Malatesta

マラテスタ家

カルロ・マラテスタ Carlo Malatesta

生没
1368年6月5日~1429年9月13日
ガレオット1世・マラテスタ
ジェンティーレ・ダ・ヴァラーノ
エリザベッタ・ゴンザーガ
概要

 カルロ・マラテスタは、14世紀~15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。高名な武将。パリシーナ・マラテスタの伯父。

在位

 リーミニ領主 1385年~1429年
 教会の旗手 1387年~?

年表

1386年

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいアンドレア・マラテスタ→子アントーニア・マラテスタ→夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』
 『ルネサンスの華』

ドロテア・マラテスタ Dorotea Malatesta

生没
1478年4月26日~1534年
出身
リーミニ
ロベルト・マラテスタ
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロ
ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロ
バッティスタ・カラッチオーロ
ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・カラッチオーロ
マルコ・オリヴィエーロ・カラッチオーロ
概要

 ドロテア・マラテスタは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1478年4月26日
リーミニにて、生。
1489年2月11日
エリザベッタ・ゴンザーガグイドバルド・ダ・モンテフェルトロと結婚。ゴンザーガ家で育てられ、教育されていたドロテア・マラテスタは、ウルビーノへ従う。
1500年
1501年
1501年2月10日
ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロのいるグラディスカ・ディゾンツォに行くため、ウルビーノを出発。
1501年2月14日
夜、ヴェネツィア共和国領チェルヴィア境界で、チェーザレ・ボルジアの、おそらくルッシとグラナローロで離散したスペイン人兵に襲撃され、供回りは負傷し、誘拐される(1501年2月13日、1501年2月15日)。
1501年2月15日
ロマーニャ国務官ジョヴァンニ・バッティスタ・パスコリが妻宛に手紙をしたためる。「あなたのところへ行きたいのはやまやまですが、今は重い足を引きずっていなければなりません。今夜、ウルビーノの若い女性がチェルヴィアラヴェンナの間でさらわれ、彼女の供は負傷しました。」
1501年2月17日
ヴェネト人のチェルヴィアポデスタヴェネツィア共和国元老院宛に手紙をしたためる。1501年2月14日、チェーザレ・ボルジアのスペイン人10名の武装兵に襲撃され、供をしていた女性1名と共にドロテア・マラテスタが誘拐される。
マリン・サヌードによればチェーザレ・ボルジアの仕業かもしれない。
1502年頃
ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロを出産。
1503年12月
ローマの修道院に避難。ヴェネツィア共和国元老院に、夫ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロから保障を取り付けて欲しい、さもなければ生涯修道院に隠遁することを許可して欲しいと嘆願。
1504年1月
ヴェネツィア共和国元老院はジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロを召喚し、事情を開示。彼は妻を許し、無実であると信じていると返答。
1504年1月4日
ヴェネツィア共和国元老院はドロテア・マラテスタからの手紙を受け取る。元老院に対する感謝。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロが自分を優遇することを誓わせるよう、さもなければ母親のもとに帰ることを許可して欲しいと嘆願。
1504年1月16日
1504年
夫のもとに帰る。ジョヴァンニ・バッティスタ・カラッチオーロは妻の帰還を喜ぶ。
1504年頃
バッティスタ・カラッチオーロを出産。
1506年頃
ジョヴァンニ・ベルナルディーノ・カラッチオーロを出産。
1508年頃
マルコ・オリヴィエーロ・カラッチオーロを出産。
1508年7月14日
15??年
1534年
死(1527年)。

備考

 ベルナルディーノ・バルディによれば、「ウルビーノの古い記録によれば、若い女性がどのようにしてか夫のもとに帰り、夫との間に4人の子供をもうけ、生涯未亡人だった。余生は公妃のもとで暮らし、彼女がその若い女性だったと言われている。」

誘拐事件

 犯人はディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスだったと考えるのが妥当だろう。面識さえない、ヴェネツィアの一将軍の妻を人質にとってもチェーザレ・ボルジアに何の利益ももたらさない。チェーザレ・ボルジアディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスを処罰しなかったのは、自分への非難より部下の忠誠心を重んじたのだろうか。
 もしかしたら、ドロテア・マラテスタは被害者ではなく、あらかじめ犯人と通じていた可能性も考えられる。ウルビーノからグラディスカ・ディゾンツォに行くのに海路ではなく陸路で向かっていたが、ペーザロから船に乗った方が速かくかつ安全だったのではないか。また、彼女がいつどこを通るのかをどうして犯人が知りえたのか。
 チェーザレ・ボルジア失脚後、1503年12月、ローマに解放されたのは、ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスが彼女の安全のために避難させたのではないだろうか。また、夫のもとに帰るのに消極的だったのは、ディエゴ・ラミレス・デ・キニョーネスとの間にすでに子供をもうけていたからではないか。元老院に何度も嘆願していたのは、実はその子を夫の子として認めてもらうためだったのかもしれない。
 マリン・サヌードが日記に詳細を書かなかったのは、この子供をかばったためだろうか。それとも彼が思っていたようにチェーザレ・ボルジアが犯人として糾弾できなかったせいだろうか。ドロテア・マラテスタが事情を話していれば全て解決していたはずだが、犯人をかばって言わなかったのか、あるいは子供の父親の名前を明るみにしたくなかったのか。
 ヴィオラ・イザベッラ・カラッチオーロが実際に1502年頃生まれていたとすると夫の子ではないわけだが、これに関して書かれた文献を今捜索中。

別表記

 ドロテア・ダ・クレーマ、DorotheaDorotea Caracciolo

外部リンク

 チェーザレ・ボルジアとその周辺
 Google Books
 Google Books
 Google Books
 Treccani.it

参考文献

 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『The Life of Cesare Borgia

ガレオット1世・マラテスタ Galeotto I Malatesta

生没
1299年~1385年1月21日
出身
リーミニ
没地
チェゼーナ
パンドルフォ1世・マラテスタ
タッデア
エリーザ・デッラ・ヴァッレッタ
ジェンティーレ・ダ・ヴァラーノ
レンガルダ・マラテスタ
カルロ・マラテスタ
パンドルフォ3世・マラテスタ
アンドレア・マラテスタ
ベルフィオーレ・マラテスタ
マルゲリータ・マラテスタ
ジェンティーレ・マラテスタ
レンガルダ・マラテスタ
概要

 ガレオット1世・マラテスタは、13世紀~14世紀のイタリアの男性。

在位

 リーミニ領主 1372年~1385年
 チェゼーナの君主 1376年

年表

1323年6月
リーミニにて、エリーザ・デッラ・ヴァッレッタと結婚。
1366年
妻エリーザ・デッラ・ヴァッレッタ、死。
1366年
エリーザ・デッラ・ヴァッレッタとの子レンガルダ・マラテスタ、死。
1367年
ジェンティーレ・ダ・ヴァラーノとの結婚証書に署名。

チェーザレ・ボルジア数

 子アンドレア・マラテスタ→子アントーニア・マラテスタ→夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Geneanet
 Treccani
 Wikipedia

パンドルフォ4世・マラテスタ Pandolfo IV Malatesta

生没
1475年7月~1534年6月
ロベルト・マラテスタ
エリザベッタ・アルドヴランディーニ
ヴィオランテ・ベンティヴォーリオ
シジスモンド・マラテスタ
ロベルト・マラテスタ
イザベッラ・マラテスタ
アンニーバレ・マラテスタ
ジネヴラ・マラテスタ
マラテスタ・マラテスタ
ガレオット・マラテスタ
概要

 パンドルフォ4世・マラテスタは、15世紀~16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 リーミニ領主 1482年~1500年
  先代:ロベルト・マラテスタ
  次代:チェーザレ・ボルジア
 リーミニ領主 1503年
  次代:ヴェネツィア共和国領→教皇領
 リーミニ領主 1522年~1523年
  次代:ウルビーノ公国領

年表

1500年8月8日
アレクサンデル6世リーミニの君主パンドルフォ4世・マラテスタペーザロの君主ジョヴァンニ・スフォルツァファエンツァの君主アストッレ3世・マンフレディを破門し、その教皇代理の職を奪う小勅書を発して、チェーザレ・ボルジアのこれら各地の攻略に名分を与え、正統化。
1500年10月
初めの週に妻ヴィオランテ・ベンティヴォーリオと子供たちを、義父ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオボローニャに送る。パンドルフォ4世・マラテスタは要塞にこもる。
1500年10月
リーミニの評議会から意図を尋ねられ、評議会は最善の対応をするようにと答える。チェーザレ・ボルジアに使者を送り、町と城を明け渡すことを申し出る。評議会も同じく降伏を申し出る使者をチェーザレ・ボルジアと、チェゼーナにいるジョヴァンニ・オリヴィエーリに送る。
1500年10月10日
リーミニにて、チェーザレ・ボルジアの代理ジョヴァンニ・オリヴィエーリとパンドルフォ4世・マラテスタが講和条約調印。自身と家族の安全通行のためとして、3千ドゥカートと、要塞にある大砲の価値相当。サルジーナとメドーラとモンターニャの要塞と引き換えに5千5百ドゥカートの支払いを受ける。
1500年10月
金の受け取り場所であるラヴェンナに向かい、船でリーミニ出発。安全保障のため、チェーザレ・ボルジアの弁務官の息子ジョヴァンニ・バッティスタ・バルダッサーレを連れていく。
ヴェネツィア共和国に逃亡。
1503年8月
教皇アレクサンデル6世の死後、チェーザレ・ボルジアが闘病中、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア共和国軍の支援の下でリーミニ奪回を目指す。チェゼナーティコを略奪するが、リーミニでは市民の抵抗にあい、ペーザロへ撤退。
1503年9月6日
リーミニに、バルトロメオ・ダルヴィアーノ指揮のヴェネツィア共和国軍の支援の下で、ディオニジ・ナルディ指揮の歩兵隊を破り、復帰。
1503年9月8日
弟カルロ・マラテスタを自分の代理として、ウルビーノグイドバルド・ダ・モンテフェルトロのもとに送り、反ボルジア同盟を呼びかける。
1503年10月1日
1503年10月
ピエトラクタの城を出発。ヴィンチェンツォ・カッシーナを攻撃。この隊長はリーミニから戻り、略奪品をチェゼーナに運ぶ。パンドルフォ4世・マラテスタは兵を集め、ファーノ要塞にあったファルコネット砲4門を接収。兵4千を指揮し、リーミニ近郊フラ・ビアンキに野営。イーモラの教皇軍に敗れ、サン・マリーノとコリアーノに撤退。メルドーラを占領し、1千5百又は4千ドゥカートチェーザレ・ボルジアの部下マルドナート・ヴァルドンセッロに要塞を明け渡させる。
1503年11月
共和国に支援に感謝の意を表するためヴェネツィアに行く。民衆から憎まれ、政権の維持が困難なため、おじジョヴァンニ・アルドヴランディーニとドージェのレオナルド・ロレダンと会見し、ヴェネツィア共和国にリーミニ、サルシーナ、メルドーラを引き渡す。その補償として、1万ドゥカートに加えて城主に4千4百ドゥカート、弟カルロ・マラテスタとの傭兵契約、ヴェネツィアにいる息子に1千ドゥカートの聖職禄、妻ヴィオランテ・ベンティヴォーリオへ年金5百ドゥカートリーミニの塩の所有権と2千7百ドゥカートの年収を含むチッタデッラの主権を受け取る。

別表記

 Pandolfaccio

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

パリジーナ・マラテスタ Parisina Malatesta

生没
1404年~1425年5月21日
アンドレア・マラテスタ
ルクレツィア・オルデラッフィ
ニッコロ3世・デステ
ルチア・デステ
ジネヴラ・デステ
アルベルト・デステ
概要

 パリジーナ・マラテスタは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1418年
1425年5月21日
継子ウーゴ・デステとの姦通発覚のため、エステ城の中庭で斬首刑に処される。

埋葬地

 サン・フランチェスコ教会

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいアントーニア・マラテスタ→夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 パリシーナ、Parasina MalatestaLaura Malatesta

外部リンク

 ウィキペディア
 世界帝王事典
 そらのお城
 Famille de Carné

参考文献

 『愛の年代記』
 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『Lucretia Borgia

シジスモンド・マラテスタ Sigismondo Malatesta

生没
1417年6月19日~1468年10月7日
パンドルフォ3世・マラテスタ
アントーニア・バリニャーニ
ジネヴラ・デステ
ポリッセーナ・スフォルツァ
イゾッタ・デリ・アッティ
ヴァンネッタ・トースキ
ガレオット・マラテスタ
ジョヴァンナ・マラテスタ
ロベルト・マラテスタ
概要

 シジスモンド・マラテスタは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 ファーノセニガッリア領主 1429年~1463年
 リーミニ領主 1432年~1468年

年表

1433年
1443年10月18日
フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティヴェネツィア及びフィレンツェヴェネツィアフランチェスコ1世・スフォルツァ支援の協定を締結。間もなくこれにリーミニ、ファーノ、セニガッリアの君主でフランチェスコ1世・スフォルツァの女婿、傭兵隊長シジスモンド・マラテスタ(1417年~1468年:リーミニの君主在位1429年~1468年:ファーノ・セニガッリアの君主1429年~1463年)も加わる。
1449年12月28日
この日頃、フランチェスコ1世・スフォルツァ軍、ヴェネツィア軍がアンブロジアーナ共和国支援のために送ったシジスモンド・マラテスタ指揮の軍を撃破。
1450年
この年頃、ゲオルギオス・ゲミストス・プレトンペロポネソス半島Mistraで死(1355頃年~)。
この地に埋葬された遺骨は間もなく信奉者シジスモンド・マラテスタによって掘り出され、リーミニのマラテスタ家の墓所に再埋葬される。
1459年4月25日
マントヴァに向かうピウス2世、フィレンツェ市内に入り、富を尽くした大歓迎を受ける。
滞在中、リーミニのシジスモンド・マラテスタら諸君主にまじりフランチェスコ1世・スフォルツァの長子ガレアッツォ・マリーア・スフォルツァが騎兵350を率いて表敬に現われ、以後マントヴァまでピウス2世を先導。
1461年7月2日
この後も劣勢が続くフェッランテ・ダラゴーナ軍にアレッサンドロ・スフォルツァ指揮の援軍、到着。
1462年8月14日
アンジュー陣営の支援にナポリに出撃しようとしたシジスモンド・マラテスタ、自領セニガッリアの近くでフェッランテ・ダラゴーナ陣営のフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ軍に襲撃され、完敗。
1463年9月25/26日
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ指揮の教皇軍の攻撃を受けていたシジスモンド・マラテスタ、ファーノを攻略される。
この後セニガッリアなども奪われ、リーミニのみを辛うじて保持するだけになった彼は、ヴェネツィアに保護を求める。
教皇と戦うシジスモンド・マラテスタを利用して教会領を侵そうと密かに彼を支援してきたヴェネツィアは求めに応じ、使節を送ってピウス2世シジスモンド・マラテスタの免罪を要請。
1463年10月
ピウス2世、対オスマン・トルコ十字軍の結成にヴェネツィアの尽力が不可欠との観点からその要請を入れ、コンタードを5マイルに限定してリーミニを封与し教皇庁への貢納を義務付けるなどの厳しい条件付で、シジスモンド・マラテスタを免罪。
1468年10月9/13日
シジスモンド・マラテスタ、死(1417年~1468年:リーミニの君主在位1429年~1468年:ファーノ・シニガリアの君主在位1429年~63年)。パウルス2世、リーミニの教会帰属を宣言。
シジスモンド・マラテスタの庶子でパウルス2世の反マラテスタ戦陣の先頭にあった(1460年~1463年)傭兵隊長ロベルト・マラテスタ(1440/1441年~1482年)、パウルス2世にリーミニを返還すると約束しながら密かにフェッランテ・ダラゴーナと通謀してリーミニに入り、奸策により自らの支配権を樹立。

肖像

関連項目

 リーミニ攻囲戦
 The Borgias: 103

別表記

 Sigismondo Pandolfo Malatesta

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『ボルジア家――悪徳と策謀の一族』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ルネサンス宮廷大全』
 『ルネサンス百科事典』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『Lucretia Borgia
 『The Life of Cesare Borgia

ヤコポ・マラテスタ Jacopo Malatesta

生没
1530年~1600年
レオニーダ・マラテスタ
カッサンドラ・チーニ
概要

 ヤコポ・マラテスタは、16世紀~17世紀のイタリアの女性。

別表記

 Giacomo Malatesta

外部リンク

 Terre del Rubicone
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』

クレオファ・マラテスタ Cleofa Malatesta

生没
1400年頃~1433年4月18日
出身
ペーザロ
マラテスタ4世・マラテスタ
エリザベッタ・ヴァラーノ・キアヴェッリ
テオドロス2世・パレオロゴス
トマソ・エマヌエーレ・パレオロゴス
ヘレナ・パレオロギナ
概要

 クレオファ・マラテスタは、15世紀の女性。

別表記

 クレオパ・マラテスタ、Cleopa Malatesta

外部リンク

 Wikipedia

ジョヴァンナ・マラテスタ Giovanna Malatesta

生没
1444年~1511年
シジスモンド・マラテスタ
ポリッセーナ・スフォルツァ
ジューリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノ
ヴェナンツィオ・ダ・ヴァラーノ
ジョヴァンニ・マリーア・ダ・ヴァラーノ
概要

 ジョヴァンナ・マラテスタは、15世紀~16世紀のイタリアの女性。

年表

1451年

外部リンク

 Wikipedia

レオニーダ・マラテスタ Leonida Malatesta

生没
1500年~1557年11月7日
マラテスタ6世・マラテスタ
カッサンドラ・チーニ
ヤコポ・マラテスタ
ランベルト・マラテスタ
マラテスタ8世・マラテスタ
概要

 レオニーダ・マラテスタはイタリアの傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

参考文献

 『メディチ家の人びと』

アントーニア・マラテスタ Antonia Malatesta

没地
チェゼーナ
アンドレア・マラテスタ
ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ
概要

 アントーニア・マラテスタは、14世紀~15世紀のイタリアの女性。

年表

1408年
1412年5月16日
1412年
ミラノフィリッポ・マリーア・ヴィスコンティにより、数か月間ミラノ公国の統治者の一員であることを許される。
141?年
ミラノ公妃の称号を維持したままチェゼーナへ隠遁。

チェーザレ・ボルジア数

 夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Internet Archive - Cremona fedelissima citta et nobilissima colonia de Romani
 kleio.org
 Wikipedia

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

パオラ・マラテスタ Paola Malatesta

生没
1393年~1453年
マラテスタ4世・マラテスタ
エリザベッタ・ダ・ヴァラーノ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
ルドヴィーコ3世・ゴンザーガ
カルロ・ゴンザーガ
アレッサンドロ・ゴンザーガ
マルゲリータ・ゴンザーガ
ジャンルーチド・ゴンザーガ
チェチーリア・ゴンザーガ
グリエルモ・ゴンザーガ
ルチア・ゴンザーガ
レオネッラ・ゴンザーガ
概要

 パオラ・マラテスタは、14世紀~15世紀のイタリアの女性。遺伝性と推定される脊椎の変形症を患っており、子供にも受け継がれる。

年表

1453年
死(1449年)。

肖像

埋葬地

外部リンク

 JDA's Family Tree
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルネサンス宮廷大全』

マラテスタ4世・マラテスタ Malatesta IV Malatesta

生没
1370年~1429年12月19日
パンドルフォ2世・マラテスタ
パオラ・オルシーニ
エリザベッタ・ダ・ヴァラーノ
ガレアッツォ・マラテスタ
ガレオット・マラテスタ
カルロ・マラテスタ
パオラ・マラテスタ
クレオファ・マラテスタ
パンドルフォ・マラテスタ
タッデア・マラテスタ
概要

 マラテスタ4世・マラテスタはイタリアの傭兵隊長。

別表記

 マラテスタ・デ・マラテスティ

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 Wikipedia

参考文献

 『ルネッサンス夜話』

パンドルフォ3世・マラテスタ Pandolfo III Malatesta

生没
1370年1月2日~1427年10月3日
没地
ファーノ
ガレオット1世・マラテスタ
ガレオット・ロベルト・マラテスタ
シジスモンド・マラテスタ
ドメニコ・マラテスタ
概要

 パンドルフォ3世・マラテスタは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいアンドレア・マラテスタ→子アントーニア・マラテスタ→夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Wikipedia

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

レンガルダ・マラテスタ Rengarda Malatesta

生没
1380年頃~1423年
出身
リーミニ
没地
ウルビーノ
ガレオット1世・マラテスタ
ジェンティーレ・ダ・ヴァラーノ
グイダントーニオ・ダ・モンテフェルトロ
概要

 レンガルダ・マラテスタは、14世紀~15世紀のイタリアの女性。

チェーザレ・ボルジア数

 きょうだいアンドレア・マラテスタ→子アントーニア・マラテスタ→夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

別表記

 Ricciarda

外部リンク

 Geneanet
 Wikipedia

エリザベッタ・マラテスタ Elisabetta Malatesta

生没
1407年~1477年
ガレアッツォ・マラテスタ
バッティスタ・ダ・モンテフェルトロ
ピエルジェンティーレ1世・ダ・ヴァラーノ
リドルフォ4世・ダ・ヴァラーノ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
概要

 エリザベッタ・マラテスタは、15世紀のイタリアの女性。

年表

1425年

外部リンク

 JDA's Family Tree
 Geneanet
 Wikipedia

ガレアッツォ・マラテスタ Galeazzo Malatesta

生没
1385年~1461年
出身
ペーザロ
没地
フィレンツェ
マラテスタ4世・マラテスタ
エリザベッタ・ヴァラーノ・キアヴェッリ
バッティスタ・ダ・モンテフェルトロ
エリザベッタ・マラテスタ
概要

 ガレアッツォ・マラテスタは、14世紀~15世紀のイタリアの男性。

年表

1405年6月16日

外部リンク

 Geneanet
 JDA's Family Tree
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

ガレオット・ロベルト・マラテスタ Galeotto Roberto Malatesta

生没
1411年2月3日~1432年
出身
サンタルカンジェロ・ディ・ロマーニャ
パンドルフォ3世・マラテスタ
マルゲリータ・デステ
概要

 ガレオット・ロベルト・マラテスタは、15世紀のイタリアの男性。庶子。

在位

 リーミニ領主 1429年~1432年

年表

1411年2月3日
ブレッシャ又はリーミニにて、生(1412年)。
14??年
伯父カルロ・マラテスタエリザベッタ・ゴンザーガ夫婦のもとで養育される。
1427年

外部リンク

 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『ルネサンス宮廷大全』

パンドルフォ2世・マラテスタ Pandolfo II Malatesta

生没
1325年~1373年1月
マラテスタ2世・マラテスタ
コンスタンツァ・ホンデデイ
ルパ・フランチェスカ・ブルガレッリ
パオラ・オルシーニ
マラテスタ4世・マラテスタ
エリザベッタ・マラテスタ
パオラ・ビアンカ・マラテスタ
概要

 パンドルフォ2世・マラテスタはイタリアの傭兵隊長。

在位

 ペーザロの君主 1326年~1330年
  先代:マラテスタ1世・マラテスタ
  次代:教皇領
 ペーザロの君主 1333年~1340年
  先代:教皇領
  次代:ガレオット・マラテスタ

年表

1371年2月
パオラ・オルシーニと結婚(1362年)。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Geneanet
 Wikipedia

参考文献

 『ミラノ―ヴィスコンティ家の物語』

アンドレア・マラテスタ Andrea Malatesta

生没
1373年~1416年9月20日
ガレオット1世・マラテスタ
レンガルダ・アリドージオ
ルクレツィア・オルデラッフィ
ガレオット・マラテスタ
エリザベッタ・マラテスタ
アントーニア・マラテスタ
パリジーナ・マラテスタ
概要

 アンドレア・マラテスタはイタリアの傭兵隊長。

年表

1390年
レンガルダ・アリドージオと結婚。
1403年
ルクレツィア・オルデラッフィと結婚。

別表記

 マラテスタ・マラテスタ

チェーザレ・ボルジア数

 子アントーニア・マラテスタ→夫ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティ→きょうだいヴァレンティーナ・ヴィスコンティ→子シャルル1世・ド・ヴァロワ→子ルイ12世→子ルネ・ド・フランス→夫エルコーレ2世・デステ→母ルクレツィア・ボルジア→きょうだいチェーザレ・ボルジア

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Wikipedia

マラテスタ8世・マラテスタ Malatesta VIII Malatesta

生没
~1564年
没地
Famagosta (Candia)
レオニーダ・マラテスタ
カッサンドラ・チーニ
概要

 マラテスタ8世・マラテスタはイタリアの傭兵隊長。

別表記

 マラテスタ・ディ・マラテスティ

外部リンク

 Condottieri di ventura

参考文献

 『メディチ家の人びと』

エリザベッタ・マラテスタ Elisabetta Malatesta

パンドルフォ2世・マラテスタ
パオラ・オルシーニ
リドルフォ3世・ダ・ヴァラーノ
ジェンティルパンドルフォ・ダ・ヴァラーノ
ベルナルド・ダ・ヴァラーノ
コスタンツァ・ダ・ヴァラーノ
ヴェナンツィア・ダ・ヴァラーノ
グリエルマ・ダ・ヴァラーノ
ビアンカ・ダ・ヴァラーノ
ヴェナンツィオ・ダ・ヴァラーノ
トーラ・ダ・ヴァラーノ
ジローラマ・ダ・ヴァラーノ
概要

 エリザベッタ・マラテスタは、14~15世紀頃のイタリアの女性。

外部リンク

 Geneanet
 Wikipedia

ランベルト・マラテスタ Lamberto Malatesta

生没
1528年~1587年8月
レオニーダ・マラテスタ
概要

 ランベルト・マラテスタはイタリアの傭兵隊長。

外部リンク

 Condottieri di ventura

参考文献

 『メディチ家の人びと』

ジェンティーレ・マラテスタ Gentile Malatesta

ガレオット1世・マラテスタ
ジェンティーレ・ダ・ヴァラーノ
ジャン・ガレアッツォ1世・マンフレディ
アストッレ2世・マンフレディ
概要

 ジェンティーレ・マラテスタは庶子。

外部リンク

 Geneanet
 Google Books

マルゲリータ・マラテスタ Margherita Malatesta

生没
1370年~1399年2月28日
没地
マントヴァ
ガレオット1世・マラテスタ
ジェンティーレ・ダ・ヴァラーノ
フランチェスコ1世・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガ
概要

 マルゲリータ・マラテスタは、14世紀のイタリアの女性。

年表

1393年

埋葬地

 サン・フランチェスコ教会

外部リンク

 Wikipedia

ロベルト・マラテスタ Roberto Malatesta

生没
1440年~1482年9月10日
出身
ファーノ
没地
ローマ
シジスモンド・マラテスタ
ヴァンネッタ・トースキ
エリザベッタ・ダ・モンテフェルトロ
エリザベッタ・アルドヴランディーニ
エリザベッタ・デリ・アッティ
パンドルフォ4世・マラテスタ
トロイロ・マラテスタ
ジョヴァンナ・マラテスタ
ジョヴァンニ・マラテスタ
ドロテア・マラテスタ
カルロ・マラテスタ
概要

 ロベルト・マラテスタは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。

在位

 リーミニ領主 1468年~1482年

戦歴

 ニダストーレの戦い
 リーミニ攻囲戦
 モントーネ攻囲戦
 カンポモルトの戦い、教皇軍、勝利
 モンテ・サン・サヴィーノ攻囲戦
 サンタルカンジェロ攻囲戦

年表

1440年
ファーノにて、生(1441年)。
1468年10月9/13日
シジスモンド・マラテスタ、死。パウルス2世、リーミニの教会帰属を宣言。
シジスモンド・マラテスタの庶子でパウルス2世の反マラテスタ戦陣の先頭にあった(1460年~1463年)傭兵隊長ロベルト・マラテスタ、パウルス2世リーミニを返還すると約束しながら密かにフェッランテ・ダラゴーナと通謀してリーミニに入り、奸策により自らの支配権を樹立。
1469年5月28日
ロベルト・マラテスタとフェッランテ・ダラゴーナの密謀が明らかとなって驚愕したパウルス2世とヴェネツィア、攻守同盟を結び、軍の最高指揮官にアレッサンドロ・スフォルツァを据える。
1469年7月
アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍、リーミニ周辺に進撃。
これに対し、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロガレアッツォ・マリーア・スフォルツァフェッランテ・ダラゴーナ及びフィレンツェ、ロベルト・マラテスタに援軍を送る。
1469年8月下旬
リーミニ攻囲戦フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ率いるロベルト・マラテスタ陣営軍、アレッサンドロ・スフォルツァ指揮の教皇軍・ヴェネツィア軍をリーミニ近郊で破る。
1471年
1478年9月8日
フィレンツェ陣営の最高指揮官として雇い入れたフェッランテ・ダラゴーナの女婿エルコーレ1世・デステが到着。直ちに軍を整えて出陣。
この頃?、さらにリーミニの君主ロベルト・マラテスタ、ボローニャの君主ジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びサルッツォ候ルドヴィーコ2世(?~1504年:在位1475年~1504年)が、それぞれ小軍を率いて陣営に加わる。
しかしこれら小軍によっては教皇軍、フェッランテ・ダラゴーナ軍に十分対抗することはできず、フィレンツェ陣営の劣勢は続く。
1482年5月3日
ヴェネツィアがフェッラーラに宣戦。ヴェネツィアにシクストゥス4世、リーミニのロベルト・マラテスタ、ジェノヴァなどが、フェッラーラにナポリのフェッランテ・ダラゴーナ、ミラノのルドヴィーコ・イル・モーロ、ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ、ボローニャのジョヴァンニ2世・ベンティヴォーリオ及びフィレンツェが加勢し、ほぼイタリア全土に戦線が拡大する。
1482年7月23日
教皇シクストゥス4世の要請により、ローマ到着。
1482年8月15日
騎兵大隊50と歩兵1万2千を率い、ローマ出発。
1482年8月18日
教会軍司令官ロベルト・マラテスタはコッリ・アルバーニに向かって駐屯していたサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノから、ナポリ軍と同盟するコロンナ家サヴェッリ家と戦うため、進軍。
1482年8月21日
カンポモルトの戦い:ローマ近郊ヴェッレトリの山地カンポモルトで、カラブリア公アルフォンソ2世・ダラゴーナ指揮のフェッラーラ加勢軍と激戦し、完勝(1482年8月15~20日)。死者総勢1千2百人。ナポリ軍死傷者1千人、捕虜30人。
ロベルト・マラテスタの馬は矢に倒れる。
1482年
ヴェッレトリに行き、疲労した軍を回復。
ポンティーネ沼地で罹患したマラリアを発症。ヴァルモントーネで療養。
1482年9月10日
ローマに運ばれ、死(赤痢と消耗で)。
1482年9月
サン・ピエトロ大聖堂の柱廊に埋葬される。
教皇シクストゥス4世の命でエウセービオ・ダ・カラヴァッジョが霊廟を制作。

外部リンク

 Condottieri di ventura
 Treccani
 Wikipedia

参考文献

 『イタリア・ルネサンスの文化』
 『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』
 『フィレンツェ史』
 『傭兵の二千年史』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
 『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
 『ロレンツォ・デ・メディチ暗殺』
 『The Life of Cesare Borgia

記載日

 2005年5月29日以前

更新日

 2020年3月9日