سلطان‎

スルタン

セリム1世 Selim I

生没
1467/70年~1520年
バヤジット2世
スレイマン1世

概要

 セリム1世は、15世紀から16世紀のオスマン・トルコの男性、スルタン。

在位

 スルタン 1512年~1520年
  先代:バヤジット2世
  次代:スレイマン1世

年表

1512年4月

オスマン・トルコのスルタンバヤジット2世は、子セリム1世(1470年~1520年:在位1512年~1520年)にその位を奪われ、さらにそのセリム1世に1512年5月26日殺害される。

1517年1月27日

オスマン・トルコ軍、マムルーク朝軍を破ってその首都カイロを制圧し、エジプトを支配。これによりスルタン・セリム1世は、アラブ世界の大半を支配下に置き、以後、自らカリフとも名乗る。

1518年3月6日

オスマン・トルコのスルタンセリム1世の目覚しい軍備強化の動きを知ってそのキリスト教世界への侵攻を恐れるレオ10世フランソワ1世マクシミリアン1世カルロス1世ヘンリー8世などキリスト教諸国、諸権力者に勅書を送り、相互の一切の対立、紛争を5年間急死し、共に対トルコ防衛体制をとるよう訴える。

しかしヴェネツィアを初めとする諸国、諸権力者は、教皇の狙いはメディチ家の権勢拡大だとの不信と各自の権勢、権益の維持、拡大の野心とから、教皇の訴えを聞きながらそれぞれの策を進める。

1520年9月22日

セリム1世死。——スレイマン(1494/1495年~1566年)、スルタン・スレイマン1世となり(在位1520年~66年)、セリム1世がイスラム世界で得た威信を基にオスマン・トルコの最盛期を招来。同時にカール5世支配の神聖ローマ帝国との対立を激化させる。

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

バヤジット2世 Bayazit II

生没
1447年頃~1512年
マホメッド2世
セリム1世

概要

 バヤジット2世は、15世紀から16世紀のオスマン・トルコの男性、スルタン。

在位

 スルタン 1481年~1512年
  先代:マホメッド2世
  次代:セリム1世

年表

1481年5月3日

マホメッド2世、死。子バヤジット2世(1447年頃~1512年)、オスマン・トルコのスルタンとなる(在位1481年~1512年)。

バヤジット2世と弟ジェーム(1459年~1495年)との激しい後継争いのため弱体化したオトラントのオスマン・トルコ陣営を、未だその原因を知らぬカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ軍・教皇軍、ジェノヴァ軍、激しく攻撃し始める。

1499年夏~10月

ルドヴィーコ・イル・モーロ、ヴェネツィアを牽制するためオスマン・トルコのスルタンバヤジット2世にヴェネツィア攻撃を勧奨。バヤジット2世軍は、ヴェネツィア領を攻撃し(~1503年)、1499年8月下旬レパントを、1499年10月フリウーリを占領。

1503年8月

ヴェネツィアとオスマン・トルコ、戦闘を中止し和約(1499年~)。この和約によってヴェネツィアはギリシア諸領を放棄し、イタリア人はレヴァント貿易を全て失う。

1512年4月

オスマン・トルコのスルタンバヤジット2世は、子セリム1世(1470年~1520年:在位1512年~1520年)にその位を奪われ、さらにそのセリム1世に1512年5月26日殺害される。

別表記

 トルコ皇帝バヤジト2世、バジャゼット、Bayazi'd II, BaisetoBayezitBajazet

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの華』
 『ローマ教皇検死録』
 『The Life of Cesare Borgia

マホメッド2世 Mehmet II

生没
1430/32年~1481年5月3日
バヤジット2世
ジェーム

概要

 マホメッド2世は、15世紀のオスマン・トルコの男性、スルタン。

在位

 スルタン 1444年~1446年
      1451年~1481年
  次代:バヤジット2世

年表

1444年6月12日

ポーランド王、ハンガリー王Władysław IIIは、前年11月~12月の対オスマン・トルコ軍の勝利を基に、スルタンMurat (Murad) IIに譲歩を強いてEdirne(アドリアーノポリス)で10年の和約を結ぶ。

この後Murat II退位、子マホメッド2世(1430/1432年~1481年)、オスマン・トルコのスルタンとなる(在位1444年~1446年、1451年~1481年)。

1446年

Murat II、外交危機に対応すべくオスマン・トルコのスルタンに復位(在位~1451年)——子マホメッド2世は、スルタンを退位(在位1444年~)。

1451年2月3日

Murat II死。子マホメッド2世、オスマン・トルコのスルタンに再即位(在位~1481年)。

1451年秋~1451年冬

オスマン・トルコのスルタンマホメッド2世、コンスタンティノポリス城門から数キロの海峡の地に堅固な城塞の構築準備に取り掛かる。ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世・パレオロゴスは、直ちに抗議の使節を彼に送るが退けられる。

1452年6月

1452年初めにボスポラス海峡に城塞建築を始めたマホメッド2世、コンスタンティノス11世・パレオロゴスの使節を斬首の刑に処し、皇帝コンスタンティノス11世・パレオロゴスに宣戦布告。

1453年5月29日

マホメッド2世、コンスタンティノポリスを制圧。コンスタンティノス11世・パレオロゴスは戦死(1404年~:在位1448年~)し、ビザンツ帝国滅亡。直ちに、コンスタンティノポリスをオスマン・トルコ帝国の首都とする。以後この首都はイスタンブールと通称される。

1454年4月18日

ヴェネツィアは、使節を送って協定締結を申し入れていたマホメッド2世と、この日、相互不戦、友好などを協定し、ニコラウス5世の提唱する対オスマン・トルコ十字軍への不参加を明確化する。

1456年7月14日~7月21/22日

ハンガリー制圧を狙ってNándor Fehérvár(現ベオグラード)を襲撃してきたマホメッド2世指揮のオスマン・トルコの大軍に対し、教皇使節フランシスコ会修道士、説教師、神学者ジョヴァンニ・カピストラーノ(1386年~1456年)らの呼びかけに応じて結集した貧農、貧民、学生らからなる大軍、フニャディ・ヤーノシュ指揮の教会軍と共に十字軍を構成して勝利を収め、ハンガリーを防衛。

しかしフニャディ・ヤーノシュ(1387年頃又は1407年頃~)は1456年8月11日、ジョヴァンニ・カピストラーノは1456年10月23日、それぞれペストで死。

1460年4月半ば

マホメッド2世指揮のオスマン・トルコ軍、モレア(ペロポネソス半島、ヴェネツィア語ではモレア Morea)制圧を目指して出陣。この年内にこの地をほぼ制圧、占領。

1470年6月半ば

オスマン・トルコの大水軍、マホメッド2世が陣頭に立って出撃し航海中との報、ローマに届く。

1470年6月

オスマン・トルコの大軍、エーゲ海の最大の島の一つでヴェネツィアの支配する(1366年~)エウボイア(ネグロポンテ)の主要地点を包囲。

1470年7月12日

オスマン・トルコ軍、エウボイアを征服。

1478年6月15日

1478年1月以来、平和を求め続けるヴェネツィアに対しその提示する条件を拒否しながらフリウーリや上部イタリアのヴェネツィア領及びレパント、イオニア諸島のLeukadia(現Levkas)、アルバニアにおける植民都市など、ヴェネツィアの植民地を激しく攻撃してきたマホメッド2世、この日、アルバニアにおけるヴェネツィアの主要拠点Krujë(Croia)を制圧。以後も各地の攻撃、制圧を続ける。

1479年1月25/26日

1478年以来マホメッド2世に和を求めながらその条件について同意を得られなかったヴェネツィアは、フィレンツェを巡るトスカーナでの戦闘により教皇及びイタリア諸国のオスマン・トルコへの反抗ないし同盟諸国により自国への支援は期待できないことを考慮し、マホメッド2世の意に沿う条件の和平協定をコンスタンティノープルで結ぶ。

これによりヴェネツィアは、クルヤ、シュコドラ(スクタリ)を初めとするアルバニアにおける拠点、エウボイア島、リムノス島など東方の植民地を放棄し、黒海貿易のみを貢納金の支払いを約すことによって辛うじて確保。当方におけるヴェネツィアの勢力と特権は決定的に後退。

1479年1月

ヴェネツィアとの和約後マホメッド2世、ヴェネツィアに画家派遣を要請。これに応じて、1479年8月1日、ジェンティーレ・ベッリーニが派遣され、コンスタンティノポリスで「スルタン・メフメト2世の肖像」を描く。1480年頃完成。

1480年8月2日

オスマン・トルコ艦隊、オトラントを占領。

1481年5月3日

マホメッド2世、死。子バヤジット2世(1447年頃~1512年)、オスマン・トルコのスルタンとなる(在位1481年~1512年)。

バヤジット2世と弟ジェーム(1459年~1495年)との激しい後継争いのため弱体化したオトラントのオスマン・トルコ陣営を、未だその原因を知らぬカラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ軍・教皇軍、ジェノヴァ軍、激しく攻撃し始める。

肖像

関連項目

 対オスマン・トルコ共同防衛同盟

別表記

 モハメッド、メフメト、メフメトゥ、Mahomet II

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの歴史』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ローマ教皇検死録』

バヤジット1世 Bayazit I

生没
1360年~1403年
ムラト1世

概要

 バヤジット1世は、14世紀から15世紀の男性。

在位

 1389年~1402年

外部リンク

 ウィキペディア

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界大百科事典』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』

記載日

 2005年5月29日以前