Pandolfo Collenuccio

パンドルフォ・コッレヌッチョ

生没:1444年1月7日~1504年7月6日
出身:ペーザロ
没地:ペーザロ

概要

 パンドルフォ・コッレヌッチョは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、外交官、政治家、人文主義者、歴史家。

年表

1444年1月7日
ペーザロに生。
1465年
パドヴァ大学で法律を学び、卒業。
1488年
スフォルツァ家に仕えていたが、ジョヴァンニ・スフォルツァの不興を買い、投獄される。
1489年
ペーザロを追放され、フェッラーラに行き、エステ家に仕える。
1497年12月25日
ローマにてフェッラーラエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「El S. de Pesaro ha scripto qua de sua mano non haverla mai cognosciuta et esser impotente, alias la sententia non se potea dare. El prefato S. dice pero haver scripto cosi per obedire el Duca de Milano et Aschanio
1500年10月26日(月)
ペーザロ入り。
1500年10月27日(火)
24刻(現16時55分)、ペーザロ到着。
到着を告げ、チェーザレ・ボルジアとの謁見を申し込む。
2刻(現18時55分)頃、ラミロ・デ・ロルカと執事が訪問。
1500年10月28日(水)
早朝、チェーザレ・ボルジアから贈り物をもらう。
1500年10月29日(木)
22刻(現14時53分)、チェーザレ・ボルジアと会見。
夜6刻(現22時53分)、ペーザロにてエルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
 ご主人様へ。閣下のもとを離れてから、2日半前にペーザロに入り、木曜日(火曜日の間違い)の24刻(現16時55分)に到着しました。ちょうどヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジアが入城したのと同じ時です。全民衆が市門に集まり、激しく雨が降る中彼は迎えられ、市の鍵を授けられました。宮殿のジョヴァンニ・スフォルツァの部屋に滞在しました。仲間の話によれば、彼の入場はとても見事なものだったようです。整然と、そして大勢の騎兵と歩兵を従えておりました。同じ夜私の到着を告げ、いつでも公爵の都合の良い時に謁見をと願い出ました。夜の2刻(現18時55分)頃ラミロ・デ・ロルカと執事を寄こして、最も礼儀正しく、快適な宿泊かどうか、人口の多い町のため不足しているものがないかどうかを尋ねました。よく休むようにということと、翌日会うということを伝えるよう彼らに指導していました。水曜日の早くに世話人を寄こして、大麦1袋、葡萄酒1樽、去勢雄羊1頭、去勢鶏と雌鶏8組、大きな松明2本、蝋燭2束、砂糖菓子2箱を贈り物として届けてくださいました。しかしながら、1時間経っても会見に現れず、その代わりに弁解をなさり、いぶかしむことのないようにおっしゃいました。彼は20刻(現12時53分)に起床し食事をとり、城へ出向いてそこで夜まで過ごし、そのため股間の痛みのせいでとても疲れて戻ってきたということです。
 本日は、22刻(現14時53分)頃、彼は食事した後、ラミロ・デ・ロルカを寄こして私を連れていきました。素晴らしい率直さと人当たりの良さで、閣下は城で様々な用事があったことと、潰瘍から来る痛みのせいで、前日会見に応じられなかったことを釈明なさいました。次に、私の唯一の任務が祝福と感謝を捧げることと、フェッラーラ公の奉仕を申し出ることであることを伝えた時、彼は十分言葉を選びながら全ての要点を非常に流暢にお答えになりました。要約すると、フェッラーラ公の力量と美点を存じていること、公をいつも愛しているし個人的な関係を楽しみたいとおっしゃられていました。公がミラノにおられた時待ち望んでいたが、事件や事情がそれを許さなかった。だが今、この国に来て、願いを叶えることを決心し、自由意思と愛の証として彼の成功を手紙に書けば、必ずや公が満足されるであろうことを確信している。確かな友情を結びたいため、公に彼の行動を欠かさず知らせるつもりだとおっしゃって、自分のものや力が役に立つことがあればそれを提供すると申し出られました。公を父親としてみなしたいのです。手紙とそれを使者に届けさせたことのお礼を申されておりましたが、彼の成功に公が満足されるだろうことを承知しているため手紙は不必要だったけれども、と。短く言えば、公を父親として彼自身を息子として、これ以上ないくらい良くこれ以上ないくらいらしい言葉を、繰り返し使いました。
 実際の行動と言葉を熟考した時、公と何らかの友好関係を築くことを望んでいるのがなぜだか分かります。私は彼の言表に信頼を置きますし、彼の言表を良く思っています。公が特別な使節を送ったことに満足されておりますし、教皇アレクサンデル6世に報告したそうです。最高の瞬間と考えていることが、彼の追従者の話しぶりで分かります。
 一般的な言葉でお答えしますと、公のことに関して彼は英知を示し、私たちの立場と国を考慮するに、彼の信用を増すことになり、彼はきっぱりと協賛しています。そのことにすっかり気づいていることを彼は示し、それ故に、会話の糸を断ち切り、ファエンツァのことに話は移り変わりました。閣下は私に「ファエンツァは何をしたいのか分からない。我々にとって他国以上に困難とはならないというのに、まだ問題を引き延ばしている」とおっしゃいました。「他国と同じようにするだろうと信じていますが、もしそうしなければそれはただ閣下の栄光に終わるだけでしょう。ファエンツァを征服することで、技能と武勇を発揮する新たな機会を与えられるのですから」と答えました。これは彼を喜ばせたようで、必ずやものにしてみせると返しました。ボローニャのことは話題に上りませんでした。公の臣下や、アルフォンソ1世・デステイッポーリト・ディ・エルコーレ・デステ枢機卿からのお知らせを伝えると喜ばれて、長くそして愛情のこもった態度で話しました。
 半時間彼と過ごした後すぐ出発し、彼も馬に乗って前を行きました。今晩彼はグラダーラへ行き、明日はリーミニへ、そしてもっと離れます。騎兵隊と砲兵隊を連れています。ゆっくり移動したくはないが、大砲を残していくわけにはいかないと話してくれました。
 2千人以上が野営しておりますが、ほとんど無傷です。周囲の国は騎兵隊で溢れており、彼らが危害を加えたかどうか私は存じません。町は何の特別扱いも免除も彼から与えられませんでした。副官とフォルリの確かな医師を残していきました。70の大砲を城から持ち出し、残った守備隊は僅かです。
 皆から聞いた話をしましょう。もっとも、詳細にわたって話してくれたのはポルトガル人騎士で、彼はヴァレンティーノ公の軍隊所属の兵士で、私の義理の息子の家に15名の騎士たちと共に宿営していて、シャルル8世と共にいた時のフェルナンド閣下の友人で、公正な人物です。彼によれば、教皇はこの町をルクレツィア・ボルジアに与えるつもりで、イタリア人でヴァレンティーノ公との友好関係を維持し続けることができる人物を夫として見つけ出したそうです。これが本当かどうか私は知りませんが、一般に信じられていることです。
 ファーノですが、ヴァレンティーノ公は獲得しませんでした。5日間いましたが彼はそこを欲しはせず、中産階級が差し出し、求めれた時に彼のものとなることになりました。教皇が、市民たち自ら差し出さない限り、ファーノを獲得せぬように言い渡したのだと言われております。それ故現状維持のまま留まっています。
 公の日々は、夜8刻、9刻、10刻(日没17時ならば1時、2時、3時)に就寝し、よって18刻(現11時)が夜明けで、19刻(現12時)が日の出で、20刻(現13時)が起床となります。起きた後すぐにテーブルにつき、その間かその後仕事に取り掛かります。勇敢で、力強く、親切で、率直な人間を尊重すると言われています。復讐心は激しいと多くの人が語りました。強く鋭い感性を持ち、権勢と名声を渇望し、統治よりも征服することに熱心なようです。
偉大なる公爵様の臣僕パンドルフォより
ペーザロ、木曜日、1500年10月29日夜6刻
The Duke's Retinue
  Bartolomeo of Capranica, Field-Marshal.
Piero Santa Croce.
Giulio Alberino.
Mario Don Marian de Stephano.
Menico Sanguigni.
Jo. Baptista Mancini.
Dorio Savello.
  All Noblemen of Rome.

Prominent Men in the Duke's Household.
  Bishop of Elna,
Bishop of Sancta Sista,
  Spaniards.
  Bishop of Trani, an Italian.
A Neapolitan abbot.
Sigr Ramiro del Orca, Governor; he is the factotum.
Don Hieronymo, a Portuguese.
Messer Agabito da Amelio, Secretary.
Mesr Alexandro Spannocchia, Treasurer, who says that the duke since his departure from Rome up to the present time has spent daily, on the average, eighteen hundred ducats.
1503年8月
ロマーニャチェーザレ・ボルジアに忠実のまま残るように、エルコーレ1世・デステにより派遣される。
1504年7月11日
ジョヴァンニ・スフォルツァに巧みな約束でペーザロに呼び寄せられるが、突然チェーザレ・ボルジアに対する訴状を発見したとされ、投獄される。この日、ペーザロで死。

別表記

 パンドルフォ・コレヌッチョ

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前