ネリ・カッポーニ Neri Capponi
- 生没
- 1388年~1457年
- 父
- ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ
- 母
- マルゲリータ・ナージ
- 妻
- セルヴァッジア・サッケッティ
- 子
- ジーノ・カッポーニ
概要
ネリ・カッポーニは、14世紀から15世紀のイタリアの男性。
年表
1450年3月
フランチェスコ1世・スフォルツァから年来の支援への感謝の書簡がシニョーリアとコジモ・イル・ヴェッキオに届き、シニョーリアはコジモ・イル・ヴェッキオの長子ピエロ・イル・ゴットーソ、ネリ・カッポーニ、ディエティサルヴィ・ネローニ、ルカ・ピッティ(1394年~1472年)の4名の祝賀使節をミラノに派遣すると共に、市内で祝賀行事を開催。
1451年5月初め
ヴェネツィアとアルフォンソ5世・デ・アラゴンらの同盟に対抗すべく、この頃?、コジモ・イル・ヴェッキオ、ネリ・カッポーニ、アニョーロ・アッチャイウオリ(?~1467年)、ルカ・デリ・アルビッツィ(1382年~1458年)らを委員とする新十人委員会を編成。
1457年11月27日
コジモ・イル・ヴェッキオの最大の敵手ネリ・カッポーニ、フィレンツェで死(1388年~1457年)。
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネッサンス夜話』
ジーノ・カッポーニ Gino Capponi
- 生没
- 1423年1月22日~1487年4月23日
- 父
- ネリ・カッポーニ
- 母
- セルヴァッジア・サッケッティ
- 妻
- マッダレーナ・マンネッリ
- 子
- ジローラモ・カッポーニ
ピエロ・カッポーニ
トンマーゾ・カッポーニ
ネリ・カッポーニ
ルクレツィア・カッポーニ
概要
ジーノ・カッポーニは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1443年
マルゲリータ・マンネッリと結婚。
1480年11月20日
フィレンツェ共和国はフェッランテ・ダラゴーナの勧告に従い、シクストゥス4世に謝罪し許しを乞うフランチェスコ・ソデリーニ、ジーノ・カッポーニ、ジョヴァンニ・トルナブオーニら12名からなる使節団をローマに送る。
1480年11月25日
1480年12月3日
フィレンツェ使節団は、ようやくシクストゥス4世に謁見を許され、その前で地にひれ伏して謝罪。キリスト教徒としての不従順は、政治的な正当防衛だったと釈明し、自分たちの大聖堂や政庁で冒涜され辱められたのだという点について念を押した。
1480年12月4日
オスマン・トルコの進軍に脅かされているシクストゥス4世は、フェッランテ・ダラゴーナの忠言をも考慮に入れ、対トルコ戦に15隻の高価なカタロニアのガレー船を派遣することなどを条件に聖務禁止処分を解き、フィレンツェに改めて祝福を与える。象徴的にフィレンツェの使節団長を長い杖で叩いた。
外部リンク
Geneanet
Google Books - Tavole cronologiche e sincrone della storia Fiorentina
Treccani
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ピエロ・カッポーニ Piero Capponi
- 生没
- 1446年8月18日~1496年9月25日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- ソイアーナ
- 父
- ジーノ・カッポーニ
- 母
- マッダレーナ・マンネッリ
- 妻
- コーザ・グイッチャルディーニ
- 子
- ニッコロ・カッポーニ
ジュリアーノ・カッポーニ
ジーノ・カッポーニ
マッダレーナ・カッポーニ
カミッラ・カッポーニ
概要
ピエロ・カッポーニは、15世紀のイタリアの男性。
年表
1466年7月5日
コーザ・グイッチャルディーニと結婚。
1494年11月4日
シニョーリアは、コンシーリオ・デル・セタンタを召集し、対策を諮問。ピエロ・カッポーニがピエロ・イル・ファトゥオを支配者として相応しくないと断定し、彼の幼稚な専制支配を終わらせて市民の自由を回復せよと強調するなど、メディチ派の有力者たちがメディチ支配に公然と反抗し始める。
1494年11月5日
百人委員会は、前日のコンシーリオ・デル・セタンタでのピエロ・カッポーニの発言に基づき、ジローラモ・サヴォナローラ、ピエロ・カッポーニなど5名の使節をシャルル8世の元に派遣し、反フランス政策への転換はピエロ・イル・ファトゥオ個人の責任であること、ピエロ・イル・ファトゥオをフィレンツェの公式の代表とは認めないこと、を言明してピエロ・イル・ファトゥオを慰撫することを決議。5名の使節出発。ジローラモ・サヴォナローラは、初めて政治の全面に登場。
1494年11月
ジローラモ・サヴォナローラやピエロ・カッポーニらフィレンツェ使節は、ピサでシャルル8世と交渉するが、何の回答も得られず、失敗。ピサ市民に追われるように帰る。
1494年11月12日
ピサが、フィレンツェからの独立を目指して反乱。フィレンツェはピサ制圧戦争をまた始める(1494年~1509年)。
1494年11月14日
ジローラモ・サヴォナローラら代表団は、ピエロ・カッポーニの別荘で再びシャルル8世と交渉するが何の回答も得られずに終わる。
1494年11月17日
シャルル8世は、軍と共に厳かに市内に入り、自身はメディチ宮殿に投宿。自身に譲歩したピエロ・イル・ファトゥオを復辟させ、自身をピエロ・イル・ファトゥオの上に立つ大君主と見なすよう要求。
ジローラモ・サヴォナローラを除くピエロ・カッポーニら4名の代表団は、シャルル8世の脅迫的要求を拒否。交渉決裂。市内にフランス軍による略奪、蛮行の不安、恐怖広まる。
1494年11月25日
シャルル8世は、先の要求を緩和。ピエロ・カッポーニら代表団と、ナポリ制圧後可能な限り速やかにピサをフィレンツェに返還すること、フィレンツェは彼にナポリ制圧のための多額の軍事金12万ドゥカーティを3回に分割して支払うこと、ピエロ・イル・ファトゥオ及びその兄弟をフィレンツェから追放しその財産を没収すること、などについて合意し、協定。
1496年9月21日
ピサ戦線においてソイアーナにて、死(1496年9月21日)。
別表記
ピエール、ピエロ・デ・カポーニ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『メディチ家の人びと』
『ルネサンスの歴史』
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『イタリア史』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
ネリ・カッポーニ Neri Capponi
- 生没
- 1452年~1519年
- 没地
- ヴィコピザーノ
- 父
- ジーノ・カッポーニ
- 母
- マッダレーナ・マンネッリ
- 妻
- ヴィオランテ・サッセッティ
- 子
- ジーノ・カッポーニ
概要
ネリ・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1513年3月
ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。
新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節が派遣されることになり、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィ、Giovanni Tornabuoni、ジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティ、ベネデット・デ・ネルリ、ピエロ・グイッチャルディーニ、ロレンツォ・モレッリ、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファと共に計12名が選出される。
1519年
ヴィコピザーノにて、死。
別表記
ネリ・ディ・ジーノ・ディ・ピエロ・カッポーニ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ルクレツィア・カッポーニ Lucrezia Capponi
- 生没
- 1465年~1529年
- 父
- ジーノ・カッポーニ
- 母
- マッダレーナ・マンネッリ
- 夫
- アラマンノ・サルヴィアーティ
- 子
- マリーア・サルヴィアーティ
アヴェラルド・サルヴィアーティ
マッダレーナ・サルヴィアーティ
マルゲリータ・サルヴィアーティ
概要
ルクレツィア・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
外部リンク
ニッコロ・カッポーニ Niccolò Capponi
- 生没
- 1472年9月10日~1529年10月28日
- 父
- ピエロ・カッポーニ
- 母
- コーザ・グイッチャルディーニ
- 妻
- アレッサンドラ・ストロッツィ
- 子
- ピエロ・カッポーニ
フィリッポ・カッポーニ
概要
ニッコロ・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。
在職
正義の旗手 1526年7月~8月、1527年6月~1528年6月
1528年6月~1529年4月
年表
1472年9月10日
生(1473年)。
1508年5月5日
ニッコロ・カッポーニ(1473年~1529年)指揮の市民軍をピサ攻略に派遣。
1527年
この頃、クレメンス7世の命にのみ従うシルヴィオ・パッセリーニの統治に不満、反感を強めていたニッコロ・カッポーニら貴族及び市民、特にその青年層が、カール5世軍の侵攻に対処するため市民に武器を貸与し市民軍を復活するよう要求。シルヴィオ・パッセリーニは暴動、反乱の発生を恐れてこの要求を拒否。
1527年4月26日
「金曜日の騒乱」
午前:反メディチ派が、シニョーリア広場に集合し、市民への武器貸与を求めて気勢を上げる。正義の旗手でフランチェスコ・グイッチャルディーニの兄ルイジ・グイッチャルディーニは、市民が午後に規律を保ってシニョーリア広場に集まるなら武器を貸与すると布告。
コニャック同盟軍がフィレンツェ郊外に近づいたとの報が広まる。
正午:シルヴィオ・パッセリーニは、自身と同じくクレメンス7世の代理的地位を占める2人の枢機卿ニッコロ・リドルフィ、インノチェンツォ・チーボとイッポーリト・デ・メディチを同道して市外の同盟軍のもとに駆けつけ支援を求める。
午後:市内にシルヴィオ・パッセリーニが逃亡したとの噂広まり、急進的な青年ら数百名に続いて多数の市民が政庁宮を急襲。
ニッコロ・カッポーニやピエロ・サルヴィアーティらに率いられた市民の威圧の下で召集されたシニョーリアは、メディチ家の追放、全政治犯の赦免、解放、1512年以前の共和政への復帰を決議し布告。
夕刻~夜:1527年4月23日にフィレンツェに戻っていたフランチェスコ・グイッチャルディーニは、教皇の全権委員として、まず、同盟軍導入、叛徒攻撃の強硬意見を主張するFederico da Bozzoloに、強硬方針は事態をクレメンス7世にも同盟軍にも不利に導くと説き、人心を鎮静化する策をとることを認めさせる。次いで、彼と共にシルヴィオ・パッセリーニにも同様に説き、フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレら同盟軍指揮官らの協力も得て、シルヴィオ・パッセリーニに人心鎮静策を認めさせる。
フランチェスコ・グイッチャルディーニが作成し、フランチェスコ・ヴェットーリが手を加えた、降伏を申し出る叛徒はその罪を問われないとする条項を、市外に待機する圧倒的に強大な同盟軍の前に非力さを覚える反乱貴族、市民も受諾し、ヴェッキオ宮殿から退出。市民の武装蜂起を恐れるメディチ派も条項を受諾。シルヴィオ・パッセリーニや同盟軍指揮官らが条項に署名。
シニョーリアは午前の決議、布告を取り消し、共和政はあえなく終息。
1527年5月31日
コンシーリオ・マッジョーレは、1年任期(但し今回に限って1年1ヶ月任期)で再選可能な新正義の旗手にニッコロ・カッポーニを選出。
貴族、有力市民を選出基盤とするニッコロ・カッポーニ、相互に対立しながらも彼には共に反対の態度を取るピアニョーニ(サヴォナローラ派)、アッラビアーティ(共和政急進派)、パッレスキ(メディチ派)の間で執政に難渋。
1527年6月22日
フィレンツェは、ピアニョーニを中心とするフランス支持派がニッコロ・カッポーニを代表とするカール5世支持派を圧したことにより、フランスとの新協定を結び軍の派遣を約定。
1528年2月9日
ニッコロ・カッポーニ、サン・マルコの修道士たちやピアニョーニの助言、勧奨を受け、故ジローラモ・サヴォナローラの説教に従ってキリストをフィレンツェの王とするようコンシーリオ・マッジョーレに提案。1100名の評議員の内1082名の賛成を得て採択される。
ピアニョーニの若者ら、教会や家々のメディチ家紋章、クレメンス7世の像などを撤去、破壊。
クレメンス7世のローマ逃亡(1527年12月)の頃よりすでにメディチ派との融和策をとり始めていたニッコロ・カッポーニ、市内のこれら反メディチの動向に不満を高めているクレメンス7世を慰撫するための特使を派遣することなどを考えるが、強い反メディチ感情に押されて実行できずに終わる。Baldassarre Carducciを指導者とするアッラビアーティなどからクレメンス7世と内通しているとのニッコロ・カッポーニ批判が市内で高まり、広がる。
1528年6月10日
ニッコロ・カッポーニ、アッラビアーティの過激な動向に反発して連合した貴族、有力市民、メディチ派、共和政穏健派などの支持を得、一般の予測に反して、アッラビアーティのBaldassarre Carducciなどを破り正義の旗手に再選される。
再選後もクレメンス7世の反フィレンツェ感情を和らげるため彼及び彼の側近との接触、文通を続けたニッコロ・カッポーニは、市内の根強い反メディチ感情の反発を受け、十人委員会の了承を受けずにそれらを行うことを禁止される。但しニッコロ・カッポーニはなお密かに側近との文通を続ける。
1528年8月18~19日
かねてからくすぶっていた正義の旗手の権限は過大だとする不満がニッコロ・カッポーニのクレメンス7世慰撫策への反発と結びついて正義の旗手の権限縮小の動きが活発化し、コンシーリオ・マッジョーレの選出する2年任期の20名の補佐官と過去及び現在の十人委員会とからなるプラティカを設置してこれが通常の政務を担当することに決まる。これによりニッコロ・カッポーニは政治的に対立する者たちからさらに大きく制約される。
1528年
クレメンス7世側近との文通によってクレメンス7世とカール5世の接近の動きを知ったニッコロ・カッポーニ、両者の同盟がフィレンツェに極めて大きな危険をもたらすと深く憂慮し、クレメンス7世自身と和解できないまでも彼が同盟しようとしているカール5世とは和解すべしとプラティカなどで力説するが受け入れられず、依然フランソワ1世との同盟策が大勢の支持を得る。ニッコロ・カッポーニ、落胆。
1528年
市民の期待を担っていたBande Nereがナポリ奪還戦で名実共に壊滅したことにより、改めて防衛軍、とりわけ市民自身からなる防衛軍を持つ必要があるとの意識が強まり、その努力が始まる。
1528年11月6日
18歳から40歳までの全男子市民からなる市民軍(Milizia)を設置する法案が、コンシーリオ・マッジョーレで可決される。
1528年12月初旬
画策して最大の政敵Baldassarre Carducciをフランソワ1世宮廷駐在大使に棚上げし、言わば国外に追放。
1529年2月18日
クレメンス7世とカール5世の和解、提携が進む中、フィレンツェも両者の和解、提携することが最善とするニッコロ・カッポーニの見解が、市内の反メディチ意識、伝統的親フランス感情によって排斥され、この日コンシーリオ・マッジョーレに正義の旗手辞任を申し出るが、受理されず。しかし、彼への信望、弱まる。
1529年4月16日
クレメンス7世との秘密折衝の進展を報告するローマ教皇庁からの密書を紛失。これがアッラビアーティなど反ニッコロ・カッポーニ派の手に入り、前年に禁じられたクレメンス7世との折衝を行っていたニッコロ・カッポーニを追及する声、一気に高まる。ニッコロ・カッポーニ支持、反対の両派、それぞれ集会を開いて気勢を上げる。
1529年4月17日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、クレメンス7世との秘密折衝の件でニッコロ・カッポーニを召喚、審問。反ニッコロ・カッポーニ派は最大の反逆罪の嫌疑でニッコロ・カッポーニを拷問にかけるよう主張し、ニッコロ・カッポーニは辛うじて無実を主張。審議中、Ottimatiを中心とするピエロ・サルヴィアーティ指導のニッコロ・カッポーニ支持者は、武装してシニョーリア広場に集合。Ottoは武装した者の広場からの退出を命令。
ニッコロ・カッポーニ処刑の声が挙がる中、彼の支持者たち、民衆暴動の発生を恐れて彼の正義の旗手辞任を了承。コンシーリオ・デリ・オッタンタは、新正義の旗手を翌18日に選出すると市内に布告。
1529年4月18日
コンシーリオ・マッジョーレ、正義の旗手の任期を8ヶ月に短縮すること、ニッコロ・カッポーニの事例の再発防止のため外交権をほとんど奪うなど正義の旗手の権限を大幅に縮小すること、を決めた後、アッラビアーティの指導者の1人でニッコロ・カッポーニの政敵Baldassarre Carducciの同族Francesco Carducci(1465年~1530年)を正義の旗手に選出。
以後、新正義の旗手の下、フィレンツェのクレメンス7世との対決姿勢、強まる。
1529年4月20日
コンシーリオ・デリ・オッタンタは、ニッコロ・カッポーニの弁明を聞いた上、彼の反逆罪の嫌疑を否認し、クレメンス7世との折衝禁止令に反した罪についてのみ保釈金を課すと共に5年間のフィレンツェ領内禁足を命ずる。
1529年5月4日
プラティカは、ニッコロ・カッポーニの罪について再審議し、無罪と判定。
1529年6月29日
バルセロナ協定:フィレンツェにおけるニッコロ・カッポーニの失脚、反メディチ家感情の高揚に直面してフィレンツェとの和解を断念し、メディチ家の復辟のために彼の力を必要とすると判断したクレメンス7世と、北欧における権益とイタリアにおける優位を確保するためにクレメンス7世の支持、商人を得るのが有利と判断したカール5世は、バルセロナで、クレメンス7世は彼の軍の教会領通過に当たって安全を保証すること、クレメンス7世はメディチ家をフィレンツェに復辟させること、アレッサンドロ・デ・メディチを庶出の娘マルゲリータ・ディ・パルマ(1522年~1586年)と結婚させること、クレメンス7世はCervia、ラヴェンナ、モデナ、レッジョ、Rubieraを教会領として占有すること、カール5世はクレメンス7世のフェッラーラ獲得に協力することなどを協定。
1529年6月30日
この頃、親カール5世派では親フランス政策の変更を要求する議論が公然となされ、親フランス派・反ニッコロ・カッポーニ派のトンマーゾ・ソデリーニもプラティカでカール5世への使節派遣を主張。
1529年8月17日
プラティカは、ジェノヴァのカール5世のもとに使節団、前正義の旗手で親カール5世派のニッコロ・カッポーニ、親フランソワ1世派のトンマーゾ・ソデリーニ、ラッファエーレ・ジローラミ、マッテオ・ストロッツィを送ることを決める。
1529年10月28日
ジェノヴァのカール5世のもとへの使節の役が失敗に終わって虚しく帰国する途上、激しい熱病に襲われ、死(1473年~)。
別表記
カポーニ、ニッコロ・ディ・ピエロ・カッポーニ
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
『マキアヴェリ』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
ジュリアーノ・カッポーニ Giuliano Capponi
- 生没
- 14??年~15??年
- 父
- ピエロ・カッポーニ
- 母
- コーザ・グイッチャルディーニ
- 妻
- ジネヴラ・サッケッティ
- 子
- アレッサンドロ・カッポーニ
ルイジ・カッポーニ
概要
ジュリアーノ・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
Google Books - Tavole cronologiche e sincrone della storia Fiorentina
マッダレーナ・カッポーニ Maddalena Capponi
- 生没
- 14??年~
- 父
- ピエロ・カッポーニ
- 母
- コーザ・グイッチャルディーニ
- 夫
- フランチェスコ・ヴェットーリ
概要
マッダレーナ・カッポーニは、15世紀頃のイタリアの女性。
ジーノ・カッポーニ Gino Capponi
- 生没
- 1478年10月11日~
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ネリ・カッポーニ
- 母
- ヴィオランテ・サッセッティ
- 妻
- カテリーナ・ストロッツィ
- 子
- ネリ・カッポーニ
ピエロ・カッポーニ
概要
ジーノ・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
別表記
ジーノ・カポーニ、ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ
外部リンク
参考文献
『君主論』
『フィレンツェ史』
『メディチ家の人びと』
ピエロ・カッポーニ Piero Capponi
- 生没
- 1504年5月19日~1568年5月22日
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ニッコロ・カッポーニ
- 母
- アレッサンドラ・ストロッツィ
- 妻
- シモーナ・グイッチャルディーニ
概要
ピエロ・カッポーニは、16世紀のイタリアの男性、長男。
年表
外部リンク
アレッサンドロ・カッポーニ Alessandro Capponi
- 生没
- 1512年5月31日~1587年2月15日
- 出身
- フィレンツェ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ジュリアーノ・カッポーニ
- 母
- ジネヴラ・サッケッティ
- 妻
- エリザベッタ・グイッチャルディーニ
- 子
- カッサンドラ・カッポーニ
ジュリアーノ・カッポーニ
ルカ・カッポーニ
ピエロ・カッポーニ
フランチェスコ・カッポーニ
概要
アレッサンドロ・カッポーニは、16世紀のフィレンツェの男性。
年表
外部リンク
ジョヴァンナ・カッポーニ Giovanna Capponi
- 生没
- 14??年~
- 父
- ジーノ・ディ・ネリ・カッポーニ
- 夫
- タナイ・デ・ネルリ
- 子
- ベネデット・デ・ネルリ
ジョヴァンニ・デ・ネルリ
フランチェスコ・デ・ネルリ
フィリッポ・デ・ネルリ
ベルナルド・デ・ネルリ
ネリ・デ・ネルリ
ヤコポ・デ・ネルリ
バルトロメオ・デ・ネルリ
ピエロ・デ・ネルリ
シモーネ・デ・ネルリ
カテリーナ・デ・ネルリ
ディアノーラ・デ・ネルリ
概要
ジョヴァンナ・カッポーニは、15世紀頃のイタリアの女性。
年表
1446年
この年までに、タナイ・デ・ネルリと結婚。
別表記
Giovanna di Gino di Neri Capponi
外部リンク
アゴスティーノ・カッポーニ Agostino Capponi
- 生没
- 1471年4月3日~1513年
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ベルナルド・カッポーニ
- 母
- コスタンツァ・ブオンジローラミ
概要
アゴスティーノ・カッポーニは、15世紀から16世紀のフィレンツェの男性。
年表
1513年2月18日
反メディチ陰謀発覚:ピエトロ・パオロ・ボスコリと共に中心となって若者20名ほどとジュリアーノ・デ・メディチとその甥ロレンツォ・デ・メディチを襲撃する陰謀を企んでいたことが、ソデリーニ家と親戚に当たるレンツィ家で発見されたピエトロ・パオロ・ボスコリの手になる参画者リストから発覚したとオットー・ディ・バーリアに報告され、中心の両名を初めとするリスト上の人物が逮捕、拘留され、拷問による取調べを受ける。
1513年2月22~23日
深夜、ピエトロ・パオロ・ボスコリと共に処刑される。
別表記
アゴスティーノ・ディ・ルッカ・カポーニ、アゴスティーノ・ディ・ルカ・カッポーニ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『君主論』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
グリエルモ・カッポーニ Guglielmo Capponi
- 生没
- 1449年4月11日~1513年頃
- 出身
- フィレンツェ
- 父
- ニッコロ・カッポーニ
概要
グリエルモ・カッポーニは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、聖職者。
在位
コルトーナ司教 1505年~
年表
外部リンク
参考文献
『フィレンツェ史』
ピエロ・カッポーニ Piero Capponi
- 生没
- 13??年~
- 父
- アニョーロ・カッポーニ
- 子
- ジネヴラ・カッポーニ
概要
ピエロ・カッポーニは、14世紀頃のイタリアの男性。
外部リンク
ジネヴラ・カッポーニ Ginevra Capponi
- 生没
- 1395年頃~1463年7月21日
- 父
- ピエロ・カッポーニ
- 夫
- オルシーノ・ランフレディーニ
- 子
- アントーニオ・ランフレディーニ
チェッカ・ランフレディーニ
カテリーナ・ランフレディーニ
ピエラ・ランフレディーニ
ランフレディーノ・ランフレディーニ
ヤコポ・ランフレディーニ
ジョヴァンニ・ランフレディーニ
概要
ジネヴラ・カッポーニは、14~15世紀頃のイタリアの女性。
年表
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2022年1月16日