Ercole I d'Este

エルコーレ1世・デステ


生没:1431年10月26日~1505年1月25日
父:ニッコロ3世・デステ
母:リッチャルダ・ダ・サルッツォ
妻:エレオノーラ・ダラゴーナ
女:ルドヴィーカ・コンドルミエーリ
  イザベッラ・アルドゥイーノ
子:ルクレツィア・ディ・エルコーレ1世・デステ
  イザベッラ・デステ
  ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステ
  アルフォンソ1世・デステ
  フェッランテ・デステ
  ジューリオ・デステ
  イッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ
  シギスモンド・ディ・エルコーレ・デステ

概要

 エルコーレ1世・デステは、フェッラーラの男性、政治家、イタリアの傭兵隊長。

性格

 理性的で、その楽しみ事においてさえ慎重であり、性来宗教的で吝嗇の傾きがあり、ルネサンス型というよりむしろ中世的な厳格な型の人物。

年表

1431年10月26日
生。
1466年
フィレンツェピッティ陰謀事件の首謀者たちから支援を求められた兄ボルソ・デステの指示により、軍を指揮しフィレンツェ領に入る。
1467年5月10日
バルトロメオ・コッレオーニ指揮のフィレンツェ被追放者軍に加わり、この日ポー河を越えてフィレンツェ攻撃に向かう。アニョーロ・アッチャイウオリディエティサルヴィ・ネローニルカ・ピッティの陰謀の首謀者たちもこれに従う。
1471年5月27日
ボルソ・デステ急死。
1471年8月20日
モデナ・レッジョ・フェッラーラ公となる。
1472年8月
ミラノの脅威への対抗策から、兄、故ボルソ・デステが敵対してきたナポリフェッランテ・ダラゴーナとの友好を求め、フェッランテ・ダラゴーナの庶出の娘エレオノーラ・ダラゴーナとの婚約を整える。
1472年?月
ようやくシクストゥス4世によりフェッラーラ公位を承認される。
1473年7月3日
エレオノーラ・ダラゴーナ、この日、フェッラーラに到着。大祝賀行事の中で結婚。シクストゥス4世フェッランテ・ダラゴーナとの友好関係、明白化し、ヴェネツィアなど諸国はこれを警戒。
1474年11月2日
ヴェネツィア、フィレンツェのロレンツォ・イル・マニーフィコおよびミラノのガレアッツォ・マリーア・スフォルツァは、25年間の共同防衛同盟を締結し、シクストゥス4世ナポリフェッランテ・ダラゴーナ及びフェッラーラのエルコーレ1世・デステに加盟を呼びかける。しかし前二者はこれに警戒心を強め、エルコーレ1世・デステのみが加盟に同意。
1475年2月14日
エルコーレ1世・デステ、ミラノ・ヴェネツィア・フィレンツェ同盟に加盟。
1479年8月10日
教皇軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の陣営でフィレンツェを攻撃していたルドヴィーコ・イル・モーロ、この日、突如ミラノ領トルトーナに入る。間もなくこの地を制圧、占領。
この事態にボーナ・ディ・サヴォイアは、エルコーレ1世・デステに支援を求め、エルコーレ1世・デステはフィレンツェの陣の指揮を弟シギスモンド・ディ・ニッコロ・デステに任せてトルトーナに向かう。
エルコーレ1世・デステの突如の戦線離脱にフィレンツェ陣営が愕然としている中、教会軍・フェッランテ・ダラゴーナ軍の猛進撃が始まる。
1478年9月8日
フィレンツェ陣営の最高指揮官として雇い入れたフェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステが到着。直ちに軍を整えて出陣。
この頃?、さらにリーミニの君主ロベルト・マラテスタ、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びサルッツォ候ルドヴィーコ2世が、それぞれ小軍を率いて陣営に加わる。
しかしこれら小軍によっては教皇軍、フェッランテ・ダラゴーナ軍に十分対抗することはできず、フィレンツェ陣営の劣勢は続く。
1480年4月23日
フェッラーラにて、マントヴァフェデリーコ1世・ゴンザーガ宛に手紙をしたためる。
 最も誉れ高い閣下、親愛なる兄弟へ
 ルドヴィーコ・イル・モーロ様に我が娘イザベッラ・デステをお望みになり、ミラノ公母后ボーナ・ディ・サヴォイアルドヴィーコ・イル・モーロ殿下が大使ガブリエーレ・タッシーノをお寄越しになったことを、お知らせいたします。閣下とご長男との間で縁談についてすでに交渉中のため、残念ながら不可能であると返答しました。しかしながら、1歳ほど若く、ナポリフェッランテ・ダラゴーナ陛下が養女として迎え入れた別の娘がナポリにいるため、陛下にこの方々のご希望をお伝えする手紙を書き、ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステの処遇については陛下にお伺いしないわけには参りませんので、ルドヴィーコ・イル・モーロ様を親族として受け入れることにご同意になるか尋ねました。陛下がこの婚姻を承認されたことを受けて、上記の方々も満足を表明され、私もこれに応じて異論がないことをお伝えしました。閣下との間の長い密接な連帯と同盟を思えば、お喜びになってくださるでしょう。今はまだこの件に関してご内密にお願い申し上げます。
1482年5月3日
フェッラーラ戦争:ヴェネツィア共和国がフェッラーラ公国に宣戦。
ヴェネツィアに教皇シクストゥス4世ジェノヴァなどが加勢。フェッラーラナポリフェッランテ・ダラゴーナミラノルドヴィーコ・イル・モーロウルビーノフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオフィレンツェ共和国が加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1482年
ナポリからの援軍がヴェネツィア軍によって妨害される。
ペストがフェッラーラを襲い、エステ城のエルコーレ1世・デステも罹患。
1482年9月10日
フェッラーラ陣営の指揮官フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、死。
1482年11月
ポー川でフェッラーラ軍はヴェネツィア軍の侵攻を阻んでいたものの、11月ロベルト・サンセヴェリーノが越えて、拠点を築き、市門まで迫る。
148?年
病から回復。
カラブリアアルフォンソ2世・ダラゴーナの援軍がフェッラーラに到着。
1483年3月
ロベルト・サンセヴェリーノ指揮のヴェネツィア軍を撃退。
1484年8月7日
バニョーロの和:講和が結ばれ、フェッラーラ戦争終了。ヴェネツィア共和国は征服した地ロヴィーゴとポレジーネを保有し、フェッラーラ公国はアリアーノ、コルボラ、アドリア、メラーラ、カステルヌオーヴォ、フィカローロを再獲得するが、ポー川以北の領土を失う。
1485年
ポレジーネの国境問題の解決を図るため、妻エレオノーラ・ダラゴーナと共に7百名の随行員を率いてヴェネツィアに赴く。
モンフェッラートの温泉を訪れる。
1486年
グァリーノ・ダ・ヴェローナ、ベラルド、パンドルフォ・コレヌッチョマッテオ・マリーア・ボイアルドに、プラウトゥスプビリウス・テレンティウス・アフェルの演劇を三韻句法にイタリア語訳させており、この年には、フェッラーラで、プラウトゥスの「メナエクムス兄弟」が演じられる。
1487年
スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラに巡礼に向かうが、ミラノに到着したところで、教皇インノケンティウス8世に止められる。この巡礼はフランス王シャルル8世を訪れ、ポレジーネ回復のためにイタリアに介入するよう説得するための口実だという噂が広まる。
ローマへ目的地を変更し、インノケンティウス8世からイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステをエステルゴム教区長任命の許可と、ニッコロ・マリーア・デステをアドリア司教任命の許可をもらう。
1490年2月11日
マントヴァフランチェスコ2世・ゴンザーガ、10年前の婚約を実現し、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステの長女イザベッラ・デステフェッラーラで盛大華麗な結婚式を挙げる。
1491年1月17日
ルドヴィーコ・イル・モーロフェッラーラ公エルコーレ1世・デステの次女ベアトリーチェ・ディ・エルコーレ・デステと結婚。
1493年1月3日
フェッラーラにて教皇アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。長男アルフォンソ1世・デステヴァティカン宮殿滞在中の歓迎への感謝状。
1493年4月25日
アレクサンデル6世ルドヴィーコ・イル・モーロ及びヴェネツィア、ルドヴィーコ・イル・モーロとその弟、枢機卿アスカーニオ・マリーア・スフォルツァの主導により、前年のフェッランテ・ダラゴーナピエロ・イル・ファトゥオの連携に抗すべく防衛同盟を締結。ルドヴィーコ・イル・モーロとヴェネツィアはヴィルジーニオ・オルシーニが取得したチェルヴェーテリとアングイララの奪回のための軍事負担に同意し、アレクサンデル6世の身辺警護の軍を派遣。
間もなくこの同盟にシエナのパンドルフォ・ペトルッチ、ヤコポ・ペトルッチ兄弟、フェッラーラのエルコーレ1世・デステ、マントヴァフランチェスコ2世・ゴンザーガも加わる。
1493年9月20日
アレクサンデル6世は、長子チェーザレ・ボルジアを枢機卿に叙任(在位1493年~1498年)。
この時アレクサンデル6世が任じた新枢機卿10名の中にエルコーレ1世・デステの三男、14歳のイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ(1479年~1520年)を初め、シャルル8世マクシミリアン1世スフォルツァ家、ヴェネツィアなどイタリア及びヨーロッパの主要国、君主の配下の者がもれなく含まれていながら、フェッランテ・ダラゴーナの配下の者だけは含まれず。このため和解して2ヶ月足らずでアレクサンデル6世フェッランテ・ダラゴーナの関係、再び悪化の兆しを見せる。
1494年8~9月
シャルル8世は、アンジュー家ナポリ王位請求権を継承した(1480年、1481年)としてナポリ王位を請求してイタリア侵攻を開始。——1494年8月22日グルノーヴルを出発。アルプスを越えて1494年9月9日、ルドヴィーコ・イル・モーロ、彼の義父フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ、アレクサンデル6世の宿敵、枢機卿ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらを伴ってアスティに入る。この頃、シャルル・ドルレアン指揮のフランス艦隊、ラパッロの戦でナポリ艦隊を破って制海権を奪う。
イタリア戦争:イタリアは以後、国際的な戦乱の舞台と化す(第1次、~1516年:第2次、1521年~1559年)。
1495年8月20日
ジローラモ・サヴォナローラ、刊行したばかりのCompendio di revelationeをエルコーレ1世・デステに送る。
この頃、同書をアレクサンデル6世にも送る。
1499年4月6日
この日?、ヴェネツィア・ピサ・フィレンツェの三国に対し、ヴェネツィアはフィレンツェから多額の賠償金を得ることを条件に1499年4月24日までにピサ領及びカセンティーノ地区から撤兵し、ピサはその要塞を保持し貿易権を独自に確保しながらフィレンツェの支配下に入る、との仲裁案を提示。三国、それぞれ不満を残しながらもこれを受諾。
1499年4月半ば
ヴェネツィアは仲裁に従いピサ領及びカセンティーノ地区から撤兵し、ピサ支援を事実上中止。
間近に予想されるルイ12世のイタリア侵攻、ミラノ攻撃にそれぞれ対処すべくヴェネツィアやミラノ公ルドヴィーコ・イル・モーロがトスカーナから手を引いたため、ピサとフィレンツェはそれぞれ独自に、ピサは防衛の、フィレンツェは再攻撃の態勢を整える。
1499年10月6日
ミラノに入城したフランス王ルイ12世へ、戦勝の祝いのため伺候。
1500年1月18日
チェーザレ・ボルジア宛てに手紙をしたためる。フアン・ランソル・イ・モンカーダ枢機卿の死に対する哀悼。
1501年4月25日
マンフレド・マンフレディ宛てに手紙をしたためる。
1501年7月8日
ジョルジュ・ダンボワーズ宛てに手紙をしたためる。
ミラノにいるジョルジュ・ダンボワーズへの特使ジョヴァンニ・ヴァッラ宛てに手紙をしたためる。
1501年7月21日
ジョヴァンニ・ヴァッラ宛てに手紙をしたためる。1500年にヴェネツィア大使が「教皇の娘ルクレツィア・ボルジアが庶子を出産したという報告がローマよりもたらされた」との知らせを受けた。
1501年7月26日
ジョヴァンニ・ヴァッラ宛てに手紙をしたためる。
1501年8月6日
ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアの秘書で、この交渉を取り付けるのに大きな努力を払っているAgostino Huetを、ルクレツィア・ボルジアの仲介者として推挙。
1501年8月10日
アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。教皇に協議の結果を知らせ、彼の要求を理不尽なものとみなさないよう説得する。
1501年8月21日
アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。代償は少なく、ほとんど名目上のもの。
1501年8月25日
フェッラーラにて、大使ジャンルカ・カステッリーニ宛てに手紙をしたためる。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世からの手紙に返事を送るように指示。
1501年9月1日
ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。これまで彼女の美徳とアレクサンデル6世チェーザレ・ボルジアのために愛していたが、今では娘としてもよりもっと愛している。
1501年9月1日
アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。婚約が行われたこと。息子イッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ枢機卿がサン・ピエトロ大聖堂主席司祭に任命されたことに感謝。
1501年9月2日
フェッラーラにて、フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。

 高名なる閣下、親愛なる兄へ。長男アルフォンソ1世・デステがロマーニャ・ヴァレンティーノ公の妹ルクレツィア・ボルジアと結婚し、実施上の配慮によって、我が家と聖下の家との同盟に同意することを決定したことをお伝えしました。主に聖下に同意を迫られたせいで、結婚契約の全ての条項に聖下が同意なさるであろう条件でです。結果として、聖下と我々は同意に達し、キリスト教の王に執拗に契約を執行するよう迫られました。フランス大使と実際に出席した教皇代理たちを用いて、神の名の下に結婚し、今朝公表されました。急ぎ閣下にお伝えしましたのは、我々の相互関係と愛により、私共の懸念する全てのことに精通なさるべきだと考えるからであり、あなたのご都合のよいように振舞いたいと思います。
1501年9月18日?
ローマの雄弁家宛てに手紙をしたためる。1501年9月23日のローマ駐在大使からの手紙に書かれていた、現在マントヴァにいるジョヴァンニ・スフォルツァフェッラーラでの結婚式に招待されることのないようにとのアレクサンデル6世の要請に、約束する返答を与える。
1501年9月19日
ミラノの外交官宛に手紙をしたためる。ジョルジュ・ダンボワーズ枢機卿に、「その方面に卓越した名匠」レオナルド・ダ・ヴィンチがブロンズ像のために制作したフランチェスコ1世・スフォルツァ騎馬像の模型を求める。
1501年
フランス王ルイ12世ミラノ滞在中にフランチェスコ1世・スフォルツァ騎馬像の模型を見て感銘したので、とジョルジュ・ダンボワーズに断られる。
1501年9月26日
ジェラルド・サラチェーニ宛てに手紙をしたためる。
1501年10月1日
ジェラルド・サラチェーニ宛てに手紙をしたためる。
1501年10月3日
ローマの全権大使宛てに手紙をしたためる。

 我々は何ら合意に達することがなかったので、ミケーレ・レモリネスがここから出立した後、アレクサンデル6世へのマクシミリアン1世の態度について聖下に何ら申し上げはしなかった。皇帝と会談した信用に足る人物から、皇帝がとても不愉快に感じていて、我々と同盟を結んだ聖下のことを遠慮のない言葉で批評されている。この手紙と一緒に送った写しを読めば分かるが、婚約以前の我々宛ての手紙でも同盟を結ばないように助言されていた。それらの手紙は、ここに駐在している聖下の大使に提示され、読まれた。だが、我々のことに関する限り、良識に従っているために、皇帝の姿勢に我々はそれほど重要な位置を占めてはおらず、日に日に我々に有利になると考え始めており、聖下との関係の観点から、我々の立場を報告するのは、このような次第ではあるが適切であるように思える。
 それ故、教皇に全てを伝え、もしそれがいいと思えるなら写しを見せなさい。だが、我々が手紙を捏造したのではないことをくれぐれも申し上げておかなくてはならないし、我々が執着する特に重要な手紙だから写しを送ったのではないということも申し上げなければならない。
1501年10月7日
ローマの大使たち宛てに手紙を書く。雄弁家に演説を準備させるためにボルジア家に関する詳細な情報を送るように指示。
1501年10月11日
ジェラルド・サラチェーニ宛てに手紙をしたためる。ルクレツィア・ボルジアに対し、自身の宝石を処分せず持参すべきである。素晴らしい装飾品を花嫁の介添人に持たせる。彼女自身が貴重な宝石なのだから、妻が持っているものよりもさらに豪華な、最も美しい宝石が相応しい。
1501年10月23日
ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。1501年10月18日の手紙への返書。
1501年10月24日
フランチェスコ・デ・ロクサス宛てに手紙をしたためる。アレクサンデル6世が風邪をひき、1つ歯を失った。教皇はフェッラーラに大袈裟な報告が届かぬように、フェッラーラの特使を呼び寄せ、病は軽いもので何ということはないと公爵に書き送るように指示した。もし公爵がここにいたなら、私の顔が縛られていたとしても、熊狩りに彼を招待しただろうと、教皇は言った。健康を気にするなら教皇は習慣を変えるべきで、夜明け前に宮殿を出ず、日没前に戻るべきだと、特使は書いていた。
1501年11月14日
イザベッラ・デステ宛てに手紙をしたためる。アルフォンソ1世・デステルクレツィア・ボルジアの結婚式への公式の招待状。「現在の気候のこともあり、フランチェスコ2世・ゴンザーガ閣下は列席なされぬが宜しかろうと思う。この旨を閣下にお伝え頂きたい」
1501年11月22日
フェッラーラにて、マクシミリアン1世の全権大使アゴスティーノ・セメンツァ宛てに手紙をしたためる。すぐに家臣をマクシミリアン1世ローマ駐在大使に送る。もう冬になるので、ルクレツィア・ボルジアを連れてくるのは好ましくない。もしアレクサンデル6世が厭わなければ結婚式を延期するが、教皇との関係を断ち切るつもりはない。マクシミリアン1世が分かるように、そんなことをすればアレクサンデル6世は不倶戴天の敵となり、苦しめられることになり、まして戦争を仕掛けられるかもしれない。
1501年11月24日
ジェラルド・サラチェーニ宛てに手紙をしたためる。アレクサンデル6世に対し、約束のピエーヴェ・ディ・チェントの譲渡の勅書を手にしない限り、ルクレツィア・ボルジアに花嫁の介添人を送るつもりはない。持参金はヴェネツィアとボローニャの銀行を通して硬貨で支払われること、花嫁の介添人がローマに到着した時点で他の都市の引き渡しを要求。これら結婚の協定を教皇が履行しないならば、送った介添人を花嫁なしで引き帰させると脅す。
1501年12月1日
マクシミリアン1世の使節に、アレクサンデル6世との不和をきたすため、これ以上介添人を送るのを引き延ばせないと伝える。
ジェラルド・サラチェーニ宛てに手紙をしたためる。アレクサンデル6世が自分を「商人」と呼んだことについて不満を述べる。
アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。12月9日か10日に花嫁の介添人を出発させるつもりだ。
1501年12月21日
イッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ宛てに手紙をしたためる。もしルクレツィア・ボルジアアルフォンソ1世・デステに対して不実を示せば、宝石が失われることがないようにする予防措置として、自身が用意した7万ドゥカート以上の価値のある宝石をルクレツィア・ボルジアに渡す時に、ジャンルカ・カステッリーニから伝えられた言葉を添えるように指示。
ジャンルカ・カステッリーニ宛てに手紙をしたためる。
1502年1月22日
フェッラーラにて、ローマの大使に手紙をしたためる。ルクレツィア・ボルジアは最も愛情に満ちた歓迎を受けるだろう。
1502年2月4日(金)
朝、賓客たちに街を案内し、毎週金曜日になると5つの聖痕が体に現れるというヴィテルボの聖ルチアに会わせる。フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティはその傷に触れた布を受け取る。エステ城では、アルフォンソ1世・デステが熱心な大砲を披露。大広間にルクレツィア・ボルジアが、大使たちを伴って現れ、18時まで舞踏会、プラウトゥスの『Bacchides』が5時間上演。
1502年2月5日(土)
フランス王ルイ12世の名代として、フランス大使フィリッポ・デッラ・ロッカ・ベルティから、パリの評価の高い職人の手になるエナメルにフランチェスコ・ダッシジの絵の入った金の盾を贈られる。
1502年2月14日
ローマにいるベルトランド・コスタビリ宛てに手紙をしたためる。アドリアーナ・デル・ミラジロラーマ・ランソルオルシーニ家の女性がフェッラーラの宮廷に居座っているのは「無益」で、「この女性たちがここに留まっていることによって、他の多くの人々をも、同時に出発しようと思うために長居させることになる。大変な負担と多額の出費だ。この淑女たちの随行員は、他の者たちも考慮に入れれば、4百50人と馬3百50頭近い」。このこと、物資はもう枯渇しそうなこと、シャルロット・ダルブレ復活祭前に到着することはないだろうこと、結婚祝賀行事ですでに2万5千ドゥカート使ったためこれ以上の出費はできないことを、アレクサンデル6世に伝えるよう指示。したがって教皇は彼女らを呼び戻すべき。追記「シャルロット・ダルブレの貴族女性たちは12日間ここに滞在していたが、無礼で、彼女らの存在は教皇やルクレツィア・ボルジアに何ら益をもたらさないので、すぐに追いやってしまった。
1502年2月14日
アレクサンデル6世宛てに手紙をしたためる。

 聖下、ご主人様。ルクレツィア・ボルジアがいらっしゃる前、歓迎することを固く決意し、対面した時には親しみと誠実さをもって、どんなに好意を持っているか示そうと思っておりました。そして今ここにいらっしゃり、彼女の美徳と長所を見るにつけ、ますますその決意を固めるばかりでなく、以前にするつもりであったことよりも、そして聖下の自筆のお手紙でお尋ねになっていたことよりも、もっと多くのことをしてさしあげようという決心することになりました。彼女を世界で最も価値のある宝石のように思っていることを聖下がお分かりになるように待遇するのですから、聖下には何のご心配には及びません。
1502年10月9日
ベルトランド・コスタビリ宛てに手紙をしたためる。
1502年10月23日
ベルトランド・コスタビリ宛てに手紙をしたためる。
1503年8月24日
ベルリグアルドの別荘にて、ミラノ駐在大使ジャンジョルジョ・セレーニ宛てに手紙をしたためる。

 ジャンジョルジョへ。アレクサンデル6世の死を我々がどう受け止めたかよく聞かれると思うが、気を悪くさせられるというようなことはないと言っておこう。神の僕、キリスト教世界の長に、神がその美徳と先見の明をもって立派な羊飼いをお与えになってくださっていたら、ひどい醜聞は免れていただろうにと、一度は考えた。個人的には何も求めることはないが、主として神の僕、長の幸福を心配している。付け加えるなら、しかし、この教皇ほど我々が利益を受け取ったことはなかったし、それは同盟を結んだ後でもだ。約束させたことを引き出すのに相当苦労したが、それ以上のことは何もしてはくれなかった。これにはロマーニャ公がその責を負うものと考えており、彼の思う通りにはできなかったにせよ、我々をまるで見ず知らずの他人のように扱った。一度たりと率直になったことはなく、いつも我々は伝えていたにもかかわらず、その計画を打ち明けることもなかった。最終的にはスペインに傾き、我々はフランスにこれまで通りついていたので、教皇とフランス王のどちらからもほとんど期待できなかった。そのため、上記の公爵の出世からは不道徳のみ予期しているのと同じように、教皇の死は少しの悲しみしかもたらさない。以上をシャルル・ダンボワーズへの内密の発言として、本意を隠し立てしたくはないので、一言一句伝えるよう。ただ他の者へは注意して話すよう。そうしたら、この手紙を信頼する顧問ジャンルカ・カステッリーニに返すのです。
1503年8月28日
ベルトランド・コスタビリ宛てに手紙をしたためる。チェーザレ・ボルジアが回復へ向かっていてうれしく思う。
1503年9月13日
チェーザレ・ボルジア宛てに手紙をしたためる。回復祝い。彼に忠実のままでいるように促すため、ロマーニャに人を派遣したこと。
1503年10月4日
コデゴリオにて、ルクレツィア・ボルジア宛てに手紙をしたためる。

 淑女。親愛なる義理の娘、我が娘へ。あなたの手紙と、コゼンツァ枢機卿フランチェスコ・ボルジア猊下があなたに送られて、私に送ってくださったものを受け取りました。手紙と一緒に送り返し、私の他は誰も読んではおりません。あなたと枢機卿の合意に気付いております。彼の助言は心遣いに満ちており、愛情と知恵によるものであることはたちどころに明白です。全てを注意深く考慮し、あなたが猊下の指示に従うことができ、またそうすべきであるように思えます。事実、あなたと枢機卿に託されていると聞き及んでおりますあなたの息子ロドリゴ・ダラゴーナに対して示されている愛情のためからなる彼の助言に、あなたは従ざわるを得ないでしょう。ロドリゴ・ダラゴーナが遠く離れてしまいますが、近くで危険に晒されるよりも、枢機卿がそうお考えになっているように、遠くで安全である方がよろしいでしょう。別離によって、あなた方のお互いへの愛情が薄れることはありますまい。彼が成長した時、状況次第で、イタリアに帰ってくるか離れているか自分で決めることができるでしょう。枢機卿が何としてもなさりたいとおっしゃっている、ロドリゴ・ダラゴーナを支え収入を増やすために、ご自身の所有物をお金に変えるというご提案は、よいお考えです。短く言えば、そう言ったように、一番良い意見の一致を得ているように思えます。とは言え、これを決断なさるのに非の打ちどころなく適任なあなたが、別の方法をお決めになるのなら、全く従うつもりです。さようなら。
1503年12月31日
ローマ駐在大使宛てに手紙をしたためる。フランシスコ・デ・レモリンスが送ってくるべきチェーザレ・ボルジアの櫃を、先行してイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステの所有としてフェッラーラに送るよう指示。
1504年7月
フィレンツェを訪れる。
1505年1月25日
死(1505年6月15日)。

在位

 フェッラーラ公 1471年8月20日~1505年
  先代:ボルソ・デステ
  次代:アルフォンソ1世・デステ
 モデナ公 1471年~1505年
  先代:ボルソ・デステ
  次代:アルフォンソ1世・デステ
 レッジョ公 1471年~1505年
  先代:ボルソ・デステ
  次代:アルフォンソ1世・デステ

肖像


スペランディオ
エルコーレ1世・デステの肖像

ドッソ・ドッシ
エルコーレ1世・デステの肖像

居住

 コルティーレ・ドゥカーレ

関連項目

 ピッティ陰謀事件
 1467年1月4日の同盟

チェーザレ・ボルジア数

 子アルフォンソ1世・デステ→妻ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 エルコレ1世、エルコレ公、フェッラーラ公エルコレ・デステ

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 Condottieri di ventura
 Genealogy.EU
 Project Gutenberg - Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475-1497 by Julia Cartwright
 kleio.org
 THE BORGIAS wiki
 Treccani
 trionfi

参考文献

 『イタリア史』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『君主論』
 『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンスの歴史』
 『ルネサンスの女たち』
 『ルネサンス舞踊紀行』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『ルネサンスの華』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前