アントーニオ・プッチ Antonio Pucci
- 生没
- 1350年頃~1416年以降
- 父
- プッチョ・プッチ
- 妻
- バルトロメア・デル・ジョコンド
ルチア・オルランディーニ - 子
- プッチョ・プッチ
ジョヴァンニ・プッチ
ニッコロ・プッチ
ベニンテンディ・プッチ
概要
アントーニオ・プッチは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。
年表
1384年
バルトロメア・デル・ジョコンドと結婚。
1401年
ルチア・オルランディーニと結婚。
外部リンク
プッチョ・プッチ Puccio Pucci
- 生没
- 1389年9月1日~1449年5月7日
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- アントーニオ・プッチ
- 母
- バルトロメア・デル・ジョコンド
- 子
- アントーニオ・プッチ
ディオニージオ・プッチ
概要
プッチョ・プッチは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1447年9月~10月
年表
1433年9月29日
バーリアは、メディチ家の追放を具体的に決める。メディチ派リーダーのジョヴァンニ・プッチ、プッチョ・プッチをアクイラに10年追放とする。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジョヴァンニ・プッチ Giovanni Pucci
- 父
- アントーニオ・プッチ
- 母
- バルトロメア・デル・ジョコンド
- 子
- フランチェスコ・プッチ
ヤコポ・プッチ
概要
ジョヴァンニ・プッチは、14~15世紀頃のイタリアの男性、メディチ派リーダー。
年表
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
アントーニオ・プッチ Antonio Pucci
- 生没
- 1418年3月8日~1484年11月
- 没地
- ピサ
- 父
- プッチョ・プッチ
- 母
- ナンナ・マッテイ
- 妻
- マッダレーナ・ジーニ
ピエラ・マネッティ - 子
- ルクレツィア・プッチ
ジョヴァンニ・プッチ
セルヴァッジア・プッチ
プッチョ・プッチ
アレッサンドロ・プッチ
オレッタ・プッチ
ロレンツォ・プッチ
ジャンノッツォ・プッチ
ロベルト・プッチ
ピエロ・プッチ
レーナ・プッチ
ナンニーナ・プッチ
アレッサンドラ・プッチ
概要
アントーニオ・プッチは、15世紀のイタリアの男性。
在職
正義の旗手 1463年1月~2月、1481年1月~2月
年表
別表記
エ・アントーニオ・ディ・プッチョ、e Antonio di Puccio
外部リンク
Images and identity in fifteenth-century Florence
Treccani
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『Lucretia Borgia』
プッチョ・プッチ Puccio Pucci
- 生没
- 1453年4月5日~1494年8月31日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- アントーニオ・プッチ
- 母
- マッダレーナ・ジーニ
- 妻
- ジローラマ・ファルネーゼ
概要
プッチョ・プッチは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の弁護士。
年表
1453年4月5日
フィレンツェにて、生(1460年10月)。
サン・ジョヴァンニ地区の父の家に住む。
1483年
ジローラマ・ファルネーゼと結婚。
1485年
この頃から父から受け継いだ不動産管理を、兄弟ロレンツォ・プッチとアレッサンドロ・プッチと共に共同で行う。
1492年8月11日
教皇アレクサンデル6世即位。
妻の妹ジューリア・ファルネーゼの教皇との関係から、この後すぐフィレンツェ共和国により、教皇に恭順を示すための全権大使として派遣される。
1493年春
ファエンツァのコッミッサーリオとして派遣され、アストッレ3世・マンフレディ政権を維持するためファエンツァ政府を監視。
1493年5月21日
フォルリのラヴァルディーノ要塞にて、カテリーナ・スフォルツァに謁見。
ファエンツァにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。謁見室に入ると、ヤコポ・フェオが窓台に腰掛けており、真紅の絹の上着に錦の外套を羽織り、明るい茶色の巻き毛が襟にかかっていた。カテリーナ・スフォルツァは背もたれの広い玉座に座し、白いダマスク織の絹を着て、黒い襟巻が彼女の白磁のような肌を強調。「2人だけの世界といった様子でした」。ベルナルディーノ・カルロ・フェオと跳ね回っていたフランチェスコ・スフォルツィーノ・リアリオがこけて膝と頭にけがを負い、ユダヤ人医師ラザルスに運ばれていった。
1493年5月22日
夜3刻、ファエンツァにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァは恋人ヤコポ・フェオと一緒にいられるなら全てを犠牲にするつもりである。「カテリーナ・スフォルツァ伯爵夫人はヤコポ・フェオを失うくらいなら、子供たち、友好国、財産を葬り、悪魔に魂を売り、トルコに国を売ってしまうことでしょう。」
1493年5月24日
ファエンツァにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。カテリーナ・スフォルツァを取り巻く政治状況について考察。
1493年5月25日
夜7刻、ファエンツァにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。ヤコポ・フェオのせいで陥ったカテリーナ・スフォルツァの惨めな状況。何らかの事件が不可避。
1494年1月13日
この頃か少し以前、ローマへの大使に任命される。
1494年6月16日
ローマにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。
1494年7月13日
ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。
1494年8月11日
ローマにて、ピエロ・イル・ファトゥオ宛てに手紙を書く。
1494年8月23日
この日まで、里帰りしている妻ジローラマ・ファルネーゼの実家を訪問。
ローマに帰り、病床に就く。
1494年8月29日
ペストに罹患していることが明白となったため、遺言書を作成。弟ロレンツォ・プッチとジャンノッツォ・プッチを相続人に指名。
1494年8月31日
ローマにて、死(1494年9月)。
外部リンク
Google Books - The Tigress of Forlì
the borgias ITALIA
Treccani
参考文献
『フィレンツェ史』
『Lucretia Borgia』
アレッサンドロ・プッチ Alessandro Pucci
- 生没
- 145?年~
- 父
- アントーニオ・プッチ
- 母
- マッダレーナ・ジーニ
- 妻
- シビッラ・サッセッティ
- 子
- ラッファエーレ・プッチ
フランチェスコ・プッチ
アントーニオ・プッチ
概要
アレッサンドロ・プッチは、15~16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1481年
シビッラ・サッセッティと結婚。
ジャンノッツォ・プッチ Giannozzo Pucci
- 生没
- 1460年~1497年8月21日
- 父
- アントーニオ・プッチ
- 母
- ピエラ・マネッティ
- 妻
- スメラルダ・デル・モンテ・サンタ・マリア
ルクレツィア・ビーニ
概要
ジャンノッツォ・プッチは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1482年8月
妻スメラルダ・デル・モンテ・サンタ・マリア、死。
1483年
ルクレツィア・ビーニと結婚。
1497年8月5日
メディチ派の陰謀。メディチ家復辟の陰謀が発覚し、官職の指導的地位を占める有力者を含む多数の者が逮捕される。
陰謀の首謀者として死刑を宣告されたベルナルド・デル・ネロ、ニッコロ・リドルフィ、ジャンノッツォ・プッチ、ロレンツォ・トルナブオーニ、ジョヴァンニ・カンビの5名、1495年3月19日の法によりコンシーリオ・マッジョーレへ提訴。
緊迫した険悪な空気が広まる中で市民の陰謀への恐怖と首謀者への憎悪募り、その提訴権の否認、反逆者への復讐の声が高まる。
1497年8月17日
シニョーリアは、プラティカを開催し対策を諮問。プラティカで首謀者の提訴権につき賛否両論対立。
1497年8月21日
フラテスキの指導者フランチェスコ・ヴァローリの強硬発言によって提訴権否認、処刑にまとまり、答申。夜、首謀者5名処刑される。
別表記
ジャンノッツォ・ディ・アントーニオ・プッチ、ジァノッツォ・プッチ、Giannozzo d Antonio di Puccio Pucci
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ロベルト・プッチ Roberto Pucci
- 生没
- 1464年5月29日~1547年1月17日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ローマ
- 父
- アントーニオ・プッチ
- 母
- ピエラ・マネッティ
- 妻
- ディアノーラ・レンツィ
- 子
- ジャンノッツォ・プッチ
パンドルフォ・プッチ
マリーア・プッチ
アントーニオ・プッチ
概要
ロベルト・プッチは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿 1542年6月2日~
年表
1491年12月
ディアノーラ・レンツィと結婚。
外部リンク
パンドルフォ・プッチ Pandolfo Pucci
- 生没
- 1509年11月29日~1560年1月2日
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ロベルト・プッチ
- 母
- ディアノーラ・レンツィ
- 妻
- ラウドミア・グイッチャルディーニ
カッサンドラ・ダ・ガリアーノ - 子
- オラツィオ・プッチ
ロベルト・プッチ
ディアノーラ・プッチ
ヴィルジーニア・プッチ
ポルツィア・プッチ・プッチ
エミリオ・プッチ・プッチ
アレッサンドロ・プッチ
アスカーニオ・プッチ
カッサンドラ・プッチ
概要
パンドルフォ・プッチは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1534年
ラウドミア・グイッチャルディーニと結婚(1533年)。
1543年4月18日
カッサンドラ・ダ・ガリアーノと結婚。
15??年
コジモ1世・デ・メディチの宮廷で、何らかの不道徳行為を指摘されて政界から追放される。一説には共和国制度の復活を訴えたためにコジモ1世・デ・メディチの反感を買ったとも言われる。
1559年
パウルス4世の死(1559年8月)後この頃までの間に、政界追放を根に持ち復讐するため、あるいは共和国政復活という政治イデオロギーに則ってコジモ1世・デ・メディチに対して陰謀を計画するが、露見。
1560年1月2日
絞首刑に処される。他、Stordo Cavalcantiら3名が斬首され、Bernardo Corbinelli・Iacopo Corbinelli兄弟が1560年叛徒として追放される。
外部リンク
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
エミリオ・プッチ Emilio Pucci
- 生没
- 1914年11月20日~1992年11月29日
- 子
- ラウドミア・プッチ
概要
エミリオ・プッチは、20世紀の男性。
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2021年1月20日