- 生没
- 1494年11月6日~1566年9月7日
- 出身
- オスマン帝国トラブゾン
- 没地
- ハンガリー王国スィゲトヴァール
- 父
- セリム1世
- 母
- ハフサ・スルタン
- 妻
- アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ
- 子
- セリム2世
概要
スレイマン1世は、15世紀から16世紀のオスマン・トルコの男性、スルタン。
在位
オスマン帝国第10代スルタン 1520年~1566年
先代:セリム1世
年表
1494年11月6日
生(1495年)。
1520年9月22日
セリム1世死。子スレイマン、スルタン・スレイマン1世となり、セリム1世がイスラム世界で得た威信を基にオスマン・トルコの最盛期を招来。同時にカール5世支配の神聖ローマ帝国との対立を激化させる。
1521年8月29日
オスマン・トルコのヨーロッパ遠征:遠征を開始したスレイマン1世、ハンガリー側の国境要塞ベオグラードを急襲、占領しハンガリー全土を震撼させる。以後ベオグラードを自軍の宿営地として計10回に渡って遠征し、ヨーロッパを圧迫。
1522年6月1日
スレイマン1世、地中海への侵入口ロードス島の攻撃を宣言。間もなく自ら大軍の先頭に立って進撃。
1522年12月下旬
スレイマン1世、キリスト教世界の地中海における最東端の拠点、聖ヨハネ騎士団の根拠地ロードス島を征服。同騎士団は根拠地をマルタ島に移す。
1526年8月29日
スレイマン1世は、モハーチでハンガリー軍を撃破。ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世、戦死。
1526年9月10日
スレイマン1世軍は、ブダ(現ブタペストの左岸)を占領。
1528年2月24日
サポヤイ・ヤーノシュ、スレイマン1世と協定を結んでその庇護下に入り、共にフェルディナンド及びハプスブルク家の牽制、攻撃を目指す。
1529年5月
スレイマン1世、ウィーンを攻略すべくドナウ河を上る。
1529年8月
サポヤイ・ヤーノシュ、ウィーンに向かって進軍するスレイマン1世をモハーチで迎えて会見し、彼よりハンガリー王位のシンボル聖イシトヴァン宝冠などを与えられる。
1529年9月下旬~末
スレイマン1世の率いるオスマン・トルコ軍の先発隊が、ウィーン包囲を開始。1529年9月30日、自身もウィーン城下に到着。
1529年10月14/15日
スレイマン1世、雨季のひどい悪天候、極端な食糧不足などでウィーン包囲攻撃を断念せざるを得なくなり、撤退。帰国の途につく。
1532年6月
スレイマン1世、再度ウィーン攻略を目指してハンガリーに侵入。
1532年7月23日
カール5世とフェルディナンドは、スレイマン1世軍に対抗するための軍資金の援助を得るべく、シュマルカルデン同盟諸侯とニュルンベルクで休戦協定を結び、次の公会議が開かれるまでの間、新教徒の信教の自由を保障(ニュルンベルク宗教和議)。
1532年8月28日
この月初めからオーストリア国境に2キロのハンガリーGünsでカール5世、フェルディナンド軍と攻防を続けていたスレイマン1世軍は、ようやくこの町を攻略。しかし予想外の激しい抵抗を受けて夏を徒費したため、天候の悪化を懸念してウィーン攻略を断念し、撤退。
1532年10月4日
スレイマン1世の撤退によってその侵攻の脅威を免れて以来クレメンス7世と再び会見することを求め、同意を得たカール5世、会見地ボローニャに向かってウィーンを出発。
1533年6月22日
イスタンブール(コンスタンティノポリス)のスレイマン1世宮廷に使節を送って休戦交渉を行っていたフェルディナンド、ウィーンに初めてスレイマン1世の使節を迎え、スレイマン1世を父、その大宰相Ibrāhim Paşaを兄と呼ぶこと、フェルディナンドに追われてスレイマン1世の庇護を得て来た(1528年~)前ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュにハンガリー王国の大部分を与え、自分はスレイマン1世への貢納を代償として現支配領のハンガリー王国西北部を支配することを約する同盟を締結。
1534年8月
Barbarossa指揮のオスマン・トルコ艦隊、チュニスを占領し、地中海を事実上、制する。
1535年
この年から翌1536年2月にかけてフランソワ1世、使節Jean de La Forêtをイスタンブール(コンスタンティノープル)に派遣してスレイマン1世と交渉。
1536年2月
この頃までにフランソワ1世の使節Jean de La Forêt、イスタンブール(コンスタンティノープル)でスレイマン1世とCapitulation(和平通商協定)に署名か?
1538年2月8日
ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世及びフェルディナンド、ヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成(陸軍の指揮官ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、水軍の指揮官アンドレア・ドーリア)、戦費の分担(パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世が1対2対3の割合)などを約定し、2日後に公示。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
1539年3月
1538年秋の神聖同盟軍の敗走によって独りオスマン・トルコの脅威の前に放置されたヴェネツィア、和平を求めてオスマン・トルコのと交渉を始め、まず3か月の休戦協定を締結。
1541年春
この頃?、スレイマン1世、フェルディナンド軍によるブダ包囲を破るべく、ハンガリーに大軍を送る。
1541年7月2/3日
フランソワ1世のスレイマン1世への使節Antonio Rincone(?~)とCesare Fregoso(1502年?~)、ミラノ領パヴィア近郊ティチーノのポー河口で何者かに暗殺される。
フランソワ1世、この暗殺はカール5世とそのミラノ総督・ペスカーラ侯・ヴァスト侯アルフォンソ3世・ダヴァーロス(1502年~:総督在位1538年~:侯在位1525年~)の指示によるものだと激怒し、これによってカール5世との和(1538年6月7日)は破られたと主張。
1541年8月26日
大軍によってフェルディナンド軍を敗走させたスレイマン1世、自らブダに入り、この地を含むハンガリー王国中央部を自身の直轄領とし、東部を、自身への貢献を条件としてサポヤイ・ヤーノシュの遺志János Zsigmondの支配領とする。これによりハンガリー王国、フェルディナンドの支配する西北部を含め三分割される。
1542年9月
フェルディナンド、ジュラ協定(1541年)に対するスレイマン1世の反抗を防止しこの協定の実現を図るべく、ブダ奪回を目指してブランデンブルク選帝侯Joachim II (Hektor)指揮の軍をハンガリーに送るが、オスマン・トルコ軍に撃退される。
1542年秋
フランソワ1世、イスタンブール(コンスタンティノープル)のスレイマン1世のもとに使節を送り、自身の水軍とBarbarossa指揮下の水軍との統一行動、スレイマン1世軍によるハンガリー占領の継続、などを協定。
1543年6月末~7月
スレイマン1世の命によりマルセイユに向かって出陣したBarbarossa指揮の大艦隊、プーリア、ルカーニア及びカラブリアの沿岸各地で略奪・破壊・放火を続け、テヴェレ川口に現れて全ローマを震撼させるなどを所業を重ねた後、フランソワ1世水軍の盛大な歓迎を受けてリオン湾に入る。
1543年8月10日
フェルディナンドの新たな攻撃の防止・ハンガリーにおける版図拡大を狙うスレイマン1世、自ら軍を率いてベオグラードから出撃し、この日エステルゴム(ドイツ語Gran)を攻略することなどこの年の秋にかけてドナウ川沿いのハプスブルク家領に支配圏を拡大。
1545年11月10日
この日?、プロテスタントとの戦いに専心したいカール5世及びドイツ諸侯から支援を得られなくなったフェルディナンド、スレイマン1世と18か月間の休戦を協定。
1546年7月4/5日
Barbarossa死(1465年頃~:オスマン・トルコ水軍総指揮官在位1533年~)。
1547年6月19日
フェルディナンドとスレイマン1世、休戦協定(1545年)を5年間延長することで合意。これによりスレイマン1世への貢納を条件としてフェルディナンドが現支配領を支配する体制、継続。
1551年8月15日
マルタ島制圧を目指してカール5世軍(スペイン軍)と8日間激戦を続けながら果たせず、カール5世によりマルタ騎士団に与えられていた(1530年~)トリポリに直ちに向かったSinan Paşa総指揮のオスマン・トルコ水軍、Dragut指揮の下、10日間の激戦の末この日トリポリを占領。Dragutはスレイマン1世のトリポリ地方長官となる。
1552年7月15日
1552年7月初めから湾岸各地で略奪を働きながらナポリに向かっていたSinan Paşa総指揮・Dragut指揮のオスマン・トルコ水軍、アンリ2世との合意に基づくナポリ攻略のためポンツァ島に陣を敷く。
1553年9月初旬
オスマン・トルコ水軍とアンリ2世水軍、コルシカ島のほとんどを制圧。しかし間もなくオスマン・トルコ水軍はスレイマン1世に呼び戻されてレヴァントに向かい、アンリ2世水軍のみ残る。
アンドレア・ドーリア総指揮のカール5世軍・ジェノヴァ軍、コルシカ奪還のため攻撃を開始。
1562年6月1日
トランシルヴァニア領有をめぐって対立し戦闘を重ねてきた(1552年~)フェルディナンド1世とスレイマン1世、フェルディナンド1世がこの地の継承請求権を放棄し、かつスレイマン1世への貢納を継続することを約した8年の休戦協定を締結。
1566年9月6日
1565年から自分への貢税支払を拒否しトランシルヴァニアの奪回・領有を狙う神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世を懲罰すべくハンガリー攻略を目指して通算10回目のヨーロッパ遠征中のスレイマン1世、途上のハンガリー南部シゲトヴァール城塞包囲(1566年8月~)の陣中で急病死(1494/1495年~:在位1520年~)。
しかしその死は秘密とされ、軍は2日後、文字通り死を賭して戦うZrínyi Miklós(1508年頃~1566年)指揮の守備隊を玉砕させ、廃墟と化した城塞をようやく占拠。
——子Selim II(1524年~)、スルタンとなる(在位~1574年)。しかし非力なSelim IIに代わってSokollu Mehmet Paşa(1505年~1579年)が大宰相として執政にあたり(~1578年)、故スレイマン1世の偉業を守る。
1566年10月末
スレイマン1世の死を知らされたオスマン・トルコ軍、ハンガリーを離れ、帰国。
別表記
スレイマン大帝、壮麗者シュレイマン皇帝、壮麗帝
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『新世紀ビジュアル大辞典』
『西洋拷問刑罰史』
『世界大百科事典』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『ハプスブルク家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2005年5月29日以前