フィリッポ・デル・プリエーゼ Filippo del Pugliese
- 父
- フランチェスコ・デル・プリエーゼ
- 子
- フランチェスコ・デル・プリエーゼ
参考文献
『イコノロジー研究』
フランチェスコ・デル・プリエーゼ Francesco del Pugliese
- 子
- フィリッポ・デル・プリエーゼ
ピエロ・デル・プリエーゼ
参考文献
『イコノロジー研究』
フランチェスコ・デル・プリエーゼ Francesco del Pugliese
- 生没
- 1458年5月30日~1519年頃
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- フィリッポ・デル・プリエーゼ
概要
フランチェスコ・デル・プリエーゼは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
別表記
フランチェスコ・ディ・フィリッポ・ディ・フランチェスコ・デル・プリエーゼ
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
ピエロ・デル・プリエーゼ Piero del Pugliese
- 生没
- 1430年~1498年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- フランチェスコ・デル・プリエーゼ
概要
ピエロ・デル・プリエーゼは、15世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
マリーノ・グリマーニ Marino Grimani
- 子
- アントーニオ・グリマーニ
ジローラモ・グリマーニ
アントーニオ・グリマーニ Antonio Grimani
- 生没
- 1434年12月28日~1523年5月7日
- 出身
- ヴェネツィア
- 没地
- ヴェネツィア
- 父
- マリーノ・グリマーニ
- 母
- アニェジーナ・モンタネール
- 妻
- カテリーナ・ロレダン
- 子
- ドメニコ・グリマーニ
概要
アントーニオ・グリマーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在位
ヴェネツィア共和国ドージェ 1521年~1523年
年表
1434年12月28日
ヴェネツィアにて、生(1434年1月17日)。
1496年9月14日
アントーニオ・グリマーニとマルコ・モロジーニはミラノに到着し、メルツォ伯ガレアッツォ・スフォルツァに迎えられる。
カルマニョーラ宮殿に宿泊し、チェチーリア・ガッレラーニとルドヴィーコ・カルミナーティに歓待される。
1496年9月15日
アッビアーテグラッソに到着し、フランチェスコ・フォスカリと合流。
3人はヴィジェヴァーノに到着し、カイアッツォ伯ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノとガレオット・ピコに迎えられる。
ガレアッツォ・サンセヴェリーノの宮殿に宿泊し、彼とビアンカ・スフォルツァに歓待される。
1496年9月16日
その場にはアントーニオ・グリマーニ、マルコ・モロジーニの他に、フランチェスコ・フォスカリに随行していたマリン・サヌード、ミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロ、ベアトリーチェ・デステ、ベルナルディーノ・カルバハル枢機卿、ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ、マルケジーノ・スタンガ、アンジェロ・タレンティなどがいた。
別表記
グリマンノ、Grimanno
外部リンク
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
ジローラモ・グリマーニ Girolamo Grimani
- 父
- マリーノ・グリマーニ
- 子
- ジョヴァンニ・グリマーニ
ルクレツィア・グリマーニ
別表記
Gerolamo Grimani
ルクレツィア・グリマーニ Lucrezia Grimani
- 生没
- 15??年~
- 父
- ジローラモ・グリマーニ
- 夫
- バルトロメオ・カッペッロ
概要
ルクレツィア・グリマーニは、16世紀頃のイタリアの女性。
年表
1559年
バルトロメオ・カッペッロと結婚。
ヴィッラーノ・ヴィッラーニ Villano Villani
- 生没
- 12??年~
- 父
- ストルド・ヴィッラーニ
- 妻
- ソフィア・ダ・コルドジャ
- 子
- フランチェスコ・ヴィッラーニ
ジョヴァンニ・ヴィッラーニ
ベルトーラ・ヴィッラーニ
カパッキア・ヴィッラーニ
フィリッポ・ヴィッラーニ
マッテオ・ヴィッラーニ
概要
ヴィッラーノ・ヴィッラーニは、13世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ジョヴァンニ・ヴィッラーニ Giovanni Villani
- 生没
- 1275~80年~1348年
- 父
- ヴィッラーノ・ヴィッラーニ
概要
ジョヴァンニ・ヴィッラーニは、13世紀から14世紀のイタリアの男性。
別表記
ジョヴァンニ・ヴィラーニ
外部リンク
ウィキペディア
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンス夜話』
フィリッポ・ヴィッラーニ Filippo Villani
- 生没
- 1325年~1407年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- マッテオ・ヴィッラーニ
概要
フィリッポ・ヴィッラーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
マッテオ・ヴィッラーニ Matteo Villani
- 生没
- 1???年~1363年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ヴィッラーノ・ヴィッラーニ
- 子
- フィリッポ・ヴィッラーニ
概要
マッテオ・ヴィッラーニは、14世紀頃のイタリアの男性。
別表記
マテオ、マッテーオ
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『快楽の中世史』
『君主論』
『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
リオネット・デ・ロッシ Lionetto de Rossi
- 妻
- マリーア・デ・メディチ
- 子
- ルイジ・デ・ロッシ
概要
リオネット・デ・ロッシは、15世紀頃の男性。
年表
1485年
メディチ銀行リヨン支店の支配人リオネット・デ・ロッシ、経営失敗の責任を問われてフィレンツェに召喚され、直ちに逮捕される。
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
コスタンツァ・デ・ロッシ Costanza de' Rossi
- 生没
- 1503年~
- 父
- トロイロ1世・デ・ロッシ
- 母
- ビアンカ・リアリオ
- 夫
- ジローラモ・デリ・アルビッツィ
概要
コスタンツァ・デ・ロッシは、16世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
ピエル・マリーア3世・デ・ロッシ Pier Maria III de' Rossi
- 生没
- 1504年~1547年8月15日
- 出身
- サン・セコンド・パルメンセ
- 没地
- サン・セコンド・パルメンセ
- 父
- トロイロ1世・デ・ロッシ
- 母
- ビアンカ・リアリオ
- 妻
- カミッラ・ゴンザーガ
概要
ピエル・マリーア3世・デ・ロッシは、16世紀のイタリアの男性。
年表
1523年
カミッラ・ゴンザーガと結婚。
別表記
ピエトロ・マリーア
外部リンク
ピエル・マリーア2世・デ・ロッシ Pier Maria II de' Rossi
- 生没
- 1413年3月25日~1482年9月1日
- 出身
- ベルチェート
- 没地
- トッレキアーラ
- 父
- ピエル・マリーア1世・デ・ロッシ
- 妻
- アントーニア・トレッリ
概要
ピエル・マリーア2世・デ・ロッシは、15世紀のイタリアの男性。
別表記
ピエル・マリーア・ロッシ、Pietro Maria II
外部リンク
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
ジャン・ド・リュジニャン Jean II de Lusignan
- 生没
- 1418年5月16日~1458年7月28日
- 出身
- ニコシア
- 没地
- ニコシア
- 妻
- ヘレナ・パレオロギナ
- 子
- ジャック2世・ド・リュジニャン
シャルロット・ド・リュジニャン
クレオファ・ド・リュジニャン
概要
ジャン・ド・リュジニャンは、15世紀の男性。
外部リンク
参考文献
『ルネサンスの女たち』
ジャック2世・ド・リュジニャン Jacques II de Lusignan
- 生没
- 1438/1439/1440年頃~1473年7月10日
- 出身
- ニコシア
- 没地
- ファマグスタ
- 父
- ジャン2世・ド・リュジニャン
- 妻
- カテリーナ・コルネール
概要
ジャック2世・ド・リュジニャンは、15世紀の男性。
別表記
ジャコモ・イル・バスタルド、Jacob II
外部リンク
Genealogy.EU
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンスの女たち』
シャルロット・ド・リュジニャン Charlotte de Lusignan
- 生没
- 1444年6月28日~1487年7月16日
- 父
- ジャン2世・ド・リュジニャン
- 夫
- ルドヴィーコ・ディ・サヴォイア
概要
シャルロット・ド・リュジニャンは、15世紀の女性。
年表
別表記
カルロッタ・ルジニャーノ
外部リンク
Genealogy.EU
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ Bongianni Gianfigliazzi
- 生没
- 1418年3月9日~1484年11月11日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ピサ
- 父
- ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ
- 母
- シモーナ・トシンギ
- 妻
- アドリアーナ・テリアッチ
コスタンツァ・デル・ヴィーニャ
マッダレーナ・パレンティ - 子
- シモーナ・ジャンフィリアッツィ
ヤコポ・ジャンフィリアッツィ
概要
ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1463年
妻アドリアーナ・テリアッチ、死。
別表記
ボンジャニオ・デ・ジャンフィアリッツィ、ブォンジアノ
外部リンク
参考文献
『メディチ家の人びと』
『フィレンツェ史』
シモーナ・ジャンフィリアッツィ Simona Gianfigliazzi
- 生没
- 1456年~
- 父
- ボンジャンニ・ジャンフィリアッツィ
- 夫
- ピエロ・グイッチャルディーニ
- 子
- ルイジ・グイッチャルディーニ
コスタンツァ・グイッチャルディーニ
マッダレーナ・グイッチャルディーニ
ヤコポ・グイッチャルディーニ
ボンジャンニ・グイッチャルディーニ
ボンジャンニ・グイッチャルディーニ
ジローラモ・グイッチャルディーニ
ディアノーラ・グイッチャルディーニ
フランチェスコ・グイッチャルディーニ
概要
シモーナ・ジャンフィリアッツィは、15世紀頃のイタリアの女性。
別表記
Simona di Bongianni Gianfigliazzi
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ジャン・ヤコポ・アングィッソーラ Gian Jacopo Anguissola
- 父
- ジョヴァンニ・アングィッソーラ
- 母
- カテリーナ・トレッリ
- 妻
- アンジェラ・テデスキ
- 子
- ジョヴァンニ・アングィッソーラ
カテリーナ・アングィッソーラ
在位
ピアチェンツァ伯
ジョヴァンニ・アングィッソーラ Giovanni Anguissola
- 生没
- 1514年~1578年6月28日
- 出身
- ピアチェンツァ
- 没地
- コモ
- 父
- ジャン・ヤコポ・アングィッソーラ
概要
ジョヴァンニ・アングィッソーラは、16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『ルネサンス宮廷大全』
カテリーナ・アングィッソーラ Caterina Anguissola
- 生没
- 1508年頃~1550年12月13日
- 出身
- ピアチェンツァ
- 没地
- カステル・ゴッフレード
- 父
- ジャン・ヤコポ・アングィッソーラ
- 母
- アンジェラ・テデスキ
- 夫
- アロイジオ・ゴンザーガ
概要
カテリーナ・アングィッソーラは、16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
フランチェスカ・アドルノ Francesca Adorno
- 父
- プロスペロ・アドルノ
- 夫
- フランチェスコ・マルテッリ
プロスペロ・アドルノ Prospero Adorno
- 生没
- 1428年~1486年
- 出身
- ジェノヴァ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- バルナバ・アドルノ
- 母
- ブリージダ・ジュスティニアーニ
- 妻
- クレメンツァ・マラスピーナ
- 子
- ベルナルド・アドルノ
マリーア・アドルノ
フランチェスカ・アドルノ
ダーリア・アドルノ
ブリージダ・アドルノ
ルイジア・アドルノ
概要
プロスペロ・アドルノは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1461年3月9日~1461年3月10日
フランス支配下で重税に不満を高めてきたジェノヴァの民衆、大司教パオロ・フレゴーソ(1430年~1498年)の巧妙な策に導かれ武装蜂起。たちまちシャルル7世総督府の者たちを城塞に追いやる。
間もなくパオロ・フレゴーソ及びプロスペロ・アドルノ(1428年~1485年)がそれぞれ武装農民を率いて市内に入る。長年の宿敵フレゴーソ家とアドルノ家、対立を残しながらも和を結んでフランス支配に反抗し、シャルル7世軍守備隊を城塞に追い込む。
1461年3月12日
プロスペロ・アドルノが、ジェノヴァのドージェに選出される。
パオロ・フレゴーソ、自らミラノに赴いてフランチェスコ1世・スフォルツァに支援を求め、ジェノヴァからシャルル7世の勢威を排したいフランチェスコ1世・スフォルツァから十分な支援の約束を得る。
1461年7月17日
フランチェスコ1世・スフォルツァから新たに支援の将軍3名が到着してフランチェスコ1世・スフォルツァの全面支援を信じたパオロ・フレゴーソ・プロスペロ・アドルノ指揮のジェノヴァ市民、総反撃しフランス軍を撃退。シャルル7世のジェノヴァ支配、事実上、終わる(1458年~1461年)。
間もなくフレゴーソ、アドルノ両家の対立、激化。前者が主導権を握り、元ドージェ(在位1448年~1450年)ルドヴィーコ・フレゴーソ(1406年頃~1489年)がドージェに復帰(在位1461年~1463年)。
1477年4月30日
ジェノヴァの反乱、ミラノ軍に鎮圧される。——元ドージェ、プロスペロ・アドルノ(在位1461年3月~1461年7月)をミラノ総督としてジェノヴァを統治(1477年~1478年)。
1478年3月27日
ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノは、シクストゥス4世・フェッランテ・ダラゴーナの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。
1478年6月25日
シクストゥス4世とフェッランテ・ダラゴーナは、ミラノのフィレンツェ支援を阻止する策の一つとして、ミラノ配下のジェノヴァに乱を起こすべくプロスペロ・アドルノにミラノに対する反乱を起こさせる。
1478年8月7日
ジェノヴァのプロスペロ・アドルノによる反乱鎮圧に送られたミラノ軍、ジェノヴァ軍に破れる。
これに対しボーナ・ディ・サヴォイア、アドルノ家の宿敵フレゴーソ家のバッティスタ2世・フレゴーソ(1453年~1504年)を、彼の独立のドージェとしてジェノヴァを統治することを認めかつ周辺の城塞を与えた上で市内に送り込む。
1478年11月25日
この日バッティスタ2世・フレゴーソが、アドルノ陣営の内部の分裂を利してプロスペロ・アドルノら首脳を追放し、自らドージェとなる。ミラノのジェノヴァ支配終わる(1464年~1478年)。
外部リンク
Geneanet
Google Books
Treccani
Wikipedia
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
トンマーゾ・フェオ Tommaso Feo
- 生没
- 14??年~
- 妻
- ビアンカ・ランドリアーニ
- 子
- コッラディーノ・フェオ
概要
トンマーゾ・フェオは、15世紀頃のイタリアの男性、ヤコポ・フェオの兄。
在職
ラヴァルディーノ要塞城主 1487年~1490年
フォルリ知事 1494年~
イーモラ知事
年表
1489年6月
ビアンカ・ランドリアーニと結婚。
カテリーナ・スフォルツァによりボスコ領の土地を与えられるが、ラヴァルディーノ要塞を離れず。
1490年8月30日
カテリーナ・スフォルツァの命により、ジャナントーニオ・ゲッティに逮捕される。
1495年8月
カテリーナ・スフォルツァにイーモラからフォルリに呼ばれ、ゲッティ邸の略奪と倒壊を命じられ実行。命じられてはいなかったが、ラヴァルディーノ要塞にいた故ジャナントーニオ・ゲッティの妻ローザと子供たちを井戸に突き落とし、殺害。
外部リンク
ヤコポ・フェオ Jacopo Feo
- 生没
- 1471年~1495年8月28日
- 出身
- フォルリ
- 没地
- フォルリ
- 妻
- カテリーナ・スフォルツァ
概要
ヤコポ・フェオは、15世紀のイタリアの男性、ジローラモ・リアリオの下級の臣。
在職
ラヴァルディーノ要塞城主 1490年~
容姿
襟にかかるくらいの明るい茶色の巻き毛。
年表
1471年
この年頃、生(1468年、1472年頃)。
1490年
この年頃までに、フォルリにて、カテリーナ・スフォルツァと事実上、結婚(1494年)。
1491年1月23日(日)
朝、ミラノの使節団がラヴァルディーノ要塞に到着。騎士に叙される。ミラノ大使がかかとに金の拍車を付け、腰に剣を吊るす。ルッフォ・ヌーマイが金の鎖を首にかける。
1494年9月半ば
カテリーナ・スフォルツァ軍の最高司令官、領地の副領主となる。
1495年8月27日
義理の息子オッタヴィアーノ・リアリオの重臣ジャナントーニオ・ゲッティらに殺害される。
1495年8月28日
夜、バットゥティ・ネリの信心会会員たちがヤコポ・フェオの遺体をスキアヴォーニア門外の側溝から引き上げ、サン・ビアージオ教会に運ぶ。
遺体を目撃したレオーネ・コベッリは「何たる不名誉。残酷さ。かくも美しかった顔が割れた柘榴のように裂けている。」と書く。
1495年
サン・ビアージオ教会に埋葬される。
肖像
別表記
ジャコモ・フェロ、デ・フェオ、Giacomo Feo
外部リンク
参考文献
『世界悪女大全』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ルネサンスの女たち』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ニッコロ・フランチオッティ Niccolò Franciotti
- 生没
- 1485年頃~1530年頃
- 出身
- ルッカ
- 没地
- ローマ
- 父
- ジャンフランチェスコ・フランチオッティ
- 母
- ルキナ・デッラ・ローヴェレ
- 妻
- ラウラ・ミリオラーティ
- 子
- エレーナ・フランチオッティ
ジューリオ・フランチオッティ
ラヴィーニャ・フランチオッティ
概要
ニッコロ・フランチオッティは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1485年頃
おそらくルッカにて、生。
1499年
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿と共に、ジャンフランチェスコ・フランチオッティ一家はアヴィニョンに避難。
1503年10月31日
伯父ユリウス2世の養子になる。
150?年
1505年11月16日
ラウラ・ミリオラーティと結婚。持参金は3万ドゥカート。
1508年11月10日
教皇ユリウス2世により、モンティチェッリ、サンダンジェロ・ディ・ティヴォリ、フラスカーティ、ソリアーノを封土される。
1511年
教皇ユリウス2世により、フラスカーティの代わりにガッレーゼを封土される。
1530年頃
ローマにて、死(1535年)。
別表記
ニコル、ニッコロ・デッラ・ローヴェレ、Niccolò della Rovere、Nicola Della Rovere
外部リンク
JDA's Family Tree
RootsWeb.com
Treccani
Vasanello (VT)
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『Lucretia Borgia』
ルクレツィア・フランチオッティ Lucrezia Franciotti
- 生没
- 1485年~1552年
- 没地
- ローマ
- 父
- ジャンフランチェスコ・フランチオッティ
- 母
- ルキナ・デッラ・ローヴェレ
- 夫
- マルカントーニオ・コロンナ
- 子
- ポルツィア・コロンナ
オルテンシア・コロンナ
アルテミシア・コロンナ
リヴィア・コロンナ
概要
ルクレツィア・フランチオッティは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1499年夏
ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレのもとへ赴く父ジャンフランチェスコ・フランチオッティに従い、アヴィニョンに滞在。
1506年8月1日
マルカントーニオ・コロンナと婚約(1506年7月)。
1507年11月末
マルカントーニオ・コロンナと結婚。新郎の代理人はプロスペロ・コロンナ。
1508年1月4日
ローマにて、結婚披露宴(1507年1月2日)。
別表記
Lucrezia Franciotti Della Rovere、Lucrezia Gara della Rovere
外部リンク
参考文献
ビアンカ・ランドリアーニ Bianca Landriani
- 生没
- 145?年~1496年5月
- 父
- ジャンピエロ・ランドリアーニ
- 母
- ルクレツィア・ランドリアーニ
- 夫
- トンマーゾ・フェオ
- 子
- コッラディーノ・フェオ
概要
ビアンカ・ランドリアーニは、15世紀のイタリアの女性。
年表
1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:シニョーリア宮殿で捕らえられる。
1488年4月
ベルナルディーノ・サヴェッリの指示により、母ルクレツィア・ランドリアーニ、姉妹ステッラ・ランドリアーニと共にチェゼーナに避難。
1489年6月
トンマーゾ・フェオと結婚。
1496年5月
出産時に死亡。
埋葬地
イーモラ、オッセルヴァンツァ修道院
外部リンク
Academia.edu - Skirting the Issue: Machiavelli's Caterina Sforza by Julia L. Hairston
Geneanet
Google Books
ルクレツィア・ランドリアーニ Lucrezia Landriani
- 生没
- 1440年頃~15??年
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 夫
- ジャンピエロ・ランドリアーニ
- 男
- ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ
- 子
- ビアンカ・ランドリアーニ
ステッラ・ランドリアーニ
ピエロ・ランドリアーニ
カルロ・スフォルツァ
カテリーナ・スフォルツァ
アレッサンドロ・スフォルツァ
キアラ・スフォルツァ
概要
ルクレツィア・ランドリアーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性、ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの愛人。旧姓は不明。
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとの間にもうけた子供たちは皆認知され、ミラノ宮廷で彼の母ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティに教育された。
年表
1440年頃
ミラノにて、生。
145?年
ジャンピエロ・ランドリアーニと結婚。
ビアンカ・ランドリアーニを出産。
ステッラ・ランドリアーニを出産。
ピエロ・ランドリアーニを出産。
1460年頃
ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの愛人となる。
1461年
カルロ・スフォルツァを出産。
1463年
カテリーナ・スフォルツァを出産。
1465年
アレッサンドロ・スフォルツァを出産。
1467年
キアラ・スフォルツァを出産。
1488年~1499年
娘カテリーナ・スフォルツァの宮廷に住む。
1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:シニョーリア宮殿で捕らえられる。
1488年4月
ベルナルディーノ・サヴェッリの指示により、娘ビアンカ・ランドリアーニ、ステッラ・ランドリアーニと共にチェゼーナに避難。
1501年~
娘カテリーナ・スフォルツァと共にフィレンツェに住む。
別表記
ルクレーツィア・ランドリアーニ
外部リンク
ステッラ・ランドリアーニ Stella Landriani
- 生没
- 145?年~
- 父
- ジャンピエロ・ランドリアーニ
- 母
- ルクレツィア・ランドリアーニ
- 夫
- アンドレア・リッチ
概要
ステッラ・ランドリアーニは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1488年4月14日(月)
オルシの陰謀:シニョーリア宮殿で捕らえられる。
1488年4月
ベルナルディーノ・サヴェッリの指示により、母ルクレツィア・ランドリアーニ、姉妹ビアンカ・ランドリアーニと共にチェゼーナに避難。
外部リンク
ジャンピエロ・ランドリアーニ Giampiero Landriani
- 生没
- 14??年~
- 妻
- ルクレツィア・ランドリアーニ
- 子
- ビアンカ・ランドリアーニ
ステッラ・ランドリアーニ
ピエロ・ランドリアーニ
概要
ジャンピエロ・ランドリアーニは、15~16世紀頃のイタリアの男性。
在職
フォルリンポーポリ要塞城主 1490年
イーモラの要塞城主 1490年~
年表
1488年
1490年7月30日
フォルリンポーポリ要塞の城主になり、カテリーナ・スフォルツァに忠誠を誓う。
1490年12月
フォルリンポーポリ要塞の城主を息子ピエロ・ランドリアーニと代わり、イーモラの要塞の城主に任命される。
別表記
Gian Piero Landriani、Gian Pietro Landriani
外部リンク
ピエロ・ランドリアーニ Piero Landriani
- 生没
- 145?年~
- 父
- ジャンピエロ・ランドリアーニ
- 母
- ルクレツィア・ランドリアーニ
概要
ピエロ・ランドリアーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
在職
フォルリンポーポリ要塞城主 1490年~
年表
1490年12月
フォルリンポーポリ要塞の城主に任命される。
別表記
Pietro Landriani
外部リンク
ゲラルド・ランドリアーニ Gerardo Landriani
- 生没
- 1390年~1445年10月9日
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- ヴィテルボ
概要
ゲラルド・ランドリアーニは、14世紀から15世紀の男性、聖職者。
在職
ローディ教区長 1418年~1419年
ローディ司教 1419年~1437年
コモ司教 1437年~1445年
サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ枢機卿司祭
年表
別表記
Gerardo Landriani Capitani
外部リンク
Catholic-Hierarchy
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
フランチェスコ2世・デル・バルツォ Francesco II del Balzo
- 生没
- 1410年~1482年8月8日
- 出身
- アンドリア
- 没地
- アンドリア
- 父
- グリエルモ・デル・バルツォ
- 母
- アントーニア・ブルンフォルテ
- 妻
- サンチャ・ディ・キアロモンテ
- 子
- ヤコポ・デル・バルツォ
ピッロ・デル・バルツォ
カテリーナ・デル・バルツォ
アントーニア・デル・バルツォ
アンギルベルト・デル・バルツォ
バルダッサーレ・デル・バルツォ
概要
フランチェスコ2世・デル・バルツォは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第3代アンドリア公、第4代モンテスカリオーゾ伯、第2代ビシェーリエ伯、トリカーゼ伯、ポマリコ、モンテペローゾ、アクアヴィーヴァ、リパ・ディ・リーシ、アルケ、サン・キウーザノ、ヴァスト、サルピ領主 1444年~
コペルティーノ伯 1436年~
モットーラ、サン・ヴィート、トレッサンテ領主
ナポリ王国大司馬 1464年~
ナポリ王立評議会議長 1464年~
年表
1426年1月26日
サンチャ・ディ・キアロモンテと結婚(1436年)。
1438年
1451年夏
フリードリヒ3世の宮廷に大使として派遣される。
1458年6月
新ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナにより、教皇カリストゥス3世のもとへ使節として派遣される。
1468年3月30日
妻サンチャ・ディ・キアロモンテ、死。
外部リンク
ピッロ・デル・バルツォ Pirro del Balzo
- 生没
- 14??年~1491年12月24日
- 没地
- ナポリ
- 父
- フランチェスコ2世・デル・バルツォ
- 母
- サンチャ・ディ・キアロモンテ
- 妻
- マリーア・ドナータ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 子
- フェデリーコ・デル・バルツォ
イゾッタ・ジネヴラ・デル・バルツォ
アントーニア・デル・バルツォ
イザベッラ・デル・バルツォ
ベルトランド・デル・バルツォ
メデア・デル・バルツォ
概要
ピッロ・デル・バルツォは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第1代ヴェノーザ公 1454年8月10日~
第1代アルタムラの君主 1462年10月16日~
ビサッチャ領主 1462年~
ジノーザ領主 1464年~
アチェッラ伯 1481年~
第4代アンドリア公、第5代モンテスカリオーゾ伯、第2代コペルティーノ伯、ポマリコ、モンテペローゾ、アクアヴィーヴァ、リパ・ディ・リーシ、アルケ、サン・キウーザーノ領主 1482年~
ラヴェッロ、ローレンツァーナ、カステルベッロット、モンテミローネ、ローリアーノ、トレントーラ、カポディリオ、チッタ・ディ・ヴィーコ、カリーゼ、カステッロ、サン・ニコロ、サン・ソッツォ、フルメリ、ヴァラータ、ガルディア・ロンバルダ、ポルカリーノ、ラ・ロケッタ、サン・アントニオ、カルボナーラ、アッカディア、モンタクート、ミネルヴィーノ、ルーヴォ、カプリニャーノ領主
ナポリ王国大司馬 1481年11月3日~
ナポリ王室顧問 1482年~
年表
外部リンク
アントーニア・デル・バルツォ Antonia del Balzo
- 生没
- 1468年6月24日~1533年5月22日
- 出身
- ナポリ
- 没地
- ガッツオーロ
- 父
- ピッロ・デル・バルツォ
- 母
- マリーア・ドナータ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 夫
- ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
- 子
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ
バルバーラ・ゴンザーガ
フェデリーコ・ゴンザーガ
ドロテア・ゴンザーガ
スザンナ・ゴンザーガ
カミッラ・ゴンザーガ
エレオノーラ・ゴンザーガ
ピッロ・ゴンザーガ
アントーニア・ゴンザーガ
ジョヴァンナ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
概要
イザベッラ・デル・バルツォは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1479年7月17日
持参金8千ドゥカートで、ジャンフランチェスコ・ゴンザーガと結婚。
外部リンク
イザベッラ・デル・バルツォ Isabella del Balzo
- 生没
- 1468年6月24日~1533年5月22日
- 出身
- ミネルヴィーノ・ムルジェ
- 没地
- フェッラーラ
- 父
- ピッロ・デル・バルツォ
- 母
- マリーア・ドナータ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 夫
- フェデリーコ・ダラゴーナ
- 子
- フェルディナンド・ダラゴーナ
ジューリア・ダラゴーナ
イザベッラ・ダラゴーナ
アルフォンソ・ダラゴーナ
チェーザレ・ダラゴーナ
概要
イザベッラ・デル・バルツォは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
在位
第3代アルタムラの君主、第5代アンドリア公爵、第2代ヴェノーザ公爵、カステル・デル・モンテ公爵、ビシェーリエ伯爵
年表
1484年8月16日
カンチェッラーラにて、フェデリーコ・ダラゴーナと婚約。
1487年
アルタムラ、サンビアーゼ、ザンガローナ、フェロレート、マイダ、ラッコーニアの相続権を獲得し、持参金として夫に提供。
1487年11月28日
フェデリーコ・ダラゴーナと結婚(1486年11月28日)。
1488年12月15日
アンドリアにて、フェルディナンド・ダラゴーナを出産。
1492年
ジューリア・ダラゴーナを出産。
1496年
イザベッラ・ダラゴーナを出産。
1498年
アルフォンソ・ダラゴーナを出産。
1501年12月2日
イスキア島にて、トルヴェの封地に対する権利をベルリンジェロ・カラーファに譲渡。
1502年
チェーザレ・ダラゴーナを出産。
1507年~1508年
子ジューリア・ダラゴーナ、イザベッラ・ダラゴーナ、チェーザレ・ダラゴーナを連れて、姉アントーニア・デル・バルツォを頼って、サッビオネータに滞在。
1508年
フェッラーラに居住。
埋葬地
フェッラーラ、サンタ・カテリーナ・マルティーレ教会
外部リンク
アントーニオ・カニジャーニ Antonio Canigiani
- 生没
- 1449年~
- 父
- シモーネ・カニジャーニ
- 母
- マルゲリータ・デリ・アルベルティ
概要
1484年に正義の旗手だった同姓同名のいとこがいる。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
コスタンツァ・カニジャーニ Costanza Canigiani
- 生没
- 14??年~1498年4月8日
- 父
- ジョヴァンニ・カニジャーニ
- 夫
- フランチェスコ・ヴァローリ
- 子
- マリエッタ・ヴァローリ
カテリーナ・ヴァローリ
ロレータ・ヴァローリ
ディアノーラ・ヴァローリ
概要
コスタンツァ・カニジャーニは、15世紀のフィレンツェの女性。
年表
1462年
フランチェスコ・ヴァローリと結婚。
1498年4月8日
夕刻、ジローラモ・サヴォナローラに信従する修道士が説教すべく信徒たちに守られて大聖堂に近づくや、アッラビアーティなど反ジローラモ・サヴォナローラ派の者たち、ジローラモ・サヴォナローラ派追放を叫んで騒動を起こし、続いて民衆を扇動して武器を手にサン・マルコを包囲、襲撃。
シニョーリアは、ジローラモ・サヴォナローラに対して12時間以内にフィレンツェ領内から退去せよとの布告を出す。続いてサン・マルコの内部にいるジローラモ・サヴォナローラ派を退出させるべく、俗人は教会から退出しなければ全て反逆者と見なすとの布告を出す。
これらの布告により包囲側の気勢上がり、サン・マルコの襲撃はさらに激しくなる。
フランチェスコ・ヴァローリ、手兵を集めるべくサン・マルコを出て私宅に向かうが騒動のため進めず、ヴェッキオ宮殿に向かう。しかし庁宮内に引きずり込まれ、前年8月の彼の強硬発言にも影響されてコンシーリオ・マッジョーレへの提訴権を奪われたまま処刑されたメディチ派(=Bigi)の陰謀の指導者の遺族ヴィンチェンツォ・リドルフィとシモーネ・トルナブオーニ(1472年~1543年)に殺害される。この頃すでに彼の自宅も襲撃され、妻コスタンツァ・カニジャーニも殺害される。
サン・マルコは、ほとんど群衆に占拠される。
ジローラモ・サヴォナローラは、Domenico da Pesciaと共に死を決意して外に出、捕縛されてヴェッキオ宮殿の塔内の獄に入れられる。Domenico da Pescia及び先に捕らえられた修道士シルヴェストロも投獄される。
別表記
コンスタンツァ・カニジャーニ、Costanza di Giovanni di Antonio Canigiani
参考文献
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジョヴァンニ・カニジャーニ Giovanni Canigiani
- 生没
- 1404年11月28日~
- 父
- アントーニオ・カニジャーニ
- 母
- タッデア・デリ・アルビッツィ
- 妻
- サンドラ・デ・バルディ
- 子
- コスタンツァ・カニジャーニ
アントーニオ・カニジャーニ
マッテオ・カニジャーニ
概要
ジョヴァンニ・カニジャーニは、15世紀頃のイタリアの男性。
年表
1420年頃
サンドラ・デ・バルディと結婚。六男三女もうける。
1473年3月15日
アントーニオ・バルトロメイがジョヴァンニ・カニジャーニの遺言書を作成。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
トンマーゾ・ベンチ Tommaso Benci
- 生没
- 1427年~1470年4月16日
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ロレンツォ・ベンチ
概要
トンマーゾ・ベンチは、15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
アメリゴ・ベンチ Amerigo Benci
- 父
- ジョヴァンニ・ダメリゴ・ベンチ
- 母
- ジネヴラ・ペルッツィ
- 子
- ジョヴァンニ・ベンチ
ジネヴラ・ベンチ
概要
アメリゴ・ベンチは、15世紀のイタリアの男性。
年表
外部リンク
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
ジネヴラ・ベンチ Ginevra Benci
- 生没
- 1457年8月~1505年3月31日以降
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- アメリゴ・ベンチ
- 夫
- ルイジ・ニッコリーニ
概要
ジネヴラ・ベンチは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1457年8月
フィレンツェにて、生。
1473年8月17日
ルイジ・ニッコリーニの妻、死。
1474年1月15日
持参金1千4百フィオリーノで、15歳年上のルイジ・ニッコリーニと結婚。
公証人シモーネ・グラッツィーニ作成の結婚証書の日付は1473年1月15日になっているが、フィレンツェ共和国では3月25日を1年の始まりとするため、実際は1474年。
1505年3月31日
夫ルイジ・ニッコリーニが遺言書を作成し、妻に持参金を返すよう記載されているため、ジネヴラ・ベンチの死はこの日以降であると推測される。
外部リンク
別表記
ジネヴラ・デ・ベンチ
ウラースロー2世・ヤギェウォ Ulászló II Jagiełło
- 生没
- 1456年3月1日~1516年3月13日
- 妻
- ベアトリーチェ・ダラゴーナ
- 子
- ラヨシュ2世
アンナ・ヤギェウォ
概要
ウラースロー2世・ヤギェウォは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ボヘミア王ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー 1471年~1516年
ハンガリー王 1490年~1516年
先代:マティアス・コルヴィヌス
次代:ラヨシュ2世
年表
1490年4月4/6日
マティアス・コルヴィヌス、後継者を残さず死。ボヘミア(共同)王ウラースロー2世としてハンガリー王に即位。
1491年11月7日
マクシミリアン1世、ボヘミア(共同)王ウラースロー2世・ヤギェウォのハンガリー王即位(1490年)を、後継者がない場合はハプスブルク家がボヘミア及びハンガリーの王位を継承するとの条件つきで承認(Preßburg協定)。
1508年12月10日
カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世とルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。
後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォ、フェッラーラ公アルフォンソ1世・デステ、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。
1509年
1515年5月20日
ハンガリー・ボヘミアの領有を企むマクシミリアン1世、孫フェルディナンド1世をハンガリー・ボヘミア王ウラースロー2世・ヤギェウォの娘アンナ・ヤギェウォ(?~1547年)と、また孫マリア・フォン・ハプスブルクをウラースロー2世・ヤギェウォ子ラヨシュ2世と婚約させる。1515年7月22日ウィーンで正式に協定。
別表記
ラディスラス、ラディスラウス、Vladislav II、Ladislao VII Jagellone
外部リンク
ウィキペディア
Famille de Carné
Find A Grave
Genealogy.EU
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『The Life of Cesare Borgia』
アンナ・ヤギェウォ Anna Jagiełło
- 生没
- 1503年7月23日~1547年1月27日
- 出身
- ブダペスト
- 没地
- プラハ
- 父
- ウラースロー2世・ヤギェウォ
- 母
- ツァンダレ=イ・アンナ
- 夫
- フェルディナンド1世
- 子
- マクシミリアン2世
フェルディナンド2世・フォン・ハプスブルク
カタリーナ・フォン・ハプスブルク
エレオノーラ・ダズブルゴ
バルバーラ・ダズブルゴ
カール
ジョヴァンナ・ダズブルゴ
概要
アンナ・ヤギェウォは、16世紀頃の女性。
年表
別表記
ヤギエロ
外部リンク
ウィキペディア
Find A Grave
Genealogy.EU
参考文献
『ハプスブルク家』
『血の伯爵夫人エリザベート・バートリ』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジグムント1世・ヤギェウォ Zygmunt I Jagiełło
- 生没
- 1467年1月1日~1548年4月1日
- 妻
- ボーナ・スフォルツァ
概要
ジグムント1世・ヤギェウォは、15世紀から16世紀の男性。
在位
ポーランド王 1506年8月19日~1548年
リトアニア大公 1506年~1548年
年表
1506年8月19日
兄Aleksander Jagiełłończyk死、ポーランド王となる。
外部リンク
ウィキペディア
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
プロスペロ・サンタクローチェ Prospero Santacroce
- 生没
- 14??年~
- 出身
- ローマ
- 父
- ヴァレリアーノ・サンタクローチェ
- 母
- ヤコペッラ・アルツァテッリ
- 妻
- リヴィア・デッラ・ヴァッレ
- 子
- タルクイーニオ・サンタクローチェ
年表
1460年6月19日
リヴィア・デッラ・ヴァッレと結婚(1461年5月29日、1463年6月19日)。
1480年9月15日
ピエトロ・マルガーニを刺殺。
1490年
カターニア司教の故ジョヴァンニ・ガットーに貸し付けた3千ドゥカートを回収するため、2人の訴追者を雇う。
外部リンク
ヴァレリアーノ・サンタクローチェ Valeriano Santacroce
- 父
- ヤコポ・サンタクローチェ
- 妻
- ヤコペッラ・アルツァテッリ
- 子
- プロスペロ・サンタクローチェ
外部リンク
ヤコポ・サンタクローチェ Jacopo Santacroce
- 父
- ピエトロ・サンタクローチェ
- 子
- アンドレア・サンタクローチェ
ピエトロ・サンタクローチェ
パオロ・サンタクローチェ
ヴァレリアーノ・サンタクローチェ
別表記
Giacomo Santacroce
外部リンク
ピエトロ・サンタクローチェ Pietro Santacroce
- 父
- ヤコポ・サンタクローチェ
- 子
- バルトロメオ・サンタクローチェ
バルトロメオ・サンタクローチェ Bartolomeo Santacroce
- 父
- ピエトロ・サンタクローチェ
- 子
- ピエトロ・サンタクローチェ
アンドレア・サンタクローチェ
パオロ・サンタクローチェ Paolo Santacroce
- 生没
- 1???年~1470年
- 父
- ヤコポ・サンタクローチェ
- 妻
- ブリージダ・チェザリーニ
- 子
- アルフォンソ・サンタクローチェ
フランチェスコ・サンタクローチェ
ヤコポ・サンタクローチェ
ジューリア・サンタクローチェ
ジョルジョ・サンタクローチェ
マルゲリータ・サンタクローチェ ニンファ・サンタクローチェ
アレッサンドラ・サンタクローチェ
概要
パオロ・サンタクローチェは、15世紀頃のイタリアの男性。カンポ・デ・フィオーリで銀行を営み、アレヌーラに住む。
埋葬地
ローマ、サンタ・マリア・イン・プブリコリス教会
外部リンク
フランチェスコ・サンタクローチェ Francesco Santacroce
- 生没
- 1???年~1478年
- 父
- パオロ・サンタクローチェ
年表
1478年
フランチェスコ・デッラ・ヴァッレに殺される。
ジューリア・サンタクローチェ Giulia Santacroce
- 生没
- 14??年~
- 父
- パオロ・サンタクローチェ
- 母
- ブリージダ・チェザリーニ
- 夫
- パオロ・オルシーニ
- 子
- ファビオ・オルシーニ
ロベルト・オルシーニ
ポルツィア・オルシーニ
カミッロ・オルシーニ
概要
ジューリア・サンタクローチェは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1473年
パオロ・オルシーニと結婚。
外部リンク
マルゲリータ・サンタクローチェ Margherita Santacroce
- 生没
- 14??年~
- 父
- パオロ・サンタクローチェ
- 母
- ブリージダ・チェザリーニ
- 夫
- バッティスタ・カピズッキ
アガピート・カプラーニカ - 子
- バルトロメオ・カプラーニカ
概要
マルゲリータ・サンタクローチェは、15世紀頃のイタリアの女性。
外部リンク
ジョルジョ・サンタクローチェ Giorgio Santacroce
- 生没
- 1452年~1498年
- 出身
- ローマ
- 父
- パオロ・サンタクローチェ
- 母
- ブリージダ・チェザリーニ
- 妻
- アウレリア・サヴェッリ
- 子
- オノフリオ・サンタクローチェ
パオロ・サンタクローチェ
概要
ジョルジョ・サンタクローチェは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1482年4月3日
ジローラモ・リアリオから提供された武装兵2百を率い、夜、ヴァッレ宮殿を襲撃し、ジローラモ・コロンナを殺害。
1482年4月4日
教皇シクストゥス4世の命で、家が破壊される。
1493年9月12日
ヴィルジーニオ・オルシーニからヴェヤーノ、イスキア・ディ・カストロ、ロータをもらう。
外部リンク
ベルナルド・ベンボー Bernardo Bembo
- 生没
- 1433年10月19日~1519年5月28日
- 父
- ニッコロ・ベンボー
- 母
- エリザベッタ・パルータ
- 妻
- エレーナ・モロジーニ
エレーナ・マルチェッロ - 子
- ピエトロ・ベンボー
カルロ・ベンボー
概要
ベルナルド・ベンボーは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『ルネサンス精神の深層』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ピエトロ・ベンボー Pietro Bembo
- 生没
- 1470年5月20日~1547年1月18日
- 出身
- ヴェネツィア
- 没地
- ローマ
- 父
- ベルナルド・ベンボー
- 母
- エレーナ・モロジーニ
概要
ピエトロ・ベンボーは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、詩人、聖職者。
在位
枢機卿 1538年12月20日~1547年
サン・クレメンテ司祭枢機卿 1544年10月17日~1547年1月19日
著作
年表
1470年5月20日
ヴェネツィアに生。
1503年
フェッラーラを訪れる。
1503年8月21日
ルクレツィア・ボルジアを見舞う。
1503年8月22日
オステッラートにて、ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙を書く。
昨日あなたを訪れましたのは、訃報を聞いてどんなに悲しんでいるかを言うため、あなたをお慰めする努力をし、落ち着かせるためでしたが、それというのはあなたが計り知れないほどの悲しみに苦しんでいることを存じているからです。私にはどちらを果たせませんでした。暗い部屋で、喪服を着て、伏せって泣いていたあなたを見た時、自分の感情に打ち負かされて立ち尽くし、言葉を発することができず、何を言えばいいのか分かりませんでした。私自身も必要としていた同情を寄せる代わりに、あなたがお気づきになっていたかいなかったか、悲しい光景に完全に圧倒され、ぼそぼそと何か言うに言えず、立ち去りました。おそらくこういったことになったのは、あなたが同情やお悔やみを必要としていなかったからです。私の献身と忠誠をご存じなのだから、あなたの悲しみに対して私が感じる痛みをもお気づきになっているでしょうし、賢明なあなたは他でもないご自身の中にこそ慰めを見出されるでしょう。運命があなたの苦しみに勝る悲痛を私にもたらしはしないと言うことが、私がどんなに嘆いているかお伝えするのに最も相応しい。あなたの涙が伴うことよりも、私の魂を深く貫く打撃などございません。お悔やみのために私が唯一申し上げられることは、ご自身がそうお考えになられたに違いないように、時が我々の嘆き全てを宥め、緩和するのです。知性は高く評価され、ご人格の力強さを幾度も証明されてきたため、あなたが慰めを見出され、ひどく長い間嘆かれることはないと承知しております。今父君を亡くされましたが、運命自身がこれ以上優れたものを与えることはできない程あなたは崇高で、不吉で悪意のある天意から受けた初めての試練ではというわけではございませんでした。これまでにもたくさん苦しまれ、あなたの魂は不幸に慣れてしまっているに違いありません。目下の事情は、その上、この衝撃のためによりも、将来への心配のために心痛していると思われてはなりません。愚かにもこんな手紙を書いてしまいました。これで終わりにします。さようなら。
1504年8月1日
ヴェネツィアにて、ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙を書く。『アゾラーニ』を献辞。エルコーレ・ストロッツィとアントーニオ・テバルデオ、ルクレツィア・ボルジアと彼女の「親愛なる勇敢なアンジェラ・ボルジア」と交わした会話や議論について言及し、今では参加できないことを残念に思い、代わりに友人たちに自分の本を読んでもらえるよう頼む。
1505年
『アゾラーニ』をヴェネツィアで刊行。
1506年
ウルビーノに。
1525年9月
Prose della volgar lingua(俗語による散文集)をヴェネツィアで刊行し、トスカーナの俗語をもってイタリアの俗語を純化統一しかつそれを文学用語に高めることを企図。
1547年1月18日
ローマで死。
1551年
遺作Rerum venetarum historiae libri XII(ヴェネツィア共和国史12篇)、ヴェネツィアで刊。
肖像
埋葬地
外部リンク
GCatholic.com
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
『ルネッサンスの光と闇』
『ルネッサンス夜話』
『Lucretia Borgia』
カルロ・ベンボー Carlo Bembo
- 生没
- 14??年~1503年
- 父
- ベルナルド・ベンボー
概要
カルロ・ベンボーは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
参考文献
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
アントーニオ・ボルジオ Antonio Borgio
- 生没
- 14??年~
- 妻
- ジローラマ・ルフォロ
- 子
- ジローラモ・ボルジオ
ニッコロ・ボルジオ
ジョヴァンニ・ボルジオ
概要
アントーニオ・ボルジオは、15世紀頃のイタリアの男性。
ジローラモ・ボルジオ Girolamo Borgio
- 生没
- 1475年~1550年頃
- 出身
- セニーゼ
- 没地
- ナポリ王国ナポリ
- 父
- アントーニオ・ボルジオ
- 母
- ジローラマ・ルフォロ
概要
ジローラモ・ボルジオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
マッサ・ルブレンセ司教 1544年~1550年
別表記
Girolamo Borgia
外部リンク
ニッコロ・ボルジオ Niccolò Borgio
- 生没
- 14??年~
- 父
- アントーニオ・ボルジオ
- 母
- ジローラマ・ルフォロ
- 子
- ジョヴァンニ・バティスタ・ボルジオ
概要
ニッコロ・ボルジオは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2024年4月9日