- 生没
- 1410年~1480年10月30日
- 出身
- カックーリ
- 没地
- パヴィア
- 父
- アントーニオ・シモネッタ
- 妻
- エリザベッタ・ヴィスコンティ
- 子
- ジャン・ヤコポ・シモネッタ
マルゲリータ・シモネッタ
アントーニオ・シモネッタ
シジスモンド・シモネッタ
ルドヴィーコ・シモネッタ
イッポーリタ・シモネッタ
チェチーリア・シモネッタ
概要
チッコ・シモネッタは、15世紀のイタリアの男性。
容姿
浅黒い肌でがっしりした体格。
教養
青年時代、ロッサーノの修道院で大陸法と教会法を学び、ラテン語とギリシア語を習得。
年表
1410年
カックーリで誕生。カックーリは南イタリアの小さな領地で、フランチェスコ1世・スフォルツァがカラブリアのポリッセーナ・ルッフォと結婚した際に支配下に加えた土地。
1430年頃
スフォルツァ家の代理人を務めるおじのアンジェロ・シモネッタを通じて、当時傭兵隊長だったフランチェスコ1世・スフォルツァに雇われることになり、移動書記局の一員に加わる。
1450年
ミラノ公フランチェスコ1世・スフォルツァの書記官となる。
1452年
エリザベッタ・ヴィスコンティと結婚。
1466年3月8日
フランチェスコ1世・スフォルツァ、死。長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ、ミラノ公となる。
1473年2月13日
ミラノでジェラルド・チェッルーティ宛書簡をしたためる。ボローニャにおけるガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの代理人が財産を没収するためにユダヤ人を冤罪で告発しようとしたことに対して、チッコ・シモネッタは「これは腐りきった行為で、悪い後味を残すことになります」と返答。
1475年2月
ロレンツォ・イル・マニーフィコに身の安全に気をつけるよう忠告。メディチ銀行がナポリ王国全土での課税免除を意外にも認められたことについてフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが不満を述べているという報告を受けていたため。
1476年12月26日(木)
サント・ステファノの日。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺される。幼子ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァ、ミラノ公となり、母ボーナ・ディ・サヴォイアが摂政となる。しかし、以後自身が実権を握る。
1477年1月6日(月)
公現祭。この日にはすでにスフォルツァ城の公爵の部屋を住居としていた。
ロベルト・サンセヴェリーノがやってきて、イタリア最高額の報酬を得ている傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと同じくらい高い俸給で雇えと要求される。
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ宛暗号書簡をしたためる。今すぐミラノに来て事態を収拾して欲しいと請う。
ボーナ・ディ・サヴォイアに代わってロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡を口述、息子ジャン・ヤコポ・シモネッタが書き留める。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの死に対するロレンツォ・イル・マニーフィコとジュリアーノ・デ・メディチの哀悼に感謝し、彼らとの連携を強調する。
1477年1月8日(水)
穀物の公正価格を定めようとする書簡をしたためる。
1477年3月19日
ミラノ発ミラノ公よりフィレンツェ公使フィリッポ・サクラモロ宛書簡がしたためられる。ルイジ・プルチについて言及。
1478年2月11日
この日受け取った、ローマ駐在大使からの1478年2月2日付の書簡への返答を書く。
1478年3月27日
ミラノ公のジェノヴァ総督プロスペロ・アドルノが、シクストゥス4世・フェッランテ・ダラゴーナの同盟に加盟。ミラノは直ちにプロスペロ・アドルノを排すべく使節をジェノヴァに送る。
1478年4月24日
ゲオルギオスの日。何百名もの武装した兵士がミラノの通りを厳かに行進。
1478年5月9日
ミラノで、ミラノ公よりロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡がしたためられる。チッコ・シモネッタ自筆の訂正あり。厳重に身を守るよう懇願。
1478年7月3日
ミラノでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。フィレンツェとミラノは。乗り気な者と乗り気でない者の結びつきなので、一緒になることもあればばらばらになることもあるだろうと伝えた。
1478年12月29日
ミラノでロレンツォ・イル・マニーフィコ宛書簡をしたためる。我々を2人とも排除すれば完全な成功だと敵は明らかに信じていると述べた。
1479年9月10/11日
ミラノに帰りさまざまの巧みな策を弄してジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとボーナ・ディ・サヴォイアに取り入ったルドヴィーコ・イル・モーロ、両名の背後で実権を握ってきた(1476年~)チッコ・シモネッタを両名から引き離すことに成功し、この日、チッコ・シモネッタを逮捕させパヴィアの獄に投じさせる。
以後ルドヴィーコ・イル・モーロ、次第にミラノの実権を掌握。
1479年9月10日
夜、弟ジョヴァンニ・シモネッタと共に、公国の護衛兵に捕らえられ、馬車の中に隠されて百名の騎兵隊によって護送された。そしてパヴィアのパヴィアのヴィスコンティ城の地下牢に投獄される。彼らの邸宅は、田舎にあるものも街中にあるものも人々に略奪されるがままとなった。これ以上の騒乱を防ぐため、大勢の兵士が街に派遣されなければならなかった。
1480年10月30日
ルドヴィーコ・イル・モーロによりパヴィアで投獄されていたが、国家反逆罪で有罪判決を受け、パヴィアで斬首刑に処される。パヴィアの女子修道院に埋葬される。
著作
『見本のない暗号書簡を解読するためのルール』
チッコ・シモネッタの書簡 Lettere di Cicco Simonetta
- 送主
- チッコ・シモネッタ
- 日付
- 1478年2月11日、ミラノ
- 寸法
- 63 mm × 71 mm
概要
1478年2月11日に受け取った、ローマ駐在大使からの1478年2月2日付の書簡への返答を、ミラノ公の名でチッコ・シモネッタが書いたもの。右下に直筆署名。
外部リンク
備考
外交機密を除く、宮廷のあらゆる活動を律儀に日記に記録していた。
サルティラーナ・ロメッリーナはシモネッタ家の広大な地所で、そこで取れる新鮮な青野菜と丸々太った去勢鶏はミラノに届けられ、専属料理人によって調理されていた。
肉ばかり食べ、肥満傾向にあった。恐らくこうした不健康な食生活が、年をとるにつれますます苦しめられる痛風の原因だった。
本名
フランチェスコ・シモネッタ(Francesco Simonetta)
別表記
チェッコ、Cecco
外部リンク
Storia di Milano
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『イタリア史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2022年4月25日