——Andrea Doria——
アンドレア・ドーリア
生没年:1466年11月30日〜1560年11月25日
出身:オネリア
没地:ジェノヴァ
父:チェーヴァ・ドーリア
母:カラコーザ・ドーリア
妻:ペレッタ・ウソディマーレ
記載日:2005年5月29日以前

概要
 アンドレア・ドーリアはイタリアの傭兵隊長。ジェノヴァの海将。

年表
 1466年11月30日 オネリアにて、生。

 1527年3月 ジェノヴァにて、ペレッタ・ウソディマーレと結婚。
 1527年8月19日〜下旬 この日頃から?、オデ・ド・フォワ指揮のフランソワ1世軍として、海からジェノヴァを攻撃、陸からはチェーザレ・フレゴーソらが攻撃し占領。

 1528年4月下旬 オデ・ド・フォワ配下として、甥フィリッポ・ドーリアと共にジェノヴァ艦隊を指揮し、海からナポリを包囲すると共にスペインからの補給物資輸送船のナポリ入港を阻止。これに対してウーゴ・デ・モンカーダ指揮のナポリ守備軍が出撃し激戦を交わす。
 1528年4月28日 Capo d'Orsoの戦に勝利し、ウーゴ・デ・モンカーダは戦死。輸送船を捕獲する。
 1528年6月10日 ヴェネツィアの艦隊は、ナポリ湾に着き、包囲に加わる。しかし、フランソワ1世による処遇に不満を抱いていたため密命を与えた甥フィリッポ・ドーリアがすでに湾の封鎖を緩和していたため、スペインからの補給輸送船は入港できるようになる。
 1528年6月下旬 フランソワ1世による自身の処遇、艦隊の維持費不払い、ジェノヴァへのサヴォーナ返還問題などに強い不満を抱き、6月末の傭兵契約期限終了を前に、フランソワ1世の説得を振り切って契約更新を拒否。
 1528年7月4日 艦隊によるナポリ包囲を解く。
 1528年7月15日 ヴェネツィアの艦隊、一部を除いてナポリ包囲を解き、カラブリア方面に帰る。
 1528年7月下旬 この頃?、カール5世から提示された彼の保護下でのジェノヴァの独立、サヴォーナのジェノヴァ帰属などの条件を受け入れて彼の配下に入る。
 1528年9月9日 カール5世の支持の下、ペストの蔓延によってフランソワ1世ジェノヴァ総督Teodoro Trivulzioの守備態勢が弱化しているジェノヴァを海上から包囲。
 1528年9月12日 少数の軍を率いてジェノヴァに入り、反乱を起こした市民と共にTeodoro Trivulzioを破る。ジェノヴァはフランソワ1世の支配を脱しカール5世の保護の下で「自由」を得る(1528年9月13日)。

 1538年2月8日 ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世ヴェネツィアカール5世及びフェルディナンドヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成を約定。その水軍の指揮官に任命される。陸軍の指揮官はウルビーノフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ
 1538年2月10日 神聖同盟が公示される。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
 1538年9月27日 プレヴェザ沖の海戦:ようやく結成された神聖同盟軍、Barbarossa指揮のオスマン・トルコ軍とギリシア・プレヴェザ沖で遭遇。教皇軍、カール5世及びヴェネツィア軍にポルトガル軍、マルタ軍、フィレンツェ軍を加えて艦船数で後者の2.5倍、兵数で3.5倍の量を誇る前者、後者の砲撃の前にあえなく退却(1538年9月28日)。オスマン・トルコによる地中海制圧、始まる(〜1571年)。

 1541年10月下旬 カール5世に従い、大艦隊を指揮してBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェを攻撃。しかし、突然襲来した激しいハリケーンとそれに乗じての現地Barbaria人軍団の反撃にあって壊滅的打撃を受け、カール5世自身も危機に陥る。以後、オスマン・トルコ水軍、フランソワ1世水軍との提携の下、北アフリカのスペイン拠点を次々と攻略。

 1547年1月2日〜1月3日 ジェノヴァの貴族Gian Luigi Fieschi (il Giovane)とその兄弟Gerolamo FieschiOttobono Fieschiカール5世を背景にジェノヴァを事実上専制的に支配するアンドレア・ドーリア一族の放逐とフランソワ1世の庇護下でのBarnaba Adornoによる統治を目指し、市内の親フランス派貴族と結んで、武装蜂起。
                市の城門が閉められ、港に停泊中の彼の艦船を捕獲され、彼の後継者Giannettino Doriaが殺害されるが、彼自身は逃亡に成功。Gian Luigi Fieschi (il Giovane)が艦船を乗り移る最中に海に落ちて溺死し、それと共に仲間が逃亡し、蜂起は失敗に終わる。
                市内に戻り、Gerolamo Fieschiらを処刑するなど、蜂起勢力を厳しく処罰。
                カール5世は、ジェノヴァの蜂起にはピエル・ルイジ・ファルネーゼパウルス3世が関与しているとしてパウルス3世の使節に抗議するが、否定され斥けられる。

 1548年11月22日 帝国内のみならず支配圏全域に長子を自らの後継者として認知させようと目論む父カール5世の指示に従いスペインを発ったフェリペ2世、彼の艦隊でこの日ジェノヴァに着き、彼の館に入る。イタリアの各諸侯、自ら、あるいは特使を送ってフェリペ2世に貢納。フェリペ2世は後パヴィアを経てミラノに向かう。

 1550年6月28日 故Barbarossaの後継者的な海賊Dragut(本名Torghud 'Ali Paşa)を先頭に南イタリア地中海沿岸諸都市で略奪・破壊を働き続けるSinan Paşa総指揮のオスマン・トルコ水軍がこの春、占領したマーディアを奪還すると共にその海賊行為を断つべく、カール5世の指示により、総指揮下のカール5世軍及びカール5世のシチリア総督Juan de Vegaの軍にペドロ・デ・トレド及びコジモ1世・デ・メディチからの援軍を加えた大軍、この日アフリカ(マーディア)に上陸。
 1550年9月8日 総指揮下の大軍、この日マーディアをようやく攻略。

 1553年9月初旬 オスマン・トルコ水軍とアンリ2世水軍、コルシカ島のほとんどを制圧。しかし間もなくオスマン・トルコ水軍はスレイマン1世に呼び戻されてレヴァントに向かい、アンリ2世水軍のみ残る。
           総指揮下のカール5世軍・ジェノヴァ軍、コルシカ奪還のため攻撃を開始。
 1553年冬 総指揮下のカール5世軍・ジェノヴァ軍、ボニファチオを除くコルシカ全島をアンリ2世軍から奪還。

 1560年11月25日 ジェノヴァにて、死。

肖像
 ネプトゥヌスに扮したアンドレア・ドーリアの肖像

外部リンク
 ウィキペディア
 歴史データベース
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ハプスブルク家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス百科事典』
傭兵隊長
歴史人物辞典
そこそこアレな感じで