・タッデイは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1491年9月~10月、1502年5月~6月
年表
別表記
フランチェスコ・ダントーニオ・ディ・タッデオ、フランチェスコ・ディ・アントーニオ・タッデオ、タッデイ、Francesco d'Antonio di Taddeo、Francesco di Antonio Taddei
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ルイジ・デッラ・ストゥファ Luigi della Stufa
- 生没
- 1453年~1535年
- 妻
- Guglielmina Schianteschi
- 子
- Prinzivalle della Stufa
概要
ルイジ・デッラ・ストゥファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1515年1月~2月
年表
1502年7月
ピエロ・ソデリーニ、フランチェスコ・グァルテロッティ、ルイジ・デッラ・ストゥファ(1453年~1535年)の3名、使節としてアスティでルイ12世と会見し、そのフィレンツェ支持の意図を再確認。
1510年12月29日
ピエロ・ソデリーニ、自身の暗殺の陰謀についてコンシーリオ・マッジョーレに報告し、共和政の護持を訴える。コンシーリオ・マッジョーレは、Prinzivalle della Stufaの父ルイジ・デッラ・ストゥファに反逆罪で禁固5年の刑を宣告。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoni、ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティ、ベネデット・デ・ネルリ、ピエロ・グイッチャルディーニ、ロレンツォ・モレッリ、ネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ランフレディーノ・ランフレディーニ Lanfredino Lanfredini
- 生没
- 1456年11月11日~1520年10月20日
- 父
- ヤコポ・ランフレディーニ
- 母
- ジネヴラ・アンティノーリ
- 妻
- セルヴァッジア・トルナクインチ
フランチェスカ・バルトリーニ - 子
- ジョヴァンニ・ランフレディーニ
バルトロメオ・ランフレディーニ
概要
ランフレディーノ・ランフレディーニは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1501年11月~12月、1517年3月~4月
年表
1485年
セルヴァッジア・トルナクインチと結婚。
1500年
フランチェスカ・バルトリーニと結婚。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
タッデオ・タッデイ Taddeo Taddei
- 生没
- 1470年1月23日~1528年3月5日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- プラート
- 父
- フランチェスコ・タッデイ
概要
タッデオ・タッデイは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1523年1月~2月
年表
別表記
タッデオ・ディ・フランチェスコ・タッデイ
外部リンク
ラッファエーレ・ジローラミ Raffaele Girolami
- 生没
- 1472年3月8日~1532年11月24日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ピサ
- 父
- フランチェスコ・ジローラミ
- 母
- マッダレーナ・マッツィンギ
- 妻
- アレッサンドラ・デ・ネルリ
- 子
- フランチェスコ・ジローラミ
ツァーノビ・ジローラミ
ジュリアーノ・ジローラミ
ベルナルド・ジローラミ
マルゲリータ・ジローラミ
マッダレーナ・ジローラミ
コーザ・ジローラミ
ディアノーラ・ジローラミ
コンテッシナ・ジローラミ
概要
ラッファエーレ・ジローラミは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1530年
年表
1529年8月30日
カール5世はジェノヴァを発ちピアチェンツァに向かう。彼を追ったフィレンツェの使節ラッファエーレ・ジローラミ、ルイジ・アラマンニに対して、クレメンス7世の使節と合意の上、1529年8月24日の第一回会見の主張を繰り返す。
1529年8月17日
プラティカは、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ソデリーニ、ラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。
1530年1月3~7日
フィレンツェは、前年末マラテスタ・バリオーニから勧奨されたクレメンス7世への使節派遣問題が、プラティカでは意見が分かれたためシニョーリアによってコンシーリオ・マッジョーレの審議に付され、承認される。プラティカもこれを承認し、さらに使節にクレメンス7世との交渉権も与える。
1530年1月中旬/下旬
前年12月、軍最高司令官就任を契約しながら父アルフォンソ1世・デステのカール5世への接近、同盟策によってその契約の実行を阻まれ、ついに着任しないエルコーレ2世・デステに代えて、フィレンツェはマラテスタ・バリオーニを本人の強い意向に従い軍最高司令官に就任させる。
1530年1月下旬~3月初頭
フィレンツェで、メディチ派との嫌疑による市内有力者たちの審問ないし逮捕が、断続的に繰り返される。
1530年2月7日
使節ルイジ・ソデリーニとAndreuolo Niccolini、ボローニャから虚しく帰着。
1530年2月8日
プラティカは、平和的交渉で成果を得られる展望はないとしてクレメンス7世との和解を断念。しかしカール5世及びフィリベール・ド・シャロンとの接触は求め続ける。
1530年4月20日~5月初旬
内外の状況が緊迫の度を深める中、フィレンツェは神と信仰のみに従うべきであり、民衆は神の遣いであり、それに敵対するものは暴君であるとの声高まり、神に対する裁判でもあったジローラモ・サヴォナローラに対する恥ずべき裁判(1498年)を再審議せよとの首長が公的にもなされる。
1530年
久しぶりの目覚しい勝利をもたらしたFrancesco Ferrucciへの評価と期待、フィレンツェで一気に高まる。
1530年
市内と領外は無論領内各地との交通・通信もほぼ途絶し、物価の急騰、飢餓の深刻化、軍需品の欠乏、などにより状況が緊迫する中、市内に狼狽・絶望感、広まる。
1530年6月9日
向こう3年間、市民の金銀の所有を一切禁止し、全ての金銀を貨幣鋳造用に供出するよう命ずる布告が出される。市民は敏速かつ熱心にこれに従う。
1530年6月9日
1529年12月Ottoからボローニャにおけるクレメンス7世の側近としての言動などを説明するよう召喚されながら書面で弁明し、1530年3月諸島に叛徒と宣告されていたフランチェスコ・グイッチャルディーニが改めて叛徒として全財産の没収を宣告されたのを初めフランチェスコ・ヴェットーリ、Iacopo Tornabuoni(1472年~1543年)も同じ宣告を受ける。
1530年6月半ば
食糧の調達・配給のための特別委員会が設置されるが、飢餓はさらに深刻化し、ぬかパンと水しか得られなくなった市民は猫、鼠まで食べ始める。栄養不良と悪疫による死者はすでに日に2百名にのぼる。
1530年6月14日
フランソワ1世の2人の子息が釈放され帰国したらしいとの報が届き、自由な行動が可能となったフランソワ1世の支援が得られるとの希望が強まると共にしないに歓喜の波、一気に広がる。
1530年6月
ヴォルテッラ防衛戦でFrancesco Ferrucciは負傷。しかしヴォルテッラを死守した彼への市民の評価と期待、いっそう、高まる。
1530年7月初旬~10日
包囲を突破して活路を開く唯一の策として、ヴォルテッラを死守しているFrancesco Ferrucciが軍を率いて外から包囲軍を攻め、それに呼応して市内から市民軍を含む全軍が出撃して包囲軍を挟撃する作戦が立てられる。これを苦心の末Francesco Ferrucciに伝えると共に市民軍を拡充。
1530年7月15~18日
Francesco Ferrucci、指令通り市外から包囲軍を攻撃すべく守備隊を残してヴォルテッラを出発し、リヴォルノを経てピサに着く。
1530年7月29日
この日?、正義の旗手ラッファエーレ・ジローラミ、最後まで戦い抜く決意を披瀝すると共に市民を督励。
1530年8月
フランソワ1世の支援への期待が虚しいことを感得しつつあった市民の希望を繋ぐ唯一の存在Francesco Ferrucciの死と共に、活路を開く最後の切り札的な決死の試み、壊滅。
1530年8月6日
フランソワ1世に支援を求め続けてきたBaldassarre Carducci、もはやフィレンツェに展望はないことを痛感しながらアングレームで客死(1456年~)。
1530年8月~10月31日
メディチ派が制した新体制の中で、クレメンス7世の全権代理バッチオ・ヴァローリが事実上、支配権を握り、彼をロベルト・アッチャイウオリ、フランチェスコ・ヴェットーリ、フランチェスコ・グイッチャルディーニらが補佐。以後、彼らによりフィレンツェ市民軍九人委員会の廃止、全市民の武装解除、共和政下最後の正義の旗手、ラッファエーレ・ジローラミ、その前の正義の旗手で熱烈な共和政派のフランチェスコ・カルドゥッチら48名の共和政派の逮捕、拷問、内フランチェスコ・カルドゥッチ(1465年~)ら6名の処刑などが次々に断行される。共和政の指導者及びその下での反メディチ行為については不問とするとの和平(降伏)協定は早くも踏みにじられる。
1532年11月22~24日
ピサにて、死。
別表記
ラファエロ、Raffaello Girolami
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lost Girls』
ジョヴァンニ・コルシ Giovanni Corsi
- 生没
- 1472年~1547年7月17日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- バルド・コルシ
- 母
- フランチェスカ・テバルディ
概要
ジョヴァンニ・コルシは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1522年1月~2月
外部リンク
The Life of Marsilio Ficino by Giovanni Corsi
Treccani
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
ロレンツォ・モレッリ Lorenzo Morelli
概要
ロレンツォ・モレッリは、イタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1514年9月~10月
年表
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoni、ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティ、ベネデット・デ・ネルリ、ピエロ・グイッチャルディーニ、ロレンツォ・モレッリ、ネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。
1523年
ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロレンツォ・モレッリ、ヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライ、ロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ヤコポ・ジャンフィリアッツィ Jacopo Gianfigliazzi
- 生没
- 1477年7月16日~1549年4月25日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ
- 母
- マッダレーナ・パレンティ
- 妻
- スメラルダ・パンドルフィーニ
- 子
- ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ
ロレンツォ・ジャンフィリアッツィ
ピエルフィリッポ・ジャンフィリアッツィ
ルイジ・ジャンフィリアッツィ
概要
ヤコポ・ジャンフィリアッツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1514年11月~12月
年表
1477年7月16日
フィレンツェにて、生(1470年7月16日)。
1532年4月4日
バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、ロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ、Matteo Niccolini、Robert Pucci、パッラ・ルチェッライ、ヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Dini、ジャンフランチェスコ・リドルフィ、Giuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。
1537年1月9日
早朝、四十八人評議会召集、開催され、フランチェスコ・グイッチャルディーニらの主導によりコジモ1世・デ・メディチを、Ducaとしてではなく、カール5世によってアレッサンドロ・デ・メディチに承認された(1531年)Capo della Repubblica Fiorentinaの正統後継者として承認。同時にそのConsigliereとしてフランチェスコ・グイッチャルディーニ、フランチェスコ・ヴェットーリ、マッテオ・ストロッツィ、ロベルト・アッチャイウオリ、Matteo Niccolini、ヤコポ・ジャンフィリアッツィ、Giuliano Capponi、Raffaello de' Mediciの8名を指名。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年8月19日