- 生没
- 1473年~1536年
- 出身
- ミラノ公国ミラノ
- 没地
- サン・ジョヴァンニ・イン・クローチェ
- 父
- ファツィオ・ガッレラーニ
- 母
- マルゲリータ・デ・ブスティ
- 夫
- ルドヴィーコ・カルミナーティ
- 男
- ルドヴィーコ・イル・モーロ
- 子
- チェーザレ・スフォルツァ
概要
チェチーリア・ガッレラーニは、イタリアの女性。ルドヴィーコ・イル・モーロの愛人。
祖父シジェリオ・ガッレラーニがギベッリーニに属し、グエルフィの一族との軋轢が生じたため、15世紀初めにガッレラーニ一家はシエナからミラノに移る。
年表
1473年
ミラノにて、生。
1480年12月5日
父ファツィオ・ガッレラーニが66歳で死。
経済的に困窮していたためおそらく母マルゲリータ・デ・ブスティが教育したのだろうが、同時代の学者に称えられるほどの才女に育つ。
1483年
ステファノ・ヴィスコンティと婚約。
1487年
両家が合意に至らず、ステファノ・ヴィスコンティとの婚約解消。
14??年
絵のモデルになっている間、ミラノの学者や識者との集まりにレオナルド・ダ・ヴィンチを招く。
1489年
チェチーリア・ガッレラーニときょうだいが数年前に没収された父親の土地の所有権を返すよう求める嘆願書を裁判所に提出。署名に加えて彼らの住居が登録されているが、チェチーリア・ガッレラーニはきょうだいと居住しているのではなく、ヌオーヴォ・モナステロ教区内に住んでいる。17歳で未婚ながら修道院に入ることなく独居している事実は、ルドヴィーコ・イル・モーロの存在をうかがわせる。
フェッラーラ大使ヤコポ・トロッティが本国への手紙の中でputaと表現していることから、彼女が16歳であると推測される。数年前に出会い、どこにでもついて回っている様子が報告されている。
1490年
スフォルツェスコ城に住む。
1491年5月3日
チェーザレ・スフォルツァを出産。
1491年5月18日
ルドヴィーコ・イル・モーロからサロンノの領地をもらう。
1491年7月
ルドヴィーコ・カルミナーティと結婚。
1492年頃
ようやくスフォルツェスコ城を出る。ルドヴィーコ・イル・モーロが息子チェーザレ・スフォルツァに与えたカルマニョーラ宮殿に住み、ここで最初の文学界の1つが形成される。
1492年7月27日
ベルガミーノと渾名されるサン・ジョヴァンニ・イン・クローチェ伯ルドヴィーコ・カルミナーティと結婚。
現在ではヴァスチェッロのメディチ邸と呼ばれている要塞に住み、ここに芸術家、詩人、文人の集まりを主催。夫の要塞をもてなしに適すよう宮殿化し、高い文化人に開放した。
1496年9月14日
カルマニョーラ宮殿にて、マクシミリアン1世へ派遣されたヴェネツィア大使アントーニオ・グリマーニとマルコ・モロジーニを歓待する。
1498年4月29日
最も誉れ高く素晴らしい女性、親愛なる淑女様へ
殿下からのお手紙を拝読しまして、私の肖像画をご覧になりたいとのことですぐにもお送りいたします。もっと私に似ていれば快くお送りできたのですけれども。この世界に彼に匹敵する画家などいるはずもないと信じております故、巨匠自身の欠点によるものとはお考えにならないでください。まだとても若く未成熟だった時に描かれたものだということに尽きるのでございます。すっかり変わり果ててしまい、絵と私を同時にご覧になったならば、私を描いたものだとはきっとお分かりにならないでしょう。それでも、好意の証であると殿下がお受け取りになり、千回でも自らを推挙いたしますほど最も献身的な僕でありますれば、肖像画の件だけでなくどんなことでもご意向に沿う所存であると殿下がお信じくださいますよう。
1498年5月18日
イザベッラ・デステ宛に手紙をしたためる。肖像画が返却され、「私にとりまして喜びを感じておりますので、殿下がお礼の言葉を述べる必要はございません」と返信。
1499年
ルドヴィーコ・イル・モーロ失脚の折、夫ルドヴィーコ・カルミナーティと共に、マントヴァに避難。
1512年
ジャン・ジョルジョ・トリッシーノ宛てに手紙をしたためる。
1536年
サン・ジョヴァンニ・イン・クローチェにて、死。
おそらくパッロッキアーレ・ディ・サン・ツァヴェドロ教会のカルミナーティ家礼拝堂に埋葬される。
肖像
別表記
チェチリア、ガレラーナ
外部リンク
参考文献
『イタリア・ルネサンスの文化』
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『ルネサンスの女たち』
『ルネサンスの華』
記載日
2019年6月13日