Pazzi

パッツィ家

アレッサンドロ・デ・パッツィ Alessandro de' Pazzi

生没
1483年5月4日~1530年8月12日より少し後
出身
フィレンツェ
グリエルモ・デ・パッツィ
ビアンカ・デ・メディチ
概要

 アレッサンドロ・デ・パッツィは人文主義者、詩人、著作家、文学者、ロレンツォ・イル・マニーフィコの甥。

年表

1483年
1529年9月下旬~末
1529年9月21日ミケランジェロ、1529年9月24日フランチェスコ・グィッチャルディーニが市内から逃亡したのを初め、アレッサンドロ・デ・パッツィ、ロベルト・アッチャイウオリトンマーゾ・ソデリーニヤコポ・サルヴィアーティ、ルイジ・リドルフィ、バッチオ・カッポーニ、アゴスティーノ・デル・ネッロなどメディチ派と目された要人多数、状況の緊迫化と共にパニック状態に陥りつつある市内から、身の危険を覚えて逃亡。
逃亡者は直ちに帰国しなければ追放に処すとの帰国命令が出されるが大部分の者が従わず。ミケランジェロは1529年11月21日ようやく帰る。
1530年8月12日より少し後
フィレンツェで死(1531年)。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

コジモ・デ・パッツィ Cosimo de' Pazzi

生没
1466年12月9日~1513年4月8日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
グリエルモ・デ・パッツィ
ビアンカ・デ・メディチ
概要

 コジモ・デ・パッツィは、15世紀~16世紀の男性、フィレンツェ大司教。

在位

 オレロン島司教 1492年~1497年
 アレッツォ司教 1497年~1508年
  先代:ジェンティーレ・ベッキ
 フィレンツェ大司教 1508年~1513年
  先代:リナルド・オルシーニ
  次代:クレメンス7世

年表

1501年5月15日
領内深くに軍を進めてカンピにまで迫ってきたチェーザレ・ボルジアのもとに、フィレンツェ共和国は、新使節コジモ・デ・パッツィ、フランチェスコ・デ・ネルリ、アレッサンドロ・アッチャイウオリを派遣し、彼に妥協して彼を3年間傭兵隊長として雇う契約を結び、トスカーナからの退却を承認させる。しかし彼は退却せず。
1502年6月4日
アレッツォで、「マルツォッコ」「メディチ」を叫び、フィレンツェ共和国に対する暴動、反乱発生。
1502年6月7日
1502年6月
アレッツォにて捕らえられる。
1512年9月3日
ライモンド・ディ・カルドーナのもとへBaldassarre CarducciOrmannozzo DetiNiccolò del Neroニッコロ・ヴァローリ、コジモ・デ・パッツィ、ヤコポ・サルヴィアーティパオロ・ヴェットーリを送り、メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びライモンド・ディ・カルドーナへの献金、ライモンド・ディ・カルドーナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoniジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィベルナルド・ルチェッライフィリッポ・ブォンデルモンティベネデット・デ・ネルリピエロ・グィッチャルディーニロレンツォ・モレッリネリ・カッポーニ、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。

外部リンク

 GCatholic.com
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『The Life of Cesare Borgia

フランチェスコ・デ・パッツィ Francesco de' Pazzi

生没
1444年1月28日~1478年4月26日
アントーニオ・デ・パッツィ
ニコローサ・デリ・アレッサンドリ
概要

 フランチェスコ・デ・パッツィは、15世紀のフィレンツェの男性。パッツィ銀行ローマ支店長。

容姿

 身長が低かった。

性格

 極めて野心的。

年表

1444年1月28日
生(1445年)。
1473年7~8月初め
この頃シクストゥス4世、フィレンツェのフランチェスコ・デ・パッツィ(1444年~1478年)から得た資金を基にガレアッツォ・マリーア・スフォルツァからイーモラを購入し、間もなく甥ジローラモ・リアリオに封与。シクストゥス4世によるイーモラ獲得を資金面で阻み、自らこれを獲得してロマーニャへの影響力を拡大、強化しようと企画していたロレンツォ・イル・マニーフィコは、反シクストゥス4世、反パッツィ家の姿勢を強める。
1478年
1478年初めからシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコの関係がますます緊迫する中、ジローラモ・リアリオは、メディチ家の最大の敵手と化したパッツィ家の銀行のローマ支店で教皇庁の財務管理に当たっているフランチェスコ・デ・パッツィおよびロレンツォ・イル・マニーフィコに進路を妨害されてきた(1474年~)ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティら、ローマでメディチ家打倒、ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・デ・メディチ兄弟殺害の陰謀を企み謀議を重ねる。パッツィ家の当主ヤコポ・デ・パッツィ(?~1478年)も参加するが同家のレナート・デ・パッツィメディチ家の倒産、没落は近いと判断し、参加せず。
1478年4月26日
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。

舞台

 宝塚歌劇団宙組『異人たちのルネサンス―ダ・ヴィンチが描いた記憶』

別表記

 フランチェスキーノ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

ガレオット・デ・パッツィ Galeotto de' Pazzi

生没
1456年1月1日~1517年
ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
ルクレツィア・マガロッティ
概要

 ガレオット・デ・パッツィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1478年~1480年
投獄。
1480年~1494年
公職から排斥。
1496年
フランス王シャルル8世への使節。
1499年
バーニョのコッミッサーリオ
1501年1月
ピサの反乱、ピストイアの内乱、チェーザレ・ボルジアの進軍、財政危機などに対応するため統治の安定性、継続性を求め、さらにそれを確保すべく現行統治制度の改革を求める声が特に貴族層に次第に高まる。
1501年
フィレンツェ領とチェーザレ・ボルジアの支配領とが広範囲にわたって隣接することになり、市内にチェーザレ・ボルジアに対する恐怖が高まる。
シニョーリアは、使節ガレオット・デ・パッツィをチェーザレ・ボルジアのもとに急派し、ファエンツァ制圧に祝意を表させると共にチェーザレ・ボルジアの動きを監視させる。
1502年
ボルジアへの使節。
1511年
ルクレツィア・マガロッティと結婚。
1513年
ヴァル・ディ・チェチーナのコッミッサーリオ

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ヤコポ・デ・パッツィ Jacopo de' Pazzi

生没
~1478年
アンドレア・デ・パッツィ
カテリーナ・サルヴィアーティ
概要

 ヤコポ・デ・パッツィは、15世紀頃のフィレンツェの男性。

年表

1478年
1478年初めからシクストゥス4世ロレンツォ・イル・マニーフィコの関係がますます緊迫する中、ジローラモ・リアリオは、メディチ家の最大の敵手と化したパッツィ家の銀行のローマ支店で教皇庁の財務管理に当たっているフランチェスコ・デ・パッツィおよびロレンツォ・イル・マニーフィコに進路を妨害されてきた(1474年~)ピサ大司教フランチェスコ・サルヴィアーティら、ローマメディチ家打倒、ロレンツォ・イル・マニーフィコジュリアーノ・デ・メディチ兄弟殺害の陰謀を企み謀議を重ねる。パッツィ家の当主ヤコポ・デ・パッツィ(?~1478年)も参加するが同家のレナート・デ・パッツィメディチ家の倒産、没落は近いと判断し、参加せず。
1478年4月26日
シクストゥス4世の甥で枢機卿の叙任されたばかりのラッファエーレ・サンソーニ(1460年頃?~1520年)がシクストゥス4世の指示により教皇特使としてフィレンツェを訪れてパッツィ家の別荘に逗留し、陰謀について知らされぬままサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂でミサを行っている最中、同席していたフランチェスコ・デ・パッツィベルナルド・バンディーニジュリアーノ・デ・メディチに、2名の聖職者がロレンツォ・イル・マニーフィコに切りかかる。ジュリアーノ・デ・メディチは殺され(1453年~)、ロレンツォ・イル・マニーフィコは危うく聖具室に逃れ、アンジェロ・ポリツィアーノの協力を得て難を回避。
同じ頃フランチェスコ・サルヴィアーティは、兄弟、甥、その他一族の者と共に数十名の武装兵を率いてヴェッキオ宮殿を襲撃。この期の正義の旗手チェーザレ・ペトルッチを殺害してヴェッキオ宮殿を占拠しようとするが失敗し、逆に武装を解かれ捕らえられる。
同時にヴェッキオ宮殿外でヤコポ・デ・パッツィは「自由を!」と叫んで市民を先導し決起を促すが、市民の呼応を得られず失敗し、捕らえられる(1444年~)。
間もなく大聖堂での事件が伝えられ、フランチェスコ・サルヴィアーティ、その兄弟、甥、ヤコポ・デ・パッツィらは首を絞められ、ヴェッキオ宮殿の窓から吊るされる。
自邸に戻っていたフランチェスコ・デ・パッツィも邸を襲撃した民衆によってヴェッキオ宮殿に引き出され、直ちに首を絞められて窓から吊るされる。
ベルナルド・バンディーニが逃れた以外、事件への関与者、関与者と見なされた者ないし反メディチと見なされた者はレナート・デ・パッツィなど無実の者も含めて(70名余?)ことごとく惨殺され、遺体は痛めつけられる。その他、枢機卿ラッファエーレ・サンソーニらが逮捕、投獄されるなど、激しい復讐が続く。

紋章

 ヤコポ・デ・パッツィの紋章

別表記

 ヤーコポ、ジャーコモ・パッツィ、Iacopo

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

パッツィーノ・デ・パッツィ Pazzino de' Pazzi

生没
11世紀後半~12世紀初め
概要

 パッツィーノ・デ・パッツィは、十字軍の伝説的な騎士、フィレンツェパッツィ家の始祖。

年表

1099年7月15日
第1回十字軍にて、エルサレムの壁を素手で登り、聖地に入った最初の騎士という。壁周辺にいたイスラム教徒を倒し、追い払って、十字軍が町を征服する道を切り開く。
1099年7月
その戦功を称えられ、ゴドフロワ・ド・ブイヨンにより、聖墳墓の石を3つ贈られる。青地に2頭の海豚と金の十字架というパッツィ家の紋章もこの時に贈られる。
1101年7月16日
フィレンツェに帰還し、名誉をもって迎えられ、祝われる。

スコッピオ・デル・カッロ Scoppio del Carro


 パッツィーノ・デ・パッツィが持ち帰った3つの石は、毎年復活祭の日に行われる祭スコッピオ・デル・カッロで山車を発火させる火打石で、フィレンツェにとって大きな価値を有している。この石は初めパッツィ家で保管されていたが、その後1785年までサンタ・マリア・ソプラ・ポルタ教会で、1785年5月27日からサンティ・アポストリ教会の入って左側の礼拝堂の中にて保存されている。
 復活祭の前日の聖土曜日になると、この石でおこされた火は聖なる火として街中に配られた。聖なる光は、死の支配する闇から解き放つものとして復活の象徴とされたのである。
 山車によって聖なる火が運ばれるようになり、14世紀末頃から花火が使用されるようになったという。山車と関連費用はパッツィ家に任されていたが、パッツィ家の陰謀のために1478年にこの名誉は剥奪される。それと共に山車は聖なる火を配るだけのものとなったが、花火を使った華々しいお祭りを惜しみ、パッツィ家の陰謀以前の慣習に戻される。
 1494年のメディチ家追放後、パッツィ家に再び権利が戻り、現在のようなさらに大掛かりな仕掛けのある山車を用意した。しかし1679年、山車はサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の広場に曳かれてくる途中で老朽化のため粉々になり、1765年に作り直された。1859年パッツィ家の直系のガエターノ・デ・パッツィが亡くなったのを機に、市当局がスコッピオ・デル・カッロを主催することになった。

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ピエロ・デ・パッツィ Piero de' Pazzi

生没
1416年5月18日~1464年頃
アンドレア・デ・パッツィ
カテリーナ・サルヴィアーティ
フィアンメッタ・ジューニ
ニッコロ・デ・パッツィ
オレッタ・デ・パッツィ
アンドレア・デ・パッツィ
カテリーナ・デ・パッツィ
アレッサンドラ・デ・パッツィ
マリエッタ・デ・パッツィ
レナート・デ・パッツィ
レオナルド・デ・パッツィ
コスタンツァ・デ・パッツィ
ジネヴラ・デ・パッツィ
リーザ・デ・パッツィ
アントーニオ・デ・パッツィ
レーナ・デ・パッツィ
ジョヴァンニ・デ・パッツィ
ガレオット・デ・パッツィ
イッポーリタ・デ・パッツィ
ニッコロ・デ・パッツィ
ルクレツィア・デ・パッツィ
概要

 ピエロ・デ・パッツィは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1435年
1447年
プリオーレ。
1459年
フランス王シャルル7世のもとへ使節として派遣される。
1461年10月20日
新フランス王ルイ11世のもとへ使節として派遣される。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』

コスタンツァ・デ・パッツィ Costanza de' Pazzi

ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
ブラッチョ・マルテッリ
ピエロ・マルテッリ
カミッラ・マルテッリ
ドメニコ・マルテッリ
概要

 コスタンツァ・デ・パッツィは、15世紀頃のフィレンツェの女性。

アンドレア・デ・パッツィ Andrea de' Pazzi

生没
~1516年9月2日
ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
概要

 アンドレア・デ・パッツィは、フィレンツェの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』

ルクレツィア・デ・パッツィ Lucrezia de' Pazzi

グリエルモ・デ・パッツィ
カルロ・ディ・アントーニオ・カッターニ・デ・ディアッチェート
ピエロ・マルテッリ
年表

1500年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

マリエッタ・デ・パッツィ Marietta de' Pazzi

ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
ドナート・アッチャイウオリ
年表

1461年

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ニッコロ・デ・パッツィ Niccolò de' Pazzi

生没
1462年6月30日~1517年
ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
概要

 ニッコロ・デ・パッツィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』

ジョヴァンニ・デ・パッツィ Giovanni de' Pazzi

生没
1454年12月7日~1480年以前
ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
概要

 ジョヴァンニ・デ・パッツィは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1454年12月7日
生。
1478年
ヴォルテッラに投獄される。
1480年
この年以前に死。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『フィレンツェ史』

マッダレーナ・デ・パッツィ Maddalena de' Pazzi

生没
~1580年8月8日
アントーニオ・デ・パッツィ
カミッラ・マルテッリ
ニッコロ・ソデリーニ
カルロ・ソデリーニ
ルクレツィア・ソデリーニ
ナンニーナ・ソデリーニ
概要

 マッダレーナ・デ・パッツィは、16世紀頃のイタリアの女性。

年表

1533年

外部リンク

 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

ラッファエーレ・デ・パッツィ Raffaele de' Pazzi

生没
1471年9月10日~1512年4月11日
出身
フィレンツェ
没地
ラヴェンナ
ジョヴァンニ・デ・パッツィ
ベアトリーチェ・ボッロメオ
概要

 ラッファエーレ・デ・パッツィはイタリアの傭兵隊長。

別表記

 Raffaele dei Pazzi

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『The Life of Cesare Borgia

ジョヴァンニ・デ・パッツィ Giovanni de' Pazzi

生没
1439年10月26日~1481年
出身
フィレンツェ
没地
ヴォルテッラ
アントーニオ・デ・パッツィ
ニコローサ・デリ・アレッサンドリ
ベアトリーチェ・ボッロメオ
アンドレア・デ・パッツィ
ガレオット・デ・パッツィ
ラッファエーレ・デ・パッツィ
オレッタ・デ・パッツィ
概要

 ジョヴァンニ・デ・パッツィは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1439年10月26日
生。
1472年
プリオーリ・デッレ・リベルタ。
ロレンツォ・イル・マニーフィコが独身であれ既婚であれ娘が遺産を相続できない法律を公布し、これによってパッツィ家に莫大な財産が入ることを妨害される。これがパッツィ家の陰謀に至った原因の1つだとも言われている。
14??年
ジョヴァンニ・デ・パッツィはパッツィ家の陰謀に関与していなかったものの、ヴォルテッラの牢獄に収監される。
1481年
ヴォルテッラの牢獄にて、没。

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』

アンドレア・デ・パッツィ Andrea de' Pazzi

生没
1372年~1445年10月19日
グリエルモ・デ・パッツィ
コスタンツァ・デ・バルディ
カテリーナ・サルヴィアーティ
アントーニオ・デ・パッツィ
ヤコポ・デ・パッツィ
グリエルモ・デ・パッツィ
ピエロ・デ・パッツィ
アポッローニア・デ・パッツィ
エレーナ・デ・パッツィ
アルビエラ・デ・パッツィ
概要

 アンドレア・デ・パッツィは、14世紀~15世紀のフィレンツェの男性。

別表記

 ディ・パッツィ

外部リンク

 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『メディチ家の人びと』
 『ルネッサンス夜話』

レナート・デ・パッツィ Renato de' Pazzi

生没
1442年9月6日~1478年4月
ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
フランチェスカ・マルティーニ
概要

 レナート・デ・パッツィは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1442年9月6日
生。
1463年
フランチェスカ・マルティーニと結婚。
1478年
メディチ家の倒産、没落は近いと判断し、パッツィ家の陰謀に参加せず。
1478年4月
フィレンツェにて、絞首刑。

別表記

 ベルフォルテ・リナート

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

カテリーナ・デ・パッツィ Caterina de' Pazzi

生没
1437年~
ピエロ・デ・パッツィ
フィアンメッタ・ジューニ
バルトロメオ・ヴァローリ
フィリッポ・ヴァローリ
ニッコロ・ヴァローリ
エリザベッタ・ヴァローリ
ジネヴラ・ヴァローリ
ルクレツィア・ヴァローリ
ピッキーナ・ヴァローリ
カッサンドラ・ヴァローリ
マリーア・ヴァローリ
フィアンメッタ・ヴァローリ
概要

 カテリーナ・デ・パッツィは、フィレンツェの女性。

年表

1437年
生。
1438年
2千フィオリーノの婚資口座がカテリーナ・デ・パッツィのために開設される。
1452年

外部リンク

 Google Books
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

グリエルモ・デ・パッツィ Guglielmo de' Pazzi

生没
1437年8月6日~1516年7月6日
アントーニオ・デ・パッツィ
ニコローサ・デリ・アレッサンドリ
ビアンカ・デ・メディチ
ジョヴァンナ・デ・パッツィ
コンテッシーナ・デ・パッツィ
アントーニオ・デ・パッツィ
アントーニオ・デ・パッツィ
アレッサンドラ・デ・パッツィ
コジモ・デ・パッツィ
ピエロ・デ・パッツィ
レナート・デ・パッツィ
ロレンツォ・デ・パッツィ
ルイジア・デ・パッツィ
マッダレーナ・デ・パッツィ
アレッサンドロ・デ・パッツィ
ルクレツィア・デ・パッツィ
ジュリアーノ・デ・パッツィ
概要

 グリエルモ・デ・パッツィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1513年1月~2月

外部リンク

 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』

アントーニオ・デ・パッツィ Antonio de' Pazzi

生没
1410年4月9日~1458年以降
アンドレア・デ・パッツィ
カテリーナ・サルヴィアーティ
ニコローサ・デリ・アレッサンドリ
グリエルモ・デ・パッツィ
カミッラ・デ・パッツィ
ジョヴァンニ・デ・パッツィ
フランチェスコ・デ・パッツィ
アントーニア・デ・パッツィ
チェレスタ・デ・パッツィ
マッダレーナ・デ・パッツィ
カテリーナ・デ・パッツィ
エリザベッタ・デ・パッツィ
概要

 アントーニオ・デ・パッツィは、15世紀のフィレンツェの男性。

年表

1410年4月9日
生。
1434年
1443年
Priori delle Arti
1450年
Priori delle Arti
1448年
Console di zecca
1458年以降
没。

外部リンク

 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

参考文献

 『メディチ家の人びと』
 『フィレンツェ史』

カミッラ・デ・パッツィ Camilla de' Pazzi

生没
14??年~
アントーニオ・デ・パッツィ
ニコローサ・デリ・アレッサンドリ
アヴェラルド・デ・メディチ
ラッファエーレ・デ・メディチ
概要

 カミッラ・デ・パッツィは、15世紀頃のイタリアの女性。

年表

1456年

外部リンク

 Geneanet
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea

記載日

 2005年5月29日以前