ジャンフランチェスコ1世・ピコ Gianfrancesco I Pico
- 生没
- 1420年頃~1467年11月8日
- 出身
- ミランドラ
- 没地
- ミランドラ
- 父
- ジョヴァンニ・ピコ
- 母
- カテリーナ・ベヴィラックア
- 妻
- ジューリア・ボイアルド
- 子
- ガレオット・ピコ
アントーニオ・マリーア・ピコ
カテリーナ・ピコ
ジューリア・ピコ
ルクレツィア・ピコ
ジョヴァンニ・ピコ
メリアドゥーゼ・ピコ
概要
ジャンフランチェスコ・ピコは、15世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ガレオット・ピコ Galeotto Pico
- 生没
- 1442年~1499年4月7日
- 出身
- ミランドラ
- 没地
- ミランドラ
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ピコ
- 母
- ジューリア・ボイアルド
- 妻
- ビアンカ・マリーア・デステ
- 子
- ガレオット・ピコ
ジューリア・ピコ
ジャンフランチェスコ2世・ピコ
マリーア・マッダレーナ・ピコ
フェデリーコ1世・ピコ
ルドヴィーコ1世・ピコ
エレオノーラ・ピコ
概要
ガレオット・ピコは、15世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
年表
1491年1月17日(月)
パヴィアのヴィスコンティ城でのルドヴィーコ・イル・モーロとベアトリーチェ・デステの結婚式に参列。
別表記
デッラ・ミランドラ、Galeotto I Pico della Mirandola
外部リンク
Condottieri di ventura
Famille de Carné
Genealogy.EU
JDA's Family Tree
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア・ルネサンスの文化』
アントーニオ・マリーア・ピコ Antonio Maria Pico
- 生没
- 1444年~1501年3月10日
- 出身
- ミランドラ
- 没地
- ローマ
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ピコ
- 母
- ジューリア・ボイアルド
- 妻
- コスタンツァ・ベンティヴォーリオ
ライモンダ・トッコ - 子
- ヴィオランテ・ピコ
?・ピコ
ジネヴラ・ピコ
概要
アントーニオ・マリーア・ピコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性。
年表
1444年
ミランドラにて、生(1442年以降)。
1473年
コスタンツァ・ベンティヴォーリオと結婚。
1491年
妻コスタンツァ・ベンティヴォーリオ、死。
1492年3月1日
ライモンダ・トッコと婚約。
1492年5月後半
ライモンダ・トッコと結婚。
1492年8月26日
教皇アレクサンデル6世の戴冠式で、旗を持つ。旗には、半分の金の盾に草を食む赤い雄牛が、もう一方には3本の黒い帯が金の背景を横切っており、その上には鍵と三重冠が描かれている。
1494年10月17日以降
妻ライモンダ・トッコ、子どもを残さずコンコルディアにて死。
1501年3月10日
ローマにて、死(1501年3月6日)、
埋葬地
別表記
Antonmaria Pico da Mirandola、Antonio de la Mirandula
外部リンク
Famille de Carné
Genealogy.EU
Google Books
JDA's Family Tree
Wikipedia
参考文献
『Atti e memorie dell'Emilia, 3, 2』
『The Aragonese Double Crown & the Borja or Borgia Device』
『The Life of Cesare Borgia』
カテリーナ・ピコ Caterina Pico
- 生没
- 1454年~1501年
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ピコ
- 母
- ジューリア・ボイアルド
- 夫
- レオネッロ1世・ピオ
リドルフォ・ゴンザーガ - 子
- アルベルト3世・ピオ
パオラ・ゴンザーガ
ジャンフランチェスコ・ゴンザーガ
ルクレツィア・ゴンザーガ
バルバラ・ゴンザーガ
ジューリア・ゴンザーガ
アロイジオ・ゴンザーガ
概要
カテリーナ・ピコは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1473年
レオネッロ1世・ピオと結婚。
1475年7月23日
カルピにて、アルベルト3世・ピオを出産。
1480年
夫レオネッロ1世・ピオ、死。
1486年
1488年2月2日
ルッツァーラにて、ジャンフランチェスコ・ゴンザーガを出産。
1494年4月20日
ルッツァーラにて、アロイジオ・ゴンザーガを出産。
外部リンク
ルクレツィア・ピコ Lucrezia Pico
- 生没
- 1458年~1511年
- 出身
- ミランドラ
- 没地
- フィレンツェ
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ピコ
- 母
- ジューリア・ボイアルド
- 夫
- ピーノ3世・オルデラッフィ
ゲラルド・ダッピアーノ
概要
ルクレツィア・ピコは、15世紀から16世紀のイタリアの女性。
年表
1474年
ミランドラにて、ピーノ3世・オルデラッフィと結婚。
1480年2月10日
夫ピーノ3世・オルデラッフィ、フォルリにて死。
1480年
継子シニバルド2世・オルデラッフィの摂政としてフォルリを掌握。
義甥アントーニオ・マリーア・オルデラッフィがフォルリに進軍したため、ラヴァルディーノ要塞に籠城。
夫ピーノ3世・オルデラッフィの13歳又は14歳の唯一の男児シニバルド2世・オルデラッフィ、死。
教皇シクストゥス4世がオルデラッフィ家の相続を無効として、フォルリを教会領と宣言。
13万ドゥカート並びに32台の荷車をもらい、ラヴァルディーノ要塞を立ち退き、教皇から与えられた城に引っ越す。
1482年
ピオンビーノにて、ゲラルド・ダッピアーノと結婚。
1511年
フィレンツェにて、死(1503年)。
外部リンク
ジョヴァンニ・ピコ Giovanni Pico
- 生没
- 1463年2月24日~1494年11月17日
- 出身
- ミランドラ城
- 父
- ジャンフランチェスコ1世・ピコ
- 母
- ジューリア・ボイアルド
概要
ジョヴァンニ・ピコは、15世紀の男性、人文主義者、ジローラモ・サヴォナローラ評価者。
著作
『人間の尊厳について』
『ヘプタプルス』
『存在と一者について』
年表
1463年2月24日
フェッラーラ近郊ミランドラに生。
1467年11月8日
父ジャンフランチェスコ1世・ピコ、死。
1469年7月~8月
兄弟の間で父親の遺産を円満に分割することで合意。
1473年5月
ボローニャで、フランチェスコ・ゴンザーガ枢機卿から教会首席書記官の地位を授与される(1473年6月)。
1477年~1478年
ボローニャ大学に就学。
長男ガレオット・ピコとの深刻な対立から、母ジューリア・ボイアルドがボローニャに移住。
1478年8月13日
母ジューリア・ボイアルド、死。
母親が決めていた聖職の道に進むための法学を放棄し、人文と哲学に着手。
1479年春
短期間フィレンツェに滞在し、おそらくマルシリオ・フィチーノ、アンジェロ・ポリツィアーノ、ジローラモ・ベニヴィエーニに出会う。
1479年5月29日
フェッラーラに到着。
フェッラーラ大学に就学。
1482年4月28日
この日からレッジョで始まったドミニコ会ロンバルディア地方支部集会でジローラモ・サヴォナローラ、フィレンツェのサン・マルコ修道院の聖書講解師に任命される。
この集会に、神学者たちの討論を聴くべく留学先のパドヴァから参加した神童ジョヴァンニ・ピコと、参加者から学識を評価されつつあったジローラモ・サヴォナローラ、相互に評価しあい、友情を取り結ぶ。
1484年春
この頃ジョヴァンニ・ピコ、フィレンツェに入る。
20歳のこの時までにフェッラーラ、パドヴァ、パヴィアでの勉学によってラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラビア語をマスターしていた彼は、その学識、雄弁、美貌など稀有な天賦の資質と才により、間もなくロレンツォ・イル・マニーフィコを囲む学者・文人の中心的存在の一人となり、プラトン・アカデミーの有力メンバーとなる。
1486年12月7日
キリスト・ユダヤ・イスラム各教のプラトン的調和を目指すジョヴァンニ・ピコは、Conclusiones sive Theses dcccc(900の提題)をローマで刊行し、公開討論会の開催を計画。その開会演説のための草稿Oratio de hominis degnitate(人間の尊厳についての演説)を用意。
1487年8月5日
1487年2月20日、インノケンティウス8世により公開討論会を中止させられたジョヴァンニ・ピコ、急ぎ1487年3月Apologia(弁明)を刊行したものの、この日、異端審問によって1486年刊行の全提題を有罪とされる。
1489年4月20日
ジョヴァンニ・ピコの依頼と勧奨に応じてロレンツォ・イル・マニーフィコ、この頃までに、ジローラモ・サヴォナローラをサン・マルコ修道院に帰任させるよう求める手紙をドミニコ会に送る。
1489年
ジョヴァンニ・ピコ、『ヘプタプルス』をフィレンツェで刊行。
1490年1月
この月?、ミケランジェロ、ロレンツォ・イル・マニーフィコに招かれてメディチ宮殿に住み(1490年~1492年)、Bertoldo di Giovanniに彫刻を学び始める。以後ここでマルシリオ・フィチーノ、アンジェロ・ポリツィアーノ、ジョヴァンニ・ピコらと交流。
1492年
ジョヴァンニ・ピコ、『存在と一者について』を刊行。
1494年11月17日
ジョヴァンニ・ピコ、フィレンツェで死(1463年~)。ドミニコ会の修道服を纏ってフィレンツェのサン・マルコ修道院に葬られる。
1496年
ジョヴァンニ・ピコの遺作『占星術駁論』、他の作品及び甥ジャンフランチェスコ2世・ピコの書いたVita(ピーコ・デッラ・ミランドラの生涯)と共に、Commentationes(論集)のタイトルの下にボローニャで刊行。(以後1498年ヴェネツィアで、1504年ストラスブルクで、1517年パリで版を重ねる。)
肖像
別表記
ミランドラの小ピーコ、ピーコ・デラ・ミランドラ、ピコ・デラ・ミランドラ、デッラ・ミランドラ、della Mirandola
外部リンク
参考文献
『イコノロジー研究』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『世界大百科事典』
『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』
『フィレンツェ史』
『メディチ家』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルクレツィア・ボルジア―ルネッサンスの黄昏』
『ルネサンス』
『ルネサンス精神の深層』
『ルネサンスとは何であったか』
『ルネサンスの華』
『ルネサンスの歴史』
『ルネッサンスの光と闇』
『ルネッサンス夜話』
ジャンフランチェスコ2世・ピコ Gianfrancesco II Pico
- 生没
- 1469年~1533年
- 父
- ガレオット・ピコ
- 母
- ビアンカ・マリーア・デステ
- 妻
- ジョヴァンナ・カラーファ
- 子
- ジューリア・ピコ
パオロ・ピコ
ベアトリーチェ・ピコ
マリーア・ピコ
ジャントンマーゾ・ピコ
アンナ・ピコ
コルネーリア・ピコ
アルベルト・ピコ
概要
ジャンフランチェスコ・ピコはイタリアの傭兵隊長。
年表
1469年
ジョヴァンニ・ピコの甥ジャンフランチェスコ2世・ピコ生(~1533年)。
1496年
ジョヴァンニ・ピコの遺作『占星術駁論』、他の作品及び甥ジャンフランチェスコ2世・ピコの書いたVita(ピーコ・デッラ・ミランドラの生涯)と共に、Commentationes(論集)のタイトルの下にボローニャで刊行。(以後1498年ヴェネツィアで、1504年ストラスブルクで、1517年パリで版を重ねる。)
1530年
ジャンフランチェスコ2世・ピコ、Vita Savonarolae(サヴォナローラの生涯)を完成。
1533年
ジャンフランチェスコ2世・ピコ、死(1469年~)。
1533年
著者ジャンフランチェスコ2世・ピコの死の後年、その著作Vita Savonarolae(1530年完)の俗語(イタリア語)訳Vita del Reverendo Padre Hieronimo Savonarola da Ferrara(フェッラーラ出身ヒエロニモ・サヴォナローラ神父様の生涯)、著者に全ての栄誉が帰すようにとの訳者・編者の配慮からその名を記されずに完成される。
別表記
ジョヴァンニ・フランチェスコ・デッラ・ミランドラ、ジョヴァン・フランチェスコ、ジャン・フランチェスコ、della Mirandola、Giovann Francesco、Gian Francesco、Giovanni Francesco II Pico della Mirandola
外部リンク
Condottieri di ventura
Genealogy.EU
Wikipedia
参考文献
『イタリア史』
『イタリア史Ⅴ』
『イタリア・ルネサンスの文化』
『読む年表・年譜 ルネサンス・フィレンツェ、イタリア、ヨーロッパ』
『ルネサンス宮廷大全』
『ルネサンス精神の深層』
ルドヴィーコ1世・ピコ Ludovico I Pico
- 生没
- 1472年~1509年12月15日
- 出身
- ミランドラ
- 没地
- ポレゼッラ
- 父
- ガレオット・ピコ
- 母
- ビアンカ・マリーア・デステ
- 妻
- フランチェスカ・トリヴルツィオ
- 子
- ガレオット2世・ピコ
概要
ルドヴィーコ1世・ピコは、15世紀から16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
在位
ミランドラ領主 1504年~1509年12月15日
戦歴
フォルノーヴォの戦い:ヴェネツィア同盟軍
別表記
ロドヴィーコ・ピーコ、Lodovico Pico della Mirandola
外部リンク
Condottieri di ventura
Famille de Carné
Genealogy.EU
Treccani
Wikipedia
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルネサンスの華』
『The Life of Cesare Borgia』
エレオノーラ・ピコ Eleonora Pico
- 生没
- 1???年~1496年3月31日以降
- 父
- ガレオット・ピコ
- 母
- ビアンカ・マリーア・デステ
- 夫
- ピエトロ・アッテンドロ
ガレアッツォ1世・パッラヴィチーニ
外部リンク
ガレオット2世・ピコ Galeotto II Pico
- 生没
- 1508年~1550年11月20日
- 出身
- ミランドラ
- 没地
- パリ
- 父
- ルドヴィーコ1世・ピコ
- 母
- フランチェスカ・トリヴルツィオ
- 妻
- イッポーリタ・ゴンザーガ
- 子
- ルドヴィーコ2世・ピコ
概要
ガレオット2世・ピコは、16世紀のイタリアの男性。
外部リンク
ルドヴィーコ2世・ピコ Ludovico II Pico
- 生没
- 1527年~1568年12月18日
- 父
- ガレオット2世・ピコ
- 母
- イッポーリタ・ゴンザーガ
- 妻
- レナータ・デステ
フルヴィア・コッレッジオ - 子
- イッポリータ・ピコ
レメア・ピコ
フェデリーコ・ピコ
アレッサンドロ・ピコ
ガレオット・ピコ
概要
ルドヴィーコ2世・ピコは、16世紀のイタリアの男性、傭兵隊長。
外部リンク
記載日
2005年5月29日以前
更新日
2023年12月20日