Lorenzo de' Medici

ロレンツォ・デ・メディチ

ロレンツォ・イル・ヴェッキオ Lorenzo il Vecchio

生没
1395年~1440年9月23日
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ
ピッカルダ・ブエリ
ジネヴラ・カヴァルカンティ
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
フランチェスコ・デ・メディチ

概要

 ロレンツォ・デ・メディチは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。

年表

1433年9月29日

バーリアは、メディチ家の追放を具体的に決める。ヴェネツィアに5年間、追放処分となる。

肖像

別表記

 ロレンツォ・メーディチ、ロレンツォ・ディ・ジョヴァンニ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 RootsWeb.com
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネッサンス夜話』

ロレンツォ・デ・メディチ Lorenzo de' Medici

ベルナルデット・デ・メディチ
コスタンツァ・グァスコーニ
カテリーナ・デ・ネルリ
ガレオット・デ・メディチ
オッタヴィオ・デ・メディチ

年表

1468年

カテリーナ・デ・ネルリと結婚。

外部リンク

 Genealogy.EU

ロレンツォ・イル・マニーフィコ Lorenzo il Magnifico

Ritratto di Lorenzo il Magnifico Giorgio Vasari
生没
1449年1月1日~1492年4月8日
出身
フィレンツェ
没地
カレッジ
ピエロ・イル・ゴットーソ
ルクレツィア・トルナブオーニ
クラリーチェ・オルシーニ
ルクレツィア・ドナーティ
ルクレツィア・デ・メディチ
ピエロ・イル・ファトゥオ
マッダレーナ・デ・メディチ
レオ10世
ルイーザ・デ・メディチ
ジュリアーノ・デ・メディチ
マリーア・デ・メディチ
コンテッシナ・デ・メディチ

概要

 ロレンツォ・デ・メディチは、15世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。祖父コジモ・イル・ヴェッキオに倣って表だった要職に就こうとはしなかった。代わりにメディチ家の親派がこれを独占し、実質的にフィレンツェの政治を全て握っていた。民衆にも人気があり、ジローラモ・サヴォナローラが登場するまでは、この独裁体制は揺るぐことがなかったのである。1478年に起こったパッツィ家の陰謀を辛くも逃れ、持ち前の政治力で陰謀後混乱を見事に乗り切り、自分の地位を盤石とする。

容姿

 幼年時代の怪我のせいで、平らに潰れた大きな鼻ばかりが目立つ顔で、そのせいで声も奇妙な鼻声だった。さらに、曽祖父ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチのひどく突き出た顎と大きな口を受け継いでいた。
 このように恵まれた容姿ではなかったものの、所作が非常に優雅で、一度会って話をした人間はことごとく彼の魅力の虜になってしまった。女性も例外ではなかったという。

教養

 5歳の頃からジェンティーレ・ベッキを家庭教師として、ラテン語とラテン文学の基礎を学んだ。

年表

1449年1月1日

フィレンツェにて、生。

1465年春

ミラノを公式訪問し、イッポーリタ・スフォルツァに表敬。

ミラノに数日滞在後、パヴィアにある有名なヴィスコンティ・スフォルツァ図書館を訪れる。管理者チッコ・シモネッタからフランチェスコ・ペトラルカが所有していたウェルギリウスの作品の注釈付き彩色写本を見せてもらう。

ロンバルディアを発った後で、スフォルツァ家の紋章と銘の入った豪華な彩色の施された甲冑を所望。

1466年3月8日

フランチェスコ1世・スフォルツァが没する。

1466年3月

ナポリを訪問。

1466年6月9日

フィレンツェビアンカ・マリーア・ヴィスコンティ及びミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛書簡をしたためる。ミラノ公への末永い忠誠を誓った。

1469年2月7日

サンタ・クローチェ広場で行われた馬上槍試合で勝利。女王は愛人のルクレツィア・ドナーティ

1469年6月4日

ローマの有力貴族クラリーチェ・オルシーニと結婚。

1469年12月2日

ピエロ・イル・ゴットーソ、死。ロレンツォ・イル・マニーフィコ、メディチ家の当主となる(1469年~1492年)。

以後ロレンツォ・イル・マニーフィコ、銀行業などの経済活動には政治に対するような関心を抱かず、フランチェスコ・サッセッティにメディチ銀行の全権を委ねる。

1470年7月5日

百人委員会を自派で抑え得ないロレンツォ・イル・マニーフィコ、その主要官職(アッコピアトーリなど)選出権を奪うことを狙い、シニョーリアをして百人委員会改革案を百人委員会に提出させるが否決される。ロレンツォ・イル・マニーフィコによる伝統的共和政変改の初の試み、失敗。

1470年8月22日

豊かな鉱脈鉱床を持ちトスカーナの鉱床の中心をなすヴォルテッラは、以後に発見される鉱床でのあらゆる鉱石の採掘権を5年間シエナのBenuccio Capaccio(1430年~1510年)に、ごく僅かな賃貸料で与える。

1470年12月初め

この年この頃までに、ヴォルテッラのカステルヌオーヴォで新たな明礬鉱が発見される。

1470年12月3日

Benuccio Capaccioは、6名の採掘協力者と新たに発見された明礬鉱床を含む採掘地域を発表。協力者はロレンツォ・イル・マニーフィコの身代わりと配下の人物ばかりであり、採掘の目的は専ら明礬であることが明らかとなる。

1470年12月3日

Benuccio Capaccioは、6名の採掘協力者と新たに発見された明礬鉱床を含む採掘地域を発表。協力者はロレンツォ・イル・マニーフィコの身代わりと配下の人物ばかりであり、採掘の目的は専ら明礬であることが明らかとなる。

1470年

この年以降、経済活動急速に衰退し、市内の銀行もこの年すでに最盛期の半数以下(33行)になる。

1471年1月9日

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、百人委員会のアッコピアトーリ選出権を事実上奪う5年期限の法案を、シニョーリアをして百人委員会に提出させ、巧みに承認させる。これによりアッコピアトーリの選出及びアッコピアトーリが行ってきたシニョーリアなど主要官職の選出はロレンツォ・イル・マニーフィコの事実上の統制下に入る。

1471年4月17日

メディチ銀行、教皇庁とトルファの明礬鉱の採掘及び明礬の販売に関する契約を更改し、改めてその独占権を得る(1471年~1476年)。

1471年6月4日

新明礬鉱の埋蔵量の大きさが明らかになりその採掘権賃貸料の安さに気づいたヴォルテッラのシニョーリア、その値上げを要求したもののロレンツォ・イル・マニーフィコから満足のいく値上げ案を示されないことに不満を強め、1470年8月の契約を一方的に破棄し、鉱床を占拠。

1471年6月28日

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、ヴォルテッラのシニョーリアの行為に激怒し、鉱床占拠の中止、採掘場からの退去を求める最後通牒を送りつける。以後も強行姿勢を取り続ける。

1471年7月3~5日

百人委員会の支配を企図するロレンツォ・イル・マニーフィコ、百人委員会を改組すべくまずシニョーリアをして百人委員会にバーリアの設置を提案させ、承認される。

1471年7月8日

バーリア、5年期限の百人委員会改組法案を可決。これによりアッコピアトーリシニョーリアが百人委員会の中枢を占め、百人委員会もロレンツォ・イル・マニーフィコの操作下に入り始める。

1471年7月23日

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、自己の操作下に入り始めた百人委員会に共和政の憲法に抵触しない限りでの政治、軍事、財政上の専権的立法権を与える5年期限の方を、バーリアで成立させる。

伝統的立法機関コンシーリオ・デル・ポーポロおよびコンシーリオ・デル・コムーネの議を経ずになされたこの年の一連の共和政変改により、この2機関の権限は大幅に縮小するなど、共和政のメディチ独裁政への変質、一層、顕著になる。

1471年8月25日

シクストゥス4世が新教皇となる。

1471年9~10月

ロレンツォ・イル・マニーフィコを代表とするフィレンツェ使節団、ローマに赴いてシクストゥス4世に表敬し、教皇即位を祝賀。

シクストゥス4世、メディチ銀行に教皇庁の財務管理を正式に委ねる。

1471年11月7日

1471年、市内に印刷所を開設したフィレンツェ生まれの金細工師Bernardo Cennini(1415年~1498年頃)、息子Domenico Cenniniと共に古代ローマの文法学者・評釈家Maurus Servius Honoratus(400年代初)のCommentaria in Vergilium(ウェルギリウス作品評釈)の第1部を刊行。(1472年1月9日第2部、1472年10月7日第3部を刊行)。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、印刷に関心を示し、以後、学者を雇って古典の出版を奨励。

1471年

メディチ銀行ヴェネツィア支店再開設。

1472年2月15日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの長男ピエロ・イル・ファトゥオ(1472年~1503年)。

1472年2月20日

ヴォルテッラの下層市民、明礬鉱の採掘権者Benuccio Capaccioの協力者2名を襲撃し惨殺。この事態にヴォルテッラのシニョーリアは市民との連帯を表明。

1472年4月26/27日

ヴォルテッラが、メディチ家及びフィレンツェに対し、シニョーリアも市民も共に市を挙げて反乱。

1472年4月30日

ヴォルテッラの反乱への対処法が論議され、ロレンツォ・イル・マニーフィコの主張する武力鎮圧を行うことに決まる。直ちにロレンツォ・イル・マニーフィコ及び彼の信の厚いトンマーゾ・ソデリーニ(1403年~1485年)など有力市民20名からなるヴォルテッラ征伐委員会が設置される。

1472年5月5日

ヴォルテッラ鎮圧のため傭兵軍を結成し始める。

1472年5月14日

ヴォルテッラの武力鎮圧を目指すフィレンツェシクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが支援の姿勢を取り、この日、フェッランテ・ダラゴーナの派遣したフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロフィレンツェは鎮圧軍の指揮官に任命。

1472年5月15/16日

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ軍、この日頃からヴォルテッラを包囲し、そのコンタードを次々と攻略。

1472年6月16日

ヴォルテッラが、市民及びその財物の安全を保障するとの条件付でフィレンツェ軍に降伏。

1472年6月18日

フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮のフィレンツェ軍、ヴォルテッラに入城するや指揮官を先頭に略奪、暴行、虐殺の限りを尽くす。

この平定後フィレンツェは、70を越える有力家門を追放してヴォルテッラを自領に併合すると共に、明礬鉱の所有権を独占。以後この鉱からの収益は、メディチ家及びフィレンツェの富の源泉となる。

1472年12月下旬

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、ピサに逗留し、フィレンツェ大学(1348年設立)を勉学、研究に集中するのに不向きになってきたフィレンツェからピサに移転すべく、長く放置されてきたピサ大学を復興させ、直接管理下に置く。

1472年12月23日

ヴォルテッラの明礬鉱、ロレンツォ・イル・マニーフィコ配下の旧採掘権者たちに返還される。以後、この採掘、生産を管理し、ここから得る莫大な富を基にフィレンツェの内外での権力をさらに強化。

1472年

メディチ銀行ロンドン支店閉鎖。巨額の回収不能の貸付をブールジュ支店が引き継ぐ。これがブールジュ支店の経営を甚だしく圧迫。

1473年7~8月初め

この頃シクストゥス4世フィレンツェフランチェスコ・デ・パッツィ(1444年~1478年)から得た資金を基にガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからイーモラを購入し、間もなく甥ジローラモ・リアリオに封与。シクストゥス4世によるイーモラ獲得を資金面で阻み、自らこれを獲得してロマーニャへの影響力を拡大、強化しようと企画していたロレンツォ・イル・マニーフィコは、反シクストゥス4世、反パッツィ家の姿勢を強める。

1473年8月

この頃ロレンツォ・イル・マニーフィコ、田園詩、パロディーNencia da Barberino(ネンチァ・ダ・バルベリーノ)を作詞。

1473年

メディチ銀行ブールジュ支店の支店としてロンドン店を再開。

1473年

ヴォルテッラの明礬鉱の採掘、採算合わず、一時中止される。

1474年1月5日

ピエトロ・リアリオ急死(1446年~1474年:枢機卿在位1471年~1474年:フィレンツェ大司教在位1471年~1474年)。

シクストゥス4世、反メディチ派のフランチェスコ・サルヴィアーティ(?~1478年)をフィレンツェ大司教に任命。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあいフランチェスコ・サルヴィアーティは着任できず。やむなく後にシクストゥス4世、ロレンツォ・イル・マニーフィコの義兄弟リナルド・オルシーニを任命。

1474年6月初め~半ば

フィレンツェ領に接した小市チッタ・ディ・カステッロを自分の叙任なく支配している(1460年~)ニッコロ・ヴィテッリ(1414年~1486年)を排しようと企図して甥・枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ配下の軍を向けたシクストゥス4世、ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらのニッコロ・ヴィテッリ支援にあい、企図の実現に難渋。

1474年8月21日

ロレンツォ・イル・マニーフィコやガレアッツォ・マリーア・スフォルツァらへの対抗策を模索するシクストゥス4世、この日ウルビーノ伯フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを公に叙任し、2日後ニッコロ・ヴィテッリ排除の軍の指揮官に任命。

1474年8月末

シクストゥス4世フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの令名と威勢によりニッコロ・ヴィテッリチッタ・ディ・カステッロからようやく排除。しかしロレンツォ・イル・マニーフィコらを支援者とするニッコロ・ヴィテッリを厳罰には処せず。ニッコロ・ヴィテッリフィレンツェに保護される。

1474年10月14日

シクストゥス4世は、先に他界したピサ大司教フィリッポ・デ・メディチの後任にフランチェスコ・サルヴィアーティを任命。しかし、またロレンツォ・イル・マニーフィコの妨害にあい、以後3年着任できず。

1474年11月2日

ヴェネツィア、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコおよびミラノガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結し、シクストゥス4世ナポリフェッランテ・ダラゴーナ及びフェッラーラのエルコーレ1世・デステに加盟を呼びかける。しかし前二者はこれに警戒心を強め、エルコーレ1世・デステのみが加盟に同意。

1475年9月7日

フィレンツェガレアッツォ・マリーア・スフォルツァ宛書簡をしたためる。親族のパッツィ家と、彼らを支援するナポリ王フェッランテ・ダラゴーナ及びウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロを警戒していると述べている。

1475年12月11日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男ジョヴァンニ・デ・メディチ生(1475年~1521年:枢機卿在位1489年~1513:教皇在位1513年~21年)。

1476年7月2~4日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの意により、1466年9月5日の法(治安八人委員会の政治犯罪に関する特別権限承認)、1471年1月9日の法(百人委員会のアッコピアトーリ選出権剥奪)、1471年7月8日の法(百人委員会の改組)の期限の5年延長を百人委員会で、1471年7月23日の法(百人委員会の専権的立法権承認)の期限の5年延長を、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで可決。

1476年7月11~19日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの意により、百人委員会に長期公債に関する専権的立法権を与えてその財政上の権限をさらに強化する1年期限の法案提出され、1476年7月11~13日コンシーリオ・デル・ポーポロで、1476年7月17日コンシーリオ・デル・コムーネで否決されるが、1476年7月19日百人委員会で可決され成立。

1476年12月26日(木)

サント・ステファノの日。ミラノ公ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが暗殺される。

1476年12月29日(日)

フィレンツェで弟ジュリアーノ・デ・メディチと連名でボーナ・ディ・サヴォイア宛書簡をしたためる。ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァの死に対する哀悼を表明。

1477年1月18日(土)

フィレンツェボーナ・ディ・サヴォイア宛書簡をしたためる。ボーナ・ディ・サヴォイアの代理としてチッコ・シモネッタから4羽の鷹を贈られていたらしい。

1477年2月1日(土)

フィレンツェジェンティーレ・ベッキ宛書簡をしたためる。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロミラノに行かないよう手紙を書いたとのこと。スフォルツァ家に対する影響力を彼に取って代わられたくなかったためであり、代わりにルドヴィーコ3世・ゴンザーガを調停役に提案する。

ローマにおける代理人バッチョ・ウゴリーニ宛書簡をしたためる。イタリアは平和になるだろうというバッチョ・ウゴリーニの楽観的な考えに対して、辛辣に答え、教皇庁は腐敗が蔓延しすぎているのであそこの人間は誰も信頼できないと付け加えた。

1477年2月17日(月)

フィレンツェトンマーゾ・ソデリーニ及びルイジ・グイッチャルディーニ宛書簡をしたためる。フィレンツェ共和国の書簡の内容などを初めとするありとあらゆることをチッコ・シモネッタに包み隠さず伝えるよう命じた。

彼のミラノの代理人アンドレア・ペトリーニ宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタに対するエットーレ・ヴィメルカーティの陰謀に言及。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの傭兵契約の件について。

1477年春

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、シクストゥス4世の手になる対オスマン・トルコ軍の指揮官・傭兵隊長カルロ・フォルテブラッチ(1421年~1479年)がペルージア支配の野心を抱いていることを見抜き、その実現への協力を示唆しながら、教皇軍を抜け出てシエナを攻撃するよう勧奨。ロレンツォ・イル・マニーフィコとシクストゥス4世の確執、さらに深まる。

1477年5月29日

フィレンツェロベルト・サンセヴェリーノ宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタに対する何の役にも立たない策略を試すなと警告する。

1477年6月5日

フィレンツェミラノ駐在フィレンツェ公使フィリッポ・サクラモロ宛書簡をしたためる。気性の激しいロベルト・サンセヴェリーノを自暴自棄に追いやることになるため、反逆者の投獄は賢明ではなかっただろうと説明した。

1477年9月18日

フィレンツェフィレンツェ当局と相談してフランチェスコ・サルヴィアーティ宛書簡をしたためる。モントーネの件に関与すべきではなかったというシクストゥス4世の抗議に対し、キリストの代理者と良き羊飼いたるキリストに相応しい討議または企てには決して反対するつもりはないと書いた。

1477年

ブルゴーニュ公シャルル・ル・テメレールの死により、公へのメディチ銀行ブールジュ支店の巨額の貸付、回収不能になる。支店の経営危機、深刻化。

1478年2月8日

1477年来、ロレンツォ・イル・マニーフィコの後援を得たカルロ・フォルテブラッチの攻撃に曝され教皇に支援を求めてきたシエナ、この日、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナの同盟(1475年~)に加盟。

1478年

1478年初めからシクストゥス4世とロレンツォ・イル・マニーフィコの関係がますます緊迫する中、ジローラモ・リアリオは、メディチ家の最大の敵手と化したパッツィ家の銀行のローマ支店で教皇庁の財務管理に当たっているフランチェスコ・デ・パッツィおよびロレンツォ・イル・マニーフィコに進路を妨害されてきた(1474年~)ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティら、ローマメディチ家打倒、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、ジュリアーノ・デ・メディチ兄弟殺害の陰謀を企み謀議を重ねる。パッツィ家の当主ヤコポ・デ・パッツィ(?~1478年)も参加するが同家のレナート・デ・パッツィメディチ家の倒産、没落は近いと判断し、参加せず。

1478年3月22日(日)

復活祭ローマには行かなかった。

1478年

フィレンツェの事態を知ったシクストゥス4世、聖職者、教会関係者の免責権が犯されたと激怒し、その罪の償いとラッファエーレ・サンソーニの即時釈放、ロレンツォ・イル・マニーフィコの追放などを強く求める。

1478年

ロレンツォ・イル・マニーフィコの依頼に対し、ミラノフィレンツェに特使フィリップ・ドゥ・コミーヌを送って対応を協議し、ヴェネツィアに書簡を送る。

1478年

この頃、すでにメディチ家の財政、各地の商業、金融活動で被った損失により、極めて深刻な危機に陥る。

1478年4月26日

パッツィ家の陰謀決起:

シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。

同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。

同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。

間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。

自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。

ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。

1478年4月26日(日)

パッツィ家の陰謀。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、昇天祭ミサの最中、襲撃される。首にかすり傷を負う。

1478年4月30日(木)

サン・ロレンツォ教会で、弟ジュリアーノ・デ・メディチと友人フランチェスコ・ノリのささやかな葬儀が行なわれる。

1478年4/10月

メディチ銀行ブールジュ支店及びその支店であるロンドン支店を廃止。

1478年5月1日(金)

葬儀の後2日間にわたって外出せず、メディチ宮殿に籠っていた。

1478年5月2日

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、かねてからローマ教会の改革、公会議開催、フランスのガリカニズムを志向しシクストゥス4世と対立してきたルイ11世に、自身ないしフィレンツェシクストゥス4世の敵対の仲裁を依頼。間もなく、シクストゥス4世を脅迫するよう重ねて依頼。

1478年5月2日(土)

五月祭の日だったがフィレンツェは喪に服して取り止めになっている。

朝、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロからの公式な悔やみ状を受け取る。実際には事を荒立てるなというような脅迫的な内容。

1478年5月12日(火)

フィレンツェミラノ公宛書簡をしたためる。チッコ・シモネッタの助言に感謝。

1478年6月1日~1478年6月4日

ロレンツォ・イル・マニーフィコとロレンツォ・イル・マニーフィコに追従する官職者の破門を宣言し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの追放、身柄の教会への引渡しを行わなければフィレンツェを聖務禁止に処すと警告する勅書を発する。

1478年7月初旬

破門されたにもかかわらず、フィレンツェの人々は洗礼者ヨハネの祝日を遅まきながら祝う。本当は6月25日。

1478年8月1日

ヴェネツィア、ミラノフィレンツェ、フェッラーラ及びルイ11世の使節たち、会合し、シクストゥス4世のロレンツォ・イル・マニーフィコ及びフィレンツェへの敵対はオスマン・トルコを利するだけの、キリスト教世界への敵対行為であると非難の声明を発表。

この頃?、フリードリヒ3世も、シクストゥス4世に対し、フィレンツェに向けている軍を直ちにオスマン・トルコに向けるよう勧奨。

しかしシクストゥス4世、これらの非難、勧奨を無視しフィレンツェ領内で戦闘を続行。

1478年

この頃までに?、シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナの措置に対処すべく、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、トンマーゾ・ソデリーニら10名の委員からなるバーリアを設置。

さらにヴェネツィアにピエルフィリッポ・パンドルフィーニミラノジローラモ・モレッリを特使として送って同盟に基づく支援を要請すると共に、キリスト教諸国、諸権力者にシクストゥス4世の所業を説く使節を送る。

1478年9月8日

フィレンツェ陣営の最高指揮官として雇い入れたフェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステが到着。直ちに軍を整えて出陣。

この頃?、さらにリーミニの君主ロベルト・マラテスタ、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びサルッツォ侯ルドヴィーコ2世が、それぞれ小軍を率いて陣営に加わる。

しかしこれら小軍によっては教皇軍、フェッランテ・ダラゴーナ軍に十分対抗することはできず、フィレンツェ陣営の劣勢は続く。

1478年

メディチ銀行ミラノ支店廃止。

1478年

パッツィ家の決起とその後の事態により、メディチ銀行の経営は動揺。

1478年

メディチ家は、財政破綻の危機を、国庫を蚕食して辛うじて切り抜ける。

1479年1~2月半ば

公会議の開催を求めるルイ11世の使節に対しシクストゥス4世、これを拒否すると共にロレンツォ・イル・マニーフィコを強く非難し、ルイ11世は彼に贖罪を説くべきと反論。

1479年4月

アラマンノ・リヌッチーニDialogus de libertate(自由についての対話)においてロレンツォ・イル・マニーフィコをフィレンツェの専制君主、自由の抑圧者と糾弾し、1478年のパッツィ家の決起を断固として弁護。

1479年4月

ロレンツォ・イル・マニーフィコの追放を求めるシクストゥス4世とこれを峻拒するフィレンツェ、非難を応酬。

1479年9月11日

フィレンツェジローラモ・モレッリ宛書簡をしたためる。ルドヴィーコ・イル・モーロに長年の友情に訴えた。

1479年9月18日

フィレンツェジローラモ・モレッリ宛書簡をしたためる。ルドヴィーコ・イル・モーロに長年の友情に訴えた。

1479年9月20~22日

シクストゥス4世、自陣の指揮官カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナフェデリーゴ・ダ・モンテフェルトロへの書簡で、ロレンツォ・イル・マニーフィコのフィレンツェからの追放をこれまでにも増して強く主張。

1479年9月25日

フィレンツェジローラモ・モレッリ宛書簡をしたためる。カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナの助言に従い、ナポリ王フェッランテ・ダラゴーナに身を任せて、これがフィレンツェ共和国と自分自身を救うことのできる唯一の手段であることを示す覚悟ができたと告げる。

1479年秋

戦況が著しく不利に傾き状況が緊迫化する一方、期待したルイ11世からの支援が得られず、フェッランテ・ダラゴーナ陣営にいたルドヴィーコ・イル・モーロが実権を握り始めたミラノなどからの支援も期待できなくなった市内に焦燥感が強まり、ロレンツォ・イル・マニーフィコ一人のためにフィレンツェが崩壊の危機に瀕していると公言され始める。

この頃?、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、フェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステの助言と仲介を得つつナポリフェッランテ・ダラゴーナ宮廷で秘密裡に停戦、和平工作を開始か?

1479年12月6日

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、フェッランテ・ダラゴーナとの和平交渉のため、突如フィレンツェを発ってナポリに向かう。このロレンツォ・イル・マニーフィコの動向にフィレンツェ市内で懸念の声上がる。

1479年12月6日

アルフォンソ2世・ダラゴーナフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ宛書簡をしたためる。フィレンツェを発ってピサに向かい、そこからは海を渡ってフェッランテ・ダラゴーナの足元へ赴くと述べる。

1479年12月7日

馬に乗って目立たぬようフィレンツェを出発。

サン・ミニアートでシニョーリア宛書簡をしたためる。

1479年12月8日

サルザーナとピエトラサンタの要塞を、故ピエロ・イル・ゴットーソが購入した(1468年)相手のジェノヴァのフレゴーソ一族により、フィレンツェは窮地にあると見透かされて突然奪われる。

1479年12月14日

アルフォンソ2世・ダラゴーナが差し向けた2隻のガレー船に乗って、ピサからナポリへと出航。

1480年2月28日

ナポリを出発。合意事項はまだ1つも文書化されていなかったため、ロレンツォ・ジュスティーニが近くのガエータの港まで同行し、フェッランテ・ダラゴーナのもとに戻って和平交渉を締結するべきだと説得しようとした。しかし、交渉をうまく運ぶため、あえてフィレンツェへの帰途につく。

1480年3月6日

ロレンツォ・イル・マニーフィコはポッジボンシ、Colle Valdelsaなどを回復するがロマーニャの諸領を放棄し、対フィレンツェ攻撃軍を指揮してきたアルフォンソ2世・ダラゴーナに年貢を支払い、かつ両者は相互防衛、友好を維持することなどの条件で和平に合意。7日後、両者の代理人により協定書に署名される。

ほぼ手中にしたと思っていた対ロレンツォ・イル・マニーフィコ・フィレンツェ戦の勝利を彼の姿勢の急変により逃したシクストゥス4世は、フェッランテ・ダラゴーナ・ロレンツォ・イル・マニーフィコの和平協定に不満と怒りを露にしながらも、単独では戦うことができないため沈黙を余儀なくされる。以後シクストゥス4世は、ようやくオスマン・トルコ対策に意を向ける。

1480年3月15日

ナポリから帰着。最大の敵手パッツィ家を一掃したのに加え、それによる危機をフェッランテ・ダラゴーナとの和をまとめることによって回避し民心を収攬した彼は、市の内外における権威を高める。これを利して、権力の一層の集中、独占を企図。

1480年3月16日

フィレンツェニッコロ・ミケロッツィ宛書簡をしたためる。和平の条件に彼のローマ行きを含めることをフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが要求しないでいただけるとありがたい、という内容。

1480年4月8~10日

シニョーリアは、パッツィ家の陰謀決起とその後の戦争による事態収拾を名目としてバーリアの設置を提案し、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認される。

1480年4月19日

バーリアは、七十人評議会を設置する5年期限の法案を可決。

七十人評議会は、アッコピアトーリに代わってのシニョーリア選出権、シニョーリアの発議する法案の事前承認権、自らのメンバーからなる新小委員会(特別諮問八人会議Dodici Procuratori(代表十二人会議))での大公使や治安八人委員会の選出権、など立法、行政、財政、外交、軍事、司法の全分野を管握する権力を集中的に独占し、あらゆる機関を凌ぐ最重要機関となる。この七十人評議会を支配下に入れたロレンツォ・イル・マニーフィコ、独裁支配をさらに推進。

1480年4月19日

バーリアは、七十人評議会を設置する5年期限の法案を可決。

1480年4~6月

バーリアは、1471年7月8日の百人委員会改組法を一部改正して百人委員会を旧に復し、メディチ家への権力の集中はすでに過剰だとの不満を抱く上層有産層(Ottimati)の慰撫、掌握を図る。

1480年6月末

メディチ派は、七十人評議会にバーリアの権限をも与えてそれを支配する自派の権力をさらに強化しようと企むが、バーリアで指示を得られず失敗に終わる。

1481年2月9日

1471年7月23日の法(百人委員会の専権的立法権承認)の期限の5年延長を百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで再び承認。

1481年4月

この後間もなくメディチ銀行ヴェネツィア支店再廃止。

1481年7月24~26日

財政上の問題の体系的解決を図るため百人委員会に財政に関する特別の権限を、百人委員会はそれを小委員会に委ねるとの条件で再び1年間与える法案を百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認。

1481年8月4日

百人委員会は、17名からなる小委員会、改革者十七人会議を創設して財政に関する特別の権限を委託し行使させる。

1481年12月

メディチ家ローマに復帰。メディチ銀行ローマ教皇庁支店再開。但し教皇庁への貸付の回収は滞る。

1481年

メディチ銀行ナポリ支店経営不振に陥る。

1482年7月13日~7月19日

1481年7月の財政に関する百人委員会の特別権限承認の期限の1年延長を、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認。

1483年6月26~28日

1481年7月の財政に関する百人委員会の特別権限承認の期限の1年延長を、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで再び承認。

1483年

ポルト・マントヴァーノを訪問。

ヴォルテッラの明礬鉱を最終的に放棄。

1484年9月

フィレンツェ軍は、1479年ジェノヴァのフレゴーソ一族に奪われたサルザーナ及び要塞ピエトラサンタの奪還を図り、ピエトラサンタを包囲。

1484年9月17日

1471年7月23日の百人委員会の専権的立法権承認(1486年末まで有効)、1480年4月19日のセッター他の設置(1485年まで有効)、1481年7月の財政に関する百人委員会の特別権限承認、の期限を翌1485年から5年延長することを百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認。

1484年9月15~19日

統治機構の改変に関する百人委員会の特別権限の承認。正義の法令の規定する統治機構を改変する法の期限延長を、各法について5年に限って1度だけ、コンシーリオ・デル・ポーポロ及びコンシーリオ・デル・コムーネの承認なしに単独で行う権限を百人委員会に与えることを百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで承認。

これにより、コンシーリオ・デル・ポーポロとコンシーリオ・デル・コムーネはその本来の権限である正義の法令の規定に直接関わる立法の権限をもついに失う。

1484年11月5~8日

フィレンツェ軍に包囲されていたピエトラサンタは降伏。再びフィレンツェの配下に入ることをロレンツォ・イル・マニーフィコに直接表明。しかしサルザーナは奪還できずに終わる。

1485年

レオン・バッティスタ・アルベルティの遺作De re aedificatoria(建築論)、アンジェロ・ポリツィアーノの序文を付してフィレンツェで初めて刊行され、ロレンツォ・イル・マニーフィコに献呈される。

1486年

メディチ銀行ピサ支店業務再開。

1486年

この年頃、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、Corinto(コリント)、Ambra(アンブラ)、Selve d'amore(愛の森)を詩作。

1487年2月25日

ヴェネツィアに加えてフィレンツェフェッランテ・ダラゴーナに対抗する同盟相手としようとするインノケンティウス8世と、教皇の権威を利用して自家の権威を増大させようと狙うロレンツォ・イル・マニーフィコ、教皇の長子で40歳近いフランチェスケット・チーボ(1449年~1519年)と、ロレンツォ・イル・マニーフィコの14歳の次女マッダレーナ・デ・メディチ(1473年~1519年)の結婚を取り決める。

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、長男ピエロ・イル・ファトゥオと、ローマの有力貴族オルシーニ家の娘でロレンツォ・イル・マニーフィコの妻クラリーチェ・オルシーニの従妹アルフォンシーナ・オルシーニ(1472年~1520年)との結婚を代理人誓約の形で取り決める。

これらの婚姻政策により、メディチ家教皇庁及びローマ貴族との結びつきを強め、ロレンツォ・イル・マニーフィコは事実上の君主の地位をフィレンツェ内外でさらに固める。

加えてロレンツォ・イル・マニーフィコ、次男ジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿にすべく、密かに教皇庁内で工作を始める。

1487年6月22日

1487年4月からピティリアーノニッコロ2世・オルシーニ指揮の軍を送ってサルザーナに迫っていたフィレンツェ、サルザーナを降伏させ、奪還に成功。ロレンツォ・イル・マニーフィコ主導下のサルザーナ及びピエトラサンタ奪還をようやく成就。

1487年

メディチ銀行ローマ教皇庁支店、極めて深刻な経営危機に陥る。同ナポリ支店廃止。

1488年4月19日

フォルリ発ルドヴィーコ・オルシとチェッコ・オルシから手紙。ジローラモ・リアリオを殺害した方法と理由について。

1488年7月29/30日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの妻クラリーチェ・オルシーニ死(1453年~)。

1489年2月12日

百人委員会は、1484年9月17日の統治機構の改変に関する百人委員会の特別権限の承認に基づき、1471年7月23日の百人委員会の専権的立法権の承認、1480年4月19日の七十人評議会の設置、1481年7月の財政に関する百人委員会の特別権限承認(いずれも1490年4月まで有効)の期限5年(1495年3月まで)延長をコンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネに諮らず単独で決定。同時に百人委員会は、シニョーリアの選出権者を5名のアッコピアトーリに縮小。

1489年2月12~14日

七十人評議会に百人委員会の選出方法を毎年決定する権限、及び百人委員会の会議に出席する権限を認める法案を、百人委員会、コンシーリオ・デル・ポーポロ、コンシーリオ・デル・コムーネで可決。

1489年3月9/10日

インノケンティウス8世、自分の兄弟Maurizio Ciboの庶出の子ロレンツォ・チーボ(1500年~1549年)ら5名を新たに枢機卿に叙任し、ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男で13歳のジョヴァンニ・デ・メディチら3名を叙任予定者とすると公表。

これに対して強い不満を覚えたロレンツォ・イル・マニーフィコの強力な働きかけを受けたインノケンティウス8世、正式の就任は3年後とするとの条件つきでジョヴァンニ・デ・メディチを枢機卿に叙任。

1489年4月20日

ジョヴァンニ・ピコの依頼と勧奨に応じてロレンツォ・イル・マニーフィコ、この頃までに、ジローラモ・サヴォナローラサン・マルコ修道院に帰任させるよう求める手紙をドミニコ会に送る。

1489年12月3日

マルシリオ・フィチーノ、医学・神学論『三重の生について』をフィレンツェで刊行し、ロレンツォ・イル・マニーフィコに献呈。

1490年1月

この月?、ミケランジェロ、ロレンツォ・イル・マニーフィコに招かれてメディチ宮殿に住み(1490年~1492年)、Bertoldo di Giovanniに彫刻を学び始める。以後ここでマルシリオ・フィチーノアンジェロ・ポリツィアーノジョヴァンニ・ピコらと交流。

1491年2月17日

ロレンツォ・イル・マニーフィコの「聖ヨハネと聖パウロの聖劇」、シニョーリア広場で上演される。

1491年4月6日

ジローラモ・サヴォナローラヴェッキオ宮殿プリオーレらを前に説教。その中で彼は、都市は首領次第で良くも悪くもなると語った上で、名指しはしないながらもロレンツォ・イル・マニーフィコを暴君とし、そのさまざまの所業を非難。

1491年5月12日

ロレンツォ・イル・マニーフィコ、市内で評価の高いアウグスティヌス会の説教士Mariano da Genazzanoジローラモ・サヴォナローラ非難の説教をサン・ガッロ聖堂で行わせる。これ以後もMariano da Genazzanoは、執拗に反ジローラモ・サヴォナローラの言動を取り続ける。

1492年1月27日

インノケンティウス8世フェッランテ・ダラゴーナの間に、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介により和が成立したことがこの日の枢機卿会議で公表される。

この和でフェッランテ・ダラゴーナインノケンティウス8世への貢税と軍事協力、先(1486年~1487年)に捕縛した反乱諸侯の釈放などを約しながら、ナポリ王としての正式叙任を得ることには失敗。

1492年1月

ルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世と防衛同盟を結ぶ。

同盟の中でルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世ナポリ王位継承のためイタリアに進撃する際は中立を保つことを保証。

ミラノ内部では公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとその妻でフェッランテ・ダラゴーナの孫イザベッラ・ダラゴーナが摂政としての自分の地位、権力に不満を強め、外部ではイザベッラ・ダラゴーナの訴えを受けたフェッランテ・ダラゴーナとの関係が緊迫化する傾向が生じ、ロレンツォ・イル・マニーフィコの仲介によるフェッランテ・ダラゴーナインノケンティウス8世の関係好転にも直面したルドヴィーコ・イル・モーロシャルル8世とのこの同盟を背景として局面打開を狙う。

1492年3月

フィレンツェで息子ジョヴァンニ・デ・メディチ宛書簡をしたためる。枢機卿となる息子に助言。

1492年4月8日

3日前からカレッジの別荘で死の床に臥していたロレンツォ・イル・マニーフィコ、死。死後、ジローラモ・サヴォナローラは求められてロレンツォ・イル・マニーフィコに祝福を与える。

大聖堂への落雷に続くロレンツォ・イル・マニーフィコの死により、市内に終末論的不安が広がる。

1492年4月8日

カレッジにて、老衰で死。

1895年10月3日

発掘調査が行われる。聖コスマスと聖ダミアヌスと聖母像が移動され、カラーラ産の白大理石で作られた石棺の蓋が開けられた。棺は上下に重ねられて2つ入っていた。

ジュリアーノ・デ・メディチの小さめの棺の下にあった大きな棺は、上の棺の重さで壊れかかっており、碑文も確認されなかった。しかしながら、頭蓋骨の輪郭と肖像画とを比べることによって、これがロレンツォのものであるということは明確であった。またロレンツォは鼻に先天的な奇形があったが、頭蓋骨の鼻の部分に不自然な突起があることが確認された。

発掘の日付を書いた2枚の亜鉛のプレートが打ちつけられ、それぞれの遺体は新しい木の棺に入れられ、立ち会った全員が署名をした羊皮紙を硝子の筒に入れて一緒に葬られた。蓋を元通り閉めて、3体の彫刻も元通りに戻された。

関連項目

 対オスマン・トルコ共同防衛同盟

肖像

 メディチ家礼拝堂

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 ロレンツォ豪華王、大ロレンツォ、ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチ、ロレンツォ・イル・マニィフィコ、ロレンツォイルマニフィコ、ロレンツォイルマニーフィコ、ロレンツォ・ディ・メディチ

外部リンク

 ウィキペディア
 ウフィツィ美術館
 世界帝王事典
 歴史データベース
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 Google Books - Poesie
 RootsWeb.com
 The Medici Archive Project
 Treccani.it

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『銀色のフィレンツェ』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『I centenari del 1898
 『Lost Girls
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ロレンツォ・イル・ポポラーノ Lorenzo il Popolano

生没
1463年~1503年
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
ラウドミア・アッチャイウオリ
セミラミーデ・ダッピアーノ
ヴィンチェンツォ・デ・メディチ
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
アヴェラルド・デ・メディチ
ラウドミア・デ・メディチ
ジネヴラ・デ・メディチ

概要

 ロレンツォ・デ・メディチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1481年8月

セミラミーデ・ダッピアーノと婚約。

1482年7月19日(金)

セミラミーデ・ダッピアーノと結婚。

1483年

フィレンツェ共和国大使として、パリへ向かう。

1484年5月30日

ランス・ノートルダム大聖堂で行われたシャルル8世のフランス王即位式に参列。

1494年夏~初秋

メディチ一族及びメディチ派有力貴族の内部にもナポリ支持政策に反対してピエロ・イル・ファトゥオから離反し、親フランスの動きを示す者が生じるなど、市民の間にメディチ支配を逃れようとの動き広まる。ピエロ・イル・ファトゥオは、この動きを促進している者として、ロレンツォ・イル・ポポラーノジョヴァンニ・イル・ポポラーノを市外に追放。両名はフランスに逃亡。

1494年11月

この頃、ピエロ・イル・ファトゥオによって追放されてシャルル8世の陣にいたロレンツォ・イル・ポポラーノジョヴァンニ・イル・ポポラーノが市内に戻り、反メディチ支配の気運なお高まる。

1503年

この年頃アメリゴ・ヴェスプッチ、自身の大航海に関する第5の書簡(ロレンツォ・イル・ポポラーノ宛)、通称Mundaus Novus(新世界)を刊行。

この中でアメリゴ・ヴェスプッチ、新大陸をアジアではなく新世界と呼ぶ。

別表記

 ロレンツィーノ

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Genealogy.EU
 Wikipedia

参考文献

 『銀色のフィレンツェ』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネッサンスの光と闇』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ロレンツォ・デ・メディチ Lorenzo de' Medici

生没
1492年9月12日~1519年5月4日
ピエロ・イル・ファトゥオ
アルフォンシーナ・オルシーニ
マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ
アレッサンドロ・デ・メディチ
カトリーヌ・ド・メディシス

概要

 ロレンツォ・デ・メディチは、15世紀から16世紀の男性、ウルビーノ公

在位

 ウルビーノ公 1516年8月16/18日~1519年
 教会の旗手 1516年8月16/18日~151?年

年表

1514年6月半ば

レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。

さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。

ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世フェルナンド2世・デ・アラゴンマクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。

1515年7月17日

レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。

この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。

1516年3月10日

シエナの君主ボルゲーゼ・ペトルッチメディチ家に対する忠誠心の欠如を怒ったレオ10世は、彼を彼の従兄弟ラッファエーレ・ペトルッチを用いて追放し、ラッファエーレ・ペトルッチをシエナの君主に据える。新君主ラッファエーレ・ペトルッチはロレンツォ・デ・メディチをシエナの傭兵隊長とする。

1516年5月17日

レオ10世は、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレからウルビーノなど全領国を奪うべくロレンツォ・デ・メディチの指揮する軍をウルビーノに向かわせる。

1516年5月末

教皇軍の接近を前に、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、家族と共にウルビーノを捨ててまずペーザロに、さらにマントヴァに逃げる。1516年5月30日ロレンツォ・デ・メディチが、ウルビーノに入城。

1516年8月16/18日

レオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチにフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレから取り上げたウルビーノ、ペーザロ及びセニガッリアを封与。以後彼はウルビーノ公と公称される。

さらにレオ10世は、ロレンツォ・デ・メディチを、1516年3月死のジュリアーノ・デ・メディチに代わる教会の旗手に任命。

1517年1月半ば~2月初旬

逃亡先マントヴァの侯フランチェスコ2世・ゴンザーガから資金援助を得、前年の各協定によって失職した各国の兵士を集めていたフランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、旧領地を奪還すべく小軍を率いてウルビーノに向かう。新ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの不在を利して、1517年2月5/6日ウルビーノに入城し制圧。

ロレンツォ・デ・メディチも急ぎ大軍を擁してウルビーノに向かい、両軍の戦闘始まる。

1517年9月半ば

フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ、教皇軍に降伏。全資産を持ってマントヴァに逃れることを認められ、ウルビーノを出る。1517年9月17日?、ロレンツォ・デ・メディチがウルビーノを制圧。

1518年1月28日

ロレンツォ・デ・メディチ、フランソワ1世の一統に連なるブローニュ・オーヴェルニュ伯ジャン・ド・ラ・トゥールの娘マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュ(1501年~1519年)と婚約。これによりメディチ家とフランス王室との婚姻関係また生ずる。

1518年4月28日

フランス・アンボワーズでロレンツォ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュとの結婚式が盛大に行われ、華やかに祝賀される。

この結婚によりフランソワ1世メディチ家の中に自らの手先同然の者を得たと広く見なされる。

1513年2月18日

反メディチ陰謀発覚:ジュリアーノ・デ・メディチとその兄ピエロ・イル・ファトゥオの子ロレンツォ・デ・メディチ(1492年~1519年:ウルビーノ公在位1516年~1519年)を襲撃する陰謀がピエトロ・パオロ・ボスコリ(1478年~1513年)とアゴスティーノ・カッポーニ(1471年~1513年)を中心とする若者20名ほどによって企まれていたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見されたピエトロ・パオロ・ボスコリの手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。1513年2月22~23日深夜、両名は処刑される。

1513年8月13日

レオ10世教会の旗手としてローマに滞在することになったジュリアーノ・デ・メディチに代えて甥ロレンツォ・デ・メディチをフィレンツェの統治者とする。

1514年2月

ロレンツォ・デ・メディチ、市民軍の復活、再編を決意。

1515年5月24日

ロレンツォ・デ・メディチ、七十人評議会Capitano generale della Repubblica fiorentina(フィレンツェ共和国軍総司令官)に任命される。

1516年

フランチェスコ・グイッチャルディーニDiscorso del modo di assicurare lo stato ai Medici(メディチ家政権の確保方法に関する論考)を書き、ロレンツォ・デ・メディチの絶対君主化を批判。

1518年2月半ば

ロレンツォ・デ・メディチ、結婚式のためフランスに向かって出発。

1518年9月7日

ロレンツォ・デ・メディチ、新婦マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュを伴って帰る。市内で数日、結婚祝賀行事繰り広げられる。

1519年4月13日

ロレンツォ・デ・メディチと妻マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドォヴェルニュの間に娘カトリーヌ・ド・メディシス生(~1589年)。

1519年5月4日

死。

埋葬地

肖像

別表記

 小ロレンツォ、ロレンツォ・デ・メディチ2世

外部リンク

 ウィキペディア
 Genealogy.EU
 世界帝王事典

参考文献

 『イコノロジー研究
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『カトリーヌ・ド・メディシス』
 『君主論』
 『世界大百科事典』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルネッサンス夜話』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia

ロレンツィーノ・デ・メディチ Lorenzino de' Medici

生没
1514年3月23日~1548年2月26日
ピエルフランチェスコ・デ・メディチ
マリーア・ソデリーニ
著作
弁明(アポロジア)

概要

 ロレンツィーノ・デ・メディチは、16世紀のイタリアの男性。

年表

1537年1月6日

深夜、アレッサンドロ・デ・メディチは、傍系一族で日頃の放蕩仲間ロレンツィーノ・デ・メディチ(1513/1514年~1548年)から、思いを寄せている女性と彼の自室で合わせてやると巧みに誘い入れられ、彼とその従者に刺殺される。

1537年1月7日

早朝、ロレンツィーノ・デ・メディチと従者は、密かに市を離れボローニャに向かう。

夕刻、カール5世の代理人としてアレッサンドロ・デ・メディチの背後で事実上、支配権を握っていた枢機卿インノチェンツォ・チーボらが朝から極秘の内に行方を捜していたアレッサンドロ・デ・メディチが、遺体で発見される。

直ちにインノチェンツォ・チーボチッタ・ディ・カステッロにあったアレッサンドロ・ヴィテッリ(?~1566年)指揮のスペイン軍主義体に急ぎ市内に戻るよう指示を発すると共に、アレッサンドロ・デ・メディチの庶出の遺児ジューリオ・デ・メディチ(?~1600年)を後継Ducaとして立て、その摂政として自身が支配者となる策を弄し始める。しかし、カール5世の直接かつ完全な支配化に陥ることを恐れるメディチ派、四十八人評議会主導による政体変革なき事態収拾を図る。

夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャに着き、この地に滞在する亡命者たちに事態を説明した後ヴェネツィアに向かう。

1537年1月8日

午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。

インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。

午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。

夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。

深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。

1537年1月

フィレンツェ出身の3名の枢機卿ニッコロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティIacopo Gaddiローマ滞在亡命者たち、兵を集めて軍の編成を開始。

情報の収集に努めながら対策を論じていたボローニャ滞在の亡命者たち、コジモ1世・デ・メディチ擁立の報を得て挙兵・反抗の意を固め、ボローニャとミランドラで募兵を開始。ロレンツィーノ・デ・メディチはミランドラでこの動きに加わる。

1537年4月24日

ロレンツィーノ・デ・メディチを叛徒とみなし、この逮捕者ないし殺害者に賞金を与えると布告される。

ロレンツィーノ・デ・メディチは現フィレンツェ体制打倒への支援を求めながらミランドラからイスタンブール(コンスタンティノープル)へ、さらにフランスのフランソワ1世宮廷へと逃亡を続ける。

1548年2月26日

フランソワ1世宮廷からヴェネツィアに移って逃亡生活を続けていたロレンツィーノ・デ・メディチは、コジモ1世・デ・メディチのヴェネツィア駐在大使Pierfilippo Pandolfini(1502年~1560年:在位1545年~1549年)の雇った2人の刺客に、母マリーア・ソデリーニの兄弟アレッサンドロ・ソデリーニと同道していたところを襲われて刺殺され(1513/1514年~)、遺骸は間もなく駆けつけたマリーア・ソデリーニに渡される。ロレンツィーノ・デ・メディチを守ろうとして刺されたアレッサンドロ・ソデリーニも数日後、死。

別表記

 ロレンザッチョ、ロレンザッチオ、Lorenzaccio

外部リンク

 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『銀色のフィレンツェ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2022年4月25日