シャルルマーニュ Karl der Grosse
- 生没
- 742年4月2日~814年1月28日
- 出身
- アーヘン
- 没地
- アーヘン
- 父
- ピピン3世
- 妻
-
ヒミルトルーデ
デジデリア
ヒルデガルド
ファストラダ
ルイトガルド
ゲルスヴィンデ - 子
- アモードル
ピピン
カール
アデルハイト
ロトルート
ピピン
ルードヴィヒ敬虔王
ロタール
ベルト
ギゼラ
ヒルデガルド
テオドラーダ
ヒルトルート
アダルトルート
ルオトハイト
アルパイダ
ドロゴ
ユーグ
リチボド
テウデリク
概要
シャルルマーニュは、8世紀~9世紀の男性。
在位
フランク王 768年~814年
ランゴバルド王カルロ1世 774年~814年
教会軍総司令官 798年~814年
西ローマ帝国皇帝カール1世 800年~814年
年表
800年12月25日
午前中、サン・ピエトロ大聖堂でのミサで、ペトロの墓に額づき、身を起こした時、教皇レオ3世からローマ皇帝として戴冠される。ドイツではこの出来事を神聖ローマ帝国の成立とみなし、神聖ローマ初代皇帝カール1世と呼ばれる。
肖像
埋葬地
別表記
チャールズ大帝、カール大帝、Charlemagne
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『黒い聖母と悪魔の謎』
『修道院』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『大聖堂のコスモロジー』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『馬車の文化史』
『服飾の中世』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ローマ教皇検死録』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
『Lucretia Borgia』
オットー1世 Otto I
- 生没
- 912年11月23日~973年5月7日
概要
オットー1世は、10世紀の男性。
在位
東フランク王 936年~962年
イタリア王オットーネ1世 951年~973年
神聖ローマ帝国初代皇帝 962年~973年
年表
962年2月2日
サン・ピエトロ大聖堂で教皇から帝冠を授けられる。神聖ローマ帝国の国号が使われ出したのは2百年後の13世紀だが、世界史ではこの時をもって神聖ローマ帝国の誕生としている。
別表記
オットー大帝、オットーネ・イル・グランデ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『Lucretia Borgia』
ハインリヒ5世 Heinrich V
- 生没
- 1086年8月11日~1125年5月23日
在位
神聖ローマ皇帝 1111年~1125年
別表記
ハインリッヒ5世
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『修道院』
フリードリヒ1世 Friedrich I
- 生没
- 1123年~1190年6月10日
概要
フリードリヒ1世は、12世紀の男性。
在位
ドイツ国王 1152年~1169年
神聖ローマ皇帝 1152年~1190年(皇帝戴冠1155年)
イタリア王 1155年~1190年
年表
1155年6月18日
サン・ピエトロ大聖堂で教皇ハドリアヌス4世から戴冠される。
別表記
フレデリック皇帝、Federico Barbarossa
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『メディチ家』
『傭兵の二千年史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
フリードリヒ2世 Friedrich II
- 生没
- 1194年12月26日~1250年12月13日
- 出身
- イェージ
- 没地
- シチリア王国トッレマッジョーレ
- 父
- ハインリヒ6世
- 母
- コスタンツァ・ダルタヴィッラ
- 妻
- コンスタンサ・デ・アラゴン
イザベル2世
イザベラ・オブ・イングランド - 子
- ハインリヒ7世
コンラート4世
マンフレディ
エンツォ
概要
フリードリヒ2世は、12世紀~13世紀の男性。
在位
シチリア王フリードリヒ1世 1198年~1250年
シュヴァーベン公 1212年~1216年年
神聖ローマ皇帝 1212年~1250年
エルサレム王 1225年~1234年
年表
1198年5月17日
シチリア王として戴冠。
1212年12月9日
対立ローマ王として戴冠。
1212年
ドイツ王。
1215年6月23日
ローマ王として戴冠。
1220年11月22日
サン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝として戴冠される。
1229年3月18日
エルサレム王として戴冠。
1237年11月27日
フィリードリッヒ2世が、コルテヌオーヴァの戦いで第2次ロンバルディア都市同盟軍を破る。
1240年8月
ラヴェンナを占領する。
1248年2月18日
第2次ロンバルディア都市同盟に敗れる。
1250年
死去。
埋葬地
パレルモ大聖堂
別表記
フリードリッヒ、フリードリヒ・ホーエンシュタウフェン、フォン・シュヴァーヴェン
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『サイレント・マイノリティ』
『世界大百科事典』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『傭兵の二千年史』
『ルネサンス宮廷大全』
ハインリヒ7世 Heinrich VII
- 生没
- 1270年?~1313年8月24日
- 出身
- 神聖ローマ帝国エノー伯国ヴァランシエンヌ
- 没地
- 神聖ローマ帝国イタリア王国ブオンコンヴェント
- 父
- ハインリヒ6世・フォン・ルクセンブルク
- 母
- ベアトリス・ダヴェーヌ
- 妻
- マルグリット・ド・ブラバン
- 子
- ヨハン・フォン・ルクセンブルク
マリー・フォン・ルクセンブルク
ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク
概要
ハインリヒ7世は、13世紀から14世紀の男性。
在位
ローマ王 1308年~1313年
神聖ローマ皇帝 1308年~1313年
年表
1270年?
ヴァランシエンヌにて、生(1275年)。
1308年11月27日
ローマ王に選出される。
1309年1月6日
アーヘンにて、ローマ王として戴冠。
1311年1月6日
イタリア王として戴冠。
1312年6月29日
神聖ローマ皇帝として戴冠。
1313年9月2日(日)
ピサ大聖堂で葬儀、埋葬される。
1???年
後に石棺がピサのカンポサントに移される。
1921年
石棺がピサ大聖堂に戻される。
埋葬地
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『サロメの乳母の話』
『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
『ルネサンス宮廷大全』
ルートヴィヒ4世 Ludwig IV
- 生没
- 1282年~1347年10月11日
- 父
- ルートヴィヒ2世
概要
ルートヴィヒ4世は、13世紀から14世紀の男性。
在位
ドイツ王 1314年~1347年
神聖ローマ皇帝 1328年~1347年
外部リンク
参考文献
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
カール4世 Karl IV
- 生没
- 1316年5月14日~1378年11月29日
- 出身
- ボヘミア王国プラハ
- 没地
- ボヘミア王国プラハ
- 父
- ヨハン・フォン・ルクセンブルク
- 母
- エリシュカ・プシェミスロヴナ
- 妻
- ブランシュ・ド・ヴァロワ
アンナ・フォン・デア・プファルツ
アンナ・シフィドニツカ
エリーザベト・フォン・ポンメルン - 子
- マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク
カタリーナ・フォン・ルクセンブルク
ヴェンツェル・フォン・ルクセンブルク
エリーザベト・フォン・ルクセンブルク
ヴェンツェル
アンナ・フォン・ルクセンブルク
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク
ヨハン・フォン・ルクセンブルク
カール・フォン・ルクセンブルク
マルガレーテ・フォン・ルクセンブルク
ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク
概要
カール4世は、14世紀の男性、神聖ローマ帝国皇帝。
在位
神聖ローマ皇帝 1347年~1378年
年表
別表記
カルル4世
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
ループレヒト Ruprecht
- 生没
- 1352年5月5日~1410年5月18日
- 妻
- エリーザベト・フォン・ツォレルン
在位
神聖ローマ皇帝 1400年~1410年
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ヴェンツェル Wenzel
- 生没
- 1361年2月26日~1419年8月16日
- 出身
- ニュルンベルク
- 没地
- プラハ
- 父
- カール4世
- 母
- アンナ・シフィドニツカ
- 妻
- ヨハンナ・フォン・バイエルン
ゾフィー・フォン・バイエルン
在位
ローマ王 1376年~1400年
ボヘミア王ヴァーツラフ4世 1378年~1419年
ルクセンブルク公ヴェンツェル2世 1383年~1388年
ブランデンブルク選帝侯 1373年~1378年
年表
1395年
外部リンク
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク Sigismund von Luxemburg
- 生没
- 1368年2月15日~1437年12月9日
- 出身
- プラハ
- 没地
- ズナイム、ボヘミア
概要
ジギスムント・フォン・ルクセンブルクは、14世紀から15世紀の男性、神聖ローマ帝国皇帝。
在位
ルクセンブルク公 1378年~1388年
ブランデンブルク選帝侯 1378年~1388年、1411年~1415年
神聖ローマ皇帝 1410年~1437年(1411年までヨープストと並立)
ボヘミア王 1419年~1437年
ハンガリー王 1387年~1437年
年表
1414年
1415年
1430年
ボヘミアでの争乱を収拾。
1431年11月25日
ミラノのサンタンブロージオ聖堂で大司教Bartolomeo della Capraより王の冠を受け、間もなくローマに向かう。
1432年春
ローマで教皇から直接戴冠されることを望みローマに向かおうとするが、彼がコロンナ一族のローマ襲撃に加担している上フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとも結んでいると信じる教皇エウゲニウス4世に、自身がローマに入らずパルマに滞在するなどして、そのローマ入りを巧みに妨害される。
ローマ入りをひとまず断念し、ミラノからピアツェンツァ、パルマを経て、フィレンツェ軍とシエナ、ルッカ及びフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とが戦闘中のトスカーナに入る。
1432年5月31日
ルッカに入り、さらにシエナに向かう態勢を取る。
これに対しフィレンツェ共和国は、使節をルッカに送って表面上は敬意を表しながらも、そのシエナ入りを阻止すべく密かに画策。
1432年7月11日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティ軍とシエナ軍に守られてシエナに入る。
1432年7月11日~1433年5月
シエナに逗留し、ローマ入りとその地での戴冠を実現すべく引き続き画策。
1432年
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガにマントヴァ侯位を約束。
1433年5月21日
ローマに入る。ローマで教皇の手から戴冠することを希願し続けてエウゲニウス4世と裏面で折衝を重ねる。
1433年5月31日
ヴァティカン宮殿でエウゲニウス4世より戴冠。これにより神聖ローマ皇帝の称号を用いる正統性をようやく得る。
1433年9月9日
ローマからの帰途上マントヴァに入る。
1433年9月22日
マントヴァの大聖堂でジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガにマントヴァ侯位を受け、盛大な祝賀行事が繰り広げられる。
1434年5月30日
ボヘミアのフス派急進派、カトリックと連合したフス派穏健派に殲滅される。
1434年10月
エウゲニウス4世の逃亡後、無秩序状態が続き教皇帰還を求める動きが活発化したローマに、エウゲニウス4世の使節ジョヴァンニ・ヴィテレスキが到着し、市民に歓呼をもって迎えられる。以後ジョヴァンニ・ヴィテレスキは、教会支配の復活を準備。
1434年夏以降敗戦の続くフィレンツェ、大金を払ってフランチェスコ1世・スフォルツァと傭兵契約を交わし、彼とその軍をヴェネツィア・フィレンツェ同盟軍に加える。
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク、16か条からなる帝国改革計画を公表して帝国諸身分の意見を求めると共に、次の帝国議会で帝国改革について議決するよう提案。
しかし、諸侯も都市の意見が対立し、帝国改革計画は実行を挙げ得ずに終わる。
1435年
1436年7月5日
ジギスムント・フォン・ルクセンブルク出席の下で開かれたイフラヴァの帝国議会で、ジギスムント・フォン・ルクセンブルク、フス派穏健派、バーゼル分離公会議の代表者の3者、協定を締結(イフラヴァ協約)。フス戦争、ようやく終結し(1419年~)、フス派はジギスムント・フォン・ルクセンブルクをボヘミア王として承認。
1437年12月9日
神聖ローマ皇帝ジギスムント・フォン・ルクセンブルク死(1368年~:皇帝在位1411年~:ハンガリー王在位1387年~:ボヘミア王在位1419年~)。
別表記
シギスムント1世
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『戦闘技術の歴史2 中世編』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの歴史』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年1月20日