概要
年表
1489年4月13日
ルドヴィーコ・イル・モーロに子供がいればミラノ公を相続する可能性が高まるため、エルコーレ1世・デステに彼とベアトリーチェ・デステの結婚を確定することを勧める。
1489年5月10日
エステンセ城にて、ベアトリーチェ・デステとルドヴィーコ・イル・モーロの結婚証書にヤコポ・トロッティが署名。
1490年11月8日
ミラノにて、フェッラーラ公エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。チェチーリア・ガッレラーニが妊娠しており、スフォルツェスコ城に住まわせ、長い時間を一緒に過ごしている様子から、ルドヴィーコ・イル・モーロがベアトリーチェ・デステと結婚する気があるのか不安だと報告。
1491年1月27日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。人前でルドヴィーコ・イル・モーロが妻ベアトリーチェ・デステに接吻した。
1491年2月4日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「ルドヴィーコ・イル・モーロ様を訪ねると、よく奥方と、マントヴァ侯妃イザベッラ・デステやアルフォンソ1世・デステ様やアンナ・マリーア・スフォルツァ様をもてなしていらっしゃいます。」
1491年2月6日
ミラノにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「ルドヴィーコ・イル・モーロ様は奥方を喜ばせ楽しませることばかり考えてらっしゃるようで、毎日私に奥方がどんなに愛しいかお話になります。」
1491年2月10日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1491年2月13日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
1491年2月14日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ベアトリーチェ・デステが妻の役目を果たしていないとルドヴィーコ・イル・モーロがヤコポ・トロッティに話したと報告。
1491年3月21日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルドヴィーコ・イル・モーロは妻との諍いを望まず、チェチーリア・ガッレラーニと別れることを約束。
1491年3月27日
ヴィジェヴァーノにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルドヴィーコ・イル・モーロがチェチーリア・ガッレラーニにはもう会わないことを決心し、彼女は出産後ルドヴィーコ・カルミナーティの妻になることを承諾。
1491年4月7日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルドヴィーコ・イル・モーロはチェチーリア・ガッレラーニの住まいを市内に準備。
1491年4月20日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルドヴィーコ・イル・モーロがいつも一緒に過ごす妻ベアトリーチェ・デステのことを思いやりと愛情をもって話し、彼女の愛らしい所作や物腰を好もしく感じていると語る。明るい気質というだけでなく、高潔で気高く、しかも気遣いができこれ以上ないほど慎ましい。
1491年4月28日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「お2人の公妃がレスリングで競い、バーリ公妃ベアトリーチェ・デステがミラノ公妃イザベッラ・ダラゴーナをお負かしになられました。」
1491年9月18日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「ルドヴィーコ・イル・モーロ様は昼夜問わず奥方の枕元を離れません。いつもそばにおられ、喜ばせ楽しませる最善の方法ばかり考えておられます。唯一の悔恨は未だ後継ぎとなるご子息が誕生する兆候が見られないことでございます。」
1492年8月
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「ルドヴィーコ・イル・モーロ様は弟君の努力が実ったことをたいそうお喜びです。アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿は教皇領全域を管理し、アレクサンデル6世と同じく教皇の座に就くと言われております。」
1492年8月28日
ミラノにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ミラノ駐在ヴェネツィア大使が、教皇位は聖職売買と詐欺で売られたのであり、新教皇アレクサンデル6世の極悪さを知ればフランスとスペインは教皇に従うことを拒否するだろうとヴェネツィアの貴族は考えていると公けに宣言。
1494年6月11日
ミラノにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。1494年6月11日、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァからルドヴィーコ・イル・モーロ宛ての手紙が届けられる。それにはジョヴァンニ・スフォルツァが、ルクレツィア・ボルジア、ジューリア・ファルネーゼとヴァノッツァ・デイ・カッタネイを伴い、ローマを出発しペーザロへ向かったこと、アレクサンデル6世がジューリア・ファルネーゼに早く帰ってきてくれと懇願していたことが書かれていた。
1494年12月21日
ミラノにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。
ジューリア・ファルネーゼとアドリアーナ・デル・ミラを教皇アレクサンデル6世に引き渡してしまったことで、ルドヴィーコ・イル・モーロは、アスカーニオ・マリーア・スフォルツァ枢機卿とフェデリーコ・サンセヴェリーノ枢機卿をひどく非難しておられました。この婦人たちは教皇の「心と目」であり、彼女たちなしでは生きていけないことから、意のままにできる最高の鞭となっただろうにと。彼女たちを捕らえたフランス兵はたったの3千ドゥカートを身代金として受け取りましたが、教皇は5千ドゥカートかそれ以上でも、彼女たちを取り戻すためなら払ったでしょう、公爵はローマからのと、フィレンツェのアンジェロからの報告を受け取り、それによりますと、婦人たちが帰還した時、聖下は金の絹織物のついた黒いダブレット(ファルセット、プールポワン)を着て、スペイン風の美しいベルトを巻き、剣と短剣を差した姿で出迎えたそうです。スペインのブーツを履いてビレタ(司祭が被る四角形の帽子)を被り、非常な伊達男だったとか。公爵は笑いながらそれについて私にどう思うか尋ねられました。私がもしミラノ公爵なら、フランス王の助けでも何でも得て、平和を実現させるための口実の下に聖下を罠にかけるよう努めるでしょう。聖下ご自身がよくやるようにうまい言葉で、聖下と枢機卿たちを捕虜にするのは簡単でしょうと答えました。召使いもいれば、ご自分の住まいでもあり、荷馬車と雄牛だってあります。カトゥルスの詩にもTu quoque fac simile: ars deluditur arte.「汝もまた模倣する、技術は技術をもって弄ばる」とあるでしょう、と。
1494年12月24日
ミラノにて、エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルドヴィーコ・イル・モーロが彼の大臣に公然と「教皇は3人の女の来訪を許した。1人はヴァレンシアの修道女、1人はカスティーリャ人、3番目は15、6歳の美しいヴェネツィア人だ」と話した。「ここミラノでは、教皇アレクサンデル6世に関する醜聞がフェッラーラでと同じくらい話題となっています」
1494年12月28日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。「教皇アレクサンデル6世が捕らえられ斬首されたという報告を持った特使を連れたバルトロメオ・ダ・カルコの到着を今か今かと待っていると、ルドヴィーコ・イル・モーロは申されていました」
1497年6月23日
エルコーレ1世・デステ宛てに手紙を書く。ルクレツィア・ボルジアが近親相姦を犯しているとの噂を始めたのがジョヴァンニ・スフォルツァであったことが、この手紙から分かる。
別表記
ジャーコモ・トロッティ、Giacomo Trotti
参考文献
『ルドヴィコ・イル・モーロ―黒衣の貴族』
『Lucretia Borgia』
『The Life of Cesare Borgia』
記載日
2013年4月16日