Niccolò Machiavelli

ニッコロ・マキアヴェッリ

生没
1469年5月3日~1527年6月21日
ベルナルド・マキアヴェッリ
バルトロメア・デ・ネッリ
マリエッタ・コルシーニ
プリメラーナ・マキアヴェッリ
ベルナルド・マキアヴェッリ
ルドヴィーコ・マキアヴェッリ
グイド・マキアヴェッリ
ピエロ・マキアヴェッリ
バルトロメア・マキアヴェッリ
トット・マキアヴェッリ

概要

 ニッコロ・マキアヴェッリは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、フィレンツェ共和国の外交官。失脚後に権力者に雇用してもらおうと執筆活動に努め、中でも『君主論』が最も有名。

思想

 後世マキアヴェリズムという言葉を生み出した彼の思想は、性悪説に基づき、倫理を排し、小さな善よりも多勢の利益を追求することが政治家に求められる資質としたものである。

在職

 フィレンツェ共和国第二書記局第一書記官長 1498年~1512年
 フィレンツェ共和国自由と平和の十人委員会書記官 1498年~1512年

著作

 『十年史詩その一』(1494~1504年)
 『十年史詩その二』(1504~1509年)
 『君主論
 『政略論』
 『マンドラーゴラ』
 『ローマ史論』(『ティトゥス=リヴィウス初篇十巻論議』『戦争論』『フィレンツェ史』)

年表

1469年5月3日

貧しい公証人の父ベルナルド・マキアヴェッリと母バルトロメア・デ・ネッリの長男として、但し姉プリマヴェーラ4歳、及びマルゲリータ1歳に継ぐ3番目の子として誕生。

1476年5月6日

ラテン語を習い始める。

1478年4月26日

パッツィ家の陰謀

1480年

算数を習い始める。

1496年10月11日

バルトロメア・デ・ネッリ、死。

1498年3月2日

サン・マルコの聖堂でジローラモ・サヴォナローラの説教を聞く。

1498年3月9日

教皇庁駐在フィレンツェ大使Ricciardo Becchi宛ての私信で、変動しつつある状況へのジローラモ・サヴォナローラの対応と彼の1498年3月2日の説教の内容とを報告しながら、彼は時勢に応じて「マントを代え」、「嘘言」を弄していると激しく論評。

1498年5月23日

ジローラモ・サヴォナローラシニョーリア広場で火刑に処される。

1498年5月28日

政庁のSeconda Cancelleria(第二書記局)のCancelliere(書記官)候補に挙げられる。

1498年5月

軍事面での弱体振りが改めて露呈され、その対策の緊要性がフィレンツェ市内で叫ばれる。

フィレンツェ共和国はルドヴィーコ・イル・モーロの勧めに従い、かつルイ12世の同意を得、フランスに滞在中のパオロ・ヴィテッリヴィテロッツォ・ヴィテッリ兄弟を傭兵隊長として雇うことを決定。

1498年6月9日

フィレンツェ共和国はルドヴィーコ・イル・モーロの意を繋ぎ留めておくため、その姪カテリーナ・スフォルツァの子オッタヴィアーノ・リアリオをも傭兵隊長として雇う。

1498年6月19日~1512年

第二書記局の書記官の長に任命される。

1498年6月19日

治安八人委員会の28名のジローラモ・サヴォナローラ派市民の公民権を奪うなど、彼の支持者、信従者への追放、財産没収、罰金などによる処罰、報復が始まる。

しかし、ジローラモ・サヴォナローラ一人に全ての悪を負わせてことを収束するとの意向が上層有産層で働き、報復は表向きは広まらず。

1498年7月14日~1512年

自由と平和の十人委員会Segretario(書記官)にも任命されて、軍事、外交問題を担当。特に、フィレンツェの最大の懸案であるピサ制圧の問題を日常的任務として担当。

1498年8月26日

ピオンビーノの君主ヤコポ4世・ダッピアーノ(1460年頃~1510年:在位1474年~)を傭兵隊長として雇う。

1498年9月

シエナ方面からフィレンツェを攻めようとするヴェネツィアの作戦を阻止すべく、シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチとかなりの譲歩を含む5年間の休戦協定を結ぶ。

1499年3月24日

ピオンビーノの君主でフィレンツェの傭兵隊長ヤコポ4世・ダッピアーノが対ピサ戦の再開に当たって報酬の増額を要求してきたことに関して、ポンテデーラの彼のもとに派遣される。交渉妥結。傭兵軍の世界に初めて直に接触。

1499年4~6月

ピサ問題に関してDiscorso fatto al magistrato dei Dieci sopra le cose di Pisa(ピサ問題について十人委員会委員に対して行った議論(ピサ攻略論))を執筆。(但し1498年5月執筆の異説あり)。

1499年7月12日

カテリーナ・スフォルツァのもとへ使節に任命される。彼女の子オッタヴィアーノ・リアリオフィレンツェの傭兵隊長に留め、それによって彼女とその叔父ルドヴィーコ・イル・モーロフィレンツェ側に留めることが任務。

1499年7月13日

フィレンツェを出発。

1499年7月16日

フォルリ着。以後カテリーナ・スフォルツァと折衝。交渉ほぼ成立し協定の締結間近になって彼女の態度急変。結局、交渉は失敗に終わる。

1499年7月25日?

フォルリを出発。

1499年8月1日

フィレンツェに帰着。

1500年1月27日~2月5日

ミラノルイ12世の総督ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオのもとに派遣されることになったものの、ミラノの状況の変化により延期され、結局、派遣されずに終わる。

1500年2月5日

ミラノのルイ12世軍がルドヴィーコ・イル・モーロ軍の攻撃に苦戦との報を得てニッコロ・マキアヴェッリの派遣を延期。

1500年4~6月

ピサ制圧戦争に専念。

1500年5月10日

ベルナルド・マキアヴェッリ死(1432年~)。2人の姉はすでに結婚していたため、弟トット・マキアヴェッリとの2人家族になる。

1500年6月10日

ルカ・デリ・アルビッツィジョヴァンニ・バッティスタ・リドルフィに同道してピサ戦線に出る。

1500年7月9日

スイス人傭兵が氾濫を起こしルカ・デリ・アルビッツィを捕縛したことをフィレンツェシニョーリアに通報。傭兵軍の実態を深刻に体験。

1500年7月18日

ルイ12世のもとへの特派使節として、但し正式の使節ではなく共和国書記官の資格でFrancesco della Casaと共にフランスに向かって出発。

途中ボローニャでその君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオと会見。

1500年7月18日

ピサ攻略失敗の事情説明のためFrancesco della Casaとニッコロ・マキアヴェッリをルイ12世のもとに派遣。

1500年8月6日

リヨン(1500年7月26日)、Saint Pierre le Moutier(1500年8月5日)を経てヌヴェールに到着し、ルイ12世に追いつく。同日直ちに宰相ジョルジュ・ダンボワーズFlorimonde Robertet(?~1522年)や軍指揮官ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオを従えたルイ12世と会見。ルイ12世にピサ戦線での混乱について説明しピサを制圧するよう求めるが拒絶される。

1500年8月28日

自由と平和の十人委員会に俸給の増額を2度要求して認められ、この日から初めてFrancesco della Casaと同額を与えられることになる。但し、正式の使節の資格は与えられず共和国書記官に留まる。

1500年8~9月

ルイ12世に従ってモンタルジ、ムランを経てブロワに着く。Francesco della Casaが病気を理由にパリへ去ったため、これ以後、単独でルイ12世ジョルジュ・ダンボワーズと会見。

1500年10月中旬~25日

政庁の第二書記局での部下ビアージオ・ブオナッコルシアゴスティーノ・ヴェスプッチから、早く帰国しないと政庁でのポストを失う恐れがあるとの手紙を受け取る。

1500年10月下旬~11月上旬

ルイ12世に従ってブロワからナントへ移動。この地でのジョルジュ・ダンボワーズとの会見で、イタリア人は戦争を知らないと非難されたのに対し、フランス人は政治を知らないと反論。

1500年10月11日

フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1500年10月14日

フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1500年10月25日

ナントにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 11日に手紙を書き、フィレンツェが支払うべきであると要求している金額にジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿が配慮していると仰った内容を詳細に綴りました。ピエルフランチェスコ・トシンギが選出され、10日か12日に着任するということを貴殿がお書きになった3日付手紙を受け取っておらず、同様の目的でフランス王ルイ12世よりフィレンツェに派遣されたオドアルド・ブリオットが持参いたします14日付同内容の手紙以来、私は書く機会を持てずにいました。繰り返し書きましたような理由で、また、この地で獲得できるかもしれない成果をまだ期待させる彼の特徴的な性格のために、学ぶことの喜びをこれ以上与えるものはございません。さらにオドアルド・ブリオットがフィレンツェに送られることになりましたので、私は大使の到着が遅れていることについて毎日悩まされることはありませんでしたが、貴殿方がお書きになった内容を枢機卿猊下に伝える方がよろしいように思えました。特に、大使が出発し、ただいまはリヨン辺りにいるだろうということをでございます。私のそのような言葉はお気持ちを和らげるのに相応しかったように存じます。それは結構なことだし、大使は旅を急ぐべきだと、猊下は短い言葉で返答なさいました。大使がたった1人なのはどういうわけかとお聞きになったので、すぐさまお答えしました。もっとも、その仄めかしをどう捉えられるのかは分かりかねましたが。この地におけるフィレンツェの敵は必ずやいろいろな批評をするでしょう。ですが、私は用心し続けなければならず、必要となれば貴殿方の正当性を主張することを怠るわけにはいきません。続けて猊下は私に、再び手紙を書いて陛下に支払われるべき金について結論を出すことを急がせ、実行をもって示すよう要望されました。もはや巧言や約束は信用しておらず、オドアルド・ブリオットからの報告があり次第何を期待できるかはっきり知っているべきであると、断言なさいました。最大限の熱心さでそのようにいたす所存ですが、とは言え、適切な行為やフランス王の利益のためにできることをするよう促す必要性は感じられませんとお答えいたしました。それは事実によって証明されるべきだろうと猊下は仰いました。
 ここでのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿事情の状況の把握を貴殿方から仰せつかっています。さて、教皇アレクサンデル6世ロマーニャに対して行っている軍事活動から彼の国が維持されることへの疑問視と共に、説明を始めましょう。覚えておいでのように、我々の到着後すぐ、このロマーニャへの企てを支援するよう教皇が王にどのように要求し、そして王がどのように先延ばしにし約束事によって教皇を引き留めていたかを報告いたしました。その時はドイツに関してまだ期待が持てましたので、王は、当時一般に信じられていたように、これまでの連絡で書いたような理由により、教皇に対コロンナ戦でフランス軍を雇ってもらうことをお望みでした。それでもなお教皇がロマーニャに攻撃を試みるならば、陛下が、その時はまだではございましたが、ヴェネツィアロマーニャ防衛を放棄させたので、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿は親族の一員として行動するべきことに王は同意なさいました。しかし、ドイツ皇帝マクシミリアン1世の大使が未だ到着せず、陛下は日々攻撃される不安の中、いわば、教皇のロマーニャに対する計画に同意せざるを得なかったのでございます。イタリアにて起こり得る全ての可能性において、陛下は他のどのイタリアの権力者よりも教皇を頼りにしておられます。聖下は常により優れた武力を誇っており、これまで戦争での損害が少なく、克服が容易で、そして何よりも教会の長であることなどなどが理由の一部として挙げられるからです。ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿がお狙いになる方向も同様で、実質的支配者であられる猊下は、全ての貴族の羨望と憎悪の的で、それ故、他の者たちの嫉妬を退けることができるよう教皇の影響力を通して自身の威光を増大させることをお望みです。
 ヴェネツィアもまた、トルコを懸念し、ロマーニャ都市の防衛を放棄するよう王から助言されて、直ちにそうしました。教皇がキリスト教徒の全権力者を彼らの有利になるようお動かしになるのを期待してのことです。また、これらの都市がヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアの手に落ちたとしても、彼を自分たちの防衛の下に置き、息子として迎え入れ、一般に推測されているように総司令官に据えるでしょうから、大して損はないと判断を下しているのです。
 さて、ロマーニャ計画に陛下とヴェネツィアを合意に持っていたのと同じ理由で、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿への企図にも合意させるだろうと、教皇のよく知られた尽きせぬ強欲がこの共通の推量をもたらしました。そして、この恐れによって、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿はフェッラーラエルコーレ1世・デステと共に、ロマーニャの友人たちを支援することに許可を頂くべく、最大限の努力を払って陛下を説得しようとなさいました。最近になってようやく、ロベール・スチュアート・ドオービニイ閣下が彼らの要望に応えて、部下の1人をはっきりとその目的においてこちらにお送りになられました。とは言え、教会の問題であり、自身の陣営に教会へのいかなる敵対行動も認めることはできないため、干渉してはならないという返答しか陛下から得ることはできませんでした。また、つい最近のことですが、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿の特使がそのことについて陛下と話し、教皇の現在行いになっている事業で次に続く出来事において陛下の保護に頼ることができなければ主君が晒されるであろう危険に関して指摘した時、長い話し合いの後特使は次のように言われました。「聖下が実際ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿を攻撃するとなった時には、陛下は教皇とジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿双方の事情をお聞きになり、どちらが間違っているのかお決めになるでしょう」と。以上がここでのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ殿に関しての全てでございます。最上の情報源から得ました故、私はこれが事実だと信じております。
 アゴスティーノ・セメンツァに関してまだ何も申しておりませんが、何日か前ジューリオ・スクルチリアーティがローマ知事の代理人アントーニオ・コーラ殿から手紙を受け取りましたためでございます。特使アゴスティーノ・セメンツァがやってくることを知らせ、同時に彼の任務にもっと重要なことと、ここの状況にとってとても良い返答を与えるものでした。しかし、前回の連絡にて全て申し上げたように、再び話題に挙げるだけの価値が今まではなかったのでございます。
 ジューリオ・スクルチリアーティ殿に、彼が尽力してくれた貢献などに対して、貴殿方からの十分な見返りを伝えました。彼は感謝し、再び仕事の促進を図ってもらえるよう望まれておいでです。1度として貴殿方宛に手紙を出したことはございませんが、フィレンツェの彼の特定の友人たちにここの有利な情報は全て伝えておられました。
 陛下がこの地に到着されてからというもの、ド・リニー閣下、ルイ2世・ド・ラ・トレモイユ閣下、オランジュ公などの身分の高い方々がご訪問なさいましたが、ドイツ事情に関しては一言も聞かれませんでした。にもかかわらず、やはりその点に大きな不安がございますし、11月1日の万聖節を過ぎれば直ちに、宮廷はここからリヨンに移動いたします。
 ナポリからの大使はリヨンに到着予定で、フェデリーコ・ダラゴーナ王のご息女カルロッタ・ダラゴーナ姫様とギー16世・ド・ラ・ローシュ閣下の結婚は確定したものとみなされます。フェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿がこちらにおいでになるでしょう。これ以上書くことはございませんが、貴殿方のお気に召されますよう、quae bene valeant
奉公人
ニッコロ・マキアヴェッリ
ブルターニュのナントより、1500年10月25日

 追伸。この報告書に封をするところでしたが、ウゴリーノ・マルテッリがリヨンからの手紙を受け取りました。それは、とりわけ、1500年9月3日付ムラン発の私の報告書急送のために彼が支払わなければならなかった35スクードがまだ返金されていないということと、ほとんど諦めているとジョヴァンニ・マルテッリが書いたということを知らせるものでした。ウゴリーノ・マルテッリはさんざん苦情を述べ、私は全くその通りだし、貴殿方に伝えようとしか返答できませんでした。このようなわけで、私自身が支払わなくて済むようにご手配をお願いしますのと、機会がやってきた時、遠くリヨンから王の郵便局を使って重要な報告書を送らざるを得なかったブロワでの出来事のようにやむを得ずしなくて済むように、何卒お計らい申し上げます。

1500年11月21日

ルイ12世に従ってトゥールに移動。

1500年11月24日

トゥールにて、手紙をしたためる。ルイ12世が「チェーザレ・ボルジアフィレンツェボローニャを害しようとしていることが分かれば、チェーザレ・ボルジアの不利益を考慮せず直ちに行動できるように、イタリア駐在の代理人たちを強化するために書かれたものである。」と話していたのたため「安全に生活できます。」

ルイ12世フェルナンド2世・デ・アラゴンが結んだグラナダ条約について何も知らず。

1500年12月25日

この頃、帰国を認める1500年12月12日付のシニョーリアの書簡を受け取る。

この頃から1504年1月中旬にかけてNotula per uno che va ambasciadore in Francia(大使としてフランスに行く者のための簡単な覚え書き)を執筆。

1501年1月14日

フィレンツェに帰着。

1501年2月2日

内乱に対処するため全権特使としてピストイアに派遣される。

1501年7月半ば

カッシーナに派遣される。

1501年7月23日

情勢の悪化に伴いピストイアへ派遣される。

1501年8月

この頃、マリエッタ・コルシーニと結婚。

1501年8月18日

シエナへ派遣される。

1501年10月

ピストイアへ2度派遣され、敵対する2派の和平に尽力。

1502年1月

フィレンツェ共和国、打開の見通しの立たない財政危機やチェーザレ・ボルジアの脅威への対応などに関連して統治の継続、安定の必要性がさらに強く感ぜられる中、現行統治制度の改革が中産市民層でも求められ始め、改革の動き活発化する。

1502年2~4月

ピストイアの内乱に関する報告文Ragguaglio delle cose fatto dalla republica fiorentina per quietare le parti di Pistoiaフィレンツェ共和国によるピストイアの両派鎮圧化策についての報告)を執筆。

1502年4月17~25日

ピストイアの内乱に関する報告文De rebus pistoriensibus(ピストイア事件)を執筆。

1502年6月22日

フィレンツェ共和国は、ルイ12世の支持と援軍の到着するまでチェーザレ・ボルジアの動きを制止するため、その要求に従って特使を派遣することを決め、フランチェスコ・ソデリーニとニッコロ・マキアヴェッリを送り出す。

フランチェスコ・ソデリーニと共にチェーザレ・ボルジアへの使節に任命されて出発。

ポンティチェッリ到着。

1502年6月24日

夕刻、ウルビーノチェーザレ・ボルジアの陣に到着。

1502年6月25日

チェーザレ・ボルジアに呼び出されて会見。フィレンツェの政体変更を要求される。

1502年6月26日

チェーザレ・ボルジアに呼び出されて会見。結局、シニョーリアの方針通り彼には何も約束せず。

未明、ウルビーノにて、フィレンツェ共和国十人委員会宛に手紙をしたためる(1502年6月25日シニョーリア宛)。フランチェスコ・ソデリーニ署名だが、ニッコロ・マキアヴェッリの直筆。

 チェーザレ・ボルジアは堂々としており素晴らしく、軍人としては大いに進取の気性に富む。公にとってはいかなる大事も小事に見える。栄光と権力を得るためには、休息と疲労も知らない。どこから出発したか気づかれない内に新しい場所に現われる。どうすれば兵士に愛されるかを知っており、イタリアで最高の軍人を召し抱えている。これらのことが全て、公を勝利者に導き、恐るべき存在足らしめ、その上尽きることのない幸運までも味方とする。

未明、フランチェスコ・ソデリーニを残して1人でフィレンツェに向けウルビーノ出発。

1502年8月14日

ルイ12世軍指揮官Imbaultとアレッツォの返還につき協議するためルカ・デリ・アルビッツィとニッコロ・マキアヴェッリをアレッツォに派遣することを決める。

1502年8月15~19日

アレッツォ返還問題に関する使節としてルカ・デリ・アルビッツィと共にアレッツォのルイ12世軍指揮官Imbaultのもとに派遣され、滞在。

1502年9月中旬

アレッツォのルイ12世軍のもとに2度(1502年9月11日、1502年9月17日)派遣される。

1502年

フランチェスコ・ソデリーニの兄で終身正義の旗手に選出されたピエロ・ソデリーニに認められ、以後、重用される。

1502年10月4日

フィレンツェ共和国は、ルイ12世チェーザレ・ボルジアの側に立つと判断し、チェーザレ・ボルジアのもとに使節としてニッコロ・マキアヴェッリを派遣することを決める。但し、チェーザレ・ボルジアには明確な約束をせず、時間を稼いで状況の推移を見守る方針を固める。

1502年10月6日

チェーザレ・ボルジアが求めてきた使節としてイーモラの彼のもとに派遣される。

1502年10月7日

18時頃、イーモラ到着。直ちにチェーザレ・ボルジアと会見。

チェーザレ・ボルジアに対し、フィレンツェマジョーネの陰謀、同盟に加わるよう誘われたが拒絶し、ルイ12世及びチェーザレ・ボルジアとの友好関係を維持することにしたと説明。チェーザレ・ボルジアからは彼との協定を締結するよう要求されるが、シニョーリアの方針に従って明確な回答を与えず。

ウルビーノの反乱を聞く。

1502年10月8日

再びチェーザレ・ボルジアと会見。また彼との協定の締結を要求されるが、前日同様、明確な回答を与えず。

以後、傭兵隊長反乱後のチェーザレ・ボルジアの軍隊再編ミケーレ・ダ・コレーリア指揮下での農民の徴発と軍事訓練による自身の軍隊の編成、他の権力者や自分の進化に対する彼の対応、などを観察してディエチに報告。その報告はチェーザレ・ボルジアとの折衝の巧みさと共にフィレンツェで高く評価、賞賛され、終身正義の旗手に就任予定のピエロ・ソデリーニから特別の報奨金を受ける。

1502年10月13日

手紙を書く。チェーザレ・ボルジアが派遣した騎士に、パオロ・オルシーニが自らイーモラに行き、協定を結ぶことを希望。チェーザレ・ボルジアは「彼がボローニャでの活動を手放し、フィレンツェ共和国とヴェネツィア共和国領に立ち入らない」ことを条件とする。

1502年11月7日

夕刻、アガピート・ゲラルディーニと会談。

1502年11月8日

イーモラにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 同封書に書いたものはさておき、先に述べました友人アガピート・ゲラルディーニとの会話をお伝えしなければならないでしょう。彼は、チェーザレ・ボルジア公と数日間のうちに一般協定を結ぶのは得策ではなく、双方がそれを望み、共通の敵がいるのだから、緊密な提携を結ぶのは容易いと言っています。その人物は昨日1502年11月7日夕刻に面談を指定し、次のように私に言いました。「書記官殿、前の機会に、単なる一般協定に留まっていては公爵にとって少し有利でシニョーリアにとっては利益がもっと少ないから、公爵はシニョーリアに関して全てが不確定なままであることを見て取り、他の者と同盟を結ぶだろうということを、私は君に仄めかした。今夜中君とこのことについて話し合いたい。私の考えでしかないが、これから言うことは十分な根拠があってのことだ。公爵は教皇がいつお亡くなりになるともしれないことをよくご存じで、所領の保持をお望みなら、教皇のご存命中に他の礎に権力の基盤を置かざるを得ない。第一のよすがはフランス王ルイ12世、次にご自身の軍隊だ。知ってのとおり、5百近くの重騎兵、同程度の軽騎兵をすでに集めておいでで、数日内に実動可能だ。しかし、この2つの頼りの綱が間に合わず不十分である場合に備えて、隣人、仲間、友人を作ることをお考えだ。自分を守るため公爵をお守りする必要に迫られているのは、フィレンツェボローニャマントヴァフェッラーラだ。最後のものから始めると、フェッラーラとどんな同盟を結んだかについては知っていよう。巨額の持参金でのご妹君ルクレツィア・ボルジア様の結婚の他に、これまでにまたこれからもイッポーリト・デステ枢機卿の便宜を図っておられる。マントヴァとは2つのことについて交渉中で、1つはフランチェスコ2世・ゴンザーガ侯の弟君シジスモンド・ゴンザーガ様への枢機卿の帽子、1つは公爵のご息女ルイーズ・ボルジアと侯爵のご子息フェデリーコ2世・ゴンザーガの結婚だ。枢機卿の地位と引き換えに、侯爵と弟君は4千ドゥカートの手付金を払い、その合計額は後で公爵のご息女の持参金にあてられることになっている。これらのことはいずれにせよ効果を発揮し、友好関係を維持するよう計算された義務なのだ。ボローニャとは単独の交渉中で、私が見る限り、フェッラーラ公も強くお望みのため、成就するだろう。ヴァレンティーノ公閣下は乗り気でいらっしゃり、ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオにとって良い条件だ。それに実際のところ公爵はロマーニャにご自身を確立なされた時ほどにはボローニャ獲得にそれほど関心はなく、手に入れるのがいつであってもご満足されるだろう。したがって、これらお互い隣接しあう4つの国が結びつき、武装されれば、無視できない存在となる。そして、フランス王は彼らを頼りにできることをご存じで、彼らをより増強しようとなさる。君のフィレンツェ共和国については、公爵が次のように仰るのを聞いた。フィレンツェ人が自由に領地を通行するようになれば良いのに。私もそうするだろうし、フランス王と私の友人なのだから。たとえ明確な協定が結べなくとも、フィレンツェに不利となるような動きをする気はない。だがそういった協定を結ぶことができたなら、他の者との友好関係の違いをフィレンツェは発見することになろう、と。話を元に戻せば、一般協定に留まっていれば公爵よりもシニョーリアの方が不利だと言っておこう。閣下は王と先に述べた君主たちと友好を築いている一方、シニョーリアは王の他に支援者を持たず、自分たちの公爵よりもヴァレンティーノ公爵を必要としていることに気づくであろう。しかしながら、公爵が力をお貸しにならないとは決して言いたくはないが、本当に必要とする事態に陥った時には、公爵はいかなる義務も負わず、助けるも助けないも都合次第で自由なのだ。さて、君がどうすべきか質問し、私がいくつか特定のことを明示するなら、2つの傷を持つあなた方がそれを癒さなければ衰弱し死に至るかもしれないと答えるだろう。1つはピサ、他方はヴィテロッツォ・ヴィテッリだ。前者を回復して後者が潰れれば、共和国にとって大きな利益なのではないか。そして公爵に関する限りは、先の協定をシニョーリアが更新する名誉で閣下はご満足され、お金などよりも価値を見出されるだろうと言っておこう。そのようなわけで、これをもたらす意味を見出すなら、全て満足がいくように解決するだろう。ヴィテロッツォ・ヴィテッリに関して君が言うなら、公爵は彼及びオルシーニと協定したが署名をまだ受け取っていない。署名がされなければ公爵は最良の所領地をお与えになるか、協定をなかったことになさる。やはり署名されたなら「男たちがいる場所に意味がある」と言っておこう。合意に達する方が望ましいし、文字より口頭でだ。理解しておかなければならないのは、その上、公爵はオルシーニの一員を救っておく必要があるということだ。教皇がお亡くなりになった時、ローマに友人を作っておくことが重要だからだ。だが、公爵はヴィテロッツォ・ヴィテッリの名前を聞くことさえお嫌で、彼を毒蛇、トスカーナと全イタリアの火付け役と呼んでいる。彼は、これまでもこれからも全力でオルシーニが協定に署名することを阻止しようとしている。そのため、君に正義の旗手十人委員会宛に、全く私個人の意見でしかないが、私の言ったことを書き送ってもらいたい。他にも念を押してもらいたいことがある。特に、フランス王が公爵との同盟維持のためにシニョーリアをあてることは容易に起こり得ることで、フィレンツェ軍を公爵の下につけ、そうなれば給与なしで義務を負うことになる。そしてそれ故、軍務に就かなければならなくなった場合、自由意思で任務に就き、感謝してもらえる方が望ましいのだということを、君はシニョーリアに喚起しておくべきだ。」
 そうして最後に彼は、ヴィテロッツォ・ヴィテッリに対して述べたことの他重要事項について、最大限慎重に扱ってほしいと私に頼みました。私の友人の話はとても長く、この人柄の話にご満足されることでしょう。特に要求されるような事柄だけに短い返答をしておきました。第1に、公爵閣下はご自身と味方の中で賢くふるまっておられると言いました。第2に、ピサの回復と、さほど重要と考えていないもののヴィテロッツォ・ヴィテッリから身を守ることは我々の悲願であると告げました。第3に、私が彼に話した公爵との関わりについて、会話中ずっと話しておりましたが、ただし私だけの意見としてですが、このように申しました。自分の領地に報いるのに馬車しか見せないような他の君主と同じ方式で公爵閣下のお力を評価してはならず、イタリアにおける新しい権力者と考えるべきで、軍事上の契約よりも友好関係や同盟を結んだ方が良いと、言いました。加えて、君主間の同盟は軍事のみによって維持され、唯一彼らを順守させるのは武力なのだから、4分の3または5分の3の軍隊が公爵の支配下となった時、フィレンツェが自分たちの担保を見出すことはできないでしょう、と。しかし、公爵の誠意をお疑いするからではなく、貴殿方が慎重な方々だということを存じているため、このように発言したのだと彼に分かってもらおうとしました。用心深くあること、騙されるような行為のせいで危険に身を晒さないことは政府の務めなのだと。フランス王がフィレンツェに何らかのご命令をなさる可能性について彼が言及したことに関しては、陛下がフィレンツェ共和国をご自身の所有物としてお扱いになるかもしれないが、王であれ他の誰であれ不可能なことをさせることはできないと私は言いました。友人は私が話した中で公爵に関したことにのみ返答し、私が率直に誠実に話すと言って大変喜んでいました。名目上だけ3百という数字は維持されつつ、3百人は本当に2百に減らされるかもしれない。また、これを促進して、異種の10分の1がフィレンツェにか、3分の2が司教に譲歩されるかもしれないと、彼は同時に示唆してきました。他の重要な仕事があるため私の友人はこれ以上会話を続けることができず去ろうとしましたが、話した事柄を適切なところへ守秘義務を課しつつ伝えるよう私に促しました。以上が貴殿方がお読みになる、同封書でございます。
 これらの示唆が公爵に端を発するものなのか、私の友人独自のものなのかは判断しかねますが、ただ言えることは、彼が公爵の閣僚の1人であり、全てが彼自身の推測の結果に過ぎなかったとすると、最良の人間で慈悲深い性質から、彼が自分自身を欺いている可能性は十分にございます。
ニッコロ・マキアヴェッリ
イーモラ、1502年11月8日

1502年11月22日

ディエチに病気を理由に帰国を希望。

1502年12月6日

帰国希望を認められず、逆にチェーザレ・ボルジアの真意と動向を見抜くよう指示される。

1502年12月11日

チェーザレ・ボルジアがチェゼーナに軍を動かしたのを追って、朝、イーモラ出発。

夜、カストロカーロ到着。

1502年12月12日

1日遅れでチェゼーナに到着した方が宿泊所がとれやすいだろうと、終日カストロカーロ滞在。

1502年12月13日

朝、カストロカーロ出発。夜、チェゼーナ到着。

1502年12月20日(火)

夜4刻(現20時43分)、チェゼーナにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 一昨日報告書を書き、アントーニオ・ダ・セストの従者よって送りました。現在報告したいことは、今晩宮廷にいた時に、フランス人隊長全員がチェーザレ・ボルジア公閣下を訪れるところを見たことです。入る前、彼らが協議を持つ前、動きや身振りを観察して、かなり興奮しているように見えました。おそらく重要な情報があるかもしれないと思い、彼らが行った後すぐ、事実を確かめる目的でド・ビエッラ男爵を訪ねました。フィレンツェを代表して会いに来たというふりをし、特別な指示を受けたと言いました。私に感謝なさった後、わきへお寄せになり、こうおっしゃいました。「我々は2、3日のうちにミラノ公国へ出発する。今日その旨の命令を受けた」。そして、どのような目的でなのか伺ったところ、「私は知らないが、フランス人全員が去らなければならず、後を追わなければならない。明後日には出発するだろう」とおっしゃいました。そこで、アラン・ダルブレ閣下のご子息ド・ヴァンネ閣下も配下の軍と共に去るのか伺いました。「彼がどうするのか知らないが、他の者は全員が全軍と共に間違いなく出発する」と返答なさいました。これを私が肯定的に報告できるかもしれないとおっしゃり、1か月以内にミラノで集められるだろう歩兵1万5千を支払うのに十分なお金を現地で受け取ったとお話しなさいました。この予期せぬ命令は、彼らの身振りで判断する限り、全宮廷人たちを驚かせました。公に知られるようになれば、ここで何が起きているかについて詳しくさらに書くことができるでしょう。しかし現時点では、原因も起因も判明していないため、正しい判断を下すことができずにいます。とは言え、貴殿方は他の情報源から得られますでしょうし、よりよくご理解なさることでしょう。そしてロンバルディアからお聞きになるのだろうとは信じておりますが、速達で本書を送る方が良いと考えました。ところが、不安定な情勢のため配達人は明朝まで出発できませんが、明後日にフィレンツェに到着すると約束しました。
 私との会話中にド・ビエッラ閣下は、ご自身と他のフランス騎兵隊隊長たちは歩兵隊が一緒でない限り安全ではないのでどこにも行軍しないことに決めたとおっしゃいました。その理由は、私が思うに、国の人々から何らかの侮辱を受けているが、思うように反発できなかったということです。ド・ビエッラ閣下の発言が注目に値すると感じたのと同じく、このことを割愛いたしません。
 この情報の前にファーノに指示された大砲は、全てここに持ち込まれました。この新しい動きは必然的に新しい計画を生み出すでしょうから、次に何が起こるか分かりません。これらの軍隊がこちらに来てから、ラヴェンナ大司教フィリアージオ・ロヴェレッラの城が略奪されました。時間的なことに関して言えば、しかしながら、これらの城はチェゼーナに属します。この行為は、大司教がウルビーノの反乱を奨励したという事実に起因しているのです。
 私が貴殿方のお気に召しますようにということ以外に、もう書くことはありません。 ニッコロ・マキアヴェッリ
チェゼーナ、1502年12月20日
夜4刻
 本書を届けるものに1金フィオリーノ与えてくださいますよう。

1502年12月21日

ディエチに身体の不調と経済的不如意を訴えたのに対して、ピエロ・ソデリーニから活動費用を送られ、引き続き事態の推移を見極めるべく努力するよう督励される。

1502年12月23日(金)

チェゼーナにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 昨日の朝17日の最新の手紙をバーニョ経由で受け取り、指示を全て了解しました。避難した人々がいるフィレンツェ領のいずれかまたは他の場所に罪を認めない理由はないように思えます。私の意見では、我々の領土への攻撃を正当化するためには、より大きな比重の理由が必要とされるでしょう。にもかかわらず、これらの人々をより我々の支配内に引き入れなければならなかったことを慎重な行為として、平民長官へその影響を書きました。その点に疑問が生じるようなら助言いたしますが、それ以上に私ができることはないでしょう。
 チェゼーナに到着以来の私が書きました全ての手紙をお受け取りになったことと察します。最初は14日付で、グリッロによって送られました。18日付は、フィレンツェに帰るアントーニオ・ダッセットの息子の手によって。最後は20日付で、製靴業者組合の1人によって急送されました。最初の2通は、ここでの状況と、主にピサ事情関連のチェーザレ・ボルジア公との会話を書きました。20日はフランス軍の予期せぬ出発を知らせました。昨日ボローニャの方向に出発し、ここから約3マイルで止まり、カステル・ボロニェーゼで夜を過ごしたので、翌日夜にボローニャ領に到達します。全軍で騎兵4百50ほどです。この突然で予期せぬ出発は話題の中心となっており、全ての人がそれについて独自の推測を形成しています。事実を突き止めるため全力を尽くしましたが、正しい情報を得るのは不可能です。ビエッラ男爵が私に話したことを書きました。その後ド・モンティソン閣下と会話を持ち、フランス軍が国ともはや必要性をなくした公爵の意向とは外れてしまい、大軍がもたらす負担のために公爵が憎まれだしたのだと、話しました。宮廷の主要人物は、公爵はもはやこの軍隊を支えることができず、これ以上彼らを留め置けば敵よりも味方から頭痛の種をもたらすだろうと、言いました。さらに、彼らなしでも公爵は欲することを成すために十分な軍隊をまだ保持しているのだ、と。
 正しい情報を得るためにできることはし尽くしたくて、フランス軍の出発を知るや否や、以前何度かお伝えしました私に友人アガピート・ゲラルディーニに会いに行きました。とても突然に感じられ、しかも公爵の命令なのか意思に反することなのかも分からないその出発を聞いたが、私がフィレンツェにこのことを伝えることをお望みになるかもしれないというような態度でもって、ご意向に沿う用意があるということを閣下にお分かり頂くことが私の義務だと考えていると、彼に話しました。非常に明るくその委任を引き受けると答えてくれました。再び彼に会った時には、公爵にお伝えしたと言っていました。その提案をしたことをお喜びになり、少しお考えになった後閣下は「書記官に感謝を伝えよ。しかし現在は彼がそのことについて何かする必要性はないけれども、その時が来れば頼もう」と仰っていたとのこと。そしてそれ故閣下とお話しし、このことに関してもっと肯定的な何かを学ぶ機会を失ってしまいました。以上が私が言えることの全てでございます。貴殿方の知恵と、私が得ることのできない情報源からの助言によって、この事情の正しい判断を下すことができると確信しております。ここで話す人々が言うには、フランス軍の出発は2つのいずれかの原因によるもので、特にフランス王ルイ12世ロンバルディアで必要になったから、または教皇との間に暗雲が垂れ込めて陛下がご不満をお持ちだからとのことです。いずれにせよ、あまり満足せずあまり公爵に好意を抱くこともなく、フランス軍はここから去りました。しかし、彼らの性格を鑑みれば、これはさほど重要ではありません。
 公爵が現在企図していることや可能なことは誰にも分かりませんが、これまでのところ計画に変更はありません。大砲は先だって行き、昨日そこにヴァル・ディ・ラモーナから歩兵6百が到着しました。さらに一部は非常に長い間待たれていたスイス兵1千がファエンツァにいます。これ以前に公爵はすでにスイス兵、ドイツ兵、ガスコーニュ兵を併せて1千5百を抱えています。
 休日の後ピサへ向け出発すると言われております。一方で、軍事力の半分以上と評判の3分の2を失いました。そして、当初やると豪語し、また達成できるものと信じられていたことの多くを行うことができないだろうとの意見が優勢です。サン・レオグイドバルド・ダ・モンテフェルトロの手に入り、ウルビーノ公国の他の要塞は破壊されました。自分の意のままだと仰っていたカメリーノは、この知らせを聞くときその目的を変えるでしょう。アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿がラ・マルカの教皇特使で昨日ここに到着し、枢機卿の秘書がカメリーノの公爵に対する抵抗が非常に頑なだったことを私に断言しました。貴殿方はどのような措置を講じることができるかをこれでご判断なさり、常日頃の知恵でもって対処法をご存知でしょうけれども、そのフィレンツェの天敵と手を組むことになるような状況に公爵が身を置きがちだということをお忘れにはならないでしょう。
 重大なこととしてお伝えしましたピサの交渉後から、知らせを受けておりません。先の手紙で言及したような人物との会話中、内1人は私の質問を避け、公爵がすでに私にお話になったことに言及しました。もう1人は、市内から2名と市外から1名の3名のピサ代議員をこちらに送る手配をする目的で、ロレンツォ・ダッコンチオが出発したと言いました。さらに、協定を介してフィレンツェに特に好都合な何かを達成できるかどうかを公爵はお知りになりたく、最初の努力はピサ人の手からタルラティーノを獲得し、ヴィテロッツォ・ヴィテッリとの友好関係を断ち切るようにさせるとのこと。次に、兵士に金を与え、彼らを雇うことでピサの信望を得ることを期待している。そうして彼らとの友好関係を築き、フランス王の介入を通して、ピサと彼が保証を申し出るフィレンツェとの間に何らかの協定を取り付けるように努力するつもりでいる。これで簡単に成功するという風にふるまっているが、もし失敗するとすれば、それはピサが頑固で、単純に約束が果たされるのか信用がないからです。今はこの全てが事実かどうか分かりませんが、本当のところを知る過程にいる人物から情報を得てお伝えしています。お言葉ではございますが、ぜひともこの情報を注意深くお使いになるようお願い申し上げます。
 公爵の将校の1人ラミロ・デ・ロルカは、昨日ペーザロから戻り、直ちに閣下の命により塔の最下層に閉じ込められました。彼がそうされることを非常に望んでいる大衆へ生け贄にされる恐れがあります。
 生活資金を送っていただけるよう心からお願い申し上げます。公爵に付き従わなければなりませんのに、お金なしでやっていく方法を存じません。貴殿方が私のことをお決めになるまでは、ここに留まるか、カストロカーロに戻ります。 ニッコロ・マキアヴェッリ
1502年12月23日
 追伸。公爵が月曜日に出発しリーミニに行くことは確実だと言われています。貴殿方の返信を待ち、命令なしには動きません。私がこれ以上行けないことをどうかお許しください。

1502年12月25日(日)

フィレンツェ共和国政府からの20日付と22日付の2通の手紙を受け取る。

エルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスと話す。

1502年12月26日(月)

チェーザレ・ボルジアによるラミロ・デ・ロルカの政略的な、残虐な処刑の様を目の当たりに見る。

22刻(現14時48分)、チェゼーナにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 バーニョ経由で23日付の手紙を送り、フランス軍の出発について全てを、この地で話されたこと、重要なことを取りこぼしなく知らせました。
 急使アルディンゴの息子が昨日ここへ到着し、20日と22日の貴殿方からの2通の手紙を私に渡しました。その後チェーザレ・ボルジア公に謁見できるようでき得る限り努力致しましたが、まだ成功しておりません。昨日、閣下にお目通りできるものと思っていた時、歩兵を閲兵しておられましたし、降誕祭のお楽しみのため閣下とお会いすることは不可能でした。そして今朝は早い時間に全軍を率いて、ここから15マイル、リーミニからは5マイルのサンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャへお向かいになられました。宿泊先を見つけるのが困難であることから宮廷に近寄ることができませんので、明日リーミニへ向かいます。公爵がそこへ留まらず、ペーザロまで長征なさるだろうと言われておりますが。何をなされるのか誰も知らないものの、セニガッリアを攻撃すると考える者や、アンコーナと言う者もいます。軍隊に関しては、少し前に一覧をお送りいたしました他に、新しく入隊したアルバネーゼ・ストラディオテス約30、山の向こう側からと、他多数の昨日や以前に閲兵されたイタリア人の歩兵2千5百を有しておられます。騎兵50に歩兵数千をお数えになられることでしょう。十分な弾薬を備えて大砲が同じ道程をとりました。オルシーニとヴィテロッツォ・ヴィテッリがどのくらいの軍隊を有しているのかは知られておりませんが、近づいた時その点について詳しく知ることができましょう。前にお伝えしましたとおり、公爵は全てに秘密主義で、計画を誰にも打ち明けません。第一秘書官アガピート・ゲラルディーニは、閣下は実行命令を下す時まで計画せず、ただ必要に迫られた時、その時の勢いでなければ命令なさらないと、繰り返し念を押しました。
 私自身がそうなのですが、情報にご満足されませんでしたらば何卒ご容赦くださり、私の怠慢に転嫁なさらないで頂けますようお願い申し上げます。サン・レオグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ公との交渉についてはこれ以上聞いておりません。
 公爵がご自身に依然として属しているカメリーノについてお話になられたことを、前回お書きしました。続いて、アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の秘書から学んだこと、フランス軍の出発の結果少ししか希望が持てないと話したことをお書きしました。昨日エルナ司教フランシスコ・ガルセラン・デ・ロリスがそのことは手筈が整えられたも同然と仰っていました。その間、間違いを引き起こさないようにするため待たねばなりません。
 ラミロ・デ・ロルカは広場に2つに裂かれて発見され、全民衆が見ることができるようにまだ遺体はそこにあります。彼が死刑に処された理由は、閣下が人の生死を左右する力をお持ちであることを見せつける喜びと、臣下の利益のためという以外には、はっきりとは知られていません。
 上記の急使が25金フィオリーノと黒いダマスク織16ヤードを持ってきてくれまして、大変感謝申し上げます。宮廷は解散しますが、ポッピにあるとお伝えくださいました牝馬3頭はまだ呼ばれていません。ここにやってこさせるようご命令なさるまでよく世話しておくよう、貴殿方のご指示をお願いしておくようにとだけ言われました。
 最近ビエッラ男爵がボルゴ・サンセポルクロのバルトロメオ・マルチェッリ殿のために貴殿方宛にお書きになりましたが、そのバルトロメオ・マルチェッリ殿からフィレンツェに行くことができるようになるまで、出頭時間の猶予をお願いされました。裁判を担当するピエロ・マルテッリに宛てて、彼自身手紙をお出しになりました。彼をよろしくお願い申し上げます。
ニッコロ・マキアヴェッリ
1502年12月26日22刻

1502年12月29日

ペーザロにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。現存せず。

1502年12月30日

ファーノ到着。

1502年12月31日(土)

チェーザレ・ボルジアによるマジョーネ同盟の叛徒たちの処分、処刑の術策を目撃。直ちに事の生起のみを簡潔にディエチに報告。

23刻(現15時46分)、セニガッリアにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 一昨日ペーザロセニガッリアから聞いたことを書き送りました。昨日私はファーノに行きました。今日早朝、チェーザレ・ボルジア公閣下が全軍と共に出発し、ここセニガッリアに到着。オルシーニ全員とヴィテロッツォ・ヴィテッリがいて、すでにお知らせしたように、閣下のためにこの町を勝ち取りました。彼らは到着した閣下を迎え、付き添いました。しかし、一緒に中に入った途端、閣下は護衛に振り向いて彼らを捕らえるよう命令し、全員を投獄。そこは略奪の対象となりました。
 今は23刻で、ひどい混乱が広がったため、配達人がつかまらず、この手紙を果たして発送できるのか本当に分かりかねました。次の手紙にはもっと完全に書きますが、私の判断では囚人は明日には生きてはいないでしょう。
セニガッリア、12月末日  追伸。オルシーニとヴィテロッツォ・ヴィテッリの全軍も押さえられ、「裏切者は捕らえられた」云々との宣言がいたるところで発表されました。この手紙の配達人に3ドゥカート支払いました。貴殿方からももう3ドゥカートを払ってやっていただくようお願い申し上げます。また、ビアージオへの支払い分を返金していただきたい。
ニッコロ・マキアヴェッリ

1503年1月1日(日)

夜2刻(現18時52分)、チェーザレ・ボルジアに呼ばれて会見。フィレンツェ軍を彼のはいかに加えるよう穏やかに、しかし容赦なく求められる。

コリナルドにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

偉大なる貴殿方へ
 チェーザレ・ボルジア公がセニガッリアに到着後の出来事、パオロ・オルシーニ様とグラヴィーナ公フランチェスコ2世・オルシーニヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチをどのように逮捕したかについて、昨日2通の手紙を書きました。1通目はただ出来事をお伝えしましたが、2通目で細部にわたる詳細全てと、さらに公爵が私に話したこと、事の成り行きのここでの意見を報告いたしました。これらの手紙が確実に届いていない懸念がありますれば、この全てを長々と繰り返しましょう。2通を急送し、初めは6ドゥカートフィレンツェ人により、他方は3ドゥカートウルビーノ出身の者により送らせ、彼らの到着を信頼しております。ですが、細心の注意を払う意味で、全容を簡潔に反復しておきます。昨日朝閣下は全軍と共にファーノを出立しセニガッリアへ向かい、オルシーニとオリヴェロット・エウッフレドゥッチ殿が要塞以外は占領しておられました。ヴィテロッツォ・ヴィテッリは昨夜チッタ・ディ・カステッロより到着しました。彼らはかわるがわる公爵を出迎え、町内と邸宅内へ付き添いました。閣下の邸宅に入ったところで、公爵は彼らを捕縛しました。そして、郊外にいた歩兵隊を武装解除させました。また、公爵はセニガッリアから6、7マイル離れたいくつかの要塞に駐留する重騎兵を非武装化するため、軍の半分を派遣しました。夜2刻に公爵がお呼びになり、非常に落ち着き払った様子で成功の喜びをお語りになりました。昨日このことは話したが、全部は話していないとおっしゃいました。そして、我が共和国に対する態度について最も適切で親愛のこもった調子でお話になり、友好を求める動機全てを挙げ、フィレンツェによって報いられた感じをお与えになられたので、私は大変驚きました。すでに昨夜の手紙でお書きしましたので、おっしゃったこと全部は繰り返しません。
 最後に3点について貴殿方に書き送るよう私に要求して締めくくりました。初めに、フランス王ルイ12世とご自身とフィレンツェ共和国の最大の敵を滅ぼした喜びを分かち合おう。イタリアが荒廃するよう仕向けられた不和と厄介事の全ての元凶を取り除いたのだから、フィレンツェは自分に大きな恩義を受けている。次に、騎兵をボルゴ・サンセポルクロに向かわせ、そこで歩兵を募兵して、そうする必要に駆られるかもしれないチッタ・ディ・カステッロペルージアを協同で攻撃することで、全世界に自分への友好を表明するよう、自分に代わって私がフィレンツェに要求し嘆願するべき、と。セニガッリアが略奪の対象になる恐れがないようなら、即座にその方面に向かうつもりで、夕刻前に出発するだろうとおっしゃっていました。そして、友好を全面的に実証するよう要望を伝えよと、閣下は要求を繰り返されました。十分な軍事力を保持し、共和国の敵は捕らえたのだから、現在何の恐れも不信もないであろうと。最後に、ヴィテロッツォ・ヴィテッリが投獄されたことを聞いてフィレンツェ領に身を寄せる場合を考慮し、チッタ・ディ・カステッロにいるグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ公を逮捕してくれることを強く望んでいると、書き送るよう私に要望されました。我が共和国の矜持にかけて、グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ公を引き渡すことはないでしょうとお答えいたしますと、「君の意見に賛成だ。グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ公を拘束し、私の合意なしに自由を与えないだけで良いのだ」と返答なさいました。これら全てをお伝えすることを約束し、閣下は返信をお待ちでございます。
 昨日の手紙で、幾人かの確かな情報を持つ人物と我が共和国の友人から、フィレンツェに関わる見直しのためにフィレンツェが何らかの行動をするには今は絶好の機会だとの、意見を受けたことをお書きしました。フランスを頼ることができ、際立った市民の1人を今回の件の大使としてここに寄越すのにこれ以上都合の良い時はなく、先送りにすべきではないと、彼ら全員が考えております。公爵との友好的な関係を築く目的で高い地位にある名士を差し向けられるなら、閣下はご譲歩なさいましょう。このことは我が共和国に好意的な人々から繰り返し勧められていることで、私はこれまでと変わらぬ献身的な精神で貴殿方にお伝えしております。以上が、昨日の発送でもっと詳細にお知らせしたことでございます。その後、公爵はヴィテロッツォ・ヴィテッリオリヴェロット・エウッフレドゥッチを夜10刻に死刑に処されました。他はまだ生きておりまして、公爵は教皇アレクサンデル6世ジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ枢機卿とローマにいる他の者たちの身柄を確保の知らせを待っているだけで、そうなれば、全員を一斉に処刑なさるのでしょう。
 今朝早い時間にロヴェレスカ要塞は公爵に降伏し、現在公爵の所有となりました。閣下は同日朝ご出発なさり、軍と共にこちらにご到着なされました。ペルージアチッタ・ディ・カステッロともしかしたらシエナの方角に向かわれることは確かでございます。その後、公爵はローマへ移動し、多勢の意見ではそこのオルシーニの城に滞在されるだろうとのことです。ブラッチャーノを奪うおつもりでもあり、そうなれば後全ては藁を燃やすように容易になります。明日、明後日いっぱいはここに滞在し、4つに分かれてサッソフェッラートに行きます。想像でき得る限り戦争に不向きな季節であります。覆いの下で眠ることができる者が幸運だとみなされるくらいですから、軍隊とその従者たちの状態を描写したとしてもお信じにはなられますまい。
 我が共和国の反逆者にして敵であるゴーロ・ダ・ピストイア殿は、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと共にいまして、今はあるスペイン人の手でここに投獄されています。貴殿方がそんなにお支払いになる気になられますかどうか、2、3百ドゥカートをもってすれば、レットーレの1人に引き渡されるようにできるかもしれないと考えております。この事案についてご考察くださり、何らかの行動を起こす価値があるかどうかご助言ください。

 貴殿方のお気に召されますよう、quae bene valeant
ニッコロ・マキアヴェッリ
コリナルドより、1503年1月1日

1503年1月1~10日

チェーザレ・ボルジアの移動に伴ってコリナルド、サッソフェラート、グアルド(タディーノ)、アッシジを経てトルジャーノへと休みなく移動。

1503年1月2日(月)

コリナルドにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

コリナルドにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1503年1月4日(水)

サッソフェラートにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1503年1月6日(金)

グアルド・タディーノにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1503年1月8日(日)

アッシジにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1503年1月10日(火)

トルジャーノでチェーザレ・ボルジアに呼ばれて長時間会談。シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチの追放に関してフィレンツェの共同行動を強く求められる。

トルジャーノにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1503年1月12日(木)

チッタ・ディ・ピエーヴェにて、フィレンツェ共和国政府宛に手紙を書く。

1503年1月13日

チッタ・ディ・ピエーヴェでチェーザレ・ボルジアと再び長時間会談。またフィレンツェの共同行動を求められる。

1503年1月20日

後任にヤコポ・サルヴィアーティが選任されたのに伴い、チェーザレ・ボルジアの陣を発ってフィレンツェに向かう。

1503年1月23日

フィレンツェに帰着。引き続き対チェーザレ・ボルジア問題に携わりながら、Descrizione del modo tenuto dal duca Valentino nello ammazzare Vitellozzo Vitelli, Olivertto da Fermo, il signor Pagolo e il duca di Gravina Orsini(ヴァレンティーノ公がヴィテッロッツォ・ヴィテッリ、オリヴェロット・ダ・フェルモ、パゴロ及びグラヴィーナ公オルスィーニを抹殺する際に用いた方法についての叙述)を執筆。

1500年1月27日

ミラノのルイ12世の総督ジャン・ヤコポ・トリヴルツィオのもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣することを決める。

1503年3月

新増税案を弁護するため、Parole da dirle sopra la provisione del danaio, fatto un poco di preoemio e di scusa(資金準備についての、若干の序言と弁明とを伴う提言)を執筆。

1503年4月26日

パンドルフォ・ペトルッチに新十分の一税に関するアレクサンデル6世との交渉について説明するためシエナに派遣される。

1503年6月1日~8月18日

Del modo di trattare i sudditi della Valdichiana ribellati(ヴァルディキアーナの叛徒の処置の方法について)を執筆。

1503年8月28日

アレクサンデル6世の突然の死に関連してローマに派遣されることに決まる。しかし延期され、中止される。

1503年10月21日

新教皇ピウス3世の死の報が届き、急遽ローマに派遣されることに決まる。

1503年10月24日

ローマに向かって出発。

1503年10月27日

ローマ着。以後、教皇選出を巡って権謀渦巻くローマの状況やチェーザレ・ボルジアの実態をディエチに報告し続ける。

1503年11月4日

チェーザレ・ボルジアについて、自分の地位や領地に関する約束、娘ルイーズ・ボルジアユリウス2世の縁戚フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレとの婚約など、宿敵の言葉を信じすぎている、とディエチに報告。

1503年11月5日

新教皇ユリウス2世に謁見し、即位に対するフィレンツェの祝意を表明。

1503年11月6日

ユリウス2世に再び謁見し、ヴェネツィアのロマーニャ進出のもたらす危険性について訴える。同様のことを枢機卿たちにも訴え、教皇庁に反ヴェネツィア感情を醸成すべく努力。

この直後チェーザレ・ボルジアにロマーニャにおける彼の支配の崩壊とヴェネツィアの進出を伝え、それはフィレンツェの責任だと彼に激しく非難される。彼をなだめて早々に退散。

以後1503年11月半ばまで彼と再三会見しながら急速に力量を失い没落していく姿を観察し、1503年12月初めまで彼の政治生命終焉過程をディエチに報告。

1503年11月22日

ディエチに活動費の不足を訴え、俸給の増額を強く、激しく要求。

1503年11~12月

ローマで熱心な活動の間、枢機卿フランチェスコ・ソデリーニをしばしば訪ねて議論を交わし、共に評価し合う。

1503年12月3日

チェーザレ・ボルジアは「徐々に墓に足を踏み入れている」とディエチに報告。

1503年12月18日

ローマを発って帰途に着く。

1504年1月初旬

ルイ12世のもとへ派遣されることになったニッコロ・ヴァローリのいるフィレンツオーラに遣わされ、彼にいろいろの示唆を与える。

1504年1月

ローマから帰着後、ピエロ・ソデリーニやその他の有力者たちに「自身の軍隊」の必要性を説き始める。

1504年1月20日

スペイン軍の構成を前にしてのルイ12世の態勢を観察するため、先に派遣されたニッコロ・ヴァローリに加えて、特にピエロ・ソデリーニの意を受けてルイ12世のもとへ派遣されることになり、フィレンツェを出発。

1504年1月22日

ミラノ着。直ちにルイ12世ミラノ総督シャルル・ダンボワーズと会見し、ルイ12世フィレンツェ支援を要請。

1504年1月23日

ミラノを出発。

1504年1月27日

リヨンののもとに到着。

1504年1月28日

ニッコロ・ヴァローリと共に宰相ジョルジュ・ダンボワーズと会見し、ルイ12世が防衛してくれなければフィレンツェは敵(スペイン)と結ばねばならぬと支援を強く要請。

1504年1月29日

ジョルジュ・ダンボワーズに呼ばれてニッコロ・ヴァローリと共に再び会見し、フランス王とスペイン王の休戦協定の近いことを示唆される。

1504年1月30日

ニッコロ・ヴァローリと共にルイ12世に謁見し、支援を強く要請。同じく休戦協定について示唆される。

1504年3月初旬

リヨンを出発し、帰途につく。数日後フィレンツェ帰着。

1504年4月2日

ピオンビーノに派遣され、君主ヤコポ4世・ダッピアーノにその対シエナ戦争を支持することを伝えてフィレンツェとの友好を復活するよう求めながら、彼の真意を探る。数日後フィレンツェに戻る。

1504年5月24日

枢機卿フランチェスコ・ソデリーニに、「自身の軍隊」論の実現性をフィレンツェでは誰にも認められないと半ば絶望の手紙を書く。(5日後フランチェスコ・ソデリーニは激励の返答を書く)。

1504年8月下旬

レオナルド・ダ・ヴィンチらと協議しながらアルノ河の水路変更事業に参画。

1504年10月後半

Decennale primo(十年史第一部)を執筆。

1505年4月8日

フィレンツェジャンパオロ・バリオーニから傭兵隊長契約を解約するとの通告を受け、直ちに彼のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1505年4月11日

Catiglione del Lagoにいたジャンパオロ・バリオーニのもとに使節として到着。直ちに彼と3時間に渡って会談し、突然フィレンツェとの傭兵隊長契約を解約すると通告してきたその真意を探り、彼とオルシーニ一族、パンドルフォ・ペトルッチ及びルッカの間に秘密の合意があることを見抜く。

1505年5月4日

傭兵隊長に雇う交渉をするためマントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガのもとに派遣される。交渉不成立。

帰国後、ピエロ・ソデリーニによってナポリゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣されることになったが、反ソデリーニ派の強い反対にあい中止される。

1505年5月4日

フィレンツェは、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガを傭兵隊長に雇うべく侯のもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣して交渉するが失敗に終わる。

この頃?、ロベルト・アッチャイウオリ(1467年~1547年)をナポリゴンザロ・デ・コルドバのもとに派遣してバルトロメオ・ダルヴィアーノを支援せぬよう工作し了承を得るが、彼からピサ攻撃を中止するよう求められる。

1505年7月17日

バルトロメオ・ダルヴィアーノフィレンツェ攻撃の意図を通報してきたパンドルフォ・ペトルッチの底意を見抜くため、シエナの彼のもとに派遣される。直ちに彼と会談し、彼がフィレンツェに対してモンテプルチアーノの放棄を希望していることを見抜く。1505年7月末フィレンツェに戻る。

1505年7月

フィレンツェ策動の中心人物の1人パンドルフォ・ペトルッチからバルトロメオ・ダルヴィアーノフィレンツェ攻撃計画について通報を受ける。パンドルフォ・ペトルッチのもとにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1505年8月下旬

フィレンツェ軍のピサ攻撃激化し、前線に出る。

1505年9月後半

ピサ戦線での傭兵軍の実態を見て「自身の軍隊」論に確信を強め、その創設についてピエロ・ソデリーニらを強く説得。

1505年12月

以後、市民軍創設事業の事実上の責任者、指揮車として情熱的に活躍。兵の訓練のためにチェーザレ・ボルジア軍の指揮官であったミケーレ・ダ・コレーリアの採用を考える。

1505年

ピエロ・ソデリーニ、ニッコロ・マキアヴェッリの説得により市民軍創設を決意。職権でニッコロ・マキアヴェッリに徴兵を開始させる。

ピエロ・ソデリーニ、ニッコロ・マキアヴェッリの示唆により市民軍の指揮車として、かつてチェーザレ・ボルジアの腹心でその軍隊の指揮官であったミケーレ・ダ・コレーリアを採用することを決意。

市民軍がソデリーニの私兵と化すことなどを恐れる市民軍創設反対論、ソデリーニの支持、反対両派で急速に強まる。しかし実効を持ち得ずに終わる。

1506年1月1日~2月初旬

ムジェッロ地区で徴兵活動を開始。約1ヶ月続行。

1506年2月初旬

Decennale primo(十年史第一部)を、政庁での部下で友人アゴスティーノ・ヴェスプッチがおそらくBartolomeo de' Libri書房から自費で出版してくれ、作品が初めて公刊される。

これを反ピエロ・ソデリーニ派の頭目アラマンノ・サルヴィアーティにも献呈し、自身の軍隊の創設に同意を得ようとするが効果を挙げ得ずに終わる。

公刊3週間後、海賊版が出回る。アゴスティーノ・ヴェスプッチらの調査の結果その版元が分かり、政庁に訴えて販売禁止処分を勝ち取る。

1506年2月15日

手塩にかけた市民軍歩兵隊の初のパレードを実施。

この頃?、三男生まれる。

1506年2月15日

市民軍創設に対する反論を慰撫し、市民軍への市民の共感と支持を醸成するため、ニッコロ・マキアヴェッリに歩兵部隊のパレードをシニョーリア広場で行わせる。

この頃までに、メディチ派の有力貴族で市民軍の創設及びミケーレ・ダ・コレーリアの採用に強く反対していたベルナルド・ルチェッライが、市民軍による反ソデリーニ派の弾圧を恐れてフィレンツェを去り、アヴィニョンに向かう。

1506年2月26日~3月半ば

カゼンティーノ地区で徴兵を行う。

1506年6月14日

生まれて間もない三男死亡。

1506年8月25日

マルカントーニオ・コロンナ指揮の傭兵軍を要求されたことに関連してユリウス2世のもとに派遣される。

1506年8月26日~9月13日

チヴィタ・カステッラーナでユリウス2世に謁見。以後ユリウス2世の進軍に従ってヴィテルボ、オルヴィエートCastel del Lagoを経てペルージアへ。

1506年8月

ユリウス2世から、マルカントーニオ・コロンナ指揮のフィレンツェ傭兵軍が教会国家再建のためのペルージア、ボローニャ征討を支援するよう求められる。これに対して時間を稼ぎ引き延ばしをするためニッコロ・マキアヴェッリをユリウス2世のもとに派遣。

1506年9月13日

ディエチ宛の報告書簡で、ユリウス2世のペルージア入城に当たっての君主ジャンパオロ・バリオーニの対応を皮肉を込めて厳しく批判。

ペルージアでしばしばユリウス2世に謁見。

1506年9月21日

この日以降、ユリウス2世の進軍に従ってペルージアを発ち、グッビオ、ウルビーノを経てチェゼーナへ。

1506年10月5日

チェゼーナでユリウス2世軍観閲式を見、教皇軍はフィレンツェ市民軍に劣るとディエチに報告。

1506年10月9日

ユリウス2世の進軍に従ってフォルリに着く。ここでユリウス2世から再びマルカントーニオ・コロンナ指揮の傭兵軍を要求される。

1506年10月16日

ユリウス2世フィレンツェ政庁が要求を受諾することを伝え、ユリウス2世一行のフィレンツェ領通過に当たっては自ら先導役を務めると申し出る。

1506年10月20日

ユリウス2世一行を先導してイーモラに到着。

1506年10月26日

後任の使節フランチェスコ・ペピイーモラに到着。

1506年11月1日

すでにフィレンツェに帰着。

1506年11~12月

市民軍問題に専念し、Discorso dell'ordinare lo stato di Firenze alle armi(フィレンツェ国に軍隊を創設することに関する論策)を執筆。さらに市民軍創設案を起草するなど、市民軍の法制化までの一切の問題に精力的に取り組む。

1506年12月6日

自ら起草した市民軍創設案Provvisione della repubblica di Firenze per istituire il magistrato de' nove ufficiali dell' Ordinanza e Milizia fiorentina(フィレンツェ市民軍九人委員会事務局を設置するためのフィレンツェ共和国の案)がコンシーリオ・マッジョーレで承認される。

1506年12月15日

枢機卿フランチェスコ・ソデリーニから、この日付の手紙で、市民軍の創設はフィレンツェの自由を擁護する上で価値のあるものであり、「市民軍は神の恵みであって人間のものではない」と激賞される。

1507年1月12日

フィレンツェ市民軍九人委員会の書記官を兼任することに決まる。

1507年3月14日~4月17日

領内各地で徴兵に当たる。執政長官ピエロ・ソデリーニからます増す信頼され、市民軍に関して必要なこと全てに便宜を与えられる。反ピエロ・ソデリーニ派からはますます疎まれ、先にDecennale primo(十年史第一部)を献呈したアラマンノ・サルヴィアーティからはソデリーニ派の「悪党」と称される。

1507年6月

マクシミリアン1世のもとに派遣されるはずのところ、反ソデリーニ派の反対にあい実現せず。代わりにフランチェスコ・ヴェットーリが派遣される。

1507年8月9日

シエナに派遣され、ユリウス2世マクシミリアン1世に送る使節一行を監視し、その使節へのシエナの対応を観察する。間もなく帰国。

1507年12月17日

マクシミリアン1世のもとにいるフランチェスコ・ヴェットーリに新たな指令を与えるという名目上の任務で、特にピエロ・ソデリーニの意を体してマクシミリアン1世のもとに派遣されることになり、フィレンツェを出発。反ソデリーニ派からピエロ・ソデリーニの「手先」と言われる。

1507年12月17日

ピエロ・ソデリーニマクシミリアン1世の動向及び先に派遣した使節フランチェスコ・ヴェットーリの活動を監視するため、さらにニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1507年12月25日

ジュネーヴでクリスマスを過ごす。

1508年1月11日

ボルツァーノのマクシミリアン1世の宮廷に到着。

1508年1月12日

フランチェスコ・ヴェットーリと共にマクシミリアン1世に謁見。以後、マクシミリアン1世との折衝を続けながら、ドイツ(スイス)の現況、民衆の性質や生活を軍事的、政治的視点から観察。

以後、終生フランチェスコ・ヴェットーリとの交友を保つ。

1508年3月半ば

マクシミリアン1世の移動に伴ってボルツァーノからインスブルクに行き、ボルツァーノに戻り、トレントに移る。

1508年6月8日

トレントを発って帰国の途につく。

1508年6月16日

フィレンツェに帰着。

1508年6月17日

Rapporto delle cose dell'Alemagna(ドイツ現状報告)を執筆。

以後、対ピサ戦を終わらせるため、年末まで市民軍の拡大、強化に専念。サン・ミニアート、ペーシャの各地で徴兵。

1508年8月21日

市民軍を率いてポンテデーラから被占領地に攻撃をしかける。

1508年10~12月

サン・ミニアート、ヴァルディニエーヴォレ、キアンティ、Valdicecinaの各地区で徴兵。

1509年1月

ピサ戦争の前線を全て歩いて市民軍を指揮・監督。

1509年2月15日

ニッコロ・カッポーニの指揮する兵站戦を除く前線の全権を自由と平和の十人委員会から委任される。

1509年3月4日

ピサ支援中止の協定を確認・遵守させるためルッカへ派遣される。

1509年3月4日

1509年1月12日のピサ支援中止の協定を確認・遵守させるためニッコロ・マキアヴェッリをルッカに派遣。

1509年3月7日

ピサ戦争の前線総監としてアラマンノ・サルヴィアーティAntonio da Filicaiaが派遣されてきたが、兵士たちからは以後も最高指揮官とみなされ続け、そのためにアラマンノ・サルヴィアーティの怒りを買う。

1509年3月14日

ピサフィレンツェとの調停を依頼していたピオンビーノの君主ヤコポ4世・ダッピアーノのもとへ派遣され、彼及びピサの使節と会談。交渉決裂。

フィレンツェに帰着後、直ちに前線の市民軍のもとに戻る。

1509年3月14日

ピオンビーノにニッコロ・マキアヴェッリを派遣するが、ピサとの交渉決裂。

1509年5月20日

アラマンノ・サルヴィアーティらと共にピサ使節と降伏条件について交渉。

1509年5月24~26日

ピサの使節団を率いてフィレンツェに帰る。

1509年6月4日

ピサと無条件降伏条約に署名。

1509年6月8日

アラマンノ・サルヴィアーティらと共に兵を従えてピサに入る。

友人たちから対ピサ戦での活躍を激賞される。但し、戦勝記念碑に書記官の氏名は記されず、アラマンノ・サルヴィアーティAntonio da Filicaiaニッコロ・カッポーニの3名の氏名のみ記される。

1509年10月

マクシミリアン1世のもとへ派遣される使節、ジョヴァンニ・ヴェットーリオ・ソデリーニピエロ・グイッチャルディーニのための案内書として、Discorso sopra le cose della Magna e sopra 1'Imperatore(ドイツの現状とその皇帝についての論考)を執筆。

1509年11月10日

マクシミリアン1世への第2回目の献金とロンバルディアにおける戦況視察の任を帯びてマントヴァに向け出発。

1509年11月10日

マクシミリアン1世への第2回献金のため、ニッコロ・マキアヴェッリをマントヴァに派遣。

1509年11月15日

マントヴァ着。マクシミリアン1世がすでにこの地の陣を解いていたため、その使者に献金を渡す。

1509年11月21日

戦局の中心となっているヴェローナに向かう。

1509年12月8日

ヴェローナからルイジ・グイッチャルディーニ宛の手紙でCantafavola(戯言)の、すなわちDecennale second(十年史第二部)の執筆を告げる。(但し、CantafavolaCapitolo dell' ambizione(詩篇、野心)と見なす説もある)。

1509年12月11日

マントヴァに戻り、クリスマス後、帰途につく。

1510年1月2日

この日までに、フィレンツェに帰着。

1510年1月5日

トット・マキアヴェッリ、司祭に任じられる。

1510年1月

子ども生まれる。

1510年3月12~23日

フィレンツェ領民とシエナ領民の紛争解決のためモンテ・サン・サヴィーノに派遣される。

1510年5月25日~6月3日

サン・ミニアートとヴァルディニエーヴォレ地区とで徴兵。

1510年6月20日

ルイ12世のもとへ使節に任命される。

1510年6月20日

ピエロ・ソデリーニ及びディエチ、ルイ12世のもとに、これまでの彼との合意は遵守することを伝えるべく、ニッコロ・マキアヴェッリを派遣することに決める。

1510年7月7日

リヨンに到着。

1510年7月17日

ブロワのルイ12世の宮廷に到着。

1510年7月18日

朝、ルイ12世の閣僚と会い、ルイ12世フィレンツェがジェノヴァ攻撃に向かうマルカントーニオ・コロンナ指揮の教皇軍の領内通過を認めたことなどについてフィレンツェの方針を疑い、怒っていると伝えられる。

1510年7月18日

ルイ12世に謁見。彼から、ユリウス2世が自分を攻撃した場合フィレンツェはいかなる態度を取るかを直ちに明確な行動をもって示せと強く要求され、フィレンツェはこれまでの彼との合意は遵守するとシニョーリアの訓令通りに回答。

1510年8月9日

フィレンツェの仲介によってユリウス2世ルイ12世を和解させようという、ユリウス2世の駐ルイ12世宮廷大使カミッロ・レオニーニが提案し、ルイ12世が受け入れた案をシニョーリアに報告し、かつ強く勧奨。

1510年8月13日

ルイ12世に再び謁見。7月18日と同様の要求を受ける。

1510年8月18日

ディエチに活動費の不足を訴え、送金を強く求める。この後風邪で病床につく。

1510年8月27日

ルイ12世の閣僚たちに、フィレンツェがその軍を領内に留めておくこと自体がユリウス2世に対する脅威でありその軍の動きを制御するものだと強調してフィレンツェの中立的な政策を正当化し、納得させる。

1510年8月30日

ルイ12世に謁見。閣僚に対するのと同様の説明を行い、ルイ12世の要求を撤回させる。

1510年9月初旬

ルイ12世に従ってトゥールに着く。

間もなく後任の使節ロベルト・アッチャイウオリに任務を引き継いでトゥールを出発し、リヨンを経て帰国の途につく。

1510年10月19日

フィレンツェに帰着。以後、戦争に備えて市民軍に騎兵隊を増設するようピエロ・ソデリーニやディエチを説得するなど、軍事、防衛問題に専念。

この頃?、De natura gallorum(フランス人の気質について)を執筆。(但し異説多く定説なし)。

この頃?、Ritratto di cose di Francia(フランスの現状)を執筆。(但し異説多し)。

1510年11月13~29日、12月3~19日

騎兵隊の創設を正式に告示する前にまず隊を編成してしまうとの自由と平和の十人委員会の決定に従い、ヴァルディキアーナ地区で2度にわたって騎兵を徴集。

1510年12月2日

休戦協定の更新を拒否するためシエナパンドルフォ・ペトルッチのもとへ派遣される。

1510年12月2日

シエナの君主パンドルフォ・ペトルッチのもとへニッコロ・マキアヴェッリを派遣し、期限の迫った休戦協定を更新する意志のないことを通告。

1511年1月5日~1511年1月10日

ピサの要塞の視察に派遣される。

1511年1月14日

アレッツォの要塞の視察に派遣される。

1511年2月15日

前年初めに生まれた子ども死亡。

1511年2月15日

シエナに対する防衛のためのポッジョ・インペリアーレの要塞に視察に派遣される。

1511年3月14日

騎兵の徴募のためヴァルディキアーナ地区に行く。

1511年3月21日

100名の新兵を率いてフィレンツェに戻り、騎兵隊の初のパレードを行う。

1511年5月1日

新協定の締結などに関する交渉のためシエナのパンドルフォ・ペトルッチのもとへ派遣される。

1511年5月1日

シエナのパンドルフォ・ペトルッチのもとへ、新協定の締結及びモンテプルチアーノの獲得に関する交渉のためニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1511年5月5日

協定締結のためモナコの君主Luciano Grimaldiのもとへ派遣される。

1511年5月5日

モナコの君主Luciano Grimaldi(?~1523年:在位1505年~1523年)のもとへ協定締結のためニッコロ・マキアヴェッリを派遣。

1511年5月27日

モナコのLuciano Grimaldiとの協定に署名。

1511年6月5日

モナコより帰国。以後、シエナとの新協定締結問題に従事。

1511年8月24日~9月7日

さらに100名の騎兵を徴募するためValdarno di sopra、ヴァルディキアーナ、カゼンティーノの各地区へ行く。

1511年9月10日

ルイ12世に分離公会議をフィレンツェ領外で開催するよう要請する使節に任命され、出発。

1511年9月12日

パルマとピアチェンツァの間で、分離公会議派の枢機卿4名に、フィレンツェ領内に立ち入らぬよう説得。

1511年9月22日

ミラノ(1511年9月15日)を経て、ブロワのルイ12世のもとに着く。

1511年9月23日

前年9月から自分に代わって宮廷に駐在していたロベルト・アッチャイウオリと共にルイ12世に謁見。(1)ユリウス2世との戦争の終結と分離公会議の中止、そのためのフィレンツェの仲介によるユリウス2世との交渉、ないしは(2)フィレンツェ領内での公会議の開催、ないしは(3)公会議の2~3ヶ月の延期を要請。(3)のみ受け入れられる。

1511年9月

ユリウス2世の圧迫、攻撃を防ぐためルイ12世に分離公会議をフィレンツェ領外で開催するよう求めることにし、ニッコロ・マキアヴェッリをルイ12世のもとへ派遣。

1511年10月半ば

ディエチから帰国を認められる。

1511年11月2日

フィレンツェに帰着。この日直ちにピサの分離公会議に派遣するとの命を受け、会議警護のフランス兵500に対抗するための兵300と共に翌1511年11月3日早朝出発。

1511年11月5日

ピサの分離公会議に出席した枢機卿たちに会議場をフィレンツェ領外に移すよう説得。

1511年11月11日

フィレンツェに帰る。

1511年12月2日

歩兵の徴募のためロマーニャ・フィオレンティーナ地域へ行く。

1511年末~1512年初旬

この頃?、Consulto per l'elezione del capitano delle fanterie di ordinanza fiorentina(フィレンツェ市民軍歩兵隊長選抜への助言)を執筆。

1512年2月19日

市民軍騎兵隊のパレードを実施。

1512年3月30日

自ら執筆した騎兵隊設置案、Provvisione seconda per le milizie a cavallo(市民軍騎兵隊のための第2案)がコンシーリオ・マッジョーレで承認・公示され、これに関して特別の報奨を与えられる。

1512年5月6日

ピサの要塞の守備隊を再編・強化。引き続きValdarno di sotto地区で歩兵隊を強化。

1512年6月4日

パンドルフォ・ペトルッチの葬儀のためシエナへ派遣される。

1512年6月6日

ピサに帰り、騎兵隊を組織。

1512年6月15日

フィレンツェに帰る。教皇軍のフィレンツェ領通過に従いながらこれを看視。

この頃?、Ritratto delle cose della Magna(ドイツの現状)を執筆。

1512年7月

すでに戦争の兆しが見られるムジェッロ地区で徴兵に従事。さらに千名を徴集してフィオレンツオーラでスペイン軍に対抗せよとの命を受ける。

1512年8月24日

迫ってきたスペイン軍から城塞を守るためフィレンツェに呼び戻される。

1512年9月前半

この頃?、Ai Palleschi(メディチ派の人たちへ)を執筆。(但し異説あり)。

1512年9月16日以降

メディチ派の「一婦人」(氏名不詳)宛に、状況を説明しながらメディチ家に敬意を表する手紙を書く。

1512年9月

手塩にかけてきた市民軍の廃止が、メディチ派主導で新設されたバーリアにより決定される。

1512年9月29日

枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチに手紙を書き、賢明な政治的寛容を説くが全く無視される。

しかしなお、メディチ家に用いられてこれまでの職に留まれるであろうとの希望を抱き続ける。

1512年11月初旬

この頃?、Ai Palleschi(メディチ派の人たちへ)を執筆。(但し異説あり)。

1512年11月7日

全ての役職を解かれる。

1512年11月10日

1年間のフィレンツェ領内禁足、巨額の保証金の支払いを命じられる。

1512年11月17日

1年間のヴェッキオ宮殿立ち入り禁止を命じられる。但し旧市民軍関係の支出について説明を命じられ、その時に限ってヴェッキオ宮殿への立ち入りを許可される。

1512年12月10日

旧市民軍関係の支出の説明終了。以後、フィレンツェ市外から10キロ余のサンタンドレア・イン・ペルクッシーナのささやかな山荘、マキアヴェッリ邸に隠遁。

1512年12月

アルノの川向の自宅で家族と共にクリスマスを過ごす。

1512年末~1513年初旬

この頃?、Ritratto di cose di Francia(フランスの現状)を執筆。(但し異説多し)。

1513年2月19日

反メディチ陰謀参画者リストに氏名を挙げられていたことから、この陰謀に参画していたとの嫌疑を受け、逮捕、投獄される。6回に渡って吊るし(落とし)の拷問を受けるが耐える。

1513年

獄中からジュリアーノ・デ・メディチに、陰謀に全く無関係であると実情を説明し救済を求めるソネット2篇を送る。

1513年3月13日

陰謀参画の嫌疑晴れて釈放される。以後、山荘での「強いられた怠惰」の生活始まり、メディチ家に忠誠の念を伝えて登用されることに腐心。

1513年3月13日

友人でローマ教皇庁駐在フィレンツェ大使フランチェスコ・ヴェットーリに、新教皇レオ10世などメディチ家の有力者に自分を登用するよう取り次いでくれと依頼の手紙を書く。

1513年3月15日

フランチェスコ・ヴェットーリから、この日付の手紙でメディチ家への取次ぎを婉曲に断られる。しかし、なお希望を捨てず、1513年3月18日、またフランチェスコ・ヴェットーリに手紙を書く。

1513年

この頃?、ジュリアーノ・デ・メディチに山荘の近くの山で獲ったツグミ数羽を、自分を登用するよう依頼するソネットと共に送る。

1513年3月30日

フランチェスコ・ヴェットーリから、この日付の手紙でレオ10世の好意を期待することはできないと伝えられる。

1513年3~4月

この頃?、Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio(ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考)の執筆を始める。但し異説あり。

1513年4月9日、1513年4月16日

フランチェスコ・ヴェットーリに、メディチ家に自分を推薦してくれと依頼する手紙を書き続ける。後日、ソデリーニ兄弟との関係を想起されれば登用される可能性はないとの返答を受ける。

1513年4月29日

フランチェスコ・ヴェットーリに、もはや政治を論ずることも考えることも止めると手紙で書き送る。

1513年6月半ば

この頃、フランチェスコ・ヴェットーリの手紙に触発されてまた政治を論考し始める。

1513年7~8月

この頃、第一篇17~18章まで執筆したところで『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』を中断し、急遽Il Principe(君主論)を執筆し始める。(但し、この頃まで書いたものは『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』以外の作品で、後年これを『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』の冒頭に付加したとする説、『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』は後年執筆したものだけからなっているとする説など異説あり)。

1513年11月23日

フランチェスコ・ヴェットーリからこの日付の手紙でローマの彼の居宅に招かれるが動かず執筆を続ける。

1513年12月10日

Il Principe(君主論)完成:フランチェスコ・ヴェットーリ宛のこの日付の手紙で、昼は自分の持ち山を見回り、木こりと談笑し、家族と貧しい昼食を取り、近くの旗亭で遊び、夜は正装して書斎に籠もって古代の書を読み、古代人と対話していると山荘での生活を語りながら、De principatibusIl Principe)の完成を伝える。

1514年2月初旬

家族と共に山荘からフィレンツェに戻る。但し以後も1516年までしばしば山荘に長く滞在。

1514年5月半ば~6月上旬

フランチェスコ・ヴェットーリメディチ家への推薦の可否について明確な返答を督促し、断りの返答を得る。

1514年6~7月

この頃まで、前年に引き続き『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』を執筆。(但し異説あり)。

1514年8月3日

フランチェスコ・ヴェットーリ宛のこの日付の手紙で、山荘の近くの女性と激しい恋に陥ったことを伝える。極めて心優しく上品で、いくら讃えても讃えきれず、いくら愛しても愛しきれないほど素晴らしい女性だと相手を激賞し、心の高ぶりと苦しみを打ち明け、さらに、難しい大問題を考えるのは止めた、古代史を読んだり現今の出来事について考えたりしても少しも楽しくないと述べる。

1514年12月10日

なお恋を続けながらも、レオ10世にも読まれるだろうとの1514年12月3日付のフランチェスコ・ヴェットーリの手紙に触発されて、彼に、レオ10世ルイ12世、ヴェネツィア側と、マクシミリアン1世フェルナンド2世・デ・アラゴン側のいずれにつくべきかを論じ、前者の勝利が予測されるから前者につくべきだとの見解を送る。以後メディチ家による登用の期待高まる。

1514年12月20日

12月10日の見解を補充する見解をフランチェスコ・ヴェットーリに送る。

これらの見解はレオ10世や枢機卿ジューリオ・デ・メディチに読まれ、その賞賛を得る。しかし筆者登用の話題は出ずに終わる。

1514年

この年、Decennale second(十年史第二部)を執筆。(但し異説あり)。

1514年

この年?、Scritto sul modo di ricostituire l'ordinanza(市民軍再建方法について)を執筆。

1515年2月

フランチェスコ・ヴェットーリの兄弟パオロ・ヴェットーリの前年末からの尽力により、教会の旗手、ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチに登用される動き生ずる。

しかし共和政下での書記官としての活動になお憎悪を抱き続ける枢機卿ジューリオ・デ・メディチの強い反対にあって実現せずに終わり、再び私的な生活と人間関係に閉じ籠る。

前年12月フランチェスコ・ヴェットーリ宛の手紙で披瀝した見解とは逆に、レオ10世フェルナンド2世・デ・アラゴンとの同盟の道を進む。

1515年8月18日

Giovannni Vernaccia宛のこの日付の手紙で、時勢に恵まれず茫然自失状態が続いていると告げる。

1515年9月13日~1515年9月14日

前年12月10日の見解通り、フランソワ1世が勝利を収める。

1515年11月19日

Giovannni Vernaccia宛のこの日付の手紙で、運命は自分から家族と友人以外の全てを奪ったと不運を嘆く。

1515年

この年?、ルチェッライ家の庭園で開かれているコジモ・ルチェッライ(1495年~1519年)主宰の知的な集会Orti Oricellari(オリチェッロの園)に参加し始める。(但し有力異説あり)。

1515年

この年以降、Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio(ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考)執筆。(但し有力異説多し)。

1516年2月15日

Giovannni Vernaccia宛のこの日付の手紙で、運命の欲するところにより、自分は自分にとっても、家族にとっても、友人にとっても何の役にも立たない人間になってしまっていると嘆く。

1516年9月

前年9月からこの頃までの間に、ロレンツォ・デ・メディチに『君主論』を、「比類なき高みから時に下々の世界に眼をお向け下さるなら、私がいかに甚だしくも絶えることのない、不当な運命の悪意を耐え忍んでいるかをご賢察頂けることでしょう」との一文で終わる献辞を添えて贈る。

1516年

この年、恋の熱も冷め、『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』の執筆を再開。但し異説あり。

1516年

この年?、コジモ・ルチェッライ主宰の知的な集会オリチェッロの園に参加し始める。(但し有力異説あり)。

1517年6月8日

Giovannni Vernaccia宛のこの日付の手紙に、相変わらず不運にして山荘に籠もることを余儀なくされているので時の過ぎるのを1ヶ月も気づかずにいることがあると書く。

1517年半ば

コジモ・ルチェッライ主宰の知的集会オリチェッロの園に参加し始め、折から執筆中の『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考』を朗読して参加者から温かな賛辞を得る。(但し異説あり)。以後、この集会が閉じられるまで常連として参加し続け(~1519年)、参加者から物心両面での支援を受ける。

1517年

Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio(ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考)を完成。(但し異説あり)。

1517年

三行詩Asino (d' Oro)(黄金のロバ)を執筆。

1518年2月

この頃までに完成した喜劇La Mandragola(マンドゥラーゴラ)、ロレンツォ・デ・メディチの婚約祝賀行事の一環として初演される?。(但し旧異説あり)。

1518年3~4月

フィレンツェの大商人たちの債権に関わる任務を得てジェノヴァの商人のもとに行き、僅かな報酬を得る。

1518年9月

この頃までに完成した喜劇「マンドラゴラ」、ロレンツォ・デ・メディチの結婚祝賀行事の一環として初演される?。(但し新異説あり)。

1518年

この年?、オリチェッロの園の参加者の勧めで『ティト・リヴィオの最初の十篇についての論考(Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio)』を一著にまとめ、最も温かに支援し続けてくれる主催者コジモ・ルチェッライ及びツァノービ・ブォンデルモンティ(1491年~1527年)に献呈。

1519年10月末~11月初頭

オリチェッロの園の主催者コジモ・ルチェッライ死亡し(1495年)、物心両面での支援者を失う。

1519年

この年頃?、Dialogo intorno alla nostra lingua(俗語論)を執筆。(但し確証なく定説なし)。

1519年

この年頃?、短編小説Novella di Belfagor(ベルファゴール)執筆。(但し確証なし)。

1520年3月10日

この頃、ロレンツォ・デ・メディチ死後のフィレンツェの支配者、枢機卿ジューリオ・デ・メディチロレンツォ・ストロッツィなどオリチェッロの園の仲間の斡旋で面会し歓迎される。

1520年

この頃、Arte della guerra(軍事・戦争論)を執筆し続ける。

1520年4月26日

ローマに滞在しているオリチェッロの園の仲間バッティスタ・デッラ・パッラから、この日付の手紙で、レオ10世からジューリオ・デ・メディチにニッコロ・マキアヴェッリの登用を勧める書簡を預かったと伝えられる。

1520年7月9日

ジューリオ・デ・メディチの意により、メディチ家と姻戚のサルヴィアーティ家などフィレンツェの大商人が破産したルッカの大商人に対して有する債権の取立ての役を依頼され、糊口の資を得るためルッカに向かってフィレンツェを出発。

1520年8月29日

ルッカでの余暇に執筆してきたLa Vita di Castruccio Castracani da Lucca(ルッカ公カストルッチョ・カストラカーニ伝)をオリチェッロの園の仲間ツァノービ・ブォンデルモンティ、ルイジ・アラマンニに献呈。

この後Sommario delle cose della città di Lucca(ルッカ事情概要(=統治制度要論))を執筆。

1520年9月6日

この日付のツァノービ・ブォンデルモンティの返書で、彼を初めとするオリチェッロの園の仲間がLa Vita di Castruccio Castracani da Lucca(ルッカ公カストルッチョ・カストラカーニ伝)を読み、皆一致して、幾つかの細かな点の叙述に問題があるとはいえ実に優れた歴史書だと高く評価していること、のみならず早くフィレンツェに帰ってこうした小さな歴史を叙述するに留まらず大きなフィレンツェの歴史を叙述して欲しいと望んでいることなどを伝えられる。

1520年9月8~10日

フィレンツェに帰着。

1520年11月8日

ジューリオ・デ・メディチを長とするStudio fiorentino(フィレンツェ大学)と、フィレンツェ共和国歴史官としてフィレンツェ史を執筆する契約(1520年11月1日から2年間)を結ぶ。これにより、以前の共和政時の政庁のCancelliereSegretarioの俸給の半額ほどではあるが、ようやく定収入を得る。

1520年11~12月

フィレンツェ共和国歴史官の初仕事として、ジューリオ・デ・メディチの依頼によりレオ10世のためにDiscorso delle cose fiorentine dopo la morte di Lorenzo(ロレンツォ死後のフィレンツェの諸問題についての論考)を執筆——フィレンツェのLondra書房から初めて出版された際(1760年)、Discorso sopra il riformare lo stato di Firenze, ad istanza di papa Leone X(教皇レオ10世の求めによる、フィレンツェ国制改革論)と改題される——レオ10世ジューリオ・デ・メディチの指導下のメディチ家支配によって、両者の死後にコンシーリオ・マッジョーレ中心の「真の共和国」・「完璧な共和政体」を実現し得るようにすべしとのこの論文により、さらに高い評価を得る。

1521年

この頃、Istorie fiorentine(フィレンツェ史)を構想、執筆。

1521年4月13日

かつての上司・終身正義の旗手で、現在はソデリーニ一族の執拗な反メディチ策動を鎮める手立てとして利することを狙うレオ10世の庇護を得てローマに住むピエロ・ソデリーニから、直ちにローマに出て傭兵隊長プロスペロ・コロンナの秘書となるよう強く勧めるこの日付の手紙を受け取る。その俸給は現在のそれの4~5倍で、ピエロ・ソデリーニからは安い俸給でフィレンツェの歴史などを書いているより遥かに良いだろうと熱心に勧められるが、全く無視し、Istorie fiorentine(フィレンツェ史)の執筆に専心。

1521年5月11/12日

ジューリオ・デ・メディチの意により、特別諮問八人会議(かつて共和政下で自分がSegretarioを務めていたディエチに代わる軍事委員会)から、フィレンツェのフランシスコ会修道院の独立問題に関してモデナ近郊Carpiのフランシスコ会本部へ派遣され、フィレンツェを出発。メディチ政府から始めてトスカーナ外へ派遣される。

1521年5月16日

モデナに1日足らず留まってその教皇総督フランチェスコ・グイッチャルディーニと懇談した後Carpiに到着。

フランチェスコ・グイッチャルディーニ、当代の代表的権力者たちの多くと数々の交渉を重ねてきたニッコロ・マキアヴェッリのような人物がかくも些細な問題で修道士たちとの交渉役に用いられていることを慨嘆。

1521年5月20日

任務について報告するジューリオ・デ・メディチ宛のこの日付の手紙で、体調不全のためすぐ帰途につくことはできないと弁明した上、数日間モデナに滞在しフランチェスコ・グイッチャルディーニと議論を交わす。以後、彼との親交始まる。

フィレンツェ帰着後、サン・タンドレアの山荘で再びIstorie fiorentine(フィレンツェ史)の構想、執筆に専心。

1521年8月16日

フィレンツェのPhilippo di Giunta書房からArte della guerra(軍事・戦争論)を刊行。主要著作の初の、かつ生存中唯一の出版となる。

1521年9月6日

枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティからArte della guerra(軍事・戦争論)を激賞するこの日付の手紙を受け取るなど、評価が高まる。

1522年

ジューリオ・デ・メディチからフィレンツェの政体改革について見解を求められ、前年に教皇レオ10世に提出した案(Discorso delle cose fiorentine dopo la morte di Lorenzo(ロレンツォ死後のフィレンツェの諸問題についての論考))を少しく修正して提出。

1522年

この頃、弟トット・マキアヴェッリ、死。

1522年

ジューリオ・デ・メディチ暗殺の陰謀を練ったのがオリチェッロの園の主要メンバーであったことから集会は解散になり、サン・タンドレアの山荘に籠もることが多くなる。

1522年1月下旬

この頃?、外部からのソデリーニ一族の策動、攻撃と内部での反メディチ派の動きとが結びつくのを恐れた彼は、自由回復を求める市内の趨勢に応えて反メディチ的動向の強まるのを防止すべく、コンシーリオ・マッジョーレの復活などを含む政体改革を約束し、改革の詳細についてニッコロ・マキアヴェッリらに提言を求める。

1522年11月27日

2度目の、そして最後の遺言を書く。

1523年3月26日

Il Principe(君主論)の海賊ラテン語訳本、A. NifoDe regnandi peritia(統治論)がナポリCaterina di Silvestro書房から刊行される。

1523年3月26日

A. Nifo、ニッコロ・マキアヴェッリのIl Principe(君主論)の海賊本のDe regnandi peritia(統治論)をナポリで刊行。

1523年4月27日

「自身の軍隊」論を理解し、常に激励し続けてくれたフランチェスコ・ソデリーニがローマでハドリアヌス6世ジューリオ・デ・メディチによって投獄される。

1523/1524年

この年頃?、La Mandragola(マンドラゴラ)、刊行年、元を記されずにローマで(?)刊行され、3度目の刊行となる。(この時までにすでに2度、いずれも刊行年、元を記されずに刊行されている)。

1524年2月

この頃、サンタンドレアからしばしばフィレンツェ市内に出かけIl Fornaciaio(本名Iacopo Falconetti)の庭園での宴に参加。ここで若い歌謡歌手Salutati Raffacani Barberaに出会い、虜となり、彼女にも好かれ、親密な関係を結ぶ。

1524年5月17日

思想、力量、行動を評価し公私両面で励まし続けてくれた枢機卿フランチェスコ・ソデリーニ死。

1524年末

宴の主催者Il Fornaciaioや恋人Salutati Raffacani Barberaを喜ばせるべく喜劇Clizia(クリツィア)を執筆。

1524年

この年?、ローマ(又はフィレンツェ)でLa Mandragola(マンドラゴラ)を刊行。

1524年

1514年ピエロ・マキアヴェッリ誕生後この年頃までに生の娘Bartolomea (la Baccina)の子Giuliano de' Ricci、この世紀末までに偉大な祖父の書簡、写本、記録・資料などの筆写、収集、保存に尽力。

1525年1月13日

Il Fornaciaioの庭園でClizia(クリツィア)が上演される。フィレンツェの指導者たちも民衆多数も観劇し、大好評を得る。作者の名声、フィレンツェ外にも広まる。

1525年春

この頃?、Istorie fiorentine(フィレンツェ史)完成。

1525年5月初旬~下旬

クレメンス7世の使節としてマドリードのカール5世のもとに派遣されることになった枢機卿ジョヴァンニ・サルヴィアーティに秘書としてニッコロ・マキアヴェッリを伴わせるよう、ジョヴァンニ・サルヴィアーティの父ヤコポ・サルヴィアーティが再三クレメンス7世に提案するが拒絶される。

1525年5月末

Istorie fiorentine(フィレンツェ史)をクレメンス7世に提出するためにローマに行く。

1525年6月9日~1525年6月10/11日

クレメンス7世より、Istorie fiorentine(フィレンツェ史)の完成に対して報奨金を与えられる。

クレメンス7世にロマーニャで領民を武装させて「自身の軍隊」を創設するよう進言して受け入れられる。その実現のためファエンツァに駐在していたロマーニャ総督フランチェスコ・グイッチャルディーニのもとに派遣され、クレメンス7世の小勅書を持って、1525年10/11日ローマを出発。

1525年6月21日

フランチェスコ・グイッチャルディーニは、「自身の軍隊」の理論に反対はしないがそれが前提としている領民の忠誠心が現実に得られないことなどからその現実化には反対せざるを得ないとの見解をローマに送る。

クレメンス7世は、両者の見解のいずれを取るべきか決断できず。

1525年7月26日

ロマーニャにおける「自身の軍隊」創設に関するクレメンス7世の決断を待ってファエンツァに滞在していたが得られず、虚しくフィレンツェへの帰途につく。以後、フランチェスコ・グイッチャルディーニとの文通が頻繁になる。

1525年

フィレンツェ帰着後Salutati Raffacani Barberaとの仲が一段と親密になり、友人の間で評判になる。

1525年7月末~8月初旬

この頃クレメンス7世の指令によりフィレンツェ大学からの俸給が倍増される。

1525年8月

政庁官吏への被任命資格を与えられる。

1525年8月19日

フィレンツェの商人がヴェネツィア人に詐欺にあったのに関連して、その使いとしてヴェネツィアへ行く。その途中フランチェスコ・グイッチャルディーニのもとに数日間滞在し、日毎に荒廃の度を深めるイタリアの現況について語り合う。

1525年9月16日

ヴェネツィアを出発。帰途もフランチェスコ・グイッチャルディーニのもとに立ち寄る。

1525年9月末

フィレンツェ帰着。以後フランチェスコ・グイッチャルディーニとの文通がさらに盛んになる。

1525年12月~1526年1月

この頃、La Mandragola(マンドラゴラ)、フランチェスコ・グイッチャルディーニの推奨により、チェゼーナのHieronymo Soncino書房より刊行年を記されずに刊行される。

1526年2月下旬

カーニヴァルの夜ヴェネツィアでLa Mandragola(マンドラゴラ)が上演された好評を博し、再演されてさらに好評を博する。

1526年3月~4月初旬

戦争が不可避となってフィレンツェの防衛が火急の問題となったことからクレメンス7世がフィレンツェ市壁の点検、強化のために派遣してきた高名なスペイン人軍事技術者Pedro Navarraと共に市壁を視察し、その強化策を考えるよう、クレメンス7世より指示される。

1526年4月初旬

フィレンツェ市壁の点検報告及びその強化案Relazione di una vista fatta per fortificare Firenze(フィレンツェ防備強化のための視察報告)を執筆。

この案がクレメンス7世やその側近に評価されてローマに招かれ、さらに意見を具申。

1526年4月26/27日

フィレンツェ市壁管理委員会設置案を起草せよとのクレメンス7世の指示を得てローマを発ち、フィレンツェに向かう。帰着後、その案Provisione per la istituzione dell'ufficio de' cique provveditori delle mura della città di Firenze(フィレンツェ市壁管理五人会事務局設置案)を執筆。

1526年5月9日

起草したばかりの案『フィレンツェ市壁管理五人会事務局設置案』が百人委員会により承認され、Cinque Procuratori delle Mura(市壁管理五人会)が設置される。

1526年5月9日

百人委員会、クレメンス7世の指示に基づいてニッコロ・マキアヴェッリが起草した市壁管理委員会設置案を承認。これによりCinque Procuratori delle Mura(市壁管理五人会)が設置される。

1526年5月18日

この頃、新設された市壁管理五人会のProvveditore(管理人)及びCancelliere(書記官長)に任命され、14年ぶりにヴェッキオ宮殿に入って公文書を書く。助手として長男ベルナルド・マキアヴェッリを任用。

1526年6月

フィレンツェの特別諮問八人会議から戦況の視察、報告のためロンバルディアに派遣され、同盟軍に従ってミラノ近くの前線に出かける。前線から書き送ったものの内フランチェスコ・ヴェットーリに送った状況を論ずる手紙は友人たちの間で、さらにはクレメンス7世にも回覧され、賞賛される。

1526年9月10日

コニャック同盟軍におけるクレメンス7世の全権代理フランチェスコ・グイッチャルディーニからクレモーナに戦況視察に送られる。

1526年9月14日

ミラノの市壁の前の陣に戻る。

1526年10月9日

教皇軍の撤退に伴ってピアチェンツァに移動。

1526年11月上旬

モデナを経てこの頃?フィレンツェに帰着。

1526年11月30日

フィレンツェの特別諮問八人会議からモデナのフランチェスコ・グイッチャルディーニのもとへフィレンツェの窮況を伝えるために急ぎ派遣される。

1526年12月2日

モデナに着きフランチェスコ・グイッチャルディーニと会見。彼は翌1527年3月、戦局の中心パルマへ移動。

1527年2月3日

フィレンツェの特別諮問八人会議からパルマのフランチェスコ・グイッチャルディーニのもとへ、教皇軍がフィレンツェ防衛に当たるよう依頼するために派遣される。

1527年2月7日

パルマ着。フランチェスコ・グイッチャルディーニと共にコニャック同盟軍指揮官フランチェスコ・マリーア1世・デッラ・ローヴェレと会見してフィレンツェへの支援を要請。

1527年2月27日

教皇軍を追ってボローニャ着。

1527年3月31日

教皇軍を追ってイーモラ着。

1527年4月16日

フォルリからフランチェスコ・ヴェットーリに宛てたこの日付の短い手紙の中で、「自分の魂よりも祖国を愛している」、しかし我々は今、自分のこの「60年」の体験から言えば、「平和が不可欠なのに戦争は不可避だ」というかつて経験したことのない困難な状況に置かれている、と述べた上で、我々の「君主」は専ら戦争をとるか専ら平和をとるか決断できずにいるとクレメンス7世の施策を暗に批判。

1527年4月18日

フランチェスコ・グイッチャルディーニと共にBrisighellaに着。

1527年4月22日

フィレンツェ帰着。1527年4月23日フランチェスコ・グイッチャルディーニも帰着。

1527年5月2日

教皇軍と共にローマに向かって出発したフランチェスコ・グイッチャルディーニに同道か?

1527年5月

チヴィタヴェッキアで1527年5月17日のフィレンツェの政変を知り、急ぎフィレンツェに戻る。

1527年5月21日

かつてその設置と運営に全力を挙げたNove Ufficiali di Miliziaの再設置が決まる。

1527年5月21日

共和政再建:1512年以前の共和政下におけると同じ権限を持つコンシーリオ・マッジョーレが招集・開催され、治安八人委員会の委員の新選出、メディチ家独裁のシンボル的機関特別諮問八人会議の廃止とそれに代わるDieciの再建、ニッコロ・マキアヴェッリの尽力と実質上の指導の下で設置、運営されていたNove Ufficiali di Miliziaの再設置などを決議。共和政再建される。

1527年5~6月

ツァノービ・ブォンデルモンティやルイジ・アラマンニら友人たちの強い支援を得て、新共和政政庁に復職する運動を熱心に行う。

1527年6月10日

再編された十人委員会に、先の共和政下の十人委員会で自分が占めていたSegretarioとして、廃止されたばかりのメディチ家独裁のシンボル的機関特別諮問八人会議Primo SegretarioだったFrancesco Tarugiが任用されたことを知る。

1527年6月半ば

かつて自らの主導下にあった市民軍の再編が決まる中、病床に臥す。病状急速に悪化し、絶望と診断される。フランチェスコ・デル・ネッロ、ツァノービ・ブォンデルモンティ、ルイジ・アラマンニヤコポ・ナルディ(1476年~1563年)、フィリッポ・ストロッツィら友人集まる。

1527年6月16日

再設置されたNove Ufficiali di Miliziaの下に、かつてのニッコロ・マキアヴェッリ主導の市民軍の再編が決まる。

1527年6月21日

家族と修道士に見守られて、死。

1527年6月22日

サンタ・クローチェ教会に埋葬される。

住居

名言

 天国へ行くのにもっとも有効な方法は、地獄へ行く道を熟知することである。

肖像


サンティ・ディ・ティート
ニッコロ・マキアヴェッリの肖像

埋葬地

別表記

 ニッコロ・マキャヴェッリ、ニコロ・マキャッヴェリ、ニッコロ・マキャヴェリ、ニッコロ・マキャベリ

関連項目

 The Borgias: 104, 105, 107

外部リンク

 ウィキペディア
 君主論 マキャベリ マキャベリズム
 塩野七生「わが友マキアヴェッリ」の世界
 誕生日データベース
 IKEのイタリア旅行記
 BBC News
 GENEALOGIE DELLE FAMIGLIE NOBILI ITALIANE
 Google Books
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 Find A Grave
 University of Washington - [PDF] Machiavelli's Diplomatic Letters
 Niccolò Machiavelli - Opera Omnia
 Online Library of Liberty
 THE BORGIAS wiki
 Assassin's Creed Wiki
 Wikipedia - Lettera a Francesco Vettori

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『銀色のフィレンツェ』
 『「銀河英雄伝説」研究序説』
 『君主論』
 『サイレント・マイノリティ』
 『世界大百科事典』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『戦闘技術の歴史2 中世編』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『マキアヴェリ』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『メディチ家』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンスの華』
 『ルネッサンス夜話』
 『ルネサンスとは何であったか』
 『ローマ教皇検死録』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『April Blood
 『Lost Girls
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2022年11月23日