- 生没
- 1503年3月10日~1564年7月25日
- 父
- フェリペ1世
- 母
- フアナ1世・デ・トラスタマラ
- 妻
- アンナ・ヤギェウォ
- 子
- マクシミリアン2世
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク
カタリーナ・フォン・ハプスブルク
エレオノーラ・ダズブルゴ
バルバーラ・ダズブルゴ
カール
ジョヴァンナ・ダズブルゴ
概要
フェルディナンド1世は、16世紀の男性、神聖ローマ帝国皇帝。
在位
神聖ローマ皇帝 1556年~1564年
ボヘミア及びハンガリー王 1526年~1564年
年表
1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世(1503年~1564年:ボヘミア王在位1526年~1564年:ハンガリー王在位1526年~1564年:神聖ローマ皇帝在位1558年~1564年)をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルク(1505年~1558年:ネーデルラント総督在位1531年~1555年)をウラースロー2世・ヤギェウォ子ラヨシュ2世(1506年~1526年:在位1516年~1526年)と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
1521年4月21日
カール5世、この日のヴォルムスの分割協定と翌1522年2月7日のブリュッセルの分割協定によりハプスブルク家のオーストリア世襲領を弟フェルディナンドに委譲し、フェルディナンドはオーストリア大公となる。これによりハプスブルク家のオーストリア系とスペイン系への分裂の端緒、開かれる。
1521年5月
カール5世の弟、オーストリア大公フェルディナンド1世、ハンガリー・ボヘミア王ラヨシュ2世の妹アンナ・ヤギェウォと結婚。
1523年7月29日
この頃、1523年4月頃以来カール5世から使節ジローラモ・アドルノを、その死後は同じくMarino Caracciolo(1469年~1538年)を送られ、協定を求められてきた上に1523年7月半ばからはハドリアヌス6世からも強く促されていたヴェネツィアは、求めに応じてカール5世、フェルディナンド及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァとミラノ防衛の協定を結ぶ。カール5世によるフランソワ1世の孤立化、そのイタリア侵攻阻止の態勢、さらに強まる。しかしフランソワ1世はイタリア侵攻の意を弱めず軍を強化。
1523年8月3日
イタリアにおける戦闘の終息及びオスマン・トルコの攻撃に対するキリスト教世界の防衛を期するハドリアヌス6世、イタリア侵攻、ミラノ奪還の意図を捨てようとしないフランソワ1世に対抗すべく、カール5世、ヘンリー8世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、フィレンツェ、シエナ、ジェノヴァなどと同盟を締結。
1524年3~4月
Guillaume de Bonnivet指揮のフランソワ1世軍と、Charles de Lannoy指揮のカール5世軍を主力としてシャルル・ド・ブルボン軍、フェルディナンド軍、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ総指揮のヴェネツィア軍、ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ指揮のフィレンツェ軍を結集した同盟軍が、ミラノ攻防を巡って激戦。フランソワ1世軍の敗色濃厚となる。
1526年4月16日
エラスムス、フェルディナンドの側近、ウィーン司教Johannes Faberに書簡を送り、ローマ教会とルター派の相互不干渉、共存を勧奨。
1526年10月23日
フェルディナンド、ボヘミア王に選出される。
1526年12月16日
中枢における支配権を強め、対オスマン・トルコの前線を固めようとするハプスブルク家の意を担うフェルディナンド、別途にPreßburgで国会を開いて自身をハンガリー王に選出させる。ハンガリーは二重権力状態に陥る。
1527年1月1日
この日?、フェルディナンド、オーストリアの行政機構を再編成し、中央集権化を促進。
1527年9月26日
ハンガリーの貴族の大多数が王としてサポヤイ・ヤーノシュを推戴する中でウィーンの東に接する帯状地帯を支配するに留まっていたフェルディナンドは、Tokayでサポヤイ・ヤーノシュ軍を破る。サポヤイ・ヤーノシュはポーランドに逃げる。
1527年11月5日
フェルディナンド、ハンガリー王の戴冠式を行う。
1528年2月24日
サポヤイ・ヤーノシュ、スレイマン1世と協定を結んでその庇護下に入り、共にフェルディナンド及びハプスブルク家の牽制、攻撃を目指す。
1528年10月23日
サポヤイ・ヤーノシュ、フランソワ1世、サポヤイ・ヤーノシュはフェルディナンドに対抗するためフランソワ1世から支援を得ることを、フランソワ1世はサポヤイ・ヤーノシュにハプスブルク家を牽制させることを狙い、協定。
1529年4月19日
イタリア戦争で優勢を誇り、ヨーロッパ政局で優位を占めて宗教改革派に強い態度をとれるようになったカール5世の代理として第2回シュパイエル帝国議会に出席していたフェルディナンド、ローマ教会側諸侯の強硬な態度にも推されて、第1回議会(1526年)の改革派への「暗黙の寛容」決議を撤回しヴォルムスの勅令(1521年)の厳格な実施、Zwingli派や「再」洗礼派の根絶、などを決める。
プロテスタントの呼称誕生:これに対し改革派のザクセン、Hessen、Brandenburg、Brauschweig、Anhaltの諸侯と、ストラスブルク、ニュルンベルク、など南ドイツ14都市、Protestatio(抗議書)を提出。
この書の署名者たちに与えられた名称Protestant(プロテスタント)は、後改革派・新教徒の総称となる。
1529年12月23日
スペインで予測していたよりもイタリアの、とりわけミラノやフィレンツェの軍事制圧が困難であることを認識したカール5世、軍事制圧に必要な巨額の費用、ドイツの宗教改革の波動、弟フェルディナンドの支配するオーストリアへのオスマン・トルコの再攻撃の危険などなどを考慮し、クレメンス7世の勧奨も受けて初めの方針を変更し、ヴェネツィア及びフランチェスコ・マリーア・スフォルツァと協定。ヴェネツィアはクレメンス7世にラヴェンナ及びチェルヴィアを、カール5世にナポリ領内のPugliaの占領地をそれぞれ返還すること。カール5世はフランチェスコ・マリーア・スフォルツァに巨額の金でミラノを封与すること。
1529年12月23日
永久同盟:クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、ヴェネツィア、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ3世・ディ・サヴォイア、フェデリーコ2世・ゴンザーガは、講和の同盟を締結。アルフォンソ1世・デステはカール5世の裁定によってクレメンス7世と和解した後に同盟に加えられることに決められる。
これらの協定により、イタリアにおけるカール5世の覇権ほぼ確立され、以後19世紀までのスペイン、ハプスブルク王家のイタリア支配の基盤が完成される。なおもフランソワ1世側に留まる共和政フィレンツェは完全に孤立。
1531年1月5日
フェルディナンド、帝国内外の諸問題、宗教改革、オスマン・トルコの進出、フランソワ1世との角逐に対処するためドイツにおける可能な限り強力な代理人を必要とするカール5世の命を受けたアウグスブルク帝国議会により、金印勅書(Goldene Bulle (Bulla Aurea):1356年)の規定に反してローマ人の王に選出される。1531年1月11日アーヘンで戴冠。
1532年1月初旬
クレメンス7世、オスマン・トルコ軍の攻撃に備えてアンコーナを初め教会領の各地の港湾を強化すること、カール5世、フェルディナンドのオスマン・トルコ対策に資金援助を行うことを決めると共に、これらを支援するようキリスト教諸国の君侯に呼びかける。
1532年6月21日
クレメンス7世、枢機卿会議において、イッポーリト・デ・メディチを軍及び巨額の軍資金と共にカール5世、フェルディナンド陣営に派遣することを決める。
1532年7月23日
カール5世とフェルディナンドは、スレイマン1世軍に対抗するための軍資金の援助を得るべく、シュマルカルデン同盟諸侯とニュルンベルクで休戦協定を結び、次の公会議が開かれるまでの間、新教徒の信教の自由を保障(ニュルンベルク宗教和議)。
1532年8月28日
この月初めからオーストリア国境に2キロのハンガリーGünsでカール5世、フェルディナンド軍と攻防を続けていたスレイマン1世軍は、ようやくこの町を攻略。しかし予想外の激しい抵抗を受けて夏を徒費したため、天候の悪化を懸念してウィーン攻略を断念し、撤退。
1533年2月24日
クレメンス7世、カール5世、フェルディナンド、フランチェスコ・マリーア・スフォルツァ、カルロ・ディ・サヴォイア、アルフォンソ1世・デステ、フェデリーコ2世・ゴンザーガ、ジェノヴァ、シエナ及びルッカは、イタリアの現状維持、Antonio de Leyvaを指揮官とするイタリア防衛の同盟軍の結成などを定めた同盟を公表。フィレンツェはクレメンス7世に従い事実上参加し、ヴェネツィアはオスマン・トルコと戦うことになるのを避けるべく旧同盟(永久同盟:1529年)を遵守するとして不参加。
1533年6月22日
イスタンブール(コンスタンティノポリス)のスレイマン1世宮廷に使節を送って休戦交渉を行っていたフェルディナンド、ウィーンに初めてスレイマン1世の使節を迎え、スレイマン1世を父、その大宰相Ibrāhim Paşaを兄と呼ぶこと、フェルディナンドに追われてスレイマン1世の庇護を得て来た(1528年~)前ハンガリー王サポヤイ・ヤーノシュにハンガリー王国の大部分を与え、自分はスレイマン1世への貢納を代償として現支配領のハンガリー王国西北部を支配することを約する同盟を締結。
1538年2月8日
ヴェネツィアの各地の拠点を次々と攻略し、その領内ケルキラ島をも占領しようとするスレイマン1世軍の威勢を前に、パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世及びフェルディナンド、ヴァティカン宮殿で対オスマン・トルコ神聖同盟を結び、同盟軍の結成(陸軍の指揮官ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、水軍の指揮官アンドレア・ドーリア)、戦費の分担(パウルス3世、ヴェネツィア、カール5世が1対2対3の割合)などを約定し、2日後に公示。しかし、同盟軍はこの秋になってようやく結成される。
1538年6月10日
カール5世、フェルディナンド、ドイツのカトリック諸侯(バイエルン公Wilhelm IV、ザクセン公Georg (der Bärtige)など)及び大司教・枢機卿(マインツ大司教・枢機卿Albrecht II (von Mainz)、ザルツブルク大司教・枢機卿Matthäus Langら、プロテスタント諸侯のシュマルカルデン同盟(1530年)に対抗し同盟を結成(ニュルンベルク同盟)。
1540年6月12日
シュパイエルで1540年5月23日開催を予定されていたドイツのカトリック・プロテスタント両派の宗教討議、同地でのペストの蔓延のためアグノーに場を移し、この日、フェルディナンドにより開会を宣言される。
自分の代理を討議に出席させておけばそこで生ずるかもしれない両派の和解・妥協を公認することになるのではないかと懸念したパウルス3世、代理を送らず無視。
1541年春
この頃?、スレイマン1世、フェルディナンド軍によるブダ包囲を破るべく、ハンガリーに大軍を送る。
1541年8月26日
大軍によってフェルディナンド軍を敗走させたスレイマン1世、自らブダに入り、この地を含むハンガリー王国中央部を自身の直轄領とし、東部を、自身への貢献を条件としてサポヤイ・ヤーノシュの遺志János Zsigmondの支配領とする。これによりハンガリー王国、フェルディナンドの支配する西北部を含め三分割される。
1541年9月13日~9月18日
パウルス3世とカール5世、ルッカで会見・懸案の公会議問題の解決にカール5世の協力を得たいパウルス3世と、スペインなど地中海沿岸各地を略奪して回っているのみならず、フランソワ1世の水軍と共同行動をとる可能性のあるBarbarossa指揮オスマン・トルコ水軍の根拠地アルジェ攻撃を敢行するため、パウルス3世を介して自分へのフランソワ1世の敵対行動を抑えたいカール5世、会見。共にオスマン・トルコに対抗しフェルディナンドを支援する点では合意したものの、公会議開催問題などの点では合意に至らずに終わる。
フランソワ1世、ルッカに使節を送り、1541年7月の自分の使節2名の殺害の罪で、アルフォンソ3世・ダヴァーロスを裁判に付すようパウルス3世に要求するが、自分も自分の総督も全く関知していないとのカール5世の主張によって、退けられる。
フェッラーラ公エルコーレ2世・デステ、フィレンツェ公コジモ1世・デ・メディチなど、ルッカに入りカール5世に表敬。
1542年9月
フェルディナンド、ジュラ協定(1541年)に対するスレイマン1世の反抗を防止しこの協定の実現を図るべく、ブダ奪回を目指してブランデンブルク選帝侯Joachim II (Hektor)指揮の軍をハンガリーに送るが、オスマン・トルコ軍に撃退される。
1543年8月10日
フェルディナンドの新たな攻撃の防止・ハンガリーにおける版図拡大を狙うスレイマン1世、自ら軍を率いてベオグラードから出撃し、この日エステルゴム(ドイツ語Gran)を攻略することなどこの年の秋にかけてドナウ川沿いのハプスブルク家領に支配圏を拡大。
1544年9月18日
クレピーの和:カール5世・ヘンリー8世両軍によるパリ攻撃・占領の危険を感ずるフランソワ1世と、前進・撤退いずれの策も自軍の大損害を招くと見たカール5世、クレピーで和約し、(1)フランソワ1世の第三子Orléans公Charles(d'Orléans:1522年~:在位1536年~)はカール5世の娘マリア・デ・アブスブルゴ(1528年~1603年)と結婚し婚資としてネーデルラントを得るか、フェルディナンドの娘Anna(von Österreich:1528年~1590年)と結婚し婚資としてミラノを得る、(2)フランソワ1世はミラノ、ナポリ及びフランドル、アルトワへの継承請求権を放棄する、(3)カール5世はピエモンテ、サヴォイアを、フランソワ1世はブーローニュをそれぞれ返還する、(4)両者は共にオスマン・トルコに対抗する、(5)宗教の再統合のために公会議の開催を促進し、カール5世はドイツ・プロテスタントといかなる同盟も結ばない、ことを約定(第4次カール5世・フランソワ1世戦争終結(1542年~))。
ヘンリー8世、この和約を受容しながらも、約定の前に占領したことを理由にブーローニュ占領を解かず、フランソワ1世軍に対する戦闘を続行。
しかしこの和により、カール5世は西ヨーロッパで圧倒的な優位を、とりわけイタリアで決定的優位を占め、領内ドイツでのプロテスタントとの対決に専心可能となり、フランソワ1世はドイツ・プロテスタント諸侯との同盟の必要性から解放されたことに伴い、パウルス3世はこの両者から協力を得られることになってトレント公会議開催の主たる障害から解放される。
1545年11月10日
この日?、プロテスタントとの戦いに専心したいカール5世及びドイツ諸侯から支援を得られなくなったフェルディナンド、スレイマン1世と18か月間の休戦を協定。
1547年6月19日
フェルディナンドとスレイマン1世、休戦協定(1545年)を5年間延長することで合意。これによりスレイマン1世への貢納を条件としてフェルディナンドが現支配領を支配する体制、継続。
1548年9月
帝国の相続問題を懸念するカール5世、長女マリア・デ・アブスブルゴと弟フェルディナンドの長子マクシミリアン2世(1527年~1576年:ハンガリー王Maximilian I在位1563年~1576年:神聖ローマ皇帝在位1564年~1576年)の結婚式を、自身も列席してマドリードで盛大に挙げさせる。
1549年10月27日
フランチェスコ3世・ゴンザーガ、母と叔父の後見(1540年~)を脱し、フェルディナンドの次女カタリーナ・フォン・ハプスブルク(1533年~1572年)と結婚。
1551年3月9日
カール5世、フェルディナンド、両名の妹でネーデルラント総督・前ハンガリー・ボヘミア王妃マリア・フォン・ハプスブルク及びフェリペ2世の4者、アウグスブルクで長い協議を続けた末、神聖ローマ皇帝位をハプスブルク家のドイツ、スペイン両系統が交互に継承すること、すなわちカール5世の後を弟フェルディナンドが継いで帝位に就き、フェルディナンドの後をカール5世の子フェリペ2世が継いでローマ人の王となり、その後をフェルディナンドの子マクシミリアン2世が継ぐことを、マリア・フォン・ハプスブルクの懸命な仲介によってようやく取り決める。
1555年9月25日
アウグスブルクの宗教和議:カール5世の委任を受けたフェルディナンドによって主催されたアウグスブルク帝国議会において、カール5世側とルター派諸侯・帝国都市、ドイツにおいて(1)カトリック教会と共にルター派教会の存在を認める、(2)諸侯・帝国都市は両教会のいずれかを選択し、その選択が領民の宗教を決定する(cuys regio, ejus religio)、(3)カトリックの大司教・司教がルター派に改宗する際はその世俗的地位と領土を失い、カトリックの後継者が選ばれる(教会留保権)、などを内容とする和議を結ぶ。ドイツの宗教問題におけるカール5世の敗北、明らかとなる。
しかし個人の信仰の自由の未確認、カルヴィン派やZwingli派の排除、教会留保権の容認、など三十年戦争(1618年~1648年)に至る宗教争乱の種を残す。
1555年10月25日
ネーデルラントに半ば引退(1553年)後もフェリペ2世・メアリー1世の結婚を実現させて(1554年)普遍的帝国実現の希望を蘇らせたカール5世、その結婚から期待した子を得られずに希望が潰え、アンリ2世とパウルス4世の接近(1555年8月~)を知り、宗教問題もフェルディナンドに委ねて敗北し(1555年9月)、ついにブリュッセルで譲位式を挙げ、ネーデルラント及びイタリアを列席のフェリペ2世に正式に委譲。
1556年9月12日
カール5世、パウルス4世を無視して神聖ローマ皇帝位(在位1519年~)と帝国版図を弟フェルディナンドに委譲。この委譲と、1556年1月のスペイン王位及びその領土・直轄地のフェリペ2世への委譲とにより、ハプスブルク家の分裂とそのスペイン王朝化、明白となる。
これに対しパウルス4世、教皇の承認なき帝位の委譲を無効とし、この旨を厳しく伝える書簡を選帝侯たちに送る。
1556年11月17日
フェルディナンド、オスマン・トルコに対してハプスブルク家領を防衛するためウィーンに軍事評議会を設置。
1562年6月1日
トランシルヴァニア領有をめぐって対立し戦闘を重ねてきた(1552年~)フェルディナンド1世とスレイマン1世、フェルディナンド1世がこの地の継承請求権を放棄し、かつスレイマン1世への貢納を継続することを約した8年の休戦協定を締結。
1562年9月20日
フェルディナンド1世の長子マクシミリアン2世、ボヘミア王に即位(在位~1576年)。
1564年7月25日
フェルディナンド1世死(1503年~:在位1558年~)——ボヘミア王・ローマ人の王・ハンガリー王マクシミリアン2世、神聖ローマ帝国皇帝に即位しマクシミリアン2世を名乗る(在位~1576年)。
1565年12月16日
1564年から通常の政務を担当するフランチェスコ1世・デ・メディチ、故フェルディナンド1世の娘で現神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の妹ジョヴァンナ・ダズブルゴ(1547年~1578年)と結婚。自身の大公位を皇帝の側に承認させようとの底意を秘めてこの結婚を求めたコジモ1世・デ・メディチ、生涯最大とも言うべき婚儀を挙行させる。
この年、これ以前にコジモ1世・デ・メディチ、自邸(旧ピッティ宮殿)からヴェッキオ橋、ウフィッツィ宮殿を経て政庁宮(ヴェッキオ宮殿)に至る高架の通廊をジョルジョ・ヴァザーリに命じて作らせ、一族が身辺警護の必要なく安全に公・私両邸を往来できるようにする。
別表記
フェルディナント
外部リンク
ウィキペディア
世界帝王事典
Find A Grave
Genealogy.EU
RootsWeb.com
The Medici Archive Project
参考文献
『世界大百科事典』
『ルネサンス百科事典』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『ハプスブルク家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
記載日
2005年5月29日以前