Rucellai

ルチェッライ家

ジョヴァンニ・ルチェッライ Giovanni Rucellai

生没
1403年12月26日~1481年
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
パオロ・ルチェッライ
カテリーナ・パンドルフィーニ
ヤコパ・ストロッツィ
パンドルフォ・ルチェッライ
ベルナルド・ルチェッライ
カテリーナ・ルチェッライ

概要

 ジョヴァンニ・ルチェッライは、15世紀のイタリアの男性、商人、文筆家、フィレンツェ・ルネサンスの支援者。

年表

1403年12月26日

フィレンツェにて、生。

1428年

ヤコパ・ストロッツィと結婚。

1481年

フィレンツェにて、死。

外部リンク

 Geneanet
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス精神の深層』
 『ルネッサンス夜話』

パンドルフォ・ルチェッライ Pandolfo Rucellai

生没
1436年8月13日~1497年5月23日
出身
フィレンツェ
ジョヴァンニ・ルチェッライ
ヤコパ・ストロッツィ
カテリーナ・ピッティ
ピエラ・ルチェッライ
エリザベッタ・ルチェッライ
アレッサンドラ・ルチェッライ
ジネヴラ・ルチェッライ
ディアノーラ・ルチェッライ
パオロ・ルチェッライ

概要

 パンドルフォ・ルチェッライは、15世紀のイタリアの男性。

年表

1456年6月7日

カテリーナ・ピッティと結婚。

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』

ベルナルド・ルチェッライ Bernardo Rucellai

生没
1448年8月11日~1514年10月7日
出身
フィレンツェ
没地
フィレンツェ
ジョヴァンニ・ルチェッライ
ヤコパ・ストロッツィ
ナンニーナ・デ・メディチ
パッラ・ルチェッライ
ジョヴァンニ・ルチェッライ
コジミーノ・ルチェッライ
ルクレツィア・ルチェッライ

概要

 ベルナルド・ルチェッライは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。

年表

1485年6月17日

フィレンツェ共和国特別諮問八人会議から手紙。ジローラモ・リアリオガレオット・マンフレディの良好な関係を取り持つように。ジェノヴァとの戦争回避に繋がる。

1498年8月6日

ピサ問題についてヴェネツィアと協定を結んでピサを孤立させようと目論み、2名の使節グイダントーニオ・ヴェスプッチ、ベルナルド・ルチェッライをヴェネツィアに派遣。しかし協定を結ぶに至らずに終わる。

1506年2月15日

市民軍創設に対する反論を慰撫し、市民軍への市民の共感と支持を醸成するため、ニッコロ・マキアヴェッリに歩兵部隊のパレードをシニョーリア広場で行わせる。

この頃までに、メディチ派の有力貴族で市民軍の創設及びミケーレ・ダ・コレーリアの採用に強く反対していたベルナルド・ルチェッライが、市民軍による反ソデリーニ派の弾圧を恐れてフィレンツェを去り、アヴィニョンに向かう。

1513年3月

ジョヴァンニ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事が市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。

新教皇レオ10世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチ、大司教コジモ・デ・パッツィGiovanni Tornabuoniジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィ、ベルナルド・ルチェッライ、フィリッポ・ブォンデルモンティベネデット・デ・ネルリピエロ・グイッチャルディーニロレンツォ・モレッリネリ・カッポーニ(1452年~1519年)、ルカ・ダントーニオ・デリ・アルビッツィ、ルイジ・デッラ・ストゥファの12名が選出される。

1514年10月7日

フィレンツェにて、死。

別表記

 ルチェライ

外部リンク

 世界帝王事典
 Google Books - Caterina Sforza Volume III
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

カテリーナ・ルチェッライ Caterina Rucellai

生没
14??年~
ジョヴァンニ・ルチェッライ
ピエロ・ヴェットーリ
フランチェスコ・ヴェットーリ

概要

 カテリーナ・ルチェッライは、15世紀頃のイタリアの女性。

エリザベッタ・ルチェッライ Elisabetta Rucellai

生没
1???年~1497年
パンドルフォ・ルチェッライ
アンドレア・ストロッツィ
ピエロ・ストロッツィ
カルロ・ストロッツィ
スメラルド・ストロッツィ
カテリーナ・ストロッツィ
ジネヴラ・ストロッツィ
マッダレーナ・ストロッツィ
ジョヴァンナ(ナンニーナ)・ストロッツィ
マリーア・ストロッツィ
エリザベッタ・ストロッツィ

概要

 エリザベッタ・ルチェッライは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1481年

ロレンツォ・イル・マニーフィコの執り成しにより、アンドレア・ストロッツィと結婚。

1483年3月11日

ピエロ・ストロッツィを出産。

パッラ・ルチェッライ Palla Rucellai

生没
1473年~1543年
ベルナルド・ルチェッライ
ナンニーナ・デ・メディチ

概要

 パッラ・ルチェッライは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の政治家。

在職

 正義の旗手 1520年3月~4月

年表

1523年

ジューリオ・デ・メディチの教皇即位の祝賀行事、市を挙げて盛大かつ華麗に繰り広げられる。

新教皇クレメンス7世に祝意と恭順の意を表する使節を派遣することにし、フランチェスコ・ミネルベッティフランチェスコ・ヴェットーリロレンツォ・モレッリヤコポ・サルヴィアーティ、ジョヴァンニ・トルナブオーニ、ロレンツォ・ストロッツィ、パッラ・ルチェッライロベルト・アッチャイウオリ、アントーニオ・デ・パッツィ、ガレオット・メディチ、アレッサンドロ・プッチの11名が選出される。

1532年4月4日

バーリア、クレメンス7世の命に従い、12名(フランチェスコ・グイッチャルディーニフランチェスコ・ヴェットーリロベルト・アッチャイウオリ、マッテオ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリMatteo NiccoliniRobert Pucciパッラ・ルチェッライヤコポ・ジャンフィリアッツィ(1470年~1549年)、Agostino Diniジャンフランチェスコ・リドルフィGiuliano Capponi)のRiformatori(改革者)を選出し、政体変改の権限を与える。この12名と現正義の旗手Gianfrancesco de' Nobili、新政体について協議を開始。

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

ジョヴァンニ・ルチェッライ Giovanni Rucellai

生没
1475年10月20日~1525年4月3日
出身
フィレンツェ
没地
ローマ
ベルナルド・ルチェッライ
ナンニーナ・デ・メディチ

概要

 ジョヴァンニ・ルチェッライは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、人文主義者、詩人。

年表

1475年10月20日

フィレンツェに生。

1515年

悲劇Rosamunda(ロスムンダ)を完成。

1524年

Le api(蜜蜂)を執筆。

1525年4月3日

ローマで死。

1525年

Rosamunda刊行。

1539年

Le api刊行。

外部リンク

 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『フィレンツェ史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

コジミーノ・ルチェッライ Cosimino Rucellai

生没
14??年~1497年頃
ベルナルド・ルチェッライ
ナンニーナ・デ・メディチ
コジモ・ルチェッライ

概要

 コジミーノ・ルチェッライは、15世紀のイタリアの男性。

別表記

 Cosimo di Bernardo

ルクレツィア・ルチェッライ Lucrezia Rucellai

生没
14??年~15??年
ベルナルド・ルチェッライ
ナンニーナ・デ・メディチ
ロレンツォ・ストロッツィ
ジャンバッティスタ・ストロッツィ
パッラ・ストロッツィ

概要

 ルクレツィア・ルチェッライは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。

年表

1504年

ロレンツォ・ストロッツィと結婚。

ジャンバッティスタ・ストロッツィを出産。

外部リンク

 Geneanet

コジモ・ルチェッライ Cosimo Rucellai

生没
1495年10月8日~1519年11月2日
コジミーノ・ルチェッライ

概要

 コジモ・ルチェッライは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。オリチェルラーリの園の主催者で、ニッコロ・マキアヴェッリが『政略論』を献呈した相手。

埋葬地

外部リンク

 Treccani

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『フィレンツェ史』
 『マキアヴェリ』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2022年12月19日