バルトロメオ・カラーファ Bartolomeo Carafa
- 生没
- 1???年~1362年12月7日
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- バルトロメオ・カラーファ
- 母
- テオドーラ・デル・ガウディオ
- 妻
- マビーリア
- 子
- アンドレア・カラーファ
バルトロメオ・カラーファ
ピエトロ・カラーファ
ニコラ・カラーファ
リゴーリオ・カラーファ
トンマーゾ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
マリーノ・カラーファ
ミータ・カラーファ
概要
バルトロメオ・カラーファは、13~14世紀のイタリアの男性。
外部リンク
アンドレア・カラーファ Andrea Carafa
- 父
- バルトロメオ・カラーファ
- 母
- マビーリア
- 妻
- マリーア・デ・コルナイ
- 子
- ヤコポ・カラーファ
ガレオット・カラーファ
カルロ・カラーファ
バルトロメオ・カラーファ
ピエトロ・カラーファ
ロレンツォ・カラーファ
ニッコロ・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
ヴェリテッラ・カラーファ
アンドリエッラ・カラーファ
概要
アンドレア・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
トンマーゾ・カラーファ Tommaso Carafa
- 父
- バルトロメオ・カラーファ
- 母
- マビーリア
- 子
-
ジョヴァンニ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
概要
トンマーゾ・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・カラーファ Jacopo Carafa
- 父
- アンドレア・カラーファ
- 母
- マリーア・デ・コルナイ
- 妻
- チェッカレッラ・カンテルモ
- 子
- オノフリオ・カラーファ
ピエトロ・カラーファ
概要
ヤコポ・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ジョヴァンニ・カラーファ Giovanni Carafa
- 父
- トンマーゾ・カラーファ
- 妻
- マリエッラ・マリスカルコ
- 子
- アントーニオ・カラーファ
グレッロ・カラーファ
ニコラ・カラーファ
トンマーゾ・カラーファ
概要
ジョヴァンニ・カラーファは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
オノフリオ・カラーファ Onofrio Carafa
- 生没
- 1???年~14??年
- 父
- ヤコポ・カラーファ
- 母
- チェッカレッラ・カンテルモ
- 妻
- カテリーナ・カラーファ
- 子
- ヤコポ・カラーファ
概要
オノフリオ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
アントーニオ・カラーファ Antonio Carafa
- 生没
- 1373年以前~1437年10月10日
- 父
- ジョヴァンニ・カラーファ
- 母
- マリエッラ・マリスカルコ
- 妻
- カテリーナ・ファラファッラ
- 子
- カルロ・カラーファ
フランチェスコ・カラーファ
トンマーゾ・カラーファ
アントーニオ・カラーファ
グレッロ・カラーファ
ジャンバッティスタ・カラーファ
ディオメーデ・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
イサベッラ・カラーファ
概要
アントーニオ・カラーファは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
トンマーゾ・カラーファ Tommaso Carafa
- 生没
- 13??年~14??年
- 父
- ジョヴァンニ・カラーファ
- 母
- マリエッラ・マリスカルコ
- 妻
- サンチャ・ダクイーノ
- 子
- ジャナントーニオ・カラーファ
パスクアーレ・カラーファ
ドメニコ・カラーファ
アントーニオ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
ファブリツィオ・カラーファ
概要
トンマーゾ・カラーファは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ヤコポ・カラーファ Jacopo Carafa
- 生没
- 1???年~1489年6月8日
- 父
- オノフリオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・カラーファ
- 妻
- アントネッラ・ディ・モリーゼ
- 子
- ヴィンチェンツォ1世・カラーファ
フランチェスカ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
概要
ヤコポ・カラーファは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
Giacomo Carafa
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
フランチェスコ・カラーファ Francesco Carafa
- 生没
- 1412年~1496年
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 妻
- マリーア・オリーリア
ヴィオランテ・コンティ - 子
- オリヴィエーロ・カラーファ
カルロ・カラーファ
アレッサンドロ・カラーファ
エリザベッタ・カラーファ
ファブリツィオ・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
パオロ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
エットーレ・カラーファ
概要
フランチェスコ・カラーファは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1423年9月10日
マリーア・オリーリアと結婚。
外部リンク
グレッロ・カラーファ Gurello Carafa
- 生没
- 1???年~1453年
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 妻
- コスタンツァ・ピニャテッリ
- 子
- ガレオット・カラーファ
ベルリンギエーリ・カラーファ
ジューリオ・カラーファ
概要
グレッロ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
ディオメーデ・カラーファ Diomede Carafa
- 生没
- 14??年~1487年8月17日
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 妻
- マリーア・カラッチオーロ
スヴェヴァ・サンセヴェリーノ - 子
- ジャントンマーゾ・カラーファ
ジャナントーニオ・カラーファ
ディアーナ・カラーファ
アンドレア・カラーファ
概要
ディオメーデ・カラーファは、15世紀のイタリアの男性。
年表
外部リンク
イサベッラ・カラーファ Isabella Carafa
- 生没
- 14??年~
- 父
- アントーニオ・カラーファ
- 母
- カテリーナ・ファラファッラ
- 夫
- フランチェスコ・ツールロ
グリエルモ・サンセヴェリーノ
概要
イサベッラ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1460年頃
グリエルモ・サンセヴェリーノと結婚。
外部リンク
ジャナントーニオ・カラーファ Gianantonio Carafa
- 生没
- 1???年~1486年12月25日
- 父
- トンマーゾ・カラーファ
- 母
- サンチャ・ダクイーノ
- 妻
- カテリーナ・デッラーハ
- 子
- ドメニコ・カラーファ
ジャンヴィンチェンツォ・カラーファ
ヴィンチェンツォ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
クラニーツァ・カラーファ
サンチャ・カラーファ
メニーカ・カラーファ?
オルシーナ・カラーファ
概要
ジャナントーニオ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの男性。
別表記
Giovanni Antonio
外部リンク
ヴィンチェンツォ1世・カラーファ Vincenzo I Carafa
- 生没
- 14??年~1526年9月5日
- 父
- ヤコポ・カラーファ
- 母
- アントネッラ・ディ・モリーゼ
- 妻
- ベルナルディーナ・シスカーラ
- 子
- ジューリア・カラーファ
ジャンバッティスタ・カラーファ
フランチェスカ・カラーファ
概要
ヴィンチェンツォ1世・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1488年
ベルナルディーナ・シスカーラと結婚。
外部リンク
オリヴィエーロ・カラーファ Oliviero Carafa
- 生没
- 1430年3月10日~1511年1月20日
- 没地
- ローマ
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
- 母
- マリーア・オリーリア
概要
オリヴィエーロ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
枢機卿(任命パウルス2世) 1467年9月18日~1511年1月20日
サンティ・マルチェッリーノ・エ・ピエトロ司祭枢機卿 1467年12月3日~1470年9月5日
サンテウセービオ名誉司祭枢機卿 1470年12月3日~1476年9月5日
アルバーノ司教枢機卿 1476年9月5日~1483年1月31日
カメルレンゴ 1477年1月15日~1478年1月9日
サビーナ司教枢機卿 1483年1月31日~1503年11月29日
カーヴァ教区長 1485年~1497年4月15日
サラマンカ教区長 1491年11月16日~1494年6月23日
首席枢機卿 1492年8月~1511年1月20日
カディス(スペイン)教区長 1495年~1511年1月20日
アルヘシラス教区長 1495年~1511年1月20日
キエーティ教区長 1500年2月2日~1501年12月20日
ナポリ教区長 1503年8月4日~1505年4月
オスティア・ヴェッレトリ司教枢機卿 1503年11月29日~1511年1月20日
ジェラーチェ司教 1505年~1505年
オッピド・マメルティーナ司教 1505年~1505年
カイアッツォ教区長 1506年~1507年7月9日
テッラチーナ教区長 1507年8月20日~1510年5月13日
プリヴェルノ教区長 1507年8月20日~1510年5月13日
セッツェ教区長 1507年8月20日~1510年5月13日
セーニ教区長 1507年10月27日~1511年1月20日
トリカーリコ教区長 1510年4月24日~1511年1月20日
年表
1511年1月20日
ローマにて、死(1511年1月19日)。
別表記
オリヴィエーリ・カラファ、ウルヴィエリ・カラッファ、Ulvieri Caraffa、Cardinal of Naples
外部リンク
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ボルジア家の黄金の血』
『メディチ家』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『The Life of Cesare Borgia』
ファブリツィオ・カラーファ Fabrizio Carafa
- 生没
- 14??年~1513年7月31日
- 没地
- ローマ
- 父
- フランチェスコ・カラーファ
- 母
- マリーア・オリーリア
- 妻
- アウレリア・デ・トロメイス
- 子
- アントンフランチェスコ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
ジャンヴィンチェンツォ・カラーファ
フェリチアーナ・カラーファ
フランチェスコ・カラーファ
概要
ファブリツィオ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、ナポリ王国の貴族。
在位
トーレ・デル・グレコ、ヴァレンツァーノ、サンテーラモ領主
カラブリア公の献酌官
マッツァーラ知事 1455年~
カタンツァーロのカピターノ及び城主 1463年4月14日~
年表
1465年
アウレリア・デ・トロメイスと結婚。
1520年8月3日
妻アウレリア・デ・トロメイスがサンテーラモを相続。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
ガレオット・カラーファ Galeotto Carafa
- 生没
- 14??年~1506年
- 父
- グレッロ・カラーファ
- 母
- コスタンツァ・ピニャテッリ
- 妻
- ヴィオランテ・カンテルモ
- 子
- ティベーリオ・カラーファ
グレッロ・カラーファ
ディオメーデ・カラーファ
オッタヴィアーノ・カラーファ
ジャンパオロ・カラーファ
フェルディナンド・カラーファ
アルベリーコ・カラーファ
ピエル・ルイジ・カラーファ
ルクレツィア・カラーファ
カテリーナ・カラーファ
ベアトリーチェ・カラーファ
概要
ガレオット・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ジャントンマーゾ・カラーファ Giantommaso Carafa
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ディオメーデ・カラーファ
- 母
- マリーア・カラッチオーロ
- 妻
- ジューリア・サンセヴェリーノ
- 子
- ディオメーデ2世・カラーファ
ロベルト・カラーファ
ジョヴァンナ・カラーファ
イザベッラ・カラーファ
概要
ジャントンマーゾ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
第2代チェッレート伯、第2代マッダローニ伯、セスト、サッソ、ペンティーメ、ロッカピピロッツィ、フォルミコーラ領主 1487年以降~
カザルドゥーニ、フェッラーリジ領主 1457年1月8日~
ナポリ王国将軍 1487年5月25日~
ポルトラーノのマエストロ、テッラ・ディ・バーリのカピターノ 1491年10月11日~
アマルテア、カステッラーヴォ城主 1494年9月18日~
年表
1494年4月2?日
ナポリ王戴冠式のための教皇特使フアン・デ・ボルハ枢機卿一行を、フォンディで出迎える。
1495年5月27日
フランス王シャルル8世により、封土を承認される。
1496年12月19日
第2代チェッレート伯、第2代マッダローニ伯、セスト、サッソ、ペンティーメ、ロッカピピロッツィ、フォルミコーラ領主として承認される。
1520年9月20日
遺言書作成。
別表記
Giovanni Tommaso、Johannem Thomasium Caraffa
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
ジャナントーニオ・カラーファ Gianantonio Carafa
- 生没
- 14??年~1516年3月
- 没地
- フランドル
- 父
- ディオメーデ・カラーファ
- 母
- マリーア・カラッチオーロ
- 妻
- ヴィットーリア・カンポネスキ
- 子
- マリーア・ドミティッラ・カラーファ
ジャナルフォンソ・カラーファ
パウルス4世
ディアーナ・カラーファ
ディオメーデ・カラーファ
ジョヴァンナ・カラーファ
ベアトリーチェ・カラーファ
エリザベッタ・カラーファ
ヴィットーリア・カラーファ
概要
ジャナントーニオ・カラーファは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1467年頃
ヴィットーリア・カンポネスキと結婚。
別表記
Giovanni Antonio
外部リンク
オルシーナ・カラーファ Orsina Carafa
- 生没
- 14??年~
- 父
- ジャナントーニオ・カラーファ
- 夫
- マッテオ・ディ・マリーノ・ダッフリット
アントーニオ・ガッツェッラ - 子
- トルージア・ガッツェッラ
概要
オルシーナ・カラーファは、15世紀頃のイタリアの女性、庶子。父ジョヴァンニ・アントーニオ・カラーファから50オンスの持参金を与えられる。
年表
外部リンク
ジャンバッティスタ・カラーファ Giambattista Carafa
- 生没
- 1???年~1552年12月18日
- 父
- ヴィンチェンツォ1世・カラーファ
- 母
- ベルナルディーナ・シスカーラ
- 妻
- ルクレツィア・ボルジア
- 子
- フェルディナンド・カラーファ
ジローラモ・カラーファ
ポルツィア・カラーファ
概要
ジャンバッティスタ・カラーファは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1525年
ルクレツィア・ボルジアと結婚(1526年)。
外部リンク
ティベーリオ・カラーファ Tiberio Carafa
- 生没
- 1???年~1521年12月25日以降
- 父
- ガレオット・カラーファ
- 母
- ヴィオランテ・カンテルモ
- 妻
- ジェロニマ・リャンソル
- 子
- フェルディナンド・カラーファ
チェーザレ・カラーファ
ヤコポ・カラーファ
バルトロメオ・カラーファ
フランチェスコ・カラーファ
ジョヴァンニ・カラーファ
ティベーリオ・カラーファ
ジロラーマ・カラーファ
ヴィットーリア・カラーファ
概要
ティベーリオ・カラーファは、16世紀頃のイタリアの男性。
年表
1507年
ジェロニマ・リャンソルと結婚。
外部リンク
イサベッラ・カラーファ Isabella Carafa
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ジャントンマーゾ・カラーファ
- 母
- ジューリア・サンセヴェリーノ
- 夫
- プロスペロ・コロンナ
概要
イサベッラ・カラーファは、15~16世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
パウルス4世 Paulus IV
- 生没
- 1476年6月28日~1559年8月18日
- 出身
- カプリリーア・イルピーナ
- 没地
- ローマ
- 父
- ジャナントーニオ・カラーファ
- 母
- ヴィットーリア・カンポネスキ
概要
ジャンピエトロ・カラーファは、15世紀から16世紀の男性、聖職者、第223代教皇パウルス4世。
在位
枢機卿 1536年12月22日~1555年
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1541年7月6日~1543年9月24日
第223代教皇 1555年~1559年
年表
1517年
この年頃、ローマにローマ教会への信頼回復を目指すサークル「神愛オラトリオ会」が結成される。人文主義者・カトリック教会改革論者G. Contarini、聖職者ジャンピエトロ・カラーファら中心人物は後の反宗教改革の主な指導者となる。
1536年7月後半
パウルス3世、公会議に備えて、教会内の諸問題を検討し教会改革案を作成するための九人委員会(Commissione novemvirale)を設立し、Reginald Pole(1500年~)、枢機卿G. Contarini(在位1535年~)、I. Sadoleto、ジャンピエトロ・カラーファら9名を委員に任命。
1536年12月22日
パウルス3世、教会改革九人委員会のメンバーの内、Reginald Pole、I. Sadoleto、ジャンピエトロ・カラーファを枢機卿に叙任。
1542年7月21日
パウルス3世、ローマにジャンピエトロ・カラーファら6名の枢機卿からなるローマ及び世界異端審問所(Congregatio Momanae et universalis inquisitionis:のちの検邪聖省(Sanctum Officium))を、各キリスト教国にその代行機関をそれぞれ設置する勅書を発し、宗教改革運動排撃・反宗教改革の姿勢を明確に打ち出し始める。
1555年5月23日
枢機卿ジャンピエトロ・カラーファ、教皇に即位し、パウルス4世を名乗る。
1555年8月10日
カール5世陣営に与するサンタ・フィオーラのスフォルツァ家が、謀ってアンリ2世軍のガレー船2隻をチヴィタヴェッキアで奪い、ナポリに向けて出港させたのに対し、カール5世陣営の貴族の跳梁を抑制しようと企図していたパウルス4世、この日、甥の枢機卿Carlo Carafaを通じて、スフォルツァ家の当主・教皇代行枢機卿グイド・アスカーニオ・スフォルツァに、奪った船を3日以内にチヴィタヴェッキアに戻さなければ訴追すると通告。
これに対しグイド・アスカーニオ・スフォルツァ、夜、自宅にコロンナ家などカール5世陣営の貴族を集め、反パウルス4世を叫んで気勢を上げる。Marcantonio Colonna(1535年~1584年)は、すぐにも反パウルス4世暴動に決起する用意があると決意を表明。
1555年8月12日
奪ったガレー船の返還をスフォルツァ家になお強硬に命じながらも、教会領の南の境界におけるカール5世軍(スペイン軍)の動向を危惧せざるを得ない上ローマにおける兵力と資金の欠乏に悩むパウルス4世に対し、アンリ2世に与する枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ、一族を挙げて支援することを約すると共に、アンリ2世との同盟を勧奨。
1555年8月31日
パウルス4世、ガレー船の返還に応じないグイド・アスカーニオ・スフォルツァをサンタンジェロ城に連行させる。
1555年9月15日
スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。
1555年9月19日
パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。
しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。
1555年12月15日
パウルス4世とアンリ2世、攻守同盟締結:パウルス4世、1555年11月20日、1555年11月22日と続いてローマに入ったアンリ2世の全権使節・枢機卿Charles de Guise(1524年~1574年:在位1547年~1574年)、François de Tournonと交渉を続けた末、(1)アンリ2世は戦費と軍を提供すると共にCarlo Carafaとその兄弟を庇護し、パウルス4世も軍を提供して相互に支援し合うこと、(2)戦端はナポリ又はフィレンツェに対して開くこと、(3)勝利の暁にはシエナを教会領とし、ナポリ及びミラノをアンリ2世の王太子以外の王子に統治させること、(4)同盟はピエモンテを除くイタリア全土に適用されること、などを約定。
これによってパウルス4世、反カール5世・反スペイン=ハプスブルク帝国の姿勢を鮮明に打ち出す。
1556年1月1日
パウルス4世、甥・モントーリオ伯Giovanni Carafa(?~1561年:在位1543年~1561年)をCapitano generale della Chiesaに任命(在位~1559年)。
1556年2月5日
アンリ2世とフェリペ2世のVaucellesでの休戦交渉(1555年~)、アンリ2世は(1)メス、トゥール、ヴェルダンの3司教領を領有、(2)オスマン・トルコやイタリアの君主を相手とする全ての同盟を維持、(3)ピエモンテの現状を維持、フェリペ2世は(1)北フランス・テルアーヌ、エダンを領有の上、5年間休戦、を約定し、フェリペ2世及びカール5世の実質的敗北裏に妥結(Vaucellesの休戦協定)。
これにより、カール5世の退位を機にイタリアをスペイン=ハプスブルク帝国から解放しようとのパウルス4世の企図、中断される。
1556年5月4日
パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァ及びMarcantonio Colonnaのコロンナ親子に破門及び財産没収の処分を下す。
1556年5月9/10日
パウルス4世、コロンナ家のパリアーノとその他の所領を甥Giovanni Carafaに封与し、パリアーノ公の称号を与える。
1556年6月27日
パウルス4世、フェリペ2世のナポリ王廃位を宣言する理由を探し始める。
これを察知したフェリペ2世、コジモ1世・デ・メディチとオッタヴィオ・ファルネーゼの支持を確保すべく工作を開始。
1556年6月27日
パウルス4世、1555年8月から教皇軍指揮官に取り立ててきた甥Antonio Carafa(?~1588年)にモンテベッロを封与し、その侯の称号を与える。
1556年9月1日
フェリペ2世のナポリ総督・アルバ公Fernando Álvares de Toledo(1507年~1582年)、パウルス4世が抱いているイタリアからの、とりわけナポリからのスペイン=ハプスブルク勢力駆逐の企図を砕くべく、大軍を率い、Marcantonio Colonnaら反パウルス4世の貴族も同道してナポリを発ち、教会領に向かう。
以後、1556年9月半ばまでにフロジノーネ、アラトリ、アナーニなどCampagna Romanaの教会領各地を次々と占領しローマに迫る。ローマ市内に包囲・劫掠の恐れ、強まる。
1556年9月12日
カール5世、パウルス4世を無視して神聖ローマ皇帝位(在位1519年~)と帝国版図を弟フェルディナンドに委譲。この委譲と、1556年1月のスペイン王位及びその領土・直轄地のフェリペ2世への委譲とにより、ハプスブルク家の分裂とそのスペイン王朝化、明白となる。
これに対しパウルス4世、教皇の承認なき帝位の委譲を無効とし、この旨を厳しく伝える書簡を選帝侯たちに送る。
1556年9月16日
フェリペ2世のナポリ総督Fernando Álvares de Toledo、占領した教会領各地は枢機卿会議の名で保有し、将来の教皇に返還すると声明。
これに対しパウルス4世、これらの地の全面返還がなされない限り一切の交渉を拒絶する意を固め、側近枢機卿たちの交渉促進の勧告を斥ける。
1556年11月13日
エルコーレ2世・デステ、パウルス4世・アンリ2世の攻守同盟(1555年)に加盟。
1557年3月3日
軍をロマーニャに進め、自らは1557年3月2日ローマに入ったFrançois I de Lorraine、この日からパウルス4世、Carlo Carafa、ピエロ・ストロッツィらと同盟軍の作戦会議を開く。しかし、パウルス4世はナポリ攻略を、François I de Lorraineはトスカーナ攻略を主張して結論が出ず、会議、延引。
1557年
マリア・エンリケス・デ・トレドに黄金の薔薇を授与。
1558年
エルコーレ2世・デステに祝福された剣を授与。
1559年1月
禁書目録の公表:パウルス4世、ローマの異端審問所を初めとする全ての異端審問所が全キリスト教徒を防衛するための、検閲及び刑罰の恐怖を与えるべき著者と書籍の目録(Index librorum prohibitorum(禁書目録))を公表。この中にエラスムスやニッコロ・マキアヴェッリの全作品などが登録される。
1559年8月半ば?~8月20日
パウルス4世が死に瀕する中、コロンナ家などパウルス4世に迫害されてきた貴族とその陣営の民衆、武器を手に異端審問所、監獄、政庁宮などを襲撃し、パウルス4世の彫像を引き倒してテヴェレ川に投げ捨てる。さらにカラーファ一族の殺害をも試みる。
1559年8月18日
反パウルス4世・カラーファ一族暴動の最中、パウルス4世死(1476年~:在位1555年~)。
埋葬地
本名
ジョヴァンニ・ピエトロ・カラーファ、Gian Pietro Carafa、Giovan Pietro Carafa
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
GCatholic.com
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
ポルツィア・カラーファ Porzia Carafa
- 生没
- 15??年~
- 父
- ジャンバッティスタ・カラーファ
- 母
- ルクレツィア・ボルジア
- 夫
- ヴィンチェンツォ・マルッロ
- 子
- エレオノーラ・マルッリ
概要
ポルツィア・カラーファは、16世紀頃のイタリアの女性。
年表
1548年
ヴィンチェンツォ・マルッロと結婚。
別表記
Portia Carafa
外部リンク
Google Books
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Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
記載日
2021年4月27日
更新日
2020年2月21日