Lorenzo de' Medici

ロレンツォ・デ・メディチ

生没:1492年9月12日~1519年5月4日
在位:ウルビーノ公 1516年8月16/18日~1519年
   教会の旗手 1516年8月16/18日~?
父:ピエロ・イル・ファトゥオ
母:アルフォンシーナ・オルシーニ
妻:マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ
子:アレッサンドロ・デ・メディチ
  カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 ロレンツォ・デ・メディチは、15世紀~16世紀の男性、ウルビーノ公。

年表

1514年6月半ば
レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。
さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。
ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。
1515年7月17日
レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。
この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。
1516年3月10日
シエナの君主ボルゲーゼ・ペトルッチメディチ家に対する忠誠心の欠如を怒ったレオ10世は、彼を彼の従兄弟ラッファエーレ・ペトルッチを用いて追放し、ラッファエーレ・ペトルッチをシエナの君主に据える。新君主ラッファエーレ・ペトルッチロレンツォ・デ・メディチをシエナの傭兵隊長とする。
1516年5月17日
レオ10世は、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレからウルビーノなど全領国を奪うべくロレンツォ・デ・メディチの指揮する軍をウルビーノに向かわせる。
1516年5月末
教皇軍の接近を前に、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、家族と共にウルビーノを捨ててまずペーザロに、さらにマントヴァに逃げる。1516年5月30日ロレンツォ・デ・メディチが、ウルビーノに入城。
1516年8月16/18日
レオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレから取り上げたウルビーノ、ペーザロ及びセニガッリアを封与。以後彼はウルビーノ公と公称される。
さらにレオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチを、1516年3月死のジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに代わる教会の旗手に任命。
1517年1月半ば~2月初旬
逃亡先マントヴァの候フランチェスコ2世・ゴンザーガから資金援助を得、前年の各協定によって失職した各国の兵士を集めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、旧領地を奪還すべく小軍を率いてウルビーノに向かう。新ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの不在を利して、1517年2月5/6日ウルビーノに入城し制圧。
ロレンツォ・デ・メディチも急ぎ大軍を擁してウルビーノに向かい、両軍の戦闘始まる。
1517年9月半ば
フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、教皇軍に降伏。全資産を持ってマントヴァに逃れることを認められ、ウルビーノを出る。1517年9月17日?、ロレンツォ・デ・メディチがウルビーノを制圧。
1518年1月28日
ロレンツォ・デ・メディチフランソワ1世の一統に連なるブローニュ・オーヴェルニュ伯ジャン・ド・ラ・トゥールの娘マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ(1501年~1519年)と婚約。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係また生ずる。
1518年4月28日
フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。
この結婚によりフランソワ1世メディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:ジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチとその兄ピエロ・イル・ファトゥオの子ロレンツォ・デ・メディチ(1492年~1519年:ウルビーノ公在位1516年~1519年)を襲撃する陰謀がピエトロ・パオロ・ボスコリ(1478年~1513年)とアゴスティーノ・カッポーニ(1471年~1513年)を中心とする若者20名ほどによって企まれていたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見されたピエトロ・パオロ・ボスコリの手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。1513年2月22~23日深夜、両名は処刑される。
1513年8月13日
レオ10世教会の旗手としてローマに滞在することになったジュリアーノ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチに代えて甥ロレンツォ・デ・メディチをフィレンツェの統治者とする。
1514年2月
ロレンツォ・デ・メディチ、市民軍の復活、再編を決意。
1515年5月24日
ロレンツォ・デ・メディチ、コンシーリオ・デ・セッタンタでCapitano generale della Repubblica fiorentina(フィレンツェ共和国軍総司令官)に任命される。
1516年
フランチェスコ・グィッチャルディーニDiscorso del modo di assicurare lo stato ai Medici(メディチ家政権の確保方法に関する論考)を書き、ロレンツォ・デ・メディチの絶対君主化を批判。
1518年2月半ば
ロレンツォ・デ・メディチ、結婚式のためフランスに向かって出発。
1518年9月7日
ロレンツォ・デ・メディチ、新婦マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュを伴って帰る。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。
1519年4月13日
ロレンツォ・デ・メディチと妻マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュの間に娘カトリーヌ・ド・メディシス生(~1589年)。
1519年5月4日
ロレンツォ・デ・メディチ死(1492年~:ウルビーノ公在位1516年~)。
レオ10世ジューリオ・デ・メディチフィレンツェの支配にあたらせながら彼を通してローマからフィレンツェを支配。
しかしレオ10世の意に従いながらもジューリオ・デ・メディチ、自ら絶対君主化して集権的支配を行なっていたロレンツォ・デ・メディチに対してメディチ派貴族の中にさえ憤懣・反発が強まり離反者が生じていたことを考慮し、宥和策をとり始める。

 ロレンツォ・デ・メディチの霊廟

別表記

 小ロレンツォ、ロレンツォ・デ・メディチ2世

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 世界帝王事典

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

記載日

 2005年5月29日以前