- 生没
- 1489年~1538年12月18日
- 父
- フィリッポ・ストロッツィ
- 母
- セルヴァッジア・ジャンフィリアッツィ
- 妻
- クラリーチェ・デ・メディチ
- 子
- ピエロ・ストロッツィ
ヴィンチェンツォ・ストロッツィ
マリーア・ストロッツィ
レオーネ・ストロッツィ
ロベルト・ストロッツィ
ジューリオ・ストロッツィ
ロレンツォ・ストロッツィ
アレッサンドロ・ストロッツィ
ルイジア・ストロッツィ
マッダレーナ・ストロッツィ
概要
フィリッポ・ストロッツィは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1489年
生。
ジョヴァンニ・バッティスタと名付けられる。
1491年5月14日
父フィリッポ・ストロッツィ、死。
1491年
母セルヴァッジア・ジャンフィリアッツィにより、父と同じフィリッポに改名される。
1508年
クラリーチェ・デ・メディチと結婚(1506年)。
1510年12月23日
1508年にピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチを妻としたフィリッポ・ストロッツィ、熱烈なメディチ派で教皇庁に使えている青年Prinzivalle della Stufa(1484年~1561年)からユリウス2世の傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナの兵10名を得てピエロ・ソデリーニ殺害の機を窺っていると打ち明けられ、同族に相談の上これをピエロ・ソデリーニに通報。Prinzivalle della Stufaはシエナに逃亡。
1532年4月27日
君主政体の成立:Riformatori(改革者)により、シニョーリア及び正義の旗手の廃止、民事訴訟などに関する僅かな権限を持つConsiglio del Dugento(二百人評議会)及びSenatoとしての政治的権限を持つConsiglio de' Quarantotto(四十八人評議会)の設置(共に委員は終身)、アレッサンドロ・デ・メディチの終身Doge della Repubblica Fiorentina(フィレンツェ共和国統領)就任、アレッサンドロ・デ・メディチと彼の3ヶ月任期の4名のConsiglieri(助言者:四十八人評議会の成員ロベルト・アッチャイウオリ、Prinzivalle della Stufa、フィリッポ・ストロッツィ、ルイジ・リドルフィ)による執政府の構成が宣言される。
コジモ・イル・ヴェッキオ以来、形式上は伝統的なComuneの制度に従って形式上共和政を保持しつつ実質上、君主政的支配体制を敷こうとしてきたメディチ家、公然と共和政を葬りPrincipato(君主国)の確立を目指す。
以後アレッサンドロ・デ・メディチは、限られた側近を私的顧問として重用し、中下層市民を引きつける施策を続けながら貴族の特権を制限ないしは排除し、自身の独裁権の確立、強化に励む。それと共に私的専横も目立ち始め、最有力者フィリッポ・ストロッツィを初め有力貴族が離反、抵抗し始める。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディ、Filippo Parenti、Galeotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・リドルフィとジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチをDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グイッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グイッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グイッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリもフランチェスコ・グイッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
1537年6月
3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世、カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年7月下旬
軍の編成に励んでいたフィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリら亡命者たち、ミランドラで決起。数千の兵をフィリッポ・ストロッツィの子ピエロ・ストロッツィ(1510年頃~1558年)及びベルナルド・サルヴィアーティ(1492年~1568年)に指揮させてアペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。
1537年8月1日
午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ストロッツィ、バッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィ、Ludovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellai(?~)ら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリの監視下でフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉されてカール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。
1537年8~9月
コジモ1世・デ・メディチ、カール5世のもとに特使Averardo Serristori、Giovanni Campanaを送り、マルゲリータ・ディ・パルマと自身の結婚、フィレンツェ領内の城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分、を懇請。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマはオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ストロッツィはアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年
コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。
1538年12月18日
自分の身柄と処分がすでにカール5世から全面的にコジモ1世・デ・メディチに任せられていることを知って絶望したフィリッポ・ストロッツィ、この日、自ら剣で喉をかき切って死(1537年、但し1538年8月とする異説、処刑されたとする異説などあり)。
別表記
フィリッポ・ネッリ・ストロッツィ、Filippo il Giovane、Gian Battista、Giovan Battista
外部リンク
世界帝王事典
Geneanet
Google Books
Google Books
Treccani.it
Wikipedia
参考文献
『銀色のフィレンツェ』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『メディチ家の人びと』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
記載日
2006年10月27日以前
更新日
2020年1月4日