Fernando II de Aragón

フェルナンド2世・デ・アラゴン

生没
1452年3月10日~1516年6月23日
フアン2世・デ・アラゴン
フアナ・エンリケス
イサベル1世・デ・カスティーリャ
ジェルメーヌ・ド・フォワ
アロンソ・デ・トラスタマラ
フアン・デ・トラスタマラ
フアナ1世・デ・トラスタマラ
カテリーナ・ダラゴーナ

概要

 フェルナンド2世・デ・アラゴンは、15世紀から16世紀のスペインの男性。

在位

 シチリア王フェルディナンド2世 1468年~1516年
  先代:フアン2世・デ・アラゴン
  次代:カール5世
 カスティリア王・レオン王フェルディナンド5世 1474年~1504年
  先代:エンリケ4世・デ・カスティーリャ
  次代:フアナ1世・デ・トラスタマラ
 アラゴン王フェルナンド2世 1479年~1516年
  先代:フアン2世・デ・アラゴン
  次代:カール5世
 バルセロナ伯フェラン2世 1479年~1516年
  先代:フアン2世・デ・アラゴン
  次代:カール5世
 バレンシア王・マヨルカ王フェラン2世 1479年~1516年
 ナポリ王フェルディナンド3世 1504年~1516年
  先代:ルイ12世
  次代:カール5世
 ナヴァーラ王フェルナンド 1512年~1515年
  先代:ジャン・ダルブレ
  次代:フアナ1世・デ・トラスタマラ

年表

1468年

アラゴン・シチリア・サルデーニャ王フアン2世・デ・アラゴン、長子フェルナンド2世・デ・アラゴンのシチリア王即位を宣言(在位1468年~1516年)し、シチリア王位を退く(在位1458年~)。

1469年10月19日

カスティリア王エンリケ4世・デ・カスティーリャの妹イサベル1世・デ・カスティーリャ(1451年~1504年)、アラゴン・サルデーニャ王フアン2世・デ・アラゴンの長子で1468年シチリア王と宣言されたフェルナンド2世・デ・アラゴンと結婚。

1474年12月11日

エンリケ4世・デ・カスティーリャ死(1425年~1474年:カスティリア王在位1454年~1474年)——2日後、妹でフェルナンド2世・デ・アラゴンの妻イサベル1世・デ・カスティーリャ、カスティリア王に即位(在位1474年~1504年)。

これに伴いフェルナンド2世・デ・アラゴン、カスティリア王Fernando Vとも名乗る。

1476年3月11日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、1475年から妻イサベル1世・デ・カスティーリャのカスティーリア王位に挑戦しているAlfonso Vをスペイン北西部トーロの戦いで破る。これによりAlfonso Vはカスティーリア王位を断念。

1476年

フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャは、裁判権、警察権を持つ警備隊サンタ・エルマンダード(Santa Hermandad)を創設。以後これを封建貴族の廷臣化、王国統一に活用。

1479年1月19日

フアン2世・デ・アラゴン死(1379年~:在位1458年~)——長子フェルナンド2世・デ・アラゴン、アラゴン王に即位(在位1479年~1516年)。

これによりフェルナンド2世・デ・アラゴン・イサベル1世・デ・カスティーリャの共同統治によるスペイン王国成立(1479年~1504年)。

1479年9月4日

ポルトガル王Afonso Vとスペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴン・イサベル1世・デ・カスティーリャ、アルカソヴァで協定を結び、Afonso V、カスティーリアの王位継承権を放棄。カスティーリアの内乱終結(1475年~)。

1480年3月6日

フェルナンド2世・デ・アラゴンとAfonso V、トレド協定により前者は後者のアフリカ進出を認め、後者は前者にカナリア諸島の支配権を認める。これによりスペインとポルトガルの国際的利権、定まる。

1481年2月6日

スペインの異端審問所による最初の裁判により、6名が火刑に処せられる。

1484年以降

インノケンティウス8世から、1484年から1492年に制作された祝福された剣を拝受。

1486年8月9/11日

アクイラで教会支配への反乱を生じさせ、自軍をローマに迫らせるなど戦闘で優位に立ちながら、一方では密かにインノケンティウス8世との和を策してきたフェッランテ・ダラゴーナは、この日、インノケンティウス8世と、アクイラの統合はその住民の選ぶ方式に従うこと、フェッランテ・ダラゴーナは至高の存在たるインノケンティウス8世に服すること、フェッランテ・ダラゴーナに反抗した諸侯は再び彼に服すれば罪を問われないこと、など不利な状況に置かれていたインノケンティウス8世に全面的に有利な内容の和を、スペイン両王フェルナンド2世・デ・アラゴン・イサベル1世・デ・カスティーリャルドヴィーコ・イル・モーロ及びフィレンツェのそれぞれの使節を証人として締結。

1492年1月2日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャは、スペインにおけるイスラム教徒の拠点グラナダ王国を、ゴンザロ・デ・コルドバ(1453年~1515年)指揮の軍を用いて制圧。イスラム勢力の攻撃による西ゴート王国の滅亡(711年)以来の国土回復運動、レコンキスタ完了。

1492年3月30/31日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャは、ユダヤ人に対し、1492年7月31日までにキリスト教に改宗するかスペインの地を去るかのいずれかを選ぶよう命ずる勅書を発する。

この後、両王、スペイン各地での異端審問により20万に達するユダヤ人を追放。その多くはポルトガル及びイタリア各地ことにローマに逃れる。

1492年1月2日

グラナダ攻略。

1493年1月19日

シャルル8世、イタリア侵攻の態勢を整えるべくフェルナンド2世・デ・アラゴンとバルセロナで協定を結び、前王ルイ11世が前アラゴン王フアン2世・デ・アラゴンより獲得した(1462年)スペインに近いフランス南東部ルシヨンとサルダーニャを返還(バルセロナ協定)。

1493年6月末

フェッランテ・ダラゴーナ、次男フェデリーコ・ダラゴーナ(1451年~1504年)をローマに送り、シャルル8世の側からのアレクサンデル6世への工作を阻みつつアレクサンデル6世を自分の側に引き寄せるべく硬軟両様の工作を始める。その一環として子アルフォンソ2世・ダラゴーナの庶出の娘サンチャ・ダラゴーナ(1478年~?)とアレクサンデル6世の末子ホフレ・ボルジア(1481年頃~1516/1517年)との結婚をも提案。

この頃フェルナンド2世・デ・アラゴン、自分の叔父の娘、寡婦マリーア・エンリケスアレクサンデル6世の子、ガンディア公フアン・ボルジア(1476年~1497年:在位1488年~1497年)との結婚を提案。

1493年7月下旬

アレクサンデル6世ヴィルジーニオ・オルシーニ及びジュリアーノ・デッラ・ローヴェレとの和解に成功。続いて、この両者の背後にいるフェッランテ・ダラゴーナからの1493年6月の提案及びフェルナンド2世・デ・アラゴンからの同時期の提案を入れるなど、自己防衛を着々と進める。

これらにより、1493年4月のアレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィアなどの対ナポリフェッランテ・ダラゴーナ同盟、空に帰し、ルドヴィーコ・イル・モーロはさらにシャルル8世に傾斜。

1493年8月24日

フアン・ボルジアマリーア・エンリケスの結婚式、バルセロナでフェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャ両王の出席のもと盛大に挙行される。

1495年5月

スペインのフェルナンド2世・デ・アラゴン・イサベル1世・デ・カスティーリャ両王、ゴンザロ・デ・コルドバ指揮の自軍にフェッランディーノ・ダラゴーナのためナポリ奪回の戦いを開始させる(1495年~96年)。

1496年10月21日

マクシミリアン1世の子でブルゴーニュ公フェリペ1世(1478年~1506年:在位1482年~:但し1494年まで父マクシミリアン1世が摂政)、フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャ両王の娘フアナ1世・デ・トラスタマラ(1479年~1555年)と結婚。

1497年2月25日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、対フランス神聖同盟を脱退し、シャルル8世と休戦協定を締結。神聖同盟、事実上分解。

1497年4月

マクシミリアン1世の娘マルグリット・ドートリッシュとフェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャの子フアン・デ・トラスタマラ(1478年~1497年)、結婚。但し数ヵ月後フアン・デ・トラスタマラ死。

前年に続く政略結婚によって、マクシミリアン1世は、家領を拡大しハプスブルク家の基盤を固め続ける。

1497年11月24日

シャルル8世とフェルナンド2世・デ・アラゴン、親善協定を仮締結。

1497年2月末

シャルル8世がフェルナンド2世・デ・アラゴン及び対フランス神聖同盟と和約したとのニュースが伝えられる。

かねてから親フランス政策に固執していたジローラモ・サヴォナローラ、このニュースに衝撃を受け、説教の中で、シャルル8世を愚かな役立たずと痛罵し、彼がなすべきことをなさなければ神は他者をもって彼に代えるであろうとその死を預言。

ジローラモ・サヴォナローラが語っているのは何ら神の言葉ではないとの反ジローラモ・サヴォナローラ派の非難が市内に急速に浸透すると共に、フラテスキの者をも含む対フランス神聖同盟支持派と新フランス派との論争も、とみに活発化。

1498年1月

フェルナンド2世・デ・アラゴンとシャルル8世の親善仮協定、正式に調印される。

1498年3月9日

ジローラモ・サヴォナローラ、説教の中で公会議とは何かと語りながらそこでの教会改革の実現の緊要性を強調。

この頃ジローラモ・サヴォナローラ、諸君主、権力者(マクシミリアン1世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャシャルル8世ら)宛ての書簡を用意。この中で公会議開催、教会改革を訴えると共にアレクサンデル6世は教皇ではあり得ずキリスト信徒でもあり得ないと強調。しかし発信されずに終わる。

1499年1月

アレクサンデル6世シャルル8世の関係の緊密化を恐れていたフェルナンド2世・デ・アラゴン、1499年1月23日特使をローマに送り、アレクサンデル6世らに対し、チェーザレ・ボルジアをフランスから呼び戻して俗権を取り上げ、再び枢機卿として聖職に入れることなどを要求。

アレクサンデル6世は、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの関係修復を断念。

1500年11月11日

グラナダ条約ルイ12世とフェルナンド2世・デ・アラゴンは、グラナダでナポリ分割の秘密協定を結ぶ。

1501年6月25日

アレクサンデル6世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、ルイ12世の三者、協定を結び、アレクサンデル6世は後二者のナポリ分割のグラナダ条約(1500年11月)を承認。1501年6月29日三者の協定、公表される。

1501年7月5日?~9月初旬

ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍、カラブリアのトロペーアに上陸。ナポリ分割のグラナダ条約の存在を知らなかったナポリ王フェデリーコ・ダラゴーナは、カラブリアの城塞を開けさせ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍を歓迎させる。フェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、2ヶ月足らずでカラブリアを制圧。フェデリーコ・ダラゴーナの長子でカラブリア公フェルディナンド・ダラゴーナ(1488年~1559年)は捕らえられてスペインに送られる。

1502年7月初旬

フェルナンド2世・デ・アラゴン軍とルイ12世軍、ナポリ領内の境界を巡って開戦(~1504年)。

1503年3月29日

パンドルフォ・ペトルッチは、ルイ12世を後ろ盾としてシエナに復辟。

アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジア親子の版図、権勢のこれ以上の拡大を警戒し、フィレンツェやシエナなどと秘密裡に交渉していた彼は、これら諸国の保護とこれら諸国による自分のナポリ攻略の支援とについて合意し、シエナにパンドルフォ・ペトルッチを復辟させてチェーザレ・ボルジアを退ける。

アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジア親子、とりわけアレクサンデル6世ルイ12世から離反し、彼と対抗するフェルナンド2世・デ・アラゴン及びヴェネツィアに傾倒し始める。

1503年4月21日

フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ナポリ領でルイ12世軍を圧倒し始める。

1503年4月28日

ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、チェリニョーラでルイ12世軍に完勝。ルイ12世軍は完全に孤立。

1503年10月12日

オルシーニ家コロンナ家及びフェルナンド2世・デ・アラゴンは、チェーザレ・ボルジアルイ12世の協定に対抗する協定を締結。コロンナ家の離反により、チェーザレ・ボルジアには実際の支援を望めないルイ12世、フランスのみが残る。

1503年11月2日

フォルリチェーザレ・ボルジアの支配に対する反乱発生。

この頃?、4歳の娘ルイーズ・ボルジア(1490年~)と教皇ユリウス2世の縁戚でセニガッリアの君主フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレ(1490年~1538年:セニガッリアの君主在位1501年~:ウルビーノ公1508年~1516年、1523年~1538年)との婚姻などの約束が取り交わされ、ユリウス2世をなお信頼し続ける。

この頃?、ルイ12世軍はナポリ領に入りフェルナンド2世・デ・アラゴン軍と交戦。

1503年12月28日

ゴンザロ・デ・コルドバ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ガリリャーノの戦いルイ12世に完勝。

1503年12月31日

対スペイン戦争におけるルイ12世軍の最後の拠点ガエタは、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍に降伏。

1504年1月1日

すでにガエタニ押し込まれていたルイ12世軍は、ゴンザロ・デ・コルドバから帰国の安全を保障するとの撤退条件を提示されて受諾し、ナポリにおける最後の拠点であるこの力惨憺たる状態で帰国の途につく。ナポリは事実上、フェルナンド2世・デ・アラゴンの手に入る。

1504年2月11日

ルイ12世とフェルナンド2世・デ・アラゴンは、リヨンで休戦協定を締結。ルイ12世は、ナポリ領有をひとまず断念し、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ支配を承認。これによりフィレンツェの対ピサ戦争を除くイタリアの戦乱、ひとまず終息。

1504年11月26日

イサベル1世・デ・カスティーリャ、死。フェルナンド2世・デ・アラゴン、イサベル1世・デ・カスティーリャのスペイン共同統治終わる(1479年~1504年)。

両王の娘フアナ1世・デ・トラスタマラは、カスティーリア王位を継ぐが、フェルナンド2世・デ・アラゴンが摂政としてカスティーリアを統治(1504年~1506年)。これに対し、自ら摂政の位を望むフアナ1世・デ・トラスタマラの夫、ブルゴーニュ公フェリペ1世は不満を抱く。

1505年春

この頃?、フェルナンド2世・デ・アラゴンの指示によると称してゴンザロ・デ・コルドバがピサ支援のため派遣した軍隊、ピオンビーノに上陸。

1505年9月14日

ピオンビーノに着いたフェルナンド2世・デ・アラゴン軍の一部が、ピサ支援のためピサに入る。フィレンツェ軍は退却。

1505年10月12日

ブロワ協定:フェルナンド2世・デ・アラゴン、ナポリをも求める女婿フェリペ1世とその父マクシミリアン1世に対抗すべくルイ12世に急速に接近し、自分は彼の姪ジェルメーヌ・ド・フォワ(1488年~1538年)と再婚し、彼はナポリに対する一切の要求を放棄することなどにつき協定。これにより、フェルナンド2世・デ・アラゴンへのカスティーリアの貴族たちの反感強まる。

1505年10月12日

フェルナンド2世・デ・アラゴンとルイ12世のブロワ協定締結により、フェルナンド2世・デ・アラゴンの軍、ピサ及びピオンビーノから撤退。

1506年3月18日

1505年10月のブロワ協定によりルイ12世の姪ジェルメーヌ・ド・フォワと再婚。同協定によりルイ12世ナポリに対する一切の要求を放棄。ナポリ王としてFernando IIIを名乗る。

1506年4月

病弱な妻フアナ1世・デ・トラスタマラの摂政としてカスティーリャを支配しようとするフェリペ1世、その位を求めて彼女と共にカスティーリャに到着。自分に反感を抱く貴族たちの支持を受ける。

1506年6月27日

内乱を恐れ、カスティーリャの摂政の位をフェリペ1世に委譲し、その支配権を手放す。

1506年9月4日

この日?、ゴンザロ・デ・コルドバの国際的名声と威信に懸念と嫉妬を抱き、その動向に疑いありとしてバルセロナから海路ナポリの彼のもとに向かう(1506年9月7日)。

1506年9月11日

ナポリに向かう途上、ピオンビーノに立ち寄る。

1506年9月25日

カスティーリャの摂政フェリペ1世急死し、再び摂政となってカスティーリャの実権を掌握。

ルイ12世の動きを牽制しかつローマで神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行すべくイタリアに侵攻しようと画策中のマクシミリアン1世、子フェリペ1世の急死により、重要な支持者を失い、一時、計画を延期して改めて帝国内に支持を求めざるを得なくなる。

1506年10月29日

ナポリに到着(1506年10月末)し、ゴンザロ・デ・コルドバの軍指揮権を、スペインで重職を与えることを約しつつ取り上げる。

1507年6月4日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、ゴンザロ・デ・コルドバを同道してナポリを出発し、海路帰国の途につく。会見を希望してオスティアで待機していたユリウス2世を無視し、ジェノヴァを経てサヴォーナに向かう。

1507年6月28日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、待機していたルイ12世の歓迎を受けてサヴォーナに到着。両者この地で7月1日まで会見し、ヴェネツィア攻撃、マクシミリアン1世の自軍への勧誘、教会改革のための公会議開催、ピサのフィレンツェへの帰属について合意。

1508年12月10日

カンブレー同盟:ユリウス2世の呼びかけでマクシミリアン1世ルイ12世、それぞれ代理として娘マルグリット・ドートリッシュ、宰相ジョルジュ・ダンボワーズをカンブレーに送り、表向き対オスマン・トルコを装って対ヴェネツィア同盟を締結。

後にフェルナンド2世・デ・アラゴン、イングランド王ヘンリー7世、ハンガリー王ウラースロー2世・ヤギェウォフェッラーラアルフォンソ1世・デステマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ、サヴォイア公カルロ2世も加盟。ユリウス2世は翌1509年ようやく正式に加盟。

1509年3月12日

この日?、ルイ12世及びフェルナンド2世・デ・アラゴンと協定。両者に献金する代償としてピサ支援の中止を約束させる。

1509年5月15日~6月初旬

ルイ12世軍、ベルガモ、ブレッシャ、クレモーナ、ペスキエーラなどを制圧。

ユリウス2世軍、ファエンツァ、リーミニ、チェルヴィア、ラヴェンナなどを制圧。

マクシミリアン1世軍、ヴェローナ、ヴィンチェンツァ、パドヴァ、トレヴィーゾなどを制圧。

フェルナンド2世・デ・アラゴン、オトラント、ブリンディジ、トラーニなどナポリ領内のヴェネツィア占領地を制圧。

1509年7月5日

前世紀初めから獲得してきた領地を次々と奪われながらマクシミリアン1世、フェルナンド2世・デ・アラゴンを懐柔すべく努めてきたヴェネツィアが、カンブレー同盟との和解を申し出るべくローマのユリウス2世のもとに使節6名を送る。

1510年1月

オスマン・トルコ、フランスルイ12世、ドイツマクシミリアン1世、スペインフェルナンド2世・デ・アラゴンへの、とりわけフランスルイ12世への対抗勢力として利用するためヴェネツィアを過度に弱めない方針をとることを決めた教皇は、対ヴェネツィア戦をさらに強く断行すべしとのルイ12世の宰相ジョルジュ・ダンボワーズの申し入れを拒絶。

1510年7月3日

ユリウス2世、フェルナンド2世・デ・アラゴンを自派につけるべく彼にナポリを改めて正式に封与。

1510年12月

ユリウス2世、フェルナンド2世・デ・アラゴンからの援軍を加えた軍勢を改めてフェッラーラ奪回に向かわせ、フェッラーラを封じ込めるためまずミランドラを包囲させる。

1511年1月初旬

フェルナンド2世・デ・アラゴンにフィレンツェの政治的態度を説明してその支持を得るべく、彼のもとにフランチェスコ・グイッチャルディーニを派遣するが失敗に終わり、かつルイ12世の反感を誘うに至る。

1511年10月4日

対フランス神聖同盟。教会防衛、フェッラーラ、ボローニャなど教会領の確保を狙うユリウス2世、北イタリア各地の確保を狙うヴェネツィア、イタリアにおけるフランスの優位の排斥とルイ12世の配下からのナヴァーラ王国の奪取を狙うフェルナンド2世・デ・アラゴン、蛮族排斥をスローガンに対フランス同盟を締結し、翌1511年10月5日公表。1511年11月17日ヘンリー8世が加盟し、間もなくスイス連邦も加盟。マクシミリアン1世は態度を保留。

フェルナンド2世・デ・アラゴンは、ナポリに新たな軍を送り、総督ライモンド・ディ・カルドーナ(?~1522年)にこれを率いてロマーニャで教皇軍、ヴェネツィア軍と合流するよう指示。

1511年12月半ば

この頃、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の軍、フォルリに到着し、ユリウス2世軍と合流してボローニャ及びフェッラーラの包囲を目指す。

1511年12月20日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、ヘンリー8世と協定。

1512年1月26日

ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍(フェルナンド2世・デ・アラゴン軍及び教皇代理ジョヴァンニ・デ・メディチ枢機卿と傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナ(1450~1460年~1520年)、ファブリツィオ1世・コロンナらを含むユリウス2世軍)、ボローニャを包囲。

1512年4月11日

ガストン・ド・フォワ指揮のルイ12世軍とアルフォンソ1世・デステ指揮のフェッラーラ軍、ラヴェンナ近郊でイタリア史上稀に見る大激戦の末ライモンド・ディ・カルドーナ指揮の神聖同盟軍を破り、翌1512年4月12日、ラヴェンナに入城。軍、未曾有の略奪、暴行、虐殺を欲しいままにする。

完敗した同盟軍はライモンド・ディ・カルドーナがチェゼーナへ、マルカントーニオ・コロンナはリーミニへ逃げ、ジョヴァンニ・デ・メディチはフランス軍の、ファブリツィオ1世・コロンナはフェッラーラ軍の捕虜となり、完勝したルイ12世軍もガストン・ド・フォワを戦死させた(1489年~)他、軍に多大の損失を被る。

ラヴェンナ占領におけるルイ12世軍の実態に対する恐怖広まり、イーモラ、ファエンツァ、フォルリ、チェゼーナ、リーミニなど次々にルイ12世軍に降伏し、数日でロマーニャのほぼ全域が支配下に入る。

ナヴァーラの領有を目論むフェルナンド2世・デ・アラゴンは、ガストン・ド・フォワの死により、その姉である自分の妻ジェルメーヌ・ド・フォワにナヴァーラの王位請求権が生じたと主張。

1512年5月3~17日

ユリウス2世は、16名の枢機卿などを率いてローマのラテラーノ大聖堂で公会議を開催。1512年5月10日、1512年5月17日と会議続行。ピサ分離公会議を無効と確認し、ユリウス2世はその勅書を発する。

ヘンリー8世は、ユリウス2世の勧奨も受けて大軍をフランス領に接したスペインのオンダリビアに上陸させ、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍と共にギュイエンヌ攻撃態勢を整えさせる。

このためルイ12世は、兵の新たな徴集、ギュイエンヌと接するナヴァーラ王国のジャン・ダルブレとの協調などの対策を講じざるを得なくなり、以後イタリアの覇権獲得に全力を集中できなくなる。

ユリウス2世とヴェネツィアから資金を得たスイス連邦は、ようやく軍のイタリア南下、ミラノ攻撃態勢を整える。

ルイ12世は、ロマーニャの自軍を、ボローニャ防衛のための少数の兵を除いてミラノ防衛に回すよう指示。

1512年6月初旬~半ば

神聖同盟軍(ユリウス2世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ヴェネツィア軍)、マクシミリアン1世軍、スイス連邦軍は、ラヴェンナ、リーミニ、チェゼーナを奪い、1512年6月13日、ボローニャを制止、クレモーナ、ブレッシャ、ベルガモを奪うなど、ロマーニャ及びロンバルディアにおけるルイ12世の支配を次々と打破。

1512年6月

ヘンリー8世軍とフェルナンド2世・デ・アラゴン軍は、ナヴァーラへのルイ12世の支援を阻むためギュイエンヌに侵攻。

1512年7月21日

フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ナヴァーラに侵攻。

1512年8月26日

領内に侵攻してきたライモンド・ディ・カルドーナのもとへ使節を派遣し、フェルナンド2世・デ・アラゴンの要求は可能な限り受け入れることを伝える。しかしライモンド・ディ・カルドーナからは神聖同盟全体の要求としてピエロ・ソデリーニの解任、メディチ家の復帰を求められる。第2点は承諾し、第1点は拒否。

1512年9月初旬

フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、ナヴァーラの大部分を制圧、占領。

1512年9月3日

ライモンド・ディ・カルドーナのもとへBaldassarre Carducci(1456年~)、Ormannozzo Deti(1464年~1531年以降)、Niccolò del Neroニッコロ・ヴァローリコジモ・デ・パッツィヤコポ・サルヴィアーティパオロ・ヴェットーリを送り、メディチ家とその郎党の私人としての市内復帰、神聖同盟への加入、フェルナンド2世・デ・アラゴン及びライモンド・ディ・カルドーナへの献金、ライモンド・ディ・カルドーナの占領したフィレンツェ領の返還と彼の軍の撤退について合意すると共に、フェルナンド2世・デ・アラゴンとの相互防衛協定を結んで彼の傭兵200名分の賃金の支払いを引き受ける。

1512年9月14日

ジョヴァンニ・デ・メディチライモンド・ディ・カルドーナの指揮するフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に守られて市内に入る。メディチ家は、他の市民と同等の政治的権利を有する私人として公式に復帰。

1512年11月

神聖同盟陣営内部で、ロンバルディア各地の領有を巡る対立公然化。特にロンバルディアに目覚しく勢力を伸長してきたフェルナンド2世・デ・アラゴンに対する各国の警戒心が強まる。

1512年11月19日

ユリウス2世マクシミリアン1世ユリウス2世はロンバルディアで勢力を拡大しつつあるフェルナンド2世・デ・アラゴンに対抗するため、マクシミリアン1世ユリウス2世を背景にロンバルディアでヴェネツィアを抑えて勢力を確立する目的で、新たに協定を結び、1512年11月25日これを公表。マクシミリアン1世ユリウス2世のラテラーノ大聖堂における公会議を承認。

ユリウス2世は、マクシミリアン1世との協定を望むヴェネツィアに対して、ヴェローナとヴィチェンツァの領有承認などマクシミリアン1世に極めて有利な条項を提示してこれを受容するよう指示。ヴェネツィアはこれを拒絶。

1512年12月27日

フェルナンド2世・デ・アラゴン、植民地統治に関する包括的法典を公布。インディオの人口減少を止めるべく、その虐待、過重労働の防止、食物、衣服、寝具、住居の保護などを規定し、かつこれら規定の遵守のための監査官の各町への配置をも規定。これにより、1503年3月12日、王令によるエンコミエンダ制(インディオの委託、保護制度)が確認される。

1513年2月20~21日

数日前から病床についていたユリウス2世、死。

フェルナンド2世・デ・アラゴンとマクシミリアン1世は、前年8月のマントヴァ会議でユリウス2世がパルマ、ピアチェンツァをも得たことに不満を抱いていたが、フェルナンド2世・デ・アラゴンのナポリ総督でミラノに陣を敷いていたライモンド・ディ・カルドーナが、ユリウス2世の死を機として軍を率いて両市を襲い、ミラノ公マッシミリアーノ・スフォルツァへの服従を誓わせる。

アルフォンソ1世・デステユリウス2世に奪われたチェント、ルーゴ、バニャカヴァッロなど自領を奪回し、レッジョをも奪回しようとするが内部に自分を迎える動き生じず、撤退。

1513年4月1日

ルイ12世、フェルナンド2世・デ・アラゴンと、前年フェルナンド2世・デ・アラゴンが自領に併合しなかったフランス側ナヴァーラの地(ベアルンのオルテズ)でイタリア以外の問題に関して協定を結び、イタリア侵攻の態勢をさらに整える。

1513年4月5日

神聖同盟(1511年)の更新:新教皇レオ10世マクシミリアン1世ヘンリー8世、及びフェルナンド2世・デ・アラゴンが、ネーデルラントのメヘレンで対フランス神聖同盟を更新することにつき協定。但し、レオ10世は同盟とルイ12世の間で中立的な姿勢を、フェルナンド2世・デ・アラゴンは、1513年4月1日のルイ12世との協定を優先的に遵守する姿勢を保ち続ける。

1513年6月6日

ルイ12世は、ノヴァーラで大激戦の末ミラノ側のスイス連邦軍に完敗するなど、各地で敗退。バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア軍もローディでライモンド・ディ・カルドーナ指揮のフェルナンド2世・デ・アラゴン軍に阻まれてルイ12世軍を支援できず。ルイ12世軍は、間もなくイタリアから撤退。

1513年夏~1513年秋

ルイ12世軍がイタリアから撤退し、かつフランス本国がヘンリー8世軍やスイス連邦軍の攻撃を受けてルイ12世が軍をイタリアに新たに侵攻させることは不可能になったために孤立したヴェネツィア軍は、神聖同盟軍(マクシミリアン1世軍、フェルナンド2世・デ・アラゴン軍、及びスイス連邦軍を中心とするミラノ軍)とヴェローナ、ヴィチェンツァ、パドヴァなどを巡って戦闘を続けていたが、パドヴァに撤収して防備を固める。

レオ10世、神聖同盟陣営に小軍を送って同盟側に断つ態度をようやく明確に示し始めると共に、ヴェネツィアに対しフランスとの同盟を破棄するよう工作するが失敗。

1514年5月13日

ルイ12世とフェルナンド2世・デ・アラゴン、オルレアンで前年4月の協定を更新し、フェルナンド2世・デ・アラゴンはルイ12世のミラノ攻撃に際して中立を保つことをも保証。

1514年6月半ば

レオ10世、故ユリウス2世に取り上げられた領国の返還を強く求めていたアルフォンソ1世・デステに、彼に対するユリウス2世の全制裁を取り消すと共に領国の一つレッジョを5ヶ月以内に返還することを約束。しかしその2日後、1510年8月にユリウス2世が制圧して、1511年1月にマクシミリアン1世に封与したアルフォンソ1世・デステの領国の一つモデナを買収することをマクシミリアン1世の閣僚と約束するなど、かねてから抱いていたモデナ、レッジョ、パルマ、ピアチェンツァ一帯をメディチ家の領国と化して甥ロレンツォ・デ・メディチに統治させようとの野望実現に向けて歩を踏み出す。

さらにこの頃、レオ10世、弟ジュリアーノ・デ・メディチのためナポリをも領有しようと企んでルイ12世と秘密裡に折衝していると広く信じられる。

ただしレオ10世、三大権力者(ルイ12世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、マクシミリアン1世)間の、ないしこの内の二者間の関係強化も、いずれの一者によるイタリア支配も防いで自己の権力強化とメディチ家の勢力伸長、安泰を図るべく、三者への対応について揺らぎ続ける。

1514年9月21日

レオ10世、フェルナンド2世・デ・アラゴンとローマでイタリアにおける相互の領国の安全保障を盟約。合わせて両者、他者とりわけルイ12世と盟約しないことを相互に誓約。

1515年2月7日

マクシミリアン1世、フェルナンド2世・デ・アラゴン、マッシミリアーノ・スフォルツァ、スイス連邦及びフィレンツェは、レオ10世の暗黙の加担の下、対オスマン・トルコ同盟の名目でミラノ防衛のための対フランソワ1世、対フランス同盟を結成。

1515年7月17日

レオ10世は、対フランス同盟に正式に加盟すると共にこの同盟を公表。しかしナポリをフェルナンド2世・デ・アラゴンから奪って弟ジュリアーノ・デ・メディチに支配させようとの意図を密かに抱くレオ10世は、なお秘密裡にフランソワ1世とも接触を取り続ける。

この頃?、ロレンツォ・デ・メディチの指揮するフィレンツェ軍が、対フランス同盟陣営に加わるべくピアチェンツァに到着。教皇軍の小部隊もヴェローナに到着。ロレンツォ・デ・メディチは病床のジュリアーノ・デ・メディチに代わって教会軍総司令官を務める。

1515年

スペインに制圧された(1512年)ナヴァーラ王国、正式にスペインに併合される。

1516年1月23日

フェルナンド2世・デ・アラゴン死。——その意思により、孫でマクシミリアン1世の孫でもあるネーデルラントの君主カールが、カルロス1世としてスペイン王に即位。

関連項目

 The Borgias: 104, 108

別表記

 フェルディナンド・ダラゴーナ、フェッランド、フェルナント、フェルナンド5世、Ferdinando d'Aragona

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Famille de Carné
 Find A Grave
 Foundation for Medieval Genealogy
 Genealogy.EU
 JDA's Family Tree
 kleio.org
 Libro d'Oro della Nobiltà Mediterranea
 The Medici Archive Project

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『新世紀ビジュアル大辞典』
 『西洋拷問刑罰史』
 『世界悪女大全』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ハプスブルク家』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『マキァヴェッリ 忘恩、運命、野心、好機』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ローマ教皇検死録』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前