- 生没
- 1397年11月15日~1455年3月24日
- 出身
- ジェノヴァ共和国サルザーナ
- 没地
- ローマ
- 父
- バルトロメオ・パレントゥチェッリ
概要
トンマーゾ・パレントゥチェッリは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。第208代教皇ニコラウス5世。
在位
枢機卿 1446年12月16日~1447年
第208代教皇 1447年~1455年
年表
1415年~1419年
フィレンツェに移住。
ストロッツィ家とアルビッツィ家の家庭教師となり、主要な人文主義学者たちと出会う。
14??年
ボローニャ大学に就学し、神学を学ぶ。
レオン・バッティスタ・アルベルティと出会う。
1422年
25歳でボローニャ大学を卒業。
1444年
コジモ・イル・ヴェッキオ、ニッコロ・ニッコリの遺した古典書と自ら収集した古典書(計800余巻?)収蔵の間をサン・マルコ修道院にミケロッツォの設計で作らせ、ニッコロ・ニッコリの遺言通り、かつエウゲニウス4世の侍従として市内にあったトンマーゾ・パレントゥチェッリの協力を得て定めた規則に則り、全ての研修者に開放させる。ヨーロッパ最初の公開図書館、誕生。
1446年12月16日
エウゲニウス4世により、枢機卿に指名される。
1447年3月6日
枢機卿トンマーゾ・パレントゥチェッリ、教皇に即位し、ニコラウス5世を名乗る。
ニコラウス5世、直ちに、ヴェネツィア、フィレンツェ、フランチェスコ1世・スフォルツァ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ、アルフォンソ5世・デ・アラゴンらに和平を提唱。
1447年3月24日
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ニコラウス5世に恭順の意を表し、ニコラウス5世は前教皇エウゲニウス4世がアルフォンソ5世・デ・アラゴンから奪った全ての権限を承認すると共に、その庶子フェッランテ・ダラゴーナのナポリ王位継承権をも承認。
1447年3月
1445年来のマルケでの劣勢、窮地に支援を与えようとしないヴェネツィアに不満を強めていたフランチェスコ1世・スフォルツァ、1447年のヴェネツィアの動きに不信を募らせ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと、(1)ヴェネツィアと同額の傭兵契約金を支払うこと、(2)ミラノの軍総司令官の称号を与えること、を認めさせてヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営を離れ、明確にフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの側に立つ。
間もなく、自分の支配への反乱の止まないマルケ全土をニコラウス5世に返還。
1448年2月17日
フリードリヒ3世の秘書官で人文主義者、詩人、歴史家アエネアス・シルヴィウス・ピッコローミニの影響の下、教皇ニコラウス5世と、自分は教皇首位論を認めて教皇に服し、教皇は自分に司祭の任命権など教会政治における優越権を認めることで協定(Wien政教協定)。これにより公会議首位論を主張するバーゼル分離公会議、決定的に衰退。
1448年
ポーランド王カジミェシュ4世に黄金の薔薇を授与。
1448年10月17~19日
Murat II指揮のオスマン・トルコ軍、ニコラウス5世の支援を得たフニャディ・ヤーノシュ指揮のハンガリー軍をセルビアのコソボで大破。
1448年
この年、イタリア全土にペスト蔓延。ニコラウス5世は罹患を避けてローマからスポレートに避難。
1449年1月18日
ニコラウス5世、フェリクス5世に対し、ローザンヌ分離公会議とその支持者への財産没収、破門、処罰、停職処分を中止し、フェリクス5世には枢機卿として他の枢機卿に勝る高位を与え、フェリクス5世の任命した枢機卿にはそれぞれに応分の高位を与えるとの勅書を送る。
1449年4月25日
1449年4月16日会議を中止したローザンヌ分離公会議、最終的に解散(1431年~1448年、1448年~1449年)。
公会議首位論派自滅し、教皇首位論派の勝利の内に教会分離、ようやく終わる。但し、教皇は国家教会主義(ガリカニズム)を容認したことにより包括的なヨーロッパ支配体制を自ら放棄。
1450年6月
イタリア各地で依然ペストが猛威を振るい、飢餓を脱して間もないミラノでは多数の死者が出る。ローマでは、1450年6月18日ニコラウス5世がまたスポレートに避難。
1450年6月29日
アルフォンソ5世・デ・アラゴンとフィレンツェは、ニコラウス5世の仲介により、アルフォンソ5世・デ・アラゴンが1448年以来獲得しようとしていたピオンビーノの君主リナルド・オルシーニ(?~1450年間もなくペストで死:在位?~)より毎年、貢納金を得ることで和を結ぶ。1450年7月18日公表。
1450年
ニコラウス5世、1450年をカトリック大祭の年としてローマの諸建築の再建に着手し、人文主義者や芸術家をローマに呼ぶ。
かつてTommaso Parentucelliとしてフィレンツェでコジモ・イル・ヴェッキオによるヨーロッパ初の公開図書館の開設(1444年)に協力したニコラウス5世、さらにヨーロッパ諸国に使節を派遣して文献を収集し、ヴァティカン図書館の基礎を築く。
1450年
フランチェスコ・フォスカリに祝福された剣を授与。
オーストリア大公アルブレヒト6世に祝福された剣を授与。
1452年3月15/16日
フリードリヒ3世、フランチェスコ1世・スフォルツァの反対の意を無視したニコラウス5世によりローマのサン・ピエトロ大聖堂でロンバルディア王の冠を受け、3日後(1452年3月18/19日)神聖ローマ皇帝の冠を受ける。ローマで戴冠の最後の皇帝となる。
1452年
フリードリヒ3世とその妻エレオノーレ・フォン・ポルトゥガルに黄金の薔薇を授与。
1452年
ニコラウス5世、フィレンツェ郊外セッティニャーノ生まれの彫刻家、建築家ベルナルド・ロッセリーノ(1409年~1464年)に命じてローマのサン・ピエトロ大聖堂改築に着手。
1453年1月9日
熱狂的な共和政論者で、ニコラウス5世によりローマから遠ざけられボローニャの教皇軍指揮官に左遷されていたがその地を逃亡し、共和政ローマの復活を目指す反乱の陰謀を胸に、1453年1月3日、ローマに潜入したステファノ・ポルカリ、ボローニャからの通報により、1453年1月5日捕らえられ、4日後のこの日、絞首刑に処せられる(?~1453年)。
1453年7月18日~1453年7月20日
コンスタンティノポリス陥落、ビザンツ帝国滅亡の報を得たニコラウス5世、、オスマン・トルコの進出に対するキリスト教諸国の結束を図るべく、この日、ナポリ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノに枢機卿を使節として送り、諸国間の和を結ぶ使節をローマに送るよう強く指示。
同時に、ローマでの枢機卿会議で対オスマン・トルコ防衛の方策を検討。
1453年9月14日
ニコラウス5世、ローマにキリスト教諸国の対オスマン・トルコ防衛会議を召集。
1453年9月30日
ニコラウス5世、対オスマン・トルコ十字軍の勅書を全キリスト教世界に発する。この中で全キリスト教君主に、翌1454年1月6日に自身ないし臣下が聖戦に参加すれば完全に免罪されるが参加を拒む者は破門に処されると熱烈に訴える。
しかし、ヨーロッパ列強及びイタリア諸国はこれに参加せず、訴えは失敗に終わる。
1454年4月9日
ローディの和:ニコラウス5世の召集したイタリア諸国、諸君主の和平交渉がローマで続けられながらも成果を得られないでいる中、ニコラウス5世の使節アウグスティヌス会修道士シモーネ・ダ・カメリーノの精力的な仲介によってフランチェスコ1世・スフォルツァとヴェネツィアの交渉が妥結し、この間の戦争で奪い合った領地を相互に返還すること、各自の同盟者をこの同意に加えていくことなどを、コジモ・イル・ヴェッキオらフィレンツェ首脳を除く他の戦争当事者も存知するに至らない内、この日ローディで協定。5日後、フィレンツェが加入すると共に、この和が公表される。
突然、和平の成立を知らされたアルフォンソ5世・デ・アラゴン、これに加わることを強く拒否し、戦闘継続を宣言。
1454年4月18日
ヴェネツィアは、使節を送って協定締結を申し入れていたマホメッド2世と、この日、相互不戦、友好などを協定し、ニコラウス5世の提唱する対オスマン・トルコ十字軍への不参加を明確化する。
1454年8月30日
イタリア同盟:1454年4月9日のローディの和による和平の更なる強化をフィレンツェの支援の下で試みてきたフランチェスコ1世・スフォルツァ、この日、自身とフィレンツェとヴェネツィアによる25年間の同盟をヴェネツィアで締結することに成功。さらにこの同盟への加盟をイタリア各国、各権力者に求める。ボルソ・デステおよびサンテ・ベンティヴォーリオが直ちに加盟。
間もなくニコラウス5世は、このイタリア同盟に加盟。さらに使節として枢機卿ドメニコ・カプラーニカ(1400年~1458年:在位1430年~1458年)をアルフォンソ5世・デ・アラゴンの元に送り、ヴェネツィア、フィレンツェなどの使節と共に、同盟への加盟を強く勧奨、説得させる。
1454年
1455年3月2日
1455年3月24日
死。
在位
ボローニャ司教 1444年11月27日~1447年3月6日
任命した枢機卿
1448年12月20日 | アラン・ド・コエティヴィ フィリッポ・カランドリニ |
1449年4月23日 | アメーデオ8世・ディ・サヴォイア |
備考
スポレートのアルボルノツィアーナ要塞を完成。
関連項目
本名
トンマーゾ・パレントゥチェリ、Tommaso Parentucelli、Tomaso Parentucelli
別表記
トマソ・パレントゥチェリ、トマーゾ・パレントゥチェリ、ニコラス5世、ニッコラ、Tommaso Parentucelli da Sarzana
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
GCatholic.com
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The Cardinals of the Holy Roman Church
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ローマ教皇検死録』
『April Blood』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前