Filippo Strozzi

フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ

生没:1489年~1537年
父:フィリッポ・ディ・マッテオ・ストロッツィ
母:セルヴァッジア・ジャンフィリアッツィ
妻:クラリーチェ・デ・メディチ
子:ピエロ・ストロッツィ
  ロベルト・ストロッツィ
  マリーア・ストロッツィ
  レオーネ・ストロッツィ
  ジューリオ・ストロッツィ
  ヴィンチェンツォ・ストロッツィ
  アレッサンドロ・ストロッツィ
  ルイジア・ストロッツィ
  マッダレーナ・ストロッツィ
  ロレンツォ・ストロッツィ

概要

 フィリッポ・ストロッツィは、15世紀~16世紀のイタリアの男性。

年表

1506年
クラリーチェ・デ・メディチと結婚。
1508年
ピエロ・イル・ファトゥオの死後、武力によるフィレンツェ復帰策を捨て、ローマの自邸をフィレンツェ人に開放するなど市民との融和による復帰を目指し、市内に次第に共感、賛同、崇敬の念を醸成しつつあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチは、ピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチ(1493年~1528年)と有力貴族ストロッツィ家フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ(1489年~1538)との婚姻、及びロレンツォ・イル・マニーフィコの娘ルクレツィア・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(1470年~1551年頃)と有力貴族でピエロ・ソデリーニの公然たる政敵アラマンノ・ディ・アヴェラルド・サルヴィアーティの甥ヤコポ・ディ・ジョヴァンニ・サルヴィアーティとの婚姻を成立させる。
これをピエロ・ソデリーニは、共和国の叛徒との婚姻を禁じている法を犯すものと糾弾。しかし反ピエロ・ソデリーニ派は反論。メディチ家に対する方針を巡って共和政派と反共和政派の対立、さらに厳しくなる。
1510年12月23日
1508年にピエロ・イル・ファトゥオの娘クラリーチェ・デ・メディチを妻としたフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ、熱烈なメディチ派で教皇庁に使えている青年Prinzivalle della Stufa(1484年~1561年)からユリウス2世の傭兵隊長マルカントーニオ・コロンナの兵10名を得てピエロ・ソデリーニ殺害の機を窺っていると打ち明けられ、同族に相談の上これをピエロ・ソデリーニに通報。Prinzivalle della Stufaはシエナに逃亡。
1532年4月27日
君主政体の成立:Riformatori(改革者)により、シニョーリア及び正義の旗手の廃止、民事訴訟などに関する僅かな権限を持つConsiglio del Dugento(二百人評議会)及びSenatoとしての政治的権限を持つConsiglio de' Quarantotto(四十八人評議会)の設置(共に委員は終身)、アレッサンドロ・デ・メディチの終身Doge della Repubblica Fiorentinaフィレンツェ共和国統領)就任、アレッサンドロ・デ・メディチと彼の3ヶ月任期の4名のConsiglieri(助言者:四十八人評議会の成員ロベルト・アッチャイウオリPrinzivalle della Stufaフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ、ルイジ・リドルフィ)による執政府の構成が宣言される。
コジモ・イル・ヴェッキオ以来、形式上は伝統的なComuneの制度に従って形式上共和政を保持しつつ実質上、君主政的支配体制を敷こうとしてきたメディチ家、公然と共和政を葬りPrincipato(君主国)の確立を目指す。
以後アレッサンドロ・デ・メディチは、限られた側近を私的顧問として重用し、中下層市民を引きつける施策を続けながら貴族の特権を制限ないしは排除し、自身の独裁権の確立、強化に励む。それと共に私的専横も目立ち始め、最有力者フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィを初め有力貴族が離反、抵抗し始める。
1534年10月
共和政の復活を目指すヤコポ・ナルディFilippo ParentiGaleotto Giugni(1497年~1541年)、Silvestro Aldobrandini(1499年~1558年)らフィレンツェ共和政派と、アレッサンドロ・デ・メディチの支配への反発から彼に代えてイッポーリト・デ・メディチを擁立しその下で貴族寡頭制を敷こうとするフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィらフィレンツェ貴族及びフィレンツェ出身の枢機卿ニッコロ・ディ・ピエロ・リドルフィジョヴァンニ・サルヴィアーティは、クレメンス7世の死を機にそれぞれの宿願を達するべく反アレッサンドロ・デ・メディチという唯一共通の方針を掲げ、新教皇パウルス3世の援助の下ローマに結集。
1537年1月8日
午前、四十八人評議会召集、開催され、ジューリオ・デ・メディチDucaとして摂政を置くとのインノチェンツォ・チーボの案を否決。フランチェスコ・グィッチャルディーニらメディチ派貴族、後継統治者としてコジモ1世・デ・メディチを擁立する工作を進め、市民への宣伝活動も始める。
インノチェンツォ・チーボの待つアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮の守備隊が市内に戻る。しかし市内は平静で、騒乱を利してクーデターの可能性は消える。
午後、フランチェスコ・グィッチャルディーニらに呼ばれたコジモ1世・デ・メディチは、山荘での狩り、釣り三昧の生活を打ち切って市内に入り、市民の歓迎を受けながらアレッサンドロ・デ・メディチ邸を弔問。
夜、インノチェンツォ・チーボは、コジモ1世・デ・メディチと会見してアレッサンドロ・デ・メディチの遺児たちの厚遇、カール5世の権益及びその代弁者としての自身の権威の尊重などの約束を取り付けた上、フランチェスコ・グィッチャルディーニと会見してコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。アレッサンドロ・ヴィテッリフランチェスコ・グィッチャルディーニに同じくコジモ1世・デ・メディチ擁立に協力の意を表明。
深夜、ロレンツィーノ・デ・メディチは、ボローニャからヴェネツィアに着き、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに事態を説明。フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィはこの地駐在フランソワ1世代理と会見し、ボローニャへの出立の準備を始める。
1537年6月
3人の枢機卿らフィレンツェの亡命者たちとの友好を表明していたパウルス3世カール5世に臣従してそのイタリアでの勢力拡大に貢献しつつあるコジモ1世・デ・メディチに反感を抱きながらも、カール5世の威勢とオスマン・トルコによる攻撃の脅威を考慮し、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィら亡命者たちに対して教会領内での徴兵を厳禁すると共に、彼らとコジモ1世・デ・メディチとの戦争には中立を保つ。
1537年7月下旬
軍の編成に励んでいたフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリら亡命者たち、ミランドラで決起。数千の兵をフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィの子ピエロ・ストロッツィ(1510年頃~1558年)及びベルナルド・サルヴィアーティ(1492年~1568年)に指揮させてアペニンを越え、ピストイアとプラートの中間地モンテムルロに集結。
1537年8月1日
午前2時フィレンツェを発ち未明にプラートに到着したアレッサンドロ・ヴィテッリ指揮のスペイン軍、直ちにモンテムルロに向かい、亡命者たちの軍を急襲して壊滅させ、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィバッチオ・ヴァローリ両父子、アントンフランチェスコ・デリ・アルビッツィLudovico Rucellaiら指揮者をことごとく捕虜とする。
正午、亡命者たちの軍壊滅の報、市内に届く。
夜、捕虜、市内に連行され、コジモ1世・デ・メディチの前に引き出される。
1537年8月3~4日
捕虜の内Ludovico Rucellai(?~)ら7名、衆人の前で斬首ないし絞首される。
フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリの監視下でフォルテッツァ・ダ・バッソに幽閉されてカール5世の配下に入り、コジモ1世・デ・メディチの手を離れる。
1537年8~9月
コジモ1世・デ・メディチカール5世のもとに特使Averardo SerristoriGiovanni Campanaを送り、マルゲリータ・ディ・パルマと自身の結婚、フィレンツェ領内の城塞の全面返還、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分、を懇請。
1538年6月28日
パウルス3世、公会議を翌1539年4月6日まで延期するとの勅書を発す。
フィレンツェのみならずパウルス3世をも自陣に引き寄せながら全イタリアに派遣を樹立しようと狙うカール5世懸案についてこの頃ジェノヴァで、マルゲリータ・ディ・パルマオッタヴィオ・ファルネーゼに嫁がせると決定していること、フィレンツェの城塞はできる限り早期にコジモ1世・デ・メディチに返還すること、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィアレッサンドロ・ヴィテッリに代わるJuan de Lunaの下でアレッサンドロ・デ・メディチ殺害への関与について取り調べること、を公表。
1538年
コジモ1世・デ・メディチ、ニースのカール5世のもとに特使としてインノチェンツォ・チーボと自分の秘書Francesco Campana(1491年以降~1546年)を送って恭順の意を表すると共に、1537年から懇請してきた3点(マルゲリータ・ディ・パルマとの結婚、領内城塞の全面返還、フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィの厳罰処分)をまたまた懇請。
1538年12月18日
自分の身柄と処分がすでにカール5世から全面的にコジモ1世・デ・メディチに任せられていることを知って絶望したフィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィ、この日、自ら剣で喉をかき切って死(1489年~)。(但し、1538年8月とする異説、処刑されたとする異説、などあり)。
1544年11月末/12月
ルッカにおける貴族寡頭支配の打倒、シエナピサの共和主義者の協力を得てのメディチ家ハプスブルク家専制支配の打倒、トスカーナにおける共和政諸都市の自由連合と信教の自由、を希求していた(1543年頃?~)ルッカの貴族・政治家Francesco Burlamacchi(1498年~)、メディチ家の宿敵ストロッツィ家との提携を図り、フランソワ1世の下で対カール5世戦に従軍していたピエロ・ストロッツィ(1510年頃~)・Leone Strozzi(1515年~)兄弟(故フィリッポ・ディ・フィリッポ・ストロッツィの子)のもと(マルセイユ及びパリ)に使者・靴職人Bastiano Carletti(1400年代末~?)を派遣。Leone Strozziから計画への賛同・協力及び早期決起のための武器収集などの約束を得る。
しかし、フランソワ1世軍の対ヘンリー8世軍戦闘のため、決起は17か月後とされる。

別表記

 フィリッポ・ネッリ・ストロッツィ、Filippo il GiovaneGian BattistaGiovan Battista

外部リンク

 世界帝王事典
 Geneanet
 Google Books
 Treccani.it
 Wikipedia

参考文献

 『銀色のフィレンツェ』
 『フィレンツェ史』
 『メディチ家』
 『メディチ家の人びと』
 『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』

記載日

 2006年10月27日以前