アントーニオ・サンセヴェリーノ Antonio Sanseverino
- 生没
- 1395年~1460年8月以降
- 父
- ルッジェーロ・サンセヴェリーノ
- 母
- コヴェッラ・ルッフォ
- 妻
- ジョヴァンネッラ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 子
- ルカ・サンセヴェリーノ
ジョヴァンナ・サンセヴェリーノ
マルゲリータ・サンセヴェリーノ
クロリアンダ・サンセヴェリーノ
概要
アントーニオ・サンセヴェリーノは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。
在位
第6代アルトモンテ伯 1439年9月18日~
次代:ルカ・サンセヴェリーノ
コリリアーノ伯 1439年9月18日~
次代:ルカ・サンセヴェリーノ
第5代トリカーリコ伯 1439年9月18日~
次代:ルカ・サンセヴェリーノ
第5代キアロモンテ伯 1439年9月18日~
次代:ルカ・サンセヴェリーノ
第2代サン・マルコ公 1445年5月27日~
次代:ルカ・サンセヴェリーノ
ミレート(フランチカ、カリダ、ロッカンジートラ、ピッツォ、フランカヴィッラ、モンテサント)伯 1455年12月16日~
次代:ルカ・サンセヴェリーノ
年表
1395年
生(1396年)。
1415年
ジョヴァンネッラ・オルシーニと結婚(1418年)。
1427年10月15日
テッラノヴァ・ディ・タルシアにて、叔母ポリッセーナ・サンセヴェリーノが、持参金の担保としてサン・マルコを受け取ることを約定。
1439年9月18日
アルトモンテ伯、コリリアーノ伯、トリカーリコ伯、キアロモンテ伯を授与される。
1445年5月27日
叔母ポリッセーナ・サンセヴェリーノの死後、サン・マルコ公を授与される。
1447年11月17日
寄進のためコゼンツァにサン・ドメニコ修道院創設を約定。
1449年
サンタントーニオ・デッラ・スティゴーラを購入。
1455年12月16日
ミレート(フランチカ、カリダ、ロッカンジートラ、ピッツォ、フランカヴィッラ、モンテサント)伯を授与される。
1460年8月以降
死。
外部リンク
ベルナルディーノ・サンセヴェリーノ Bernardino Sanseverino
- 生没
- 1470年頃~1517年頃
- 没地
- ベルヴェデーレ
- 父
- ジローラモ・サンセヴェリーノ
- 妻
- エレオノーラ・トデスキーニ・ピッコローミニ
- 子
- グリエルモ・サンセヴェリーノ
ピエトロ・アントーニオ・サンセヴェリーノ
ピエトロ・ロマーノ・サンセヴェリーノ
アンナ・サンセヴェリーノ
マリーア・サンセヴェリーノ
カテリーナ・サンセヴェリーノ
グリエルモ・サンセヴェリーノ
ジョヴァンナ・サンセヴェリーノ
ジローラマ・サンセヴェリーノ
概要
ベルナルディーノ・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。
在位
第3代ビジニャーノの君主 1495年5月1日~1517年頃
第5代サン・マルコ公 1495年5月1日~1517年頃
第8代トリカーリコ伯 1495年5月1日~1517年頃
第8代キアロモンテ伯 1495年5月1日~1517年頃
第9代アルトモンテ伯 1495年5月1日~1517年頃
コリリアーノ、カッサーノ、ストロンゴリ伯 1495年5月1日~1517年頃
年表
1470年頃
生。
1495年5月1日
ビジニャーノの君主、サン・マルコ公、トリカーリコ、キアロモンテ、アルトモンテ、コリリアーノ、カッサーノ、ストロンゴリ伯他少なくとも50以上の封土が、フランス王シャルル8世の証書をもって回復される。
1496年8月26日
ビジニャーノの君主、サン・マルコ公、トリカーリコ、キアロモンテ、アルトモンテ、コリリアーノ、カッサーノ、ストロンゴリ伯他が正式に承認を受ける。
1496年10月30日
ビジニャーノの君主、サン・マルコ公、トリカーリコ、キアロモンテ、アルトモンテ、コリリアーノ、カッサーノ、ストロンゴリ伯他が授与される。
1506年4月27日
バリャドリッドにて、ビジニャーノの君主、サン・マルコ公、トリカーリコ、キアロモンテ、アルトモンテ、コリリアーノ、カッサーノ、ストロンゴリ伯他が授与される。
1516年10月28日
ベルヴェデーレにて、遺言書作成。公証人はレオナルド・デ・ピティエッロ。
1517年頃
遺言書作成の少し後に、ベルヴェデーレにて、死。
外部リンク
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史』
フェデリーコ・サンセヴェリーノ Federico Sanseverino
- 生没
- 146?年~1516年8月7日
- 出身
- ナポリ
- 没地
- ローマ
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
概要
フェデリーコ・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、聖職者、枢機卿。
在位
マイユゼ司教 1481年11月5日~1508年
枢機卿 1489年3月9日~1516年8月7日
任命した教皇:インノケンティウス8世
年表
146?年
生(1450年頃、1475年、1476年、1477年)。
1493年6月12日
ルクレツィア・ボルジアとジョヴァンニ・スフォルツァのヴァティカン宮殿での結婚式に参列。
1500年
ヴァルテッリーナからコモに到着し、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿と合流。
1500年2月5日(水)
朝、ルドヴィーコ・イル・モーロのミラノ入りに付き添う。
フランス軍残党掃討のため、ドイツ傭兵1万を率いミラノ出発。
1511年10月24日
ユリウス2世により破門される。
1512年2月11日
ミラノで開催された分離公会議(第5回会議)により、新教皇として擁立される。
1516年8月7日
死。
別表記
フェデリーゴ・ダ・サンセヴェリーノ、Federigo da Sanseverino、Federico di Sanseverino
外部リンク
GCatholic.com
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
The Cardinals of the Holy Roman Church
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンスの女たち』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
ルカ・サンセヴェリーノ Luca Sanseverino
- 生没
- 1420年頃~1470年1月25日より少し前
- 父
- アントーニオ・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンネッラ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 妻
- ゴッツォリーナ・ルッフォ
- 子
- ジローラモ・サンセヴェリーノ
ジョヴァンニ・アントーニオ・サンセヴェリーノ
カルロ・サンセヴェリーノ
コヴェッラ・サンセヴェリーノ
ロベルト・サンセヴェリーノ
ジョヴァンネッラ・サンセヴェリーノ
概要
ルカ・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第3代サン・マルコ公 1457年5月9日~
第6代トリカーリコ伯 1457年5月9日~
第6代キアロモンテ伯 1457年5月9日~
第7代アルトモンテ伯 1457年5月9日~
ミレート(フランチカ、カリダ、ロッカンジートラ、ピッツォ、フランカヴィッラ、モンテサント)伯 1457年5月9日~
コリリアーノ伯 1457年5月9日~
サンジネート、マルヴィート、ローゼ、タルシア、サラチェーナ、モラーノ男爵
1457年5月9日~
ベルカストロ伯 1460年1月17日~
レンデ(ドマーニコ、メンディチーノ、カロレーイ、サン・フェーレ)伯
1460年3月27日~
第1代ビジニャーノの君主 1462年3月26日~
サン・キーリコ、ラウリーア、サポナーラ領主
年表
1420年頃
生。
1457年5月9日
サン・マルコ公、トリカーリコ伯、キアロモンテ伯、アルトモンテ伯、ミレート(フランチカ、カリダ、ロッカンジートラ、ピッツォ、フランカヴィッラ、モンテサント)伯、コリリアーノ伯、サンジネート、マルヴィート、ローゼ、タルシア、サラチェーナ、モラーノ男爵を授与される。
1460年1月17日
ベルカストロ伯。2年ほどでこの封土を手離す。
1460年3月27日
レンデ(ドマーニコ、メンディチーノ、カロレーイ、サン・フェーレ)伯を授与される。
1462年3月26日
14??年
サン・キーリコ、ラウリーア、サポナーラを8千ドゥカートで購入。
1470年1月25日
この日より少し前、死。
1471年1月14日
この日付より遺言書が作成される。
外部リンク
ロベルト・サンセヴェリーノ Roberto Sanseverino


- 生没
- 1418年5月~1487年8月10日
- 没地
- カッリアーノ
- 父
- レオナルド・サンセヴェリーノ
- 母
- エリーザ・スフォルツァ
- 妻
- ジョヴァンナ・ダ・コッレッジョ
エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
ルクレツィア・マラヴォルティ - 子
- ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ
ガスパーレ・サンセヴェリーノ
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ
アントーニオ・マリーア・サンセヴェリーノ
ジネヴラ・サンセヴェリーノ
ジューリオ・サンセヴェリーノ
フェデリーコ・サンセヴェリーノ
エレオノーラ・サンセヴェリーノ
ウーゴ・サンセヴェリーノ
ジューリア・サンセヴェリーノ
イッポーリタ・サンセヴェリーノ
ルドヴィーカ・サンセヴェリーノ
ジョルジョ・サンセヴェリーノ
スヴェヴァ・サンセヴェリーノ
フランチェスカ・サンセヴェリーノ
オッタヴィアーノ・サンセヴェリーノ
ファッチェンディーノ・サンセヴェリーノ
アレッサンドロ・サンセヴェリーノ
アンニーバレ・サンセヴェリーノ
概要
ロベルト・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
性格
短気。衝動的かつ無鉄砲。
幼少時
おじフランチェスコ1世・スフォルツァのお気に入りで、ミラノ宮廷では常に特別待遇を受けていた。優れた運動能力と勇敢さは幼少時から明らかで、優雅と洗練を愛する従弟のガレアッツォ・マリーア・スフォルツァとは違い、馬上槍試合や乗馬に興味を持っていた。
在位
コロルノ伯 1458年4月15日/1477年3月23日と1479年/1482年2月17日
カステルヌオーヴォ・トルトネーゼ侯 1474年1月9日~1487年8月10日
ルガーノ領主 1479年9月19日~1487年8月10日
第1代カイアッツォ伯 1483年12月12日~1487年8月10日
カザボーナ、ピエトラパオラ、クロパラーティ、クロジア、カロヴェート、サン・モレッロ、カンパニャーノ、ヴィッジアネッロ領主 1483年12月12日~1487年8月10日
コルレート・ロッシニャーノ、リレット、アルバネッラ領主 1484年12月12日~1487年8月10日
年表

1418年5月
生。
1473年2月16日
ルクレツィア・マラヴォルティと結婚(1472年2月16日)。
1474年1月9日
ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァにより、カステルヌオーヴォ・トルトネーゼ侯を授与される。
1477年1月5日(日)
夜ボローニャからミラノに到着。
1477年1月6日(月)
公現祭。スフォルツァ城にいるチッコ・シモネッタに会いに行き、イタリア最高額の報酬を得ている傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと同じくらい高い俸給で雇えと要求する。
1477年5月28日
ピエモンテに向かう途上のアスティでモンフェッラート侯グリエルモ8世・パレオロゴ宛書簡をしたためる。城での会議よりも、兵士たちと共に過ごす方が遥かに楽しいという。
1478年8月初め
ジェノヴァのミラノに対する2度目の反乱に手を貸し、初めての大勝利を収める。
1479年9月19日
ミラノ公により、ルガーノ領主。
1482年5月3日
1482年5月
ロベルト・サンセヴェリーノは、フェッラーラ公国を北から攻め、アドリアを略奪し、コマッキオを制圧し、アルジェンタを塩沼の境界で襲撃し、フィカローロとロヴィーゴを攻囲。
1482年6月29日
フィカローロが降伏。
1482年8月17日
ロヴィーゴが降伏。
1482年11月
ヴェネツィア軍はポー川を越え、フェッラーラの城郭に迫り、攻囲。
1487年
ヴェネツィア軍を指揮し、オーストリア大公ジークムントと戦う。
1487年8月10日
カッリアーノの戦いで負傷し、川に落ちて、死(1487年8月9日)。
1487年
遺体は運ばれ、トレント大聖堂に埋葬される。
1498年
息子たちとルドヴィーコ・イル・モーロの希望により、ミラノのサン・フランチェスコ・グランデ教会に移される。
1809年
サン・フランチェスコ・グランデ教会が解体され、全ての痕跡が消失。
肖像
ロベルト・サンセヴェリーノの甲冑 Armatura di Roberto Sanseverino
- 制作
- 1485年頃
- 所蔵
- ウィーン美術史美術館

墓標
トレント大聖堂に墓標が残っているが、後にサン・フランチェスコ・グランデ教会へ埋葬されたため、ここに眠っているわけではない。
別表記
ルベルト・ダ・サンセヴェリーノ、ロベルト・ダ・サン・セヴェリーノ、Ruberto da Sanseverino
関連項目
外部リンク
Condottieri di ventura
Google Books
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
kleio.org
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
ガスパーレ・サンセヴェリーノ Gaspare Sanseverino

- 生没
- 1455年~1519年5月
- 没地
- ローマ
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・コッレッジョ
- 妻
- マルゲリータ・ピオ
- 子
- ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ
概要
ガスパーレ・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1481年~1483年

フェッラーラのエステ家とロンバルディアではミラノ公国と敵対するヴェネツィア共和国に雇われる。
1491年1月26日(水)
ミラノで馬上槍試合に出場。
1491年夏
1495年9月
ルドヴィーコ・イル・モーロにより、ピサに派遣される。
1495年9月半ば
フィレンツェ軍の野営地に使者を送り、4日以内に敵対行為をやめなければ攻撃も辞さないと通告。
1495年12月
呼び戻される。
1497年9月10日(日)
ブレシアにて、カテリーナ・コルナーロに敬意を表して行われた馬上槍試合に、妻マルゲリータ・ピオと共に行く。
1499年
弟アントーニオ・マリーア・サンセヴェリーノと共に、ジョヴァンニ・アドルノを頼ってジェノヴァに避難。
1499年10月6日
1500年4月10日(金)
フランス軍の捕虜にされる。
1500年
身代金を支払い、解放される。
別表記
グァスパッリ、フラカッサ、フラカッソ、Guasparri、Fracassa、Gasparo Sanseverino
外部リンク
Condottieri di ventura
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
『The Life of Cesare Borgia』
イッポーリタ・サンセヴェリーノ Ippolita Sanseverino
- 生没
- 1485年頃~
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
- 夫
- クリストフォロ2世・トレッリ
- 子
- マルシリオ・トレッリ
フェデリーコ・トレッリ
カテリーナ・トレッリ
ルクレツィア・トレッリ
概要
イッポーリタ・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。
年表
1495年
クリストフォロ2世・トレッリと結婚。
外部リンク
ジョヴァンニ・サンセヴェリーノ Giovanni Sanseverino
- 生没
- 13??年~1444年12月以降
- 父
- ルドヴィーコ・サンセヴェリーノ
- 妻
- ジョヴァンナ・サンセヴェリーノ
- 子
- ルドヴィーコ・サンセヴェリーノ
ロベルト・サンセヴェリーノ
ベルナボ・サンセヴェリーノ
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ
スヴェヴァ・サンセヴェリーノ
概要
ジョヴァンニ・サンセヴェリーノは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。
年表
1425年
ジョヴァンナ・サンセヴェリーノと結婚(1428年)。
外部リンク
ジョヴァンナ・サンセヴェリーノ Giovanna Sanseverino
- 父
- アントーニオ・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンネッラ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 夫
- ジョヴァンニ・サンセヴェリーノ
外部リンク
アメリゴ・サンセヴェリーノ Amerigo Sanseverino
- 生没
- 14??年~
- 父
- グリエルモ・サンセヴェリーノ
- 母
- イサベッラ・カラーファ
- 妻
- ビアンカ・デステ
概要
アメリゴ・サンセヴェリーノは、15世紀頃のイタリアの男性。
在位
第4代カパッチョ伯
年表
1495年
ビアンカ・デステと結婚。
別表記
Alberico
外部リンク
マルゲリータ・サンセヴェリーノ Margherita Sanseverino
- 父
- アントーニオ・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンネッラ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 夫
- アメリゴ・サンセヴェリーノ
- 子
- ガスパーレ・サンセヴェリーノ
グリエルモ・サンセヴェリーノ
チェーザレ・サンセヴェリーノ
アントネッロ・サンセヴェリーノ
外部リンク
カテリーナ・サンセヴェリーノ Caterina Sanseverino
- 父
- アメリゴ・サンセヴェリーノ?
- 夫
- ロベルト・オルシーニ
- 子
- アルフォンシーナ・オルシーニ
外部リンク
カテリーナ・サンセヴェリーノ Caterina Sanseverino
- 父
- フィリッポ・サンセヴェリーノ?
- 夫
- リナルド・オルシーニ
外部リンク
フィリッポ・サンセヴェリーノ Filippo Sanseverino
- 父
- ステファノ・サンセヴェリーノ
- 母
- アントネッラ・サンジネート
- 妻
- エリザベッタ・ダクイーノ
- 子
- アメリゴ・サンセヴェリーノ
カテリーナ・サンセヴェリーノ?
ミケーレ・サンセヴェリーノ
カルロ・サンセヴェリーノ
ロベルト・サンセヴェリーノ
サンソーネ・サンセヴェリーノ
フランチェスコ・サンセヴェリーノ
年表
1414年2月16日
エリザベッタ・ダクイーノと結婚。持参金2百オンス。
外部リンク
グリエルモ・サンセヴェリーノ Guglielmo Sanseverino
- 生没
- ~1496年3月17日
- 父
- アメリゴ・サンセヴェリーノ
- 母
- マルゲリータ・サンセヴェリーノ
- 妻
- イサベッラ・カラーファ
- 子
- アメリゴ・サンセヴェリーノ
イッポーリタ・サンセヴェリーノ
ジャナントーニオ・サンセヴェリーノ
概要
グリエルモ・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第3代カパッチョ伯
年表
1460年頃
イサベッラ・カラーファと結婚。
外部リンク
アントーニオ・マリーア・サンセヴェリーノ Antonio Maria Sanseverino
- 生没
- 1460年~1509年
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・コッレッジョ
- 妻
- マルゲリータ・ピオ
- 子
- カルロ・サンセヴェリーノ
オッタヴィアーノ・サンセヴェリーノ
概要
アントーニオ・マリーア・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。
在位
グァルシナーラ領主
年表
1460年
生。
1500年4月10日(金)
フランス軍の捕虜にされる。
1500年4月
スイス傭兵に逃がしてもらえる。
1509年
死(1497年)。
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
kleio.org
参考文献
『イタリア史』
『フィレンツェ史』
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノ Gianfrancesco Sanseverino

- 生没
- 1450年頃~1501年9月2日
- 没地
- ナポリ
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・コッレッジョ
- 妻
- ディアーナ・デッラ・ラッタ
バルバーラ・ゴンザーガ - 子
- ロベルト・アンブロージオ・サンセヴェリーノ
ジローラモ・サンセヴェリーノ
概要
ジャンフランチェスコ・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。
在位
第2代カイアッツォ伯・コロルノ伯 1487年~1501年
年表
1482年以前
ディアーナ・デッラ・ラッタと結婚。
1488年12月
エルメス・スフォルツァのナポリ行きに同行。
1491年2月
アルフォンソ1世・デステと婚約したアンナ・マリーア・スフォルツァをフェッラーラに送る派遣団の一員を務める。
1492年2月23日
シャルル8世宮廷へ使節としてミラノ出発。ガレアッツォ・ヴィスコンティ、アントーニオ・カルコらが同行。
1492年3月28日
パリ到着(1492年3月26日)。
1492年3月29日
シャルル8世に謁見。
1492年3月30日
フランス王妃アンヌ・ド・ブルターニュに謁見。
1492年
サン・ジェルマンの森で狩りをする王族に供する。
1492年5月5日
具体的な成果を挙げれぬままパリ出発。
1492年8月末~1492年9月初め
エルメス・スフォルツァ率いる新教皇アレクサンデル6世へのミラノ代表団の一員を務める。
1494年7月27日
スフォルツァ城前の広場にて、ルドヴィーコ・イル・モーロから指揮杖を渡される。
1494年
歩兵と軽装騎兵1千5百を率いてフランス軍に参加し、ロマーニャでカラブリア公フェッランテ・ダラゴーナ指揮のナポリ軍と戦う。
1495年4月8日
ミラノへ帰還命令を受ける。
1495年7月6日
1495年7月
ノヴァーラに到着し、ルイ2世・ドルレアンを包囲するガレアッツォ・サンセヴェリーノと合流。
1499年
ボッツォーロにて、バルバーラ・ゴンザーガと結婚。
1499年7月
東部国境防衛の任務に就いていたが、兵力分散のため退避を余儀なくされ、ヴェネツィア軍はクレモーナとトレヴィーリオを無抵抗で占拠。
1499年8月29日
アレッサンドリアがフランス軍に降伏。
1499年9月5日
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオに会いに行く。
1499年
ルイ12世に雇われる。
1499年10月6日
1501年9月2日
ナポリにて、死(1502年9月7日)。
別表記
ジョヴァン・フランチェスコ、ジョヴァンニ・フランチェスコ、Giovann Francesco
外部リンク
Condottieri di ventura
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
kleio.org
Treccani
Wikipedia
別表記
ジョヴァンニ・フランチェスコ
参考文献
『フィレンツェ史』
『イタリア史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
アメリゴ・サンセヴェリーノ Amerigo Sanseverino
- 生没
- 1415年~1452年11月3日
- 父
- フィリッポ・サンセヴェリーノ
- 母
- エリザベッタ・ダクイーノ
- 妻
- マルゲリータ・サンセヴェリーノ
- 子
- ガスパーレ・サンセヴェリーノ
グリエルモ・サンセヴェリーノ
チェーザレ・サンセヴェリーノ
アントネッロ・サンセヴェリーノ
カテリーナ・サンセヴェリーノ?
概要
アメリゴ・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第1代カパッチョ伯
カンマロータ領主
年表
1415年
生(1418年)。
1437年1月26日
カッサーノにて、マルゲリータ・サンセヴェリーノと結婚。
1443年
カパッチョ伯に叙勲。
1452年11月3日
ライーノにて、戦死。
外部リンク
アントネッロ・サンセヴェリーノ Antonello Sanseverino
- 生没
- 1458年~1499年
- 出身
- サレルノ
- 没地
- セニガッリア
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- ライモンディーナ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 妻
- コスタンツァ・ダ・モンテフェルトロ
- 子
- ロベルト2世・サンセヴェリーノ
概要
アントネッロ・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第2代サレルノの君主 1463年~1485年
先代:ロベルト・サンセヴェリーノ
次代:アルフォンソ・ダラゴーナ
年表
別表記
アントネロ、アントネッロ・ダ・サンセヴェリーノ(Antonello da Sanseverino)
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『イタリア史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
ジローラモ・サンセヴェリーノ Girolamo Sanseverino
- 生没
- 1448年頃~1487年
- 父
- ルカ・サンセヴェリーノ
- 妻
- ジョヴァンネッラ・カエターニ
- 子
- ゴッツォリーナ・サンセヴェリーノ
ベルナルディーノ・サンセヴェリーノ
概要
ジローラモ・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性。
在位
第2代ビジニャーノの君主
第4代サン・マルコ公
第7代トリカーリコ伯
第7代キアロモンテ伯
第8代アルトモンテ伯
ミレート(フランチカ、カリダ、ロッカンジートラ、ピッツォ、フランカヴィッラ、モンテサント)伯
コリリアーノ伯
レンデ(ドマーニコ、メンディチーノ、サン・フェーレ)伯
サンジネート、ローゼ、タルシア、サラチェーナ、モラーノ男爵 1472年9月2日~
年表
1448年頃
生。
1465年
ジョヴァンネッラ・カエターニと結婚。持参金1万2千ドゥカート。
1472年9月2日
サンジネート、ローゼ、タルシア、サラチェーナ、モラーノ男爵に授与される。
1483年
comprò per 18.000 ducati una partecipazione alla Gabella della Sete in Calabria。
148?年
ナポリ王国Gran Camerario。
1487年7月14日
バローネの反乱に加担したとして、財産を没収の上逮捕される。子供たちは追放。
外部リンク
JDA's Family Tree
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
参考文献
『イタリア史』
ロベルト・サンセヴェリーノ Roberto Sanseverino
- 生没
- 1430年頃~1474年12月2日
- 父
- ジョヴァンニ・サンセヴェリーノ
- 妻
- ライモンディーナ・オルシーニ・デル・バルツォ
- 子
- アントネッロ・サンセヴェリーノ
ジョヴァンナ・サンセヴェリーノ
概要
ロベルト・サンセヴェリーノは、15世紀のイタリアの男性。
在位
サレルノの君主 1460年~
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
ガレアッツォ・サンセヴェリーノ Galeazzo Sanseverino

- 生没
- 1458年6月12日~1525年2月25日
- 出身
- ナポリ
- 没地
- パヴィア
- 父
- ロベルト・サンセヴェリーノ
- 母
- ジョヴァンナ・ダ・コッレッジョ
- 妻
- ビアンカ・スフォルツァ
エリザベッタ・デル・カッレット
概要
ガレアッツォ・サンセヴェリーノは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
フランス王室主馬頭 1505年~1525年
年表
1458年6月12日
ナポリにて、生。
1488年4月
カテリーナ・スフォルツァ救援のため、ルドヴィーコ・イル・モーロによりフォルリに派遣される。
勝利し、ミラノ公国軍総司令官に任命される。
1489年12月31日
パヴィアのヴィスコンティ城にて、ビアンカ・スフォルツァと結婚。
1491年1月26日(水)
ミラノで馬上槍試合に出場。
1494年4月1日
リヨンへ向け、出発。
1494年4月5日
4名のみを伴いドイツ人を装って秘密裡にリヨンに到着。
1494年4月6日
朝、公式にリヨン入城。フランス王シャルル8世に歓迎され、王妃アンヌ・ド・ブルターニュにも会う。
シャルル8世により、聖ミカエル騎士団に叙任される。
1494年4月
ミラノ到着。
1494年
シャルル8世に同行。
1494年11月17日
1494年11月
教皇アレクサンデル6世宛てに手紙を直筆で書く。
私はフランス王陛下のもとに参上し、前述のご婦人たちの拘留の件について申し述べました。・・・・私は、最も適切と思われる表現と身振りとによって、このご婦人らを釈放くださり、聖下に満足を賜るようお願いいたしました。陛下は・・・・そのご婦人たちの釈放を是とされただけではなく、今夕前にも、婦人らをローマまでお届けする護送隊を送る旨お答えになりました。
1494年12月
ヴィテルボでアスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿逮捕の知らせを聞き、ヴィジェヴァーノへ行き、ルドヴィーコ・イル・モーロに伝える。
1495年4月19日
ミラノ軍を率いてルイ2世・ドルレアンとその軍が駐屯するアスティに向かう。
しかし、ルイ2世・ドルレアン軍は重装騎兵7百、ドイツ人歩兵8千(又は騎兵3千と歩兵4千)を有しており、対するガレアッツォ・サンセヴェリーノの軍は新兵の上低賃金のためアンノーナを動けず。
1495年6月11日
ルイ2世・ドルレアンがノヴァーラを占領。
1495年6月
ガレアッツォ・サンセヴェリーノは、フランス軍がノヴァーラを動けないよう包囲。
1495年6月22日
ヴェネツィアの将軍ベルナルド・コンタリーニがギリシア人軽装騎兵を率いて到着。
1496年6月20日
ビアンカ・スフォルツァと床入り。
1497年9月10日(日)
ブレシアにて、カテリーナ・コルナーロに敬意を表した馬上槍試合に出場し、優勝。
1497年9月11日(月)
カテリーナ・コルナーロをアーゾロまで護衛。
1498年
エリザベッタ・デル・カッレットと結婚。
1499年8月28日
日暮れ時3人の騎士のみを連れアレッサンドリアを出発し、ポー川を越えると橋を壊し、ミラノに到着。
1499年8月29日
フランス軍がアレッサンドリアに入る。
1500年1月
ガレアッツォ・ヴィスコンティと共にスイスとグリゾンの歩兵を率い、ルドヴィーコ・イル・モーロに先んじてブリクセン出発。
クール、キアベンナを経由。
1500年1月30日(木)
コモ湖到着。
11艘を艤装し、敵の船を敗走させ、フランス軍に占拠されていた要塞を奪還。
リニー伯シャルル・ド・ブルボンとムゾッコ伯ジャンニッコロ・トリヴルツィオは騎兵2千でコモを掌握していたが、民衆の反感を認識していたため、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿とフェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿が軍を率い接近すると、撤退。
ガレアッツォ・サンセヴェリーノは軽装騎兵を率い、敵を追撃。
1500年2月3日(月)
ミラノ入城。
1500年2月5日(水)
朝、ルドヴィーコ・イル・モーロのミラノ入りに付き添った後、フランス軍残党追撃に向かう。
フランス軍は歩兵に加え、騎兵2百50がパルマに達する。
1500年4月10日(金)
フランス軍の捕虜にされる。
1500年6月
身代金4千ドゥカートで解放される。
1503年
インスブルックにまだ居住。
マクシミリアン1世に随行し、アウグスブルクの帝国議会でルドヴィーコ・イル・モーロの救済を訴える。
1504年
ルイ12世と和解。
ミラノでシャルル・ダンボワーズ枢機卿と会い、故ビアンカ・スフォルツァの遺産24万ドゥカートを含む財産、不動産の回復をフランス王に願い出る。
フランス宮廷に呼ばれ、歓心を買う。
1505年
フランス王室主馬頭に任命される。
1507年5月23日
1507年5月
スフォルツァ城の広場で行われた馬上槍試合にて勝利。
1518年
ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオの領地カステルヌオーヴォ・スクリーヴィアを、フランソワ1世により封ぜられる。
1525年2月25日
パヴィアの戦いにて、死(1525年2月18日)。
別表記
ガレアッツォ・ダ・サンセヴェリーノ、ガレアッツォ・ディ・サン・セヴェリーノ、ガレアッツォ・ダ・サン・セヴェリーノ、Galeazzo da Sanseverino
外部リンク
Condottieri di ventura
kleio.org
Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『君主論』
『フィレンツェ史』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンスの華』
『Lucretia Borgia』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2019年12月23日