Oliverotto Euffreducci

オリヴェロット・エウッフレドゥッチ

生没
1473年~1502年12月31日
出身
フェルモ
没地
セニガッリア
ジョヴァンニ・エウッフレドゥッチ
カテリーナ・フォリアーニ

概要

 オリヴェロット・エウッフレドゥッチは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
 幼くして父親を失ってしまったため、ジョヴァンニ・フォリアーニという母方の伯父に養育された。青年期のごく初めに軍事訓練に熟達するためパオロ・ヴィテッリの下へ身を投じる。パオロ・ヴィテッリが殺された後、その弟ヴィテロッツォ・ヴィテッリの部下となり、ごく短期間に、勝れた才覚のためその軍団の第一の人物となった。そして、ジョヴァンニ・フォリアーニ他全ての有力市民たちを殺害して支配権を奪い取り、新しい民事と軍事の制度で体勢を補強した。しかし、翌年のほぼ同じくらいの時日にセニガッリアにおいて、チェーザレ・ボルジアに処刑される。

在位

 フェルモの領主

年表

1473年頃

フェルモにて、生(1475年頃)。

14??年

幼少期に、父ジョヴァンニ・エウッフレドゥッチ、死。母方のおじジョヴァンニ・フォリアーニに、2人の兄と共に引き取られる。

1495年

ヴィテッリ家に仕え、ナポリ王国征服を目指すシャルル8世軍に従軍。

1496年5月

チルチェッロの戦いで、カミッロ・ヴィテッリ、死。

1496年

パオロ・ヴィテッリが、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガに捕らえられ、サン・ジョルジョ城に捕虜となる。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリとオリヴェロット・エウッフレドゥッチは難を逃れる。

149?年

フェルモの対アスコリ・ピチェーノ戦で戦い、フェルモの最重要拠点のリパトランソーネ要塞の防衛で抜きんでる。敵の攻撃をオッフィーダ城壁まで押し返す。

1497年7月6日

フェルモ政府により、コッミッサーリオ・ジェネラーレに任命される。

1498年

サン・ピエトロ・デリ・アーリ攻囲中、兄トンマーゾ・エウッフレドゥッチ、死。

149?年

兄トンマーゾ・エウッフレドゥッチの死後、フィオレンツァのレゴラトーレに選出される。フィオレンツァはフェルモの6分割された1地区である。

149?年

ヴィテッリ家に仕え、フィレンツェ共和国のピサ戦役で、ジャンパオロ・バリオーニフランチェスコ2世・ゴンザーガヤコポ4世・ダッピアーノらと共に従軍。

1498年7月10日

この日まで、フィオレンツァ政府のレゴラトーレに選出される。

1499年1月

ヴェネツィア共和国の捕虜となり、プロヴェディトーレのドメニコ・ヴェニエールに引き渡される。

1499年

すぐ釈放され、引き続きピサと戦う。

1499年

ヴィテロッツォ・ヴィテッリは逃れたが、パオロ・ヴィテッリとオリヴェロット・エウッフレドゥッチはフィレンツェ共和国に裏切者として追及される。カーシナで、コッミッサーリオブラッチョ・マルテッリアントーニオ・カニジャーニに逮捕され、裁判のためフィレンツェに護送される。

1499年10月1日

パオロ・ヴィテッリが処刑される。

1499年10月9日

この日付で、フェルモのプリオーレフィレンツェ共和国シニョーリア宛に書簡をしたため、隊長に従っただけで正当な行為であると擁護。

1499年

釈放される。

1???年

パオロ・ヴィテッリの死に報いるため、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと連絡を取る。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリは、ミラノに行き、故パオロ・ヴィテッリへの正義をルイ12世に求める。

1500年1月

ルドヴィーコ・イル・モーロミラノ奪還戦のため、フランス軍を返還を求められたチェーザレ・ボルジアロマーニャ攻略を中断。

1500年

ヴィテロッツォ・ヴィテッリとオリヴェロット・エウッフレドゥッチは、ピサに雇われて戦う。

1500年11月

チェーザレ・ボルジア軍として、ヴィテロッツォ・ヴィテッリと共にファエンツァ攻囲戦を戦う。

1501年2月28日

ファエンツァ戦が一時中断になった間フェルモに帰還。この日、フィオレンツァ政府のレゴラトーレになる誓いを立てる。

1501年春

軽騎兵2百を指揮し、ピサに行く。

1501年5月

チェーザレ・ボルジアトスカーナに行く。

リポマランチェ(現ポマランチェ)に駐屯し、チェーザレ・ボルジアからの命令を待つ。

1501年

フィレンツェが防衛する城を攻撃するが失敗し、重傷を負う。

救出され、ピサに連れられる。

死の噂が流れ、フェルモのプリオーレは彼の親族にピサから遺体を連れて帰れるよう、フィレンツェ共和国に許可を願い出る。

回復。

1501年6月27日

まだピサに滞在していたが、フィオレンツァのプリオーレに選出される。しかし、フェルモには戻らず。

1501年7月18日

ピサから2百ドゥカートの給与を支払われる。

1501年7月

ピサ政府からヴィテロッツォ・ヴィテッリ宛の手紙を持参して、ピサ出発。

1501年7月

チェーザレ・ボルジアナポリ征服に向かうルイ12世軍に従う。この時のオリヴェロット・エウッフレドゥッチの活動は不明。カプア戦で戦ったとも言われるが、おそらく間に合わなかっただろうと思われる。

1501年12月3日

フィオレンツァのコンソーレに任命される。

1501年

ヴィテロッツォ・ヴィテッリとオリヴェロット・エウッフレドゥッチはピオンビーノ攻略に向かう。

1501年

ジューリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノ所有のカザヴェッキア城を占領。

1501年

フェルモの外交任務のためローマ到着。教会から巨額の借金をする。

任務完了後も年末までローマ滞在。ルクレツィア・ボルジアの結婚祝福に参加。

1502年1月8日

チェーザレ・ボルジアに軍を借りてフェルモ到着。兄バッティスタ・エウッフレドゥッチ、プロスペロ・マントヴァーニらと共にフェルモ掌握(1501年12月26日)。まず、おじジョヴァンニ・フォリアーニ、いとこジェンナーロ・フォリアーニ、義理のいとこラッファエーレ・デッラ・ローヴェレを殺害。

そして、ヤコポ・ブオンジョヴァンニ、ピエル・ルドヴィーコ・デル・パーパ、ピエトロ・グアルテローニなどを反逆罪で処刑。

フェルモ貴族の不和による分裂も成功の要因となり、自らを新しい領主として認めさせるために金銭や名誉で交渉。

直ちに、フェルモの制度改革の意思を表明し、「政府の投票箱」を焼き払うことで、コムーネの自由と自主性の象徴とする。

1502年1月9日

フェルモのコンシーリオ・マッジョーレで政体変革を過半数が賛成。さらに、故ジョヴァンニ・フォリアーニの財産押収を認められる。

司法官を全て廃止し、しかし、継続性を維持するため、以前と変わらず1年任期の正義の旗手に支えられたプリオーレ制は残す。

各地区を代表する2名から構成された計12名の知事(ドディチ・ゴヴェルナトーリ・デッラ・チッタ)の、これも1年任期の新公職を設ける。

平民評議会は廃止されなかったが、権限を失ってもはや召喚されず。同様の職権は、コムーネと労働組合の法令を遵守する義務を負うポデスタと市民隊長に、民事及び刑事あるいは複合事件の判決の権限を与える。

政治的、制度的統制は主に司法官の選挙制度で成り立っていたが、オリヴェロット・エウッフレドゥッチがコムーネ政府に対してほぼ絶対的権力を持つにいたり、明らかに恣意的で、もはや法定規則の対象にはなり得ず。

1502年

オリヴェロット・エウッフレドゥッチが行ったフェルモの政体改革は、少なくとも公式には、教皇に平和的に受け入れられず。教皇アレクサンデル6世は以前の政治秩序を再確立し、地方代理官の助けを借りてオリヴェロット・エウッフレドゥッチと彼の追随者を逮捕するよう、フェルモのプリオーレに抗議。

オリヴェロット・エウッフレドゥッチは、オルシーニ家、教皇政治の後援者、地方代理官、他教皇庁の多くの有力者たちに、高価な贈り物や多額のお金を持たせた代表団を送り、外交手段に訴える。

外交官のジローラモ・モンターノ、ジョヴァンニ・アントーニオ・エウッフレドゥッチ、並びに貴族の代表団には、以前の寡頭政権であるがゆえに失われた秩序と正義を回復させるため、市民からフェルモの支配権を奪うに至った、オリヴェロット・エウッフレドゥッチの自発性を動機付ける使命を与える。

1502年

教会への全負債、犯した犯罪に対する補償の合計、政府への新税の賦課という負担の大きい条件がアレクサンデル6世から課される。

フェルモ政府への新税の賦課は、教皇による公職選挙の承認を暗示しており、コムーネの自主性に干渉するものと考えて、この最後の要求には反対。

教会の干渉と多額の賦課に抗するため、ウンブリアマルケの大使と協調して、外交官ジローラモ・ベルタッキーニが交渉。

1502年

支配権の安定化とローマへの債務返済に必要な資金を調達するため、オリヴェロット・エウッフレドゥッチは引き続きフェルモの他の貴族を排除して資産を没収し、支援者には分け与える。

ジローネの要塞の修復、城郭の建設など、都市防衛の強化のためにも資金を役立てる。

海賊の攻撃から防御する為フスタ船に海岸を守らせ、また、軍事や商業海運が使用できるようエテ川の河口に港を建設することを計画。

選び抜いた人材で軍隊を組織し、自ら訓練を施し、騎兵隊と歩兵隊を創設。歩兵隊にはヴェネツィアミラノから持ち込まれた新しい武器、スコッピエッティを装備させる。

オリヴェロット・エウッフレドゥッチに帰せられる、砲兵や銃器一般に関する重要な点で、チェーザレ・ボルジアが軍事戦術分野で導入した改革計画の一部によれば、砲兵を有する歩兵が戦闘で攻撃に集中し、騎兵は支援を担う。

当時としては非常に革新的な構想で、オリヴェロット・エウッフレドゥッチはグロッタッツォリーナに大砲工場を建設。

1502年

オリヴェロット・エウッフレドゥッチは近隣の町やコムーネとの同盟の網を構築しようと試み、自分の親族や友人をポデスタに就任させ、または相互援助を提携するが、実際には、オッフィーダに対して行ったように、フェルモから逃亡者や追放者を排除することこそがその利点である。

ヴァラーノが首謀し、ジョヴァンナ・ダ・モンテフェルトロ、ジョヴァンニ・アントニーオ・アックアヴィーヴァが共謀する陰謀が、ベルナルディーノ・デル・グアルドの密告によって発覚。オリヴェロット・エウッフレドゥッチの権力基盤の本質的な脆弱性が露わとなる。

新税を課す代わりに貴族から押収することで市民から人気を博したものの、軍隊維持と、チェーザレ・ボルジア軍からの融資という莫大な費用を補えず、フェルモの財政を圧迫した結果、市民の生活水準と都市経済はその恩恵を受けられず。

聖座への政治的および経済的依存が、アレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアによる軍事分野での継続的な要求に抵抗し得るに足る、強力な独立的な力を持つことへの障害となる。

1502年7月19日

傭兵隊長グラヴィーナ公フランチェスコ2世・オルシーニと共にチェーザレ・ボルジア軍を指揮し、カメリーノを占領し君主ジューリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノを2人の息子と共に捕虜とする(1502年7月20日)。

1502年9月末

マジョーネの会合に出席。

1502年10月9日

マジョーネの会合、反ボルジア一族で共同行動を取ることなどを約定、攻守同盟を締結(1502年10月8日)。

1502年

ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノカメリーノ奪還を支援。

1502年

カメリーノに入り、スペイン人を皆殺しにする。

1502年12月

オリヴェロット・エウッフレドゥッチが、チェーザレ・ボルジアの名においてセニガッリアに入る。

ヴィテロッツォ・ヴィテッリと甥、パオロ・オルシーニと息子ファビオ・オルシーニフランチェスコ2世・オルシーニもそれぞれの軍を率いてセニガッリアに集結。ジャンパオロ・バリオーニは病気を理由にチェーザレ・ボルジアの招集を拒絶。

1502年12月30日

チェーザレ・ボルジアが通る予定である門の正面の村に軍を駐屯。他の傭兵軍は5、6マイル離れた複数の城に駐屯。歩兵1千、騎兵1百50。

1502年12月31日(土)

セニガッリアの罠:ベルナルディーノ・クアルターリ邸に入ったところを、チェーザレ・ボルジアに拘束される。

1503年1月1日(日)

夜10刻(現2時52分)、セニガッリアにて、オリヴェロット・エウッフレドゥッチとヴィテロッツォ・ヴィテッリは、チェーザレ・ボルジアにより死刑に処される。

別表記

 オリヴェロット・ダ・フェルモ、リヴェロット、オリヴェロット・エウフレドゥッチ・ダ・フェルモ、エウッフレドゥッチ、Oliverotto EufreducciOliverotto da Fermo

外部リンク

 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Tiscali Webspace
 Condottieri di ventura
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『君主論』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前