- 生没
- 1519年~1559年
- 父
- フランソワ1世
- 母
- クロード・ド・フランス
- 妻
- カトリーヌ・ド・メディシス
- 子
- フランソワ2世
シャルル9世
アンリ3世
マルグリット・ド・ヴァロワ
エリザベト・ド・ヴァロワ
クロード・ド・ヴァロワ
フランソワ・ダランソン公
概要
アンリ2世は、16世紀の男性、フランス王。
在位
フランス王 1549年~1559年
年表
1526年1月14日
マドリード協定:カール5世とフランソワ1世は、カール5世はイングランドとフランスの提携、自分のイタリアにおける支配力の強化を恐れるイタリアの諸権力者、諸国のフランスへの傾斜を見て、フランスとの対立を回避するのを得策と考え、フランソワ1世は自分の身柄の解放を何よりも望んで、子息フランソワとアンリを人質として釈放されること、ミラノ、ナポリ、ジェノヴァ、フランドル、アルトワ、Tournai、ブルゴーニュなどの支配権ないしはその要求権をカール5世に委譲すること、カール5世の姉で前ポルトガル王故Manoel Iの後室レオノール・デ・アウストリア(1498年~1558年)と結婚することなどを協定。
カール5世のイタリア人重臣、法務卿Mercurino Arborio di Gattinaraはフランソワ1世が自由の身となった時にこれを遵守するはずがなく、これはフランソワ1世をより恐るべき敵とするだけだとしてこれに署名することを拒否し、カール5世は1526年2月11日自らこれに署名。
この協定の報が伝わるに連れ、自由の身になればフランソワ1世はこの協定を守るはずがないと広く、とりわけイタリア各地で広く信じられる。
1526年3月17日
フランソワ1世、マドリード協定(1526年1月)により2人子息フランソワ、アンリを人質として残して釈放され、帰国。
1527年4月30日
この日?、ヘンリー8世とフランソワ1世、娘メアリーとフランソワ1世ないしはフランソワ1世の第二子アンリとの結婚、ヘンリー8世のコニャック同盟及びフランソワ1世が7月に予定している対カール5世戦への加入、カール5世に対するフランソワ1世の子息の釈放要求などをロンドン・ウェストミンスターで協定。
1531年5月
メディチ家を神聖ローマ皇室のみならずフランス王室の一統にも連ねてアレッサンドロ・デ・メディチによるフィレンツェ支配体制を固めたいクレメンス7世と、カール5世に対抗してミラノ、ジェノヴァを始めイタリア各地を再び制圧したいフランソワ1世の特使、枢機卿Gabriel de Gramont(1480年頃~1534年:在位1530年~1534年)は、ローマでカトリーヌ・メディシスとフランソワ1世の第二子アンリ・ド・ヴァロワとの結婚について秘密裡に合意。
1533年1月初旬
カール5世の予想に反して第二子アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・メディシスとの結婚を急ぐフランソワ1世の2名の全権使節、枢機卿François de Tournon(1489年~1562年:在位1530年~1562年)とG. de Gramont、ボローニャに着き、クレメンス7世と協議。
1533年5月3日
クレメンス7世とフランソワ1世の2名の全権使節François de TournonとG. de Gramont、アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・ド・メディシスとの結婚及びクレメンス7世とフランソワ1世のニースにおける会見について正式に合意。
1533年10月27日
クレメンス7世とフランソワ1世は、カトリーヌ・メディシスとアンリ・ド・ヴァロワとの結婚契約に調印。1533年10月28日盛大に結婚式が行われる。これによりクレメンス7世、メディチ家をフランス王室の一統に連ねる目的を達成。
1535年
故ルドヴィーコ・イル・モーロの庶子、カラヴァッジョ侯、Calliate伯Giampaolo Sforza、スフォルツァ家の嫡流が絶えたことを理由にミラノ公位の継承を望み、それをカール5世に承認させてくれるようパウルス3世に懇願すべくローマに向かうが、途中フィレンツェで急死(1497年~)。
フランソワ1世、ミラノ継承請求権を主張し、息子アンリ・ド・ヴァロワにミラノを与えるよう要求。
1547年3月31日
フランソワ1世死(1494年~:在位1515年~)——第二子アンリ2世(1519年~)、フランス王に即位し、アンリ2世を名乗る(在位~1559年)。
これに伴いカトリーヌ・メディシス、フランス王妃となる。
1547年10月8日
フランス王アンリ2世、パリ高等法院内に異端審問のための特別火刑裁判所(Chambre ardente)を設置し、プロテスタント弾圧の姿勢を明示。
1548年
コジモ1世・デ・メディチ、Giordano Orsiniを名代としてトリノに送り、フェリペ2世アンリ2世に表敬。
1548年5月半ば
この頃アンリ2世、占領地の城塞視察との名分を掲げて軍と共にピエモンテに入る。
1548年7月7日
結婚縁組によるイングランドとスコットランドの合体を妨げたいアンリ2世と、軍による攻撃など強硬策を続けるイングランドへの反発・憎悪を強めるスコットランド、スコットランドの独立と安全を保障するとのアンリ2世の提言を機に接近し、アンリ2世の長子フランソワ2世(1544年~1560年:フランス王1559年~1560年)とスコットランドの女王メアリー・スチュアートの結婚協定を、エディンバラ近郊ハディントンで締結。メアリー・スチュアートは1548年7月末、スコットランドを発ってフランスに向かう。
1548年7月
この頃?、1547年来カール5世と信仰上も政治上も反発・対立を強めてきたパウルス3世、ピエモンテにあるアンリ2世に反カール5世協定の締結を密かに働きかける。しかしアンリ2世、この協定を望みながらも高齢のパウルス3世の死とそれによる同盟の瓦解の可能性を危惧し、イタリア諸都市の同盟参加を条件として提示するなどしながら状況の推移を見守る。
1548年8月初旬
アンリ2世、トリノに入る。フェッランテ・ゴンザーガの暗殺とそれを機とするミラノの騒乱を狙っての行動を噂され、警戒される。
1548年8月23日
パウルス3世とカール5世の妥協を防止すべくアンリ2世がパウルス3世のもとに送った使節Claude de L'Aubespine(1500年頃~1567年)、ローマに入る。
1548年8月
アンリ2世、西南フランスで塩への重課税反対の暴動が生じ(1548年7月~)、急ぎ帰国の途に就く。
1549年8月9日
故フランソワ1世にもましてブーローニュの早期奪還とスコットランドに対するイングランドの影響力の排除に意欲を燃やすアンリ2世、ブーローニュ攻撃を開始。
1549年11月29日
教皇選出枢機卿会議、開催。新教皇にオッタヴィオ・ファルネーゼへのパルマ委譲と教会改革のための公会議の開催を義務付ける選挙協定を採択した後、教皇選出に入るが、それぞれ自派から新教皇を送りたいカール5世・アンリ2世両派の対立、激化。
1550年2月8日
枢機卿ジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテ(1487年~:在位1536年~)、教皇に即位し、ユリウス3世を名乗る(在位~1555年)。
教皇選出枢機卿会議、カール5世派の枢機卿が推すReginald Poleを再三、首位に立てながら決定できず、対立するカール5世・アンリ2世両派に中立的なジョヴァンニ・マリーア・チオッキ・デル・モンテを立てることでようやく決着。
教皇ユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの使節団全員にCavaliere(騎士)の称号を与えて歓迎し、コジモ1世・デ・メディチがアレッツォ近くのモンテ・サン・サヴィーノをdel Monte家に委譲するよう求める。ユリウス3世の自家勢力拡大策(nepotismo)、早くも始まる。
1550年3月24日
1549年来ブーローニュ攻撃に耐える中でその地の占領(1544年~)の経済的・政治的負担を痛感してきたEdward VIの摂政J. Dudley、アンリ2世にブーローニュを返還すると共に、スコットランドにおける一切の地歩を放棄することを約束(ブーローニュ協定)。
1551年5月22日
ユリウス3世、他の王侯を奉じあるいはその軍を招くことを1551年2月以来しばしば禁じてきたにもかかわらず、パルマをミラノに併合しようと狙うカール5世に抗すべくアンリ2世と同盟締結の協議を続けるオッタヴィオ・ファルネーゼに関し、この日の枢機卿会議で、叛徒とみなして教会の旗手の任を解き(1548年~)、封土パルマでの全権を剥奪することを決める。
1551年5月27日
オッタヴィオ・ファルネーゼ、アンリ2世と同盟を結んで軍資金と武器の援助を約束される。
これに憤激したカール5世、直ちにオッタヴィオ・ファルネーゼから、自らがその父ピエル・ルイジ・ファルネーゼに封与した(1538年)ノヴァーラなどを取り上げ、ユリウス3世の甥Giovan Battista del Monteに封与。
1551年6月12日
オッタヴィオ・ファルネーゼ軍とフェッランテ・ゴンザーガ指揮のユリウス3世軍、戦闘を開始。ユリウス3世軍はすぐパルマを包囲するが、後ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍に解かれる。
1551年6月27日
アンリ2世、シャトーブリアン勅令を発し、パリ大学神学部が禁断の書と判定した書物の出版の禁止、ジュネーヴとの一切の連絡の禁止、1551年1月新たに設置させた上座裁判所(présidial)への異端問題の最終審判権の授与、を命ずる。
1551年9月4日
すでに深刻な財政危機に陥っているのみならず戦闘の公会議への計り知れない影響を懸念するユリウス3世、アンリ2世に和平を求める書簡を送り、4日後、さらに特使を送る。
1551年10月5日
反カール5世同盟に結集した(1551年5月)ドイツ・プロテスタント諸侯、アンリ2世と、アンリ2世はフランス語圏4都市メス、トゥール、ヴェルダン、カンブレーを「帝国の代理人」として領有し、代わりにドイツ・プロテスタント諸侯にカール5世と戦うための軍と資金を供与するとの同盟をロッハウで締結。この同盟の中でアンリ2世は「ゲルマン民族とその囚われの諸侯の自由の擁護者」と名付けられる。
1551年12月半ば
ユリウス3世、カール5世に、財政上の理由から北部イタリアにもはや軍を維持することはできないと伝え、数日後、アンリ2世との和平交渉の状況を伝える。この頃カール5世も資金欠乏のため兵の補充に甚だしく難渋。
1552年1月15日
ドイツ・プロテスタント諸侯、アンリ2世とロッハウで結んだ同盟(1551年10月)をシャンボールで批准(シャンボール同盟)。
1552年2月5日
アンリ2世の特使・枢機卿François de Tournon、ローマに入り、直ちにユリウス3世に和平条件——(1)パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼのもとに残す、(2)2年間休戦する、(3)休戦期間経過後の協定についてはオッタヴィオ・ファルネーゼに一任する、など——を提示。
1552年3月13日
アンリ2世、シャンボール同盟(1552年1月)に基づき大軍をロレーヌに侵攻させ、戦わずしてトゥールを占領。間もなくメスも占領しライン川左岸域まで軍を進める。
1552年4月29日
ユリウス3世、1552年2月に提示された条件を飲み、アンリ2世と休戦協定を結ぶ。両者、カール5世のこの協定への加入については彼自身の判断に任せる。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼのパルマ領有、再確認される。
1552年5月10日
ユリウス3世とアンリ2世の和平協定を阻止したかったカール5世、軍資金の欠乏とドイツ領内での反乱に見舞われ、やむなくこの協定を承認。
1552年6月
アンリ2世軍、フランスへの帰途、ヴェルダンを占領。
1552年7月15日
1552年7月初めから湾岸各地で略奪を働きながらナポリに向かっていたSinan Paşa総指揮・Dragut指揮のオスマン・トルコ水軍、アンリ2世との合意に基づくナポリ攻略のためポンツァ島に陣を敷く。
1552年7月26日~7月27日
堅固な城塞の構築を進めるなどさらに圧制の度を強めてきたカール5世の絶対的支配(1547年~)を脱すべく1551年来アンリ2世との接触を深めていたシエナ市民、アンリ2世の指示の下で領内に入ったピティリアーノ伯ニッコロ2世・オルシーニ軍が前夜、市の城門に迫ったのに呼応し、「フランス、勝利、自由」を叫んで武器を手に決起。
カール5世軍(スペイン軍)守備隊長はコジモ1世・デ・メディチに援軍を求め、コジモ1世・デ・メディチは直ちに小軍を送るが抗しきれず、カール5世軍(スペイン軍)守備隊は構築中の城塞に引きこもる。
1552年8月1日
この日頃?、コジモ1世・デ・メディチ、特使Ippolito da Correggio(1510年~1552年)をシエナに送り、カール5世軍(スペイン軍)守備隊と和を結ぶよう強く勧告。
アンリ2世、ローマ駐在大使Ludovic Lansacをシエナに送り、決起を支持し軍を派遣することを約束すると共に、カール5世軍(スペイン軍)守備隊との協定は無益だと強調。アンリ2世配下の軍、各地からシエナに向かう。
1552年8月3日
この日?、8千を超える市民がカール5世軍(スペイン軍)守備隊の籠る城塞を取り囲む中コジモ1世・デ・メディチ、シエナと、(1)守備隊はシエナから撤退する、(2)城塞は壊され、すべての外国軍はシエナから撤退する、(3)シエナは自由を得るがカール5世の下に留まり、彼に敵対する者を領内に入れない、(4)コジモ1世・デ・メディチは自軍がこの間に占領したシエナの領地を全て返還する、ことを約定。
これに強い不満を唱えるカール5世軍(スペイン軍)守備隊に対しコジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世が新たに各地からシエナに向かいつつある中で逡巡していれば事態はさらに悪化すると懸命に弁明。
1552年8月4日
この日?、シエナ、コジモ1世・デ・メディチのもとに特使Ambrosio Nutiを送り、コジモ1世・デ・メディチに敵対しないことを表明すると共に回復した自由の承認・保証を求める。
これに対しコジモ1世・デ・メディチ、シエナに特使Leone Ricasoliを送り、その自由を保証すると共に友好関係の維持を承認。
同時にこの頃コジモ1世・デ・メディチ、アンリ2世に、彼とカール5世との間で厳正な中立を保つと約束。
1552年8月10日
オスマン・トルコ水軍、一向に現れないアンリ2世水軍を見限り、レヴァントに向かう。
1552年8月13日
シエナからのアンリ2世軍の駆逐・シエナ奪還のためナポリで進軍の準備を始めたペドロ・デ・トレドがその途上ローマ劫掠を狙うとの噂が流れる中、1551年のパルマ争奪戦ですでに財政危機に陥っていたユリウス3世、コジモ1世・デ・メディチの勧奨をいれて、シエナ出身の枢機卿Fabio Mignanelliを特使としてシエナに送り、アンリ2世軍の領内からの撤退・外国勢力の介入防止とそれによるシエナの自立と平穏の確保を勧告するが、失敗に終わる。
この頃?、コジモ1世・デ・メディチ、Diego Hurtado de MendozaやFransicso Albaからシエナの反乱・離反はひとえにコジモ1世・デ・メディチの責任であるとの報告を受けていたカール5世のもとに特使Ippolito da CorreggioとLeone Santiを送り、嫌疑を晴らすべく事態を説明すると共にいずれ無謀なシエナに制裁を加えると誓約。
1552年8月18日
アンリ2世水軍、オスマン・トルコ水軍の去ったナポリ湾に到着。両軍にょるナポリ攻略とのアンリ2世の企図、失敗に終わる。
1552年9月7日
アンリ2世、枢機卿イッポーリト・デステ(1509年~1572年:在位1538年~1572年)をシエナ総督に任じ、シエナの政体変革とその安定強化を委任。
1552年9月末
ユリウス3世、カール5世とアンリ2世の仲介を目指し、そのための方策を策定するよう4名の枢機卿からなる委員会に命ずる。
1552年10月16日
カール5世、1552年3月アンリ2世軍に占領されたメスを奪還するべく大軍を送って包囲。
1552年11月1日
アンリ2世のシエナ総督イッポーリト・デステ、シエナに到着。以後、政体変革について市民代表と論議。
1552年12月末
メスを包囲していた(1552年10月~)カール5世軍、ギーズ公François I de Lorraine(1519年~1563年:在位1550年~1563年)指揮のアンリ2世軍の反撃に敗退。
1553年6月15日
アンリ2世水軍とオスマン・トルコ水軍がナポリ近海で合流したためナポリの守備強化を迫られたカール5世陣営、シエナ包囲を断念し軍をナポリに向かわせる。
1553年7月
この月までにカール5世軍、フランドルにおけるアンリ2世の主要な要塞テルアーヌを長期の包囲戦の末、占領。さらにこの月カール5世軍、1553年6月23日フランドル総督・軍総指揮官に任じられたカルロ3世・ディ・サヴォイアの子エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア(1528年~1580年)指揮の下で包囲してきたエダンを占領。この包囲に抗したアンリ2世軍の指揮官・カストロ公・(故パウルス3世の孫)Orazio Farnese、戦死(1531年~:在位1549年~)。
1553年8月20日
エルバ島、ピアノーザ島と攻撃・略奪を続けてきたオスマン・トルコ水軍とアンリ2世水軍、ジェノヴァ領コルシカ島攻撃を開始。島守備隊指揮官でありながらこの攻撃に企画の段階から参画していたSampiero Corso(1498年~1567年)の軍の反乱により、島内主要地点が次々に降伏。
1553年9月初旬
オスマン・トルコ水軍とアンリ2世水軍、コルシカ島のほとんどを制圧。しかし間もなくオスマン・トルコ水軍はスレイマン1世に呼び戻されてレヴァントに向かい、アンリ2世水軍のみ残る。
アンドレア・ドーリア総指揮のカール5世軍・ジェノヴァ軍、コルシカ奪還のため攻撃を開始。
1553年秋
この頃?、アンリ2世、ピエロ・ストロッツィをシエナ争奪戦における軍の総指揮官に任命。ピエロ・ストロッツィは弟Leone Strozziにもましてメディチ家打倒に燃える。
1553年冬
アンドレア・ドーリア総指揮下のカール5世軍・ジェノヴァ軍、ボニファチオを除くコルシカ全島をアンリ2世軍から奪還。
1553年
コジモ1世・デ・メディチ、ジェノヴァにアンリ2世への反抗・コルシカ奪還を勧奨し、援軍を送る。
1554年1月1日
ピエロ・ストロッツィ、アンリ2世軍の総指揮官としてシエナに到着。
フィレンツェの亡命者でメディチ家に宿怨を抱くピエロ・ストロッツィが総指揮官としてシエナに入ったとの報にコジモ1世・デ・メディチ、シエナの武力制圧の早期断行を決意。
1554年1月28/29日
コジモ1世・デ・メディチ、海陸両面からシエナ領攻撃を開始。カール5世から送られたジャン・ヤコポ・デ・メディチも加わってシエナの市の城門に通ずるCamolliaを攻撃させ、その城塞を一気に占領。
しかし折からの嵐のためガレー船を使用できなかったのを初め海陸両面で攻撃に難渋し、シエナ市内には入城できず。以後、シエナを守るアンリ2世軍とカール5世の支援を受けるフィレンツェ軍、周辺各地で一進一退の攻防を続ける(~1555年)。
1554年6月26日
フィレンツェ軍には戦況に応じてカール5世からの援軍が加わるのに対しシエナには期待し続けるアンリ2世からの援軍が着かない中、ピサ、リヴォルノ、ピオンビーノ、グロッセートなどトスカーナ各地で陣地構築に奔走していたLeone Strozzi、フィレンツェ軍の守るグロッセート近郊への自軍のみによる上陸を敢行。しかし上陸後、偵察中に撃たれ、数時間後Castinlione della Pescaiaで死(1515年~)。彼に心服していたフィレンツェの亡命貴族の中に落胆し戦線を離脱する者が出る。
1554年7月
ピエロ・ストロッツィ指揮のアンリ2世軍、シエナ領外に出て各地を占領し優勢を保つ。しかし1554年7月末フィレンツェ軍にナポリからの援軍、到着。
1554年8月2日
朝、全軍を率いてマルチアーノからルチアーノに移動しようとするピエロ・ストロッツィを、同じく全軍を率いたジャン・ヤコポ・デ・メディチが急襲。2時間の激闘でピエロ・ストロッツィ自身が重傷を負ってモンタルチーノに運び込まれるなど、アンリ2世軍、惨敗。陣営の若いフィレンツェ亡命貴族Baccio Arrighi、Girolomo Ciardi、Giambattista Strozziら7名は捕縛され、フィレンツェに移送されて斬首などの刑に処される。
1554年8月14日
この日頃ピエロ・ストロッツィ敗北・重傷との報を受けたアンリ2世、驚愕。
1554年夏
妻ルネ・ド・フランスがJ. Calvinの教説を信仰しフェッラーラをイタリアにおけるプロテスタンティズム信仰の中心地と化しつつあったのに対しエルコーレ2世・デステ、アンリ2世やユリウス3世の怒りを招くのを恐れ、フェッラーラからプロテスタントを追放した上アンリ2世に異端審問官の派遣を要請していたが、この頃、アンリ2世より派遣された審問官Mathieu Ory (Oriz)、到着。
1554年9月7日
アンリ2世の異端審問官Mathieu Ory、聖餐を受けることを拒否している(1540年~)ルネ・ド・フランスを有罪とし、拘禁刑を科す。フェッラーラの古城に軟禁されたルネ・ド・フランス、カトリックに回帰し、1554年9月13日釈放される。しかし、J. Calvinらとの交流は続ける。
1555年4月17日
1554年来のジャン・ヤコポ・デ・メディチ軍の攻撃に耐えながらも、狭まる包囲戦の中で深刻な飢餓状態に陥り、期待していたアンリ2世からの援軍も得られないでいるシエナ、特使Niccolò Sergardi、Camillo d' Elei、Lelio Pecci、Agostino Bardiをコジモ1世・デ・メディチのもとに送って降伏し、(1)カール5世の庇護の下で「自由」を保持し自らを統治すること、(2)自らの費用でカール5世軍を守備隊として駐屯させること、などを協定。
1555年4月21日~5月2日
モンルックの君主Blaise de Lasseren de Massancome(1502年頃~1577年)指揮のアンリ2世軍、シエナ市を去る。しかしキウージ、グロッセート、ポルト・エルコーレ、モンタルチーノをなお手中に収め、この軍と共にシエナを去った有力貴族ら数百名はモンタルチーノなどに籠って小共和政を樹立する。
間もなく代わってジャン・ヤコポ・デ・メディチ麾下のカール5世軍が市内に入り、シエナは実質上コジモ1世・デ・メディチの支配下に陥る。
1555年6月16日
ジャン・ヤコポ・デ・メディチ、ピエロ・ストロッツィらアンリ2世軍のみ残るポルト・エルコーレなどを制圧。ピエロ・ストロッツィは逃亡するが、ポルト・エルコーレに留まっていたシエナの亡命者は捕えられ、指導者はフィレンツェに送られて斬首される。
1555年8月10日
カール5世陣営に与するサンタ・フィオーラのスフォルツァ家が、謀ってアンリ2世軍のガレー船2隻をチヴィタヴェッキアで奪い、ナポリに向けて出港させたのに対し、カール5世陣営の貴族の跳梁を抑制しようと企図していたパウルス4世、この日、甥の枢機卿Carlo Carafaを通じて、スフォルツァ家の当主・教皇代行枢機卿グイド・アスカーニオ・スフォルツァ(1518年~1564年:枢機卿在位1534年~1564年:教皇代行在位1537年~?)に、奪った船を3日以内にチヴィタヴェッキアに戻さなければ訴追すると通告。
これに対しグイド・アスカーニオ・スフォルツァ、夜、自宅にコロンナ家などカール5世陣営の貴族を集め、反パウルス4世を叫んで気勢を上げる。Marcantonio Colonna(1535年~1584年)は、すぐにも反パウルス4世暴動に決起する用意があると決意を表明。
1555年8月12日
奪ったガレー船の返還をスフォルツァ家になお強硬に命じながらも、教会領の南の境界におけるカール5世軍(スペイン軍)の動向を危惧せざるを得ない上ローマにおける兵力と資金の欠乏に悩むパウルス4世に対し、アンリ2世に与する枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼ、一族を挙げて支援することを約すると共に、アンリ2世との同盟を勧奨。
1555年9月15日
スフォルツァ家に奪われたアンリ2世水軍のガレー船、チヴィタヴェッキアに帰還。4日後パウルス4世、グイド・アスカーニオ・スフォルツァを巨額の保釈金などと引き換えに釈放。
しかし教会領の南の境界で大規模な徴兵を続けるカール5世軍(スペイン軍)と、北の境界でアンリ2世軍の一掃を狙うカール5世陣営のコジモ1世・デ・メディチ軍とに囲まれたパウルス4世、恐怖を覚えつつスペイン=ハプスブルク帝国への反発・敵意を募らせる。
1555年9月15日
Carlo Carafa、(1)教皇庁の防衛とそのための軍の提供、(2)カール5世陣営に対抗する攻守同盟の締結、(3)同盟へのヴェネツィア及びフェッラーラの引き入れ、の実現を呼びかける全権特使Annibale Rucellaiをアンリ2世のもとに送る。
1555年10月25日
ネーデルラントに半ば引退(1553年)後もフェリペ2世・メアリー1世の結婚を実現させて(1554年)普遍的帝国実現の希望を蘇らせたカール5世、その結婚から期待した子を得られずに希望が潰え、アンリ2世とパウルス4世の接近(1555年8月~)を知り、宗教問題もフェルディナンドに委ねて敗北し(1555年9月)、ついにブリュッセルで譲位式を挙げ、ネーデルラント及びイタリアを列席のフェリペ2世に正式に委譲。
1555年12月15日
パウルス4世とアンリ2世、攻守同盟締結:パウルス4世、1555年11月20日、1555年11月22日と続いてローマに入ったアンリ2世の全権使節・枢機卿Charles de Guise(1524年~1574年:在位1547年~1574年)、François de Tournonと交渉を続けた末、(1)アンリ2世は戦費と軍を提供すると共にCarlo Carafaとその兄弟を庇護し、パウルス4世も軍を提供して相互に支援し合うこと、(2)戦端はナポリ又はフィレンツェに対して開くこと、(3)勝利の暁にはシエナを教会領とし、ナポリ及びミラノをアンリ2世の王太子以外の王子に統治させること、(4)同盟はピエモンテを除くイタリア全土に適用されること、などを約定。
これによってパウルス4世、反カール5世・反スペイン=ハプスブルク帝国の姿勢を鮮明に打ち出す。
1555年12月25日
アンリ2世とフェリペ2世、カンブレーの南方Vaucellesの修道院で休戦交渉を開始。
この交渉にあたってReginald Pole、メアリー1世の承認を得た上、書簡などでアンリ2世とフェリペ2世に和平を強く働きかけた他、特使・ベネディクト会修道士Vincenzo Parpaglioに和平実現のために尽力させる。
1556年2月5日
アンリ2世とフェリペ2世のVaucellesでの休戦交渉(1555年~)、アンリ2世は(1)メス、トゥール、ヴェルダンの3司教領を領有、(2)オスマン・トルコやイタリアの君主を相手とする全ての同盟を維持、(3)ピエモンテの現状を維持、フェリペ2世は(1)北フランス・テルアーヌ、エダンを領有の上、5年間休戦、を約定し、フェリペ2世及びカール5世の実質的敗北裏に妥結(Vaucellesの休戦協定)。
これにより、カール5世の退位を機にイタリアをスペイン=ハプスブルク帝国から解放しようとのパウルス4世の企図、中断される。
1556年7月25日
アンリ2世の派遣した軍、チヴィタヴェッキアに着く。
1556年8月15日
アンリ2世が加えて派遣した小軍、ローマに入る。
1556年9月7日
アンリ2世からイタリアへの多額の軍資金投与の約束を得、ガレー艦隊を同道して1556年8月11日フランスを発ったCarlo Carafa、この日ローマに帰着。軍は8日後ローマに入る。
1556年9月15日
フェリペ2世、オッタヴィオ・ファルネーゼにピアチェンツァを返還。後ノヴァーラも返還。但し両地の城塞はなおスペイン軍の配下に置く。これによりオッタヴィオ・ファルネーゼ、パウルス4世・アンリ2世に対抗するフェリペ2世支持に大きく傾く。
1556年11月13日
エルコーレ2世・デステ、パウルス4世・アンリ2世の攻守同盟(1555年)に加盟。
1557年2月12日
François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、トリノを発ってレッジョでエルコーレ2世・デステ軍と合流し、この日、François I de Lorraineは自身の舅でもあるエルコーレ2世・デステに同盟軍総指揮官の杖を手渡す。
1557年6月7日
メアリー1世、フェリペ2世の要請をいれ、Reginald Poleの制止勧告を無視してアンリ2世に宣戦布告。10日後ペンブルック伯William Herbert(1501年?~1570年:在位1551年~1570年)指揮の軍を、フェリペ2世がサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアの指揮のネーデルラントに結集した大軍に合流させる。
1557年7月3日
シエナがカラーファ一族ないしファルネーゼ一族に委譲されるとの噂に危機感を覚え、フェリペ2世に対して、これまでの巨額の貸し付けを仄めかすと共にパウルス4世・アンリ2世からの同盟加入の勧誘と彼らへの接近の必要性とを示唆しながらシエナ委譲を迫ってきたコジモ1世・デ・メディチ、ようやくフェリペ2世と、(1)シエナを受領する(但しタラモーネ、ポルト・エルコーレ、オルベテッロなど海岸地帯はフェリペ2世の直轄領とする)、(2)ピオンビーノをフェリペ2世に返還する(但しエルバ島のポルトフェッライオは引き続き領有する)、(3)フェリペ2世に対する債権は全て放棄することを協定。
1557年8月10日
フランドルからフランスに侵攻したエマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア指揮下5万7千のフェリペ2世の大軍、パリ北東百キロ余りのサン・カンタンに籠るアンヌ・ド・モンモランシー指揮の2万4千のアンリ2世軍を包囲し大破。2日後サン・カンタンに入ったWilliam Herbert指揮のメアリー1世軍、アンヌ・ド・モンモランシー自身とその子らを捕囚とする。
1557年10月初旬
フェリペ2世、パウルス4世・アンリ2世同盟軍の総指揮官として敵対してきたエルコーレ2世・デステに復讐すべくオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮の軍を差し向ける。「Caveの和」から漏れた形のエルコーレ2世・デステ、孤立。
コジモ1世・デ・メディチなどからの援軍よりなるオッタヴィオ・ファルネーゼ指揮のフェリペ2世軍、モンテッキオ、サン・ポーロ、カノッサ、スカンディアーノなどを次々と占領。これに対しエルコーレ2世・デステ軍も反撃し、パルマの市の城門にまで迫る。
1558年1月1日
1557年末ピエロ・ストロッツィ自身の探索によってカレーの守備態勢が手薄なことを知ったアンリ2世、François I de Lorraine指揮の軍をカレーに送り、集中砲火を浴びせる。
1558年1月7日
François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、メアリー1世・フェリペ2世軍を破りカレーを制圧。1558年1月8日François I de Lorraine、カレーに入る。イングランドは大陸における拠点を失う(1347年~)。
1558年4月24日
アンリ2世の王太子フランソワ2世とスコットランド女王メアリー・スチュアート、結婚協定(1548年)に従い、パリのノートル=ダム大聖堂で結婚式を挙げる。これによりフランソワ2世、スコットランドの協同統治権(婚姻による王冠)を獲得。
1558年5月18日
フェリペ2世、1557年末からのFernando Álvares de Toledoを介してのコジモ1世・デ・メディチの働きかけに応じ、パウルス4世・アンリ2世陣営を離れて中立を維持することを条件にエルコーレ2世・デステを赦免。両者和解しエルコーレ2世・デステはフェリペ2世に占領された(1557年)領地を回復。
1558年6月20~22日
メス近郊ティオンヴィルを包囲していた(1558年6月~)François I de Lorraine指揮のアンリ2世軍、これを奪回しフェリペ2世軍を追放。
この戦闘の中でピエロ・ストロッツィ戦死(1510年頃~)。この報を得たアンリ2世、宮廷内を喪に服させる。
1558年11月17日
朝メアリー1世死(1516年~:在位1553年~)。
エリザベス、イングランド王に即位しエリザベス1世を名乗る(在位~1603年)。
これに対しアンリ2世、庶子エリザベス1世の王位継承にが疑義があるとし、自身の王太子フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートこそ正統なイングランド王位継承権を有すると主張。以後フランソワ2世とメアリー・スチュアート、「イングランド・スコットランド・アイルランド王及び女王」の称号を用い続ける。
1559年4月2日~4月3日
カトー・カンブレジの和
休戦協定締結(1558年10月)の後カトー・カンブレジに場を移して続行された和平協議により、この地で2つの協定が締結され、イタリア戦争終結(第1次1494年~1516年:第2次1521年~)。
1559年4月2日
アンリ2世とエリザベス1世、アンリ2世はカレーその他イングランドから奪った領地を8年間領有し、その後はエリザベス1世に返還するかエリザベス1世から改めて購入すること、などを協定。
1559年4月3日
アンリ2世とフェリペ2世、この8年間に征服・奪取した領地を相互に返還する(但しアンリ2世はメス、トゥール、ヴェルダンの3司教領は領有する)ことを基本として(1)アンリ2世はコルシカをジェノヴァに、モンタルチーノをフィレンツェに、トリノ、キエーリ、ピネローロ、キヴァッソ及びヴィッラノーヴァ・ダスティを除くピエモンテとサヴォイアをサヴォイア公エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアにそれぞれ返還し、イタリアに対する要求を全て放棄すること、(2)フェリペ2世はアスティとヴェルチェッリを領有し、アンリ2世の娘Elisabeth de France(1545年~1568年)と結婚すること、(3)エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイアは両者の間で中立を保ち、2か月以内にアンリ2世の妹マルグリット・ド・ヴァロワ(1523年~1574年)と結婚すること、などを協定。
この和により対外的配慮・戦闘態勢の持続から解放された両者、それぞれの領国における信仰問題に最優先的に取り組み始める。とりわけアンリ2世は、ナポリ、ミラノに続いてこの和によりコルシカ、サヴォイア、ピエモンテを失いかつイタリア制覇の企図の全面的破綻・全ヨーロッパにおける影響力の著しい減少が明白化したことに対する憤激と悲嘆が領国内部に深まる中、異端の撲滅・信仰の単一化による国家的統一の推進を目指す。
シャルル8世の侵攻(1494年)以来の絶えざる戦乱で疲弊したイタリア、この和を歓迎しながら、スペイン=ハプスブルク帝国の覇権下に陥る。
フランス軍庇護下でシエナ亡命者たちが保ってきたモンタルチーノ小共和政、モンタルチーノがコジモ1世・デ・メディチの領有下に入ったことにより、崩壊(1555年~)。1559年7月までにモンタルチーノは全面的にコジモ1世・デ・メディチに服属。
1559年6月30日
アンリ2世、自家の2つの婚礼の祝賀のため1559年6月28日から開始した宮廷騎馬試合の最終日のこの日、エマヌエレ・フィリベルト・ディ・サヴォイア、Henri de Lorraine及びスコットランド近衛隊長・Lorge伯Gabriel de Montgomeryとこの馬上槍試合の最中、カトリーヌ・メディシス、Elisabeth de France、メアリー・スチュアートらの目前で、Gabriel de Montgomeryの折れた槍が頭部を貫通し、重傷を負う。
1559年7月10日
アンリ2世死(1519年~:在位1547年~)——王太子フランソワ2世(1544年~)、フランス王に即位しフランソワ2世を名乗る(在位~1560年)。
15歳の幼王の即位後間もなく、王妃メアリー・スチュアートの外戚で熱狂的なカトリック信徒ギーズ一門、実権を掌握。
別表記
アンリ・ドルレアン
外部リンク
ウィキペディア
Genealogy.EU
歴史データベース
kleio.org
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『カトリーヌ・ド・メディシス』
『世界悪女大全』
『世界大百科事典』
『中世の食卓から』
『馬車の文化史』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネサンス百科事典』
『ローマ教皇検死録』
記載日
2005年5月29日以前