- 生没
- 1383年~1447年2月23日
- 出身
- ヴェネツィア
概要
ガブリエーレ・コンドゥルメールは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。第207代教皇エウゲニウス4世。
在位
枢機卿 1408年5月9日~1431年
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1408年5月9日~1426年
第207代教皇 1431年~1447年
年表
1431年3月3日
教皇に即位しエウゲニウス4世を名乗る。
即位後直ちに、反ミラノ、反ヴィスコンティの姿勢を示すと共に、自身の即位を推進したオルシーニ一族の意を体し、そのライヴァルで前教皇マルティヌス5世の出自コロンナ一族の掃討に着手。マルティヌス5世の甥プロスペロ・コロンナ枢機卿はローマから逃亡。
1431年4月23日
コロンナ一族、軍を率いてローマを襲うが市内に同調の動き出ず、退散。教皇はナポリ女王ジョヴァンナ2世・ダンジオに援軍の派遣を要請。ジョヴァンナ2世・ダンジオは間もなく援軍を派遣。
1431年4月24日
政情定まらないボローニャと協定を結び、改めてその支配態勢を整え始める。
マルティヌス5世とは反対にヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営に好意的なヴェネツィア人教皇に、ヴェネツィア及びフィレンツェは援軍を送る。
1431年7月23日
東地中海を覆うオスマン・トルコの脅威に直面して西ヨーロッパの支援を求めたいビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス提唱の東西両教会の和解についてローマ教会の合意を固めるべく、バーゼルに公会議を招集。
1431年9月22日
プロスペロ・コロンナらコロンナ一族が譲歩し、一応和を取り結ぶ。
1431年12月18日
バーゼル公会議において公会議首位論者と決裂。この会議を解散し、ボローニャで新たに公会議を開くとの勅書を出す。しかし、公会議首位論者たちはこれを無視し、会議続行の姿勢を示す。
1432年2月14日
公会議首位論者の開くバーゼル分離公会議、この会議招集の合法性を確認。以後、この公会議の反教皇熱、次第に高まる。(/1432年2月15日)
1432年春
ローマで教皇から直接、戴冠することを望みローマに向かおうとするドイツ王ジギスムント・フォン・ルクセンブルクに対し、ジギスムント・フォン・ルクセンブルクはコロンナ一族のローマ襲撃(1431年4月)に加担している上フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとも結んでいると信じ、自身がローマに入らずパルマに滞在するなどしてそのローマ入りを巧みに妨害。
ジギスムント・フォン・ルクセンブルクは、ローマ入りをひとまず断念し、ミラノからピアツェンツァ、パルマを経て、フィレンツェ軍とシエナ、ルッカ及びフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とが戦闘中のトスカーナに入る。
1432年以降
ヴワディスワフ2世・ヤギェウォに、1432年に制作された祝福された剣を授与。
1433年5月31日
ヴァティカン宮殿でジギスムント・フォン・ルクセンブルクを神聖ローマ皇帝として戴冠。
1433年11月30日
バーゼル分離公会議代表とフス派穏健派との和議成立し、協定締結される(プラハ協定)。
1433年12月15日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルクを初め諸権力者からバーゼル分離公会議との和解を求められ、バーゼル分離公会議解散の勅書(1431年12年)を撤回し、この会議の合法性を承認する勅書を発する。
1434年2月5日
バーゼル分離公会議は、前年12月の教皇の勅書を受け、教皇の人格と尊厳を損ねるこれまでの行為を全て撤回することに決める。
1434年3月25日
ニッコロ・フォルテブラッチョ指揮のフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍がコロンナ家の支援も得てローマの門前に迫り、市内ではオルシーニ家の一部やコンテ家などの支持しか得られない中で、フランチェスコ1世・スフォルツァを懐柔すべく、彼にマルケを封与し、その侯位を与えると共に、彼を教会の旗手に任命。
1434年
ラヌッチョ・ファルネーゼに黄金の薔薇を授与。
1434年5月
加えて、ニッコロ・フォルテブラッチョの懐柔も試みるが、ニッコロ・フォルテブラッチョは全てこれを拒否し、ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍の応援も得てローマ周辺の攻略を続ける。
1434年5月29日
コロンナ家やバーゼル分離公会議派が反エウゲニウス4世行動に決起するよう扇動を続けるローマで反乱発生。市民は共和政を叫び、教皇の甥フランチェスコ・コンドゥルマーロを捕らえる。
1434年6月4日
ベネディクト会修道士の姿に変装し、2名の随員と共に小船でテヴェレ河を下り、オスティアに、次いで船を乗り換えリヴォルノに向かう。ニッコロ・フォルテブラッチョは、軍をもってローマを制圧。
1434年6月23日
リヴォルノを経てフィレンツェに着き、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会に落ち着く(~1443年)。
1434年9月25日
自派の没落の危機を痛感し武装蜂起によって一気に状況を逆転しようと狙ってきたリナルド・デリ・アルビッツィは、この日、自身の親衛隊に政庁舎占拠態勢を取らせながら実行の機を捉えられず。
1434年9月
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会から、司教ジョヴァンニ・ヴィテレスキを遣わしてフィレンツェの調停、事態収拾工作に乗り出す。
1434年以降
フィレンツェ共和国に、1434年に制作された祝福された剣を授与。
1435年2月2日
1435年
アルフォンソ5世・デ・アラゴンがナポリ王位を要求。
1435年~1442年
ナポリは教会領であるとの回告を発し、ナポリ内部はルネ・ダンジュー、アルフォンソ5世・デ・アラゴンとの3派に分裂して、ルネ・ダンジューとアルフォンソ5世・デ・アラゴンの間で戦闘始まる。
1435年
1435年6月9日
バーゼル分離公会議、エウゲニウス4世の収入源である諸税の撤廃を決議。以後、この公会議の反エウゲニウス4世熱、頂点に達する。
1435年8月10日
ヴェネツィア・フィレンツェ同盟陣営とフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが、再びニッコロ3世・デステの仲介により和約。これによりイーモラとボローニャを確保。
1437年1月15日
バーゼル分離公会議、前年7月のイフラヴァの協約を批准。但し教皇はこれを峻拒。
1437年春~夏
アルフォンソ5世・デ・アラゴンから求められたナポリ王位継承の公認を行なわず、ルネ・ダンジュー支持の態度を明らかにすると共に以後、ルネ・ダンジューに援軍を派遣。これに対しアルフォンソ5世・デ・アラゴン、バーゼル分離公会議派にローマ占領を呼びかける。
1437年9月18日
バーゼル分離公会議への出頭を求められてきたが、この日、過去6年間バーゼルでの会議の不毛さを指摘すると共に東西両教会合同に関する会議はフェッラーラで行なうとの勅書をもって答える。
1438年1月8日
フェッラーラで公会議、開催される。教皇の代理Niccolò Albergati枢機卿が、議長として開会を宣言すると共に、バーゼル公会議の終了及びそこで教皇の同意なく決議された全布告の全て無効性を宣言。
バーゼルに残った公会議首位論者は分離公会議を続行。
1438年1月24日
フェッラーラに入る。コルティーレ・ドゥカーレに滞在。
1439年1月
ペストの蔓延を口実に公会議をフェッラーラから、メディチ家の財政的支援を期待できるフィレンツェに移すことに決め、ビザンティン皇帝ヨハネス8世・パレオロゴス及びコンスタンティノポリス総主教Iosephの同意を得る。
1439年1月16日
1439年2月18日
ヴェネツィアとフィレンツェ、ロンバルディア各地で攻勢を強めるフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティに対抗するためヴェネツィアの発案により、(1)戦費の3分の2をヴェネツィア、3分の1をフィレンツェが負担し、(2)フランチェスコ1世・スフォルツァを両者の総指揮官として雇用し、(3)彼の領国を両者で確保することを改めて盟約。
1439年2月28日
ヴェネツィアとフィレンツェの盟約に、ニッコロ3世・デステ、ジェノヴァと共に加盟。以後も各地で両陣営軍の間で激戦、続く。
1439年6月25日
バーゼル分離公会議で、自身の廃位が決議される。
1440年2月
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティが、ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を派遣。
1440年3月4日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍が、ボローニャに到着。間もなくトスカーナに入る。
この軍の接近の報にフィレンツェは、急ぎ軍を整えると共にヴェネツィアにはフランチェスコ1世・スフォルツァのフィレンツェ軍への復帰を求めたが無視される。
フィレンツェから支援を求められ、受託する。
1440年6月末
この頃、ロンバルディアとナポリで戦闘激化。前者ではフランチェスコ1世・スフォルツァ指揮のヴェネツィア軍がフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍を破ってブレッシャを制圧し、後者ではルネ・ダンジューとアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍の戦いが続き、アルフォンソ5世・デ・アラゴンはフランチェスコ1世・スフォルツァの勢力失墜を願うフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティと結んでナポリ王国内部のフランチェスコ1世・スフォルツァの所領を占領すると共にナポリ市内を包囲。ルネ・ダンジューは急ぎエウゲニウス4世に支援を求める。
1441年8月
この月?、マントヴァ近郊カヴリアーナに使節を遣わし、フランチェスコ1世・スフォルツァは自身で赴いて、1441年8月1日の合意などにつき、エウゲニウス4世、ヴェネツィア及びフィレンツェの使節の前で協定。1441年11月20日公表。
しかし、両者の関係、フランチェスコ1世・スフォルツァに全領国の継承の可能性を匂わせながらも約定しなかったことなどにより、以後も複雑に展開。
1442年1月
フランチェスコ1世・スフォルツァ、アルフォンソ5世・デ・アラゴンに占領された自領を奪還し、さらにナポリを制圧すべくフィレンツェとヴェネツィアから資金を得て進軍態勢を整える。
この進軍を止めたいアルフォンソ5世・デ・アラゴンと、フランチェスコ1世・スフォルツァの勢力のこれ以上の増大を止めたいフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世にフランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪うよう働きかけ、フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティはニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍を提供。
1442年3月3日
ニッコロ・ピッチニーノ指揮の軍は、ボローニャに到着。さらに南下し、フランチェスコ1世・スフォルツァの領有するトーディを占領。
エウゲニウス4世は、間もなくニッコロ・ピッチニーノを教会の旗手に任命し、アルフォンソ5世・デ・アラゴンの側に立つ。
フランチェスコ1世・スフォルツァは、ナポリ遠征を断念。
1443年3月7日
フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪還したいエウゲニウス4世、フランチェスコ1世・スフォルツァ支持が強固不変のフィレンツェとは協調不可能なことを痛感し、公会議の場をローマに移すと共に、この日、1434年以降逗留していたフィレンツェを離れる。
1443年6月14日
フランチェスコ1世・スフォルツァからマルケを奪還するためにアルフォンソ5世・デ・アラゴンを利用したいエウゲニウス4世と、フランチェスコ1世・スフォルツァ追討に加えてエウゲニウス4世からのナポリの正式封与を実現したいアルフォンソ5世・デ・アラゴン、アルフォンソ5世・デ・アラゴンはエウゲニウス4世を正統な教皇と認め、エウゲニウス4世はアルフォンソ5世・デ・アラゴンを正統なナポリ王と認めること、などを協定。
間もなくフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティは、エウゲニウス4世にマルケ攻撃のための援軍を送る。
1443年7月15日
エウゲニウス4世、アルフォンソ5世・デ・アラゴンをナポリ王として承認する勅書を発す。
アルフォンソ5世・デ・アラゴン、ナポリ王としてAlfonso Iを名乗る(在位~1458年)。
1443年9月28日
この日頃エウゲニウス4世、9年ぶりにローマに帰還。
1443年10月13日
エウゲニウス4世、ローマのサン・ラテラーノ教会で公会議を開催(~1445年)。
1443年11月3日
エウゲニウス4世の提唱による対オスマン・トルコ新十字軍、フニャディ・ヤーノシュ(1387年頃または1407年頃~1356年)指揮の下、セルビアの旧都Nish (Nis)近郊でオスマン・トルコ軍を撃破。
1443年
ヴワディスワフ3世・ヤギェウォに祝福された剣を授与。
1444年
ヘンリー6世に黄金の薔薇を授与(1446年)。
1444年4月20日
ローマ公会議、バーゼル分離公会議を異端と宣言し、公会議に対する教皇の首位性を確認。
1444年7月
Władysław III、オスマン・トルコをヨーロッパから追放する好機と見たエウゲニウス4世の推奨に従い、6月12日の和約の不履行との口実の下、和約を破ってトルコ攻撃の態勢を取り始める。
1444年8月半ば
エウゲニウス4世自身とアルフォンソ5世・デ・アラゴンから兵と資金を得て増強されながらも指揮官ニッコロ・ピッチニーノがフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティによりミラノに呼び戻されたため、その子フランチェスコ・ピッチニーノ(?~1449年)が指揮を執る教会軍、モントルモでフランチェスコ1世・スフォルツァ軍の攻撃を受け、完敗。
フランチェスコ1世・スフォルツァ軍の反撃、続く。
1444年8月
シエナに入る。以後この地に逗留。
1444年10月10日
エウゲニウス4世、ヴェネツィア及びコジモ・イル・ヴェッキオの推奨と仲介によりフランチェスコ1世・スフォルツァと和を結び、アンコーナ、オージモ、レカナーティ及びファブリアーノを除くマルケ全域を封与してフランチェスコ1世・スフォルツァをその侯と認める。しかし両者の関係、以後も曲折を経て複雑に展開。
1445年8月10日
アスコリがフランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、教会の支配を受容。
エウゲニウス4世とアルフォンソ5世・デ・アラゴンはマルケ奪還、制圧の好機と見て大軍をマルケに送り始め、これに呼応してフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティも軍を送ってフランチェスコ1世・スフォルツァを挟撃する態勢をとる。
1445年10月半ば~1445年11月
1445年10月15日Rocca Contradaが、1445年11月20/26日フェルモが、フランチェスコ1世・スフォルツァの支配に反乱を起こし、エウゲニウス4世とアルフォンソ5世・デ・アラゴン軍を受け入れるなど、フランチェスコ1世・スフォルツァの支配、マルケ全域で動揺。
1446年以降
フアン2世・デ・カスティーリャ に、 1446年に制作された祝福された剣を授与。
1447年2月7日
ドイツ協定締結
1447年2月23日
死。
任命した枢機卿
1437年8月9日 | ジョヴァンニ・ヴィテレスキ |
1439年12月18日 |
ヨハネス・ベッサリオン ギヨーム・デストゥトヴィル フアン・デ・トルクマーダ |
1440年7月1日 |
ルドヴィーコ・スカランピ ピエトロ・バルボ |
1444年5月2日 | アルフォンス・デ・ボルジャ |
1446年12月16日 |
トンマーゾ・パレントゥチェリ フアン・カルバハル |
肖像
注文
埋葬地
本名
ガブリエッロ・コンドゥルマーロ、Gabriele Condulmer、Gabrielo Condulmaro
別表記
Eugenio
外部リンク
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The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『フィレンツェ史』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス夜話』
『April Blood』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前