- 生没
- 1470年~1500年1月8日
- 出身
- ヴァレンシア
- 没地
- ウルビーノ
- 父
- ジョフレ・リャンソル
- 母
- ジョアナ・デ・モンカーダ
概要
ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダは、15世紀から16世紀のスペイン出身の男性、聖職者、枢機卿。
在位
メルフィ司教 1494年9月19日~1498月12月3日
カプア大司教 1496年~1498年10月15日
枢機卿 1496年2月19日~1500年1月8日
任命した教皇:アレクサンデル6世
サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータ助祭枢機卿
1496年2月24日~1500年1月8日
ヴァレンシア教区長 1499年9月6日~1500年1月8日
ボローニャ教皇代理 1499年10月11日~1500年1月8日
年表
1470年
ヴァレンシアにて、生(1474年シャティヴァ)。
1494年3月26日
従堂兄弟のチェーザレ・ボルジアと共に、副助祭になる。
1494年9月19日
教会首席書記官とメルフィ司教に任命される。
1494年~1496年
スポレート知事。
1496年初め
ローマに召喚され、フェデリーコ・ダラゴーナへの教皇特使として派遣される。シャルル8世がナポリ王国に残した兵隊に対する闘争をつぶさに見る。
1496年2月19日
アレクサンデル6世により、サンタ・マリア・イン・ヴィア・ラータ助祭枢機卿に任命される。
1496年
1496年7月
ナポリにて、反フランス同盟に関して交渉。
1496年12月18日
1497年5月22日
枢機卿会議にて、ペルージアとウンブリアへの教皇特使として任命される。
1497年5月~1497年12月
ペルージアへ教皇特使として派遣される。
1497年12月2日
ローマ到着。
1498年6月13日~1498年12月
1498年9月19日
マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ宛てに手紙をしたためる。
1498年12月19日
ヴィテルボへ派遣される。
1498年12月
教皇軍を指揮し、ヴィテルボの派閥闘争を鎮圧。
1498年12月28日
ローマ到着。
1499年1月28日
1499年1月31日
1499年5月22日(水)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行う晩祷に、レイモンド・ペラウルド、フアン・ロペスと共に出席(木曜日)。
1499年5月23日(木)
サンティーヴォ・デイ・ブレトーニ教会にてトレギエ司教ロベール・ギベが執り行うミサに、ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラ、ベルナルディーノ・カルバハル、レイモンド・ペラウルド、フアン・ロペスと共に出席。
1499年8月9日
ヴェネツィア共和国への教皇特使に任命される。
1499年8月26日
1499年8月末
シエナにて、ミラノ公国外交官アゴスティーノ・マリーア・ベッカリアと接触。
1499年9月8日
フェッラーラ到着。チェーザレ・ボルジアのフェッラーラへの野心を告げる。
フェッラーラ公エルコーレ1世・デステは直ちにフランス王へチェーザレ・ボルジアを宥めるよう嘆願。ルイ12世はチェーザレ・ボルジアにフェッラーラに対する主張を放棄させた。この結果、フアン・ランソルは、チェーザレ・ボルジアのロマーニャに対する軍事行動に関して、エルコーレ1世・デステからの干渉を事前に排除することに成功。
1499年9月23日
ヴェネツィア共和国Consiglio dei Pregadiの前で、ミラノ公との戦いに参加するよう勧誘することから始め、教皇の名においてチェーザレ・ボルジアに支援を与えるよう要請し、ここでもチェーザレ・ボルジアのフェッラーラ掌握の意志を発表することで締めくくる。ヴェネツィア共和国政府は、チェーザレ・ボルジアの金銭的及び領土的主張に関して当然否定的な返答をし、ルイ12世へ介入を求める。
フアン・ランソルは、チェーザレ・ボルジアがフェッラーラに対するいかなる主張も放棄したと宣言し、イーモラ、フォルリ、ペーザロ、シエナ、ピオンビーノ、ボローニャを獲得するというより控えめな計画に変更。この場合においてもヴェネツィア共和国は抗議するが、フアン・ランソルはすでに出発しており、最悪は免れたと納得せざるを得ず。
1499年10月6日
チェーザレ・ボルジアとルイ12世とのミラノ入城に参列。
1499年10月11日
アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ逃亡後、ボローニャ教皇代理、ロマーニャにおけるアスカーニオ・マリーア・スフォルツァの職を代わる。
1499年10月14日
ミラノにて、手紙をしたためる。教皇代理としてチェーザレ・ボルジア軍に参加していた。
1499年
マントヴァへ行き、イーモラ攻略のための弾薬と火薬をフランチェスコ2世・ゴンザーガに要請。
1499年11月29日
発表を記録。
1499年12月13日
イーモラ到着。30人委員会(Consiglio dei Trenta)が教会に忠誠の誓いを立てるため、カンタガッロ伯ピエトロ、ペンシエーロ・サッサテッリ、ヤコポ・ダッレ・セッレ、エットーレ・ディ・フランチェスキーノ・エットーリの4名を任命。サン・ドメニコ教会で儀式が執り行われる。これにより、イーモラは教皇の名において統治されることを正式に宣言。
1499年12月25日
降誕祭を祝うためフォルリ到着。
1499年12月28日
翌年が聖年のためローマに呼び寄せられ、フォルリ出発。チェゼーナ到着。市民にチェーザレ・ボルジアを君主と仰ぐよう説得し、パンドルフォ4世・マラテスタに反乱してリーミニから亡命していた者たちの支持を得るよう試みる。
1500年1月
ウルビーノ到着。熱病を罹患し、ここで療養。当初は命にかかわるほどではなかったという。
1500年1月8日
ウルビーノにて、容態が急変し、死。
かなりの収入を得たものの、それを遥かに上回る借金を背負っていた。
1500年1月27日
葬儀も告別式も執り行われず、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬。
死亡日
死亡日についての参考文献
ヨハン・ブルカルト著『At the Court of the Borgia』1963年
1500年1月14日火曜日、チェーザレ・ボルジアによってフォルリの要塞が陥落し、カテリーナ・スフォルツァが捕らえられたという噂がローマ中に広まる。さらに、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダ枢機卿がボローニャあるいはチェーザレ・ボルジアの宿営地から、4人の供だけを連れローマにできる限り早く戻れるよう早馬で出発し、そして前日医者によればそこで熱病にかかったのだというウルビーノで止まった、ということが伝えられる。この知らせはティヴォリ司教アンジェロ・レオニーニによって教皇に報告され、別の使者からも確認されたが、そろって枢機卿の熱病は危なくはないと指摘していた。しかし、熱が下がっていくと共に膿疱が出てきた後、要塞陥落の知らせを耳にしたジョアン・リャンソル・イ・モンカーダは、馬でフォルリへ向かいチェーザレ・ボルジアの勝利を祝おうとした程無謀だった。枢機卿はすぐフォッソンブローネに着いたが、そこで熱が激しくぶり返し、翌日の1500年1月16日木曜夜息を引き取った。遺体は1500年1月27日街へ運ばれ、葬儀も告別式も執り行われず、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会に埋葬された。
フェルディナンド・グレゴロヴィウス著『Lucretia Borgia』1874年
エリザベッタ・ゴンザーガの1500年1月8日付手紙に同日のジョアン・リャンソル・イ・モンカーダの死が記されている。チェーザレ・ボルジアのフォルリ発1500年1月16日付の手紙に、アレクサンデル6世によってローマに呼び寄せられたためフォルリを出発したが、ウルビーノにて流感により急死したことを1500年1月12日朝知らせを受けたとある。
Edoardo Alvisi著『Cesare Borgia: duca di Romagna』1878年
1499年12月28日フォルリ出発し、市民にチェーザレ・ボルジアを君主と仰ぐよう説得し、リーミニからの亡命者たちの支持を得るという目的でチェゼーナ到着。聖年のためローマに呼び寄せられ、1500年1月8日チェゼーナ出発。1500年1月14日にウルビーノにて2日間熱病に苦しんだ後夜亡くなったとされる。
Raphael Sabatini著『The Life of Cesare Borgia』1925年
1499年12月28日フォルリ出発しチェゼーナへ。リーミニからの亡命者たちを徴兵する目的であったという。ウルビーノへ移動し、ウルビーノ公宮殿でフォルリ陥落の知らせを待つ間罹患。チェーザレ・ボルジアの勝利の知らせを受け、病を押してフォルリに向かうがフォッソンブローネで力尽き、死。
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1500年1月17日フォッソンブローネにて死。
死亡日
根拠となる手紙を挙げているフェルディナンド・グレゴロヴィウス説を採用した。ヨハン・ブルカルトの日記は当時のローマでの見聞だということを十分考慮すべきで、フォルリに向かうのに反対方向のフォッソンブローネで没したことになっている。当時比較的近いフォッソンブローネにいたエリザベッタ・ゴンザーガの手紙がやはり最も信頼性が高いと考える。
フォルリからウルビーノまでは約92キロ。馬で1日30キロ進めるとして3日後には到着可能。ウルビーノへ何日に着いたのかは不明だが、1499年12月28日フォルリ出発なら移動以外の行動を途中ですることもできただろう。そのためチェゼーナでの件は十分あり得ると思われる。Raphael Sabatini説はウルビーノで知らせを待つ必要がなぜあったのか理解しがたい。ヨハン・ブルカルトのアンジェロ・レオニーニ司教の報告だという話では早馬で急いだそうだが、早馬なら50キロから80キロ進めるとして2日くらいで着いただろう。それならかなり何日もウルビーノに滞在したことになる上、出発地がボローニャかフォルリかあいまいなので、アンジェロ・レオニーニの報告は現地調達の情報ではなく伝え聞いたものではなかろうか。あるいはヨハン・ブルカルトが報告している場面に居合わせていず、伝え聞いたのであいまいになっているのかもしれない。
1500年1月27日に葬儀もされず埋葬されたというのは、おそらくウルビーノからローマに運ぶ間に腐敗がかなり進行していたためと考えられる。約255キロあるので、遺体を運ぶのに荷馬車で少なくとも10日は要したろう。冬とはいえ、あくまで土葬にこだわったのならとにかく急ぐ必要性があったことは間違いない。ただ、葬儀が行われなかったということで、埋葬された日が正確に人々に伝わっていたのかどうかに不安が残る。1月8日に息を引き取ったなら19日後だったということになるが、他に有力な情報が出てくるまでは1月27日としておくことにする。
このように葬儀は不可能だったことは明白だが、なぜ告別式さえ行われなかったのかは全く不明である。枢機卿という高い身分であるからこそ土葬にしたと思われるが、それならなおさら不自然だ。するもしないもおじである教皇アレクサンデル6世次第ではないかと思うが、ジョアン・リャンソル・イ・モンカーダ枢機卿はその教皇の子チェーザレ・ボルジアに助力している時に亡くなったというのにもかかわらず手厚い供養がされなかったのなら、何らかの政治的理由によるものであろうか。チェーザレ・ボルジアの戦勝に水を差したくなかったというのは理由として弱い。なぜなら、チェーザレ・ボルジアのローマ凱旋はまだ約1か月も先の1500年2月26日で、しかも当時まだ遠征から帰還する予定ではなかったからだ。
フォルリ-ウルビーノ間はGoogle Maps、ウルビーノ-フォッソンブローネ間はGoogle Maps、ウルビーノ-ローマ間はGoogle Mapsを参照。馬での移動速度については、中世の旅の移動速度について|中世史の保管庫を参考にした。
肖像
異名
イル・ミノーレ
別表記
フアン・ランソル、ボルジア・ランソル2世、ジョヴァンニ・ボルジア枢機卿、シレンツィオ・ホアン、Giovanni Borgia、Juan Borja Lanzol de Romaní, el menor
外部リンク
チェーザレ・ボルジアとその周辺
GCatholic.com
Google Books - At the Court of the Borgia
The Cardinals of the Holy Roman Church
Treccani
Wikipedia
参考文献
『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
『ルネサンスの女たち』
『At the Court of the Borgia』
『Cesare Borgia: duca di Romagna』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2006年10月27日以前
更新日
2024年10月1日